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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

「随想 吉祥寺の森から」の杉本徳久の答弁書を通して見るグノーシス主義者の空虚な自己の本質

~「父なる神」をフィクションとし、人類をもフィクションとするグノーシス主義を信じる人間の自己の内面の空虚化と荒廃の実例~

さて、このところ、政局が目まぐるしく変化しているので最初に一言述べておきたい。昨年、7月末から大阪拘置所に長期拘留され、家族との面会すらも断られ続けて来た籠池泰典氏に野党がようやく接見を果たしたという。

裁判もなく詐欺罪の容疑だけでこれほど長期拘留する法的根拠は疑わしく、ただこれ以上安倍政権に不利な証言を行わないよう、口封じのためだけに、勾留されているのは明らかである。今や安倍政権にたてつく「政治犯」を収容する監獄のようになりつつある大阪拘置所が「バスティーユ監獄」にたとえられ、首相夫人(安倍昭恵)が「マリー・アントワネット」になぞらえられるのはまことに無理もない。

「私人」と言いながら、歴代の首相夫人と比べても、破格の特権的な待遇で警護され、公務員の付き人を5人もつけていたこともあるという昭恵夫人は、夫である首相が国会で厳しい追及を受けている最中にも、全国各地での公演活動をやめず、野党を罵倒したり侮辱するような書き込みに、軽率に「いいね!」ボタンを押してはひんしゅくと買っている。このように状況をわきまえない奔放な行動を繰り返すお騒がせ者で、その上、森友事案に深く関与したことが明白となり、国有地の不当な売却や、公文書改ざんという重大な犯罪に関与した疑いが濃厚であるのに、国会への招致も拒み、権限もないのに国政を陰から操る「私人」に、公金を大量につぎこむ意味がどこにあるのかと、国民に怒りがおさまらないのは当然だ。そうした総理夫人の姿が、民衆が飢えている時に「パンがないなら、お菓子を食べれば良いじゃない」と言い放ったとされるマリー・アントワネットの姿を彷彿とさせるのは仕方がない。

さらに、安倍首相の八方美人的な外交も行き詰りに達し、トランプ大統領からも「人を出し抜こうとして薄ら笑いを浮かべている」かのように勘ぐられて疑いの眼差しを向けられ、ロシアからも北方領土を返せる見込みなど全くないとの宣告を突きつけられて共同開発も進まず、国際的に、もはや相手にする者もなくなりつつある状況を見ていると、国内にも国外にも逃げ場のなくなりつつある安倍夫妻は、やがて本当にルイ16世とマリー・アントワネットのような終わりを辿るかも知れないと感じられて来る。

筆者は、これを機に、我が国に新たな革命勢力が台頭すれば良いと言いたいわけではない。この政権が転覆した後に、どういう時代が来るのか、それは一つの懸念事項である。だが、いずれにせよ、安倍政権が終わらないことには、この国にはいかなる希望ある未来もないことだけは確かであろう。そのことはもはや国民の共通認識に近くなって来ているように感じる。

安倍政権に盾突いた人々が、官僚であれ、民間人であれ、執拗に人格攻撃を受けては、社会的に抹殺され、ブラック企業や裁量労働制などが実質的に広がり、国民の貧窮化が進み、国力が低下している中、国家総動員体制のような無理な苦労が国民に要求され、税は重くなる一方で、軍備が拡張され、最後には、政権が誤った政策を自ら認めて撤回することができないプライドのゆえに、再び、軍事力に頼って無謀な戦争を起こしてすべてを都合よくオールリセットしようとするしか残された道がなくなるという、一度すでに辿り、結論が初めから見え透いている破滅へ転げ落ちるだけのこの暗黒時代が早く終わらないことには、この国には何一つ進歩もなく、希望ある未来もなく、未来が向こうから愛想を尽かして立ち去るであろう。
 
さて、筆者は政治家ではないので、政治運動に参加することを通して政局を変えようとはしないが、クリスチャンとして、霊的な戦いを勇敢に戦い通すことによって闇を払うことに貢献できると考えている。それが当ブログの役割なのである。

当ブログが聖書に基づく真実な信仰を求めて探求を始めたのが2008年、それから一年近くで、筆者自身が神と出会うという実りある収穫を得て、2009年8月末に戦後、初めて政権交代がなされたが、こうしたことが偶然に起きたようには思われない。
 
また、この度、籠池氏に野党が接見を果たしたのが、ちょうど筆者が当ブログに執拗に根拠のない言いがかりをつけては記事の削除を要求し続けて来たブログ「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久および、杉本に筆者の個人情報を提供して誹謗中傷を幇助した疑いが濃厚であるアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密を民事調停に呼び出した日に当たることも、とても偶然とは思われない。


・ブログ「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久が民事調停で出した空疎な答弁書とグノーシス主義の関連性について

ちなみに、杉本徳久と村上密に対して当ブログが起こした民事調停は、予想の通り、まるでお子様のようなレベルでしかなく、筆者が出した100枚近くの答弁書は、十分に訴訟に対応できる内容であり、民事調停のレベルをはるかに超えていたため、一刻も早く訴訟に移行すべきものと思う。

