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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

しかし、わたしは主を仰ぎ見、わが救いの神を待つ

主は言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうとする者はそれを失い、わたしのため、また福音のために、自分の命を失う者は、それを救うであろう。人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。

邪悪で罪深いこの時代にあって、わたしとわたしの言葉とを恥じる者に対しては、人の子もまた、父の栄光のうちに聖なる御使たちとともに来るときに、その者を恥じるであろう。」(マルコ8:34-38)


さて、以下のような記事を書くことに決めてから、私の周辺では大きな戦いがありました。率直に言うと、最も身近な人々から最も激しい反対がやってきたのです。私はある姉妹に告げました。

「ソビエト体制下のロシアでは何十年間も、真実を誰も告げることができないような過酷な時代があったのです。そこで、人々は真実を詩や象徴の形に託しました、それらを口にするだけでも危険な時代であったので、印刷することもせず、記憶の中に隠しながら、人に伝えて行ったのです。そんなにも言論が不自由だったにも関わらず、それでも、真実はどうしてか人々の口に上り、その時代に知られ、時代を超えて、現代まで伝わっているのです。ペレストロイカを経て、体制崩壊後、かつては決して出版を許されなかった様々な書物が印刷されて、今日私たちのもとに届いています。所持しているだけでも危険な草稿を、誰がどうやって保存して来たのでしょう? 驚くべき犠牲と情熱だと思いませんか? 真実を命かけてでも求めようとする人々の強烈な願いがあってこそ、そういうことが起こるのですよ。

人にはどんな犠牲を払ってでも真実を追究したいという欲求が本来的に備わっているように思えてなりません。美味しい店を開拓するのにも、私たちはかなりの労力を払いますね。だとすれば、真実を得るためにも、人々が代価を払うのは不思議なことではありません。この世の真実においてすらそうなのであれば、なおのこと、神の永遠の御言葉の真理については、代価を払うのは当たり前なのではありませんか? だから、私はこう信じています、時代がどんなに悪くとも、真理は必ず時代の壁を突き抜けます、身体を殺すことができても、魂を殺すことのできない者を恐れるな、と聖書は言います、私たちは脅かされても、勇気を持って神の真実を伝えることをためらうべきではないのですよ。」

キリスト教界に深く関わっていたその姉妹には、この言葉の意味は伝わらなかったようです。

杉本事件において最も大変だったのは、氏のブログに深く関わって来たがゆえにその影響をまともに受けてしまった身近な兄弟姉妹からの敵対的な反応でした。これほどまでにこの事件を単純率直に振り返るのに時間がかかったのも、いわゆるクリスチャンを名乗っている兄弟姉妹からの圧力があったからに他なりません。それは主としてキリスト教界に深く関わっている人たちでした。

私は横浜へ来て後、一度だけ、キリスト教界に逆戻ろうとしたことがありましたが、その教会で聖職者がクリスチャンにあるまじき生活を送っているのを見て、その教会を離れました。それ以後、二度とキリスト教界には関わっていませんし、もうそこへ戻ることもありません。

しかし、遠方にいる兄弟姉妹の中には、主にエクソダスを止められたと言ってキリスト教界に残っている人たちがおり、つい最近まで、そうした人々との交わりが続いていたのです。が、ついに闇が深くなり、キリスト教界とは、直接的にも、間接的にも、どのような形でも関わることができないときが来たように感じられます。主が彼らを私から取り去られました。

原発の問題を扱ったことのある人ならば、私の言っていることが幾分かお分かりになるでしょう。キリスト教界に関しても、一つの業界全体を覆う暗闇があります。あるところまでは事実を明らかに出来ても、人々はそれ以上のことを、決して知ろうとしません。むしろ、事実であっても、決してそれを見まいと拒否反応を示すのです。それはその事実を見ることと、自分が犯してきた罪と向き合うことが一つにつながっているためです。真実を決して公に知らせたくない、悟らせたくない、見せたくない、という闇の圧力があり、関わっている全ての人がその霊的影響下にいて、罪のゆえに霊的盲目に閉ざされているのです。

それじゃあ、まるで宗教じゃありませんか? と聞き返されるかも知れません。そうです、キリストのまことのいのちに立たず、死んだ行いに立脚しているからこそ、そうなっているのです。

「彼らの場合、この世の神が不信の者たちの思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光の福音の輝きを、見えなくしているのである。」(Ⅱコリント4:4)

キリスト教界はカルト被害者救済活動の登場を許すことによってあまりにも大きな罪を犯してしまいました。カルト被害者救済活動がいくつもの裁判に破れ、事実上、崩壊しかかっており、すでに世間では誰一人この活動に信頼を置かなくなっている今になっても、なお、クリスチャンの世論は、今まで自分たちのして来たことが何であったのか、きちんと直視したくないという思いで目が塞がれています。あまりにも多くの人たちがそれに関わって、神の子供たちを傷つけ、罪にあずかってしまったため、その罪の重さを見ることができないのでしょう。そこで、兄弟たちの証を否定し去り、自分にとって不都合な者たちを一方的に狂信者扱いし、依然として自分は正しいと主張することで、何とかして自分で自分をごまかし、自分たちの犯してきた罪を見まいとしているのです。

