忍者ブログ

私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

杉本事件がクリスチャンにもたらしたもの(1)

さて、「東洋からの風の便り」を再開するに当たり、一体、「東洋からの風の便りⅡ」はなぜ、どのような経緯を辿って、「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久氏とコメント者らから、あのような激しいバッシングを受けるに至ったのか、この事件について考察しておく必要があると思います。

というのも、最近、私の身近な兄弟から尋ねられたのです、「吉祥寺の森」サイドの説明を読んでも、何がどうなっているのか、さっぱり訳がわからないと。残念ながら、「吉祥寺の森」の紛糾した告発記事をどんなに目を凝らして読んでも、それによって合点がいったという人はいないでしょう。

この事件については、多くの人々が関心を持って下さいましたし、「罪と罰――Sさんへの手紙――」を書いた時には、非常に大きな反響があり、沢山の人から応援を受け取りました。私たちの側からの説明なくして、出来事の全貌を理解することは誰にもできません。カルト被害者救済活動の反聖書性、およびこの活動の中で杉本氏のブログが果たした役割については、ホームページの中で非常に詳しい分析を行なっているため、そちらもご参照いただければと思いますが、ここではその概略のみを記したいと思います。


1.嘘の温床となってしまった杉本ブログ

「随想 吉祥寺の森から」(以下、杉本ブログ、もしくは「吉祥寺の森」と省略)は、開設当初は、カルト化した教会に警鐘を鳴らすという目的で、個々の教会の様々な不祥事についてスクープ記事を掲載し、教会の腐敗を憂う読者からそれなりの支持を得ていました。しかし、著者杉本徳久氏が情報提供者(=教会の内通者)から寄せられる情報を鵜呑みにして、その真偽のほどをきちんと検証しないまま、不確かで錯綜した情報を掲載したために、時を追うごとに、このブログが掲載する情報は信頼性を失っていき、ついには嘘の温床のようにまでなってしまったのです。

杉本氏がまことしやかに発表して来た一連の告発記事が、どれほど信頼性の低いものであったかは、最近の司法の判断によっても裏づけられています。たとえば、杉本氏のブログにおいては最大のスクープ記事のように読者に受け止められたビュン・ジェーチャン氏の件ですが、ウィキペディアをご参照下されば分かるように、杉本氏を含む被害者サイドのあれほど緻密な訴えにも関わらず、2011年5月20日、ビュン・ジェーチャン氏には無罪判決が確定しています。

また、カルト被害者救済活動のサイドが「教会をのっとった牧師」などとしきりに訴えて非難して来た山田牧師夫妻に導かれる鳴尾キリスト福音教会の裁判でも、村上密氏サイドの訴えは二度に渡り全面的に退けられています。詳しくは、「鳴尾キリスト福音教会から皆様へ」参照。

このことを見れば、杉本サイドの情報は、最近の裁判においては、もはや有力な証拠として認められていないことが分かります。それどころか、ジェーチャン氏による被害者サイドへの逆提訴を見ても分かるように、今や被害者サイドの方が虚偽の訴えを行なった可能性があるとして、被害者サイドが加害者とみなした人々から逆に訴えられるという事態にまで追い込まれています。2011年5月30日、ビュン・ジェーチャン氏は名誉毀損、不当訴訟、虚偽告訴による損害賠償を求め、被害者や被害者の会の代表者らに対して東京地裁に総額1億円あまりの民事提訴を行っています。

私ヴィオロンに関する杉本氏の告発記事がどんなに多くの嘘と誤りに満ちており、杉本氏らの作り出した空想話としか呼べないものであったかについても、すでにブログ「私ではなくキリスト」の「罪と罰――Sさんへの手紙」の中で紙面を割いて指摘しました。

さらに、この件については、関係者から警察に提出された被害届に基づいて警察が調査を開始し、杉本氏のブログの全ログが差し押さえられ、虚偽のコメントをしたコメント者が一旦、刑事告訴されるという事態に至っています。このことは、杉本ブログが掲載した内容に犯罪性があることが公に認められたことを意味します。

