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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

この世を無罪放免しながらキリスト教徒を断罪する村上密氏と杉本徳久氏の活動の危険➀

(これはホームページに掲載する予定の論考の一部です。)

大いなるバビロンからの脱却 反キリストの原則の明確な発展
――カルト被害者救済活動の暴走――
~この世の原則を聖書の原則よりも上位に置いてキリスト教を貶める
村上密牧師と杉本徳久氏の思想と活動の危険性について~



 1.キリスト教のイメージを貶める一方で、神社の政治イデオロギーの危険には口を閉ざし、聖書に立脚して異端を識別するための真の霊的戦いの必要性を無視する村上密氏の活動の危険

前述の記事「東洋思想とは何か。その柱は何を再建しようとしているのか」においては、明治憲法時代に逆戻りし、戦前の軍国主義・国家主義・国家神道を復活させようとの狙いのもと、神社本庁が主導して行っている危険な改憲運動について触れた。

今や神社が七五三などの場面で利用される平和で世俗化した宗教団体ではなくなり、こうした過激かつ危険な政治運動に手を染めて、我々クリスチャンの信じる神への敵対行為を行う砦のようになっている事実を見るときに、これまで当ブログにおいて再三に渡り、その活動の危険性を指摘して来たアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密氏が昨年に行った「神社への油まき事件」についての告発と記者会見(クリスチャン・トゥデイ記事)も、改めて違う角度から見えて来るのである。

村上密氏はこれまで「キリスト教界のカルト化の危険」を声高に訴え、支持者らと共に、キリスト教界における不祥事を次々と世間に発表しては、その是正の必要性があることを訴え、これを口実に、自ら「カルト化の疑いがある」とみなしたクリスチャンを次々と法廷に訴え出ては、訴訟沙汰に巻き込んでいくことによって、キリスト教界の混乱とイメージダウンに貢献して来た。

筆者は、こうした法廷闘争などのこの世の争いを主要な舞台とする村上密氏による「カルトとの闘争」が、従来の平和的な福音伝道を中心とするプロテスタントの牧師活動から逸脱したものであるとみなし、こうした活動が、キリスト教界のカルト化問題の解決に役立つものとは一切考えていない。そのことは、最近の記事「悪魔の見果てぬ夢としての「カルト監視機構」、「村上密牧師による自己流の「異端審問」」等でも詳しく記して来た通りである。
 
まず、平和な福音伝道という牧師の本来的な使命から大幅に逸れている点で、村上氏の活動は、到底、正常なクリスチャンとしての信仰に基づくものとは言えない。また、聖書的な観点から見ても、この世の司法や警察という世俗の権力の力を借りて異端を取り締まる活動は、この世の権力を教会の内政よりも上位に置くことを意味し、それは結局、この世の堕落した悪魔的な統治を神の御霊による霊的統治以上に高く掲げることであるから、聖書の秩序を転倒させる行為であり、その点で、反聖書的であるばかりか、悪魔的な思想に基づくものであると言って差し支えない。

こうした村上氏の活動は、キリスト教界全体を泥沼の法廷闘争と行き過ぎた異端審問に巻き込み、恐怖政治を生むことはあっても、同氏が唱えているような、カルト化問題に対する解決をもたらすことは決してできない。このことについては、当ブログでは記事「カルト監視機構」という名の秘密警察の設立について」を通して、実に早い段階から警告して来た通りである。

キリスト教界のカルト化を解決する糸口は、クリスチャンが聖書に立ち戻り、キリストの十字架を原点として、聖書にそぐわない異端の教えを自ら識別して退ける判断力を持つことにしかない。そこで、村上氏の法廷闘争は、キリスト教界のカルト化問題を解決するには完全に無力であり、キリスト教界により深い混乱をもたらす源となるだけでなく、これはただ同氏がキリスト教界において権力を握るための政治闘争の手段に過ぎず、クリスチャンをますます聖書から遠ざけて、人間に権力を集中して行く危険な活動である。この問題についてはすでに記事「「キリストの十字架以外に救いはない」や、論稿「 罪と罰 カルト被害者救済活動はなぜ聖書に反しているのか。」においても詳しく警告しているのでそちらを参照されたい。