だが、お子様のレベルの「話し合い」とはいえ、叩けばそれなりに埃は出るもので、今回、収穫がゼロだったわけではない。

村上密は予想通り、具体的な反駁も寄越さず、調停に姿を見せることもなかった。その一方、杉本徳久は当日になって時間ぎりぎりに現れ、たった2枚しかない人を馬鹿にした内容の答弁書を提出した。

今回の二人の対応から、これまでクリスチャンや教会に次々と言いがかりをつけては、裁判に及んできた村上密と杉本徳久の正体が、さらにはっきりしたと言えよう。

村上は、自分に不利な訴えには極力、耳を貸したくないという狡い性格の持ち主であり、杉本も、とてもではないが、訴訟に対応できるような人物ではない。クリスチャンをこれまで訴訟によって恫喝して来たこの二人が、実際には、自ら訴訟を受けて立つような力量が全くない人間であることは、今回のことではっきりと証明されたと言えよう。

以下で記す通り、杉本の答弁書における反駁を読めば、それがまるでお話にならないほどに幼稚なレベルのものであることは、誰にでも分かる。

むろん、杉本には弁護士などいなかった。あれほど筆者に向かって、再三、弁護士を通じて連絡せよと要求し、弁護士相手でなければ、話にもならないという態度を見せていたにも関わらず、結局、杉本には、自分が訴えられた際、弁護士をつける経済的余裕が全くなかった様子が、今回のことで明らかになったのである。

ちなみに、杉本徳久は、株式会社メディアテラスの代表を名乗っている人物であるから、単なる一般人としての「私人」ではない。杉本の行為は、すべてこの会社の代表としての振る舞いであると世間に受け止められることになる。

それが、期日当日の時間ぎりぎりになって、ようやく裁判所に答弁書を出すというのは、まるでブラック企業に雇用された悪徳弁護士が使うような汚い手口である。そういうことをすると、参加者全員が、事前に答弁書をきちんと読んで協議に備える時間がなくなるため、審理に悪影響を及ぼす。いたずらに協議を長引かせて結論を先送りすることだけを目的とする、非常に印象の悪い、人を馬鹿にした利己的な行動である。

さらに、杉本が出して来た答弁書は以下の通りであるが、その内容を見ると、基本的な言葉遣いさえなっておらず、証拠書類の番号の振り方さえ間違っており、弁護士が一度も目を通していないことが明白であるだけでなく、大の大人が書いた文章とも思えず、小学生程度の算数さえできるのかどうか危ぶまれる内容である。

  
(図1、2 杉本徳久が民事調停の期日当日に提出した「とんちんかんでお話にならない」ほど幼稚な答弁書)

杉本は答弁書の冒頭において、筆者の主張を「棄却する」などと書いているが、正しい表現は、「否認する」である。訴えを棄却するのは裁判所にも関わらず、まるで自分に誰かの訴えを「棄却する」権限があるかのように考えているこの言葉からも、杉本の傲慢さが透けて見える。
 
 杉本はこのたった2枚しかないあまりにも手抜き作業であることが明白な答弁書によって、筆者の訴えを一方的に「棄却」したつもりになっている上、調停を起こす費用もすべて筆者に負担させた上で、自分は一銭の賠償金も支払うことなく、勝手に「3日以内」と根拠も不明な期日を一方的に指定して、自分のブログ記事を削除する代わりに、筆者のブログからも、都合の悪い記事を削除せよと叫んでいるのである。

きちんとした弁護士であれば、申立書に記された一つ一つの項目ごとに、きちんとその内容を踏まえた上で、否認する旨とその具体理由をちゃんと書き記すものであるが、杉本の答弁書には一切、具体的な反駁がなく、反論している内容さえ、申立書には書かれていない内容ばかりである。

筆者の申立書には、段落ごとに番号もふってあり、無数の段落がある。それがたった2枚の答弁書の数行だけの文章で、筆者の全ての主張に反駁したつもりになり、これを「棄却する」とまで宣言しているとは。厚かましさ・愚かさに呆れ果てることを通り越して、もはやただ苦笑するのみである。

小学生でももう少しましな文章を書くであろう。しかも、杉本が出した証拠の大半も、筆者のブログをただ印刷しただけのもので、答弁書の本文と照らし合わせても、必然性が全く感じられない添付書類であった。その上、証拠書類の番号のふり方さえ間違って、番号が飛んでいるのだから、夏休みの終わりになって宿題を片づける小学生のように、期日当日になって慌てて作成したのだろうと笑うだけだ。

杉本が弁護士に相談を行った実績がないことが、この答弁書の内容からはよく分かる。無料相談くらいなら、利用したかも知れないが。

要するに、杉本の答弁は、杉本自身の言葉を使えば、完全に「とんちんかんでお話しにならない」レベルのものであり、とことんまでの手抜き作業であり、さらに、杉本が筆者に投げつけて来た言葉を使えば、この答弁書こそ、「思い上がった上に、市井の常識をわきまえない、あまりにも自己中心な内容」と非難されてしかるべき内容であったと言えよう。