恐らく、カルト被害者救済活動のサイドが行なって来た虚偽の告発に対する逆の裁判はこれから増えてくるのではないかと思われます。

「吉祥寺の森から」は、その絶頂期には、読者数が一日当たり約1千人以上に及ぶという、個人ブログとしては異様とも言える読者数を誇りました。その頃、このブログの記事を有力な手がかりにして、メディアまでが教会の不祥事の話題を取り上げ、杉本氏の発表する情報は瞬く間に日本全国に知れ渡り、多くのクリスチャンたちの話題にのぼりました。

杉本氏が、私や私のブログ記事に対する非難弾劾を行なったのは、彼のブログがこのような圧倒的な読者数を誇っていたときのことです。しかし、私は杉本氏と面識がなく、彼のブログの常連でもなければ、キリスト教会の牧師でもなく、公にメッセージを語っている伝道者でもなく、当時、杉本氏が勝手な思い込みによって断定していたように、KFCにも通っていませんでした。さらに私はすでにその頃、杉本ブログを読むことさえもやめていたのです。

ですから、私は杉本氏から非難されるに値するようなことは何もしていませんし、彼にとって私が脅威とならなければならない理由も全くありませんでした。それにも関わらず、杉本氏があのような大々的な記事を掲載したのには以下に述べるようにより深い理由があります。

誰にでもすぐに想像できる理由は、杉本氏が私を糾弾したのは、私が、カルト被害者救済活動がいかに聖書に反し、十字架に反しており、クリスチャンの取るべき道ではないかを自分の記事上で公言していたためだということです。杉本氏はそれらの記事を読んで、自分の活動が批判されたと思い込み、自分たちの活動への反対を唱えさせないために、私に対する憎しみを晴らすために、ブログ上であのような虚偽に満ちた非難の記事を書いたのです。

なぜカルト被害者救済活動が聖書に反しており、決して正しい実を結ぶことのない、絶望的に不毛な運動であるかを説明するのに、そんなにも難しい説明は要りません。一言で言えば、カルト被害者救済活動は、神の外側からの超自然的な介入によらずに、つまり、神が与えたもうた御子の貴い十字架の救いを信じる信仰によらずに、被害者性という言葉を口実に、クリスチャンが、自らの力によって奮起することにより、裁判などの外的強制力を用いて、キリスト教界を悪から浄化しようとする、人間による自己救済の試みだからです。

これは聖書的な方法ではありません。聖書が推進するのは、いつでも聖霊と十字架の霊的な働きを通しての、人の最も内側からの御霊による内的な刷新です。この世の強制力を使うことによって人がこの世の悪を是正することはできないのです。しかも、聖書はクリスチャンが教会の問題の是非について世の裁判で問うことを奨励していません。「いったい、あなたがたの中には、兄弟の間の争いを仲裁することができるほどの知者は、ひとりもいないのか。しかるに、兄弟が兄弟を訴え、しかもそれを不信者の前に持ち出すのか。そもそも、互に訴え合うこと自体が、すでにあなたがたの敗北なのだ。なぜ、むしろ不義をうけないのか。なぜ、むしろだまされていないいのか。」(Ⅰコリント6:5-7)

ですから、教会を是正するための方法論として、世の裁判その他の実力行使に頼るということが、聖書から見てナンセンスであることはすぐに分かります。しかも、さらに重要なことは、カルト被害者救済活動の支援者たちは、最初は法にのっとった解決を掲げていたにも関わらず、時を追うごとに、ブログ上に嘘に満ちた情報を掲載してはターゲットとした人物に対して、法を無視して滅茶苦茶な私刑を行なうという違法な方法に走って行き、自ら法にのっとった解決を捨ててしまったことです。

カルト被害者運動は、キリスト教界に対して深い憤りを持つ人たちが、裁判等を用いて、協力して決起することにより、かつて自分を抑圧した牧師やクリスチャンに事実上の制裁を加え、キリスト教界にはびこる悪を自らの力で浄化して、自分たちの新しい秩序を教界に作り出そうとする運動でした。要するに、被害者を助けるという一見、ヒューマニスティックな目的を口実にして、生まれながらの人間が自己の中に正義を見出し、被害者の正義を掲げることによって、キリスト教界を刷新しようと試みたのです。これは神の義に基づかずに人の罪の問題を解決しようとしている点で、人を救いうるのはキリストの十字架の御業のみであるという聖書の真理に根本的に反しています。