また、村上密牧師がどういう人物であるかを判断するに当たっても、同氏がアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の中で行って来た信頼できない不透明な活動について、以下の記事にまとめているので参照されたい。「 村上密牧師による鳴尾教会への不当な介入問題 まとめ
   
さて、名は体を表すとはよく言ったもので、世間を騒がせた「神社への油まき事件」に関しても、この事件を引き起こした男が韓国系のキリスト教の伝道者であることを警察に率先して情報提供した(=密告した)のは村上密氏であり、同氏は自らそのことを隠し立てなく自身のブログ記事で告白している

むろん、これまでにも「カルト化の疑いがある」とみなした牧師や信徒を次々と法廷に訴え出ることを辞さなかった同氏のことであるから、こうした行為も、公共の秩序維持、社会の安寧のために正義感から行ったという認識しかなく、「危険人物を当局に率先して売り渡した」という後ろめたさなど微塵も感じてはいないことだろう。

誤解のないように言っておけば、筆者は、この油まき事件を引き起こした人物を擁護するためにこの記事を書いているわけではない。いかにキリスト教信仰に熱心な人間であっても、神社の境内に油をまいたり、他宗教に対して攻撃的な活動に走ることは、容認されるべきではないと考えている。そのような過激で自己本位な活動が正常なキリスト教の信仰に基づくものであるとも考えていないし、そんな過激な行動を伴う「霊の戦い」が正常な信仰生活であると言うつもりもない。

だが、この事件に関しては、それとは別の文脈で注目しなければならないことがある。

それは、村上密氏がこれまで「キリスト教のカルト化の危険」を声高に訴え、キリスト教の内部で起きた不祥事を大々的に世間に公表することによって、これを自身がカルト化問題の専門家として脚光を浴びる機会として来ただけでなく、キリスト教の世間でのイメージを著しく低下させることによって、「カルト対策」という自分自身のライフワークの需要を自ら作り出して来たことである。

従って、この「神社への油まき事件」も、村上密氏にとっては、自らの続行する「カルトとの闘い」が世間で脚光を浴びるための最適の機会となったのであり、同氏がキリスト教の浄化が必要であると訴えて自らの活動の需要を世間にアピールするための絶好のチャンスとなったのである。
  
こうした村上密氏の活動には、クリスチャンが決して見落としてはならない巨大な盲点、落とし穴が存在する。
 
村上氏は、神社へ油をまいたキリスト教徒の活動だけを危険なものとして取り上げて、「キリスト教界のカルト化の危機」を声高に訴える一方で、神社はただその被害者であるという文脈で、神社の唱える信仰そのものの反聖書的な危険性という問題と、神社の主導する国家神道の復活という危険な政治イデオロギーに基づく活動の危険性には全く口を閉ざしている。

同氏はこれまで常に「キリスト教の行き過ぎた霊の戦い」の愚かさと危険性だけを強調することによって、キリスト教において「霊の戦い」という名で呼ばれるすべての活動が、何かとんでもなく狭量で偏見に満ちた、馬鹿馬鹿しく荒唐無稽な概念であるかのような印象を読者に抱かせようとして来た。その一方で、聖書に立脚した真の「霊的戦い」が確かに存在するという事実や、信者が聖書に基づいて正統な信仰と異端思想を鋭く識別して、誤った思想を退ける必要性を覆い隠そうとして来たのである。

聖書は「霊の戦い」そのものが存在していないとは全く言っていない。パウロは書いている。

「終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。
悪魔の策略に対して立ちむ悪ことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。

 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。

 ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。…」(エペソ6:10-13)
 
聖書は、キリスト者には「血肉」に対するものではない、目に見えない霊の領域における戦い、すなわち、「主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、天にいるもろもろの悪霊に対する戦い」が確かに存在することを教えている。そして、信者がこの霊的戦いに勝ち抜くための武器が、聖書の御言葉であることも教えている。
 
