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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

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己が罪から目を背け、自己を英雄化する日本政府の現実逃避のトリックからはエクソダスせよ

1.日本は真の戦後を未だに迎えていない。戦前と戦後の板挟みの中、歴史の岐路に立つ日本
 
これまで書いて来たように、現在の日本の抱える最大の自己矛盾は、現行の憲法を含め、現在の日本政府の形態、および、国内のすべてのシステムに、敗戦以前の明治憲法時代の体制の遺物が中途半端な形で温存されているために、敗戦によってすでに敗れ、罪に問われ、とうに裁かれ、追放されているはずの勢力と、その悪しきイデオロギーが引き継がれて今日に至っていることから生じる。

つまり、本来、敗戦によって終止符が打たれなければならないはずの思想やシステムが、こっそり仮面をつけかえて戦後の体制に忍び込み、堂々と大手を振ってこの国の頂点に居座り、君臨していることが、この国にさまざまな矛盾と悲劇を呼び起こしている最大の原因なのである。
 
その矛盾の筆頭は、敗戦後、A級戦犯であった岸信介が首相にまでなった事実にも見られるように、「共産主義の脅威に立ち向かう」ことを口実に、米国の承認を受けて、本来は、裁きの対象とされ、公職から完全に追放されていなければならなかった戦前の政治勢力が政界に返り咲き、この国のトップの座に居座り続けたことにある。

政界のトップに、敗戦によって終止符が打たれたはずの勢力が居座り続けたわけだから、我が国に敗戦後も、真の刷新が訪れなかったのは当然である。

国民には敗戦によってあらゆる負い目の意識が植えつけられたかも知れないが、政府には、敗戦によっても変わることのなく戦前と同じイデオロギーが受け継がれたため、国民と政府との間に大きな「ねじれ」が生じたのである。

その「ねじれ」は今日に至るまで、政府と国民との間の巨大な思想的な壁、この国のシステムの抱えるあらゆる自己矛盾となって受け継がれている。
 
さらに、敗戦後も政府に居座り続けた戦前の政治勢力と同様に、明治憲法時代の官僚制の遺物も、戦後の憲法の制定直後から抜け目なく温存されて今日に至っている。それが、我が国第二の悲劇である。

敗戦によって天皇の戦争責任を問うことなしに、天皇制をそのまま温存し、さらに、生まれや、門地、家柄による差別を禁止しながら、皇室だけをその例外とし、天皇という地位が、血筋、生まれ、家柄によって定められるものとしていること自体が、憲法の抱える最大の自己矛盾である。

そして、天皇制が廃止されなかったことをきっかけに、天皇制を隠れ蓑にして、本来、敗戦によって敗れたはずの政治勢力と、官僚制が、抜け目なく自己保存をはかって今日に至っているのである。

つまり、この国は、敗戦を経験しても、上層部はほとんど変わることなく今日に至っているのであり、そのために戦後の政治的刷新が行われなかったことこそが、この国最大の「ねじれ」であり、最大の矛盾であり、国民の悲劇の源なのである。
 
このような自己矛盾があるため、この国では、未だ戦前の遺物と、戦後に作られた新体制のイデオロギーとが激しくせめぎ合い、この国を過去へ引き戻そうとする力と、過去と訣別して未来へ向けて新たな一歩を踏み出そうとする相矛盾する両方の動きが同時に起きているのだと言える。

表面的には、A級戦犯の孫が首相になっていたり、肥大化して国全体を操る官僚システムがあったり、軍国主義や国家神道の復活を願う日本会議の面々によって政府が事実上、占領状態に置かれていることなどから、この国ではあたかも明治憲法時代へ逆戻りしようという勢力が大勢を占め、未来に向けた刷新は絶望的であるように見えるかも知れない。

だが、実際にはそうでなく、天皇の生前退位へ向けたメッセージにも見られるように、そうした歴史的後退の動きを牽制し、むしろ、「真の戦後」に向けて、自己矛盾を取り払い、新たな一歩を踏み出そうとする動きも、ないわけでなく、目立たないように見えながら静かに力強く進行している。

この国はそうした意味で、今、重要な岐路に立たされているのだと言える。筆者は、天皇の生前退位に関する意向表明は、たとえ天皇自身が意図していなかったとしても、やがては必ず天皇制そのものの廃止という議論へとつながって行くであろう極めて重大な問題提起を含んでいることを、思わずにいられない。

明仁天皇の「お気持ち表明」は、天皇とて基本的人権を有すべき一人の人間である、というごく当たり前の事実を表明したものであるが、しかし、現行の憲法と皇室典範の規定では、その当たり前の事実も、当たり前に実現できない、という矛盾が、それによって露呈したのである。

その意見表明により、現行の憲法が規定する国民と皇室との区別という象徴天皇制そのものの抱える自己矛盾が白日の下にさらけ出されたのだと言える。

それゆえ、天皇のメッセージは、天皇を国民とは別格の高みへと押し上げて、天皇を中心としたヒエラルキーをより強化したい人々の願いに応えるどころか、むしろ、それとは逆に、天皇を国民と同じ水準へと「引き下げ」て、天皇と国民との平等化をはかろうとする意味をおのずと含んでいた。

天皇は、天皇という地位だけが独り歩きして、その地位によって自分が現実以上の存在に祀り上げられて栄光化されるのを拒み、むしろ、自分は普通の人間として生き、普通の人間として人生の幕を閉じたいという願いを表明した。

それは明仁天皇という一人の人間の願いであるだけにとどまらず、結局は、天皇を頂点とする虚構のヒエラルキーのみなしさを暴露するものであり、そうである限り、ヒエラルキーそのもの崩壊へとつながる序曲だと言っても差し支えないほどに、衝撃的な意味を持つものと筆者は考えている。

