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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

キリストの愛がわたしたちに強く迫っている

「さあ、かわいている者は
みな水にきたれ。
金のない者もきたれ。
来て買い求めて食べよ。
あなたがたは来て、金を出さずに、
ただでぶどう酒と乳とを買い求めよ。

なぜ、あなたがたは、
かてにもならぬもののために金を費やし、
飽きることもできぬもののために労するのか。
わたしによく聞き従え。
そうすれば、良い物を食べることができ、
最も豊かな食物で、自分を楽しませることができる。

耳を傾け、わたしにきて聞け。
そうすれば、あなたがたは生きることができる。
わたしは、あなたがたと、とこしえの契約を立てて、
ダビデに約束した変らない確かな恵みを与える。

見よ、わたしは彼を立てて、
もろもろの民への証人とし、
また、もろもろの民の君とし、命令する者とした。
見よ、あなたは知らない国民を招く。
あなたを知らない国民は
あなたのもとに走ってくる。
これはあなたの神、主、
イスラエルの聖者のゆえであり、
主があなたに光栄を与えられたからである。」(イザヤ55:1-5)


来たりませ、主よ―――。
心の中で抑えがたい叫びが起こる。ただ心の底から、喜びに満ちて叫びたいのだ、主よ、来たりませ!と。

今、私たちの礼拝の目的はただ一つのことに――再び来られる主ご自身だけに――集中しようとしている。思いは自分を離れ、一切の思いわずらいを離れ、ただこのいのちなる方だけに一心に向かおうとしている。この方の御思いが、私たちの思いに映し出され、この方のはかりしれない愛が、私たちの心の内に燃やされるためである。

バプテスマのヨハネは、主の道をまっすぐに備えるために、その時代の人々に向かって呼びかけた、「悔い改めよ、天国は近づいた」(マタイ3:2)。私たちも、主が再び来られる時のために、道を備えなければいけない。「それだから、あなたがたのなえた手と、弱くなっているひざとを、まっすぐにしなさい。また、足のなえている者が踏みはずすことなく、むしろいやされるように、あなたがたの足のために、まっすぐな道をつくりなさい。」(ヘブル12:12-13)

エクレシアとは、世から召し出された者、キリストのものとされ、主イエスの御名によって勝ち取られた彼の領分である。この領域を広げようではないか。主が再び来られる時に、報いを受ける僕となるために、主イエスの勝利を宣言する旗をこの地に立てようではないか。かつて主イエスのエルサレム入城を歓呼して迎えた群衆のように、白い衣を着、しゅろの枝を持って、御座と子羊の前に立ち、彼を誉めたたえる数え切れない群衆の魂を勝ち取ろう。主はご自分を迎えるために彼を心から待ち望む人々の出現を願っておられる。

* * *

「すべて肉なる者よ、主の前に静まれ。主はその聖なるすみかから立ちあがられたからである。」(ゼカリヤ2:13)

今、未曾有のことが起ころうとしている。聖徒らが主イエスの勝利を宣言し、賛美する声の只中に、御国の統治がもたらされようとしている。神の公正で正しい裁きが真昼のように輝こうとしている。サタンの不法に悩まされ、悩みを負わされた聖徒らのために、神が立ち上がって正しい裁きを輝かせて下さる日が近づいている。その日、ただ主の栄光だけが輝くために、自分の魂の命を最後まで惜しまずにいよう。

ここ数日、初代教会のことが思われてならなかった。私たちはローマ帝国時代の人々に比べ、思いもかけない自由のうちに住んでいるはずだが、礼拝に出席することがまさに命がけの戦いを要するようになっているのだ。この戦いに勝って、愛する兄弟姉妹と共に主を誉め讃えるために、自分自身に頼らず、主イエスの勝利を宣言し続けることがどうしても必要である。

その間、サタンはものすごい執拗さをもって聖徒らを責め続けた。その責めの中には、人々が実際に犯した罪も、そうでない罪も含まれていた。もしわずかでも、自分自身として立とうとするならば、到底、立ちおおせることはできない。なぜなら、それが祭司の務めだからだ。祭司は、民の代表として、民の全ての罪を背負って彼らの罪をとりなすために主の御前に立たなければならない。私たちのまことの大祭司は主イエスであり、私たちの罪をとりなすことのできる方はただお一人であるが、私たち自身も、主の祭司として、この時代の罪を負わされることを避けられない。聖徒らにはあらゆるそしりがふりかかり、彼らは主の御名のゆえに世から憎まれ、嘲られ、あらゆる責めを負わされる。にも関わらず、民の前には神の聖なる祭司として立ち続けなければならないのだ。誰が主ご自身以外のものに頼って敵のこの激烈な訴えの前に立ちおおせよう。

