忍者ブログ

私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです

以前に、異端の教えの危険性について知人と共に語り合った時のことを思い出します。こんなことを語ったのです、もしも信者がわずかでも偽りの教えを受け入れてしまったと気づいたならば、それとは早急に訣別することが必要であると。もし公に受け入れた偽りであれば、公に誤りを認めて訣別した方が良い。とにかくはっきりと自分の間違いを認めて悔い改めを表明し、訣別の告白をすることが必要である。

もし自分の誤りを認めるのがためらわれるとか、名誉が失われるのが嫌だというような理由で、事の次第を曖昧にし、わずかな偽りでも受け入れたまま放置するならば、いずれそれはその人の全身を焼き尽くして死に至らせてしまうだろう。だから、偽りと公に訣別するかどうかは、信者の永遠の命にかかわる極めて重大な問題なのだと。

さらに、その偽りがその人に侵入するに至ったきっかけとして、必ず、その人の何らかの肉の弱さがサタンの足がかりとして存在する。その肉の弱さこそ、その人の内でサタンの地歩をなして来たものであるから、その地歩を取り除くことも極めて重要である。そうでなければ、表面的にどんなに偽りを正しても、同じことの繰り返しになるからである。そこで信者は、どこからどうやってその偽りが自分に侵入したのかをつぶさに振り返り、自分が主と共に十字架に引き渡さないで留保している肉の思い(たとえば自己憐憫や、赦せない思い、自己義認、不平、憤り、失意、落胆、苦い思い、神に対する恨み、等々)を持っているのではないか自分を吟味し、それらの御言葉に反し、神の御前で悪とされる反逆的な思いをことごとく手放す決意をし、それを悔い改め、訣別することが必要であると語ったのです。

「というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。」(ローマ8:7)

ウォッチマン・ニーも書いていましたが、そのようにして内側からサタンの地歩となる肉の思いを取り除く作業を着々と進めていくことによって、一旦は偽りによってとらえられ、とりこにされて自由を失い、圧迫され、落胆させられたその人の霊が、もう一度、真理の光に開かれ、健康さを取り戻すことが可能となる場合もあるのです。信者は抵抗して自由を取り戻さなければなりません。それは人が内側で自分を縛っているサタンの力に気づき、そこから信仰と御言葉の力によって解放されていく過程です。

とにかく罪を犯したなら、悔い改めの表明が必要です。だから、私は兄弟たちを疑ったり、告発したりするような偽りの思いを信じて受け入れてしまったことや、自己を義とする思いを受け入れてしまったことについて、それを恐るべき罪として告白するのです。そのとき、主がそれらと私を訣別させて下さり、血潮によって私を罪から清めて下さり、思いを新しくして下さることを信じます。何よりも、どうか私の心を単一にして下さい、と心から主に願うのです。しかし、単一な心は、主が忌み嫌われるものを留保したままでは得られません。罪の悔い改めを拒んだり、偽りとの訣別をしなかったり、サタンの地歩を取り除こうとしないならば、どうして単一な心が得られましょうか。

思いが単一でないということは、神の御前でどんなに恐ろしいことでしょうか。神は唯一であり(ローマ3:30)、キリストはその独り子です。神の御霊は一つであり(Ⅰコリント12:9,12:13他)、真理はただ一つです。真理は首尾一貫しており、いかなる分裂も矛盾も論理破綻もありません。論理破綻をきたすものは偽りです。そして、偽りはあらゆる自己矛盾に満ちています。偽りは悪魔から出て来たものであり、悪魔は偽りの父(ヨハネ8:44)なのです。

この偽りというものを言い変えるならば、二心や、真理に対する貞操のなさ、となります。二心とは分裂、自己矛盾のことであり、首尾一貫しない心、真理だけに従わない心、ただお一人の神だけを信頼できずに、絶え間なく二つのものの間で揺れ動く定まらない思いです。この不信、自己矛盾、論理破綻、分裂、不従順こそ、真理に対する貞操のなさであり、もっと言うならば霊的姦淫なのです。これに対して貞潔とは、ただ一つの神、一つの御霊、一つの真理に対していかなる矛盾もなく従順であることです。

「しかし、蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、万一にもあなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真実と貞潔を失うようなことがあってはと、私は心配しています。というわけは、ある人が来て、私たちの宣べ伝えなかった別のイエスを宣べ伝えたり、あるいはあなたがたが前に受けたことのない異なった福音を受けたりするときも、あなたがたはみごとにこらえているからです。」(Ⅱコリント11:3-4)

ここで貞潔という言葉が、霊的姦淫に対する真摯な警告として使われています。貞潔を失うとは、信者の思いが汚されて真理に対して二心になる(分裂する)ことに対する警告です。二心とは、言葉通り、二つのものを同時にとろうとする態度であり、真理と、そうでないものの両方を見つめること、いや、真理と偽りの両方が視野に入っている状態なのです(しかし信者は決して真理とそうでないものを二つとも同時に選択することができませんから(真理は排他的なものです)、もし偽りを見つめるならば、最終的に偽りを選び取る恐るべき危険性に身をさらすことになってしまうのです)。

