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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

十字架の死と復活の原則―神の教会とクリスチャンを冒涜し、呪う偽預言者らを待ち受ける地獄の永遠の厳しい裁き―

毎年、冬の寒さを乗り越えるのはひと苦労だが、ようやく暖かくなり、五月のような気温の日が続いている。 今年はただ春が来たということが嬉しいだけではない。巨大なミッションが一つ達成されたことで、霊的に大きな解放感がある。

先週、長年に渡り、当ブログに嫌がらせをしかけ、誹謗中傷を続けて来たS氏が共犯者と共に刑事告訴された。この人物ができもしない刑事告訴を当ブログに向かって予告してから、それが不成立に終わる結果が出るまでの間に、1年近い月日が流れたことを思えば、今回、警察の対応は、筆者の目から見れば、まるでスローモーションのようであったとはいえ、それでも通常に比べれば、まだスピード感のある対応だったと言える。

筆者は警察組織がどんなところか知っているため、そこでは、聖書に登場する裁判官とやもめのたとえ話を実地で貫き通す覚悟がなければ何も進まないことが分かっている。

S氏にはここ連日、警察から人権侵害の記事を取り下げ、ブログを閉鎖するよう説得が続けられていた。にも関わらず、同氏はこれを拒否する意志表示を明白に示したのであった。

これによって、S氏への説得が終了するのみならず、情状酌量の余地も激減することになる。ちゃんとした弁護士がついていれば、刑事事件になっているにも関わらず、そんな愚かな行動に出るようにとの助言は絶対にしなかっただろう。せっかくこれから弁護しようとしている人間が、罪を軽くする機会を自ら失うような行動に及ぶことを、弁護士が助長するはずがないからだ。

一旦、事件になってしまうと、その後の手続きの流れを止めるのは非常に難しく、あらゆる証拠や証人をかき集めても、エスカレータのように手続きは進んで行く。

それでも、被害者感情を考慮して、罪を認めて謝罪するのは早ければ早いほど、情状酌量の余地が働く。罪を認めている人間を、周囲も強く責めることはできないからだ。(それはキリスト者が悔い改めて神に立ち返る時も同じである。神は悔い改めた人間を決して再び責めはしない。)

しかし、罪を認めなければ、証拠により追い詰められ、本人がどんどん不利になって行くだけなのだ。人に迷惑をかけても、法を犯しても、反省のない悪い人間だという印象が重なり、ついには誰一人、その言い分に耳を傾けなくなるだけである。

おそらく、S氏にとって最も大切なのは、自分の人生の行く末ではなく、一刻でも長くクリスチャンを害する情報を発信し続けることと、自分が訴えられている事実が周囲に知れ渡らないための工作だったのであろう。

だが、クリスチャンに対する害意が明白である以上、神はこれにきっちり応答される。ここ1~2ヶ月の間に、何が起きるかに、ますます注目されたい。果たして、S氏の呪いに効力があるのか、それとも、筆者の主張する神の完全な義認が効力を発するのか、その事実は公然と証明されるため、よくよく注目されたい。

前の記事でも書いたが、筆者のためには、すでに木にかかってすべての呪いを背負って下さった方がおられる以上、誰も地上に筆者を呪うことのできる存在はおらず、筆者が悪魔と暗闇の勢力の悪意をいわれなく身に背負わされる筋合いも全くないのである。

だが、こうした事件が起きるまでもなく、S氏のブログ記事はすでに完全に世間からの信用を失い、内容を信じる人もほとんどいなくなっている。クリスチャンの世間でそうなのだから、ましてや、不信者の世間ではずっと前からそうである。S氏の最後の取り巻きが、共犯者として告訴された以上、この悪党グループに加わる人間はもういない。

さて、ソーシャルワーカーの職務内容には、事故やけがや病気で仕事を失ったり、精神疾患に陥った人々などの社会的弱者の社会復帰を助けることも含まれている。そのために自治体などでも社会福祉士が雇用されている。

筆者は精神異常などでは少しもないが、もし誰かが精神疾患に陥っていたとして、社会福祉士である者が、その者の病気を取り上げてあざ笑ったり、そういう人々の就労困難などの社会への適応困難な状況をあげつらって、これを公の場所で嘲笑するような趣旨の記事を書くことは、断じて考えられない行為であり、社会福祉士の信用をいたく傷つけるものでしかない。

そんなことをするソーシャルワーカーに、自ら弱さを打ち明けて助けを求める社会的弱者は一人もいないであろう。そしてそのような行為を隠れたところでやっていたと分かれば、職場もクビになり、国家資格を剥奪されるという結果に終わるだけである。

そもそも誹謗中傷の記事内容などを信じるのは、人格低劣な人々だけであるから、そのような人々がどんな反応をしたとしても、筆者は意に介さない。だが、こうして彼らの内面にある悪意が、極みまではっきりと証明されたことは、むしろ、喜ばしいことだったと考えている。