「霊の戦い」とは、筆者の言葉で説明するならば、目に見えない霊的領域における激しい霊的・思想的論戦である。聖書によれば、キリストの御霊が存在するように、悪霊というものも存在するが、クリスチャンには悪霊そのものを根絶することはできない。従って、クリスチャンが「霊の戦い」においてしなければならないことは、悪霊そのものを根絶しようとすることではなく、悪霊から来る思想を見分け、これを受け入れずに退け、その嘘に欺かれて悪魔の吹き込む虚偽を信じないことである。

当ブログではこれまで幾度となく指摘して来たことであるが、霊の戦いとは、キリストの御霊に属する思想と、これに反する敵の吹き込む思想とを信者が厳粛に区別し、敵の偽りを見破り、退けるための論戦なのである。

人の行動の背景にはすべてそれなりの動機があり、その動機を作り出しているのは、その人の思想や信念である。一人の人間の言動をじっくり観察すれば、その人がどのような信念の持ち主であるかが分かるであろう。そして、その信念が聖書に立脚したものであるかどうかをつぶさに調べることによって、信者は、その人がやがて行き着こうとしている人生の目的も客観的に理解することができるのである。

すなわち、人を導いているものは、その人の持つ霊的・思想的信念なのであり、一方には、聖書の御言葉に立脚したキリストの御霊から来る思想があれば、他方では、悪霊に属する思想がある。そして、悪霊の思想は、必ず、聖書の御言葉を毀損し、歪曲し、御言葉の信用を貶めるという特徴がある。
 
さらに、当ブログでこれまでずっと分析を重ねて来たように、悪霊の思想である異端思想には、太古から現在に至るまで共通する特徴があり、共通する思想的な原型が存在するのである。
 
異端思想の根幹は、神が唯一であることを否定し、神と人とが罪によって断絶していることを否定し、神と人との交わりを回復するためのキリストの十字架の贖いを否定することである。

クリスチャンは、日々、聖書の御言葉だけに堅く立って、これに反する全ての思想を識別して退け、受け入れないように気をつけねばならない。実際に、暗闇の勢力による欺きは日々行なわれているのであり、信者が注意深い識別力を持って、何が聖書にそぐわない思想であるかを識別し、これを排除するために目を覚まして警戒することがなければ、暗闇の勢力の策略を見抜くことはできず、欺かれて翻弄され、貴重な時間と労力をむなしく失うだけであろう。
 
従って、霊の戦いとは具体的に何かと言えば、それは何か超能力のようなものによって普通の人には見えないお化けのような幻影を見いだしてそれと戦ような愚かしい闘いを意味せず、また、いわゆる「悪霊退散」などのように、お化けを撃退したり根絶することを意味せず、また、キリスト教に属さない他宗教をのべつまくなしに敵視してこれを根絶しようとする愚劣な闘争をも意味せず、それは、クリスチャンが聖書の御言葉を武器として、様々な影響力となって信者のもとにやって来る敵(暗闇の勢力)の吹き込む目に見えない様々な霊的思想を識別し、何が聖書に忠実である正しい思想かを見分け、敵の虚偽を見分けて退け、真理だけに立脚して生きるための絶え間ない論戦なのである。
 
つまり、霊の戦いとは、すなわち、聖書の御言葉を曲げようとする異端思想との闘いなのであり、それは激しい論戦である。この論戦の重要性は、キリスト教の初期の歴史に存在したいくつもの公会議や、霊的先人による異端反駁などを思い出すだけで十分に理解できよう。しかし、その戦いは、異端者を火刑にしたり、残酷な処罰を行うといった外的強制力によって成し遂げられるものではなく、異端思想とは何かという、偽りの思想の骨子を明らかにし、偽りが偽りである所以を聖書に照らし合わせて明らかに証明することにより、何が正統な信仰であり、何が異端であるかを識別し、偽りを退けて、正統な信仰を守り、継承する作業なのである。

