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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

あなた方自身も罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを認むべきである

さて、私は夢で見ていると、基督者が行くべき道は両側が垣で囲まれ、その垣は救いの垣(イザ26:1)と呼ばれていた。それで重荷を負うた基督者はこの道を駆けて行ったが、背中の重荷のため非常な困難がないわけではなかった。

このように駆けて行くと、やや上り坂の所に来たが、そこには十字架が立っており、少し下の方には、くぼ地に一つの墓があった。私が夢で見ていると、基督者がちょうど十字架の所へやって来たときに、彼の重荷は肩からほどけ、背から落ち、転がりだしてとまらず、ついに墓の口まで来ると、その中に落ちこんでもはや見えなくなった。

その時基督者は喜んで心も軽く、眺めて驚いた。十字架を見たために、このように重荷から楽になろうとは実に驚くべきことであったからである。それで彼は何度も見ているうちに、ついに頭の中の泉から涙が湧き出て頬を伝わった(ゼカ12:10)。

さて、彼が眺めて泣きながら立っていると、見よ、三人の輝ける者が彼の所へやって来て、「やすかれ」とあいさつした。第一の者は彼に言った。「あなたの罪はゆるされた」(マル2:5)。第二の者は彼のぼろ着物を脱がせて、着換えの衣(ゼカ3:4)を着せた。また第三の者は彼の額に印(エペソ1:13)をつけ、封印のある巻物を与えて、走りながらそれを読み、天の門でそれを渡すように命じた。そこで彼らは立ち去った。その時基督者は三たび小躍りして喜び、次のように歌いながら進んで行った。

ここまで罪の重荷を負って来た。
わが悲しみを軽くするすべもなく
ここへ来た、これは何という所だろう。
私の至福はここに始まるのか。
私の重荷はここで背から落ちるのか。
私をしばった紐はここで切れるのか。
尊き十字架よ! 尊き墓よ! むしろ尊きは
私のために恥を受けられたお方こそ!

(バニヤン、天路暦程、正編、池谷敏雄訳、新教出版社、pp.84-87.)


* * *
以前に読んだこの箇所がしきりに思い出されてならない。神は本当に誠実で憐れみ深いお方で、私たちのかすかな心の願いにさえ応えて下さる。しかし、私たちは神の御旨にかなった祈りを祈り出す必要がある。そうしさえすれば、主は速やかに応答して下さる。

私たちが主と共に十字架の死を経由し、アダムの命に従ってではなく、御子のよみがえりの命に従って生きるようになることはまことに神の御心である。ペニエルで主に討たれることを信仰者が願うと、主は本当にその人を十字架にくぎづけにし、その人を支配していた生来の力を粉砕して、そこから人を解放して下さる。主の御名は誉むべきかな。この十字架こそ、この墓こそ、すべてのキリスト者にとっての安息の地点である。

以前に田舎で父が少年時代に作ったという蝶の標本を見たことがある。美しい蝶が箱の中にいくつも並んでくぎづけにされていた。私たちが主と共に十字架の死にくぎづけにされるということは、その蝶のように、もがく力も、逃げ出す力も失うということだ。ヨナはニネベに滅びの宣告を告げることを主に命じられた時、主の御顔を避け、御旨を避けて逃げることができた。ヨナには神の御旨から逃げる力があったのだ。しかし、神はヨナを逃がすことなく、大魚に飲ませられ、御旨の中に連れ戻された。その後も、ヨナの強情で反抗的な性格は何度も明らかにされており、一体、なぜ主がヨナのような人間にあえて御旨を告げられ、預言者の務めを任されたのかは分からない。彼には預言者となるにふさわしい資質が何もなかったように思われる。しかし、このヨナの姿はちょうど私たちのようではないだろうか。そして、十字架の死の地点は、まさにヨナが大魚に飲まれて身動きができなくなった以上の地点であり、ヤコブがペニエルで主の使いと組打ちして、もものつがいが外された以上の地点である。

ヤコブがペニエルを通過したのは、兄エサウと再会する直前のことであった。かつて最もひどい方法で欺いて祝福を騙し取った兄との再会を目前にして、ヤコブは生死を分けるほどの緊張感の中にあっただろう。ヤコブが神の使いにひたすら祝福を求めたのも、そのような経緯があってのことかも知れない。ただ神ご自身が彼を祝福して下さりさえすれば、彼のいのちは救われる、ヤコブはそう思ったのかも知れない。