筆者は近々、このようにお子様レベルの不毛な民事調停を打ち切って、訴訟に移行するつもりである。訴訟となれば、こんな人を馬鹿にした無内容の答弁書など提出している余裕などは全くない。信憑性のある反駁ができなければ、敗訴に終わるだけである。また、村上密も反駁を寄越さないわけには行かなくなる。さらに申立内容によっては、申立人の住所地で裁判を行う道が開けるため、わざわざ被告の住所地へ足を運ぶ手間も省ける。移送を申し立てても、被告の希望が認められる見込みはほぼなくなるであろう。

以上のような経緯から察するに、杉本と坂井氏が対決したという裁判も、しょせん、民事調停以下のレベルだったのだろうと想像されてならない。つまり、杉本は、きちんとした訴訟が提起されれば、およそ勝ち目のない人間であり、これまでただ自分の方から先に訴訟をふっかけることにより、心の準備のできていないクリスチャンを恫喝して黙らせて来ただけなのである。

かつて杉本徳久は2009年頃に、2ちゃんねるの書き込み内容が名誉毀損であるとして、2ちゃんねるに削除要請を行おうとした様子が、掲示板「株式会社メディアテラス(杉本徳久)」に残っている。

確かに2ちゃんねるは悪質な掲示板であり、しかも、杉本がこの当時から2ちゃんねるに、コメント番号を指定することさえも不可能なほどに大量の書き込みをされて、ほぼストーカーのごとく追いかけられていたことを考えれば、多少、彼の言い分にも、同情の余地があると言えないわけではない。

だが、それでも、そのような事態となったのは、杉本自身が自らのブログであまりにも多くのクリスチャンに自ら喧嘩を売って、実名で誹謗中傷を重ねて来た結果であることや、また、削除を要請するに当たっては、どんな掲示板であろうと、どれほど書き込み数が多かろうと、杉本自身が、どの部分をどんな理由で削除依頼するのか、手間がかかっても、やはりそれだけは最低限度、明らかに指定しておかねばならないことを考えれば、一方的な同情の余地は残らない。

その当然の形式を整える手間を怠ったがゆえに、杉本は2ちゃんねるに削除依頼を出しても、依頼として扱ってももらえないまま、門前払いされた経緯がよく分かるのである。

こうしたことからも分かるのは、杉本徳久は、常に自分が主張している内容の正当性を、他者にも客観的に分かるように具体的に根拠を示して証明するという作業をしないということである。今回の民事調停の答弁書もそうなのであるが、杉本はいつも「自分が迷惑を受けて嫌な思いをしていることは、あなた方にも当然、分かるはずだ!」という理屈で、自分の要求を何一つ客観的に証明することなく、相手がそれを理解して飲むのが当然であるとして、一方的に押し通そうと突きつけて来るのである。

しかも、杉本は、そうして客観的な手間を省いた分だけ、常に刑事告訴やら、民事提訴やらといった脅し文句を凶器のように振り回して、相手に要求を飲めと脅すばかりなのである。

杉本はこうした手抜きな要求の結果として、以上の掲示板でも、自分の出した削除依頼を、必要条件を全く満たしていないため審査にも考慮にも値しないと言われて「棄却」され、「門前払い」された上、削除を求めた書き込みや、そこで引用した誹謗中傷のコメントの転載も含めて、それをさらに半永久的にさらしものとされる材料として増し加えてしまい、削除依頼をもあきらめざるを得ない結果に追い込まれたのである。

2ちゃんねるはこのように悪質な掲示板であるとはいえ、それでも、2ちゃんねるで事件に巻き込まれた人々の中には、努力に努力を重ねて、刑事事件にこぎつけたり、その他の方法で、第三者機関を通して、削除にこぎつけている例もある。

彼らはおそらく膨大な手間暇をかけては証拠書類を集め、読みたくもないコメントを一つ一つ丹念に探し出してコピーし、番号を指定して、そこでどんな人権侵害が行われているのか、何が事実であってそうでないのか、自分の主張を精魂込めて練り上げた上、しかるべき場所に書類を持参し、何度も何度も様々な公的機関に足を運んで話を重ねつつ、あきらめることなく、自分の主張が認められて実現にこぎつけるまで、手続きを重ねて来たのである。

ところが、杉本は、そうした努力を一切払わず、ただ「私が言いたいことはあなたにも分かるはずだ」という子供のような理屈で、常に周囲の者たちが、自分の意向を「忖度」してくれるよう当然のごとく求め、「忖度」してくれない他人は、告訴したり、個人情報を暴露するなどと脅して言うことを聞かせようとし、筆者のような形で事件を解決しようとする他人が現れると、その他人の努力に便乗して、調停や裁判を自分のリクエストを提示する場として都合よく利用しようとするのである。

しかも、訴えを起こされても、自分の非を一切認めず、何の譲歩も行なわずに、ただ他人だけに一方的な代価を払わせて、自分の願いを実現しようとするのである。そこに、杉本徳久という人間のどうしようもない卑怯さ、利己主義、怠慢が見て取れる。

杉本は、筆者に送りつけて来た恫喝メールの内容からも分かるように、おそらく、これまで自分の願いを実現するために必要となる苦労をして来たことがないのであろう。周りの者たちが、常に自分の意向を尊重してくれて、面倒な作業を何もしなくても、願いが叶うのが当然という環境で、甘やかされて育って来たのではないかと想像される。