明仁天皇のメッセージは、ただ激務から解放されたいという個人的願いを示すだけのものではなく、天皇であり続けることには、何ら輝かしい栄光はなく、むしろ、一人の人間を生涯に渡って人身御供にしてしまうような、ある種の非人間性が伴うことを無言のうちに明らかにしたのだと言って差し支えない。

従って、そのような告白がなされたこと自体が、天皇を未だ取り巻く神秘のベールを取り払い、天皇を神話化し、栄光化しようとする動きに相当、水を差すものであったことは間違いない。

つまり、そのメッセージ自体が、天皇制を隠れ蓑に、自分たちを「上級国民」として栄光化し、「下級国民」を見下して、ヒエラルキーを強化したい人々にとっては、限りない屈辱であり、著しい敗北だったのではないかと思う。

結局、この「お気持ち表明」を通して、明らかになったのは、現行憲法が定めている、日本国民の間に差別を敷く天皇制そのものが抱える自己矛盾であり、その矛盾が、天皇自身をも人間として犠牲にしていること、また、そのような形で天皇制を維持し、人が生まれによって人の上に立つことを認めたがために、我が国では、天皇ばかりか、敗戦によって終止符が打たれるべきであった旧いヒエラルキーが温存され、国民の間でも、競争が敷かれ、地位や職務ばかりが独り歩きし、社会における役割を離れての一個の個人の価値というものが、全く重視されなかったことである。役割を離れた個人の価値を認めないからこそ、基本的人権も軽視されている。

こうしたことから、筆者は、今回の明仁天皇による「お気持ち表明」は、天皇を基本的人権の例外とみなす自己矛盾の撤廃と、生まれや血筋に基づく差別の完全な撤廃と平等の実現に向けて、やがては天皇制そのものの撤廃へとつながる国民的な議論を呼び起こすであろう、と予測するのである。
 
むろん、明仁天皇は、そのメッセージによって、象徴天皇制自体の廃止の願いを表明したわけではなく、象徴天皇制そのものは国民と共に続いて行くことを願っていたので、天皇自らがそのような希望を述べたわけではない。

また、今はまだ多くの人々が、明仁天皇の生前退位の問題は、個人の問題に過ぎず、大々的な制度的変革の必要性は生じず、まして天皇制の廃止といった話には結びつかない、と考えているかも知れない。だが、筆者の予測では、そうはならない。

明仁天皇の生前退位によって提起された問題は、以上に述べたように、もっと根本的な重みをもつ問題提起なのであり、そうである限り、いずれ必ず、皇室や天皇制そのものの廃止という議論へとつながって行くことであろうと思う。
 
こうして、奇妙なきっかけであったとはいえ、今まで一度もこの国に姿を現したことのなかった真の民主主義へ向けての展望が、天皇自らの生前退位を示唆する意向表明によって、わずかながら姿を見せ始めた。

たとえこれをどんなに妨げようと考える勢力がいたとしても、一旦、始まった動きはいつの日か必ず成就されるであろうと筆者は思う。

さて、この生前退位の問題に関して、天木直人氏のブログに極めて重要な指摘があったため、転載しておきたい。

天木氏の記事における重要なポイントは、現在の皇室典範は、明治憲法時代の旧皇室典範の精神をそのまま受け継いだものだということである。

明治憲法時代の旧皇室典範は、皇族についての家法でありながら、憲法と同格の法規とみなされ、なおかつ、国民をも束縛する内容であった。戦後の皇室典範は、憲法と同格ではなく、憲法の規定に従って作られた下位法に過ぎず、国民は議会を通じてこれを改変することができ、皇室典範が国民を縛るとこともない。

だが、安倍政権を含め、極右・保守勢力は、この秩序を再び逆にして、憲法を貶めたいのであろう。彼らは皇室典範は改正せずに、憲法だけを改正することによって、憲法の精神を愚弄し、さらには将来的には、皇室典範を憲法の上位に置いて、再び天皇の名の下に国民を束縛することを主眼としているのだと考えられる。

「皇室典範は壊憲派にとっての9条だ」などと世間で言われたりするのも、こうした理由からである。だからこそ、天皇の生前退位に関しても、安倍政権は皇室典範を改正することを嫌がり、この問題を特別立法によって済まそうとしているのである。
 
つまり、彼らの目には、今も憲法と同等の(それ以上の)法規と見えており、本当は彼らが憲法につけ加えようとしている緊急事態条項などにもまして、天皇の名の下に、国民の人権を再び大規模に抑圧することが狙いであって、皇室典範こそ、それを正当化するための精神的根拠なのであろう。
 

天木直人氏のブログ記事
皇室典範は国民の手で改正しなければいけない」から転載
2016年8月17日

 国民の圧倒的多数(8割-9割)が天皇陛下の生前退位を支持する事が分かった以上、もはや安倍政権はそれを認めるざるを得ない。

 本来ならば皇室典範の改正が本筋であるが、メディアがはやばやと報
じたように、安倍政権は特別立法で乗り切るつもりだ。

 なぜか。

 
その理由を発売中のサンデー毎日(8月28日号)でノンフィクション作家・評論家の保阪正康氏が、で見事に言い当てくれた。

 すなわち、彼は「平成の玉音放送を読み解く」と題する特別寄稿の中で、皇室典範に関して次のように書いている。

 「・・・大日本帝国憲法成立と旧皇室典範はほぼ同時期に成立していて、いわば近代日本の天皇制はこの二つの枠組みで決まっていた。天皇はこの国の主権者であり、統治権、統帥権の総攬者であった。これに反して新憲法の成立とやはりほぼ同時期に決まった新しい皇室典範は、本来なら新憲法と併せて象徴天皇の両輪になるはずであった。

