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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

あなたの重荷を主にゆだねよ。 主はあなたのことを心配してくださる。

「あなたの重荷を主にゆだねよ。
 主は、あなたのことを心配してくださる。
 主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。
 しかし、神よ。あなたは彼らを、滅びの穴に落とされましょう。
 血を流す者と欺く者どもは、
 おのれの日数の半ばも生きながらえないでしょう。
 けれども、私は、あなたに拠り頼みます。」(詩篇55:22-23)


朝、ひざまずいて主の御前に祈り、御前に率直に願いを申し上げた。疑問に思われる全ての事柄を率直に申し上げ、納得することのできなかった問題をまるごと主に委ねた。そして、それらの疑問にはっきりと主が答えを示して下さり、訣別しなければならないすべてのものと訣別させて下さり、正しい道へ導いて下さるようにと願った。ただ単一に、主の御前に単一に歩みたいと心より願った。

その時、ここ最近、味わうことのなかったような平安が心に宿った。内側から沸き起こって来る新しい力。これから先、ただ信仰だけによって、新しい道へ踏み出そうと決めた。人が私についてどう思うか、何を言うか、もはや気にならない。何かを言われることがあるにせよ、ただ大きな喜びが沸き起こって来るだけだ。人前で高く評価されることや、自分で自分を義とすることの恐ろしさを考えるなら、むしろ、低められ、悪し様に言われることにより、天で受ける報いがどのようなものであるかを思えば良い、すでに内側でその喜びを感じるのだ。

その時から、理解されないことに対する悲しみがなくなり、悪し様に言われることも痛みにならなくなった。信仰の失格者であるかのように言われたり、恵みから落ちたかのように罵られることさえ、大いなる喜びとなった。恐れが取り払われたのだ。人前での栄光を失うために、しばし孤独な道を辿らなければならないとしても良い。呪いは全てキリストが木の上で引き受けて下さったのだから。

これから先、人目を気にせず、ただ内なる油塗りの感覚に従い、黙って歩いて行こうと決めた。たとえ理解者を得ることができないとしても、黙って捨てるべきものを捨て、主が必ず、新しい道を用意して下さることを信じて、まだ見ぬふるさとへ向かって旅立とうと思った。主がすべての思い煩いを引き取って下さり、私を身軽にして下さったので、恐れはない。弁護して下さる方はただお一人。しかし、完全な方、まことの大祭司がとりなして下さるのだ。もうこれ以上、人から来る恐れに縛られる必要はない。訴える者の前に狼狽しなければならない理由はない。主はいつも言われる、これから先はあなたではなく、私がするのです、だから、私に委ねなさいと。

主が働いて下さるときの何と偉大で不思議な御業だろうか。今朝はジョージ・ミュラーの信仰について思いめぐらしていた。ミュラーの周りには実に沢山の信仰者たち(主が送って下さる支援者)がおり、その人々の信仰のレベルも決して一様ではなかった。そんな霊的な状態も定まらないような人々の気まぐれな支援を当てにすることは、まるで大きな冒険のようであっただろう。しかし、ミュラーはそれらの人々を決して自分で裁いたり、自分の力で動かそうと働きかけたりしなかった。彼は催促することも、要求することもせず、ただ人々の心に神ご自身が働きかけて、願いを起こして実現に至らせて下さる時を信じて待った。特に、お金の問題がかかっている時に、そのような原則を守り通すことはどんなに困難なことだろう。それはまさに主ご自身のはかりしれない愛といつくしみ、忠実さを試すことであった。

しかし、彼は信じたのだ、これらの全ての人々の背後に主の御手が働いていること、必要を満たして下さる方は神ご自身であり、神の助けは彼に対して十分であることを。彼はまさに神ご自身がすべてに超越して働かれることを信じたのだ。だからこそ、信仰の篤い人も、薄い人も、全ての人を神ご自身が用いることができると信じ、何よりも、それらの人々の背後に働く主の御手を信じた。そして、ただ主の御前に良心に問うてその支援を受けて良いかだけを判断したのである。

我々の霊的な歩みも、無菌室でというわけにはいかない。雑菌だらけの地上を歩くように、さまざまなものに出くわすだろう。しかし、その中にも主の御手が働いていることを信じるだろうか。否定的なものが山積みになったような中で、確かに主の恵みが十分であることを信じるだろうか。

今日は一日、朝の通勤の電車の接続から始まって、何もかも、すべてが主の采配の中にあった。先日、仕事がとても大変で…と、兄弟姉妹に嘆いたところ、主は勤務中にも必要な休息を与えて下さった。驚くべきことに、いつもならひっきりなしにやって来る仕事の間に、束の間の待ち時間が備えられていた。

どんなに神が憐れみに満ちた方であり、私の心の奥底の願いにさえ注意を払って下さる方であるか、それによっても分かるのだ。本当に神の思いは人の思いとは違うのだ。人は容易に裁き、罪定めし、軽蔑し、笑い、あきらめて、終わりだと言って立ち去っていくかも知れない。ところが、神は決して人間のような侮蔑を持って私たちの弱さをご覧にはならないし、人間の考える絶望を絶望とみなされることもない。本当に、神ははかりしれない理解の深さと、憐れみの深さと、誠実さを持ったお方であり、主イエスは十字架をさえ通過された、砕かれ、へりくだった心を持って私たちを世話して下さる方である。そして、私たちをあきらめないでいて下さる。

ただしなければならないことは、この方のみに頼ることである。たとえ暗やみの中を通されることがあったとしても、心の偶像のすべてと訣別することだ。

あるところでは、本当に真心から、私のためにも、真剣に心を注ぎ出して祈ってくれている人たちがいることが感じられる。たとえ直接、言葉で伝えることがなかったとしても、困難を分かちあい、共にそれを負って主の御前に出てくれる人たちが存在すること、その聖徒らの天的なネットワークがすでに機能していることがとても嬉しい。その助けが私にとって今どれほど必要であるかわからない。

それでも、今は神以外の被造物からどのように評価されるかをあまり心に留めまい。ただこの方の誠実さ、愛、真実を仰ぎ見て、信じ続けることにしか生きる術はないのだから。御言葉は真実であり、全て重荷を負った人、疲れた人を主は拒むことなく休ませて下さる。主は柔和でへりくだっておられるから、イエスのくびきを負って、彼に学べばよい。主は私たちを牧場に導かれ、霊の乳を飲ませ、懐に抱いて小羊を養うようにして、私たちを教えて下さるだろう。

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