忍者ブログ

私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

十字架の死と復活の原則ー地に安住せず、さらにすぐれた故郷、天の故郷だけを目指して歩むー

「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。

 彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。
 もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。

 しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥とはなさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。」(ヘブル11:5-16)


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

"
人は「キリストに似て非なる あるセンター」を持ちたがります。
先ずは ある人間を中心とする「自分達のワンセット」をある場所に固定し 
その上に安定的で堅固なものを建て上げようとします

即ち人にある宗教性には ある時間と場所を定め そこに「立派な礼拝」を
構築したいとする強い願望があるのです。

更に言えば そこには
「神への礼拝」を獲得した上で 
この地上に自分達を根付かせ自分達の名を高く掲げたいと言う
人本来の宗教本能が働いているのです。


その達成の時には あの「大バビロンと言う名の女」は安心し誇って
言うでしょう、私は乏しい「やもめ」ではない、
拠り所がある 安定があると。

<中略>

これこそが、全聖書が首尾一貫糾弾するバベルでありバビロンなのです。
そして現代 全世界のキリスト教宗教はかつて無かったほどの
「大いなるバビロン」構築に向かってまい進していると言ってよいでしょう

そこにあるのは 神の言葉・黙示録が再三にわたって警告する

地に住む」(原文では「地に座る」)と言う
人の奥底に居座る根深い願望なのです。
それは今この瞬間でさえ私達の心にも存在し得るのです。




教会はただ「迫害の中、ゆくえ知れない旅のさなかに」初めて

出現するのです。あなたが死に向かう その途上にのみ現れるのです。
教会がこの地に居座ることなどありません。
教会に安定や固定などあり得ないのです。私達は単に 寄る辺無き 
何も持たない「やもめ」でなければならないのです。

「わが民よ、この女から離れなさい。」(黙18の4)
「あなた方はシオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、
無数の御使い達の大祝会に近づいているのです。」(ヘブル12の22) "

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。」(マタイ24:37-39)

「それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。
 汚れたものに触れないようにせよ。
 そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
 わたしはあなたがたの父となり、
 あなたがたはわたしの息子、娘となる、
 と全能の主が言われる。」(Ⅱコリント6:17-18)


わたしの民がわたしに聞き従い、

 イスラエルがわたしの道に歩む者であったなら
 わたしはたちどころに彼らの敵を屈服させ
 彼らを苦しめる者の上に手を返すであろうに。

 主を憎む者が主に屈服し
 この運命が永劫に続くように。
 主は民を最良の小麦で養ってくださる。

 「わたしは岩から蜜を滴らせて
 あなたがたを飽かせるだろう。」(詩編81:14-17)

「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)

一つ前の記事で書いたことを訂正する必要がある。筆者はこの土地から筆者を追い払おうとする暗闇の勢力による激しい妨害と戦って、自分と住まいを守り通した、という趣旨のことを書いたが、そうした事柄は、勝利として宣言するには甚だ不十分であったことが判明したのである。

前にも書いた通り、クリスチャンにはこの世にあって様々な圧迫が押し寄せて来る時があり、そのほとんどは暗闇の勢力から来るものであるが、信者はこうした悪魔の妨害から、ただそれに立ち向かって、持っているものを信仰によって守り通しただけでは、獲得物はゼロでしかなく、勝利とは言えない。天の褒賞を手にして、ゼロからプラスに生活を拡張して、初めて勝利があったと言える。 

以前にも、「栄光から栄光へ、主の似姿に変えられて行く」とは、どのようなことであるか、という記事でも触れたが、キリスト者に苦難が与えられる時には、必ず、それに相応する天の慰めが待ち構えている。これは変わらない霊的法則性である。試練を信仰によって耐え抜き、戦い通せば、天の褒美が待っている。

だが、その褒賞を掴むには、特に揺るぎない信仰が要る。激しい戦いの最中に疲労困憊してしまったり、失意落胆して、希望を失ったりせず、平静でなければならず、必ず、神はご自分により頼む者を失望に終わらせず、天に褒美を備えて下さるという確信が必要であるが、それに加えて、激しい戦いが決着する時、決してその戦いの激しさだけに気を取られたり、決着したことだけで満足したりもせず、さらなる前進や飛躍に向かって、すぐに大胆に一歩を踏み出す信仰が要るのだ。