ところが、
たとえば新憲法では、国民の市民的権利を認める民主主義の創設を謳っているにもかかわらず、新しい皇室典範は旧皇室典範を踏襲した形になっていた・・・つまり今の憲法と皇室典範には、共通の回路があるわけではない。二つの枠組みには異質なものが抱え込まれている・・」

 賢明な読者なら、この指摘がいかに深刻な意味を持っているか、お分かりだろう。

 つまり新憲法は天皇制に関しては明示憲法の考え方を引き継いでいるということだ。

 そして天皇制に関して明治憲法の考えを引き継いでいるということは、新憲法は民主主義と明治憲法の相反する矛盾を抱えているということだ。

 この矛盾に私は気づかなかった。

 いや国民のほとんどは気づいていないに違いない。

 新憲法の成立過程は国民の手に及ばないところで作られた。

 しかし皇室典範はもっと国民の手の届かないところで作られ、その存在は国民の意識の外にあり続けたのだ。

 天皇陛下の生前退位によって皇室典範の改正が不可避になった以上、我々は、特別立法というごまかしではなく、いまこそ皇室典範の改正を求めなければいけない。

 すなわち国民の手で、皇室典範を、新憲法の定める民主主義、基本的人権尊重の精神にしたがって、作り直す必要があるのだ。

  明治時代への回帰を求める国粋・右翼の連中が、おそれおおくも天皇陛下の生前退位のお言葉に不快感を抱き、皇室典範の改正に反対する理由が、これではっきりした。

 日本が本当の意味で民主主義国家になれるかどうか。

 いま我々は歴史の大きな転換期に立たされているのである。

 天皇陛下が覚悟を持って示されたお言葉を、特別立法でごまかしては日本に民主主義はやってこない(了)

 

このように、我が国では、法的にも、民主主義を阻む戦前の遺物と、民主主義へ向けた新たな一歩と、全く相矛盾する二つの理念が未だ併存し、対立している状態で、戦後70年が経過しても、未だ過渡期のような状態である。だが、そうであるがゆえに、今、極めて重大な分岐点に差し掛かっているのだと言える。
 
時計の針を逆戻して歴史をさかさまにすることは誰にもできない以上、今はどんなに弱く小さく見えても、時代を前進させ、刷新する動きの方が最終的には勝つであろう。
 
さらに、天皇制の次に廃止されなければならないものが、官僚制度である。
 
 明治憲法下では、 主権者は天皇であるとされており、行政官庁は天皇の直属の機関であり、官僚は天皇の僕ということになっていたので、天皇に仕えるという名目で、官吏には特権的な社会的地位を得、身分保障がされていた。さらに、官吏の人事は、議会も関与できない「聖域」であった。

戦後になっても、事情はあまり変わらず、戦後、官僚は天皇の僕ではなく、国民の公僕と定められている。しかし、現実には、官僚には国民の公僕との意識は全くと言ってよいほど存在しない。天皇の直属の機関でなくなってもなお、官僚には国民が主人なのだという意識はなく、かえって自分たちは国民に君臨する存在だという意識に貫かれている。

悪しき上級キャリア試験に合格したというエリート意識が、彼らの国民への優越感をより一層助長しており、そうした官僚の特権的・優越的な意識と、その意識に基づいて、彼らが現実に作り上げ、維持している、肥大化したモンスター・天下り・システムも、結局は、「神である天皇に直接仕える官吏」という戦前の幻のような自惚れと特権意識をそのまま今日まで引きずることによって正当化されている。

そのような官僚の優越感と特権意識は、憲法が中途半端に天皇制を温存したがゆえに、これを隠れ蓑に正当化されているのだと言える。官僚には敗戦後も何ら精神的刷新が訪れず、戦前と変わらず、自分たちは国民に君臨する特権階級だという意識が持ち続けられ、そのために、現在も、自らの優越的地位を正当化し、手放さないのである。

また、官僚の人事が「聖域」であるという事情も変わらず、国家公務員は若くして国家公務員試験に合格し、省庁に採用されさえすれば、よほどの不祥事を起こして世間を騒がせたり、あるいは組織内部の判断によって降格されたり罷免されたりといったことが起きなければ、誰からも出世コースを阻まれることがない。

官僚のエリート意識を生んでいる一つの大きな要因は、官僚の登用試験制度である。戦前の官吏が試験を通じて登用されたのと同様に、今日も官僚は試験によって採用され、しかも、キャリアとノンキャリを区別するエリート専用の試験が設けられている点も、戦前と同じである。
 
このように画一的な、生涯に渡る出世のコースが限定されてしまうような試験の区別がなされていること自体、極めて深刻な問題であるが、それは戦前の制度を今日に継承して成り立っている。
 
こうして官僚の出世の可能性はおおよそ試験の結果によって決まって行く。民間企業にも、入社試験なるものはあるが、その試験が、入社後の人事に半永久的に影響を及ぼすことは決してない。さらに今日、民間企業にはアファーマティブ・アクションの一環で、障害者雇用の枠なども義務付けられているが、国家官僚にはそれもなく、経験者採用の枠組みも狭く、官僚になるには、基本的には、一定年齢の間に公務員試験に合格する以外には道がなく、たった一度の試験結果がほとんど生涯に渡って影響を及ぼすのである。

そんな制度自体が、年齢や能力に基づいた差別であり、しかも、そのような画一的な試験に高得点で合格した人間こそが、真に官僚にふさわしい人間だと判断できるだけの客観的な根拠は、全くどこにも存在しない。

明治時代、当初は官吏の試験を受けることのできるメンバー自体も限られており、学歴や卒業校による差別も行なわれていた。

その後、官吏になるための試験は国民の誰もが受けられるという体裁にはなったが、それも表向きのことであり、実際には、戦後の今でさえ、東大(法学部)卒がキャリア官僚の大半を占めるという構図は変わっていない。

