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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

召された自由人はキリストの奴隷なのである

「主にあって召された奴隷は、主によって自由人とされた者であり、また、召された自由人はキリストの奴隷なのである。」(Ⅰコリント7:22)

キリストの奴隷! この言葉をかみ締めるように思う。この言葉は、キリストと苦しみを共にし、キリストのゆえに自己を十字架で否むことの意味をよく示している。奴隷とは本当に何の自由も持たないものだからだ。私たちは主にあって自由とされた。だが、その自由を悪の働く機会としないで、自分の身体を義の武器として主に仕えるために、喜んで自分の利益を捨て去り、キリストの奴隷となるだろうか?

パウロは「キリスト・イエスの囚人」(ピレモン9)という表現を何度も用いている。「この福音のために、わたしは悪者のように苦しめられ、ついに鎖につながれるに至った。しかし、神の言はつながれてはいない。」(Ⅱテモテ2:9) 「だから、あなたは、わたしたちの主のあかしをすることや、わたしが主の囚人であることを、決して恥ずかしく思ってはならない。むしろ、神の力にささえられて、福音のために、わたしと苦しみを共にしてほしい。」(Ⅱテモテ1:8)

墓の中に何もせずに横たわっている間に、主の甘く優しい癒しの御手が心深くに及ぶ。目には見えなくとも、御霊の深いとりなしが神に聞き届けられ、御霊のいのちの流れが、細い川のように流れ出して、まだ見ぬ人々に伝わっていく。

本当に、ガイオン夫人が言ったとおり、十字架は甘いのだ。主のために何もしないで蔑みや迫害に甘んじることは、人にとって最初はとても苦痛に思われるが、そのうち、十字架にとどまることが深い喜びをもたらすことに気づくだろう。自己を否んで十字架にとどまるとき、私たちの死によって、他の人々にどんなに豊かにいのちが及ぶかを知るようになれば、私たちはその原則からもう離れたくないとさえ思うだろう。また、主と共に十字架にとどまることこそが、霊的な敵の訴えに対する最大の防御であることも分かるようになるのだ。

「主は言われる、さあ、われわれは互に論じよう。たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ。紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだ。」(イザヤ1:18)

「きょう」と言われている日に、御声に従って歩もう、肉の思いをはなれ、生まれながらの自己を否み、御霊の与えるいのちと平安にあずかって歩もう。

「祭の終りの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである。」(ヨハネ7:37-39)

条件はかわいていること、イエスをキリストと信じること、ただそれだけである。仮にあなたのかわきがどんなに深くとも、主は必ずそれを満たして下さり、余りあるいのちを与えて下さることを信じるだろうか? 本当に心の底から主のいのちにあずかりたいと望むだろうか? そのために主と共に十字架で自分自身を否むという代償を払うことに同意するだろうか? あなたにはできなくとも、神にはできると信じるだろうか?

* * *

神がアダムを楽園の中に置かれた時、それはアダムが楽園を享受するためだけでなく、それを守るためでもありました。そこに何らかの悪の力が存在していたことは明らかであり、アダムはそれに警戒し、それから楽園を守らなければなりませんでした。神が六日間で造られたものはすべてはなはだ良いものでしたから、悪はその前から存在していたに違いありません。悪がどのように存在するに至ったのか、また悪がど こから来たのか、聖書は啓示していません。しかし、悪が存在すること、そして新しく創造された神の園と人の住まいの中央に悪が危害を加えて滅ぼそうと脅か していた事実で十分です。

神の狙いはこの悪しき者から力を奪い去ることであり、人という手段を通してそうすることを意図されました。この思想から自然に、人はすでに自分の前に存在していた悪を征服するという、まさにこの目的のために創造されたのではないか、ということが示唆されます。これがこのあまり重要そうには見えない地球を宇宙の歴史の中心としました。混沌が生じたのは間違いなくこの悪の力によってであり、この悪の力は前の王国の廃墟の中から起こされた世界でも前の王国を維持しようと依然として狙っていました。まさにその世界に人は創造されたのです。それは人がそれを征服して追い出すためでした。この 世界が神と天使たちの目から見てこんなにも重要なのはそのためです。この世界は天と地獄が衝突して命がけの戦いが行われる戦場なのです。

十字架の敵

聖書から教わるまで、私たちは悲惨な人類の歴史を決して正しく理解することはできません。神には万物を支配する目的があります。他方、自然な成長と発展、人を支配する体系的な組織と王国以外の何物にも見えない事柄のただ中で、それが人々を暗闇の中に拘束し、神の御子の王国に対する戦いのために人々を利用しているのです。私たちの思いもよらない規模で、諸々の時代の緩やかな流れの中、神が忍耐しておられる間、人間 の意志と行動の完全な自由の渦中で、止むことのない戦いが続いてきたのです。この問題には疑問の余地がありませんが、この戦いは長期にわたる破壊的なものです。この戦いの歴史において、