今や、カルト被害者救済活動の「師匠」である村上密氏さえ、記事の削除に応じざるを得ない上状況となっている中で、弟子はそれを拒んでいるのだから、これは師匠よりももっとたちの悪いゲヘナの子だ。利用されただけという言い分は成り立たない。弁護の余地などどこにもありはしない。

村上密氏は以下に述べるように、ブログ記事の中で、未だに教会に損害賠償請求をふっかける機会を伺っている様子を記しているが、実際には、その村上氏こそ、信徒への守秘義務違反、個人情報の漏洩、パワハラ、プライバシーの侵害などで損害賠償請求を受けるにふさわしい存在だ。

なぜなら、村上氏は、筆者が2008年に宗教トラブル相談センターに個人的な相談のために訪れた際に知り得た筆者の個人情報を、歪曲しながら虚偽を言いふらし、筆者を中傷する記事を長年に渡り、公表して来ただけでなく、S氏にも筆者の個人情報を提供して、S氏が筆者をブログで誹謗中傷することを幇助した疑いが強く持たれるためだ。

S氏は筆者と面識がないため、筆者の個人情報を単独で入手できる立場にはない。そして、S氏に情報提供を行った人物は、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の関係者以外にはあり得ないが、村上密氏以外には、そのようなことができる人物がいないことも、明白なのである。

たとえば、筆者の両親はアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の信徒などではないが、S氏は筆者の両親がアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の教会に通っていたかのような虚偽を言いふらしている。

だが、実際には、筆者の母はずっと他教団の信徒であり続けたがゆえに、アッセンブリー教会に正会員として所属したことがなく、さらに、父はクリスチャンでないため、教会に通った事実そのものがない。こうしたことは、当時の教会を知る関係者ならば、決して間違うはずのない事実である。

ところが、S氏は筆者の両親がアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の教会にそろって共に通っていたなどと、ありもしない大嘘をついてデタラメを書き記している。こうして、自分が見たことも、聞いたこともない事柄について、不確かな伝聞だけを頼りに、まことしやかに虚偽を書き記すのが、村上密氏およびS氏の常套手段である。

しかし、こんな大嘘も、S氏が一人で考え出せるものではなく、村上氏の(いつものような強烈な)思い込みがなければ、決して生じ得ない思い違いであると言える。

なぜなら、2008年、筆者は村上氏の率いる宗教トラブル相談センターを訪れていた頃、村上氏の勧めもあって(被害者の多くから名ばかりと批判されている)「カウンセリング」の一環として、「家族カウンセリング」のために、一度だけ両親を呼んで、村上氏と面会させたことがあるためだ。その時に、村上氏が筆者に送って来たメールも残っている。

その当時、村上氏は筆者の両親がそろって教会を訪れた姿だけを見て、筆者の父には信仰がないという事実をよく確かめもせず、筆者の両親がともにクリスチャンであって、それ以前にも共に教会に通っていたのだろうと早合点をしたものと見られる。

少なくとも、当時のその教会の信徒たちは、教会でほぼ一度も父の姿を見かけたことがなかったのだから、決して筆者の両親がクリスチャンであるなどという誤解をするはずがない。津村昭二郎牧師でさえ、筆者の父がクリスチャンでないことや、教会に通った事実が全くなく、いかなる伝道集会にも参加していない事実を見失うとは考えられない。村上氏が一度でも津村氏に事情を確かめていれば、こうした思い違いも生まれなかったはずだ。

だが、村上氏もS氏も、事実関係の裏付けを全く取らずに、不確かな伝聞だけを頼りに、自分の思い込みだけで筆を進める。そうした虚偽情報が満載された結果として、彼らの言い分にはますます信憑性がなくなって、誰も見向きもしなくなっていくことを考えもしないのである。

この他にも、津村氏の不祥事事件が発生してから数年後、筆者の一家は遠方の地に移り住んだため、当時の教会の信徒らは、筆者の両親がその後、どこに住んで何をしているかといった情報を知り得る立場にはない。

そこで、S氏が以上のようなデマを書き記すためには、以下の条件が必要となるが、その条件をすべて満たしている人間は、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の中に、村上密以外には誰一人としていないのだ。

➀当時のN教会の関係者であること
②筆者の両親がどこかの教会の集会にそろって訪れたところを目撃していること(N教会の信者は誰もそんな場面を見たことがない)
③筆者の両親が引越して後、どこに住み、何を営んでいるかを知っていること(N教会の信徒はその事実を知らない)
④S氏が筆者に対する悪意を持って当ブログへの誹謗中傷の機会を伺っていることを十分に知りながら、それでもS氏に誹謗中傷の材料となる筆者の個人情報をあえて提供するような卑しい心根の持ち主であること(そんなことをする信徒はN教会はおろか、どんな教会にも一人もいない)

