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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

イゼベルの霊がもたらす男女の秩序転覆――男性化した女性たちと、非男性化された男性たち

・「偽りの期待を持たせて人を欺きながら、梯子を外し、騙された相手を嘲笑する」(ダブルバインド)イゼベルの霊の典型的な心理操作のテクニック

さて、話題は少し変わるようだが、以前の記事の末尾で紹介したEden Mediaの警告動画では、興味深い事実が告げられている。それは「イゼベルの霊」が、女性の男性化と、男性の非男性化という転倒した現象を人々にもたらすという指摘である。

本稿では、ペンテコステ運動に関わった信者たちと接して来た筆者自身の実体験を通して、この問題について、より踏み込んで考察していきたい。
 


 
 
筆者は、ペンテコステ運動とはイゼベルの霊に率いられる弱者救済を装った秩序転覆(キリスト教破壊)運動であると見ており、イゼベルの霊とは、端的に言えば、グノーシス主義の秩序転覆の霊を意味する。

なぜイゼベルという女性の名がついているかと言えば、この霊は神に対する人類(霊的女性)の側からの反逆の霊であり、より低い次元では、男女の秩序を覆すフェミニズムの思想を指しているからである。ペンテコステ運動にも、その思想的な基盤に、フェミニズム神学なるものが存在することはすでに確認した。
 
このように、イゼベルの霊とは、男女の秩序を覆す霊、もっと言えば、神と人類との立場を置き換えて、被造物に過ぎない人間が、己を神として自分自身を拝み、栄光化する人類の自己崇拝とナルシシズムの霊であり、他者の心の傷をきっかけに人の心に侵入し、ターゲットを抑圧的に支配する。当然ながら、この霊は、ターゲットが自分よりも強い男性であっても、弱みを握ることで、思い通りに支配して行く。

さて、「男性の非男性化、女性の男性化」という本題に入る前に、まずは最初にイゼベルの霊の心理的支配のテクニックについて述べておきたい。

以下の図は、以上の動画の画像に筆者が注釈を書き加えたものであるが、これはイゼベルの霊がターゲットとする人間を、自分に都合の良い「箱(マトリックス)」に閉じ込めた上で、様々な心理的な駆け引きを行うことによってターゲットを自分の支配下に束縛し、搾取・抑圧する手法を構造的に表している。
 
 
  
イゼベルの霊とターゲットとは、何らかの心の傷(コンプレックスや負の記憶のトラウマ)を通じて強固なソウル・タイによって結ばれている。この霊は一見、人の心の傷に優しく寄り添い、これを癒してやるように見せかけながら、ターゲットに近づいて行く。その偽りを見抜けず、心を開いたターゲットは、彼女の偽りの優しさに依存するようになる。だが、イゼベルの霊は、ターゲットの心の傷を癒すどころか、より押し広げ、ますます重症化して行くことで、ターゲットの弱みを半永久的に握って、自分から離れられないように仕向ける。「傷」を頼りに結ばれるこの「絆」が絶ち切れない限り、ターゲットはイゼベルの霊によって永久に搾取され、人格がどんどん弱体化して行くことになる。

イゼベルの霊は、愛や同情や優しさに見せかけて、自分がターゲットを搾取し、不当に抑圧していることを気取られないように、ターゲットを自分の用意した「マトリックス」(=イゼベルの霊の管理と統制が行き届いている閉鎖的な組織や宗教団体やサークル等)に閉じ込め、ターゲットが得られる情報が非常に偏った一方的な内容に制限されるように操作する。

情報こそ、人間が物を考え、自由を希求する上で最も有力となる手掛かりなのであり、人間へのマインドコントロールは、まずはターゲットとなる人間から自由な情報源を奪い、ターゲットを社会的に孤立化させて、得られる情報を制限することから始まる。ターゲットとなる人が客観的な情報を自由に幅広く入手した上で、自分自身の頭で、何が正しくて何が間違っているのかを自主的に吟味し、物事を疑いながら批判的に考察しながら判断を下す自由と考察能力を失った時点で、マインドコントロールの基礎はほぼ完成している。

イゼベルの用意する「箱(マトリックス、子宮)」はそのためにこそ存在する。つまり、この霊は、ターゲットがまるで子宮の中にいる赤ん坊のように、彼女からの栄養補給がなければ、自分では何もできないような、依存的で手足を縛られた状態にするのである。この霊は、ターゲットを何かの閉鎖的な組織や団体に閉じ込めることで、ターゲットが誰とでも自由に交流でき、様々な情報を自分の意志で広く入手できるような環境を奪う。経済的な自立を奪うことで、行動を制限することも少なくない。そして、この霊は、自分の気に入った一方的で都合の良い偏った情報だけを、ターゲットに「正しい情報」として与え、それ以外の情報を一切、「間違ったもの」として受けつけなくなるように教え込むことで、ターゲットが不都合な情報に接するのを禁じ、マインドコントロールを施す。

多くの場合、宗教団体がターゲットを閉じ込める「マトリックス」の役割を果たすことになる。イゼベルの霊は、「神」の概念を悪用することによって、自分にとって都合の良い情報にしかターゲットが接触しなくなるように仕向ける。彼女は、世話好きで、慈愛に満ちた優しい助力者、敬虔な信者や、宗教指導者の姿に仮装し、自分こそが人生の正しい指南役であるかのように、ターゲットの前に現れてその心を掴み、「神」や「宗教」に名を借りて、ターゲットが自分の与える情報や助言だけに依存して生き、彼女の思う通りの人間になるよう操作して行く。こうして、イゼベルの霊が、ターゲットを閉じ込めるための「子宮(マトリックス)」が完成する。