しかし、神の裁きが迫って来ていることを感じざるを得ません。依然として、聖書に基づき正しい発言をしている人たちが狂信者扱いされる日々がやや続くかも知れませんし、脅かしもあるでしょうが、カルト被害者救済活動にはもうはっきりと終わりの時が来ているのが分かります。これまでそれに賛同して不義を喜んでいた全ての人々が共に裁かれるでしょう。それを放置して来た(助長して来た)キリスト教界も裁きにあずかるでしょう。裁きは神の家から始められるのです。

「さあ、わが民よ、あなたのへやにはいり、あなたのうしろの戸を閉じて、憤りの過ぎ去るまで、しばらく隠れよ。見よ、主はそのおられる所を出て、地に住む者の不義を罰せられる。」(イザヤ26:20-21)

クリスチャンが全般的に聖書の真理から離れて、キリスト教とは無縁の何か恐ろしい別の宗教に逸れて行く時がすでに来ているように見受けられてなりません。彼らは一見、とても良さそうなフレーズを口にし、一生懸命、御言葉を伝え、善行に励み、神の国を地上にもたらそうと熱心に活動しているのですが、その善行は冷たくて死んでおり、他の宗教で盛んに見て来た伝道風景を彷彿とさせるのです。

私にとって杉本事件そのものよりもさらに厳しかったのは、このように日々善行に励んでいる身近な兄弟姉妹の沈黙であり、また、彼らから不当に責められることだったのです。本当は苦しい時に助けになってくれるはずの兄弟姉妹が、あまりにもひどくその影響を受けてしまったために、どのように冷静に話しても、事実を見ることができなくなっているのです。

ある姉妹は、どんなに理路整然と説明しても、「それは正論だけども、難しすぎて分からない」、「もっと分かるように話しなさい!」と怒り出し、ある姉妹は「再臨も近くて、時間がないのだから、そんな無駄な話は聞きたくない!」と拒否反応を示します。私は子供時代にアッセンブリー教団にいた頃に、家庭内で同じような論争が繰り広げられたのを思い出しました。キリスト教界の歪められた信仰にすっかり浸かってしまった人々には、どんなに冷静に穏やかに事実を話し、危険を指摘しても馬耳東風なのです。特に、彼らの信じているものの間違いや、彼らの行動の矛盾を指摘しようとすると、猛烈な怒りに満ちたヒステリックな拒否反応を呼び起こすだけです。

今はキリスト教界のクリスチャンではなく、私にとって身近だった兄弟姉妹の間でまで同じことが起きているのでした。とうに脱出してきたはずのキリスト教界の霊的盲目がこれらのクリスチャンをも覆ってしまい、事実を事実として見させなくしてしまっているのです。どんな論理的に筋道を立てた論証も、一切がこの人々には無駄に終わります。

かつては十字架の真理に明確に目が開かれ、宗教的欺瞞からも解放され、どんな枠組みをも超えて十字架によって一つに結び付けられていた兄弟姉妹が、再び、分裂し、引き裂かれ、互いに食い合い、かみ合うようになって、以前の暗闇に逆戻って行っているのは悲しいことでした。

しかも、こうした人々の反対は、最近では、偽善という、より分かりにくい巧妙な形になって来ているため、厄介でした。うわべはとても善良で親しげに振舞い、「その口は牛酪よりもなめらかだが、その心には戦いがある。その言葉は油よりもやわらかだが、それは抜いたつるぎである。」(詩篇55:21) 

クリスチャンがクリスチャンでないものに変質しており、以前には開かれていたものが閉ざされていき、急速に闇に覆われているのだと思わざるを得ません。やはり、キリスト教界を覆う闇はあまりに深いのだろうと思わざるを得ません。

私がずっとこのところ心に示されていた御言葉は、以下に記すミカ書の第七章です。

「わざわいなるかな、
 わたしは夏のくだものを集める時のように、
 ぶどうの収穫の残りを集める時のようになった。
 食らうべきぶどうはなく、
 わが心の好む初なりのいちじくもない。

 神を敬う人は地に絶え、人のうちに正しい者はない。
 みな血を流そうと待ち伏せし、
 おのおの網をもってその兄弟を捕らえる。
 両手は悪い事をしようと努めてやまない。
 つかさと裁判官はまいないを求め、
 大いなる人はその心の悪い欲望を言いあらわし、 
 こうして彼らはその悪を仕組む。
 彼らの最もよいものもいばらのごとく、
 最も正しい者もいばらのいけがきのようだ。 
 
 彼らの見張びとの日、
 すなわち彼らの刑罰の日が来る。
 いまや彼らの混乱が近い。
 
 あなたがたは隣り人を信じてはならない。
 友人をたのんではならない。
 あなたのふところに寝る者にも、
 あなたの口の戸を守れ。
 むすこは父をいやしめ、
 娘はその母にそむき、
 嫁はそのしゅうとめにそむく。
 人の敵はその家の者である。