自分よりも強い者には媚びておとなしく従うが、そうして自分をひっこめて願いをあきらめた分だけ、自分よりも弱い者を恫喝し、八つ当たりすることでしか、自分の弱さ、卑怯さ、臆病さをごまかそうとするしかないのだろう。

杉本が勝訴した裁判がこれまでにいくつかあるそうだが、こんな風に自分の主張を客観的に論証する手間さえ省く無精者に敗訴するなど、あまりにも恥ずかしくみっともなく馬鹿げたことである。多分、訴訟に及ばれた側が、あまりにも不慣れで、心の準備ができておらず、弁護士を雇ったりして、十分に対策を打つ手間暇がなかったせいでそうなっただけであろう。クリスチャンの中には、そういう風に世の事柄に格別疎い人々も多い。

この度、杉本が出して来た答弁書を見るにつけても、このような手抜き作業では、訴訟には絶対に勝てないことは明白である。弁護士がついているかどうかといった問題ですらない。たとえ弁護士がついていたとしても、依頼人自身が、自分が何を言いたいのかさえ分からず、自分の主張を明確にして相手に反駁することさえできない状況で、当事者でもない弁護士が、それを補って完璧な主張を作り上げてやることは無理である。

まあ、とてつもない大金を積めば、そういう面倒な作業をも代行してくれる弁護士がいないわけではないだろうが、企業であればそういうことができても、個人のレベルではまず無理である。だから、この答弁書を見ただけで、いざ訴訟になった時の結果は初めから明らかだと言えよう。

繰り返すが、これが今まで数々のクリスチャンを訴訟の脅しで黙らせて来た男のみっともない答弁なのである。まだ分析は以下でも続くが、まずはよくよくご覧になられたい。

さて、このようにお子様レベルの民事調停であるとはいえども、それでも、杉本が今回、出して来た証拠の中にも、それなりに収穫と言えるものが、二つだけあった。

それは、杉本の生年月日を記した社会福祉士登録証と、唐沢治が杉本に送信したというメールである。


(図3 杉本が出して来た社会福祉士の資格者証 社会福祉士にあるまじき社会的弱者への侮蔑・嘲笑をブログで公然と行っておきながら、こうして資格を誇示しようとする態度に呆れる。しかも、資格取得から2年しか経っていないのに、自分は駆け出しに過ぎないという認識が全く欠けている様子にも呆れ果てるのみ。)

杉本徳久は、大学院修士課程まで出ており、博士号の取得は諦めたようであるが、修士でも、研究者として生きるのでなければ、一般人の学歴としては十分であろう。にも関わらず、杉本は博士号を取得しなかったことが、それほど自信喪失やトラウマにつながったのであろうか。大学院卒の肩書では満足できなかったようである。

杉本はこの度、社会福祉士の国家資格を取得したことが、よほど自慢の種だったらしく、唐沢のメールの文面からも、杉本がソーシャルワーカーの資格を取得したことを唐沢に向かって大いに自慢していたらしい様子が読み取れる。


(図4 唐沢治が杉本徳久に送ったメール。唐沢の信用ならない嘘つきな性格がよく分かる内容であり、唐沢が水面下でどれほどこれまで事態を常にこじらせてきたか、その様子も見て取れるが、それでも、杉本が坂井氏と唐沢を裁判で破ったにも関わらず、2017年になってもまだこうして唐沢にも筆者と同様に因縁をつけては絡み続け、嫌がらせメールを送りつけていた様子にも、唖然とし、恐れ入ると苦笑するほかない。杉本は、こうして明らかになっている人々の他にも、一体、どれだけの人物にこうして隠れたところで言いがかりをつけては嫌がらせメールの送信を繰り返して来たのであろうか。)

だが、このタイミングで、杉本が自分が何より大切にしている国家資格者証を、筆者に向かって出して来た気が知れない。

特に、杉本が今までクリスチャンに対して裁判をしかけては個人情報を収集し、その情報をダシにして、クリスチャンを貶め、中傷して来たことを思うと、まさにそれは自滅行為であるとしか言えない。

杉本徳久や、村上密が、これまでクリスチャンに対して取って来た行動は、古代社会における、シャーマンの呪詛の祈祷をも思わせるものである。

古代社会や、今でも文明の行き届いていない社会では、シャーマンのような呪術師が、誰かから金をもらって、ターゲットとする人を呪い殺すための祈祷を捧げる依頼を受けるなどのことが、おそらく日常的に行われていると思われる。

その際に、シャーマンは、依頼者に、ターゲットとなる人物の髪の毛など、身の回りの品を持って来させ、それをもとに藁人形などを作っては、その人形を本人に見立てて、連日、呪いの祈祷を捧げるのである。

筆者は、村上密や杉本徳久のして来た行為は、シャーマンによる「呪い」や「冒涜」とほとんど変わりないものだと考えている。彼らは自分たちが憎んでいる相手(クリスチャン)の個人情報を何らかの方法で入手しては、それを不当な形で利用して、その情報を土台に、まるで「藁人形」でも作るように、本人の歪んだ「像」を作り出し、その像を侮辱・嘲笑することで、ターゲットとなる人間の人生に危害を加えようとして来たのである。

