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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

神は常に私たちをキリストにあって勝利のうちに導き、 私たちを通して彼を知る知識の香りを至る所に放って下さいます

昨日は仕事と取っ組み合うことを求められた一日であった。帰途につく頃にはへとへとになった。しかし、主がついておられるがゆえに見事な決着を見た。このことを通しても、霊的な敵の攻撃が嵐のようにやって来る日に、ただ揺るぎない岩でありやぐらである方のみに信頼し、黙って十字架の死に服することを思う。

今日は十字架の死にとどまるために、静かに家で過ごすことに決めた。それは今、私が自己を否んで忠実に死の中にとどまっていることが必要だからである。そうしていれば、必ず、人の力によらず、主ご自身が全てをなし遂げて下さる。死がなくては決して復活はない。主ご自身が私を弁護して下さるその御業を妨げないためにも、生まれながらの自分の望みを否もうと思う。

外は快晴、午前中の曇り空が嘘のようだ。主のなさることはまことに時にかなって美しい。しかし、その美しさを見るためには、人が自分からは何もしないことが必要だ。主が働いて下さるその時まで、墓の中にじっと横たわっていることが…。ウォッチマン・ニーが書いている、神に奉仕するとは、これから先、神をお喜ばせするために自分から何かをしようなどとは決して思わないことだと。

「もし私が「肉にあって」神を喜ばせようとすれば、すぐさま私は自分自身を「律法の下に」おくことになります。私は律法を破りました。律法は死刑の宣告を下しました。死刑は執行され、かくて今や私――肉につく「わたし」(ローマ七・一四)――は、死によって律法の要求から全く解放されたのです。

今なお神の律法は存在しています。事実古い律法より無限に厳格な「新しい戒め」があるのです。しかし神は感謝すべきかな、その要求は満たされているのです。なぜなら、キリストがそれらを満たして下さるからです。キリストが私の内にあって、神に喜ばれる働きをして下さるのです。

キリストは「わたし(キリスト)が律法を…成就するためにきたのである」(マタイ五・一七)と言われました。だからパウロは、復活を根拠としてこう言うことができました。「恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい。あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起こさせ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである」(ピリピ二・一二、一三)

あなたのうちに働かれるのは神です。律法からの解放は、神の御旨を行なわなくてもよいということではありません。それは私たちが無法者になるようなことを、決して意味しているのではありません。その反対です。それが意味するところは、私たちが、神の御旨を自分の力で行うことから解放されているということです。

私たちは、自分の力で神の御旨を行うことはできないということを十分に納得した以上、古き人の立場から神を喜ばせようとすることを止めます。ついに自己に絶望するという点に到達した結果、私たちは努力することさえ止め、主が私たちの内に復活の命を表して下さるため、主に信頼を置くのです。
 ウォッチマン・ニー著、『キリスト者の標準』、斉藤一訳、いのちのことば社、pp.180-186より抜粋

先日もキリスト者の交わりにおいて、人々がこのことを語ってくれた。人が自己の思いから成し遂げることは、時にかなっておらず、美しくもないと。それは最初は善のように見えて、結局、悪となり、ついに無秩序となる。しかし、神がその御手を伸ばして物事を成就なさるとき、それは時にかなってとても美しい。

そこで、ジョージ・ミュラーや、ハドソン・テイラーがおこなったのと同じ原則を私たちも貫きとおすべきであると思う。彼らは(金銭的な)支援を受けるときに、人の心を直接、動かそうとは決してせずに、ただ主の御手が動くのを待った。金銭的な支援だけではない。精神的な支援であろうと、物質的な支援であろうと、そのすべては主の御手から来る。

人の心をどどんなに直接、動かそうとしても無駄であるが、ただ神の御心を動かすことさえできれば、すべては成就する。この世の方法論は全て無効であり、ただ神の御旨に沿った、御霊に従った方法だけが有効である。うちにおられるキリストが働いて下さるために必要なのは、忍耐して待ち続ける信仰である。

「もうしばらくすれば、
きたるべきかたがお見えになる。
遅くなることはない。
わが義人は、信仰によって生きる。
もし信仰を捨てるなら、
わたしのたましいはこれを喜ばない」。

しかしわたしたちは、信仰を捨てて滅びる者ではなく、信仰に立って、いのちを得る者である。
(ヘブル10:37-39)


そしてもう一つの重要なこと。それは受けるためには与えよという原則だ。しかし、ここで与えるとは、直接、人に受け入れられ、感謝され、喜ばれるために何かを与えることではなく、むしろ、隠れたところで主のために全てを注ぎ出すということだ。あの砕かれた石膏の壺のように、主のために無駄に自分が砕かれ、無駄に自分が注ぎ出されることに同意することだ。

私たちは自分の全てを主のために失うことに喜んで同意するだろうか? それはヨルダン川の川底に立って契約の箱を支え続けた人々のような栄光のない仕事で、世間の誰もそれを見て有益だとは思わないし、素晴らしい行いだと賞賛もしない。むしろ、次のような叱責が来るだろう、「なぜこの香油を三百デナリに売って、貧しい人たちに、施さなかったのか」(ヨハネ12:5)

主以外のもののために自分を注ぎ出すならば、いくらでも世の賞賛を受けることができる。人々は言う、なぜこんなもののためにあなたは人生を無駄にしたのか、もっといくらでも他に有益な生き方があっただろうにと。しかし、私たちは今やそれらのものに価値を置いておらず、ただ神のために、主の満足のために、自分を無駄に注ぎ出したいのである。自分のために当然と思われる権利や安寧をさえ拒絶して、キリストの苦しみにならいたいのである。主が私たちの栄誉や美を剥ぎ取っていかれるとき、喜びに溢れて、主の御跡に従っていきたいのである。

偽りはキリストの十字架において打ち破られ、剥ぎ取られた! 私たちは生まれながらの自分自身を否み、自分自身から来る全ての望みを否む。迫り来る地獄の軍勢も、この世の全ての権勢も支配も、サタンの家財となるべき私たちの肉も、私たちを支配することはできない、それらはキリストと共に十字架につけられて死んだからである! 

だからこそ、今は喜んで墓の中にとどまっていたいのだ。これからキリスト者に対してどのような迫害が待ち受けているか、御霊が来るべきことを知らせて下さる。だが、恐れはしない。それはキリストが十字架においてこれらの地獄の軍勢のすべてに対して勝利を取られたことを信じているからだ。私たちのアダム来の肉に対してさえ勝利を取られたのだ。私たちを責めて不利に陥れていた債務証書は、十字架において破り捨てられた。神がその御業を成し遂げられたのに、神が無効にされたものをどうして再び訴えることができるのか。

しかし、私たちは喜んで墓の中にとどまろう。それはアベルの血よりも力強く語るキリストの血潮が今も流れて私たちを弁護し、大祭司が私たちのためにとりなして下さることを知っているからだ。主が必ず枯れた骨に命を息を吹きかけ、団体の人として力強く立ち上がらせて下さることを信じているからだ。こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働く。

「彼は、私たちを責めて不利に陥れていた証書を、その規定と共に塗り消し、
これを取り除いて、彼の十字架に釘づけてしまわれました。
そして、諸々の支配者たちと権力者たちを彼ご自身からはぎ取り、
彼らをさらしものとし、彼らに対して勝ち誇られたのです。」
(コロサイ2:14, 15)

「しかし、神に感謝します。神は常に私たちをキリストにあって勝利のうちに導き
私たちを通して彼を知る知識の香りを至る所に放って下さいます。」
(2コリント2:14)


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