村上密氏が、自らのブログで、S氏よりも前から、筆者および当ブログを卑しめる記事を発表していたことは周知の事実であり、その点で、村上氏は以上の➀~③のみならず、④の行為に及ぶ動機をも十分に満たしていたと言える。

また、村上氏が、筆者のみならず、どれほど大勢の同僚の牧師や信徒の個人情報を悪用しながら、自らのブログで、論敵となった牧師や信徒を誹謗中傷する材料にして来たかを考えれば、あえて筆者が以上のような論証をせずとも、村上氏が以上の行動に及ぶような精神を持つ人間であることに、異論を唱える者も、疑問を抱く人間もほとんど残っていまい。

このように、村上氏が宗教トラブル相談センターを訪れた人間の個人情報をあまりにも軽率に言いふらしながら、自分に都合の良い形で悪用している事実は、同氏の直近の記事を読んでもすぐに分かる。

たとえば、村上氏の直近の記事では、次のような内容が記されている。

2018年 02月 28日

聖なる法か 世俗の法か 1

TさんはS教会で洗礼を受け、教会員となった。ところが、TさんがS教会に対して閲覧請求をしたとき、S教会は、あなたは客員だから閲覧請求はできない、と言って拒んだ。TさんはS教会の礼拝に出席を続けてきた。それでも、いつ客員になったかを聞かされていなかった。客員になった年月日を問うがはっきりしない。Tさんはどこの教会からの客員かと聞くと、S教会の宗教法人の下にある外国人教会からの客員であると言う。Tさんは、外国人教会から私たちの教会員ですと言われたことはない。S教会と外国人教会の間では話し合いはなく、文書による通知もない。もし、個人の籍が勝手に他に移っていたら大変な問題である。ところがS教会では重大な問題であるとの認識がない。

2018年 02月 28日

聖なる法か 世俗の法か 2

  一般社会では、不当解雇にあった人が地位保全の裁判をして、不当な処分によって失った地位の回復と利益を取り戻すために損害賠償を請求することがある。Tさんは教会の中で何ができるか。客員決定の日時と理由を、牧師の話ではなく、役員会議事録にどのような理由で客員となったかを確認するために閲覧請求ができる。教会員であっても、外国人教会の教会員であっても、同じ宗教法人の下で教会員である。それを拒むなら、閲覧請求のために裁判所に提訴できる。役員会議事録に明確な理由なしに客員となっていた場合は、不当とみなし、教会員に復帰する提案を教会に提出することができる。もし、役員会議事録を閲覧して、教会員から客員になった記述がない場合は、教会はTさんに対して謝罪と教会員に対して公の場で謝罪をしなければならない。今後、二度と同じことが起きないように気を付け、再発防止策を講じなければならない。この場合、一般社会における不当解雇による賃金未払い分を損害請求するように、教会に対して損害賠償を請求することはできない。そこに賃金の損害が発生していないからである。被ったのは精神的なダメージである。何の知らせもなく、一方的に教会員から客員に籍を移動され、教会員の当然の権利(閲覧請求)を奪われた。権利の侵害である。となれば、民事で精神的な慰謝料請求の道も開けてくる。教会を正すために法の力を借りることは避けがちであるが、自浄作用がなければ裁判も視野に入れる必要がある。


 

未だにこんな記事を書いているとは、愚かなことである。そもそも事件が解決もしていない先から、村上氏が、こんな形で、自分のもとを訪れた信徒の相談内容を公表していること自体が、すでに信徒のプライバシーの重大な侵害であり、守秘義務違反であると言えよう。これがすべて実名であれば、それこそ、信徒からも教会側からも名誉棄損やプライバシーの侵害と言われて訴えを起こされる可能性がある。

(翻って、牧師や教会のしていることは、それが公の活動である限り、批判を受けたからと言って、牧師が信徒を名誉棄損で訴えることはできない。もしも牧師が信徒を訴訟の場に引き出せば、その時点で、その教会は終わりである。そんな恐ろしい牧師や教会のもとにやって来る信徒は誰もいなくなるからである。)

牧師が職務上、信徒から受けた相談内容は、たとえ匿名であっても、絶対に口外してはならないことは、あまりにも当然の配慮であることが、この人にはまるで分かっていない。信徒から了承を得たとしても、事件が解決するまでの間、黙秘することは当然である。(訴訟を通じて解決を目指せば、事件が解決した後では、もっと口外できなくなる可能性が高い。)

村上氏は、こうした記事内容からも、受けた相談を秘匿する義務を自分が不当に踏みにじっている自覚がなく、同氏は相談内容を簡単に外へ漏らす点で、ただ口の軽さに定評があるというよりも、教会を冒涜し、非難するための言葉をひっきりなしに吐かずにいられない精神の持ち主であるがゆえに、こうした記事を書いていることを自ら露呈しているも同然である。