もしこの霊の閉じ込めがあまりにも乱暴で性急であれば、誰でも自分が操作されている危険に気づくであろう。そこで、イゼベルの霊は、ターゲットが自分は騙され、搾取されているだけなのだとは気づかないように、様々な偽りの「餌」を与えることで、ターゲットを懐柔しながら、アメとムチによって心理的駆け引きを繰り広げる。ある時は、ターゲットをおだてあげ、立派な指導者的な立場などを用意してやることにより虚栄心をくすぐり、ある時は、か弱いふりをして、泣き落としや、同情を引き出す作戦に出、ある時は、性的な魅力をアピールし、思わせぶりな態度を取ることで、恋人の代わりを演じ、ある時は、何か偉大な奇跡のような事柄を約束し、心を揺さぶる。そのようにして、ターゲットを様々な「餌」を使って自分に引きつけておきながら、いざターゲットがそれに騙されて近づいてくると、冷たく突き放して混乱させる。そして、その混乱した姿を見て、ターゲットを侮蔑し、恥をかかせ、それはターゲットが悪かったからそうなったのだと言っては、罪悪感を持たせ、態度の改善を求めて、自分から離れられないようにして行くのである。
 
このように相矛盾するメッセージを同時に投げかける心理作戦(ダブルバインド)に陥れられたターゲットは、イゼベルの霊の絶えず豹変する矛盾に満ちた行動にどう反応すべきか分からず、立ちすくんでしまい、彼女への同情心や、自分が慰めてもらいたい願望から、彼女を憎み切ることもできず、離れられないまま、対処に悩み続けることになる。そのように悩みながらこの霊と関わりを続けること自体が、すでにしかけられた罠にはまっていることを意味するのである。

さて、このようなマインドコントロールのテクニックを用いて人を思うがままに支配するイゼベルの霊の持ち主が、必ずしも、女性であるとは限らない。なぜなら、男性であっても、イゼベルの霊とソウル・タイを結べば、その人の人格は、やがてイゼベルの霊そっくりになって行くからである。

たとえば、筆者は以前の記事で、Kingdom Fellowship ChucrhのDr.Lukeによる信者への心理的駆け引きの手法についてすでに触れた。同氏には、青春時代において、将来の結婚を前提とする交際をしていた女性から結婚を求められた際に、曖昧な態度で身をかわし、返答を先延ばしにしたことがきっかけとなって、交際が破局したという事件が起きたことを、同氏自身が、自らのメッセージにおいて明らかにしていたことにも触れた。

Dr.Lukeはそれがきっかけで神を求めて回心に至ったと証するのだが、その後の人生でも、全くこれと同じパターンの行動を繰り返し、今度は、KFCという宗教団体を舞台として、そこへ集まって来る信者に対して、以上の女性に対して行ったのと同じ心理的駆け引きを繰り広げているのである。すなわち、同氏は、ブログやインターネットや動画や様々なツールを使って、いかに自分が霊的に高邁で魅力的な存在であるか(そこには性的な意味合いも当然ながら含まれる)をしきにりアピールしながら、人望を集め、その心理的トリックを見破れずに、同氏を魅力的な宗教指導者のように思って期待して近づいて来る信者らに対して、ことごとく「梯子を外す」ような行動に出て、彼らを失望させ、恥をかかせ、その信者らの混乱した様子を見て、「自分は何も約束していないのに、彼らは勝手に期待してぶら下がって来た。そういう依存的な心に問題があるのだ」などと言って彼らを侮蔑し、嘲笑するということの繰り返しであった。それでも、KFCに残り続けているのは、Dr.Lukeのそういう残酷な性格をよくよく理解した上で、殴られても殴られても夫のもとを去らない妻のように、何かの弱みがきっかけとなって、不当な扱いに完全に抵抗する力を失ってしまった信者たちだけである。

このように、何かの約束を口にしておきながら、それを守らず、あるいは思わせぶりな態度を取って人の心をひきつけておきながら、相手を突き放すことによって、ターゲットを混乱させ、その心を傷つけ、侮辱するという不誠実な行為は、典型的なイジメのテクニックである。こうした行動は、たとえば、Dr.Lukeが一方的に杉本徳久氏を提訴すると語った行動にも、よく表れていただろう。同氏は杉本徳久氏からの非難に遭遇した時、これに対してきちんと反論しようとはせず、誰も依頼していないにも関わらず、自ら勝手に筆者の名前を持ち出して、同氏に提訴の予告を行った。ところが、多くの関係者に絶大な影響を及ぼしたにも関わらず、同氏は、全く理由不明なまま、長期間に渡り、その宣言を実行に移そうとせず、ただ巻き込まれた関係者だけが大変な迷惑をこうむるという事態が起きた。Dr.Lukeがこの不誠実な行動に対して弁明らしき言葉を公に発したのはずっと何年も後になってからのことである。当時、筆者が同氏の行動の不誠実さを責め、どんなに対立している相手に対しても、そのような行動を取るべきでないと指摘し、回答を迫った時のDr.Lukeの反応は、まさに返答を先延ばしにすることで梯子を外し、自分の発言の影響に巻き込まれた全ての人間に恥をかかせ、追い詰めるものでしかなかった。しかも、KFC外の人間に対してはこのように曖昧な態度を取っておきながら、Dr.Lukeは元KFCの信者でありながら自分を批判する人間に対しては速やかな告訴に及んだのである。当時、同氏の行動の意味を正確に理解できる者はなかったであろう。

このようなことはすべてイゼベルの霊が行う心理的な駆け引きをよく物語っている。Dr.Lukeの行動は、自分の潔白を証明するために行われたものではなく、ただKFCという団体を通じて自分に接触して来た信者たちが、偽りの期待や、もしくは、何かのこじれた事件を通して自分自身につながり、半永久的に離れなれなくなることで、苦しめることを目的とするものであった。同氏は常日頃から特に何も事件が起きないまでも、他人にいたずらに期待を持たせておいて、約束したものを決して与えないことによって、いつまでも信者たちが自分から離れられなくなるように仕向けていたのである。