この識別は、聖書が実際に奨励していることである。

愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしない。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。

人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。

イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていたのですが、今それが世に来ているのです。」(Ⅰヨハネ4:1-3)

すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい。」(Ⅰテサロニケ5:21)
 
上記の御言葉は、反キリストの霊というものが確かに存在しており、反キリストの告白する思想というものが実際にあることをクリスチャンに教えている。そして、クリスチャンが敵の霊を見分けるポイントが、その霊の告白する思想の内容にあることをも明確に教えている。つまり、ある霊の告白する思想が、神の御子キリストの十字架に対して、どのような立場を取っているかが、大きな見分けのポイントになるのである。
  
信者は、自分のもとに人や出来事を通してやって来る霊の述べる思想の内容を吟味して、「敵の霊を見分ける」ことをせねばならないのである。しかし、信者にもたらされる悪霊の影響力は、必ずしも、人の述べる思想や言動だけにはとどまらない。信者の日常生活に起きるすべての出来事によっても、信者の心に何らかの影響が及ぼされるのであり、環境によって引き起こされる影響力も、同じように吟味の対象とならなければならない。信者の日常生活には、暗闇の勢力が及ぼす事件というものも確かに存在するからである。

もし何の霊的識別の努力もしなければ、信者は、ただ暗闇の勢力の引き起こした事件によって翻弄され、悲しみのどん底や、落胆や、失意に追いやられ、絶望感、罪悪感、自己憐憫などの感情を吹き込まれ、神がキリストの十字架において信者のためにすべてを達成されたという聖書の事実から逸れて行き、この事実に基づいて信者はすでにすべての災いから救い出されているのであり、罪からも清められ、キリストにあって、あらゆる問題の解決をすでに得ているのだという事実を簡単に忘れてしまうであろう。

こうして、聖書の御言葉だけに堅く立って、御言葉に合致しない全ての影響力を退け、キリストの十字架を通して信者に与えられている特権としての義や、自由といった権利を守り抜くための絶え間ない戦い――思想的・霊的論戦こそが、クリスチャン生活の真の意味での「霊の戦い」なのである。

しかし、村上氏は、「キリスト教のカルト化問題」を取り上げる際、キリスト教界に起きている諸問題が、信者が聖書から逸れたために、すなわち、御言葉に合致しない敵(暗闇の勢力)の欺きを受け入れてしまったがために起きたものとして、信者に聖書に立ち戻ることを促すのではなく、むしろ、こうした問題が、あたかもクリスチャンがあまりにも聖書の御言葉だけにこだわりすぎて、「二元論思考」に陥ったために起きたものであり、まるでキリスト教そのものが、こうした問題を引き起こす原因を抱えているかのように描き出すのである。

こうして、村上氏は「キリスト教界における行き過ぎた愚かで過激な活動」が、まるでキリスト教そのものに原因があって起きているものであるかのように、キリスト教界やクリスチャンを糾弾し、巧みにキリスト教そのものの信用やイメージを貶める一方で、信者が実際に闘いぬかねばならない真の「霊の戦い」があることや、信者が聖書にそぐわないあらゆる欺きを鋭く見分けて、これを退けながら、実際に「霊の戦い」を闘いぬいて勝利し、御言葉に基づく信仰を堅く守る必要性を覆い隠してしまうのである。
  
「神社への油まき事件」も含めて、村上氏は、クリスチャンの恥ずべき過ちだけを盛んに取り上げることにより、キリスト教における神と悪魔、光と闇、天と地、霊と肉、新創造と旧創造、等々の「切り分け」や「二分」そのものが、何か非常に疑わしい、行き過ぎてカルト的な思考であり、非常識で誤った「二元論的思考」であるかのような印象を人々に抱かせようとするのである。
  
