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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

最後のアダムは命を与える霊となった

「主の手がわたしに臨み、主はわたしを主の霊に満たして出て行かせ、谷の中にわたしを置かれた。そこには骨が満ちていた。彼はわたしに谷の周囲を行きめぐらせた。見よ、谷の面には、はなはだ多くの骨があり、皆いたく枯れていた。

彼はわたしに言われた、「人の子よ、これらの骨は、生き返ることができるのか」。わたしは答えた、「主なる神よ、あなたはご存じです」。彼はまたわたしに言われた。「これらの骨に預言して、言え。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。主なる神はこれらの骨にこう言われる。見よ、わたしはあなたがたのうちに息を入れて、あなたがたを生かす。わたしはあなたがたの上に筋を与え、肉を生じさせ、皮でおおい、あなたがたのうちに息を与えて生かす。そこであなたがたはわたしが主であることを悟る」。

わたしは命じられたように預言したが、わたしが預言した時、声があった。見よ。動く音があり、骨と骨が集まって相つらなった。わたしが見ていると、その上に筋ができ、肉が生じ、皮がこれをおおったが、息はその中になかった。時に彼はわたしに言われた、「人の子よ、息に預言せよ、息に預言して言え。主なる神はこう言われる、息よ、四方から吹いて来て、この殺された者たちの上に吹き、彼らを生かせ」、

そこでわたしが命じられたように預言すると、息はこれにはいった。すると彼らは生き、はなはだ大いなる群衆となった。

そこで彼はわたしに言われた、「人の子よ、これらの骨はイスラエルの全家である。見よ、彼らは言う、『われわれの骨は枯れ、われわれの望みは尽き、われわれは絶え果てる』と。それゆえ彼らに預言して言え。主なる神はこう言われる、わが民よ、見よ、わたしはあなたがたの墓を開き、あなたがたを墓からとりあげて、イスラエルの地にはいらせる。わが民よ、わたしがあなたがたの墓を開き、あなたがたをその墓からとりあげるとき、あなたがたは、わたしが主であることを悟る。わたしがわが霊を、あなたがたのうちにおいて、あなたがたを生かし、あなたがたをその地に安住させるとき、あなたがたは、主なるわたしがこれを言い、これをおこなったことを悟ると、主は言われる」。(エゼキエル37:1-14)

* * *

時が近づいている。何事かが本当に起きようとしている。激しい夕立の雨音のような音が近づいている。これは断じて建物の倒壊の音ではない。確かにこの世は確実に滅びへ向かっていくだろう。しかしそれとは別に、いやむしろ、それと平衡するように、未だかつてないことが起きようとしている。それは世にとってはただ滅びに至るだけの無意味な苦しみであるが、キリストにある者、エクレシアにとってはまさに産みの苦しみであって、「死ぬべきものがいのちにのまれてしまうため」の大いなる出来事の始まりである。

「この幕屋の中にいるわたしたちは、重荷を負って苦しみもだえている。それを脱ごうと願うからではなく、その上に着ようと願うからであり、それによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためである。わたしたちを、この事にかなう者にして下さったのは、神である。そして、神はその保証として御霊をわたしたちに賜ったのである。」(Ⅱコリント5:4-5)

この死ぬべきものがいのちに飲まれてしまう過程を世界について見るならば、主イエスはこう言われた、「そしてこの御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである。」(マタイ24:12)

福音が全世界に宣べ伝えられるというこの御言葉は、ややもすると組織的な世界宣教という文脈のみでとらえられがちだが、もしかしたら、これはヨエル書の預言とも密接に関係があるかも知れない。なぜなら、「終りの時には、わたしの霊をすべての人に注ごう」「そのとき、主の名を呼び求める者は、みな救われるであろう」とあるからだ。そして、この預言の後半は明らかに終末の事柄をさしているのに、使徒行伝においてペンテコステはその始まりとしてとらえられている。

「神がこう仰せになる。
終りの時には、
わたしの霊をすべての人に注ごう。
そして、あなたがたのむすこ娘は預言をし、
若者たちは幻を見、
老人たちは夢を見るであろう。
その時には、わたしの男女の僕たちにも
わたしの霊を注ごう。
そして彼らも預言をするであろう。