若い時分に、Dr.Lukeのこうした行動の背後にある不誠実さを見抜いた上で、同氏に対する希望を完全に捨てて、同氏の元を早々に去った女性は、その意味で、慧眼であったと言えよう。その女性に信仰があったのかどうかは知らないが、それに引き換え、これまで何十年間もDr.Lukeの人柄を観察して来たにも関わらず、今日になってもまだ、心理的なトリックを見抜けず、Dr.Lukeの信奉者となってKFCに束縛されている信者たち以上に愚かな存在はいない。むろん、彼らは何かの弱みを担保に取られていればこそ、不誠実な指導者といつまでも癒着を続けねばならない状況に陥っているのである。

このようなことは、村上密牧師のカルト被害者救済活動の場合にも、同じように当てはまる。村上牧師の人柄が、その外見とは裏腹に、全く信頼できない不誠実なものであることは、約14年前に鳴尾教会で同氏が引き起こした事件によって証明されている。村上牧師は、Dr.Lukeが公然とキリスト教界に反旗を翻すことで"ワル"をきどり、その挑戦的な態度で人気と注目を集めたのと同じように、キリスト教界に恨みを持つカルト被害者を集めて、裁判を通じてキリスト教界に戦いを挑むことで、自分自身を正義の味方のように見せかけたのである。

だが、その正義の味方としての立ち振る舞いも仮面に過ぎず、この牧師のもとに身を寄せた信者の中でも、裁判による解決に至るのはごくわずかでしかなく、裁判にも至らないケースが水面下に数多く存在し、真に解決を得られる信者は稀であった。さらに、鳴尾教会に対する訴訟に見るように、村上牧師自身が、スラップ訴訟としか言いようのない勝ち目のない裁判を自ら教会にしかけて、敗訴する側に回っている。そのように、問題解決の見込みがほとんどないにも関わらず、偽りの期待を持たせることによって信者たちを自分のもとに引きつけ、かつ、反対者をひどく中傷することで、自分自身の不誠実な行為の犠牲者となった人間を愚弄し、笑い者にするというのは、Dr.Lukeの行動とほとんど変わらない狭量さである。このような指導者が自らの配下にある者たちを守ることができないのは一目瞭然であろう。

だが、そうした特徴は、Dr.Lukeや村上密牧師といった個人に限ったものではなく、ペンテコステ運動全体の特徴でもある。天声教会のケースでも、KFCと全く同じように、教会という団体そのものが、指導者層が自分にとって都合の良い情報だけを一方的に信徒に信じ込ませるための「マトリックス」となっている。指導者自身も、社会から隔絶されたこの閉鎖的な環境に束縛されて、偏った物の見方しかできなくなっているが、信者たちもそこに束縛されている。

KFCや、天声教会や、カルト被害者救済活動のすべての例に共通するのは、彼らが指導者を中心に自分たちにとっての安全地帯である何かの「マトリックス」を作り、そこに閉じ込められている者だけが、正しい信仰の持ち主であって、自分たちの活動に反対する人間は皆、悪魔の手下であるかのような虚偽を流布している点である。さらに、既存のキリスト教界に対して挑発的に振る舞い、自分たちには従来のクリスチャンにはない正しさがあるかのように主張して、自分自身を正義の味方に見せかけ、常に反対者を侮辱したり嘲笑するようなメッセージを投げかけることで、批判を封じ込め、自分たちの優越性を主張しようとしている点も同じである。

彼らのメッセージ内容はほとんど全てが自分たちの正しさと優越性を誇示するためのものとなっている。それは彼らの「マトリックス」がいかに優れて正しいものであるかを、関係する信者たちに信じ込ませ、他の教会は堕落しているので決して行かない方が良いと思わせて、接触を禁じ、情報を統制した上で、自分たちのもとに永遠に束縛するために使われるマインドコントロールの手段である。

こうした指導者たちが、本当は、自分自身がまるで牢獄のような環境に閉じ込められて、自由を失っているにも関わらず、牢獄の外にはもっとひどい世界が広がっていると思わせることで、また、自分たちの活動に与しない反対者を徹底的に吊し上げ、公衆の面前で侮辱・嘲笑することによって、彼らの「マトリックス」の異常性に人々が気づいて脱走するのを阻止するという手法は、かつてソ連が取っていた政策にそっくりである。ソビエト・ロシアは、一国社会主義路線を取っていた間、世界から孤立していたが、戦争や計画経済の失敗によって国が荒廃し飢餓状態に陥ってもなお、自分たちの政策が世界に先駆けて優れたものであるという思い込みを捨てることなく、「西側の資本主義国では地獄絵図のような風景が広がっているが、それに比べれば、我が国はまるでユートピアだ」などと偽りの宣伝を行うことによって、国民の逃亡を阻止し、国外への亡命者に対しては「人民の敵」として大々的なバッシングを行うことで見せしめとし、国外逃亡に対してはこれを「罪」として死刑に相当する厳罰を科していた。共産主義という絶対にやって来ない幻を「餌」としてぶら下げることで、無いものを担保に、徹底的に国民を騙し、搾取し、支配していたのである。
 
なぜ以上に挙げたようなペンテコステ運動の指導者たちは、自己の教会を「マトリックス」化して、自由なき牢獄に自ら閉じ込められた上、他の者たちをも同じ牢獄に閉じ込めようとするのだろうか。そこにどんな目的があるのだろうか。

第一には、指導者が信者たちを食い物にして栄光を受け、金もうけをしたいという欲望があるだろう。イゼベルの霊は名誉欲の塊である。だが、彼女の内心は非常に空虚なので、自分一人だけでは何事も果たせず、常に手下となってくれる信奉者を必要とする。支持者や信奉者たちを搾取し、彼らから盗むことによってのみ、彼女は栄光を受けるのである。