村上氏はキリスト教界に起きた誤った事件ばかりを取り上げることによって、クリスチャンが聖書に照らし合わせて何が正しく、何が間違っているのかを自ら識別して判断する必要性を覆い隠し、むしろ、そうした識別・区別の作業自体が、クリスチャンの独善的で、狭量で、独りよがりな間違った思い込みであるかのような印象を読者に抱かせるのである。

村上氏が「キリスト教における行き過ぎた霊の戦い」の馬鹿馬鹿しさだけを強調すればするほど、クリスチャンは、信者として自分が本来持っていなければならないはずの聖書への忠実さ、貞潔さ、正常な警戒心や、識別作業までが、まるで必要のない潔癖症か、あるいは、信者の高慢さや狭量さや偏見に由来する行き過ぎた態度であるかのように思わされ、これを自己反省して改めなければならないようなプレッシャーを感じさせられるのである。

こうして同氏は、非常に巧妙な形で、聖書における十字架の切り分けや、神の霊に属するものとそうでないものとの絶対的な区別(聖書の持つ「二分性」)そのものを、あたかも実在しない想像の産物や、クリスチャンの歪んだカルト的な思考の産物であるかのように描き出し、聖書の御言葉の真実性そのものを疑うように信者に仕向けて行こうとする

その一つの証拠として、村上氏は、「油まき事件」以後、同氏のブログを読んでクリスチャンから寄せられたというキリスト教特有の「二元論的思考の誤り」に関する信者の反省文を、得意げに自らのブログ記事でいくも披露している

むろん、そこに記載されている行動は、確かに、筆者の目から見ても、正しい「霊の戦い」とは言えない。しかしながら問題は、村上氏が常にこうした誤った事例の愚かしさばかりを強調することにより、聖書の神こそが、まことのただお一人の神であり、これを否定する思想がいかに危険であり、信者がいかに目を覚まして聖書を歪曲する思想の誤りに気づいて偽りを退ける作業が重要であるかという点に触れようとしない点である。

特に、クリスチャンを名乗り、プロテスタントの牧師であるはずの村上密氏が、キリスト教の不祥事だけを一方的に取り上げてクリスチャンを叩くことはしても、唯一の神を否定して「八百万の神」を唱える東洋思想に基づく神社の信仰の危険性、また、神社本庁が主導する軍国主義・国家主義・国家神道の復活へ向けての改憲を促す政治活動の著しい危険性という極めて差し迫って重要な問題について、全く触れようとしないことは不気味でさえある。
 
同氏は、こうして「この世の思想」の危険については完全に沈黙しながら、他方では、行き過ぎに陥ったクリスチャンの反省文を公然と掲げることにより、この世の思想の前に、クリスチャンをひれ伏させて、懺悔と自己反省を迫るのである。そして、クリスチャンが聖書に基づいてこの世(神社も含む)の思想の誤りを指摘して糾弾するなど、無礼千万な思い上がりに過ぎず、信者が聖書に基づいて偽りの思想を糾弾して退けようとする行為自体が、愚かで非常識な偏見に基づく寛容さの欠如であり、無用で行き過ぎたカルト的思考であるかのような印象を醸し出そうとするのである。
  
このようにして、キリスト教だけを断罪しながら、巧みに世の霊に寄り添うのが、村上氏の活動の常なる特徴である。同氏は、キリスト教界に起きた不祥事ばかりを一方的に取り上げて糾弾することによって、いつの間にか、まるで聖書に立脚したものの見方そのものが、過激で行き過ぎた危険な思想であるかのような印象を世間に抱かせ、かつ、キリスト教や聖書そのものに、何かこうした行き過ぎを生み出す源となるものがあるかのように思わせ、あたかもキリスト教が大変、危険な宗教であるかのように世間に思わせようとする一方で、神社の信仰や政治思想のようなものには一切、批判を加えないのである。

