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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

よく言っておくが、あなたは今日、私と一緒にパラダイスにいるであろう

日曜礼拝の後、驚くほど活力が出て、食欲は回復し、恐れは逃げ去った。ある姉妹が言った、私の病はもう主と共に十字架で終わらされたと。そのことを私は神にいつも訴えていると。死の淵を見たからこそ、それはいのちがけの訴えなのである。その人は言った、聖霊の宮である自分自身の身体を、義の武器として捧げて神の栄光を現すのに、どうして病などに陥って弱々しくいられようかと。

私たちの目の前にはいのちの道と、死の道とが置かれている。「わたしは、きょう、天と地を呼んであなたがたに対する証人とする。わたしは命と死および祝福とのろいをあなたの前に置いた。あなたは命を選ばなければならない。」(申命記30:19) 

さて、命を選ぶとは何か。それは主イエス・キリストを信頼することである。主イエスが私たちのために十字架で達成された御業のすべてを信じて我が物として受け取る(掴み取る)ことである。だから、今一度、自分に問うてみよう、その妨げとなるものが私たちの心にないかどうか。

「主よ。お心一つで、私をきよめることがおできになります。」、「わたしの心だ。きよくなれ。」(マタイ8:2-3)

これは信仰のチャレンジである。この完全な癒しをあなたは自分のものとして受け取るだろうか? キリストのよみがえりの命が、私たちの死ぬべき身体においても完全な命として働くことを信じるか。自分の罪の債務証書がキリストによって完済されたことを認めるか。それとも、依然として、弱く、無益な自分のアダム来の出自にすがりつづけ、自分で自分の罪を背負い続けるのか…。

神がキリストにあって王族の衣装を着せて下さろうというのに、何のために乞食の衣装にすがる必要があるのか。今、心の中で、神の栄光を曇らせる全ての不信仰を憎み、それに訣別宣言を突きつけることを決めようではないか。降り注ぐ雨のように私たちにいのちを与えようとする神の御霊、十字架の死を経てよみがえられたキリストの自由な働きを、これ以上、不信仰によって妨げないようにしようではないか。

ああ、死も、病も、弱さも、そのために流される自己憐憫の涙も、すべてが罪の報酬であり、神の御前では憎むべきものなのだ。死と地獄を打ち破られた主イエスは、これら全ての束縛から私たちを解放しようとしておられ、すでに自由にして下さったのだ。もし私たちさえ信じるならば、それは私たちのものだ。なのに、どうしていのちを求めないのか。どうしてこの宝を捨てて束縛の中にとどまろうとするのか。もしも本当にイエスの復活のいのちを知りたいならば、これら死の性質を帯びたものと完全に訣別せよ、それがもう二度と、自分に戻って来ることを許さないように!

かつて私が未熟であった頃、私の弱さに十分な同情と理解を示してくれた信仰者らが存在したことは大いなる感謝であったが、だからといって、いつまでも弱さについて語り続けるのはもううんざりである。これ以上、ヒューマニズムという偽りの美談に包まれた、人を死に至らしめるだけの弱さはもう十分である。

私たちは主と共に十字架の死という究極の弱さを経たからこそ、御子の復活のいのちの中に置かれているのだ。「神は、わたしたちをやみの力から救い出して、その愛する御子の支配下に移して下さった。」(コロサイ1:13) 愛する御子の支配下においては、すべてが完了している。十字架は決済済みの取引である。私たちの負債は彼にあって完済された。だから、アダムの命にある自分がどんなものであるにせよ、それは主と共に死んだとただ認めるだけで良い。

目の前に新しい創造という地境が開けているのに、くれぐれもアダムにある自分の出自を振り返って引き返そうとしてはならない。それに責任を負おうとしてはいけない。かつて古き人が生きていた不毛の地を振り返ってはいけない。もしそんなことをするならば、ソドムを振り返ったロトの妻のようになるだろう。

ただ復活されたイエスが私たちの内に生きておられることだけに信頼しなければならない。もしそうするならば、自分の弱さに責任を負わされることはなくなる、「わたしたちは、果すべき責任を負っている者であるが、肉に従って生きる責任を肉に対して負っているのではない。」(ローマ8:12) 主を信ぜよ、主の強さに身を委ねよ。いのちの御霊の法則に大胆に身を委ねよ。そうすれば、失われ、死んでいた者たちが神に対して生きる者とされ、主と共によみがえらされて、永遠の実を結ぶ者とされるだろう。ぶどうの木であるイエスにつながっていればこそ、私たちは彼のいのちによって、神に対して生きるのだ。

キリストは、あなたがたに対して弱くはなく、あなたがたのうちにあって強い。すなわち、キリストは弱さのゆえに十字架につけられたが、神の力によって生きておられるのである。このように、わたしたちもキリストにあって弱い者であるが、あなたがたに対しては、神の力によって、キリストと共に生きるのである。

あなたがたは、はたして信仰があるかどうか、自分を反省し、自分を吟味するがよい。それとも、イエス・キリストがあなたがたのうちにおられることを、悟らないのか。もし悟らなければ、あなたがたは、にせものとして見捨てられる。しかしわたしは、自分たちが見捨てられた者ではないことを、知っていてもらいたい。」(Ⅱコリント13:4-6)