杉本は自分がこれまでそのようにクリスチャンをターゲットとして呪詛のような行為に及んできた事実を少しでも考えれば、自分が宝としている情報を、敵方のサイドに提供することが、どれほどの自滅行為であるか、分からなかったとは思えない。

しかも、当ブログでは、杉本の行った行為は、ソーシャルワーカーの信用を著しく傷つけるもので、国家資格の剥奪に値すると何度も書いているのである。

にも関わらず、杉本が危険もかえりみずに以上のように国家資格者証を誇示したことは、筆者から見れば、杉本を破滅に導こうとしている悪霊のなせるわざであるとしか言えないのである。

これまで書いて来たように、社会福祉士の仕事内容は、社会的弱者を助けることにあり、社会的弱者を嘲笑したり、罵倒することにはない。精神障害者も、社会的弱者に含まれるのは明らかだ。にも関わらず、杉本は、筆者のような健康な人間を、何の根拠もなく精神異常、人格障害と決めつけて罵倒・嘲笑した上、さらに、精神障害者が一般的に就労困難であったり、社会に適応困難な状態にあるなどの苦しい状況をあげつらいながら、これを罵倒・嘲笑したのだ。

自分が助けねばならない社会的弱者全般をターゲットとして侮辱するようなソーシャルワーカーが全国のどこにいるだろうか。こうした記述内容を通して、杉本がおよそソーシャルワーカーにふさわしくない人格の持ち主であることがよく分かるのである。

杉本が資格を取得したのは、決して社会的弱者を助けるためではなく、ただ自分よりも弱く困っている人間を上から目線で見下げ、彼らを「助けてやっている」という優越感を味わうためでしなかったのではないかと強く疑われる。

さらに、この証書を通して、杉本が国家資格を取得したのは、平成28年3月であり(交付は4月)、取得からまだたった2年しか経っていない事実も分かる。これでは、社会福祉士として、まだほんの駆け出しではないか。

現場で10年くらい実践を積み、プロと言えるような実績がそれなりに出来上がってから、人前で資格を自慢するならばともかくとして、よくもこんなにも短期間で、ただ資格を取ったという表面的な事実だけを理由に、これほど他者に対して傲岸不遜な態度に出られるものだと呆れざるを得ない。

筆者は、まだ唐沢治と親交があった頃、杉本が福祉関係の仕事を始めたという情報を入手した唐沢が「杉本にそんな仕事が続くはずがない」と述べて苦笑していたことを思い出す。

それでも、しばらくの間は続いたのであろう。だが、その努力すらも、今回のような行動を取ることによって、杉本は自分で台無しにしてしまっているのである。

杉本は、以前には、株式会社メディアテラスの代表であるという身分をしきりに強調していた。今やそれをあまり口にしなくなり、かえって、ソーシャルワーカーであることを誇示している様子を見ても、メディアテラスという会社は、ネットで幽霊会社と言われていることは事実無根でなく、極めて厳しい経営実態にあると懸念されてならない。

杉本は会社の事業として、音楽スタジオやら、他にも様々な事業を手がけようとしていたようであるが、あまりに手を広げすぎて、趣味と実益が結び付かなかったのであろうし、仮にそうした事業が先見性のあるものだったとしても、「随想 吉祥寺の森から」のようなブログで、あれほど数多くの人々の実名を出して誹謗中傷し、自分からクリスチャンを訴えるための争いを起こし、さらにそれを手柄のように吹聴していたのでは、会社の代表としては、およそ世間の理解や信頼を得られない。事業が成功する見込みを自ら潰しているも同然である。

杉本は筆者のように、杉本とは一切面識のなかった無関係な人間をも、ただインターネットで一つのコメントの削除依頼を受けたというだけの理由で、これほど長きに渡って執拗に脅しつけ、嫌がらせを重ねて来たのであるから、そんな人物と、ビジネスで金銭の絡む取引をしたいと願う人が現れるはずもないことは明白である。

しかも、以上の民事調停の答弁書を見ても、杉本が自分にとって不利な訴えは何一つ認めず、一銭の賠償金さえも払わず、他人の労に便乗して、自分の望む結果を得ようとしているケチさ、無精さ、利己主義がよく伝わって来る。そこから察するに、およそメディアテラスという会社が、自社の評判を大切にして、人との調和を重んじる会社だと考える根拠は何一つ存在しない。

昨今、中小零細企業の社長は、他人に向かって威張りちらしているわけにいかず、大変な苦労を背負っているものだ。旅行業やサービス業の社長は、社長と言っても、名ばかりで、実際には、顧客のクレームのために、社員が負わない苦情を一身に背負って、絶えず駆け回らねばならない。どれほど顧客から会社に言いがかりのようなクレームをつけられても、言い返さず、謙虚に頭を下げて誤解を解く努力を続けながら、人々の理解と賛同を勝ち得て、事業展開をせねばならないのだ。

それが、杉本のように、他人の些細な言動に腹を立てては、それを理由に、根拠もない言いがかりをつけ、記事を削除せよと一方的な要求を突きつけ、果ては告訴をふりかざして脅したりしながら、力づくで人に言うことを聞かせようと試み、果ては訴えられてもデタラメな答弁書ばかり出して身勝手な要求を繰り返すだけであれば、そういう人間をビジネスパートナーとして選ぶ人はいなくなるのが当然である。