なぜなら、キリスト者に与えられる苦難とセットになって来る天の褒賞とは、多くの場合、現実生活において、信者が新たな前進や飛躍を遂げることのできる何かしらの稀有なチャンスとなって現れることが少なくないからだ。いわば、真っ暗闇のトンネルを通過するような激しい苦難の直後に、思っても見ない輝かしいチャンスが訪れるのである。

このようにして準備された天の褒賞に確固として到達しないことには、本当の意味で、信者の霊的な戦いは終わったとは言えず、ただ現状を守り通しただけでは、何も成果がないのと同然なのである。

それどころか、信者が天の褒賞を掴まないで、ただ現状を守り通しただけ満足してしまうと、神の守りから逸れてしまう危険性さえある。

特に、キリスト者の地上の住まいについては、特別な誘惑が伴うので、要注意である。クリスチャンが地上の住まいに固執することは、彼が地に安住してしまう危険性を常に伴うからである。もっとも、住まいに限らず、信者にはどんな事柄についても、自己満足したり、定住、定着、安住しようとする願望が、前進を妨げる大きな障害物となることに注意が必要である。

だが、筆者はここで、クリスチャンが地上の住まいを手放してホームレスになるべきだとか、すべての財産を文字通り捨てて無産階級になるべきだなどということを言っているのではない。そうではなく、神は常に信者が地上生活を送るために必要なすべてを供給して下さるのであり、信者はそれを享受して良く、当然、その中には住まいも含まれているのだが、信者はどんなものが信仰によって与えられても、決して地上的な利益に満足してその状態に定着・安住してはいけないし、それらに執着すべきでもなく、地上で与えられている状態が、過渡的で、不完全なものでしかないことを常に自覚して、地上においてさえ、常に今以上にまさったものを神が備えて下さっていることを信じて前進を続け、最終的には、天の都に到達することを目指さなければならない、と言いたいのである。(地上において決して現状に満足することなく、むしろ、現状に満足することを否んでさらに優れたものを求めて、たゆみなく前進し続けることは、天の都への行路と重なる。)

この点で、現在、オリーブ園にオースチン-スパークスの興味深い記事が連載されているが(末尾にも少し引用する)、そこにも、キリスト者が決して地的なものに巻き込まれることなく、天的な住まいに向かって歩み続けることの重要性が示されている。

キリスト者の前進は、こうして常に天の住まいを理想として、これを目指しながら、それに満たない地上の住まいを不完全なものとして拒み、前進し続ける時にのみ起きる。もし信者が地的なものを見てそれに満足し、そこに安住を企て始めると、たちまち霊的な前進はやみ、天の褒賞もなくなり、神はその事業から手を引かれるのである。
 
このような「地に定住する誘惑」は、信者の住んでいる地上の家が、快適からほど遠く、狭苦しく、貧相で、自慢もできない、あばら家に過ぎない時には、あまり大きなものとはならない。信者は自分の生活が不便であるうちは、早くそこを出て、もっと良い住処に行きたいと願い続け、その願いに天の住まいを重ねるので、地に定住しようなどという気にはならない。

しかし、信者の住んでいる家がそこそこ快適な住処になり、自分でも満足し、人に自慢もできるようなものになって来る時、信者がさらにまさったものを願い続けることをやめて、そこに安住してしまう危険性がただちに生じる。

「信仰は望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(ヘブル11:1)

と聖書にあるように、クリスチャンが信仰によって地上生活で得られるものの中には、霊的な糧だけでなく、物質的な糧も含まれる。これまで書いて来たように、信者は、住居であれ、生活の糧であれ、仕事であれ、何であれ、望むものを、ただ主にあって、御言葉に基づき、信仰により地上にリアリティとして引き出し、獲得することができるのである。

だが、今、すでに目に見えているものに満足する心には、信仰は必要ない。もし今、信者が手にしているものに満足し、見ている風景に満足し、さらにまさったものを神に求めることをやめてしまえば、その時、信者はもはや目に見えるものによって歩んでいるのであって、見えないもの(信仰)によって歩んでいるのではないのである。信者の心は、地上の目に見えている物質や、よく見知った光景に束縛され、それに執着し、神はその状態をどうご覧になるのか、神はそのような中途半端なスケールでは決して満足されることはなく、それをゴールだとも思っておられず、信者にもっともっと遠くまで前進するよう望んでおられ、今見ている風景よりもはるかにまさった都を、実際に信者のために常に用意されているのだという事実を忘れ、否定してしまうのである。