こうしたシステムはすべて明治時代に作られた官吏の制度に起因しており、それが敗戦を経ても、本質的に変化することなく今日に精神的に受け継がれている。

だが、こうしたシステムは、戦後の憲法の時代、何ら正当な根拠を持つものではない。
 
このように、日本では、天皇制を筆頭として、官僚制も温存され、政治的刷新がなされなかった。戦後の憲法でさえ、完全な政治的刷新を拒む不完全さと矛盾を抱えており、そこにあらゆる戦前の悪しき勢力がつけ込み、自己保存をはかった結果、不完全な憲法の中にこめられたなけなしの新時代の理念さえ、骨抜きにされ、愚弄されて、今日まで一度も完全な形で実現を見ていない。

たとえば、戦争放棄や、非核三原則でさえ、米軍基地が置かれたことや、自衛隊の設置により、骨抜きにされ、日本国憲法が基本的人権によって保障している最低限度の生活や、居住移転職業選択の自由といったものも、定められてから一度たりとも国民の間で完全な形で実行されたことはない。
 
憲法の定める差別の禁止や平等などは謳い文句に過ぎず、今も我が国に根強く存在するのは、幼い頃から学校で良い成績を取り、偏差値優秀な大学を卒業し、官庁やエリート企業に勤め、そのエリートコースから外れなかった者だけが、社会の最上層部で特権的で裕福な生活を享受でき、自由を謳歌できるという幻想であり、他方、エリートコースから逸れた者には、その外れた分だけ、人間としての自由や権利が制限されて行く、という歪んだ価値観が横行している。

就職による新卒・既卒の区別など、法的には何の根拠のない差別でしかないのに、そのようなものが「慣習」として大手を振ってまかり通り、そのような悪しきヒエラルキーを容認し、正当化する最たる制度として、受験競争の上に官僚制度が君臨しているのである。
 
おそらくは、官僚制度がなくならない限り、日本特有の「受験戦争」や「就活」の異常な風景もなくなることはきっとないであろうという気がしてならない。

こうして、日本国憲法の理念は、戦前に作られてとうに撤廃されてしかるべき悪しきヒエラルキーによって、成立から今日に至るまで、絶え間なく踏みにじられ、愚弄され、骨抜きにされている。そのせいで、我が国では一度もきちんと完全に実行されたことがない。ところが、この憲法を、実行もされないうちから、時代遅れなものとして撤廃しようという動きが出ていることには、呆れる他にない。その理由として、そうした動きを助長する人々は、この憲法は「米国から押しつけられたものだった」と言う。

だが、実際には、日本国憲法は「押しつけ憲法」などではなかったのであり、つい先日も、「「9条は幣原首相が提案」マッカーサー、書簡に明記 「押しつけ憲法」否定の新史料」(東京新聞 2016年8月12日 朝刊)という記事により、また新たな裏付づが得られたばかりである。

ところが、こうしたニュースも、国民の目を欺きたい勢力は、トリックによってかき消そうと、「魔法」に余念がなく、「日本の憲法「我々が書いた」…米副大統領」(YOMIURI ONLIEN 2016年08月16日)といった情報を盛んに御用メディアで流布し、何とかして、戦後の憲法は米国から押しつけられたものだったのだ、という歪曲された歴史観を強化しようと試みている。

だが、たとえ現在の米副大統領が「我々が書いた」と発言したからと言って、当時の証拠もなしに、そんな発言だけを頼りに、日本国憲法が押しつけだったという論拠とするのは愚かであろうし、そんな試みは後世の人々による歴史の書き変えの一環に過ぎない。

しかも、このような傲慢な発言の真に言わんとしているメッセージは、結局、「世界のどの国であろうと、我々米国人は、その国の憲法をないがしろにし、いくらでも自分たちに都合の良いように書き変える権利を持っているのだ」という、他国の主権の否定と他国への愚弄の意図に他ならない。

もし我が国が、そんな聞き捨てならないプロパガンダに乗って、一度も完全に実現されたことのない憲法を「押しつけ」だの「時代遅れ」だの「みっともない憲法」だのと言って、時の政権に都合よく改変するようなことがあれば、その時こそ、米国の「押しつけ憲法」が成立し、この国の主権は蹂躙され、もはや無法地帯同然となるだけである。

そもそも、最高法規で何を定めていても、それに違反する現状がすべてに優先するというのであれば、憲法のみならず、どんな法の定めも、すべて単なる「絵空事」に過ぎないことになり、現場でやりたいようにやった者勝ちの世界が成立する。そんなことならば、見かけだけ文明国をきどるためのまやかしの法など全て捨てて、文字も持たない未開の野蛮人に戻り、実力だけにすがって生きるのが最も手っ取り早いであろう。

戦後の平和憲法を「みっともない押しつけ憲法」だと呼んでいる者たちは、しょせん、戦犯の子孫であったり、あるいは、戦前の官吏の制度をそっくり継承して国民に君臨する官僚であったり、ほとんどがトリックによって現在の政府に入りこんだ戦前の政治勢力に過ぎない。
 
要するに彼らは、自分たちの存在そのものの違憲性が暴かれ、自分たちの無法行為が暴かれ、罪に問われたりしないように、法を骨抜きにして「やりたいようにやった」者勝ちの世界を正当化しようと、彼らを罪に問える憲法自体を自分たちに都合よく別物に変えてしまおうとしているだけである。
  
戦犯の子孫である彼らのみならず、彼らが戦犯であることを重々知りながらも、日本を「反共の砦」とするために、また、永久に属国化するために、あえてこのような犯罪者集団をこの国の政権の座につけた米国とが協力して、彼ら両方のはかりしれない重い罪を覆い隠すために、壊憲を実現しようとしているだけである。
 