この霊は偽りの希望を信者たちに持たせて彼らを欺いている間、信者たちから栄光を盗むだけでなく、金銭(献金)や労働(奉仕)をも搾取する。すでに述べた通り、ペンテコステ運動の指導者たちは、その出身を調べて行くと、その大半が、単なる「自称牧師」や「自称カウンセラー」などの、まともな教育訓練をほとんど受けていない、ただ勝手に指導者として名乗り出ただけの、ほとんど成り上がり者と言っても良いようなにわか牧者たちである。中には、明らかに問題のある環境に育ち、非行(場合によっては殺人さえ)などの眉をひそめる行為を繰り返していたり、回心してクリスチャンになった後でも、成熟した社会生活を送った経験がないに等しいような場合も珍しくない。このように、詐欺師と言っても過言ではないような不誠実かつ不適格な人間が、「聖霊のバプテスマ」を口実にして、何かの超自然的な霊力を誇たというだけで、無から一足飛びに宗教指導者として栄光の座に就き、短期間で、自分のミニストリーを開き、信者たちを集めて大金を巻き上げるのである。

こうした指導者は、(詐欺師はみなそうであるが)大胆で厚かましくパフォーマンスが巧みで、人の心の弱点を見抜いてそれを利用する技に長けているので、最初のうちは、弱者救済などを口実にして、既存のキリスト教界を勇敢に非難してその問題点をあぶり出し、悪代官をやっつける正義の味方のように振る舞い、人々の抱える問題に寄り添うことで、救済者のように振る舞い、注目を集め、感謝され、信頼され、期待されるかも知れない。

詐欺師は、無いところから幻に過ぎない栄光を引き出すために、他人の持っている栄光を盗むしかなく、その第一歩は、既存の秩序を引きずりおろして転覆させて、権力の空白地帯を作り出すことから始まる。彼らは従来の体制の不備を突き、それを転覆させる改革者のように装って現れ、その斬新で奇抜で挑戦的なパフォーマンスに圧倒された愚かな人々が、歓呼して彼らを支持し、そうした信者たちからさらに搾取して、自分の勝手気ままに支配できる団体(ミニストリー)を作り上げるのである。

だが、以上のようなペンテコステ運動の指導者たちは、突如としてどこからから現れ来て、一瞬、人々の注目をさらうものの、人間関係の結び方、行動があまりにも未熟で幼稚であり、不誠実かつ挑戦的なために、そのうち多くの人たちから相手にされなくなり、仲間内でも分裂し、孤立化して行くことになる。そうなると、何かしら一国社会主義路線のようなものが出来て、反対者も増えて来るので、信者の離散を食い止めるために、ますます彼らは疑心暗鬼に陥り、他の団体に対する敵意をむき出しにしながら、より厳しく情報を統制して引き締めをはかり、自己の優位性をしきりに強調して、信者を引き留めるしかなくなる。最後の一人が離脱するまで、自分の縄張りの外にいる信者たちを敵視・非難・断罪しながら、「自分たち(だけ)が正しい信仰の持ち主である」と言い張り続けるのであろう。指導者の不誠実な正体が早々に見抜かれてメンバー全員が離脱すればまだ良いが、そうならないうちに、指導者がいよいよ自分の正体が気づかれそうな段階になると、自らが責任追及されることを恐れて、人民寺院事件や、戦中の日本がまさにそうであったように、信者たちを道連れに集団的な心中ような悲劇的最期に向かうこともあり得る。そうなると、まさに「盗み・殺し・滅ぼす」という悪魔の意図が達成されることになる。
 
 
男性の「非男性化」と女性の「男性化」――イゼベルの霊が生み出す卑怯で軟弱化した男たちと尊大で厚かましい女性たち

さて、話を戻せば、筆者自身の目から見ても、ペンテコステ運動に関わる信者たちには、「女性の男性化」、「男性の女性化」という現象が顕著に見られた。
 
もっと卑近な言葉で説明するならば、この運動を特徴づけるのは、「男性の上に立ち、男性を思うがままに操ろうとする傲岸で不遜な女性たち」と、「そうした女性たちの尻に喜んで敷かれ、彼女たちの助けなくては何もできないほどまでに軟弱化した女々しい男性たち」であった。
 
ペンテコステ運動に関わる女性信者たちは、外見的には、非常に女性らしく、たおやかに、敬虔そうに、純粋そうに見えるかも知れない。以前、筆者は学生時代に遭遇した(後には著しいトラブルメーカーとなった)ペンテコステ信者について記事に記したことがあるが、彼女の場合も、その外見には、いずれそういう厄介な事態が持ち上がると予想させるものはなく、かえってある種の純粋な美しさのようなものさえ見て取れたものだ。その後、ペンテコステ信者たちとの関わりにおいて、筆者はこうした純粋そうに見える外見的な美が、この運動に関わる信者たちの多くに共通する特徴の一つであると分かった。

ペンテコステ運動に関わる女性信者たちは、一見、率直で、信仰熱心で、全てのことをあけっぴろげに語り、人の弱さに対しても敏感で、困っている他人にはかいがいしく寄り添う術を心得ており、その同情心溢れる行動や、親切心は、女性らしさや、内心の謙虚さの証のように見えるかも知れない。信仰生活においても、彼女たちは人助けに熱心で、自分が直面している問題や、様々な事柄についての印象を隠し立てなく語るので、それを信頼の証であるように誤解してしまう人もあるかも知れない。