また、上では、天に奇跡を見せ、
下では、地にしるしを、
すなわち、血と火と立ちこめる煙とを、
見せるであろう。
主の大いなる輝かしい日が来る前に、
日はやみに
月は血に変るであろう。
そのとき、主の名を呼び求める者は、
みな救われるであろう』(使徒2:17-21)


これは霊的な領域で起こることと地的な領域で起こることの対比をよく表している。世が崩壊へ向かう時、霊的な領域では御国が圧倒的なスケールで拡大する。「天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている。」(マタイ11:12) と言われている通り、ついにその御国の統治が、激しい飢え渇きを感じている心の貧しい人々に手当たり次第に及ぶようなときが来るのだ。

「いますぐに、町の大通りや小道へ行って、貧しい人、身体の不自由な人、目の見えない人、足の悪い人などを、ここへ連れてきなさい。」…
「道やかきねのあたりに出て行って、この家がいっぱいになるように、人々を無理やりにひっぱってきなさい。あなたがたに言って置くが、招かれた人で、わたしの晩餐にあずかる者はひとりもいないであろう。」(ルカ14:21-24)


エクレシアに連なる人々の多くは、主への激しい飢え渇きゆえに、あきらめるにあきらめきれず、元々はその資格がなかったのに、主イエスを追いに追って、ついに食卓から落ちるパン屑(本体はまことのパン―キリスト)にあずかったカナンの女のような者だ。女は弟子たちにすげなく追い払われ、主にも沈黙されたまま、疎んじられ、さげすまれて追い払われる寸前であった。が、それでも、「主よ、わたしをお助けください」と叫びながら、なりふり構わずに主を追った。ちょうどモアブの女であったルツが主の民に従ったように、イスラエルの家の失われた羊に属していなかったカナンの女が、「小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」と、信仰だけによって主の御手からもぎとるようにして救いを勝ち取った(マタイ15:21-28)

恐らく、終わりの日にはこのような人々が大勢現われるに違いない。そして、人々の方だけでなく、主の方でも、「この家がいっぱいになるように、人々を無理やりにひっぱってきなさい。」と言われたたとえのように、ほとんど無理やりのように、心の貧しい着の身着のままのような人々を御国の住人とするために引っ張って来られるだろう。

「わたしは、わたしの民でない者を、
わたしの民と呼び、
愛されなかった者を、愛される者と呼ぶであろう。
あなたがたはわたしの民ではないと、
彼らに言ったその場所で、
彼らは生ける神の子らであると、
呼ばれるであろう」(ローマ9:25-26)


しかし、そのために条件が一つだけある。枯れた骨――逆説的に、神に息を吹きかけられる条件とは、まさに死んでいることなのだ。死とは、私たちが最も避けたいもの、最も通りたくないものだ。死には何の立派さもなく、何の荘厳さもなく、何の価値もない。枯れた骨は、みすぼらしく、忌むべきものであり、打ち捨てられ、何の関心も払われず、ただ墓におさめられて、散らばっているだけだ。死んでしまった骨、忌むべき残骸! それは全ての希望が潰えた状態を意味する。呪いを受け、むなしくなり、全ての価値を失ったことを意味する。「われわれの骨は枯れ、われわれの望みは尽き、われわれは絶え果てる」 

ダビデは骨も枯れ果てるような悲しみが存在することを歌った、「わたしのいのちは悲しみによって消えゆき、わたしの年は嘆きによって消えさり、わたしの力は苦しみによって尽き、わたしの骨は枯れはてました。」(詩篇31:10)

ある意味でこのような深い絶望的な飢え渇きが必要なのだろう。今、主が本当に自由に働かれるために必要な条件は何か? あと少しの死である。これを他人に命じ、他人を裁くために用いるのではなく、ただ自分自身に当てはめてみよう。主以外のものが全く希望にならないところに至るまでの絶望、その地点に私たちはいるだろうか。しかし、それは信仰なき絶望ではなく、信仰にあっての絶望的な飢え渇き、イエスの復活の命にいたるために絶えずとどまらなければならない十字架における霊的死の地点なのである。

もしもこのような飢え渇きが地上に存在しさえするならば、神の圧倒的な臨在がただちに洪水のように私たちに臨むのではあるまいか。神は速やかに来られて――仮に私たちがどんなに恐るべき罪のゆえにそんな状態になったのだとしても――私たちの傷を包み、私たちの渇きを癒し、すべての災いから私たちをかばって下さり、御翼のかげにかくまい、平安の内に入れて下さるだろう。