同氏の活動は、常にこうしてこの世の不信者の間で空気のように蔓延している反聖書的な思想の危険性についてはほとんど完全に口を閉ざしながら、キリスト教界の不祥事だけを大々的に取り上げることによって、キリスト教が危険な宗教であるかのように世間に思わせることに貢献して来た。また、この世の圧倒的大多数である不信者の世論を味方につけて、この世のマジョリティの力にものを言わせて、日本の人口においては1%程度のマイノリティであるクリスチャンを断罪し、自己反省を促し、懺悔を迫るという形を取って来た。

(ちなみに、クリスチャン人口が約6%にまで上昇したという記事(クリスチャン・トゥデイ)もあるが、いずれにしても日本の全人口においてクリスチャンが圧倒的マイノリティであることに大差はないと言えるだろう。)
 
このようにして同氏は、自らの非難の対象をほとんどキリスト教(と明らかにキリスト教の異端と分かっているもの)だけに絞り込むことによって、自ら牧師であるにも関わらず、キリスト教のイメージを貶めることに貢献して来た。そして、「この世」に蔓延している反聖書的思想の危険性は非難することもなく無罪放免するばかりか、むしろ、この世が「キリスト教の被害者」であるかのように主張して、この世の常識によってキリスト教界に起きた事件を裁き、この世の司法などの強制力を通してキリスト教に強制介入し、聖書の御言葉よりも、この世の常識を上位に据えて、この世の力によって教会を裁くことを正当化しようとして来た。

最終的には、同氏の活動は、聖書の御言葉に基づく信仰自体が、何かしら「過激なとんでもないもの」であり、「二元論的でカルト的な誤った思考」であり、キリスト教や聖書そのものが「カルト思想」を生む源であるかのような印象を人々に与えることにより、聖書の御言葉の真実性を毀損し、聖書の御言葉に忠実であろうとする信者の信仰を「カルト的な行き過ぎ」であると断罪し、そのような「行き過ぎ」に陥らないために、「キリスト教を監視する必要性」まで訴えるのである。
 
こうして、村上氏がキリスト教に起きた不祥事を奇禍として、キリスト教界において権力を掌握してこれを取り締まりの対象としようとしているだけでなく、クリスチャンが何が正しくて何が間違っているかをはかるためのものさしを、巧妙に「聖書」から「この世の常識」にすりかえ、キリスト教の行き過ぎだけを断罪しながら、他方で「この世」の誤った思想の危険性を無罪放免することにより、結局、「聖書の御言葉」よりも、「この世の常識」を上位に置こうとしていることに注意が必要である。

このような文脈で見ると、村上密氏が「神社への油まき事件」に関して行った記者会見は、これまで世間でとらえられていたのとは全く違った文脈で理解されるのである。すなわち、同氏はこの事件を通して、クリスチャンがまたしても神社に対して過ちを犯して「世間に迷惑をかけ」、キリスト教がまたもや過激な行き過ぎに陥って世間に対して「罪を犯している」かのような印象を与えることで、まるで先手を打って、神社本庁が主導する危険な改憲運動や、国家神道の復活といった反聖書的なイデオロギーのはかりしれない危険性について、クリスチャンが聖書に立脚して非難することが、より難しくなるように道を整えようとしているかのようである。
 
このような点で、村上氏の活動は、決して聖書の御言葉に立脚したキリスト教の信仰に基づいて生まれたものとは言えず、むしろ、同氏のすべての活動は、徹底的に信者ではなく、この世の不信者の目線に立ってなされたものである。同氏が牧師であるからと言って、キリスト教的な観点から活動しているのだと思い込むことはできない。むしろ、同氏は、この世を非難することもなく無罪放免し、クリスチャンだけに懺悔を迫ることによって、キリスト教そのものが危険な宗教であるかのように描き出し、結局は、キリスト教そのものと、聖書の御言葉の信用を貶めることに貢献しているのだと気づくべきである。

このような活動は、聖書の御言葉の信用を巧妙に貶めるものである点で、反キリストの霊とこの世の利益に積極的に貢献するものだと言える。

村上密氏による「カルトとの闘い」が、常にこうして信者の側ではなく、むしろ、信仰を持たないこの世の人々の側に立って、この世の価値観を基準として、この世の人々を利するために行われて来たことに注意が必要である。
 