だが、もう少し深く関わりを続けて行くと、そのぱっと見のたおやかさ、愛らしさ、優しさ、柔軟さとは裏腹に、彼女たちは内心では非常に頑固で、融通が利かず、しかも、一度、何かを思い込んだらどんなに周囲が止めても自制がきかないほどまでに猪突猛進で、その判断は、非常に偏っており、直情的で、非論理的で、一言で言えば、暗愚であり、何事も深く考察せず思いつきや印象だけで判断し、周囲の理解やサポートを度外視して、自分勝手に進んでいき、それにも関わらず、自分の判断に絶対的なまでの信頼を置いていることが分かるだろう。

彼女たちに何かを思いとどまるように説得するのは非常に困難である。なぜなら、彼女たちは、自分は他者よりも物事がよく分かっており、霊的に目が見えているのに、他者には自分ほど霊的視力がないから、自分の考えていることを理解できないのであって、そんな可哀想な彼らには、自分が逆に物事を教えてあげなければいけない、と考えているからだ。こうして彼女たちは、他者からの忠告を軽んじ、思い込んだ方向へまっしぐらに突き進んで行く。その勢いは止めようもないほど強引で、呆れながら見守っているしかない。すると、最後になって、やはり、彼女たちの確信は誤りだったのだということが事実として判明する。だが、それに巻き込まれた人たちは大変な迷惑をこうむるのである。

一言で言えば、ペンテコステ運動の支持者たちは、男女を問わず、大変なトラブルメーカーである。しかし、彼・彼女たちは、霊的な慢心に陥っているため、内心では自分を他者よりも賢いと思っており、自分がトラブルを引き起こしているとの自覚はない。彼らの自分は霊的に目が見えているという思い込みは、内心のコンプレックスの裏返しとして生まれる反知性主義から来る。

すでに述べたように、ペンテコステ運動の信者たちの中には、高学歴の信者は少なく、どちらかと言えば、マイノリティや、社会的に冷遇されて来た立場の信者が多く、女性信者たちの多くも、ごくごく平凡な主婦であったり、普通の人々であり、立派な学歴や、専門知識や、エリート的な職業を誇示して、自分は賢いとか、一般大衆に抜きんでた存在であるなどと言えるような人々はこの運動にはあまりいない。

だから、彼らは一見、自分たちは平凡な人間で、とりたてて賢いわけでもなく、特技があるわけでもないと振る舞っているが、その謙虚さも、真の謙遜ではなく、謙遜に見せかけた傲慢であり、彼らは謙虚そうな外見とは裏腹に、内心では、ひそかにあらゆる「知」を嫌悪し、憎みながら、無知である自分が最も賢いと考えているのである。

そのような考えが生まれる理由は、この運動の支持者らが、偽りの「霊」を受けていることにある。すでに述べた通り、ペンテコステ運動を率いる霊は、グノーシス主義的な秩序転覆の霊、人類の自己崇拝・自己栄化・ナルシシズムの霊である。この霊の特色は、まず反知性主義である。なぜなら、この霊の起源は、サタンが人類に吹き込んだ偽りの知恵に由来するからである。ペンテコステ運動が反知性主義的(別の言葉で言えば、体験主義)である理由は、まさにここにある。

なぜペンテコステ運動が体験重視なのかと言えば、それはこの運動が、もともとあらゆる知性(による考察と検証)を憎んでいるからである。この運動においては、何の論理的な裏付けも検証もなしに、信者たちが見せかけ倒しの奇跡や、安易な受け狙いのパフォーマンスに欺かれているが、そうなるのは、この運動に関わる信者たちがもともと深く物事を自らの頭で考察し、自分自身の知性によって検証することを馬鹿にし、嫌悪しているからである。こうした現象はペンテコステ運動を率いる反知性主義的な霊が引き起こしている霊的盲目である。

ペンテコステ運動の体験主義は、悪魔から来る偽りの知恵
であって、その起源は創世記において、エバが悪魔にそそのかされて、何が正しく、何が間違っているのかを自らの頭で考察・検証することをやめて、ただ感覚と印象だけに身を任せて、自分にとって美しく、好ましいと感じられる禁断の実を手に取って罪に堕落した時に、彼女に吹き込まれた偽りと同じトリックである。

悪魔は、決して信者たちに何事もきちんと考察・検証させず、ただ感覚と印象だけに従って、自分にとって好ましいものを選び取るようそそのかす。その上、そうした愚かで自己中心な行動によって、「神のようになれる」と吹き込むのである。今日も、ペンテコステ運動の信者たちは、何も考えずに自分にとって好ましいと思われる体験に安易に身を任せることで、自分が「神のように賢くなった」と偽りの高慢を吹き込まれているのだが、そんな思い上がりが、キリストの御霊から生まれて来ることは決してあり得ない。


ペンテコステ運動の信者たちは、内心では反知性主義的で、知性そのものを憎んでいる。彼らは、知性があるから、自分は賢いと考えているのではなく、「霊」を受け、何かの神秘体験を味わったから、自分には霊的視力が与えられたと思い込んでいるのである。彼らが「知性」だと考えているものは、その実、自らの欲にそそのかされる「愚かさ」であって、「霊的盲目」に他ならない。だが、その霊は、反知性主義的な高ぶりの霊であるがゆえに、それが愚かさに過ぎないことを気づかせず、むしろ、一番愚かな者に、「自分は一番賢く偉い」などと思い込ませるのである。


この反知性主義は、コンプレックスの裏返しでもある。もう一度、創世記で、悪魔がアダムとエバを堕落させるために欺いた時に用いた心理的トリックを振り返ると、悪魔は人類に向かって、「神は不当にあなた方(人類)の目から知性を隠して、知性を自分だけの専売特許として独占することによって、偉く賢い存在となっているのだ」などと思わせたことが分かる。悪魔は人類に対して、「あなた方は不当に教育(知)を受けられなかったがゆえに、未だ愚かさの中にとどめおかれているのであって、神のあなた方に対する扱いは不当である」という(神に対する)コンプレックスを植えつけたのである。