救済活動の立役者の一人である村上密氏は、以前にカルト監視機構の設立を訴えていたことがあります。その中で、村上氏は、キリスト教界のみならず、全宗教界が、彼が設立しようとしているカルト監視機構の監視下に置かれるべきであるとの主張を打ち出していました。

私はこれに対して当時の記事の中で反論しました。カルト監視機構が設立されたとしても、それは決してキリスト教界を浄化することはなく、それどころか、必ず、キリスト教界を今よりももっと混乱に満ちた場所へ変えてしまうだけであると。人間の自己による正義を掲げ、神の正義に頼らないカルト監視機構は、いずれ悪用されて暴走し、カルトを消滅させるどころか、多くの無実のクリスチャンを迫害し、抑圧するための魔女狩りのような行き過ぎた懲罰を生み、全キリスト教界を粛清の恐怖に陥れるだろうから、このようなものを決して設立してはならないのだ、と警告しました。

村上氏は、この問題を監視機構の設立の年月日の問題にすり変えることで、私の主張を誤報と断定し、カルト監視機構そのものが持つ恐ろしい危険性については沈黙し、議論を避けた状態で、この問題を封印しようとしました。

カルト被害者救済活動のサイドは、多くの反対に遭ってカルト監視機構の設立が不可能になった代わりに、杉本氏のブログにその代わりの監視と懲罰の機能を持たせようとしたのではないかと考えられます。実際に杉本氏のブログにおいては、カルト被害者救済活動に賛同しない者たちや、カルト被害者救済活動の支援者にとって不都合な人物が次々と糾弾され、制裁を加えられていったのです。

(余談ですが、今、人権侵害救済法案という形で、カルト監視機構の全社会版を日本に打ちたてようとの試みがなされています。)

こうして、聖書の勧めに反して、当初、裁判という方法論を掲げていたカルト被害者救済活動は、それほど時間が経たないうちに、法に基づかない私刑を掲げる無秩序な運動と化していきました。そこには”自称”被害者や、”自称”カウンセラーや、”自称”被害者の支援者やら、様々な人々が入り乱れ、誰が本当の被害者なのかさえ見分けがつかなくなって、流言飛語が飛び交い、訴えそのものが事実から逸れて、空想話へと転化していったのです。そのことが最近の公の裁判においても、次々と裏づけられているのだと言えるでしょう。

こうして、御霊によらない、聖書に基づかない、神の義を抜きにした、この世的な強制力を用いた教会改造の試みは、人を救うことができず、クリスチャンやキリスト教界を腐敗から救うこともできず、ただ多くのクリスチャンを混乱と恐怖に陥れただけで、教会の改革に何の役に立たなかったことが明確に証明されたのです。

キリスト教界の腐敗を真に憂えるならば、改革の道はただ一つしかありません。十字架に立ち帰ることです。被害者が救われる道も、ただ一つしかありません。十字架へ立ち戻ることです。私たちは、御子の十字架の死を自分自身の死として、信仰によって受け取り、御子の復活の命によって新たに生かされ、心を清められる必要があります。

被害者を深い被害者意識から清めて下さるのも、私たちを全ての過去の傷から立ち上がらせて下さるのも、加害者に対する憎しみの思いから解放して下さるのも、あらゆる欠乏にも関わらず、満ち足りた存在として神を崇めさせて下さるのも、信仰者の一人ひとりの内に住んで、内側から働いて下さる聖霊だけなのです。

ですから、御霊によらずに、裁判や、カルト監視機構による監視等々のこの世の実力行使を用いて、どんなにキリスト教界を改革しようとしても、一切が無意味なのです。クリスチャンは目を覚まして、何が真理であるかを聖書に照らし合わせて吟味することをやめてはなりませんが、それはすべてただ聖書に照らし合わせ、御霊によって教えていただくことによってのみ可能です。外的強制力によって、人の内面を変えようとする試みは絶対的に不毛です。それは聖書が首尾一貫して明らかにしていることです。