当ブログでこれまで取り上げたいかなる事件においても、同氏は、徹頭徹尾、「勝ち馬に乗る」ことを目指すかのように、この世の「強者」に歩調を合わせ、この世の「強者」の利益を代弁すべく行動することはしても、声を上げることもできない「弱者」である信者の心の必要性をくみ上げ、これを代弁して行動することはなかった。

それは、同氏が初期に行った統一教会等に入信した信者らを、親族らの要請に基いて、拉致監禁という信者の人権侵害を伴う形で強制的に脱会させては「救出」していた頃から見られる特徴であり、また、鳴尾教会において、村上氏が教団や教会の規則を無視して不法に行なった介入と、その結果としての伝道師らの鳴尾からの追放という事件においても共通して見られた。

前者の拉致監禁を伴う「救出」活動においては、村上氏は、信仰を持たない人々の観点に立って、カルトに入信した信者の内心を容赦なく踏みにじり、強制的に過ちを認めさせて棄教を迫ったのであり、後者の鳴尾教会で起きた事件においては、同氏は最初から最後まで、自分の義理の父であり、当時、鳴尾教会の主監者であった津村氏という「強者」に味方して、弱者の立場にあった伝道師らの訴えを容赦なく見殺しにしたのである。

さらに、鳴尾教会がアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団から離脱の決定を下した際にも、村上氏は教会へのスラップ訴訟に及んでまで、これを阻止しようとしたが、これもまた、同氏が弱い立場にある教会に対して、教団という権力側に立って威圧的に振る舞ったことを意味する。

村上氏があらゆる宗教のカルト化を監視する必要があるとして提唱した「カルト監視機構」も、そのメンバーはクリスチャンに限定されたものではなく、この世の有識者、あるいはキリスト教以外の他宗教の信者から成るものであった。 
  
こうして、キリスト教界のカルト化問題を監視するということを口実に、同氏は、日本の人口の圧倒的大多数を占める「強者」である不信者の側に立って、1%程度の信仰者全体の信仰生活を監視し、取り締まる必要性を訴える。不信者の利益を確保するために、クリスチャンを監視・断罪・処罰・抑圧することを肯定するという極めて恐ろしい思想を提唱するのである。

こうして常にこの世の「強者」に味方しては、真の弱者の声を容赦なく圧殺し、見殺しにするという村上氏の手法は、同氏が教会のカルト化問題の解決方法として積極的に推し進めて来た裁判という手法に関してさえ、同じように観察された。キリスト教界の不祥事の犠牲になったとされるいわゆる「カルト被害者」全体の中でも、村上氏が勧めているような裁判を提起することのできる人間はほんのわずかしかいない。訴訟に至るケースは、世間を揺るがすような大がかりな不正事件の場合のみであり、ほとんどの小さな事件は、世間に公表されることもなく、被害者の泣き寝入りで終わっている。だが、そのような弱者の声なき声に対して、村上氏の活動は、何ら答えも解決をも与えるものではない。村上氏自身が、キリスト教の大々的な不祥事をきっかけに、世間で注目を集めて来たという事実を見ても、同氏が、裁判にもならず、自分にとって何の手柄にもならない小さな事件の被害者は容赦なく切り捨てて来たことがおのずと理解できるのである。
 
このように同氏が、キリスト教界の不祥事を大々的に取り上げることにより、盛んにキリスト教が世間に迷惑をかけているかのような印象を世間に与え、クリスチャンを世間に対して不利な立場に置いて、聖書の御言葉ではなく、「世間の常識」や、「この世の司法の力」をふりかざして、「世」にとって有利なように、キリスト教界に介入し、クリスチャンの信仰生活を取り締まろうとして来たことが、一体、なぜなのか、考えてみる必要がある。
 