 しかし、わたしは主を仰ぎ見、
 わが救の神を待つ。 
 わが神はわたしの願いを聞かれる。」(ミカ第七章)


本当に、神の家に対する裁きが始まったという実感を持つのです。キリスト教界には、兄弟同士が憎み合い、裏切り、売り渡すような、恐るべき混乱の時がすでにやって来ているのです。

「民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに、ききんが起り、地震があるであろう。しかし、すべてこれらは産みの苦しみの初めである。そのとき人々は、あなたがたを苦しみにあわせ、また殺すであろう。またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての民に憎まれるであろう。そのとき、多くの人がつまずき、また互に裏切り、憎み合うであろう。また多くのにせ預言者が起って、多くの人を惑わすであろう。また不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」(マタイ24:7-13)

終わりの時代には、愛が冷えて、多くの人が(神に、信仰に)つまずくこと、しかも兄弟同士が互いに裏切り、互いを憎み合って、互いを売り渡すことが明確に書かれています。このような時代の兆候をすでに私たちは目の前に事実として見ており、私たちはその苦しみにあずかっています。カルト被害者救済活動のような運動のせいで、たった数年間のうちに、どれほどの暗闇がクリスチャンを覆ったことでしょう。この運動がどれほどクリスチャンを引き裂き、教会に打撃をもたらしたでしょう。しかし、そのことさえも、主イエスの御言葉の中で受け止められるのです。

「地上に平和をもたらすために、わたしが来たと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。わたしがきたのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためである。そして家の者が、その人の敵となるであろう。わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。また自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない。」(マタイ10:34-38)

主は私たちの心のうちを試しておられます。家の者が、その人の敵となるであろう、という主イエスの言葉は、前述のミカ書の言葉と互いに響き合っています。これは信仰者の家庭の分裂を指しているだけでなく、何よりも、神の家の分裂を指していると思われます。神の家の中で恐ろしい分裂と敵対が起こること、その中で地上的な愛を優先する者が、神の愛から離れていくことを指しています。

この敵対は、神ご自身が許されて起こることであり、神が私たちの心を明らかにするために用意されたものですが、これは私たちクリスチャンがとても大きな内面的な試練に遭遇することを意味します。もしかしたら、十字架を取って主に従うとき、自分の魂の愛する者はみんな離れて行ってしまうかも知れません。

「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうとする者はそれを失い、わたしのため、また福音のために、自分の命を失う者は、それを救うであろう。」

それでも、主の中に、信仰の中に自分の命を手放し、私たちの命を全て主に信頼して預けてしまうことがこそ、私たちが自分の命を得るための最善の道です。真実に神を愛する者は、神の中に隠されて、過ぎ越しの時を迎えています。ですから、我が身を案ずる必要はありません。神の裁きが脅威になりうるのは、一度も、死んだことのない者に対してだけです。主の御怒りは、子羊の血潮の下にいない者、十字架の死の下にいない者に対して下り、聖書に書かれている通り、私は死んだ者であって、私のいのちはキリストと共に神の内に隠されています。

今、虚偽の友愛による全世界の一致という運動が地平線上に姿を現し始めている時だからこそ、逆説的に、神の家の分裂が、私たちの目の前に現実となって現れているのかも知れません。神によらずに人間が作り出そうとする連帯、融和、一致というものの忌まわしさを知らない大勢の人々がこの偽りの一致に魅了され、とりこにされていこうとしている今だからこそ、神はあえて私たちの愛をふるいにかけ、信仰者を荒野において神の御前の単独者として訓練し、孤独や迫害を耐え抜いてでも、真理に立つ人々を用意しておられるのではないかと思います。

今の時代の教会をめぐる苦難は、初代教会の見舞われた苦難によく似ている、と言った兄弟がいます。「わたしが去った後、狂暴なおおかみが、あなたがたの中にはいり込んできて、容赦なく群れを荒すようになることを、わたしは知っている。」(使徒20:29)とパウロが言ったのとほぼ同じ状況を私たちは見ることができます。

神の教会がこれほどの試練に見舞われたのは驚きに値するのです。しかし、いずれにせよ、キリスト者の人生はただ神ご自身だけへと身を避けるための絶え間ないエクソダスの連続です。地上の宝を当てにする代わりに、ただ神ご自身だけを頼るために、私たちはますます神の懐へと自然に追いやられていき、「…最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」という言葉通り、ただ主だけを仰ぎ見て、まだ見ぬ天のふるさとを目指して歩いているのです。

誤解、偏見、対立、孤立、脱出…、このような閉じ込めは、主が嵐のような数々の出来事から私たちを守って下さるために築いた防波堤でもあります。そこで主は豊かな霊的な糧と安息をお与えになって、一人ひとりを養って下さいます。ですから私たちは限りなく主の御腕の中にエクソダスしていくのです。

「しかし、わたしは主を仰ぎ見、わが救の神を待つ。わが神はわたしの願いを聞かれる。」

私の大好きな御言葉です。

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自分を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである。」(ヘブル11:6)
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