ペンテコステ運動の信者たちは、低い社会層の出身であることが多いと書いたが、彼らの中には、幼少期から満足な家庭環境がなかったために、心傷つき、あるいは低い社会層の出身であるがゆえに冷遇され、差別されたり、回心前には、少年時代からの不良であっていたり、非行に走っていたり、果てはヤクザになったりした者もある。こうした社会層の出身者には、たとえ無意識であっても、自分の生い立ちへの引け目があり、特に、「自分たちは貧しかったがゆえに不利な立場に置かれ、無学な状態に留め置かれ、十分な教育を受けられなかったために、こんなに愚かになってしまったのだ」というコンプレックスと恨みが心に存在していることが多い。そういう恨みは、特に、高い教育を独占することによって、有利な就職をし、高給にあずかり、「貴族」のごとく支配層となっている知的エリートに対する恨みとして心に潜んでいる。

その無意識の恨みと、被差別感情があるゆえに、彼らは常に自分よりも弱く、問題を抱えた人たちを周りに集めて、人々の救済者のように振る舞いたがるのであり、男性信者、男性指導者であれば、自分よりも知的な女性が目の前に現れた時に、コンプレックスゆえに彼女らを自分に対する大いなる脅威と感じ、敵愾心をむき出しにしたりするのである。

ペンテコステ運動の信者たちは、たとえ無意識であったとしても、いつまでも社会の底辺の敗残者とみなされたままでいることには我慢がならないという怒りと復讐心と、それでも、社会的弱者が知性において勝負しても知的エリートに決して勝つことはできないという確信から、自分たちを見下し、踏みつけにして来た知的エリートを出し抜くために、知性によらず、神秘体験を高く掲げることによって、エリートを凌駕し、復讐を果たそうと試みているのである。それは、彼らを導く霊がさせていることである。このようなことを全て認識した上で、この運動に入信する信者はいないであろうが、たとえ信者たちが認識していなくとも、この運動の根底に流れるものは、反知性主義を掲げることによる知的エリート(最終的には人類、神)に対する復讐である。

だから、こうした運動に関わる信者たちが、愚かな者こそ一番賢いと思って、一切の知的考察を退け、ただ感情と印象だけですべての物事をおしはかるような暗愚な行動を、「知」として誇っている背景には、自分は十分な教育の機会を不当に奪われて社会において冷遇されて来たがために、愚かさの中に閉じ込められて生きるしかなかったのだという恨みの念と、その劣等感ゆえに知性を軽んじ、嫌悪することで、あらゆる知的なものに対して優位に立ち、勝ち誇りたいという復讐心が潜んでいるのである。

筆者はむろん、この国の(あるいは世界の)知的エリートと呼ばれる人々の誇る知性が、必ずしも正しいものだとは思っていないし、彼らが高い教育を財力によって独占している状況もあるべきとは考えない。多くの国々では教育は無償化の方向へ進んでおり、それが世界的な流れであって、我が国もそうならなければならないと考えている。だが、たとえ、すべての人々が高い教育を受け、今とは比較にならないほどの知性を手に入れたとしても、まことの知恵はただ神にのみあり、人類にはどちらを向いても、正しい知恵はないのである。人間の知性にはいたずらに人を高ぶらせる効果がある。今日の知的エリートもまた歪み、病んでいる。だが、それでも、ペンテコステ運動の信者たちの知的エリート主義に対する反発から生まれる反知性主義がいただけないのは、たとえそれがどんなに表面的には、社会構造の歪みから生まれるやむを得ない反発であるように見受けられたとしても、その根底には、神に対する恨みに起因する、人類と神への挑戦という恐るべき性質が隠されているからである。特に、ペンテコステ運動の信者たちは、自らの無知や愚かさを「知」として誇ることで、内心では、悪魔の知恵を振りかざして神の知恵に挑戦しているのである。

こうした特徴のために、ペンテコステ運動に関わる信者たちは、うわべは柔軟で謙虚そうに振る舞っていても、内心では頑固で融通が利かず、一旦何かを思い込むと、周囲のどんな説得にも耳を貸さず、誰に対しても、自分の方が物事がよく見えていると思い込み、その思い込みに基づいて、他者を思い通りにコントロールしようとするのである。

だから、この運動に関わる女性信者たちは、外見がどんなに女性らしく見えたとしても、男性的なまでに猛烈なパワーを発揮してリーダーシップを握り、旋風のごとく周りを巻き込みながら、あらゆる物事を自分の思い通りに進めようとする。

そして、これと引き換えに、この運動に関わる男性信者たちは、軟弱で、意志薄弱で、女性たちからの助けがなければ何もできないほどまでに臆病で無責任な卑怯者となって、上記のような信者たちの言いなりになって、その掌で転がされ、彼女たちの命令に引きずられて行くのである。

このように「男性化した女性」と「非男性化された男性」との転倒した秩序は、たとえば、KFCで隠れてメッセージを語っていたBr.Takaこと鵜川貴範氏とその妻直子氏の関係性にも顕著に見られた。二人の内で主導権を握っていたのは、明らかに妻の方であった。直子氏の高圧的で恫喝的な物言いの前には、Br.Takaのみならず、Dr.Lukeもまるで忠犬のごとく従っていたのであった。

ペンテコステ運動に関わる男性たちが、このように大胆不敵な女性たちに屈従するのは、彼らの内面が空虚で、劣等感に苛まれ、自己が傷ついているためであって、彼らには真のリーダーシップを取れるだけの自信と力がないのである。こうした男性たちには、支持者に誉めそやされ、他者を押しのけて優越感に浸る以外には、自信の源となるものがない。そして、他者から何かを盗むことだけを生き甲斐としている。