このところ、筆者は、同氏の記事内容が、以前に比べても、格段に劣化したような気がしているのだが、以上の記事で、村上氏が不当解雇を撤回させるための裁判と、信徒が客員にされたことの不服を並べて論じているのも、甚だしい筋違いであると思う。

以上の記事で、村上氏は相談者の信徒が正会員として扱われず、知らぬ間に客員とされていたという事実を、何か特別に不当な措置であり、教会側の暗黙の悪意による差別であるかのように決めつけているが、それ自体が、あまりにも行き過ぎた思い込みであると言えよう。

この記事では、信徒が当初は正会員であったのに、いつの間にか客員にされていたのか、そもそも初めから正会員でなかったのかも、よく分からない。

だが、そもそも教会籍という制度自体が、日本の教会独自のシステムであり、多くの諸外国の教会では、教会籍自体が存在しないことが大半である。そこで、たとえ日本国内の宗教法人の傘下であっても、外国人教会には、日本的な風習を当然のごとく要求して、教会籍の所在を明らかにするよう求められない場合があるということを、村上氏は記事の中で全く考慮していない。そのことは、悪意によるものではなく、文化の違いから来る習慣である可能性がある。

通常、牧師は他教会に通っていたことがある信徒から、自分の教会に所属したいとの申し出があった際、その信徒が、他教会に籍を置いているかどうか、照会を行うはずである。だが、外国人教会が相手では、問い合わせに明白な回答があるかどうかも分からない。回答がなければ、他教会に籍を置いているかどうかさえ、はっきりしないため、二重籍が生まれることを防ぐ目的で、あえて客員にしておくなどの安全策を取ることもあるかも知れない。

それは医者の世界でも、紹介状がないのに、他の医者にかかっていたことが明白な患者を受け入れようとしないのと同じである。

もしその信者が、初めは正会員であったのに、途中から客員になっていたとしても、本来、信徒は自分の所属している母教会の礼拝を日曜ごとに守る義務があるはずだ。プロテスタントの多くの教会では、正会員になる際、信徒がその教会に対して負うべき義務について、誓約書を書かされている。

そこで、一旦正会員となった信徒でも、その後、明らかに他教会の礼拝に出席しているなどのことが発覚した場合には(それが正会員になる際に信徒が署名した誓約に違反する行為である可能性もある)、それを理由として、正会員から客員会員に移されたとしても全く不思議ではない。

(しかも、上記の記事では、信徒が見も知らない外国人教会に勝手に籍を移されていたという記述はないため、実際にその信徒は、外国人教会を自ら訪れた事実があるものと想定される。)

筆者は、牧師同士の気遣い、教会同士の気遣いを必要とする日本の教会籍制度自体が、信徒の移動の自由を妨げるもので、あるべきでないものであると考えているが、そうした考えはさて置き、教会同士が互いに信徒を奪い合ったり、領分を犯し合ったと言われないための当然の配慮として、教会籍の所在(もしくは所属教会)が不明の信徒は、正会員として受けれず、客員として扱うことがあったとしても、それは不当な措置とは言えないものと思う。それは差別ではなく、むしろ、以上のような慣習のもとで、他教会や信徒への配慮に基づいて取られた措置である可能性がある。

しかし、村上氏の記事では、そうした詳しい事実関係の確認や、文化や風習の違いから来る意志不疎通の問題、さらには、その信徒自身に、正会員としての義務を怠る行動があったのではないか、などのことが全く考慮されておらず、ただ「こんなに長いこと教会に通っていたのに、いつの間にか正会員として扱われなくなっていなかったことが分かり、籍を移したこともない教会に籍があるかのように言われて、客員にされていたことが悔しい」という相談者の感情だけを中心として、話が進められ、その悔しさを晴らすために民事訴訟による損害賠償請求まで行ってはどうかと言語道断な提案がされているのである。

しかも、どういうわけか、それが不当解雇された社員が労働審判(裁判)で地位を取り戻す話に重ねられている。全く根拠のない論理の飛躍である。

こういう論理の飛躍は、村上氏の思い込みによるものだけでなく、同氏に実社会での経験がほとんどないことから来ているとも言えよう。

不当解雇が撤回されうるのは、条件明示した労働契約がきちんと労使双方の同意によって結ばれていたにも関わらず、社員が不当な理由で解雇されることにより、契約が履行されなかった場合である。

ブラック企業などでは、いつでも証拠を残さず自由に労働者のクビを切りたいがゆえに、故意に(違法に)労働者を雇い入れたことを示す労働契約書を労働者に渡さないなどの不当な措置を取ることがある。

そういうケースでは、ハローワークの紹介状や、ホームページに掲載された求人募集要項等、何か一つでも、労働条件を明示する具体的な書面があれば良いが、何一つとして労働契約があった事実を裏づける証拠が無い場合、そのような裁判は非常に難しいものとなる。