筆者はこれまで幾度もクリスチャンの様々な家庭集会に出席したことがあり、そこで実に立派で麗しい様々な家々を見て来た。そこにある平和で、立派そうな快適な暮らしを見て来た。当時、筆者はそれをまるで自分には手の届かないものを見るように眺め、また、そうした信者たちの中には、小規模な家庭集会を組織することで、初代教会のような、巨大組織を持たない信者の群れを形成しようとし、それが神の御心にかなっているのだと考える信者もいた。

だが、当時の経験に立って、今、筆者が言えることは、筆者は今決して自分で家庭集会を開こうとは思わないし、それが正しいことであるとも思わない、ということだけである。なぜなら、家庭集会というものには、どうしても人間の見栄や競争願望が強く働き、結局、それは自分の暮らしの経済的な規模や、家族の人数などを自慢する場となってしまい、信者たちがいかに地に定着して自分の暮らしに満足しているかをアピールする場になり果ててしまうだけでなく、そこに別な信者を集めることにより、エクレシアを地上に固定化し、別な信者まで「地に住む」者としてしまうという反聖書的・悪魔的な意味合いが強く出てしまうからである。
 
筆者がこの地に来る前にキリスト者たちから聞いた言葉、また、筆者自身が聖書を通して得られる確信は、エクレシアは物理的・地理的制約とは一切関係ないということである。もっと言えば、エクレシアとは、神を信じ、神の子供として受け入れられた信者自身のことであり、地上に固定化された教会の建物とは一切関係なく、また、信者の住んでいる家とも関係ない。
 
にも関わらず、信者が、信仰を口実にして、自分の地上の家に固執し、これを信仰の賜物であるかのように他の信者たちに向かって自慢し、そこに満足して定着し、これを神の神聖な宮のように誇示し始めると、それはたちまち腐敗し、神の御心にかなわないものとなってしまう危険がある。このことは、信者たちが誇る地上の建物としての教会にも全く同じように当てはまる。大規模な礼拝堂を建設することで、信者が神に奉仕できると考えることは全くの誤りだが、信者の地上の家についても同じことが言える。自分の家の経済的規模を誇ることが、神の栄光には全くつながらないのである。
 
もちろん、神は信者の地上生活に必要なものを全て与えられる。そこには家も含まれる。信者は自分が望むことを神に申し上げ、信仰によってそれを実体化すれば良い。より良い家を求めることが悪なわけではない。だが、それは決して、信者が与えられたものに安住し、これを神が目指していた都そのものであるかのように誇るためではない。信者はたとえ地上的な利益が、当初は信仰によって与えられたのだとしても、与えられたものに決して満足することなく、そこに安住もせず、常にさらに先へ進んで行かなければならない。

こうして信仰により、信者が天の報酬を掴みながら、「栄光から栄光へと」、さらに優れた都を目指し、それに近づきながら歩み続けることは、たやすいことではない。その前進の最も大きな妨げとなるのが、信者の自己満足、自己安堵である。

信者は、一つの試練を立派に勇敢に耐え抜いても、一つの戦いに勝利しただけで、たちまちそれがゴールだと思ってしまい、それ以上、進んで行くことを考えなくなることもある。戦いの激しさに疲れ、前進したくないと思うこともある。そうなると、神は信者をさらに前進させるために、信者の自己満足を打ち砕くための新たな試練を課し、信者が握りしめているものを容赦なく剥ぎ取ることまで、時にはせざるを得なくなる。

できるならば、そのような深刻な事態にまで至り着く前に、信者は気力を奮い起こして立ち上がり、真に神の御心を満足させる完全・完成へと至り着かないことには、自分自身も決して満足などしないという気概を取り戻し、さらに前進すべく行軍を進めるべきであろう。
 
さて、個人的なことを言えば、今回、筆者が疑念を抱いたのは、横浜という街に住んでいることへの自己満足であった。筆者は横浜に何のこだわりがあるわけでもなく、この街よりも都会に住んでいたこともあれば、もっと田舎暮らしの良さも知っているが、それでも、以前よりも良い住環境を手にした時、この地にとどまって安住してしまう危険が自分に忍び寄っていることに、遅ればせながらようやく気づいたのである。