十字架は転換点です。

最初に読んだ御言葉は素晴らしい啓示を与えます。それは十字架の贖いの意義を示します。彼はご自身から主権者 たちや権力者たちをはぎ取り、彼らをさらしものとし、(十字架において)彼らに対して勝ち誇られました。十字架の暗闇の中、暗闇の力は猛攻を加えました。 彼らは自分たちの恐るべき力を総動員して彼に押し迫り、まさに地獄の暗闇と凄惨さをもって彼を取り囲みました。彼らは分厚い暗雲を形成したので、神の御顔の光さえも彼を見放しました。しかし、彼はご自身から彼らをはぎ取り、敵どもを打ちのめして、誘惑に勝利されました。彼は彼らをさらしものとし、霊の全世界に、御使いたちと悪鬼たちの前で、

彼の勝利を知らしめたのです。

墓さえも死者を解放しました。こうして彼は彼らに対して勝利されました。このもう一つの世界では十字架は勝利の象徴です。 彼は勝利のうちに彼らを捕虜として引いて行かれました。彼らの力は永遠に砕かれ、彼らが人々を閉じ込めていた獄屋の門は破壊されて開放され、彼らに捕らえ られていた者たちに解放が告げ知らされました。この世の君は今や追放されています。彼にはもはや解放を望む人々を束縛の下にとどめておく力はありません。彼が今支配できるのは、彼の奴隷であることに同意する人たちだけです今や、自分自身をキリストとその十字架に委ねる人はみな、完全に自由なのです。

十字架は勝利ですこれが最初に読んだ御言葉が示す偉大な教えです。十字架は勝利です。この勝利はキリストが「成就した」と叫ばれた時から始まりました。これが凱旋行進の始まりであり、キリストはこの凱旋行進の中、隠された栄光を伴って世界中を歩まれます。 彼はとりこにされていた者をとりこにし、彼が贖った者たちを自由へと導かれます。そして信者は今、「神に感謝します。彼は常に私たちをキリストにあって勝利のうちに導いてくださいます」と常に喜ぶことができます。十字架の思想、十字架の下の歩み、十字架の宣言はすべて、神の勝利の音色を帯びているべきで す。「死は勝利に飲み込まれました。神に感謝します。神は私たちの主イエス・キリストを通して私たちに勝利を与えてくださいます」

これがなければ、十字架の力の意義に関する私たちの理解とそれに関する私たちの経験は欠け目のあるものになっ てしまうにちがいありません。私たちの個人生活においても、また他の人々のための私たちの労苦においても、私たちはこの欠け目を経験するでしょう。私たち の個人生活において、十字架は重荷となり、十字架を負うようにという召しは従うのが困難な律法となり、十字架につけられた生活を生きようとする試みは失敗 し、日ごとに死ぬという思想にうんざりしてしまうでしょう。肉を十字架につけるには絶えず目をさまして自己を否む必要があるため、これは成功する見込みの ない無駄な努力だと諦めてしまうでしょう。私たちが

十字架は勝利である

ことをある程度悟らない限り、そうなるしかないのです。私たちは肉を十字架につける必要はありません。それはキリストによってなされました。カルバリの十字架の行為は決済ずみの取引な のです。それから発する命と霊は絶えざる力を及ぼします。私たちに対する要求は信じることであり、快活であることです。彼の死未満の何物も私たちにとって 十分ではありません。彼の死未満の何物も私たちの役に立ちません。「神に感謝します。神は私たちを常にキリストにあって勝利のうちに導いてくださいます」

この世における私たちの奉仕において、暗闇の力に対する十字架の勝利を信じることはとても重要です。この真理に対する洞察力だけが、私たちの敵の超自然的な力と超自然的な狡猾さを私たちに教えることができます。これ以外の何ものも、私たちが「この暗闇の世の支配者に対して」格闘する時、私たちの目標がどうあるべきか教えることはできません――私たちの目標は人々をこの世から、この世の君の力から連れ出すことなのです。

十字架が勝ち取って永遠に私たちに与えられた勝利に対する洞察力、これ以外の何ものも私たちを私たちの真の立場に着かせることはできません。私たちは私たちの勝利の王の道具であり、僕なのです。私たちの唯一の願いは彼にあって勝利のうちに導かれることです。これ以外の何ものも、私たちの勇気と希望を 奮い起こすことはできません。

私たちはこの勇気と希望を、敵が大いなる力で私たちに押し迫り、私たちが自分の無力さを感じる時、必要とします。あらゆる奉仕と戦いにおいて、私たちは信仰によって、「神に感謝します。神は私たちを常にキリストにあって勝利のうちに導いてくださいます」と言うことを学ばなけれ ばなりません。

愚かさと弱さ、屈辱と恥を伴う十字架は、永遠にキリストが勝ち取られた勝利のしるしなのですキリストが勝利されたのは、この地上の戦いの武器によってではありません。この勝利により、教会もキリストのすべての信者も常に勝利を得ることができます。それは、十字架につけられた主の霊の中にますます深く入り込み、ますます完全に自分を主に委ねることによってです。アンドリュー・マーレー、「キリストの十字架」、「十字架の勝利」
 

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