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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、彼はあなたから逃げ去るであろう。

「死に至るまで忠実であれ。そうすれば、いのちの冠を与えよう。 」(黙示録2:10)

「試錬を耐え忍ぶ人は、さいわいである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう。 」(ヤコブ1:12)

何年も前から、当ブログにおけるキリストの復活の証に憎しみを燃やし、この証を何とかして地上から取り去り、筆者を含め、真実に聖書の神に従う信者たちの信仰告白を、この世から消し去ろうと腐心している勢力があるが、彼らは常に失敗を続けている。

しかし、悪人どもは、色々な工作をしかけたが、結局、このブログを消し去ることに失敗し、ブログ主を告訴することもできなかったので、このブログの一番どうでも良い記事ばかりが検索結果にヒットするよう常に腐心している。

ところが、このように検索結果が歪められているおかげで、筆者には、悪人どもの狙いがこの上なくはっきりと理解でき、当ブログ記事のどこに弱いところがあって、何をどう書き直すべきか、そのヒントをも的確につかむことができるのだ。

つまり、悪人どもが何を企んでいるのかが分かるため、その策略が功を奏さないよう、以前に書いていた信仰告白の弱いところを補強する。

悪魔を喜ばせるだけの不信仰な文面はすべて削除して、キリストの十字架における解決の完全性をこの上なく強調する内容とする。

中途半端に言い切れていなかったがゆえに誤解を与えそうな表現は最後までガッチリと文脈の中に抑え込み、まことの神だけに栄光を帰するように改める。むろん、書き直し不可能な文章は惜しみなく削除して、新たな信仰の証のためにスペースを空ける。

人間の義を掲げて神の義を退け、十字架を否定して、神に敵対する人間たちの悪事は、激しい言葉で糾弾する。そのような記事はできるだけ前面に出す。悪魔に魂を売った連中が恥じ入るようにだ。

これは決して筆者のブログがもっと見栄えが良くなるように書きなおしているのではなく、また、人の目に読みやすいように変えているわけでもない。読者の存在など、もう何年も前から、筆者の眼中にはなく、文学的修辞も念頭にない。

おそらく、筆者の文章力は、当ブログを始めた頃に比べれば、落ちたことであろう。何しろ、以前の筆者は美的感覚に随分、こだわっていたが、今はもうそんなこだわりがなくなったからだ。しかし、文学的な表現力とは全く違う次元で、言葉というものが持つ本当の衝撃力を、筆者は理解したのである。

当ブログの文面は、人に対するものではなく、暗闇の軍勢に対する神の御言葉による攻撃である。また、すべてのものがひざをかがめて、キリストを主として迎える時のための人間側からの準備なのである。

だから、キリストだけにすべての栄光が帰されるように、また、キリストの救いの完全性がこの上なく明確にされて、ここに書かれている内容が、神に栄光をもたらし、暗闇の軍勢にとって恥となり、この上なく不都合な内容となるようにすることこそ、当ブログの狙いなのである。

そのため、悪魔にとって不都合な事実をしきりに強調しながら、神の正しさ、神の憐れみ深さ、神の愛の偉大さがより明確になるよう、書き直しているのである。

一体、そんなことをやり続けることに、意味があるのかと問う人もあろう。しかし、悪人どもの意図的な攻撃が続く限り、筆者の彼らに対する追い討ちも続く。

この戦いの過程で、筆者は相当に強くなったし、戦いのポイントをかなりおさえたのである。

神の被造物である人間を日夜訴え、苦しめ、その尊厳を奪い、無益な人生を送らせようと狙っている勢力があるのに、どうして無防備に呑気に構えている必要があるか。そんなのは愚かな人間のすることである。我々も悪魔と同じだけの執念を持って、日々、悪魔に立ち向かわなければならない。そうすれば、悪魔は逃げ去って行く。悪魔の抑圧から解放されることができるのに、その権利をつかみ取らないほど、無意味なことはない。

さて、悪魔に立ち向かうために、有益なコツをいくつかここに書いておく。

➀・・・罪悪感と訣別すること。これは信者にとって第一義的に必要なことである。クリスチャンが罪悪感や自責の念に苛まれていては、決して悪魔と対峙することなどできはしない。むろん、罪なる生活を送り続けながら、罪悪感を捨てるべきと言っているのではない。思いつく限り全ての罪から離れるべきである。だが、離れたならば、もう罪悪感を持ち続けてはいけない。過去に何があったかなど、忘れることだ。いや、忘れなくても良いが、過去は血潮によって清められているという事実を掴むことである。自分の人生に頓着してはいけない。

悪魔は訴える者であるから、あらゆるきっかけをとらえて、あなたを告発しようとして来る。それに対しては、ただ神の義による潔白を徹底して主張することである。自分が何者であるかに立脚せず、神が何者であるかに立脚して闘うのだ。そして、あなたの人生そのものが、キリストの義によって覆われているのだから、あなたの人生そのものがキリストと同じほど、聖別されていることを確信しなさい。

さらに、時には、倍返しの訴えを悪魔に返してやり、あらん限りの力を持って、神の御前で悪魔を告発することも有益である。何しろ、悪魔は最初から罪を犯しているから、悪魔の罪状など終わりなく挙げられる。