そして、信者は何か一つの激しい戦いを経て、勝利を得ても、決してそれですべてが終わったなどと思うことなく、(ただちに)生活をさらに拡張すべく、新たな戦いへ出て行くべきであり、霊的前進がないのに、生活の拡張もあり得ないという事実に気づかされたのであった。

筆者はこの地にやって来た時、神が力強く働いて移住を後押してして下さったという確信があったので、それに気を取られるあまり、この地に深く定着することは、全く神の御心にかなうことでなく、そろそろ別な道が用意されているかも知れない、という可能性をすぐには思わなかったのである。

それどころか、住環境がより良くなると、かえって出る必要など全くないかのように思い、この地を出るべき時がひたひたと近づいていることに、随分、鈍感であった。

ところが、よく考えてみれば、このところ、特にこの数年で、筆者は、横浜の街のみならず、首都圏全域が、まるでソドムとゴモラのように腐敗・変質していることを思わざるを得ない。役人は不誠実、横暴・凶悪になり、住人の気質は陰険になり、人々は互いに騙し合い、搾取し合い、殺し合い、首都圏は、表向きのブランドイメージとは似ても似つかない、善良な人間にとっては、空気を吸うだけでも耐えられないような腐敗して、長くはとどまれない街に変わり果てている。
 
横浜という土地にも、深刻な疑念を抱かざるを得ない事件が、ここ最近、連続している。まず、一昨年は「津久井やまゆり園」事件があった。(2016年7月26日、神奈川県相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」が、施設に恨みを持つ元施設職員 の若い男に襲撃され、19人が死亡、27人が重軽傷を負った事件)。そして、昨年は、座間の事件である。(神奈川県座間市の当時27歳の男が住むアパート室内で、若い女性8人 、男性1人の、計9人とみられる複数人の遺体が見つかり、死体遺棄事件として扱われた)。

こうした異常な事件では、どちらの場合にも、この社会で生きることに困難を覚えた社会的弱者たちが、その弱さを利用され、多数、犠牲とされた。後者の事件では、過酷な競争社会を生き抜くことに疲れを感じていた自殺志願者の若者たちの苦しみを足がかりにして、同じ若者世代に属する犯人が、同情的な態度を装いながら、彼らを騙し、歯牙にかけて殺したのである。

さらに、今年になると、新年早々、有名な着付け業者が、横浜の桜木町にあるみなとみらい店で、新成人を騙してサービスを提供せずに夜逃げし、新成人の成人式が大規模に台無しにされる事件が起きた。同様のことが八王子店でも起きたというが、これまで、首都圏でこんな事件が大規模に起きたことはなく、新成人という世代だけがターゲットにされることもなかった。しかも、業者の名前が「はれのひ」というから、皮肉も甚だしく、経営者が特別な反社会的な怨念に基づいて計画的に弱い立場にある者に無差別的な復讐を企てたかのような精神を感じざるを得ない。

だが、こうした事件だけでなく、筆者は日常生活においても、昔であれば、あり得ないような非常識なトラブルをよく見かけるようになった。さらに、西を向いても東を向いても、ブラック企業が蔓延し、それを取り締まる役所も機能停止し、弱い世代が根こそぎ犠牲にされ、食い物にされている。

さらに、このようにして前途ある人々が貧困に陥れられ、結婚もせず、家も買えず、車もなく、それゆえ少子化がますます加速している中で、同性愛者の人権などが公然と叫ばれるようになり、かえって、異性愛者が同性愛者に懺悔を迫られたり、肩身が狭くなる風潮が広がっている。同性愛者の人権を口実に、異性愛者が隅に追いやられたり、弾圧される世の中になりつつあることが感じられるのである。
 
こうした現象には、かつて「自分たちはキリスト教会で傷つけられた被害者だ」と主張するいわゆる「カルト被害者」を名乗る人々が、キリスト教界に登場して来た時、筆者のようなクリスチャンが、彼らの聖書に基づかない、およそクリスチャンらしくない、信仰の欠如した生き方を批判しただけでも、「被害者」を名乗る連中から袋叩きにされる危険に見舞われたのとそっくり同じ構図が見られる。