創世記において蛇がどのようにエバを誘惑したのかを思い出しますと、蛇は非常に狡猾な言葉を用いて、エバの関心をまず彼女が単一に見つめるべきいのちの木からそらせました。そして、彼女が思いを向けるべきでない別の木の方向へと誘導していったのです。

「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」(創世記3:1)

蛇は最初から自分の投げかけた質問内容が誤っていることを知っていました。蛇の目的は、正しい答えを得ることになどなく、神の言葉を歪曲して作られたこの質問によって、エバの関心をいのちの木から、彼女が「食べてはならない」と命じられた木の方向へ巧みにそらせることにあったのです。蛇は善悪の質問をエバに投げかけることによって、巧みに、彼女の心を善ではなく悪の方向へと誘導し、彼女の眼差しを真理ではなく、真理ではないものの方向へ向けることに成功したのです。そのとき、彼女の視野に真理と偽りの両方が入って来たのです。それが堕落にきっかけを与えたのでした。

二心の恐るべき危険はここにあります。私たち信者には二つのものを同時に見ることなどできないのです。真理は偽りと同時に選択されることは決してできないのです。

話が戻るようですが、偽りの教えは、私たちが旧創造に属する思いを擁護して持ち越そうとする時、そこから入って来ることが多いのです。それはアカンが密かに取っておこうとしたバビロンの美しい外套のように、とても小さなパン種であっても、その人の全身を焼き尽くす危険となり、もしかしたら霊的戦いを完全な敗北に導く原因となりかねません。特に警戒すべきは、自己憐憫、自己義認、恨み、妬み、赦さない心、等々を持ち続けることです。

たとえば病というものについて考えてみましょう。病というものを美化し、その弱さのために涙を流す態度がある場合にはどれほど大きな危険となるかを考えてみましょう。ルカによる福音書第13章には、主イエスが、十八年も病の霊につかれて腰が曲がって全然伸ばすことのできない女を癒された下りがあります。ここに彼女の病が病の霊」(ルカ13:10)によるものであるとはっきりと示されており、さらに、主イエスは彼女を癒された後にこう言っています、「この女はアブラハムの娘なのです。それを十八年もの間サタンが縛っていたのです。」(ルカ13:16)

聖書は、彼女の病がサタンから来たものであるとはっきり告げています。アブラハムの娘である彼女は、よみがえりでありいのちである主イエスを信じることによって、その病から解放される権利を持っていたのです。ところが、もしもここで、この女が癒されることを拒んでいたらどうなっていたでしょう。主イエスが自分を癒して下さることを信じず、むしろ、自己憐憫に陥って、主イエスが彼女の弱さに同情して涙を流してくださることだけを求め、「あなたは癒されなくて良い、なぜならあなたは不完全なままでありのままで神に愛されている子供なのだから」と気休めの言葉をかけて下さることだけを求めていたならば、どうなっていたでしょう。

それと同じように、人類の肉の弱さのために自分(人類)を憐れんで涙を流すことは、見かけ上、とても美しい行いのように見えるでしょうし、同情的な行為にも見えるでしょう。よみがえりであり、いのちである御子の完全な復活の命を信じて、完全な癒しを受け取る信仰に比べ、自分の不完全さに甘んじて涙を流すことには信仰が要らないので容易なのです。人が自分たちの(罪なる肉の)弱さのために涙を流すとき、それは世間から見れば、とても憐れみに満ちた行為として拍手で迎えられるかも知れません。なぜなら、その方が受け入れやすいし、理解可能で、容易だからです。何よりも、それは人知の領域にとどまっているからです。ですから、間違いなくそれは多くの人々に支持されるでしょう。

しかし、それは主の御前で忌み嫌われる態度なのだと私は確信します。どうしてかと言えば、それは本質的に、キリストが十字架において私たちに与えて下さった復活の命の完全性を否定する態度を意味するからです。それは復活以前のものであり、神が裁きの宣告を下されたものを取り戻し、擁護しようとする態度だからです。アダムの命に属する肉の弱さを擁護すること自体、はっきり言って、御子の復活そのものの否定なのです。そしてこの復活の領域は人知を超えているのです。