「彼はその夜起きて、ふたりの妻とふたりのつかえめと十一人の子どもとを連れてヤボクの渡しをわたった。すなわち彼らを導いて川を渡らせ、また彼の持ち物を渡らせた。ヤコブはひとりあとに残ったが、ひとりの人が、夜明けまで彼と組打ちした。ところでその人はヤコブに勝てないのを見て、ヤコブのもものつがいにさわったので、ヤコブのもものつたいが、その人と組打ちするあいだにはずれた。

その人は言った、「夜が明けるからわたしを去らせてください」。ヤコブは答えた、「わたしを祝福してくださらないなら、あなたを去らせません」。その人は彼に言った、「あなたの名はなんと言いますか」。彼は答えた、「ヤコブです」。その人は言った、「あなたはもはや名をヤコブと言わず、イスラエルと言いなさい。あなたが神と人とに、力を争って勝ったからです」。ヤコブは尋ねて言った、「どうかわたしにあなたの名を知らせてください」。するとその人は、「なぜあなたはわたしの名をきくのですか」と言ったが、その所で彼を祝福した。

そこでヤコブはその所の名をペニエルと名づけて言った、「わたしは顔と顔をあわせて神を見たが、なお生きている」。こうして彼がペニエルを過ぎる時、日は彼の上にのぼったが、彼はそのもものゆえに歩くのが不自由になっていた。」(創世記32:22-31)


ペニエルも十字架の型であり、十字架はアダムに属する全ての人間に対する神の呪いと死の刑罰の場所である。そこでどんなにアダムが神に祝福を求めてもがいても無駄であり、アダムにはただ呪いと死が待っているきりだ。しかし、ただ信仰によって、主イエスは、アダム(生まれながらの全ての人間)に対する神の呪いと死の刑罰を余す所なく受けられた上で、神の力によって、神の永遠の命によって、死に打ち勝ってよみがえられた。御子が死に至るまで御父の御旨に従順であったからこそ、主イエスを通して信じる者たちが祝福されて、彼のいのちにあずかることができるのだ。

しかし、私たちは御子のいのちによって生かされるために、真に主と共に十字架の死を経由しなければならない、この十字架を通過するとき、アダムにある私たちは主によって討たれ、滅ぼされなければならない。このことを認めないなら、私たちは決して主と共に十字架に服しているとは言えない。ヤコブはヨナと似たように極めて自己中心的な性格であったが、ペニエルで強情なヤコブから祝福されたイスラエルに変えられたとき、もものつがいを外されていた。これはそれまでヤコブを支配していた最も強力な肉の力が触れられ、討たれたことを意味する。

十字架の働きは生涯、続くものであるが、十字架は私たちの生来の命を滅ぼし、死に渡す力であり、私たちの肉の力の最も強靭な部分に触れ、なおかつ、私たちの生まれながらの気質にまでも及ぶ。それは私たちが自分ではどうすることもできない全ての部分に触れて下さる神の力である。

もしも真に十字架を経由するならば、どこかの時点で、私たちはヤコブのように歩くのが不自由になるだろう。それは私たちをびっこにしてしまい、御旨から逃げ出す力を失わせるだろう。しかし、たとえ動けなくなっても、十字架の死の地点にとどまっていることこそ安息である。バニヤンの書いた基督者のように、人が負いきれない重荷を負って苦しむのは、十字架を逃れようとする力がその人の内に残っているためである。自力で主に従おうとする無益な努力や、自力で罪を克服しようとする不可能な努力や、自分で自分を義とし、自分の人生に折り合いをつけようとする呪われた各種の思い煩いがその人を支配しているためである。しかし、その人が本当に主と共に十字架にくぎづけにされて、その生来の力が触れられると、その人は全く自分で何もできなくなるが、とにかくここを離れたくない、全く動きたくないし動けなくて良い、と自ら思うはずである。それは全ての責任をその人ではなく、神が負って下さる生き方の始まりだからである。

その当たりから、その人には従順の意味が分かり始めるだろう。自分で神に従おうとしてもただ失敗しかないが、神がその人を掴んで下さるその力に任せるならば、御旨に従うことは、これまでよりもはるかに容易に自然になると分かり始めるだろう。

「わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。キリストは死人の中からよみがえらされて、もはや死ぬことがなく、死はもはや彼を支配しないことを、知っているからである。なぜなら、キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのであり、キリストが生きるのは、神に生きるのだからである。このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである。」(ローマ6:6-11)

「なぜなら、神の安息にはいった者は、神がみわざをやめて休まれたように、自分もわざを休んだからである。したがって、わたしたちは、この安息にはいるように努力しようではないか。」(ヘブル4:10-11)


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