筆者は、ペンテコステ運動(だけに限らないが)の信者たちが、勝手に人のメールを転送したり、他人のブログ記事を自分が思いついたもののようにメッセージで利用したり、聖書や先人たちの著書を無断印刷して大量に配布したり、これを自分の作品のように自分のブログで著作権表示もなしに縦横無尽に引用したり、改造する場面を幾度となく見て来た。その結果、こうした剽窃は、盗みなのだという結論に筆者は至っている。

彼らは、自分に近づいて来る信者から栄光を盗むだけでなく、手柄を盗み、思想を盗み、夢を盗む。特に、人の望みを奪って、他者を失望させ、隅に追いやっておきながら、自分だけが脚光を浴びて、すべての栄光を独占することで、気に入らない他者に対する圧倒的な優位性を誇示することが、彼らの最大の生き甲斐であり、よすがである。

この人々は内心が空虚なので、人から盗む以外には、自己の自信と力の源となるものが存在しない。彼らが力強く、大胆に、目を輝かせて、立派そうな態度を取り、雄弁なメッセージを語るのは、イエスマンの支持者に囲まれて誉めそやされ、持ち上げられている時か、教師然と人を上から教えている時か、他者を批判して引きずりおろしている時か、自分よりも弱そうな誰かに支援者のように寄り添い、人の弱みを巧みに聞き出しては内心で自分の優位性を確認して満足している時か、あるいは、自分の偉大な超自然的な力を誇っているような時だけである。

彼らは、人に正体を見破られ、おべっかを受けられなくなり、捧げてもらうものもなくなり、盗むものがなくなり、自己の優越性が失われると、完全に心弱くなって力を失ってしまう。彼らは自分が栄光を受けることのできる舞台には、好んで出かけて行くが、いざ自分が不利な立場に置かれ、人に非難されたりすると、途端に臆病になり、まともな反論一つもできずに、仲間を見捨ててさっさと逃亡し、自己弁護や反論の仕事を支持者たちに任せきりにしながら、自分は影に隠れて陰湿な復讐計画にいそしむことも珍しくない。

多くの場合、ペンテコステ運動のリーダーたちは、あまりにも自尊心が傷つきやすく、臆病で、ナイーブなので、普通の人々であれば、公然と反論できるような些細な疑問や批判にさえ、まともに立ち向かう力がない。それはただ自尊心が傷つきやすすぎるためではなく、内心では、自分が詐欺師だという自覚があるので、反論できないということもあるだろう。

こんなリーダーだから、男性であっても、自分や、配下にある人間を、各種の脅威から力強く守ることもできず、仲間が傷つけられても、我が身可愛さに、自分だけ難を逃れることを最優先して逃亡することしかできない。要するに、彼らは聖書のたとえにある通り、群れを守らない雇われ羊飼いなのであり、羊を食い物にして栄光を受けることだけが目的で、敵の襲来を受ければ、真っ先に羊を見捨てて逃亡するような、勇気と潔さのかけらもない、男らしさを失った、見栄と自己保身だけが全ての、卑怯で臆病な牧者なのである。

だから、そういう臆病で見栄っ張りで自己中心なリーダーの周りには、自然と、同じような取り巻きだけが残ることになる。そのように臆病でずるくて身勝手な人々が、自分たちの弱さ、欠点、醜さには目をつぶって、互いを誉めそやし、自分たちを高く掲げて、神に等しい存在とみなして自画自賛し、自分たちに逆らう者は「悪魔の手下」とみなして中傷し、追い払い、気に入らない他者を呪い、裁きや、破滅の宣告を下すのであるから、目も当てられない有様となる。もうこうなっては、男性らしさ、女性らしさ云々というレベルの話ではなく、人格が荒廃して狂犬のようになって人間らしささえ失っていると言った方が良いだろう。

ペンテコステ運動とは、現実の人生において、社会的に低い立場に置かれ、冷遇され、様々な弱さや屈辱感や劣等感を抱える人々が、地道な努力によって自己の弱さを克服することなく、また、真に神により頼み、信仰によって強められることによってその弱さを克服しながら歩んで行くのでもなく、自分自身の弱さからは目を背け、手っ取り早く、悪魔的な力を手にすることによって、栄光の高みに上り、自分を踏みつけにした人々を見返すための、霊的ドーピングのようなものである。

この運動に関わる信者たちは、自己の真の状態から目を背けて、偽りの神秘体験によって自分が飛躍的に偉大になったかのように錯覚している。そして、リバイバルなどと言った偽りの夢と、自分は神に油注がれた偉大な預言者であって他の信者たちとは別格の存在であるという思い込みに基づいて虚栄に生きているので、そのような目くらましの現実逃避に生きている期間が長くなればなるほど、人格が弱まり、現実の様々な問題に勇気を持って自ら直面しながら生きる力がなくなって行く。

彼らは常日頃から、宗教の世界に逃げ込み、誰もが立ち向かわなければならないような現実の諸問題との接触を避け、自分がいつでも人から賞賛を受け、決して憎まれ役や悪役になって名誉を傷つけられたり、対立に巻き込まれることもなく、ヒーローとなって活躍できるような、安全で夢のような幻想の舞台を、弱すぎる自己のための延命集中治療室として用意している。彼らはその「マトリックス」にあまりにも長期間引きこもっているため、精神的には手足をもがれたも同然の状態であり、その救命室から一歩でも外に出ると、もう自分では生きられないほどに弱くなっている。