エレミヤは言った、「主よ、わたしは知っています。人の道は自身によるのではなく、歩む人が、その歩みを自分で決めることができないことを。主よ、わたしを懲らしてください。正しい道にしたがって、怒らずに懲らしてください。さもないと、わたしは無に帰してしまうでしょう。」(エレミヤ10:23-24)

「わたしは彼を見たとき、その足もとに倒れて死人のようになった。」(黙示1:17) 「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ。わたしは汚れたくちびるの者で、汚れたくちびるの民の中に住む者であるのに、わたしの目が万軍の主なる王を見たのだから」(イザヤ6:5)

本当に、私たちは倒れ伏すことしかできない。私たちは汚れた唇の民の中に住んでいる不義なる民であり、主の御前に誰一人、自分自身として立ちおおせる人はいない。しかし、倒れて死んだようになった者たちに、主は「恐れるな」と優しく声をかけて下さり、この方の義によってのみ、信じる者は立ち上がる。
 
「権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によるのである。」(ゼカリヤ4:6)

主は聖徒らを滅ぼすために懲らされるのでなく、彼らを神の義によって生かすために懲らされる。ただ主だけが義であり、いのちであることを知らせ、私たちが自分に頼らず、彼だけを信頼するように。もし私たちが信じるならば、主は私たちに清い帽子と祭服を着せて下さり、すべての訴えを取り除いて下さり、今度は手をかえて、サタンを責められる。なぜなら、サタンの働きも、最終的には主のご計画の中にあって、それは神が選び出された民をより一層、神に近づけるためにあるからだ。

「時に主は大祭司ヨシュアが、主の使の前に立ち、サタンがその右に立って、これを訴えているのをわたしに示された。主はサタンに言われた、「サタンよ、主はあなたを責めるのだ。すなわちエルサレムを選んだ主はあなたを責めるのだ。これは火の中から取り出した燃えさしではないか」。

ヨシュアは汚れた衣を着て、み使の前に立っていたが、み使は自分の前に立っている者どもに言った、「彼の汚れた衣を脱がせなさい」。またヨシュアに向かって言った、「見よ、わたしはあなたの罪を取り除いた。あなたに祭服を着せよう」。わたしは言った、「清い帽子を頭にかぶらせなさい」。そこで清い帽子を頭にかぶらせ、衣を彼に着せた。主の使はかたわらに立っていた。

主の使は、ヨシュアを戒めていった、「万軍の主は、こう仰せられる、あなたがもし、わたしの道にあゆみ、わたしの務を守るならば、わたしの家をつかさどり、わたしの庭を守ることができる。わたしはまた、ここに立っている者どもの中に行き来することを得させる。大祭司ヨシュアよ、あなたも、あなたの前にすわっている同僚たちも聞きなさい。彼らはよいしるしとなるべき人々だからである。

見よ、わたしはわたしのしもべなる枝を生じさせよう。万軍の主は言われる、見よ、ヨシュアの前にわたしが置いた石の上に、わたしはみずから文字を彫刻する。そしてわたしはこの地の罪を、一日の内に取り除く。万軍の主は言われる、その日には、あなたがたはめいめいその隣り人を招いて、ぶどうの木の下、いちじくの木の下に座すのである」(ゼカリヤ第三章)


まことに人の歩む道は人が自分自身で決めることができず、自分自身の力で主に従い得た人は一人としていない。「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。」(エペソ2:8-9)

贖いは神の一方的な恵みであり、私たちの側にはどんな資格もない。世においても、私たちは何の役にも立たない無力な者、無きに等しい者に過ぎなかった(Ⅰコリント1:27,28)。なにゆえ、神がこのような者を愛され、召し、呼び続けておられるのか分からない。それでも、エルサレムも、エクレシアも、神が瞳のように大切に守っておられるのであり、鳥がひなをかくまうように、神は私たちを御翼の下にかくまって下さる。だから、私たちの心には、花嫁としての喜びが溢れ、主への愛が燃え上がらずにいられない、「キリストの愛がわたしたちに強く迫っている」(Ⅱコリント5:14)

だから、私は全ての聖徒らと共に声を張り上げて呼びたいのだ、主よ、来たりませ、来て、私たちを迎えて下さいと――。
 
* * *

「兄弟たちよ。あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい。人間的には、知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはいない。それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。

それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである。それは、
「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりである。」(Ⅰコリント1:26-29)

「わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。」(ローマ8:38-39)
 
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