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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

もし私たちがキリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる

「あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ。まだガリラヤにおられたとき、あなたがたにお話しになったことを思い出しなさい。すなわち、人の子は必ず罪人らの手に渡され、十字架につけられ、そして三日目によみがえる、と仰せられたではないか」(ルカ24:5-7)

「…わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない。この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである。」(ガラテヤ6:14)

「わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。」(ローマ6:6-8)

「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか。」(ヨハネ11:25-26)


何かしら説明不可能な事柄が進行している。圧倒的ないのちの流れが、脆く弱い土の器である私たちの殻を押し破って、外にほとばしり出ようとしている。もうこれ以上、自分の力で殻を割ろうと努力することは必要ないだろう。私たちはただ古き人を、アダムの肉を十字架で否み、それらが主と共に十字架につけられて死んだという事実を絶えず認めるだけである。

初めて復活のいのちとは何であるかを知らされたとき、そのいのちは、たとえ地球が何度、核爆弾で滅んだとしても、なお滅びないいのちであることを味わい知った。これは決して大袈裟な表現ではないと思う。何しろ、キリストの復活のいのちは、地獄の軍勢も、サタンも、死をも打ち破ったのだから。「キリストは死を滅ぼし、福音によっていのちと不死とを明らかに示されたのである。」(Ⅱテモテ 1: 10) 「それは、死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つためである。」(ヘブル2:14-15) このはかりしれない力を持つキリストの復活のいのちが、信仰を通じて、私たちのこの朽ちゆく脆い肉体の中に宿っているとは、何という説明不可能な不思議だろうか…。

御子をよみがえらせた神のいのちが宿っていればこそ、信仰者はいつまでも墓に横たわっている必要はないのだ。主と共に十字架につけられて死に、葬られ、墓を通過した者には、必ず主と共なるよみがえりが実際となる。そして主と共に御座に引き上げられることもだ。これは主観的経験として実際となるのである。殉教も、掲挙も、その後に起こる出来事であって、墓の中で起こることではない。

そこで、たとえ何度、欺かれて、罪なる古き人に引きずり戻されそうになることがあったとしても、私たちはその古き人を否み、それが十字架につけられて死んだことを認め、生まれながらの自分自身に立脚せずに、ただキリストご自身だけに立脚して進んでいく。

何度、欺かれて訴える者の訴えに耳を貸しそうになったとしても、私たちは「アベルの血よりも力強く語るそそがれた血である」(ヘブル12:24)主イエスの血潮を何度でも自分に適用し、キリストが十字架において私たちの全ての罪の債務証書を破り捨てられたことを認め、自分で自分に対して責任を負おうとする全ての誤った考えを拒んで、主と共に凱旋の行進の中を進んでいくのである。

聖書にはこうある、
「神は、わたしたちを責めて不利におとしいれる証書を、その規定もろともぬり消し、これを取り除いて、十字架につけてしまわれた。」(コロサイ2:14)

「主はそのしもべらの命をあがなわれる。主に寄り頼む者はひとりだに罪に定められることはない。」(詩篇34:22)

「だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。」(ローマ8:33-34)


これに対して、世では自分の行動に対して自分で責任を負おうとすることが、道徳的で立派なことであると考えられている。キリスト教徒でさえそのような虚偽に欺かれ、「負い切れない重荷」(ルカ11:46)を互いに押しつけ合うという過ちを犯しがちだ。それにひきかえ、神の事実は、私たちが自分に対して自分で責任を負うことは決してできないと告げている。ダビデは言った、「見よ、わたしは不義のなかに生れました。わたしの母は罪のうちにわたしをみごもりました。」(詩篇51:5) 

人の罪の債務証書は、まさにその人が生まれる以前から始まっている。そして「罪の支払う報酬は死である。」(ローマ6:23) 誰がこの決定的な宿命から逃れられよう? 誰がそのような債務証書を自分の力で無効にできようか。そのようなことをなしえるのは、ただキリストの十字架だけである。

「まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを刈り取ることになる。すなわち、自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう。」(ガラテヤ6:7-8)

肉にまいて滅びを刈り取るとは、生まれながらの自分を自分で義としようとさんざん自分の力で努力し、自分で自分の行動の責任を取ろうとして、苦しみもがく人生に他ならない。外面的には、それは自分の行動に対して道徳的責任を負おうとする行動なので、立派に見えるかも知れない。ところが、やればやるほどますます事態は紛糾していく。努力すればするほど失敗が重なり、人は義とされるどころか、ますます罪が増し加わって、債務証書が山積みになり、罪の負債地獄に陥ってついに首が回らなくなる。人が自分で自分を義とすることはおよそ不可能である。