今日、世界中の国々で、ネオナチ・前科者などの忌むべき犯罪集団を積極的に政権の座につけることにより、クーデター同然にその国を乗っ取り、犯罪集団のもたらす恐怖によってその国民を支配しているのが米国であり、ウクライナを例に、我が国への米国支配のあり方をも十分に学ぶことができよう。
  
こうした人々は自らの罪を否定し、自分たちが不法に獲得した特権的地位を保つために、自分たちを罪に問う力を持つ法そのものを否定し、これを歪曲し、自分たちがあらゆる法規を超える存在(神)になろうとしているだけである。


2.映画『シン・ゴジラ』に見る日本政府の妄想的な自己美化願望
  

いつの世も同じことの繰り返しである。止めようのないものは止められぬし、殺せようのないものは殺せない。時にはそれが、自分の中に住んでいることもある。「魔物」である。

仮定された「脳内宇宙」の理想郷で、無限に暗くそして深い腐臭漂う心の独房の中… 死霊の如く立ちつくし、虚空を見つめる魔物の目にはいったい何が見えているのであろうか。「理解」に苦しまざるを得ないのである。 

・・・

大多数の人たちは魔物を、心の中と同じように外見も怪物的だと思いがちであるが、事実は全くそれに反している。通常、現実の魔物は、本当に普通な彼の兄弟や両親たち以上に普通に見えるし、実際そのように振る舞う。彼は徳そのものが持っている内容以上の徳を持っているかの如く人に思わせてしまう… ちょうど、蝋で作ったバラのつぼみやプラスチックでできた桃の方が、実物が不完全な形であったのに、俺たちの目にはより完璧に見え、バラのつぼみや桃はこういう風でなければならないんだと俺たちが思い込んでしまうように。

今まで生きてきた中で、敵とはほぼ当たり前の存在のように思える。良き敵、悪い敵、愉快な敵、不愉快な敵、破滅させられそうになった敵。しかし、最近、このような敵はどれもとるに足りぬちっぽけな存在であることに気づいた。そして一つの「答え」が俺の脳裏を駆け巡った。

「人生において、最大の敵とは自分自身なのである」


さて、次は『シン・ゴジラ』について書きたい。

映画はすべて未来へ向けて人々の意識を誘導する意図を込めて作られるものである。だから、この映画についても、国民をどのような未来へと誘導しようとして作られたのか、隠されたストーリーを疑わないわけにはいかない。

筆者は、この映画は、戦争と緊急事態へ向けての布石であり、かなり巧妙かつ悪質な政府のプロパガンダ映画であるという印象を受けた。むろん、この映画は政府が制作したものでないとはいえ、その筋書きは、強く政府の意向を反映したものとなっていると感じざるを得ない。

この映画に関しては、「『シン・ゴジラ』に覚えた“違和感”の正体〜繰り返し発露する日本人の「儚い願望」」(現代ビジネス 2016年08月13日)にも見られるように、すでにかなりの批判の声も上がっている。

筆者の観点から見ても、この映画の最も遺憾な点は、これが「主権在民」とは程遠く、むしろそれとは正反対の「主権在官」と言っても良い「官主導」の観点だけから作られた、国民を軽視し、政治家と官僚だけを英雄視する政府の太鼓持ち的なストーリーとなっている点だ。

さらに、悪質で許しがたいと感じられる数々の印象操作がこの映画では堂々と行われている。ゴジラという架空生物を登場させて、政府を「ゴジラを退治する正義の味方」として描き出すことによって、本来、福島原発事故によって、東京を含め、全国にまき散らされた放射能汚染に関して政府が現実に負っている責任をごまかし、ファンタジーによって薄め、被災地への復興支援の遅れの責任なども曖昧化し、震災関連で起きた政府の全ての対応の無責任という現実を、ゴジラに転嫁してことを済ませることが、真の目的だとしか思えないほど、フィクションとは言え、許しがたい印象操作がなされている。

さらに、そのような印象に追い打ちをかけるように、ゴジラを口実にした、首相権限による超法的な「緊急事態・戒厳令」の制定、さらには自衛隊による国内での武力行使や、まるで特攻隊の再来のような、自衛隊員によるゴジラへの決死の体当たり作戦といった、人権の軽視、生命の軽視を念頭に置いた刷り込みが行われ、まるで国民に「緊急事態だになれば、人権停止も、武力行使による人的犠牲も、やむを得ないのだ」と、予め心の準備をさせることを目的としているとしか思えない筋書きが込められている。

これらのことを考慮すると、筆者には、これは福島原発事故によって生じた放射能汚染の被害に関する日本政府責任を覆い隠し、政府を「英雄化」した上で、さらには「有事」を口実に、政府の権限を無制限に拡大し、政府主導で緊急事態を宣言して国民の人権を停止するという来るべき将来の事態に向けて、国民を心理的に「地ならし」するために作られたプロパガンダ映画だとしか思えないのである。
 
もしかすると、この作品は、これまでに作られたどのゴジラ映画のストーリーともほぼ正反対の筋書きになっているのではないかと怪しまれてならない。
 
海外では、福島原発事故後、東電及び日本政府の無責任な対応について、以下のような皮肉な風刺画も描かれ、つまり日本政府こそ、人類に危害を与えるゴジラだ、と揶揄されたのである。

ところが、この映画では、まるでこうした批判をかわし、あざ笑うかのように、汚染水垂れ流しの無責任のために、「おまえこそがゴジラだ」、と国際的に非難を浴びているはずの日本政府が、「放射能をまき散らすゴジラを退治する英雄」にすり替わっている。
 
その意味で、『シン・ゴジラ』という映画自体が、東電と日本政府とが、空想の中に逃げ込むことによって、現実に起きた災害から目をそむけ、それに対する自らの対策不足と、無責任という罪から逃げ、自己を英雄視するための、架空のありもしないストーリーを思い描いて現実逃避し、そこに国民を巻き込みながら、自己肯定・自己安堵するために作られた大がかりな(自己美化のための)「装置」なのだと感じられてならない。