どういう経緯があって事業展開が難しくなったのかは知らないが、杉本は会社代表という身分を誇示することが難しくなった次には、今度は、ソーシャルワーカーの資格に飛びつき、国からのお墨付きをもらい、弱者救済をライフワークとすることで、新たな活路と自信の源を見いだそうとしたのだと思われる。

だが、こうして、大学院、会社経営、社会福祉士と、次々と自分のよりどころとする立場や肩書を変え、自分の手がけた一つ一つの試みを、何一つ、時間をかけて苦労を耐え忍びながら成功へと導くこともできないままに、熱中の対象を次々と取り替え、うわべだけの資格によって身を飾ろうと試みても、そんな試みが成功へとつながる見込みは極めて薄い。だからこそ、今回のような藪蛇な展開になっているのである。

杉本は、今回、社会福祉士の資格者証を出せば、自分の身分保証や、信頼を得る材料となると考えたかったのかも知れないが、刑事事件で有罪が確定すれば、当然、国家資格を剥奪されるだけであると、当ブログでは再三、予告している。筆者から見れば、杉本はただ厚労省に資格取消を求めて通報される際の手間を自ら省いているだけなのである。

最後に、杉本は答弁書において、自分の身にまだ捜査が及んでおらず、逮捕令状も出ておらず、身柄拘束も、取り調べも行なわれていないことを理由に挙げて、自分が刑事告訴されたという事実そのものを否定し、今回の訴えは事件にならないなどと一方的に決めつけ、迷惑行為防止条例にて警告を受けた事実をも否定しようとしている。

杉本が、自分が告訴された事実を何とかして嘘であると考え、否定したい様子がひしひしと伝わって来る。いつものように、筆者の「狂言」と決めつけたいのだろう。

こうして、自分が名誉毀損で訴えられているにも関わらず、都合の悪い事実を否定するばかりで、事態を収拾する努力もせず、自分の人権侵害のブログをまるで取引材料のように振りかざし、筆者の起こした調停の場を自分に都合よく利用して、筆者のブログから気に入らない記事を削除させるための機会に変えようと、「喧嘩両成敗」に持ち込もうとしている態度に、どこまで常識がないのかと心底、呆れる。

しかも、杉本は例によってどの記事の削除を要求しているのか、自分の要求の内容さえも具体的に明らかにしていないのであるから、こんな主張は、最初から通る見込みがなく、なかったも同然に空中に散じ、胡散霧消していくだけである。

要するに、杉本の取っている行動は、自分の書いた犯罪的な誹謗中傷の記事をダシにして、依然、筆者を脅し、その記事を一刻も早く削除して欲しいと願うなら、筆者が刑事告訴を取り下げ、事件自体をなかったことにし、筆者のブログからも、杉本の気に入らない記事を即刻、削除して、杉本の犯罪行為をすべてなかったことにして水に流せと、筆者を脅しているのと同じである。

どこまで限りなく卑怯な人間なのだろうかと呆れるばかりだが、しかしながら、こうした杉本の主張が、この先、杉本に非常に不利な結果を生む材料となるのは避けられないだろう。

杉本は答弁書において警察から連絡を受けた事実を否定していないが、もしも杉本が名誉毀損で告訴されておらず、迷惑行為防止条例にも違反していないというならば、一体、何のために、刑事が杉本に連絡せねばならない理由があるのだろうか。

刑事は実際に杉本にブログの削除を要求しており、ブログを更新しないようにとも警告し、二度と筆者に関する誹謗中傷の記事を書いたり、嫌がらせメールを送信しないようにと警告し、この度、名誉毀損で告訴状が受理された旨も伝えている。警察が介入した結果として、杉本のブログの一つ「神々の風景 religsious scene」が実際に削除されたのである。

にも関わらず、杉本はこうした事実をすべて否定することが、この先、自分にどれほど不利な結果をもたらすかを予想していない。杉本の主張は、警察に向かって、「本当に事件になっているというなら、その証拠にちゃんと捜査令状、逮捕令状を出して、取り調べをしろ!」と言っているのと同じなのだが、警察とて、そうまで言われれば、事件になっていることを自ら証明せざるを得ない立場に追い込まれる。(警察も捜査義務を怠ったとして追及されることは望ましくないためである。)

杉本のこうした発言は、かえって敵方のアクションにきっかけを与えているだけであり、警察が民事調停で杉本が反省を示し、自主的に記事を削除するかも知れないことを最後の望みとして行動を留保して来ただけであるとは思いも至らないのである。

杉本はこれまでにも、自分の吐いた容赦のない言葉の報いとして、数々の災難を身に招いて来た。完全に自分自身の言葉で罠にはまってしまっているのである。

たとえば、杉本が根拠もないのに、当ブログで自分が「サタン呼ばわりされている」と主張したり、「自分が冒涜された」などと主張して、次々と当ブログへのバッシング記事を書かなければ、当ブログでも、反論のために杉本の名を記して記事を書き記す必要もなかったであろう。