このような特徴を見れば、結局、同氏の活動は、キリスト教そのものに敵対する運動であると言わざるを得ない。これは聖書の真理を否定し、この世の原則を聖書の御言葉以上に高く掲げて、信者の信仰生活を抑圧の対象とし、内心の自由を奪い、果てはキリスト教のみならず、あらゆる宗教をも疑いの眼差しで見て監視の対象とし、すべて神と呼ばれるものを否定して、神への信仰を否定して、自ら全宗教界に君臨するという、反キリストの欲望へと結びつくものであることは、すでに記事で訴えて来た通りである。

この点で、村上氏の活動は、キリスト教の名誉を棄損し、キリスト教の信用そのものを貶めるために行なわれるキリスト教に敵対する、キリスト教の内側からの破壊活動だと言って過言ではない。いかにキリスト教の牧師を名乗っていても、同氏が実際に目指しているのは、いわば神への信仰そのものを取り締まり、これを監視し、抑圧することであり、結局、それは神に代わって信者の内心を裁くことにより、神以上に己を高く掲げることであり、従って、それは神そのものを仮想敵とし、信仰そのものに敵対する活動だと言って差し支えないのである。

そのように見て行くと、村上氏が自分もキリスト教の牧師であるにも関わらず、なぜ「油まき事件」を通して、神社を擁護し、キリスト教の信用をより一層貶めるという結果に至っているのかも納得できるであろう。

それは同氏の活動がもともと、キリストの御霊から出ておらず、この世の霊、反キリストの霊に導かれる運動だからである。

村上氏の活動が、常に真の弱者を見殺しにする「強者の論理」に貫かれているのも、同じ理由からである。それは同氏の活動が、「叫ばず、声をあげず、ちまたにその声を聞かせ」ず、「いたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともな」い(イザヤ42:2-3)キリストの御霊の謙虚さに基づくものではなく、むしろ、力と恐怖によって人を支配する弱肉強食のこの世の論理に基づいているためなのである。

この世の霊に導かれていればこそ、同氏は常に勝ち馬に乗ることを目指して、「強者」の利益を確保するために、「強者」の観点から物事を見、「強者の世論」と歩調を合わせて活動して来たのである。
   
同氏の活動が誰の利益になっているのかという観点から物事を見れば、同氏が神に仕えているのか、それとも、この世に仕えているのか、答えは明白であろう。
 
神社への油まき事件も、極めて愚かしい出来事であったとはいえ、それはあくまでキリスト教の一伝道者の行った活動に過ぎなかった。だが、神社の政治活動は、日本全国の神社を巻き込み、国家単位で、国家神道を大規模に復活させることを最終目的に掲げている点で、前者とはくらべものにならないほどの絶大な危険性を持つ。にも関わらず、村上密氏はキリスト教徒の誤りだけは強調しながら、後者のはかりしれない危険性を覆い隠してしまうのである。
   
村上氏が盛んに「キリスト教の霊の戦い」の愚かさを強調している真の意味についても、我々クリスチャンはよく考えてみなければならない。

もし信者一人一人が、聖書の御言葉に精通して鋭い識別力を持ち、村上氏が一体、何の霊に導かれているのかを試し、明らかにし始めるなら、村上氏にとっては大変、困った事態が持ち上がるであろう。

誰よりも同氏が、自分が何の霊に導かれているのかが明るみに出されると困るのである。それだからこそ、同氏はこの世の常識を隠れ蓑にしつつ、キリスト教における行き過ぎた不祥事や、荒唐無稽な「霊の戦い」ばかりを強調することによって、先手を打って、クリスチャンに自己反省を促し、クリスチャンが決して世の罪に気がつかず、間違っても聖書の御言葉に基づいて、この世の堕落した思想の危険性を見抜き、それを訴え、糾弾し、排除したりすることがないよう、予め阻止しているのである。

聖書の御言葉に基づく「切り分け」や「二分」そのものを、何かしらカルト的な疑わしい狭量な思考のように思わせる影響力には注意が必要である。結局、それはクリスチャンに罪を着せる一方で、堕落した「この世」の罪を無罪放免するために流布されている偽りだからである。

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