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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである

「あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである。もしキリストのものであるなら、あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのである。」(ガラテヤ3:26-29)

メッセージでも語られたことだが、新約聖書はローマ帝国の時代であり、人の生まれが一生を左右する時代であった。出自、民族、身分というものからは、人は一生かけても、抜け出すことが難しかった。さらに、性別によっても扱いが異なり、宗教的には、ユダヤ人と異邦人、割礼のあるなしが決定的な違いであるようにみなされていた。

人は一生かけても、自分の生まれを変えることはできない。与えられた身分から抜け出すことはできない。そんな中で、キリストの十字架が各自にもたらした自由は、これらの地上的な隔てによって生まれる敵意を全て十字架において廃棄するものであり、まさに耳を疑うほどに革新的で斬新な響きを伴っていただろう。

もはやユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない、あなたがたは皆、キリストにあって一つなのである!

それはどんなに革新的な奴隷解放宣言であったことだろう。もちろん、現実生活においては奴隷はあくまで奴隷として主人に仕えなければならなかった。しかし、キリストにあって彼はもはや奴隷ではなく、自由とされているのであるから(「主にあって召された奴隷は、主によって自由人とされた者であり…」(一コリント7:22)、もし自由になりうるならば、彼は自由になるべきであり、奴隷にとどまるにしても、かつてのように恐怖から嫌々主人に仕えるのではなく、自由にされた者として真の尊敬を持って主人に仕えるべきであると勧められた。

「くびきの下にある奴隷はすべて、自分の主人を、真に尊敬すべき者として仰ぐべきである。それは、神の御名と教とが、そしりを受けないためである。信者である主人を持っている者たちは、その主人が兄弟であるというので軽視してはならない。むしろ、ますます励んで仕えるべきである。その益を受ける主人は、信者であり愛されている人だからである。」(一テモテ6:1-2)

ヤコブの手紙が告げているのも同様のことである。「低い身分の兄弟は、自分が高くされたことを喜びなさい。また、富んでいる者は、自分が低くされたことを喜ぶがよい。(ヤコブ1:9-10)

キリストの十字架は兄弟姉妹の間にある外面的な隔ての壁を廃棄しただけでなく、それは何よりも、十字架が人を罪と死の奴隷の状態から解放し、霊的に神の子としての自由を与えたことから来る。「それは、死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つためである。」(ヘブル2:14-15)

「あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。」(ローマ8:15)

こんなに大きな自由の特権をキリストは私たちにお与え下さった。だからこそ、各自は与えられた御霊にしたがってふさわしく歩みなさいと言われている。この世では敵意によって引き裂かれ、一致することもできないような者たちがキリスト・イエスにあって一つとされた。かつては神から遠く離れ、神に敵対して希望もない者だった者たちが、今は聖なる神の家族とされた。御国を受け継ぐ約束の子供たちとされた。だから、私たちは再び召される以前の状態に逆戻って、再び隔ての中垣を持ち出して争うべきではなく、あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容を身につけ、互いに赦し合いなさいと言われている。キリストにあって兄弟姉妹の愛による一致が強められ、世に輝き出ることが、父なる神の願いだからである。

「だから、記憶しておきなさい。あなたがたは以前には、肉によれば異邦人であって、手で行った肉の割礼ある者と称せられる人々からは、無割礼の者と呼ばれており、またその当時は、キリストを知らず、イスラエルの国籍がなく、約束されたいろいろの契約に縁がなく、この世の中で希望もなく神もない者であった。 ところが、あなたがたは、このように以前は遠く離れていたが、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近いものとなったのである。

キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、数々の規定から成っている戒めの律法を 廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。…

そこであなたがたは、もはや異国人でも宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族なのである。またあなたがたは、使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられたものであって、キリスト・イエスご自身が隅のかしら石である。このキリストにあって、建物全体が組み合わされ、主にある聖なる宮に成長し、そしてあなたがたも、主にあって共に建てられて、聖なる神のすまいとなるのである。」(エペソ2:11-22)