それにひきかえ、霊にまく者は霊から永遠のいのちを刈り取るとは、自分の義により頼まず、むしろ、自分自身には何も義となるものがないことを認め、ただキリストの義によりすがって安息することである。自分で自分を義としようとする全てのもがき苦しみをやめて、キリストが身代わりに死んで下さったことにより、あなたの全ての罪の債務証書は十字架において無効にされ、キリストがあなたを自由にして下さったことを信じ、キリストが達成された御業だけによりすがって、彼のよみがえりのいのちのうちに安息のうちに生きることである。

これは、ひとつまかりまちがえば大変に無責任な生き方のようにも思われるだろうが、よく考えてみれば決してそうでないことが分かる。なぜなら、あなたはキリストと共に十字架で死んで、彼と共に裁かれたからだ。あなたに対する処刑は実行された。あなたの罪深い古き人はゴルゴタで裁きを受け、あなたの古き人、アダムにある肉は、今も主と共に十字架につけられている。そこでは、サタンの家財とされていたあなた自身という人が死んだのだ。あなたが絶えずこの古き人の死を認め、主と一体となった十字架から一歩も動かないならば、サタンのいかなる訴えも、あなたに対して効力を持たない。キリストの十字架は旧創造に対する神の完全な正しい処罰であり、神に裁かれて主と共に死んだ者にそれ以上の裁きはないからだ、「彼を信じる者は、さばかれない。」ヨハネ3:18) 「それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。」

さらに、主と共に死んだだけでなく、主と共によみがえった。御子の復活のいのちが、あなたを全ての病、不幸、貧しさ、苦しみ、死から解放した。このことを信じるだろうか? 「もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」(黙示21:4) これはむろん、新エルサレムで初めて完全に成就する事柄である。しかし、私たちはこの地上においても、信仰によってその前味を経験することができるだろう。どの程度、信仰によってそれをこの地上で受け取るだろうか? 

「みこころでしたら、きよめていただけるのですが」と言った病人に対して、イエスはいわれた、「そうしてあげよう、きよくなれ」(ルカ5:12-13) これはただ病の癒しのことだけを言っているのではなく、いのちなるキリストが、その復活のいのちを通して、私たちをどれほど腐敗した旧創造から自由にされたいと望んでおられるかを象徴的に表わしていると私は思う。

御子のよみがえりのいのちは、ただ罪の贖いや、貧しさや、病や、死からあなたを解放したという消極的な側面だけでは終わらないのだ。それは私たちの前に、キリストにある新しい人、御子のよみがえりのいのちによってキリストを着せられた新創造という、完全に新しい果てしない地境を開いている。

「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。」(Ⅱコリント5:17)
「…あなたがたは、以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、心の深みまで新たにされて、真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである。」(エペソ4:23-24)


キリストのこの新しいいのちを実際に知ることがなければ、私たちの信仰生活はきっと半分だけで終わってしまうだろう。どんなに罪の赦しや、癒しを求めたとしても、この新しいいのちを追求することがなければ、主と共に統治することや、キリストと共に圧倒的な勝利者となることの意味は分からないだろう。ところが、私たちはこの復活のいのちについてまだほんの少しも、知るべきことさえ知らないでいるのだ。私たちはこの贖われない肉体の幕屋の中にあって呻いている、天のすみかを仰ぎ見、朽ちない新しい人を上に着、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうことを切に望みながら、呻いている。どうか主がこの天の住みかについて、この朽ちないものについて、私たちの見えない目を開いて教えて下さることを願うのです。

「わたしたちの住んでいる地上の幕屋がこわれると、神からいただく建物、すなわち天にある、人の手によらない永遠の家が備えてあることを、わたしたちは知っている。そして、天から賜るそのすみかを、上に着ようと切に望みながら、この幕屋の中で苦しみもだえている。それを着たなら、裸のままではいないことになろう。この幕屋の中にいるわたしたちは、重荷を負って苦しみもだえている。それを脱ごうと願うからではなく、その上に着ようと願うからであり、それによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためである。」(Ⅱコリント5:4)

「なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着るとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである。
『死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか』。
死のとげは罪である。罪の力は律法である。しかし感謝すべきことには、神は私たちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜ったのである。」(Ⅰコリント15:53-56)


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