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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

生ける者の地で主のいつくしみを見ることが信じられなかったなら

主は、私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。
主は、私のいのちのとりで。だれを私はこわがろう。
悪を行なう者が私の肉を食らおうと、
私に襲いかかったとき、
私の仇、私の敵、彼らはつまずき、倒れた。

たとい、私に向かって陣営が張られても、
私の心は恐れない。
たとい、戦いが私に向かって起こっても、
それにも、私は動じない。

私は一つのことを主に願った。
私はそれを求めている。
私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。
主の麗しさを仰ぎ見、
その宮で、思いにふける、そのために。

それは、主が、
悩みの日に私を隠れ場に隠し、
その幕屋のひそかな所に私をかくまい、
岩の上に私を上げてくださるからだ。

今、私のかしらは、
私を取り囲む敵の上に高く上げられる。
私は、その幕屋で、喜びのいけにえをささげ、
歌うたい、主に、ほめ歌を歌おう。

聞いてください。主よ。私の呼ぶこの声を。
私をあわれみ、私に答えてください。
あなたに代わって、私の心は申します。
「わたしの顔を、慕い求めよ。」と。
主よ。あなたの御顔を私は慕い求めます。

どうか、御顔を私に隠さないでください。
あなたのしもべを、
怒って、押しのけないでください。
あなたは私の助けです。
私を見放さないでください。見捨てないでください。
私の救いの神。
私の父、私の母が、私を見捨てるときは、
主が私を取り上げてくださる。

主よ。あなたの道を私に教えてください。
私を待ち伏せている者どもがおりますから、
私を平らな小道に導いてください。
私を、私の仇の意のままに、させないでください。
偽りの証人どもが私に立ち向かい、
暴言を吐いているのです。

ああ、私に、生ける者の地で主のいつくしみを見ることが
信じられなかったなら。――
待ち望め。主を。
雄々しくあれ。心を強くせよ。
待ち望め。主を。(詩篇第27編)

* * *
 
ジョージ・ミュラーがどこかに書いていたと思う。私たちはどんな時にでも、神に祈るべきであると。小包が送られてきて、その結び目が固くてほどけなくて困っているような時でも、神に祈るべきであると。

このたとえは思い出すだに微笑ましい。私たち一人ひとりの寄る辺なさと、神の偉大な守りのコントラストをとてもよく物語っているように思うからだ。

昨年から、雨は私にとって主の守りを知らされる大きなきっかけとなっている。今日は竜巻までが予想され、昼ごろには稲妻が光り、横殴りの激しい雨が降った。が、仕事が終わり外に出る頃には、雨はぴたりと止んでいた。

一昨日は夕方、散歩から家に帰って後に、にわか雨が降った。その後、買い物に出るまでのほんのわずかな間に、雨はぴたりと止んでいた。こんなことが、昨年には数え切れないほど起こった。昔、私は雨や雪がとても好きであったが、通勤に雨はあまり喜ばしいものではない。激しい雨が降っているときに、どうか外に出るまでの間に雨を止めてくださいと祈ったことが数多くある。その度ごとに、どんなに主がねんごろに守って下さるかを思わされてきた。本当に主はどんなに小さな者に対しても、はかりしれない配慮を持ったお方である。

だから、偉大な事柄の中だけに主を見ることはできないのだ。誰も注目したがらないような、無意味と思われるような生活の小さな事柄に渡るまで、主の御手がどんなに細かく及んでいるかをいつもいつも思わされる。時間に追われているような時に、主の守りの中に隠れないことはできない。髪の毛の一本一本まで数えられ、最後の一本一本まで守られていること、これがどんなにきめ細かい大きな深い愛であるか、思わずにいられない。

だから、どんなことが起こっても、心の中に恐れはないのだ。ただ神の圧倒的な平安が心を包むだけである。全てのことが主の御手の中にある。そして、神が覚えて下さっていること以上に心強いことが他にあるだろうか。神が味方であるならば、誰が私たちに敵することができるだろうか。