現実世界においては、そんな彼らの弱さのために、多くの場合、こうした指導者らの家庭は深刻な危機にさらされている。夫婦仲が悪かったり、配偶者をよそにして信者との霊的姦淫にふけっていたり、子供たちが病に倒れ、自殺に追い込まれていたりするが、それにも関わらず、こうした指導者たちは、自らの崩壊しかかった家庭や、孤独に悩み苦しんでいる(あるいは死にかかっている)家族をかえりみようともせず、自分一人だけ脚光を浴びる舞台に立って、立派な教師然とメッセージを語り、人々の注目と拍手喝采を浴びて満足していたりする。最悪のケースでは、子供たちが自殺に至っても、その事件を「神が信者としての私に与えたもうた信仰の試練」などと言って美化・正当化し、自分の宗教活動の異常さに気づくこともなくさらに突き進んで行く有様である。

筆者は、異端の宗教はみな弱肉強食であり最終的には子殺しへと結びつくと述べて来たが、このような域まで達すると、信者が支払った代償も大きすぎるので、偽りに気づいて後戻りすることもほぼ不可能であろうと思う。ペンテコステ運動が信者に与える影響とは、このようなものなのである。どうしてそんなものが正常な信仰と呼べようか。

ところで、筆者の考えでは、真の男性らしさというものは、自分を傷つけられたり、脅かされたりする時にも、忍耐強く耐えしのびつつ、苦難に力強く抵抗し、言うべきことはしっかり言って反論もしながら、自分を守り、同時に仲間を励まし、希望を持ち続ける力にこそある。

真の男性らしさとは、人からいわれなく誤解されたり、非難されたり、評判を傷つけられたり、反抗されたり、あるいは突如、襲来する敵と戦いになって傷を受けても、自分と自分の配下にあるものを最後まで力強く勇敢に守り抜くことができる強さにこそある。この強さは、ただ単に肉体的な強さを意味するのではなく、何よりも精神的な強さを意味する。だが、その強さは、己のためにあるのではなく、自分よりも弱いものをかばい、声なき者の声を代弁するための強さである。だから、真に男らしい人間は、自分が憎まれ役になって泥をかぶることを厭わず、誤解されること厭わず、自分の栄光を愛さず、傷つけられても力づくで報復しない。このような強さと忍耐こそ、真の男気につながる賞賛に値する美徳ではないかと筆者は考えている。

真に完成された「男らしさ」は、人間にはなく、人類の救いのために、あらぬ嫌疑をかけられ、いわれなく誤解され、憎まれて、十字架において死に渡されることによって、人類の反抗を耐え忍ばれたキリストにこそ、最もよく表れているのではないかと思う。キリストにこそ、神は男性に本来的に与えられた理想的な忍耐力を余すところなく表されたのではないかと筆者は考えている。その忍耐力とは、自己の名誉や、自己の評判や、自己の安全を守るために、自己の圧倒的な強さを他者に見せつけ、他者を力づくで排除してでも、自分の正当性を主張するというものではなかった。むしろ、自分を理解しない者、自分を誤解する者、自分を非難し、自分に石を投げ、嘲笑する者のために忍耐し、また、自分の愛する者、自分の信じる者のために、自分自身を完全に投げ出して犠牲にし、愛する者が真に自分を理解して振り返ってくれる時まで、誰にも何事も押しつけることなく待つことのできる力であった。

むろん、このような完全な忍耐と自己犠牲は、キリストにしか提供することのできないものであり、神がついておられればこそ、御子の正しさが証明されるのであって、人間が神に代わって自己犠牲することで他者を救うことはできないし、それによって自分の正しさを証明することもできないであろう。だが、我々は、キリストを模範として、そこから学ぶことはできる。キリストは聖霊を受け、神の力を持っておられたにも関わらず、それを自己の強さや優位性を他者に見せつけて、他者を圧倒して排除する目的では用いられなかった。キリストの力は、自己の正当性を主張するためではなく、神の栄光を証するために、他者を生かすために用いられ、ご自身はその力によって武装することなく、自分自身を誇示することもなく、むしろ、徹底的な弱さの中を通らされることによって、ご自身ではなく、神に栄光を帰されたのである。

その行動を見れば、ペンテコステ運動の信者たちの目指している目的が、どれほどキリストの示された模範からほど遠いものであるかが分かるであろう。この運動は、神に栄光を帰さず、キリストを証しない。むしろ、神を口実として、人類が己を神以上に高く掲げ、自己を栄光化し、自分自身を「神」として崇拝することを正当化する。この運動は、キリスト教に名を借りていても、その本質は全くキリスト教ではない異質な思想であり、そこでは、劣等感や心の傷や怨念によって癒着した人々が、キリスト教界を仮想敵として団結しながら、聖書の御言葉に基づく真の知恵ではない、体験主義という偽りの知恵を掲げて、キリスト教に戦いをしかけ、怨念と反知性主義によって、クリスチャンを引きずりおろして、その代わりに自分自身を高く掲げるのである。

彼らは常に仮想敵を作っては、自分たちは敵に囲まれ、不当に攻撃されていると言って騒いでいる。その仮想敵は、主にキリスト教界を指しているのだが、一体、それほどまでにキリスト教界を非難し、攻撃し、侮蔑せずにいられない彼らの恐怖と疑心暗鬼はどこから来るのであろうか。それは、彼らの内心の拭い難い恐怖と劣等感――根源的には悪魔の恐怖と屈辱感――に由来する。自分たちの卑怯さを重々内心では分かっており、自分たちはいつか罪のゆえに必ず裁かれ、その裁きはすでに決定済であるという確信あればこそ、彼らは絶えず恐怖に怯え、自己正当化のために、キリスト教とクリスチャンに有罪宣告せずにいられないのである。彼らに裁きを宣告するのが、聖書の神であり、キリストの十字架であり、クリスチャンの証であればこそ、彼らは自分たちを訴える者を早々に取り除き、消し去ろうと、今日もキリスト教界を敵とし、キリストの十字架を敵とし、クリスチャンを敵として非難しながら、「バラバを赦せ!キリストを殺せ!」と叫んでいるのである。どうしてこんな運動がキリスト教の一派のわけがあろうか。

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