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「あなたがたは、古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨て、造り主のかたちに従って新しくされ、真の知識に至る新しき人を着たのである。そこには、もはやギリシヤ人とユダヤ人、割礼と無割礼、未開の人、スクテヤ人、奴隷、自由人の差別はない。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにいますのである。

だから、あなたがたは、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者であるから、あわれみの心、慈愛、謙そんん、柔和、寛容を身に着けなさい。互に忍びあい、もし互に責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい。これらいっさいのものの上に、愛を加えなさい。愛は、すべてを完全に結ぶ帯である。キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。あなたがたが召されて一体となったのは、このためでもある。」(コロサイ3:9-15)

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今日は礼拝を通して深い慰めを受けた。未だかつてないような主の深い慰めと癒しが心の深い内側に及び、今でも私の中で何事かが進行中である。御霊による祈りは、いつも喜ばしいものとは限らず、時に言葉にできない切なるうめきとなる。だが、そのうめきの中にも、主から受ける深い喜びと慰めがあるのだ。

「御霊もまた同じように、弱いわたしを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。そして、人の心を探り知るかたは、御霊の思うところがなんであるかを知っておられる。なぜなら、御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである。」(ローマ8:26-27)

かつてキリスト教界にいた頃、悔い改めのために涙を流し、肉の力でより一層努力を重ねるために随分涙を流して祈ったものであった。だが、そのような祈りは無意味であったように今は感じている。そこには主に働いていただく余地がなかったからだ。肉の努力でどんなに涙を流して祈っても意味がないのである。ところが、今回、祈りの中に流れる涙やうめきには、主からの深い癒しと慰めの御手が臨んでいた。

まるで今まで麻酔なしに行なわれていた手術に、ちょうど良い具合に麻酔が効いてきて、手術がもはや苦痛でなくなり、何とも言えない心地よいものに変わって来たような感じだ。

主の取り扱いがあまりにも甘く優しいため、誰とも話さず、ただ無言で帰途に着きたいとさえ感じられた。だが、続く交わりでも、深い慰めを受けた。姉妹たちがそれぞれ十字架の死を経るまでにどんなに痛みをこうむり、どんなに細い道を通らされたかを語ってくれた。そして十字架にとどまることに時として伴う困難についても…。しかし今、かつて味わった痛みがどんなに苦しいものであったにせよ、主の取り扱いを恵み憐れみであると感じて感謝しているとも語ってくれた。姉妹たちの言葉を聞きながら、ああ、ここでも、主は本当に共にいて下さるのだと感じ、涙をこらえずにはいられなかった。

聖徒らに何かを訴えることがこれほどまでに重要な意味を持っているとは正直な話、私は思っていなかった。神がどれほどの憐れみを持って、一人ひとりの願いに答えて下さっているか、兄弟姉妹の祈りに主がどんなに喜んで耳を傾けて下さっているか、主と共に聖徒らから受ける助けや励ましがどれほど私を力強く支えることができるものであるか、そして、こんなにも無に等しいような者の願いをさえ、主がどれほど懇ろにお聞き届け下さっているかに、ただただ驚かされるばかりだ。神は本当に私たち一人ひとりの心の願いを全てご存じであり、私の心を知っておられる。私たちの心の最も奥底に秘められた願いや、言葉に言い表せないうめき苦しみも全てご存知であり、決して蔑むことなく、喜んで寄り添って下さる。世に打ち勝ったこの方が私たちについておられる。この方の御名にいつでもより頼むことができる。だからこそ、私たちはどんなことがあっても落胆せずにいられる。

「しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。

わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現われるためである。わたしたち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されているのである。それはイエスのいのちが、わたしたちの死ぬべき肉体に現われるためである。こうして、死はわたしたちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのである。…

すべてのことは、あなたがたの益であって、恵みがますます多くの人に増し加わるにつれ、感謝が満ちあふれて、神の栄光となるのである。だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。

わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。」(ニコリント4:7-18)

「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。」(ローマ8:28)


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