 

画像の出典:"Fukushima: Japan building giant ice wall as TEPCO gets go ahead"
(The News Doctors. May 28, 2014) フクシュビッツのホロコースト

しかも、この映画には、随所で3.11で現実に起きた出来事を模して作ったとしか思えない映像がちりばめられている。

たとえば、作品に登場する政府の対策本部の人々の着ている濃いブルーの防災服は、福島原発事故直後、菅直人元首相、東電勝俣元会長らが着ていた防災服とカラーが一致し、当時の政府と東電責任者を強く思い起こさせるものとなっているが、これも決して偶然ではなかろう。
  
上記の面々、特に東電の責任者らは、3.11当時、この国を滅亡へ導くほどの未曾有の原発事故の責任を問われ、ひたすら国民の前に謝罪と対応を求められていた「戦犯」たちであるが、映画では、そのような面々を思わせる登場人物が、勇敢にゴジラと闘って国を救うヒーローのように登場しているところに、これらの「戦犯」を「名誉回復」しよう、という隠れた意図を感じざるを得ない。登場人物の風貌も、どこかしら東電の吉田所長や、勝俣元会長などを思い起こさせるのは偶然であろうか?

事故後初めて記者会見し、頭を下げる東京電力の勝俣恒久会長(中)ら=30日午後、東京都千代田区

(写真の出典(上):日本経済新聞「3月30日」(2011/3/30)事故後初めて記者会見し、頭を下げる東京電力の勝俣恒久会長(中)ら=30日午後、東京都千代田区)
 (下二枚):「シン・ゴジラ 予告」より 
 


 
 


(写真の出典(上):「【菅直人氏インタビュー(中)】 原発から逃げたら、日本は国として成り立たないと思った」WEBRONZA 2012年06月15日
  (下):「シン・ゴジラ 予告」より

 

しかも、この映画では、3.11で起きた災害の様子を強く思い出させるようなシーンが、「ゴジラの脅威」にすり替えられて使われているため、現実に起きた自然災害の脅威を、人々に忘れさせる効果がある。

東電福島原発がまき散らした放射能被害に対する政府と東電の無責任を問う国民の怒りの声も、すべてゴジラへの怒りの声にすり替えられ、今でも、連日のように、国会議事堂周辺で繰り広げられる反原発デモの怒号も、「ゴジラを倒せ」という架空の存在への怒りへと置き換えられる。 

こうして、この映画は、フィクションでありながらも、現実に存在する様々な現象を、その意味を巧みに歪曲し、すり替える効果を持っており、結果として、非常に巧妙かつ狡猾な形で、政府にとって都合の良い「概念のすり替え」を、観客に刷り込み、結果として、現実に起きたあらゆる災害についての政府責任を免罪するかのような心理的効果を観客にもたらすものとなっている。

また、この映画では、国民の人権は軽視され、あえて言うならば、時代錯誤な「国体護持」以上の「理想」が何ら提示されていない。

つまり、この映画のストーリーが目指している「解決」とは、要するに、主都と政府機能が壊滅しないことにより、日本という国が体制の変革を迫られることなく、滅亡せずに存続する(現代版の「国体護持」)ことを解決とみなす、という以上のものではない。
 
人間一人一人の命よりも、「国を守る」ことの方が優先なのである。東京が壊滅しなかったことが、国全体が助かったことと同一視され、時代遅れで無能な政府が、ゴジラによってさえも終止符を打たれず、中途半端に生き永らえたことが、物語の中で、一種の「ハッピーエンド」のようにとらえられる。
 
この(現代版)「国体護持」は、おびただしい数の国民の人権の抑圧と、多数の自衛隊員の犠牲と引き換えにもたらされたものであるが、その犠牲者も、ゴジラの脅威が去って国が滅びなかったという喜びに影を落とすものではない。

こうして、国民の犠牲や、自衛隊員の死が悲劇としてはとらえられず、人間を道具のように扱いながら、どこまでも政府の作戦だけにスポットライトを当てて、その成功を祝う人命軽視のストーリーに感じる違和感は、現存の政府が抱える思想的な欠陥を、そのまま浮き彫りにしたものだと言えよう。

この物語では、政府が「主役」として高められる一方で、国民には暗黙のうちに蔑視的な眼差しが向けられる。

国民一人一人は、自らの意志で決断・行動する生きた「主体」ではなく、常に外的現象の影響力に振り回される「客体」でしかなく、ゴジラの姿を見ても危険を覚えず、スマホでの撮影に熱中したり、避難の最中にも悪ふざけしてはしゃぐような、何の危機感もない愚かな連中でしかない。メディアを通して政府から一方的に与えられる情報や指示や手助けにすがることなくして、自分自身では何らの自己管理も、正しい判断も下せないような「愚民」の集合体にされてしまっている。

そんな知性の欠ける大衆だから、災害時にはただ恐怖に逃げ惑う群衆と化し、ついに政府主導の緊急事態に基づく戒厳令によって、人権も停止され、無理やり疎開させられたり、外出もできず、缶詰のように家に閉じ込められても当然の存在ということになり、国民は徹頭徹尾、生きた人間としての自己決定権や、主体性を奪われた哀れな群衆・被災者でしかなく、政府とゴジラとの勇敢な闘いというストーリーから排除されて脇役に追いやられた黒子でしかない。

この映画を観て思い浮かぶことは、政府が勇敢にゴジラと闘う英雄となっている間、行き場もなく疎開させられ、戒厳令により家屋に閉じ込められ、帰宅難民となっていた何十万もの人々は、何を感じていたのだろうかという疑問である。3.11の時のように、彼らはテレビを通して発表される嘘だらけの政府報道に釘づけになっていたのであろうか?
 