本来、キリスト教会というところは、聖書の御言葉への信仰を持つ信者によってのみ占められるべきであるのに、そこに、異常な牧師やカウンセラーたちが、「教会のカルト化」を憂慮すると言って、教会でつまずき、傷つけられたとする「カルト被害者」を、「加害者」たる教会が「救済」しなければならない責任があると叫び始め、公然と「被害者」たちをあたかも信者であるかのように教会に招き入れたために、教会が、もはや信者たちの場所ではなくなり、むしろ、教会や信者によって傷つけられたとする、信仰もあるかどうか分からず、さらには教会自体に怨念を持つ人々のたまり場へと変質させられて行ったのである。(その中にはキリスト教と縁がないばかりか、長年、カルトと批判される新興宗教の中にいて、ほとんど無理やり脱会させられただけの他宗教の信者なども数多く含まれていた。)
 
こうして「カルト被害者救済活動」が教会を舞台に公然と繰り広げられた結果、本来、最も教会のメンバーたるにふさわしいはずの正常な信仰を持つクリスチャンが、かえって「加害者」や「悪魔」のレッテルを貼られて、教会から外に追いやられる一方で、信仰の欠片もない「被害者」たちが堂々とまるで「信者」であるがごとくに教会に居残るという転倒した現象さえ、起きたのである。(このようなことは、いわば、教会の本当の信者たちを駆逐して、信仰を持たない人々に総入れ替えするために悪魔的勢力によって行なわれた、教会全体の乗っ取りであったと言えるだろう。)
 
ちょうど同様な現象が、LGBTの人権問題を皮切りに、起きつつあると言えよう。

「自分たちはこれまで差別され、苦しめられ、抑圧されてきた被害者・社会的弱者だ」と名乗る人々が現われ、彼らの存在を利用して、本来、何の問題もなかった正常なはずの人々に「加害者」のレッテルを貼り、罪悪感を抱かせ、追い詰め、これらの人々を駆逐して行くことをきっかけに、正常なものを異常なものによって駆逐し、取り替えようとする動きが出ているのである。

同性愛が、聖書において、神が定められた人間の自然なあり方でないことは繰り返すまでもない。だが、何者かが、同性愛者の「差別され、踏みにじられた人権の救済」を声高に主張することで、同性愛者対異性愛者という対立項をまことしやかに作り出し、同性愛者を異性愛者にぶつけ、両者を戦わせ、異性愛者に「加害者」のレッテルを貼って追い詰めることで、異性愛者を隅に追いやり、ますます異性愛者が生きづらくなり、少子化が加速化するだけの世の中を作っているのである。

その結果として、ついに最後は、結婚のイメージや、夫婦のイメージ、家族のイメージまでもが塗り替えられることであろう。同性同士の結婚が当たり前になり、チャペルは連日、同性愛者の結婚式を扱うようになる一方で、異性愛者は、彼らを差別し排除して来た「罪ある抑圧階級」として、うなだれて、隅に追いやられることになりかねない。

暗闇の勢力の真の目的は、社会的弱者の救済でもなければ、同性愛者の人権の「回復」(?)でもない。むしろ、同性愛者を口実にして、正常で自然な結婚生活、神が造られた自然な男女のあり方そのものを破壊し、駆逐し、根絶して行くことにこそあるのだと言える。

聖書に記されたソドムとゴモラの街は、不法や姦淫が満ち溢れていただけでなく、男色の街だったことに注意が必要である。それなのに、今やクリスチャンや牧師を名乗っている人々でさえ、同性愛者の人権の擁護に回っている始末である。

このようなわけで、筆者は近年、首都圏全体が、もはやソドムとゴモラ同様になりつつあるという感覚を抱かざるを得ない。

さらに、首都圏では、官民を問わず、あまりにも虐げと搾取が横行している。非正規雇用化が進み、どの職場も、まるで信者を食い尽くして存続するカルト団体のように、従業員や職員を骨までしゃぶりつくして利益を上げることに邁進し、長時間残業や、過労死や、不当な解雇や、賃金未払いや、職場でのイジメが横行して、働いても、働いても、豊かになれる見込みのない社会層が国民の圧倒的多数を占めるようになり、彼らは、未来の展望のまるでない、仕事と呼ぶよりも、もはや懲罰にも等しい働き方の中で、じわじわと殺されつつある。このような、カルト団体にも等しくなった社会がまるで「常識」のごとく唱える未来のない異常な生き方に自ら身を委ねるのは、自殺行為にも等しい、と言わざるを得ない。