さらに、もしも杉本からの当ブログへの一方的な刑事告訴の脅しがなければ、杉本自身が刑事告訴されるという展開にもならなかったろう。この他にも、杉本は「一度口から出した言葉は取消できない」と述べたり、「民事で巨額の賠償金を支払っても、刑事事件の捜査は続く」などと、自分で自分の情状酌量の余地をなくすような、容赦のない非難の言葉をブログで他者に向かって吐き続けている。

「人に憐れみをかけない者には、憐れみのないさばきが下されます。」(ヤコブ2:13)と聖書にある通り、他人に対して容赦のない態度を取った人間が、自分だけは憐れみを受けることはできない相談である。こうして他人に向かって吐いた憐れみのない言葉の数々が、すべて杉本自身に跳ね返ることになると、杉本は考えてもみない。これは悪霊が彼に言わせている言葉の数々であろうと思うが、大変に恐ろしいことである。

このように、自分の取った行為の責任ときちんと向き合うこともできない空疎な人間が、どんなにうわべだけ、様々な立派な肩書や資格を振りかざして身を飾ったとしても、しょせんクジャクの羽をつけたカラスでしかなく、決してそれによって内面の空疎さを埋めることはできない。

そして、内面が空虚であればこそ、こうした人々は、その空虚さを突かれ、自分を他者に奪われ続けるのである。

次回以降の記事でも詳しく論じるが、筆者の目から見れば、村上密も、杉本徳久も、唐沢治も、「自分がない」という点では、共通しており、内面の空虚さとコンプレックスを埋め合わせるために、常に他者の眼差しの中に、自分への承認や賛同を見つけようとし、それを通して、自己を取り戻そうと、「弱者を救済するヒーロー」のような虚構の自己を演じ続けているのである。

彼らにとっては、他者の眼差しこそ、自分自身を映し出す「鏡」であり、インターネットも、そのような「鏡」の一つである。彼らはこれまで、そうした「鏡」としての他人の眼差しの中に、他人が喜ぶような「理想的な自己像」を投影し、他者からの賞賛や賛同を得ることで、自分を確認しようとして来たのであるが、そういうありもしないヒーローのような自己像の演出を重ねているうちに、「鏡」を通してしか自己を認識できないという心理的弱点があだとなり、結局、「鏡」の方が「本体」以上のリアリティとなり、「鏡」に人生を乗っ取られてしまったのである。

彼らがブログ等において演出している「理想的な存在としての自己像」も虚構であると同様、その他の無数の歪んだ「鏡」が映し出す彼らの自己像も誤りであり、もはや彼ら自身が、どれが彼らの本当の自己像であるのかさえ、すっかり分からなくなっているのである。
 
「鏡」はしょせん「鏡」に過ぎず、そこに真実が映し出されることなど永久にない。鏡の表面には、凸凹があったり、光が乱反射したりして、「本体」を正しく反映することさえ、至難の業である。

にも関わらず、確固たる自分がない人々は、絶えず、他人の眼差しという「鏡」に映る自己像を確かめることでしか、自分を認識できず、自信を得ることもできないため、その弱さのせいで、どんどん虚構の「鏡」の世界に取り込まれ、他人に自己像を奪われ続け、ついに「鏡」の世界で「本体」を喪失したまま、帰らぬ人となってしまうのである。

これは大変に恐ろしい事態である。杉本は、すでに2ちゃんねるによって、長年に渡り、「自己像」を侵害されて、奪い取られ、上書きされ続けて来たが、今やその上に、唐沢のブログの指摘があり、当ブログの指摘もあり、多数の「鏡」によって、杉本の像は根本から書き変えられ続けているのである。

杉本はそれに抵抗するために走り回っているが、その主張があまりにもお粗末であるために、どこへ行っても相手にされず、それどころか、ついに杉本自身のブログが名誉毀損であり人権侵害であるとして削除され、消滅しかかっているのであり、さらにこの先、杉本の訴えが裁判においても「棄却」されるなどした日には、杉本にはもはや「自分自身とは何か」ということを、自らの口で主張する手段がなくなる。

こうして、ついに「本体」が消え去って「鏡」だけが残るのである。杉本が主張した内容はすべて無かったこととされて消え失せ、他者が杉本に向かって述べた様々な言葉や印象批評だけが、「杉本の像」として定着し、残って行くのである。

これが、他人からの「お墨付き」を得ることによってしか、自己を確かめられない空疎な人間が決まって辿る悲劇の結末である。

ところで、「剽窃」だとか、「乗っ取り」だとかいう主張が成立するのは、あくまで「本体」がれっきとして存在し、誰かがこれを証明しうる場合のみである。たとえば、無断複製を違法であると主張するためには、オリジナルの所有者が出て来て、オリジナルとは何かを提示した上で、問題となる内容がオリジナルから違法にコピーされたものであることを証明しなければならない。

オリジナルが存在しないか、誰もそれを証明できない事柄については、コピーという概念も存在せず、「贋作」や「無断複製」や「違法な改変」や「剽窃」という主張自体が成立しない。「本体」が確かに存在していないものについては、どんなにたくさんの歪んだ「鏡」が作り出されても、誰一人として、それを権利侵害だと主張できないのである。