「そこで、高慢にならないように、わたしの肉体には一つのとげが与えられた、それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使なのである。このことについて、わたしは彼を離れ去らせて下さるようにと、三度も主に祈った。ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。

それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。」(Ⅱコリント12:7-10)


パウロは内におられる栄光の望みであるキリストのはかりしれない力のゆえに、弱さも、侮辱も、危難も、迫害も、行き詰まりも、恐れはしなかった。同様に、もしも真に主と共に十字架につけられたならば、私たちは主にあって強い。なぜなら、主と共に復活し、天に引き上げられ、御座に座す者とされたからである。アダムにある自己ははるか足の下、それは水の下にすでに沈んでいる。私たちは自分自身の命を憎み、それを否むだろうか。それがもう自分の手の届かないところにあって、キリストと共に死んでいることを認めるだろうか。もし主と共に死を経るならば、必ず、復活がある。死をも、墓をも打ち破った主イエスのはかりしれない力強い命が、この死ぬべき肉体の幕屋の内側から私たちを立ち上がらせる。それは生活条件が変わるからではない、肉による慰めがもたらされるからでもない、ただこの内なる方の尊いはかりしれないいのちの力によってのみ、私たちはどんな条件下からでも立ち上がるだろう。

このきよい、汚れのない、尊い復活のいのちこそ、私たちのために義となり聖となり贖いとなられたキリストご自身なのである。内におられ、今も生きておられるこの方――サタンを打ち破り、死も、墓も、ハデスの門も打ち破られたこの方だけが、私たちを神に対して生かす者とすることができる。「あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい。」(Ⅰコリント6:20)

この方のいのちこそ、御国の統治そのものである。王の王は天地を統べ治める方である。敵の訴えの前では、血潮も雄弁に私たちを弁護するが、しかしこのパースンでありいのちなる方ご自身が、私たちの内に働いて、どんなものよりも力強く私たちを弁護し、守って下さる。この方によってのみ、死んでいた私たちは生きる。

それだから、私たちは誰の支配下にいるのか、もう一度、自分を吟味しようではないか。やみの力か、それとも、愛する御子の支配下か。もし御子を信じるならば、すでに御国が到来している。もしキリストの内にとどまるならば、私たちは豊かに実を結ぶ枝とされ――それによって父なる神が栄光をお受けになるのである。

だから、恐れるな、小さき群れよ。御国を下さることは、父なる神の御心なのである。私たちは自分をとりまく貧困や、弱さや、恐れや、病や、死を、主が憎まれたように憎み、拒絶するだろうか? 信仰によって、絶えず死を拒んでイエスのいのちを選び取るだろうか? 私たちにいのちを、自由をお与え下さる神のはかりしれない憐れみに満ちた愛なる御旨を掴み取るだろうか? 

神の国は断じて目に見える喧騒や、熱狂や、交わりそのものの中にあるものではなく、絶えず、死すべきアダムの肉を、古き自己を拒んでまことのいのちなるキリストを選び取る(御子の)信仰を通じて、一人ひとりの霊の内側に到来しているのである。そして、御国はキリストと共にすでに私たちの只中に来ている。御霊は、私たちが神の国を受け継ぐことの約束の保証である。もし信じるならば、私たちはすでに御国の統治の中にいるのだ。主と共に十字架につけられたあの強盗のように、私たちは主と共に安息の中に入れられている。「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」(ルカ23:43)

* * *
「荒野と、かわいた地とは楽しみ、
さばくは喜びて花咲き、さふらんのように、
さかんに花咲き、
かつ喜び楽しみ、かつ歌う。

これにレバノンの栄えが与えられ、
カルメルおよびシャロンの麗しさが与えられる。
かれらは 主の栄光を見、われわれの神の麗しさを見る。

あなたがたは弱った手を強くし、
よろめくひざを健やかにせよ。
心おののく者に言え、
「強くあれ、恐れてはならない。
見よ、あなたがたの神は報復をもって臨み、
神の報いをもってこられる。
神は来て、あなたがたを救われる」と。

その時、見えない人の目は開かれ、
聞えない人の耳は聞えるようになる。
その時、足の不自由な人は、しかのように飛び走り、
口のきけない人の舌は喜び歌う。

それは荒野に水がわきいで、
さばくに川が流れるからである。
焼けた砂は池となり、
かわいた地は水の源となり、
山犬の伏したすみかは、
葦、よしの茂りあう所となる。

そこに大路がある。
その道は聖なる道ととなえられる。
汚れた者はこれを通りすぎることはできない。
愚かなる者はそこに迷い入ることはない。

そこには、ししはおらず、
飢えた獣も、その道にのぼることはなく、
その所でこれに会うことはない。
ただ、あながわれた者のみ、そこを歩む。
主にあながわれた者は帰ってきて、
その頭に、とこしえの喜びをいただき、
歌うたいつつ、シオンに来る。
彼らは楽しみと喜びとを得、
悲しみと嘆きとは逃げ去る。」(イザヤ第35章)

* * *
 
「それでは、これらの事について、なんと言おうか。もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜らないことがあろうか。
だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。
だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。

『わたしたちはあなたのために終日、
死に定められており、
ほふられる羊のように見られている』

と書いてあるとおりである。しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。」(ローマ8:31-39)


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