悪魔を訴えるに当たり、最も有益な罪状は、クリスチャンに対する迫害の罪である。悪鬼どもは人間よりも寿命が長いので、有史始まって以来、クリスチャンの血をいわれなく流して来た己の罪をよく覚えている。特に、皇帝ネロの大迫害などは、悪魔の所業としていつでも効果的に訴えられる材料である。クリスチャンに対する迫害を、あなたの同胞に対して悪魔が犯した罪として、我が事のように告発せよ。悪鬼どもを殺人者として告発し、聖徒らの迫害者として神に訴えるのだ。その際、恐るべき執拗さを持って、悪魔があなたにしようとしたのと同じほどの執念で、彼らを延々と訴え続けることが有益である。悪魔はそのようにクリスチャンから非難されることが大嫌いであるし、第一、聖徒らの口から自分がクリスチャンの迫害者として非難されることに耐えられない。義人の証言は、暗闇の軍勢に対して大いに衝撃力を持つ。悪魔には良心の呵責は無いのかもしれないが、それでも、罪の自覚が存在するのである。彼らは自分の美が傷つけられることに耐えらない。だから、その非難の際、彼等には悔い改めの余地が永遠に失われており、彼等を待ち受けるのは神の激しい御怒りと地獄の火の池であることもセットで強調するが良い。

②・・・キリストが十字架で取られた完全な勝利を我が物として宣言し、自分の人生のあらゆる場面に適用すること。この点で、クリスチャンは謙虚でありすぎてはいけないし、臆病であってもいけない。クリスチャンは人生の勝利者なのである。あなたの人生の現時点での弱点は何か? 仕事がないことか? 体の不調か? 友人が足りないことか? 家族の理解がないことか? もしあなたが自分の生活に何かしらの弱点を持っているならば、それがキリストの強さによってすでに覆われており、キリストが天に備えて下さっている解決が、すでにあなたのものであることを高らかに宣言し、これを自分に適用せよ。状況に目を留めず、神の強さと恵みに大いに満たされ、それを宣言しなさい。弱々しい生活を送りながら、悪魔と対決することはできない。

神の解決を御言葉によって掴んだならば、もうそれ以上、問題などというものは存在しないのだから、問題を現実のようにとらえるのをやめることである。また、「助けて下さい」と神に向かって懇願するのではなく、もっと大胆に、主の御名によって、状況に向かって命じるのである。

クリスチャンには環境を支配する力がある。地上に生きる動物も、天候も、テクノロジーも支配することができる。その逆ではないのだ。アダムもそれなりに支配力を持っていたが、あなたの支配の力は、すべてにまさる主の御名から来る。だから、キリスト者にどれほど絶大な支配力が与えられているのか、試してみなさい。たとえ嵐が吹き荒れていても、主がそれを静められたことを思い出し、あらゆる困難な状況に向かって、従うよう命じなさい。命じたら、状況がどうあろうとも、それに左右されないことである。状況に主導権を与えず、それをあなたが握りなさい。

主があなたの牧者であるから、あなたには欠けたところは何もないという事実を大胆につかみ取り、あなたの人生における全ての欠乏を、天の恵みによって隅々まで満たしなさい。このようにして、クリスチャンが満たされて恵まれた人生を送り、喜びに溢れることは、悪魔にとって非常に忌々しい大打撃となる。

③・・・ただ神だけに頼ること。神以外のものに頼っていると、恵みが制限される上、御霊からでない無用な助言や忠告も入って来て、混乱が生じる。だから、人に頼らず、神だけに頼りなさい。神だけが栄光を受けられる状況を自ら用意しなさい。

④・・・さらに、神を喜び、高らかに賛美しなさい。悪魔はクリスチャンが喜んでいるところを見るのが我慢がならない。だから、特別に良いことがあった時だけでなく、どんなきっかけをとらえてでも、神を喜び、神に感謝と賛美を捧げるべきである。

むろん、人間には良い時と悪い時があり、不調の時もあろう。だが、そういったすべての状況を超えて、天の喜びの中に住まう秘訣を掴むのである。天にある富がどのくらい地上に引き下ろされるかは、あなたの信仰の状態にかかっている。あなたの霊が打ちのめされている時に、大胆に信仰を働かせることはできない。だから、何かダメージを受けても、失意に落ち込むことなく、できるだけ早く立ち上がり、信仰を奮い立たせ、天に直通の祈りを働かせる秘訣を学ぶことである。そのために最も有益なのは、主を喜ぶことと、主を賛美することである。賛美には人の霊を奮い立たせ、暗闇の軍勢の束縛を打ち破る力がある。パウロが獄中にいたとき、賛美によって囚人の枷が落ちたことを思い出せ。

クリスチャンよ、いつまでも打ちひしがれていないで、信仰によって、大胆に立ち上がって、歩き出しなさい。試練を通過するとは、打ちひしがれ、翻弄され、束縛や弱さに黙って身を委ね、そこから立ち上がれなくなることではなく、むしろ、その逆なのである。あなたに約束された命の冠を受けとるために、御霊によって強くされて、信仰の戦いを立派に戦い抜きなさい。主は世に勝った方であり、あなたにはこの世のどんな圧迫にもまさる御名が与えられているのだから、その権限を地上で大胆に行使しなさい。そうしているうちに、キリストとあなたとの距離が、思ったほど遠いものではなく、むしろ、主があなたと一つになって働いて下さることが分かるようになるでしょう。

神はあなたを通してもっと働きたいと願っておられる。その可能性は十分に開けているのに、問題は、常に人間の側からの神への応答が、不十分なことにある。だから、もしあなたさえ同意するならば、暗闇の軍勢との霊の戦いにおいて、神はあなたを勇敢な戦士として十分に訓練することができることを信じなさい。その確信に身を委ね、訓練を始めなさい。どうせなら、弱々しい一兵卒で生涯を終えるよりも、将軍になった方が良いと思わない人がどこにあるだろうか。
 

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