3.11のあの時、主役どころか、悪役のトップであったはずの政府や東電のメンバーが、「ゴジラとの闘い」というフィクションの舞台で、国民を押しのけて、厚かましくも主役として舞い戻って来たのだという奇妙な既視感が生じざるを得ない。

ゴジラの破壊力の大きさを示し、群衆の恐怖を伝えるためのシーンでは、津波に追われながら、町中を逃げ惑う人々や、泥水に無残に押し流された家屋や、車、津波にさらわれてがれきの山となり、荒廃した町の様子など、現実に起きた3.11の被害を強く思い起こさせるいくつもの映像が登場する。

がれきの山を目の前に、呆然と佇む人間を見ても、それがフィクションだとは思えないほどに、3.11の災害の記憶はまだ我々の脳裏に鮮明である。正直、現実に起きた災害の場面を、こうしたフィクションに活用すること自体に、正直、映画といえども、深刻な疑問を感じざるを得ない。
 
 

写真の出典(上):「被災地のがれき処理は軌道に乗るか」(WEBRONZA 2012年04月19日)
 (下):「シン・ゴジラ 予告」より

 

3.11のみならず、熊本地震も含め、現実に起きた災害では、今も立ち上がれないでいる多くの被災者が存在する。そうした被災者には、映画のように、「ゴジラが退治されて良かったね!!」などと安堵して、避難所で手を取り合って喜ぶような余裕は全く存在しない。現実には重い被害だけが残り、今もその痛手を無言のうちに背負いつつ、避難所暮らしを余儀なくされている。

にもかかわらず、ゴジラという架空の生物を設定すれば、こうした人々の生活が元通りになっていないのに、あたかもハッピーエンドが訪れたかのような錯覚を人々に起こさせ、現実に起きた災害の苦しみから、意識をそらすことができる。こうしたごまかしは、たとえフィクションと言っても、許されるべきものであろうか?

この映画には、現実に起きた巨大災害、しかも、未解決の災害の映像をふんだんに参考材料にしながら、それを「ゴジラが原因で引き起こされた災害」にすり替えることによって、今も政府によって見捨てられたも同然に、被災地に置き去りにされ、被害から立ち上がれないでいる人々の苦しみや、復興に至っていない地域の苦しみをごまかし、こうした生きた現実を忘却させ、風化させて、政府の無能さと無責任からも人々の目をそらし、現実のすべての深刻な問題の重さと教訓を、フィクションの軽さにすり替える効果がある。

さらに、政府を英雄化することによって、観客の意識をまるごと架空の世界に逃避させて、政府の責任を忘れさせるだけでなく、現実に今、実際に何が起きているのかを忘れさせようとするトリックが随所にしかけられているように思われてならない。
 
  たとえ映画といえども、このようなフィクションは、忘れてはならない災害の教訓をより風化させることに貢献するだけであって、しかも、3.11は、自然災害と人災の組み合わさったものであって、その災害は、いついかなる場合にも繰り返されうる生きた教訓であるにも関わらず、それさえ、ゴジラの脅威にすり替えることによって、嘲笑するかのように、ないがしろにし、忘れさせてしまうものであると感じられてならない。

ゴジラの脅威に対する対策は全く必要ないが、すでに起きた自然災害への教訓は、未来へ生かさなければならない。そうしなければ、二度、三度でも、同じことが起きうる。にも関わらず、現実の政府は、過去の教訓に一切、学ぼうともせず、そこから目を背け、適切な避難計画さえもないまま、原発を無理やり再稼働させているような有様である。
 
この映画は、そのような政府の暴挙を人々に忘れさせて、国民に向かって「あなたがた愚民は、自分で考えたり、行動しようとはせず、政府の指示にさえ従っておけば、それで良いのですよ」と訴えかけ、そうした考えを刷り込む効果を持っているようにしか見えないのである。

結果として、この映画は、3.11とその結果起きた原発事故の被害についての政府責任をごまかし、自然災害の教訓を生かす対策が何ら取られないまま、政府による原発再稼働という狂気の策が実行されている恐ろしい現実を、ゴジラの脅威という架空の物語と合わせることによって、巧妙にごまかそうとするトリックだとしか考えられないのである。

しかも、この映画のストーリーは、現実に起きた災害だけでなく、未来に起きうるであろう災害からも人々の目をそらさせる効果を持っている。

すでに指摘されていることであるが、物語の政府は、あり得ないほど美化された政府であって、現実の日本政府には、映画に見られるような危機管理能力は全く存在しない。福島原発事故に際しても、政府も東電も、チェルノブイリ原発事故を石棺化するために身を投じたリクヴィダートルのような「決死隊」を組むことができなかったのだから、たとえ相手がゴジラであっても、そのような決断はこの国の人々には決してできはしない。

フィクションだからこそ、そのような「英断」が可能となるのだが、それでも、フィクションの世界でさえ、そのような「ヒロイズム」は、勇気ある美しいストーリーというよりも、戦前の特攻のような人命軽視の精神の上にしか成り立たない痛ましい犠牲だと思わずにいられない。

ゴジラへの自衛隊員の突撃シーンで思い起こされるのは、安倍内閣の解釈改憲のために、「駆けつけ警護」などを命じられ、世界の戦闘地域に実際にこれから派遣されようとしている自衛隊員の苦悩である。


ゴジラと闘わされた自衛隊員は多くが死出の旅路へ赴かされ、生還しても、トモダチ作戦以上の被爆が予想されるわけだが、このような「特攻」の任務を帯びた自衛隊員の苦悩には、映画では全くスポットライトが当てられない。ただ彼らの死と引き換えに東京が守られ、「国体が護持された」ことが、政府の作戦の成功をもたらす自衛隊の快挙とみなされるだけである。

さらに、ゴジラの危機のために、民間企業も操業を停止して、戒厳令が敷かれて国民生活は根こそぎ奪われ、すべての国民が個人生活を犠牲にして、国家総動員体制によって、ゴジラ駆逐に励んだことが、国民の団結と、ヒロイズムとして賛美される。そのような価値観自体が、敗戦と共にとうに死んで終わったものではなかったのだろうか?