ですから、もしも本当に「いのちの木」を選び取りたいならば、「食べてはならない木」とは完全に訣別する態度が必要です。これは旧創造に属するもの、アダムの滅び行く命に属するもの、神が刑罰の下に置いておられるものを全て十字架の死へと従順に引き渡す態度、それらと訣別し、決してそれを擁護しないという態度です。ですから、私はこう思います、信者は決して自分の肉の弱さや、不完全さを、主の御前で留保しようとしてはいけないのだと。もしも、ありのままの自分を擁護したり、肉の弱さをかばおうとしたり、自己義認、自己憐憫や、恨み、不平に陥ったことが分かったならば、早急に悔い改め、そのような感情は神の御前に汚れたものとして訣別するべきです。そうでないと、そこから偽りが侵入し、二心が広がっていくでしょう。自らの肉の弱さのために涙を流すことは、どんなに人の目に美しく見えても、旧創造を擁護しようとする思いであり、これを持ち越しているならば、いずれ復活の命に敵対する者となっていくことでしょう。

ですから、私は旧創造の不完全性を擁護したり、自分の肉の弱さを憐れんだり、病(病的な傾向、不健全さを含む)などの不完全性をありのままかばおうとすることはしません、むしろそのようなことを積極的に罪として認め、その肉の弱さを十字架の死へと引き渡します。そして、キリストが私のために十字架を通して与えて下さった命は、聖なる、尊い、完全な復活の命であり、それが私の内側で働いて全ての欠乏を補い、私の肉を霊によって殺し、私の死ぬべき身体をも健やかに生かして十分に余りある命であることを認めます。

なぜパウロは「神の国はことばにはなく、力にあるのです」(Ⅰコリント4:20)と言ったのでしょうか。それはキリストの御霊は、この世を越えた来るべき国の法則性という力によって力強く統治する命だからです。それは私たちの想像を超えており、この世のあらゆる法則を超越して、いのちの御霊の法則によって支配するものであり、キリストは最後のアダムとして命を与える霊となられたのです。どうしてこの御霊が私たちの思いを清めるだけでなく、私たちの地上の幕屋である朽ちゆく身体をも健やかに生かさない理由があるでしょうか。そればかりか、御霊は私たちを十字架において御子と共に死と復活にあずからせ、新創造として復活の領域で生かすのです。

「もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。…

もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。」(ローマ8:10-13)

私のこれまでの全生涯は健康になるための激しい戦いだったとも言えます。巷の医者に幾度、匙を投げられても、それでも、「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」(ルカ5:31-32)と言われたまことの医者なる主イエスの言葉にすがって、ひたすら病を手を切ることを願い続けて、主を追い続ける人のようでした。なりふり構っている場合ではありません、病と妥協することは死を選ぶことであり、何しろ、この方の御言葉のメスによる手術の成功に、私の命運のすべてがかかっているのですから。

自分の病の深さを見た時に、どんなに恐れおののいたとしても、この方の手術はどんな病人相手でも、完了した」(ヨハネ19:30)と言われるほどに折り紙つきなのです。その贖いの完全性は、「介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに支払います。」(ルカ10:35)と言われているほどなのです。ただ罪を赦し、弱さを補い、病を癒し、欠乏を補うとか、そんなところにとどまらず、勝ち得て余りある命を与えるものなのです。ですから、私はその完了の宣告にすがるのみです。

人々はまるで逃げ道のように言います、御心ならば・・・、と。私は主イエスの御心は、私を癒し、健やかに生かすことにあると信じています。神の御心は、御子を信じる者に欠けのない健やかな命を与えることにあり、来るべき世にまで続く永遠の命を与えて私たちを生かすことにあるのです。御霊は、この死ぬべきアダムの命に比べられないほどにまさる御子の尊い復活の命として、私たちの死ぬべき身体をも生かすのです。それだけでなく、御霊は十字架において私たちを御子とともに死と復活にあずからせ、はかりしれない復活の命の領域において、キリストと共に御座にまで引き上げてくださり、キリストと共に統治する者とするのです。

それなのに、なぜ私たちを死に至らしめることしかできない、旧創造に属する、食べてはならない木を見つめなくてはならないのでしょうか。なぜそんな無価値なものを憐れんで涙を流さねばならないのでしょうか。いや、二心は沢山です、曲がったものはもう沢山です、真っ直ぐにいのちの木を見つめるべきです。いのちの木だけを選び取るべきです。御旨の中だけを歩み、主イエスの心に触れるべきです。旧創造の全てを主と共に残らず十字架で死に渡し、復活を受け取るべきです。主イエスの心は、御子を信じる者がご自身の完全な命にあずかり、癒され、きよくされ、彼と共に復活の領域の中を生きることにあるのですから。人にはできないことも、神にはできます、ですから、私はあの病人と同じように主の御前に自分を投げ出し、ひれ伏して懇願するのです。

「さて、イエスがある町におられたとき、全身らい病の人がいた。イエスを見ると、ひれ伏してお願いした。「主よ。お心一つで、私はきよくしていただけます。

イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「
わたしの心だ。きよくなれ。」と言われた。すると、すぐに、そのらい病が消えた。」(ルカ5:12-13)

PR