カルト被害者救済活動がどうして非聖書的であり、クリスチャンの取るべき道ではないか、その根拠はいくつかの記事の中で明確にしています。(キリストの十字架以外に救いはない! キリストの十字架にとどまれ! 十字架に戻れ(1)  (2)  (3)  (4)  (5)他)


2.”いのちの御霊の路線”に立つクリスチャンへの迫害

杉本氏がただ私に対する個人的な怒りだけから、告発の記事を書いたのであれば、そこで他のクリスチャンまでが非難の対象となることはなかったでしょう。そこでウォッチマン・ニーや、ジェシー・ペンルイス、アンドリュー・マーレーなどの霊的先人たちまでが激しく非難されたことは驚くべき事実です。なぜ杉本氏らはこのようにしてクリスチャンの霊的先人にまで追求の手を伸ばすに至ったのでしょう? それは、彼らが何よりも非難したかった対象が、個々のクリスチャンではなく、これらのクリスチャンによるキリストの十字架の証しであったことをはっきりと物語っています。

ですから、これは”いのちの御霊の路線”、つまり、キリストのよみがえりの命に生きるクリスチャンの証を取り去ろうとする大きな力による迫害であったと言えます。その背後には、キリストの十字架の死と復活の証しを消し去ることで、クリスチャンが十字架に戻ることを阻み、いのちの御霊に従って歩むクリスチャンが少しでも経るように仕向け、その一方で、被害者運動のように、人間の生まれながらの自己による義に頼って、肉によって、生まれながらのアダムの命に従って歩む人が多くなるように仕向けようとする暗闇の勢力からの激しい妨害があったのです。つまり、十字架の真理の証そのものを退けるために、霊的な敵がある人々を動かして、このような攻撃に及んだのです。

このようなことがいつの時代にでも共通して起きていることは、聖書に記されています。パウロは書いています。「兄弟たちよ。あなたがたは、イサクのように、約束の子である。しかし、その当時、肉によって生れた者が、霊によって生れた者を迫害したように、今でも同様である。」(ガラテヤ4:28)

御霊を持たない者、肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害すると、パウロは述べています。その続きにはこうあります、「しかし、聖書はなんと言っているか。『女奴隷とその子とを追い出せ。女奴隷の子は、自由の女の子と共に相続をしてはならない』とある。だから、兄弟たちよ。わたしたちは女奴隷の子ではなく、自由の女の子なのである。」(ガラテヤ4:30-31)「すなわち、肉の子がそのまま神の子なのではなく、むしろ約束の子が子孫として認められるのである。」(ローマ9:8)

初めのうちは、そのすさまじい勢いに押されて、多くの人たちが虚偽の訴えであっても、それを本当だと信じたかも知れません。しかし、約束の子が誰であるか、自由の女の子が誰であるか、それは神が証明して下さる事柄です。杉本氏がその告発記事の中で最も激しく非難の対象としたウォッチマン・ニーを初めとして、アンドリュー・マーレー、ジェシー・ペンルイスなど、いわゆるクリスチャンの霊的先人たちには、いずれも一つの特徴があります。それは彼らがキリストの十字架の深い霊的な意味を知っていた人たちであり、霊の事柄と、肉に属する事柄は決して混同されてはならない事実を知っていたということです。

これらの先人は、「人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。」(ヨハネ6:63)こと、肉が腐敗しており、「肉にある者は、神を喜ばせることができない」(ローマ8:8)こと、肉に対する対処法は、ただキリストと共なる十字架において死に渡されることだけであることを知っていました、「なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。 」(ローマ8:13)

こうした人々は、クリスチャンがヘブル書にあるように、御言葉の切り離す深い働きを実際に知って、霊と魂とが切り離される必要があることを証ししています。クリスチャンが生まれながらの自己、自分の生まれながらの魂に従って生きることをやめて、真に御霊に従って歩む者とされなければ、神に用いられることはできないことを述べていました。これらの人々は、現代のクリスチャンをとりまく最も厳しい欺きは、霊と魂の切り分けにあること、魂の領域に作り上げられた霊の偽物を見抜かなければならないことを警告していました。それは、ただ御霊にまいたものだけが、神に喜ばれ、永遠に至る実を結ぶからであり、肉に生きるなら、クリスチャンであっても、サタンの作業場となってしまう危険性があるからです。