ずっと以前に、本当に苦しい最中にあった時に、殉教を思い、主に自分自身をお捧げすると約束した。だが、その約束は人の力で達成できるものでなく、主も覚えて下さっているのかと思う長いときが続いた。

それなのに、人の能力によらず、権勢にもよらず、ただ神の側から、御霊によって、主御自身がその告白を忘れないでいて下さることが分かって、今、どんなに嬉しいか分からない。私の全てをお求めになる神の召しが変わらないものであることを知って、どんなに大きな喜びに包まれているか知れない。人は笑うかも知れないが、神以外の全ての希望が閉ざされるとき、どんなに主が人の心を深くお求めになるかを知って、私の心は深く感動させられずにいられないのだ。

どんなにこの地点に立ちたかっただろうか。捧げるというからには、何か捨てるものがなければならないと思い、神の御前で捨てられるようなものを確保したいと願ったこともあった。だが、神に自分自身を捧げるとは、決してそんな意味ではないのだ。本当に何もない、ただ神の内に隠されたいのちとして生きる以外には何もない、その地点にとどまる時に、主は喜んで助けて下さり、私も喜んで主にすがることができ、キリストの内に隠されて共同生活が営まれるのだ。さらに多くのものを主はお与え下さり、また私も得たものを喜んで捧げることができる…。そこには、私だけのものは、もうほとんどなく、すべてが主のものであり、同時に私のものでもあり、すべてが主の所有である。私だけのものはもうない。その地点まで、主は私を連れて行かれる…。

* * *


イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、『私がそれだ。』とか『時は近づいた。』とか言います。そんな人々のあとについて行ってはなりません。戦争や暴動のことを聞いても、こわがってはいけません。それは、初めに必ず起こることです。だが、終わりは、すぐには来ません。」

それから、イエスは彼らに言われた。「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、大地震があり、方々に疫病やききんが起こり、恐ろしいことや天からのすさまじい前兆が現われます。しかし、これらのすべてのことの前に、人々はあなたがたを捕えて迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために、あなたがたを王たちや総督たちの前に引き出すでしょう。

それはあなたがたのあかしをする機会となります。それで、どう弁明するかは、あらかじめ考えないことに、心を定めておきなさい。どんな反対者も、反論もできず、反証もできないようなことばと知恵を、わたしがあなたがたに与えます。しかしあなたがたは、両親、兄弟、親族、友人たちにまで裏切られます。中には殺される者もあり、わたしの名のために、みなの者に憎まれます。しかし、あなたがたの髪の毛一筋も失われることはありません。

あなたがたは、忍耐によって、自分のいのちを勝ち取ることができます。」(ルカ21:8-19)


今、喜びを持って、この御言葉の意味を理解する。どれほど大勢の人たちが主の御名を使って人を惑わすために現われるか知れず、多くの人たちが終末を強調し、人々の心に恐怖を呼び起こそうとするだろう。そして聖徒らは、主の御名のゆえに全ての者に憎まれる。国が国に敵対し、民族が民族に敵対するように、兄弟同士が敵対し、互いに裏切りあうだろう。

けれども、私たちは言われている、ただ忍耐することによって、自分のいのちを勝ち取れ!と。これは自分のいのちを十字架において徹底的に否むことによって、復活の命の中で、逆説的に自分のいのちを勝ち取れ!ということなのだ。見かけ上は色々と大変なことが起こるように見えるだろうし、心を騒がせない方がおかしく感じられるだろう。だが、私たちの髪の毛一筋にいたるまで神が守っておられることを本当に信じるだろうか? 全てのことの背後に主の主権があり、御座があり、神の守りがあることを信じるだろうか? 信じるがゆえに、御手に全てを委ねて忍耐することができるだろうか? 悪によって悪に立ち向かうことなく? イエスの名のゆえに自分の命を拒むことによって、自分の命を勝ち取れ!

今、不思議な平安が心を包み、以前には分からなかったような意味で、御言葉を思う…。

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