明示された労働契約書の効果は、このように絶大なのである。

上記の教会の例はそれとは全く異なる。なぜなら、教会と信者との間では、その信者を正会員にするという契約が結ばれた確たる証拠がないからだ。もしくは、当初は正会員であり、何らかの契約締結がなされらのだとしても、どういう条件でその信徒が正会員の資格を得たのか分からず、信徒の側で資格要件が満たされ続けたのかどうかも不明である。

途中から正会員でなくなったのがおかしいというのであれば、信徒は正会員としての資格を失う行為(たとえば他教会の礼拝に通う等)を行っていた可能性もある。正会員としての資格を満たしていないのであれば、教会にはその信者を正会員にしておかななければならない義務がないであろうし、待遇を変更した際、必ずしも、その信徒に通知しなければならない義務が定められていたかどうかも分からない。

仮にその信者が最初は正会員であったが、途中から、他教会にも通っていることが発覚し、その他教会が外国人教会で、籍の問題が不明なままで、文書のやり取りも、話し合いも難しいため、もしかしたら他教会に移籍しているかも知れない可能性を考えて、客員にしたという事情があるような場合、客員にした措置の不当性を問うても、それが認められる見込みはほとんどないだろう。

もちろん、その信者が他の教会を去って多年の年月が過ぎており、完全に一つの教会の礼拝だけを守って毎回出席しており、正会員としてのすべての義務を守っているから、客員であるのは不服で、そろそろまた正会員に戻してくれても当然ではないかと申し出れば、その教会も、その申し出は考慮せざるを得ないであろう。だが、そのことと、知らぬ間に客員にされていたことや、その理由が不明であるため、正会員としての権利を奪われたこと自体が許せないとして、いきなり教会に民事訴訟をふっかけることは全く訳が違う。

さらに、以上の記事では、客員であることが、あたかも正会員より劣った待遇であるかのように思わせる記述がなされているが、実際には、客員は、正会員よりも義務が少ないはずだ。権利も少ないかも知れないが、義務も少ないことによって、多くのしがらみから解放されて、恩恵を享受している。

それは昨今、正社員になるよりも、非正規雇用のままで働いていた方が、賃金も多く、立場も保証され、残業もなく、リストラもされないと言う場合がよくあるのに似ている。多くの職場では、正社員の方が、非正規雇用よりも圧倒的に劣悪な条件で働かされており、賃金さえも、非正規雇用の方が、正規雇用を圧倒的に上回っているような場合もあるのだ。そして、有期雇用契約を中途解除することには法的に多くの制限があるため、場合によっては、正社員の方が非正規雇用者よりももっと容易にリストラされる危険に直面している場合もある。

このように、一概に、非正規雇用だから、正規雇用に比べて、不当に扱われているといった主張が、必ずしも成り立たない場合があるのだ。

それと同様に、客員のままでいることには、それなりのメリットもあり、他教会へ通う自由も、客員ならではのものかも知れない。そのためにあえて正会員にならない信者もいる。現に我が親族もそうであった。(我が親族はもともと転勤ゆえに遠方となり通えなくなった他教団の信徒であり続けるために客員のままだったのである。)

そこで、信者が気づかないうちに客員にされていたというだけで、精神的苦痛をこうむったと訴えても、その訴えが聞き入れられる可能性は極めて低いと言わざるを得ない。会員認証の手続きがきちんと教会規則にのっとったものでありさえすれば、入信時もしくは客員への変更時に説明が不十分だった程度の多少の注意はあるかも知れないが、その瑕疵は信者が裁判で損害賠償まで請求するほどの筋合いのものではない。

「何の知らせもなく、一方的に教会員から客員に籍を移動され、教会員の当然の権利(閲覧請求)を奪われた。権利の侵害である。となれば、民事で精神的な慰謝料請求の道も開けてくる。」

と村上氏は決めつけるが、そもそも教会には信徒に知らせず一方的に客員に籍を移す権限がないのかどうかという点も重大な争点である。その信徒のケースでなくとも、ずっと礼拝に来なくなったような信徒を正会員から除外する手続きは、その信徒に知らせなくとも、教会の一存で行えるはずだ。同様に、正会員から客員に移す際にも、必ずしもその信徒に知らせてからでなくては変更手続きが行えないという規則は、おそらくほとんどの教会にはないと思われる。(なぜなら、教会が信徒と途中から連絡が取れなくなることはよくあることだからである。)

