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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

どうか父がその栄光の富にしたがい、御霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強くして下さるように

「おおよそ、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、もしくは畑を捨てた者は、その幾倍もを受け、また永遠の生命を受けつぐであろう。」(マタイ19:29)

「イエスは言われた、「よく聞いておくがよい。だれでもわたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、もしくは畑を捨てた者は、必ずその百倍を受ける。すなわち、今この時代では家、兄弟、姉妹、母、子および畑を迫害と共に受け、また、きたるべき世では永遠の生命を受ける。」(マルコ10:29-30)


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聖書は、私たちがキリストのゆえに受ける苦しみはほんの束の間に過ぎないことを告げている。そしてその苦しみも損失も決して損失で終わらず、永遠の重い栄光で報いられることを告げている。「だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。」(Ⅱコリント4:16-17)

ある人は駱駝が針の穴を通るように、主と共に十字架の死をくぐるまでの間、想像を絶するような苦しみを通らなければならなかった。しかし、死を経るまでの苦しみが深いならばなおさらのこと、主と共に真に十字架を経由したその後で、神は本当に思いもかけないほどの自由と豊かないのちをその人にお与え下さり、失われたものを何倍にも回復して下さり、驚くべき和解へと導いて下さる。

かつて苦しみを通らされた兄弟姉妹が、今、どれほどの自由と平安にあずかっているかを見るにつけても、神は本当に私たちの思いをはるかに越えて働かれ、豊かにいのちを与えて下さる方であることを信じないわけにはいかない。

主イエスはご自分が地上に来られたその目的を、次の短い一言で表された、「わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。」(ヨハネ10:10) しかし、彼のよみがえりのいのちを得るための方法こそ、逆説的に、主と共に十字架において自分の魂の命を失っていることなのである。「自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう。」(マタイ10:39) このような十字架の証に、聖徒らの交わりの中で触れることができることは、何という幸いなのだろうか。その励ましにより、自分の限られた想像力が打ち砕かれるのをどうして喜ばずにいられようか。

神は本当に私たちの内に力を働かせて、「わたしたちが求めまた思うところのいっさいを、はるかに越えてかなえてくださることができるかた」(エペソ3:20)である。

「こういうわけで、わたしはひざをかがめて、天上にあり地上にあって『父』と呼ばれているあらゆるものの源なる父に祈る。どうか父が、その栄光の富にしたがい、御霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強くして下さるように。また、信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み、あなたがたが愛に根ざし愛を基として生活することにより、すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ、また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように、と祈る。」(エペソ3:14-19)

色々な患難の只中を通らされている時には、それが何のためであるか人には分からない。自分にも分からないものを、まして周囲に理解できるはずもない。そんな時、世から聞こえて来る声は、あのヨブの妻のような罪定めの言葉だけかも知れない、「あなたはなおも堅く保って、自分を全うするのですか。神をのろって死になさい」(ヨブ2:9)

さまざまな困難を通して、サタンは私たちに神を恨ませようとし、聖徒らからも引き離そうとし、主イエスが与えて下さったいのちを見失わせようと仕向けるだろう。ところが、私たちがそれでも勇気を奮い起こして神を信頼し、信仰を捨てて滅びる者とならず、信じていのちを得る者となるならば、時と共に神の憐れみに満ちた御旨が、必ず、私たちを通して明らかにされるだろう。

そのとき、私たちの卑小さや、愚かさや、限界でさえ、神のはかりしれない愛に満ちた尊いご計画の尊さを示すための材料とされる。「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。」(ローマ8:28) 

アダムとエバの堕落という地すべりにさえキリストを通して余りある贖いをもたらされた神は、私たちのためにも、本当にとてつもない贖いを用意して下さっている。私たちの失敗、挫折、回り道でさえ、ご計画にとどまるならば、神の栄光へと変えられていくのである。ヤコブがその人生を通して練られ、ついに神の光によって輝く柔和な人となったように、私たちもキリストご自身の似姿へと変えられていくのである。このことを信じるだろうか? 太陽の光が満ちれば、月の輝きが消えうせるように、死を帯びて滅びゆく私たちのアダム来の性質が、キリストのいのちに飲みこまれてしまうことを信じるだろうか?

だから、主に栄光あれ! 私は衰え、彼は栄える! 一粒の麦が死んで初めて多くの実を結ぶ。その原則はいつも変わらない。だから、私は自分が今どこにいるかをかえりみるのではなく、ただ主イエスの豊かないのちにあずかることを願って、水の上を歩いたペテロのように、自分自身から目を離して、キリストご自身に目を注ごう。

もしも今、私が自分で自分の命を保ち、それを握りしめて離さず、自分で掴みとろうとするならば、それは結果的に失われるだろう。しかし、自分のわざをやめ、主が全てをなして下さることにまかせ、主を信じるならば、必ず、私の思いを越えて、主が働いて下さる。そしてそのみわざは時にかなって美しい。

だから、主の御名のゆえに束の間、低められることを私たちは恐れるまい。必ず、主が豊かな報いを返して下さることを信じているからだ。パウロは書いている、「そのためにまた、わたしはこのような苦しみを受けているが、それを恥としない。なぜなら、わたしは自分の信じてきたかたを知っており、またそのかたは、わたしにゆだねられているものを、かの日に至るまで守って下さることができると、確信しているからである。」(Ⅱテモテ1:12)

なぜヘブル書に次のように書いてあるか、今こそ、分からないでおられようか。「ほかの者は、更にまさったいのちによみがえるために、拷問の苦しみに甘んじ、放免されることを願わなかった。」(ヘブル11:35) 彼らは苦しみから放免されることを願わなかった! 更にまさったよみがえりのいのちの価値を知っていたがゆえに、朽ちゆくアダムの命を惜しまなかった。死ぬべきものがいのちに飲まれてしまうことを願っていたゆえに、自分の魂の命を自ら拒んだのだ。「兄弟たちは、小羊の血と彼らのあかしの言葉とによって、彼にうち勝ち、死に至るまでもそのいのちを惜しまなかった。」(黙示12:11)

「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」(マタイ4:4)

「もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう。」(ローマ8:11)


人の心には、自分の願うすべてを自分の手で掴み取りたいという願いがないわけではない。しかし、アダムにあって自分の望みの全てを失うとしても、キリストの安息の中にとどまることの方にはるかに価値があるのだ。自分の手で自分の願いを掴み取ろうとすることはむなしく、不毛であるが、忍耐して主を待ち続け、主がお与え下さるに任せるならば、豊かな報いを受けるだろう。主はいつも言われる、「あなたがするのではない、わたしがするのだ」と。

「なぜなら、神の安息にはいった者は、神がみわざをやめて休まれたように、自分もわざを休んだからである。」(ヘブル4:10) 

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「しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものをふん土のように思っている。それは、わたしがキリストを得るためであり、律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである。

すなわち、キリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり、なんとかして死人のうちからの復活に達したいのである。わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。

兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。」(ピリピ3:7-14)


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