ですから、霊と魂とが御言葉によって切り離されることは、クリスチャンにとって焦眉の課題なのですが、だからこそ、その真理は常に大きな敵対に直面するのです。実は、この霊と魂の切り分け、霊・魂・肉体の明確な区分、十字架と聖霊の分離する働きこそ、カルト被害者救済活動のサイドが何よりも打ち消そうとした事柄であり、これこそが、今日、キリスト教界において最も欠落し、また覆い隠されている真理なのです。

今日、多くのクリスチャンが、しきりに聖化を求めながら、信仰生活に少しも進歩がないと感じて幻滅しているのは、まさに、彼らがキリストの十字架の霊的死とよみがえりの深い意義を知らないためです。肉に対して働く十字架の死に渡す働きを知らないために、多くの人々が罪の奴隷状態に留め置かれ、あるいは、生まれながらの自己の力によって間違った善行に励んで失敗しているのです。ですから、贖いとしての十字架だけでなく、私たちの古き人、そして肉に対して死をもたらす十字架の側面を、クリスチャンは知らせて下さるよう神に願い求める必要があります。単数形の罪の問題は、それによらなければ、決して取り扱われることがありません。私たちがキリストに似た者へと造りかえられるという聖化は、主と共なる十字架の深い働きを実際に知ることによらなければ起こりません。これはクリスチャン生活の根幹に関わる重大問題です。

ある人々は、サタンがクリスチャンの内側で働くなどそんなことがあって良いものかと強く反論されるかも知れません。しかし、私たちは自分自身を振り返って、主によって対処されることが必要な部分が沢山残っていることを認めないでいられるでしょうか? 私たちはそのような欠点や悪しき思いがこれ以上、暗闇の勢力に都合良く用いられて欲しくないと切に願い、それらを主の御前に恥じているのではないでしょうか? だとしたら、私たちは聖くされるために、より全面的にキリストの十字架を知る必要があります。そのことに同意しない人はほとんどいないと思います。

しかし、私たちの肉が十字架で対処されることに猛反対する勢力は、決して私たちが自己が十字架において対処される必要に目を向けないようにします。神は愛なので、人の生まれながらの自己や、肉を十字架につけて罰するなどという残酷なことはなさらない、と偽りを吹き込み、生まれながらの(ありのままの)自己には何の腐敗もないので、それを大いに愛せば良い、と教えたり、十字架において自己を否む必要性など全くない、そんな教えは不安を煽るだけの狂信なのだ、と偽りを教えます、そして、私たちが生まれながらの自己がどんなに罪深いものであるかを知らずに通りすぎるように仕向け、生まれながらの自己を主と共なる十字架で死に渡す必要性に注意を払わないよう妨げるのです。それどころか、ついには人が生まれながらの自己の義に基づいて、自分を聖なる者とみなし、自分の力で全世界を改革し、キリスト教界を改革するために立ち上がるようにさえ促すのです。これは真理とは全く別の虚偽の教えです。

このようにして生まれながらの自己を善良なものとしてかばう教え、生まれながらの自己の罪を認めない教え、生まれながらの自己を果てしなく尊大に高慢にさせてしまう教え、これが今日キリスト教界に多く広まっている聖書の真理に基づかない著しい誤謬なのです。恐らく、世界が終わりに近づくに連れて、ますます多くの人々が己が罪から目を背けるようになって、そのような教えに耳を貸すようになるのではないかと思います。そして人類が生まれながらの義に基づいて立ち上がるという、決して成功することのない一大運動が再び生まれるでしょう。

私たちはウォッチマン・ニーの書物を権威化したり、ニーを栄光化するのではありません。ただ、御霊によって十字架のより深い意味を知った霊的先人たちの証が、ニーの書物の証の中に総集編のようにまとめられていることに十分な注目を払う必要があると思います。一つの御霊によるいのちの水の流れが、先人たちを通して、ウォッチマン・ニーにも受け継がれています。福音書房の訳に問題が含まれていることはすでに指摘しましたが、翻訳を吟味せねばならないという困難な問題を今は脇に置いておくとして、ニーの証を通しても、私たちは先人たちから受け継がれてきた御霊のいのちの流れに触れることができます。