つまり、その教会がその信徒をずっと正会員として受け入れなければならない義務を明示した契約自体が取り交わされておらず、また、教会が自らの一存でその決定を覆してはならないとする規定があるという根拠もなく、不当な理由で教会側が一方的に契約を破ったと言えるだけの根拠もなく、もしくは、信徒の側で正会員であり続けるための資格要件を失っていた可能性さえ想定される以上、その信徒が、正会員の地位を取り返すための(もしくは不明な理由で正会員としての資格を失ったことの精神的苦痛を取り戻すための)裁判にまで及んだところで、取り返せる利益などもとより存在しないも同然である。

仮に信徒が本当に不当な理由で客員にされたことが発覚したとして、信徒がそれによって精神的苦痛を受けたなどと主張してみたところで、実際には、客員の信徒も、正会員とほとんど同じように、礼拝に出席することができ、各種の教会活動を行うことができる現実があり、しかも、上記の記事で、信徒が客員になったことにより不当に奪われたと主張している権利が、閲覧請求権だけである様子を見れば、そんなことを理由に賠償請求に及んでも、その訴えが認められる見込みは極めて薄い。そのような争いは、ただ教会にダメージを与えることだけを目的とする、初めから負けることが分かっている裁判である。

このようにして、勝てる見込みもない裁判に、村上氏がその信者の教会への恨みを煽り立てる形で焚き付けようとしているのは、あまりにも無謀かつ配慮に欠けることであると言える。

村上氏は、このようにして、客観的に事実関係を確かめることもなく、十分な証拠の裏づけもなく、ただ信徒の主観的な感情だけを中心に話を聞いて、信徒が不当に差別されたり、根拠のない扱いを受けたかのように思う気持ちに一方的に同情し、それを理由に、教会とじっくり話し合って対立関係を解消させるどころか、むしろ、ますますその信徒が教会を深く恨んだり、不信感を持つよう仕向け、信徒と教会との間の亀裂を解消不可能なほどに深刻化させていくのである。

こんな風に、村上氏は、クリスチャン同士を仲たがいさせ、争わせるような活動にばかり従事して、問題を解決させるどころか、よりこじらせることに貢献している。人間の感情にばかり揺さぶられて、冷静に物事を見て、事を荒立てずに、きちんと双方の事情をじっくり考慮した上で、もつれた感情を丁寧に紐解いて、対立感情が沈静化するよう解決を目指すのではなく、まるで連想ゲームのような思いつきで根拠もない話をどんどん進めながら、信徒がますます教会の敵となり、見込みのない絶望的なアクションに出て、人生を失うよう仕向けているのである。

このような村上氏の理屈はもう完全に破綻している。鳴尾教会の裁判で負けて以後、村上氏にはこの世の法も味方していない。そのことは、本人が分かっていないだけで、その論理破綻は周りにはもうずっと前から客観的に明らかである。

村上氏がやっていることは、他人の恨みつらみにかこつけて、自分の心の中にある他教会への憎しみを表明し、他教会にけちをつけ、他教会に打撃を与える機会を得るべく、信徒を焚き付けて教会に対する裁判に及ばせることだけである。

しかし、その裁判さえ、勝てる見込みのないものであれば、同氏の述べていることは、聖なる法にも、この世の法にもそぐわないデタラメばかりということになる。
 
村上氏も、S氏も、自分たちの理屈がまるで社会の理屈であるかのように思い込み、自分たちは取り払われるべき闇を暴いているかのように思い込んでいるが、事実は全くそうではない。(闇を払っているのではなく、神聖な領域を冒涜して聖域を犯し、暗闇を持ち込もうとしているのが現実である。)

村上氏はせいぜい自分のもとへ相談に来た信徒から、個人情報の漏洩、守秘義務違反、プライバシー侵害で訴えられるくらいが関の山である。そもそも信徒から受けた相談内容を、事件が解決してもいないうちに公然と言いふらして自らの手柄のように吹聴し、教会を断罪する材料として誇示している時点で、牧師失格である。

こんな牧師に教会を訴える資格などあろうはずもない。これ以上、教会がこんな世迷いごとにより争いの矢面に立たされることがないよう、村上氏に誹謗中傷された同僚の牧師や信徒は、同氏に対して速やかに必要な法的措置を取ることを強くお勧めする。

「聖なる法」も「世俗の法」もどちらも踏みにじる牧師は、牧師の名に値しない。同氏は自分が他の牧師を裁いて来たのだから、自分も同じ基準で容赦なく裁かれるのは仕方がないであろう。

さて、村上密氏については、yahoo!知恵袋でも、以下のような質問が投稿されている。



悪質!! アッセンブリー京都教会、村上密牧師について教えてください。

2014/8/1414:42:25

私の友達が京都にある宗教トラブル相談センターという所に相談に行きました。
しかし、相談初日に、そこの村上密牧師から、探偵を使って相手を裁判をしかけるように薦められ、彼女が戸惑うと、今度は、相手の実名を村上牧師のブログにあげて卑下に誹謗中傷してよいか聞いてきたそうです。彼が言うにはそこで相手を冒涜することにより罰を与えることが出来ると言われたそうです。この話を聞いたとき、牧師も欲にまみれた新聞記者きどりのたあの人間なんだなと思いました。最後の別れ際には、この牧師から口止めと、この教会への入信を言われたそうです。私の友達は今うつ病と闘い精神病院に通っています。最悪の気持ちです。
このアッセンブリー教会と村上密牧師について教えてください。