そしてそのとき、全ての障害が、敵意が、隔ての中垣が打ち壊されて、神の圧倒的ないのちの水が、生ける水の川々が怒涛のように、洪水のように溢れ、押し寄せ、流れ始めるだろう。死んでいたものが生き返り、散らばっていたものが組み立てられ、一人の団体の人へ構成されて、立ち上がる。「そこでわたしが命じられたように預言すると、息はこれにはいった。すると彼らは生き、はなはだ大いなる群衆となった。」

ただこれが起きるためには、今一度言うように、あと少しの死がなければならない。私たち一人ひとりがそこを通過し、そこにとどまる必要がある。今を頂点として満足せずに、真に十字架の死に服することが必要である。

ともあれ、必ず、その日はやって来るだろう。その日にはもう誰も、互いに主を知れ、と言って教えあうことはない。兄弟同士が裁きあうこともない。それはキリストにあって本当に一致の霊が与えられるからだ。「主は異国のくちびると、異国の舌とをもってこの民に語られる。」(イザヤ28:11)と言われるように、ペンテコステの日に、なぜ人々は諸外国の言葉で語ったのか? 彼らはただ異言を話したというだけでなく、人々に理解できる外国の言葉で語ったのだ。

それはバベルの塔で分裂させられた言語が、霊による支配の中で一致したことを意味している。御霊にある言語の一致は、肉の力ではどんなことをしても一致させることのできない人々において、キリストの御霊による一致が成立したことの結果である。キリストにあって人々が真に一つとされたことの証拠でもある。しかし、キリストにある一致とは、決して多様性を失うことを意味するものではなく、ちょうど御霊がそれぞれに異なった賜物を分け与えるように、御霊は異なった言語を思うがままに各自に与えることができるし、異なる人々を一つに建て上げることができるのである。

しかしこれ以上、私の力の及ばない分析など必要ない。ただ御霊の流れが、キリストの圧倒的な愛がそれぞれの心を包み、全ての傷ついた道を癒すだろう。そして、それだけでない、このいのちの息は枯れた骨のようになり、見捨てられ、死んでいた者、墓の中に横たわっていた者をも起き上がらせ、彼らは鹿のように喜びに飛び跳ねるだろう。バラバラにされて打ち捨てられていた人たちは一つにまとめられ、それはあの黙示録に現われる長老たちと数え切れない群衆のように、はなはだ大いなる群衆となる。「すると彼らは生き、はなはだ大いなる群衆となった。」

そこにはこう書いてある、「見よ、あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、数えきれないほどの大ぜいの群衆が、白い衣を身にまとい、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立ち、大声で叫んで言った、「救は、御座にいますわれらの神と小羊からきたる」(黙示7:9-10)

彼らを生きた者とした霊とは何か。「聖書に「最初の人アダムは生きたものとなった」と書いてあるとおりである。しかし最後のアダムは命を与える霊となった。」(一コリント15:45)

最後のアダム、いのちを与える霊! 道であり、真理であり、いのちであり、よみがえりであるキリストご自身が、私たちの内に住まわれ、死んだ私たちを生かすのである。私たちの死を土台として、キリストの復活の命が私たちの死ぬべき身体をも生かす。そして御子を信じるならば、そのいのちの水の流れを押しとどめるものはもうない。「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」(ヨハネ7:38)

このことが起きるために、私たちは十字架において真に自分を否むだろうか? 先日も姉妹たちが私に語ってくれたことは、駱駝が針の穴を通るようにして、十字架の死をくぐらされ、主のいのちへと御許へと運ばれていくために、どれほど激しい家庭的確執や、孤独の中を通らされたかということであった。分裂、敵対が起こり、まさに家の者が敵となり、どこにも逃げ場がなくなるところまで追いつめられながら、その細い細い道を通って、主の御許へ運ばれて行った。ただその十字架の死の向こう側で初めて、失われたものを主は取り戻して下さり、全ての敵意を取り払って、平和を成し遂げ、和解を成し遂げて下さったのである。

* * *

「地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。わたしがきたのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためである。そして家の者が、その人の敵となるであろう。

わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。また自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない。自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう。」(マタイ10:34-39)

 

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