アンドリュー・マーレー、ジェシー・ペンルイス、ガイオン夫人、オースチン・スパークス…、数々の人々が挙げられますが、このような人々から流れて来た御言葉の深い霊的な水脈が、ニーの中にも流れ込み、これらの先人たちに触れたクリスチャンを経由して、私たちへも伝達されています。

キリスト教界での教えは、キリストの十字架はただ私たちの罪の贖いのため、というところで終わっています。それ以上に深い十字架のもう一面の働きがあることについては全く触れられません。すなわち、私たち自身がキリストと共に十字架にかかって死んだことにより、私たちの生まれながらの魂、肉、古い人が主と共に罰せられ、死に渡され、私たちは自分に対しても死に、この世に対しても死に、私たちはすでに死んだ者として、私たちの命はキリストとともに神の内に隠されているという真理は、キリスト教界からはすっかり忘れ去られて(消し去られて)います。その真理を実際に知っていて教えられる人がいない状況であり、先人たちの証も次々と隠されているのです。しかし、これこそ私たちが本当に知らなければならない真理なのです。

「わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。わたしはキリストと共に十字架につけられた生きているのは、もはや、わたしではないキリストが、わたしのうちに生きておられるのであるしかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子の信仰によって、生きているのである。」(ガラテヤ2:19-20)

「しかし、わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない。この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである。」(ガラテヤ6:14)


「わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられたそれは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。」(ローマ6:8)

「あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されているのである。」(コロサイ3:3)


霊的な敵はつねに議論を紛糾させることによって、問題の焦点をかく乱し、何が根本的な争点であったのかを人に見失わせようとします。しかし、今は読者のために、このような偽りに注意を払うことはせず、最も重要な物事の核心だけを手短に伝えましょう。

現代において、霊的な敵が最も覆い隠そうとしているもの、すなわち、私たちが最も知らなければならないものは、十字架の真理です。今や生きた証人たちの口を通して十字架の証に触れることはだんだん難しくなって来ているのかも知れませんが、それでも、私たちはいつでも主に向かって求めることができます。八方塞に思われるような時でも、天は私たちに開かれています。ですから、私たちの肉、生まれながらの自己、古き人、生まれながらの魂の命が、キリストと共に十字架で死んだ、という真理、この真理を明確に内側で霊によって分からせて下さるように、どうか読者ご自身で神に求めて下さい。神に対して一歩も譲らず、答えが明らかにされまで、扉を叩き続けましょう。

私も祈るのです、霊と魂との切り分けという空前の問題に、主自らが私たちの目を開いて下さり、この嵐のように偽りの満ちた時代に、主の御旨に従って生きることができるように、私たち自身が御霊によって物事を真に識別できるようにして下さいと。

ペンルイス夫人は身体が弱く、病気がちでしたが、ガイオン夫人のメッセージに触れた時、そこに書かれている「完全に自己を捨てる」、「完全に信じる」、「完全に愛を傾ける」などの事柄を実行できるとはとても思えず、ある時、神に対して一歩も退かない態度で、この真理が本当ならその内側に入らせて下さいと押し迫ったのだそうです。主は彼女の祈りを聞かれ、その時から、ペン・ルイス夫人は十字架の真理を宣べ伝えるようになり、彼女を通して、多くの信者が十字架の真理を追究し始め、実際にそれを知ることになったのです。

私たちもこの夫人のように頑固なほどに熱心に、真理を教えて下さるよう神ご自身に願い求めるべきなのでしょう。求める者には、神は豊かにお与え下さいます。神の働きの中心は十字架であり、十字架こそいっさいの霊的な事柄の源であって、十字架の働きなしに、私たちは何事も正しく理解することはできないのです。どうして神がそれを私たちに教えることを拒まれる理由があるでしょうか。ですから、それ以外の全てのことを差し置いてでも、主がこの真理の内側に私たちを確固として入れて下さるよう願い求めたいのです。





 

PR