杉本が、これまで自分自身に確かなよりどころとなる自己がないことを埋め合わせるために、会社の代表や、国家資格といったうわべだけのステータスで身を飾り、あるいは、苦しんでいる他者を助けることで、自分の内面の空虚さを補えるかのように考えたことは、錯覚でしかない。

そうしたものはすべて「鏡」なのである。そして、杉本ブログそれ自体も「鏡」である。そのような「鏡」に人が自分を映し出し、その像に熱中すればするほど、その人間は、確かなリアリティを失って、「鏡」の世界に自分を吸い取られて行くだけである。

そして、ついに最後には「本体」が「鏡」に吸収されて消失し、フィクションとなり、神話となり、その代わりに、ただ歪んだ「コピー」だけが、リアリティであるかのように残ることのである。

結論から言えば、グノーシス主義の本質とは、もともとオリジナルとしての「本体」が存在しない、無数のフィクションの物語である。

次回以降に論ずるが、グノーシス主義が「父なる神」をフィクションとしていることは、つまるところ、グノーシス主義が「父なる神」に創造された人類も、結局は「フィクションである」と主張しているに等しい。

ペンテコステ・カリスマ運動も、その本質は、グノーシス主義であり、こうして、人類の自己の本質がもともと「フィクション」であるという教えを信じた人々の内側には、確かな自己がなくなる。

彼らは、心の内に空虚な深淵を抱え、人々の眼差しという「鏡」に映る不正確な映像を手がかりにする以外には、自己存在を証明するための手立てが何もなくなり、それゆえ、「鏡」を通して、自分の見たくない欠点を暴露されることを病的なまでに恐れ、気に入らない「鏡」を根こそぎ破壊しようとの行為に出たりするのである。

だが、もし「本体」がリアリティとして存在しなければ、「鏡」によってどんな権利侵害を受けたと感じても、それを権利侵害だと主張する根拠もまたないのである。

彼らに出来ることは、ただ一つ、一つの「鏡」に映った気に入らない自己像を否定するために、別な「鏡」を持って来て、これが自分だと宣言することでしかないのだが、もともとその鏡は、どれもこれも不正確なもので、そこに映った像も乱れ、影のようなものでしかないため、その人物が「鏡」を基にして行う証言は、あらゆる面で辻褄の合わない、嘘で埋め尽くされた、整合性の取れないものとなって行く。

結局、自分がないからこそ、そのようなデタラメなつぎはぎの証言が生まれるのであって、そのような人間には、デタラメな証言を行う以外に、自分が何者であるかを客観的に証明する手段もない。そのため、そのデタラメな証言のゆえに、その人間が何者であり、何を言いたかったのかは、結局、最後まで誰にも分からないまま、その人間そのものが不明な塊となって消え去って終わる。

こうして、確固たる自己を持たない人間の内部には、自己の代わりに、ただ虚無の深淵が横たわっているだけなので、そのブラックホールのような虚無性の隙をついて、そこには、何でもありとばかりに、あらゆる種類のゴミが投棄され、贋作やコピーなどのありとあらゆる偽の創作物語が詰め込まれ、虚偽によって埋め尽くされて行くのである。

それが、グノーシス主義の本質なのである。グノーシス主義は、人間の自己存在をフィクションとして消し去るものであり、そんな教えを信じている限り、その人物には、自分が失われて、デタラメな創作物語によって自分がどんどん書き換えられて行くことに抵抗する術もない。
 
繰り返すが、どんなにそれを「デタラメな創作物語」だと声高に非難しようとしても、もともとオリジナルが存在しない以上、コピーも存在せず、人権侵害も存在せず、名誉毀損もないのである。虚無の深淵が仮にサタン呼ばわりされたところで、誰もそれを虚無の深淵に対する権利侵害であるとして虚無の深淵の代理人となってこれを是正できないのと同様である。

それに引き換え、「わたしはある」という方を信じ、聖書のまことの父なる神を知っているクリスチャンは、グノーシス主義者のように虚無の深淵を信じているわけではなく、キリストの復活の命にあって再生された確かな自己を持ち、神に対して生きる人々であるから、こうして再生されたクリスチャンの主張も、確固たるリアリティであり、誰かが勝手に書き換えたりすることはできず、そのようなことを試みた人間は、当然ながら、人権侵害のかどで罰せられる。

武蔵野簡裁の付近は、横浜のように海風が吹くこともなく、起伏もない平地の開けた都会で、桜が咲き、人々は穏やかに行き交い、街はのどかで平和であった。確かに、ここに住む住民にとっては、この都会に生きていることが、ステータスに感じられているのかも知れない。民事調停では、相手方と顔を合わせることはないため、杉本徳久なる人物の印象は分からなかったが、四捨五入すれば50歳にもなろうという男に会いたいという願いは筆者には全くない。一体どういう理由で、こんなにも平和そうに見える街から、こんなにも常軌を逸した人物が生まれて来るのか、ただただ理解に苦しみ、首をかしげるばかりである。

改めて杉本のような人物を生んだペンテコステ・カリスマ運動とグノーシス主義を心の底から非難しないわけには行かないと感じるのみである。

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