この質問内容は、投稿された当初は、相手にされていなかったようである。何しろあまりにも無名の人物が、前後関係もないまま、ありふれた掲示板に投稿したものなので、誰もその信憑性を判断する手がかりがなかったのだ。だが、それから何年も経って、こうした無名の人間から発せられる些細な言葉の中にも、重大な真実が込められていたことが、今や多くの人の目に明らかとなっている。

村上氏が被害者に「裁判をしかけるよう薦め」たという記述は、以上の記事と合わせても、内容的に一致するので、真実であると思われる。「探偵を使って」というのは、裁判をしたいのであれば、住所氏名等の相手方の個人情報を入手しなければならないせいであろう。だが、以上の投稿の中で、筆者が最も核心に迫る指摘であると思うのは、次の部分である。

「相手の実名を村上牧師のブログにあげて誹謗中傷してよいか聞いてきたそうです。彼が言うにはそこで相手を冒涜することにより罰を与えることが出来ると言われたそうです。」

この投稿を読んだ時、筆者にはようやくはっきりと合点がいった。村上密氏のみならず、同氏の率いるカルト被害者救済活動を支持するS氏のような者たちが、ひっきりなしにブログで教会やクリスチャンに対する誹謗中傷の言葉を浴びせていたのは、悪霊に由来する教会とクリスチャンに対する「冒涜」であり「呪い」だったのだと。
 
彼らは筆者が「カルト被害者を冒涜した」などという言葉で、筆者を非難していたが、実際には、事実は全くさかさまで、彼らこそ、クリスチャンおよび神の教会を「冒涜」することで、聖書の神の聖なる御名を冒涜し、穢し、呪っていたのである。

繰り返すが、彼らはクリスチャンを罪に定めて「罰を加える」ために、冒涜し呪っていたのだということがはっきりと分かったのである。これでは自分のもとに相談に来た人間から金を取って、呪いの祈祷を捧げる異教のシャーマンと何が違うというのであろうか。

牧師を名乗っている人間が、神の教会およびクリスチャン全体を呪い、冒涜することを自らの職業としているなど、想像を超えるほどに恐ろしい事態である。

村上氏については以下のような指摘もある。

沖縄県のみなさま、沖縄県知事選での自民公明党の敗北おめでとうございま~す。次の総選挙も頑張りましょう。  その他キリスト教界で有名になっていたアガック竹内一雄事件(準強姦、借金で虚偽提訴された人物)の真実とこの民事裁判でアッセンブリーズオブゴット教団の村上 密牧師が使った汚い手段 から部分的に抜粋

現在北見市に在住(?かな、わからないけど)のアガック竹内一雄による準強姦事件(刑事ではなく民事ね)のこと。

興味ない人はスルーして下さいな。

今から3年半ほど前に、アガック竹内一雄事件というものがキリスト教界で有名になっていた(刑事事件ではない)。

このアガック竹内一雄という人物は、キリスト教界の中では異端とされているペンテコステ(聖霊派)のカリスマ派の牧師(キリスト教系新興宗教)。
この竹内一雄が運営するキリスト教会に一人の女性(子持ち)が集うようになった(最初はカウンセリング 家庭の悩み事の相談だったようだが)。
後にこの女性信者と竹内一雄は恋愛関係に、そしてその女性は竹内一雄の婚約者となるも最終的には女性関係でもめ(浮気だったようだが)、竹内一雄はこの元婚約者だった女性信者から民事で訴えられた、ざっとこんな内容だ。

しかし、その訴状自体が笑ってしまうものだった。

その女性信者は竹内一雄と婚約までしていながら、竹内一雄を準強姦で提訴(裁判官らが事実認定するワケがない)。
おまけに、原告女性が竹内一雄に貢いだお金(全額だったかは不明だが)は、貸したお金だった、として返還要求。
しかし、私の調べでは(友人、知人に聞き込んだ)原告女性は「道で大金を拾ったから(竹内一雄の)通帳に振り込んでおくね」と竹内一雄にお金を渡した内容のメールを送信していた。
案の定、そのメール内容が竹内一雄から裁判所に証拠として提出されたのだ、勝てるワケがない。

ということで一審は原告の敗訴、まあ当然でしょう。

まあ、こんな話はたまに起きるであろう怨恨話だと思うが(私の周囲には嘘までついて提訴するような人間はいないが)。

この馬鹿らしい怨恨訴訟でなにが一番解せないか、というと
この原告女性を支援していたアッセンブリーズオブゴット(略してAG)教団の有名らしい(私は知らなかったが)村上 密氏という牧師がやったことがクズすぎて解せないのだ。

