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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

それは御子を信じる者が一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである

神よ。私にきよい心を造り、
ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。
私をあなたの御前から、投げ捨てず、
あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。
あなたの救いの喜びを、私に返し、
喜んで仕える霊が、私をささえますように。
私は、そむく者たちに、
あなたの道を教えましょう。
そうすれば、罪人は、あなたのもとに帰りましょう。(詩篇51:10-13)


最近、殉教の精神を持つようにと、今一度、主の御前に促されています。今まで若さ(未熟さ)や、血気の思いから殉教について語ってはならないと思って控えていたのですが、改めてこのことを思わされています。

今、愛する兄弟姉妹がどんなに魂を注ぎ出して私のために祈ってくれているかが分かるのです。まだこの地上では密接なつながりが出来ていない兄弟姉妹さえも祈ってくれていることが分かります。その兄弟姉妹たちへ、尊い神の聖徒らへ、神の大切な家族へ、私から深い感謝の言葉を申し上げます。

以前にも、聖徒らの祈りが結集して天に届き、主に聞き届けられて奇跡を呼び起こし、一人の人が滅びの沼から引き上げられるきっかけを作ったことがありました。今でも、聖徒らの祈りは確かに主の耳に届いており、それが兄弟姉妹一人ひとりの大きな防衛の盾となっています。神は憐れみ深い方であり、私たちの心の悩みも、叫びも、願いも軽んじられません。どうか主が一人ひとりに豊かに祝福を返して下さいますように。

ですが、それと同時に、主の御名のゆえにそしられ、軽蔑され、迫害され、敵対視されることが、私たちにどれほど大きな喜びを与えるかについても語りたいのです。

クリスチャンへの迫害はこの先、時と共に激化するでしょう。あらゆるものを犠牲にしなければ、御言葉に従って進んで行けないようになっていくでしょう。クリスチャンを組織化しようとする大きな偽りの力が働いており、その中で、ただ主にのみ信頼して従う兄弟姉妹が困難な立場に追いやられる時がすでに来ています。

しかし、そんな中でも、これから先、共に困難を背負い、共に迫害を耐える兄弟姉妹が必ず現われるだろうと予感しています。この先、特別な困難の中で、聖徒らの愛が強まっていくだろうことを感じます。それは肉による愛や友情を越えて、主にある固い愛の結束を生むでしょう。中には、私よりも先に殉教の道を辿り、主の御跡にならって、聖徒らの模範となるような人たちも現われるものと思います。必ず、主がそのような兄弟姉妹を与えて下さることを思って喜びを感じています。

今、この時代に、霊的な敵が消し去りたいと考えているのは、神の贖いの事実です。キリストの贖いは人間を旧創造に属する全ての腐敗から自由にする鍵だからです。

これまでにも、アダムの命の腐敗、肉の腐敗と絶望性、肉(旧創造)が十字架において死に渡されることの必要性について語るとき、どんなに大きな反対が起きるかを私たちは見て来ました。ウォッチマン・ニーの証の言葉が今でもしょっちゅう退けられるのも、彼の証の言葉が、十字架における新創造と旧創造の切り分けや、旧創造の絶望性を峻厳に告げているからです。

ですから、旧創造に対する神の滅びの宣告について語るとき、それを受け入れたくない霊的な勢力からの大きな反対がやって来るのは不思議ではありません。組織的・人間的対立は、ほんのうわべの有様に過ぎないのです。

さらに最近、贖いという言葉がどれほど絶大なキーワードであるかにも気づかされています。なぜなら、主イエスが十字架で達成された贖いは、私たちがサタンの家財となるべき肉に対して死に渡されたことや、神に属さない朽ちゆく旧創造から全く救い出されたことの証拠だからです。贖いは旧創造への滅びの宣告だけでなく、新創造についても雄弁に語っています。

神はどれほど絶大な自由を私たちに与えて下さったことでしょう。キリストの贖いを完全なものとして受け取るならば、私たちは主にあって滅び行く旧創造から救い出され、彼の復活のいのちの中へ、新創造の中に入れられます。むろん、地上においては完全な贖いに達することはありませんが、私たちが地上においてどれくらい自由になれるかは、キリストの贖いをどれほど人生において実際のものとして受け取るかにかかっているのです。

アダムにあって人類は地すべりを起こし、罪を犯して滅びの沼に転落したため、神が計画された使命と、神の似姿としての尊厳を失ってしまいました。しかし、神は私たちをただアダムの罪と堕落という地すべりから救おうとなさっておられるのみならず、それをはるかに越えた地点まで導こうとしておられるのです。それこそが、神が人間を創造された目的なのです。モーセに導かれて荒野をさまよっていた民は、日々のパンの欠乏しか見ていなかったかも知れませんが、神の眼差しははるかにそれを越えて乳と蜜の流れる安息の地に注がれ、そこへ彼らを導こうとしておられたのです。

