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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

彼にあって二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ…

「だれもあかりをともして、それを何かの器でおおいかぶせたり、寝台の下に置いたりはしない。燭台の上に置いて、はいって来る人たちに光が見えるようにするのである。隠されているもので、あらわにならないものはなく、秘密にされているもので、ついには知られ、明るみに出されないものはない。だから、どう聞くかに注意するがよい。持っている人は更に与えられ、持っていない人は、持っていると思っているものまでも、取り上げられるであろう」(ルカ8:16-18)

賢い花嫁となるために、暗闇の日には忍耐が必要である。私たちは主から癒しや満たしがある時にはいつでも喜んで全速力で走っていける。しかし、主の応答が速やかにないように思われる時、どうするのか。深い飢え渇きを覚え、孤独の中をたった一人で通らされる暗い日に、どうするのか。愚かな花嫁も、賢い花嫁と同じように主を信じていたが、御霊の油を絶やしたことにより、主を待ち望むことができなくなった。そして時を逸し、ついに持っていると思っていたものまで失ってしまったのである。

私たちのあかりは御霊の光であり、私たちの足の灯火は主イエスご自身である。この光があるうちに、光の中を歩むかどうか。「きょう」と言われている日に、御声を拒まないかどうか。御霊の光によって、私たちの心の暗闇の全てを探り、照らし出していただくことを願うかどうか。私たちはいずれ神の御前で申し開きを迫られる時が来るのだ。その方の御前で隠し立てできるものは何一つとしてない。それなのに今、まだ安息に入る余地が残され、憐れみが注がれている日に、御霊の光で自分の心の暗闇をすべて照らしていただくことを拒むとすれば、一体、かの日に主の御前で何を申し開きするのか。

もし御霊の声に対して自分を開くならば、憐れみを受けるだろう。主の愛と憐れみがどんなに豊かであるか、神が私たちの弱さや欠点に対しても、どれほど大いなる理解を持っておられるか、まことの大祭司なるお方がどんなに深い憐れみを持って私たちのためにとりなしてくださり、私たちを取り扱って下さるかを知るだろう。

だから、十字架を拒んではいけない。主と共なるゴルゴタの死から決して動いてはいけない。私たちは本当に生まれながらの自分自身を憎むべきである。自分自身を憎むべきである。十字架を通して自分が粉砕され、退けられることを拒んではいけない。まだ光が当てられたことのない心の暗闇に、光が当てられることを拒んではいけない。

* * *
今日も予想をはるかに越えて、主は礼拝とその後の交わりに共にいて下さった。主の臨在により、兄弟姉妹の結びつきがますます自然なものとなり、強められていることも感じた。いつまでも兄弟姉妹と共にいたいと思わされるほど、強い一致が現されているのを感じた。恐らく、御霊の一致はこの先、さらに強まっていくだろうと思う。

交わりの中では、一人ひとりの兄弟姉妹がどんなに深い飢え渇きを持ちながら礼拝に集っているのかを知らされている。求める者はさらに与えられるが、求めない者は何も得ることがない。もしもただ一心に、主だけに求め、主だけに聞こうとする姿勢がなければ、この先、何一つとして維持することができないだろう。しかも、聞いたのに、従う心がないのでは、今持っている光さえ維持することが難しくなるだろう。

戦いはますます激しくなっている。しかし、キリストのみからだなる教会を通して、神の知恵がどれほど豊かに現され、どんなに豊かな助けを受けることができるかも、これまで何度となく知らされて来た。もしもエクレシアの外から何かを訴えようとするならば、それは主に対するつぶやきとなり、不平となって終わるかも知れない。しかし、エクレシアの中で訴えたことで、無駄に終わっ た事柄はなかった。たとえそれが私の弱さから来たことであったとしても、神はその願いを決して無碍に扱われなかった。小さな相談事にも、思いもかけない方向から豊かな助けが与えられ、折にかなった助言や励ましを豊かに受けた。なぜこれほどまでに主がこのような弱い者をも愛し、あきらめないでいて下さるのか不思議に思うほど、神ご自身がねんごろに面倒をみて下さったのである。

だから、この城壁の中にとどまることがどんなに重要なことであるか思い知らされている。どんなに自分ひとり、信仰を維持しようと努力しても、みからだから受ける助けを欠くならば、進んでいくことはできないだろう。

私たちそれぞれは神の家を建て上げるために、人手によらずに、御霊によって切り出された生ける石であって、キリストを頭として一つとされた身体である。そこで、御霊による一致が現されるごとに、ますます個人的な輪郭が消えていくように感じている。それは、ますますキリストだけがすべてのすべてとなられる時が近づいているからだ。自分が何者であるかなど全くどうでもよい。名前も、能力も、職業も、人生の道も、嗜好も、性格も、一切の相違が意味を持たなくなり、兄弟姉妹がただ本当に主にあって一つとされたこと、それによって、神が栄光をお受けになることだけが重要である。

「…あなたがたは、このように以前は遠く離れていたが、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近いものとなったのである。キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、数々の規定から成っている戒めの 律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。」(エペソ2:15)

「…彼によって、わたしたち両方の者が一つの御霊の中にあって、父のみもとに近づくことができるからである。そこであなたがたは、もはや異国人でも宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族なのである。またあなたがたは、使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられたものであって、キリスト・イエスご自身が隅のかしら石である。このキリストにあって、建物全体が組み合わされ、主にある聖なる宮に成長し、そしてあなたがたも、主にあって共に建てられて、霊なる神のすまいとなるのである。」(エペソ2:18-22)

異国人であり宿り人に過ぎなかった者たちが、このように一つの御霊の中にあって神の家族とされ、共に父の御許に近づき、共に神に賛美を捧げることができるとは、何という特権なのだろうか。もう随分前から、一人ひとりの兄弟姉妹はエクレシア共有の人になりつつあるように思われてならない。個人的な隔てはますます取り払われて、御霊が風のように思うがままに吹くようになり、キリストが花嫁なる教会を愛されたように、私たちも、主の愛によって一つに結び合わされる。今、キリストにあるひとりの新しい人としての教会がはっきり姿を現そうとしているように思われてならない。

しかし、どうか主よ、愚かな私たちを憐れんで下さい。私たちの盲目な目を開き、あなたの御前で真に油を絶やさない者として下さい。あなたに従うことは、自分の力では及ばないのです。すべてはただあなたの達成された御業によらなければなりません。暗闇が世を覆っています。けれども、死に至るまで御父に従順であられた主イエスよ、どうか私たちの心の全ての暗闇をあなたの御霊の光で照らして下さい、あなたの霊で私たちの心をとらえて離さないで下さい。

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