村上 密氏はろくに事実関係を調べもせず、この元婚約者である女性信者の言っていることを鵜呑みにし裁判支援(北海道のテレビにまで出て嘘をばら蒔いたのだ)。
その他、この元婚約者である女性信者の訴えが事実かどうかも確認しないまま、竹内一雄を準強姦の犯罪者扱いをした上、借金を踏み倒した悪人としてブログで記事にしネットで拡散(自分だけではなく大勢の信者を使ってブログの記事させてニセ情報を拡散させていた)。

そして、しまいにAERAという雑誌にまでこの嘘記事を書かせている。

そして、裁判が終わった後もこの牧師(村上 密氏)の悪事は現在も続いている。

民事裁判にて、元婚約者である女性信者の訴え(準強姦及び貸金)が事実ではなかったことがはっきりしたにも関わらず、過去に流した嘘記事を訂正も削除もせず(勿論謝罪もしていないだろう)ずっと流し続けているのだ。

誤解があると困るので書いておくが、私は竹内一雄を擁護しているわけではない。
むしろ、絶対に近づいてはならない人物として色んな人に警告していた側なのだ。

しかし、虚偽の訴えで人を裁いているような人間には我慢がならない、非常に不快なのだ。

だから、絶対に真実を書いておこうと思っていた。


筆者は以上の事件には関係していないので、詳細な事実関係に立ち入ることはしないが、他の知っている限りのあらゆる事件に関する情報を合わせても、村上密氏が、被害者を名乗る人物の訴えだけを一方的に鵜呑みにして、教会で起きた不祥事をを針小棒大に書き立て、間違いを犯した(とされる)クリスチャンを「極端に危険人物化」しながら、自らの「思い込み」や「創作」によって巨大な悪役の像を作り上げ、自分はそれをやっつける正義の味方のように振る舞い、世間の評価を得ようとして来たことは事実であるものと思う。

そして、そうした村上氏の「創作物語」(妄想と呼んで良い)が虚偽であったことが後になって判明しても、同氏はいささかも記事を削除せず、訂正しようともせず、鬼の首でも取ったように得意げに誤った情報を自分のブログ等に掲載し続けていることは、上記の事件に限った話ではない。
 
村上氏にとっては、自分が正義の味方を演じて、クリスチャンと教会を「悪役」としてやっつける材料さえ得られれば、真実などどうでも良いのだろう。その姿勢が、以上の記事からも見えて来る。

同氏は、自らの言葉によって教会への恨みを煽り立てられ、争いに焚き付けられた被害者が、見込みのない裁判で人生を滅ぼし、棒に振ることも、全く意に介さないのである。それだけでなく、被害者を名乗る人々が、やがては教会の敵となり、神の敵にまでなって、永遠の領域でも報いを失うことをまさに本心から願っているのだとしか思えない。

このように虚栄心だけが肥大化し、関係者に対する思いやりや配慮、兄弟姉妹への愛情も、牧師としての福音伝道への使命感も、守秘義務も、何もかも見失って、ただ自分を正義と見せかけることだけがすべてとなった同氏の性格や活動は、通常では、サイコパスと呼ばれるにふさわしいものである。少なくとも、他者の争いを仲裁すると言いながら、事件を解決するどころか、ますます関係が修復不可能になるよう、傷を押し広げ、クリスチャン同士を仲たがいさせて争わせ、溝が埋まる見込みが全くなくなるように仕向ける行動は、牧師の道に完全に外れている。

同氏のブログそれ自体が、教会やクリスチャンに対する「冒涜」や「呪詛」を詰め込んだごみ箱のような存在でしかなくなっている。もはや思い込みだとか、妄想だとか、デタラメな記述などという表現にはおさまりきらない、「神の教会とクリスチャンに対する冒涜と呪詛の集積場」のような有様を呈している。

ごみ箱はいっぱいになれば、焼却場へ持って行かれるだけだ。聖書では、火の池こそ、偽預言者に対する格好の焼却場であると言われている。互いに愛し合うようにと教えられている兄弟姉妹を売り渡し、聖徒らの恥や失敗や争い事を糧にして手柄を得るような活動が、まともな牧師の行う活動であるはずがない。羊を食らうためにやって来た偽預言者である。彼らを焼く煙は、バビロンの焼かれる煙と同じように、いつまでも永遠に立ち上ることであろう。


<追記>

2018年2月に、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師率いるカルト被害者救済活動の中心メンバーの一人である「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久が、当ブログに対する多年に渡る嫌がらせの罪により刑事告訴された。村上と杉本の活動に深い関連性があることについては以下の記事等を参照。

「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久および共犯者が刑事告訴された事実

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