今日の状況もそれと似ています。私たちの目は、ともすれば己が罪や失敗に注がれ、落胆の中を行き来しているかも知れません。しかし、私たちの眼差しは本来、キリストの達成された完全な贖いへと真っ直ぐに注がれるべきです。十字架はただあれやこれやの罪の赦しのためだけである、と考えて満足して終わるべきではないのです。十字架の贖いはそれよりももっと深いものです。それは私たちの内面を変革してしまう力を持っています。キリストの中にこそ、新しい人があり、神が本当にかくあれかしと願われた人の姿があるのです。そして、それはキリストにあって私たちのものなのです。

「…私は、主にあって言明し、おごそかに勧めます。もはや、異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません。彼らは、その知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、かたくなな心とのゆえに、神のいのちから遠く離れています。道徳的に無感覚となった彼らは、好色に身をゆだねて、あらゆる不潔な行ないをむさぼるようになっています。

しかし、あなたがたはキリストのことを、このようには学びませんでした。ただし、ほんとうにあなたがたがたキリストに聞き、キリストに教えられているのならばです。まさしく真理はイエスにあるのですから。その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。

神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」(エペソ4:17-32)


キリストにあって人が新創造とされることこそ、神の深い御思いなのです。ですから、迫害が起きるとき、表面的な事実だけを見て落胆してはなりません。「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5:44)、「あなたを憎む者に善を行ないなさい。あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい。」(ルカ6:28)と、主イエスが言われたのはなぜなのかを知るべきです。それは可能な限り、多くの悔い改めた人々たちが、神に立ち返り、イエスのいのちに共にあずかり、主イエスの贖いによって、御国の住人となるためです。神が彼らを得られるためです。神は御子を長子として、彼のために多くの兄弟姉妹を得たいと願っておられるのです。

ですから、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカ23:34)と、主イエスが十字架で祈られたことを私たちは心に思うべきなのです。御子は知っておられたのです。今、目の前で起こっている対立をはるかに越えて、罪に沈んだ人類を贖うために、神が遠大なご計画を持っておられること、神に背き、罪に溺れ、霊的盲目に閉ざされ、御子を十字架につけるという恐るべき行為に加担している人々が、悔い改めて神に立ち返り、御子のいのちにあずかる者とされることが、父なる神の深い御心であること。それだけでなく、キリストにあって新しい人とされた人々が神の家族として、御旨に従い、互いに主の愛の内に一致して生きること、それが地獄の恐るべき軍勢の前でキリストの揺るぎない圧倒的な勝利の証になること。そのためにこそ、イエスはご自分を最後まで否み、十字架において自分自身を完全に死に渡されたのです。

ですから、私たちはイエスの心を、御子と同じ心を持つべきです。神に捧げられた貴い初穂として、贖われた人々の先頭に立たれた主にならうべきなのです。救われるにも値しない罪人、絶えず反抗する人々のために、終始ご自分を否んで御旨のために忍耐して人々を教えられた御子の心が、私たちにも与えられるように願うべきです。忘れもしませんが、私たち自身がかつてそのような救いようのない罪人であったのです。私たちが救われたのは、自分の行いによらず、ただ神の恵みによるのです。ですから、イエスの心を持つならば、私たちは迫害によって心を塞がれることがなくなるでしょう。これは悩まされることや、苦しみそのものがなくなると言うのではありません。しかし、どんな時にも、神の深い平安が心に与えられ、悩みの日には、かえって以前には困難や迫害を喜ぶ心が不足していたことや、敵対する者を愛し、迫害する人々のために祈る心が足りなかったことを思わずにいられないのです。

そうして、私たちの心には喜びが溢れます。そして、なぜダビデが次のように言ったのかが分かるのです、「私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。」(詩篇23:5) これは神に背き、敵対している者たちに対してまで溢れ流れる神の愛と憐れみを私たちが知るゆえの言葉でもあります。この堕落に沈んでいる世に対してまでも注がれている神の深い愛が、私たちの心に驚嘆を呼び起こします。神の深い御思いが私たちの心をとらえてしまいます。私たちの心を神の愛から妨げるものはもはや何一つないのです。だから、私たちの杯は溢れるのです。「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」(詩篇23:69)

その時、私たちの目には、ただ神の尊いご計画――揺るぎなく、純粋で、真っ直ぐで、混じりけのない、聖なる、正しいご計画だけしか映りません。「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」(ヨハネ1:5)

ハレルヤ! もし一人の罪人であったこの私が救われたのなら、なおさら、多くの人たちが救われることを神が願っておられないはずがあるでしょうか。それは実に多くの人たちのうちで、御子がいのちとなられ、御子がすべてのすべてとなられるためなのです。「それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が『イエス・キリストは主である。』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」(ピリピ2:10-11)

神はキリストにあってすべてのものを一つにしようと決められたのです。「万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。」(コロサイ1:16) ですから、私たちが自分自身の狭さによって、神の深いご計画を妨げないようにしようではありませんか!

「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」

神は実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:14-16)


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