しかも、さらに悪いことに、この映画では、ゴジラ駆除のための米国と国連による核の先制使用の提案に、日本政府が勇気ある反対を唱えて国土を守ったことになっているが、現実には、恐ろしいことに、「安倍首相 核先制不使用、米司令官に反対伝える 米紙報道」(毎日新聞 2016年8月16日)とのニュースにも明確に表れているように、日本政府こそが、オバマ大統領が宣言しようとしている核の先制不使用に対して、今もって猛烈に反対を唱えて、日本の国土を危険にさらしている張本人なのである。この映画はそのことも人々に忘れさせてしまう。

映画は、国土を守り、国民の命を心配する、ありもしない英雄的な日本政府の姿を描き出すことによって、実際にこの政府が行って来たすべての無責任行為と悪しきイデオロギーを覆い隠し、この国の政府の真の姿を隠す効果を持つのである。

このように、この映画には、我々が決して目を背けてはならない現実の深刻な出来事に関する様々な概念のすり替え・歪曲が満ちており、とりわけ、政府や東電の「戦犯」を免罪し、現実には国民を救えなかった無力で無責任な政府を、現実を無視して美化し、英雄化するという偽りのプロパガンダ的ストーリー立てが強く感じられるものとなっている。

要するに、この映画は、3.11と福島原発事故に今もって全く対処できておらず、その教訓を、将来的に起きうる災害への備えとして生かすこともせず、現実から目を背け続けて原発再稼働に走っているだけの無能な日本政府を美化し、しかも、国民をそのような無力かつ無責任な政府の助けなしには生きられない「愚民」として描き出すことにより、この国の歪んだ統治体制がいついつまでも変革されることもなく、永久に変わらないことを願って作られたものだとしか思えないのである。

この映画に天皇は登場しない。なぜなら、この映画の「主権者」は、事実上、国民でもなく、天皇でもなく、官僚だからである。「この国はまだまだいける」とか、「戦後は続くよどこまでも」といったような言葉さえも、実のところ、官僚主導の統治体制を賛美するものなのであって、官僚独自の「君が代」なのだと感じられてならない。

現実の日本政府は、英雄どころか、極度に追い詰められているはずであり、ジャパン・アズ・ナンバーワンの時代は過去となり、アベノミクスには成果がなく、福島原発事故の収束にはめどが立たず、国際的にも事故処理の遅れを非難され、しかも、平和憲法を骨抜きにし、挑発的で好戦的な軍国主義的スローガンばかりを唱えているので、周辺諸国との関係は悪化し、いつ戦争に巻き込まれてもおかしくなく、その戦争を勝ち抜くだけの国力はこの国にはもうないのに、軍備をいたずらに増強している。再稼働した原発がいつ災害に見舞われ、二度目、三度目のフクシマが起きてもおかしくないが、原発を断念するだけのひとかけらの知恵もない。

かつての敗戦時と同じように、こんな体制には、できるだけ早く何かの政治的変革によって終止符が打たれなければ、我が国がまるごと滅亡し、未来をつなげないところまで来てしまっている。

このように、脅威はゴジラなどでなく、現存する日本政府にこそあり、政府は、自然の摂理を無視して自滅へと向かっているのに、この映画は、政府の罪を免罪する上、未だ国体の護持だけが最高の理想という考え方を全く脱し切れていない。その国体も、結局、敗戦によって敗れたはずの政治家と官僚制を永遠に温存するための体制でしかないのである。

この映画は、「ゴジラ」という仮想敵を作り出すことによって、本来は、日本政府そのものの中に潜んでいるはずの「魔物」を、巧妙に政府から分離・抽出して、この架空生物だけに一身に投影した。それによって、あたかも政府には罪がないかのように、政府が現実に担うべき責任を曖昧化し、ごまかしている。
 
さらに、「ゴジラ」という人類共通の敵を口実にしさえすれば、政府はいくらでも軍備を増強し、首相判断で、超法的な武器使用の可能性も認められ、事実上、無制限の権力が与えられる。その一方で、国民は緊急事態と戒厳令によって家屋や疎開先に物のように押し込められ、主体性と個人生活を奪われても当然ということになる。こうした筋書きそのものが、悪質な誘導だと筆者は感じざるを得ない。

現実世界には、「ゴジラ」など存在せず、「魔物」は決してこうした誰にでも分かる怪物の姿を取って現れることなく、むしろ、いかにも正しそうに見える普通の人間、いや、普通よりも優れているように見える人間の中にこそ潜んでいるものであり、その魔物は、米国でもなく、国連でもなく、他でもない我が国の政府にこそ、潜んでいるのである。
 
本当は、自分たちは悪を退治する正義の味方で、追い詰められて可哀想な人々を守る英雄だと言っている人々の中にこそ、ゴジラはいるのであって、国民を放射能の脅威にさらし、国際的に害を垂れ流す日本政府の中にこそ、退治されねばならない「ゴジラ」の姿がある。

にも関わらず、政府が己が罪を「ゴジラ」に転嫁することで自分自身を免罪し、自己を英雄化して、現実に直面している危機を忘れようとしているのであれば、それは悪質な目くらましであり、破滅へ至る現実逃避以外の何物でもない。そのような架空のヒーローに自己を重ね、陶酔に浸る人々も、同じように現実逃避する魔物なのである。

真に駆逐されるべきゴジラとは、実は日本政府に他ならないのだという事実を、改めて目を見開いて直視せねばならない。

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