こうして、貧しい人々を容赦なく踏みしだき、虐げながら、また、被災地の人々の苦しみを見殺しにしながら、一部の巨大企業だけが偽りの経済繁栄を享受して、政府はそれだけを根拠に我が国の経済は復興したと唱え、戦前回帰のイデオロギーに基づき、ありもしない「神国」の威光を世界に知らしめすべく、呪われた祭典としての東京オリンピックが進められようとしている。

筆者にはこんな異常な祭典が正常に開催されるとは到底、信じられないが、この祭典とそれが招きよせる呪いや破滅に巻き込まれないよう、そこから遠ざかる必要を感じないわけにはいかない。

いずれにせよ、カルト団体の中にとどまっていながら、幸福に生きることができないのが当然であるように、このように歪んで呪われたイデオロギーに基づく不毛な土地には、さっさと背を向け、その支配下にとどまることを避けるべきではないだろうか?との疑念が高まるのである。

カルト団体を是正しようとしても無駄なように、政治改革を唱えて、この異常なものと取っ組み合い、それを是正することが信者の仕事ではないであろう。彼らは自らの信念に従い、行き着くところまで行き着いて滅びるしかないことであろう。
 
そういうわけで、長年、安住という状況からほど遠かったがゆえに、特定の地に定住する危険にはさほど見舞われず、それに鈍感であった筆者も、今の首都圏では、何をどう模索しても、明るい未来の展望を切り開くことは無理なのだと思わざるを得ない。それどころか、ここはまさにソドムとゴモラの街そのものであり、どんなにこの腐敗した街で平和と安寧を享受したとしても、それは偽りの繁栄にしかならず、到底、神の御心を満足させるものとはならないのではないかと考えざるを得ない。

信者は、常に心の中では何も持たない貧しいやもめのごとく、身一つで、さらにまさった天の都を目指して歩き続けるべきだが、とりわけこの街については、神の使いは今、この街の大々的な腐敗に心を痛めている人々に一人一人、声をかけて、エクソダスの時を知らせておられるのではないだろうか、という思いさえこみ上げてならない。だが、もしその直観が思い過ごしでなく正しいものであるならば、遠からず、神はそのように道を整えて下さるであろう。
  
以下、オースチンースパークスの論説を引用して終える。

 「土台のある都」 第一章 導入的概論 (9)

四.寄留者であり旅人である

 それと密接に関係し、対応していることですが、その土地のアブラハムは寄留者・旅人として幕屋の中に住み、その地に何の分け前も持たず、その土地では旅人だった、と告げられています。これは天的性質の特徴ではないでしょうか?ここでは寄留者であり旅人です。しかし、それでは私たちはどこに属しているのでしょう?ペテロは彼の手紙を書くときこう述べています、「愛する者たちよ、私は旅人であり寄留者であるあなたたちにお願いします……」(一ペテ二・一一)天の国に属しており、天の市民権を持っているのです。

五.地的庇護や報いを拒むこと

 この世からの庇護や報いは、アブラハムには何もありませんでした。彼は正しい諸原則のために尽力したかもしれませんし、そうすることによってこの世の人々に益をもたらしたかもしれませんが(この地上の主の民の霊的奉仕がこの世に対して、この不敬虔な世に対してすら、何らかの益を及ぼしたことに、異を唱える人がいるでしょうか?その中に主の民がいなければこの世がどうなっていたかは、主だけが御存知です)、アブラハムは彼の活動から益を受けたこの世の人々や、ソドムとゴモラの町の人々に対して、彼らが何らかの報いを与えて彼を庇護しようとした時、「結構です」と言いました。アブラハムは依然として外に立っていたのです。

 この地上の神の民の奉仕を利用すること、彼らに感謝、称号、地位を送ること、彼らをこの地上の人々の間で重要なものにすることが、これまで悪魔が仕掛けてきた最も深刻な罠の一つでした。これらの昇進が行われ、これらの贈物が与えられ、この感謝が送られ、これらの地位が与えられる時、往々にして、深遠な霊的重要性が失われ、その生活の実際の霊的価値は終わりを告げることがわかります。多くの真に価値ある神の僕の悲劇は――彼らは霊的な方法で神によって力強く用いられましたが、その霊的価値を失い、その特徴を失ったまま人生を終えました――何らかの方法で彼らが感謝・受容されるようになり、この世からの感謝と恩恵と報いを受け取ったせいでした。天的性質と分離を維持することが、霊的価値を維持するのに必要不可欠です。

 

PR