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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、まことをもって公義をもたらす

近頃、ある兄弟を通じてベックさんのメッセージを聞いてみるよう紹介されました。文字で読めるものを探したところ、非常にタイムリーと思われるメッセージに出会いましたので、長いですがそのまま紹介します。(吉祥寺キリスト教会のサイトより)

願いなさい。戦いなさい。
2010.3.23(火)
ベック兄メッセージ(メモ)

引用聖句
マルコの福音書 10章51節、52節
そこでイエスは、さらにこう言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」すると、
盲人は言った。「先生。目が見えるようになることです。」するとイエスは、彼に言
われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、す
ぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った。


テモテへの手紙・第一 6章12節
信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたはこのために召さ
れ、また、多くの証人たちの前でりっぱな告白をしました。


以前にも紹介したことがあるのですが、主の思いと私たちの思いと全く違うということは、むしろ私たちの救いのために益となるのではないでしょうか。
私たちが昨日主に感謝するための時間をつくらなかったということで、主が、今日私たちを祝福するための時間をとっておられなければ、どういうことになるでしょう。
私たちが今日主に従順に従わなかったということで、主が、明日私たちを導こうとされなければ、いったいどういうことになるでしょう。
私たちが今日みことばを読まなかったということで、主が、明日私たちの聖書を取り上げようと思われたら、どういうことになるでしょう。
私たちがみことばを伝える人に耳を貸さないということで、主が、私たちに語ることをおやめになれば、いったいどういうことになるでしょう。
私たちが隣人のために心配したり、愛しているのと同じように、主が、私たちに配慮し、私たちを愛し、心配してくださらなければ、どういうことになるでしょう。
私たちが昨日主の御声に耳を貸さなかったということで、今日主が、私たちの祈りを聞き届けようとなさらなければ、大変なことになるに違いありません。
私たちがすべてを主に捧げようとしなかったということで、主が、今から聞く耳を持とうとなさらないとしたら、それこそ悲劇そのものでしょう。
私たちが主を第一にしなかったということで、主が、私たちの必要に対して知らん顔をなさるなら、いったいどういうことになるでしょう。

しかし、主は私たち人間と全く違われるので、感謝なことです。

イザヤ書 42章3節
彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、まことをもって公義をもたらす。


特にエレミヤ哀歌の中では、この主の素晴らしさがほめたたえられているのです。3章22節から読みます。
哀歌 3章22節から26節
私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。
それは朝ごとに新しい。「あなたの真実は力強い。主こそ、私の受ける分です。」と
私のたましいは言う。それゆえ、私は主を待ち望む。主はいつくしみ深い。主を待ち
望む者、主を求めるたましいに。主の救いを黙って待つのは良い。


では、主はどのようなお方なのでしょうか。司会の兄弟が読んでくださったみことばの中で、*第一番目。主はまず、「願いなさい」と言っておられるのです。
「何が欲しいの?」。乞食であり、目の不自由なバルテマイは、もちろん、
「主よ。見えるようになることです」と。「主はおできになる」と彼は確信したので、言ったのです。そして、彼はその場で癒されたのです。

何 でもおできになるお方は、もちろん当時だけではなく、今日私たちにも、「願いなさい」とおっしゃっておられます。何も欲しくなければ何ももらえません。で すから素晴らしいチャンスではないでしょうか。お願いしないと損をします。救われませんし、用いられもしません。つまり祝福されないのです。聖書の中で何 度も、
「あなたの信じたとおりになる」と記されています。『願いなさい。』と。

*第二番目。「戦いなさい」とあります。
「信仰の戦いを勇敢に戦いなさい」。 この戦いとは、言うまでもなく、目に見える世界、人間に対する戦いではなく、悪魔、悪霊に対する戦いです。なぜ「戦いなさい」とおっしゃるのでしょうか。 もちろん救われるためにではないのです。永遠のいのちを得るためでもありません。信仰生活とは散歩道ではないので、「戦い」です。「悔い改めの連続」であ るべきです。

私たちはどうしたら良いのでしょうか。聖書の中に、
『死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。(黙示録2:10後半)』と書かれています。そうしなければ、もちろん駄目なのです。

イ エス様を知ること、イエス様を愛することこそが、大切です。もちろんそれだけではなく、「主を愛し続ける」ことではないでしょうか。初めてイエス様に出 会って救われた人たちはみなイエス様のことが大好きです。しかし、だんだんおかしくなってくる可能性があるのではないでしょうか。


ヨハネの黙示録 2章4節、5節
「しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。
それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。
もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、
あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。」


地獄へ行くのではないのです。用いられなくなるということです。したがって、救われた人々に対する聖書全体の呼びかけは、「主に立ち返ろう」ということです。

哀歌 3章40節
私たちの道を尋ね調べて、主のみもとに立ち返ろう。


エレミヤ哀歌の中で、私たちは、エルサレムの「崩壊」「恥」について、即ちこの町が主なる神の裁きによっていかに荒れ果てた町となるかについて読むことができます。それは本当に落胆させられ、打ちのめされるような大変なものでした。しかし、今読みましたように3章の半ばを見ると、私たちは「力を与えられ」、私たちを「高く引き上げてくださる」励ましのことばを読み取ることができます。

哀歌 3章22節
私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。


主はいつまでも見放してはおられず、
哀歌 3章32節
たとい悩みを受けても、主は、その豊かな恵みによって、あわれんでくださる。
と。

私たちは、絶えず励まされることを必要としています。そのために主は、私たちに多くの約束のみことばを与えてくださいました。私たちが自分たちを吟味し、探求し、尋ね調べることは、必要なことなのです。ですからこの
エレミヤ哀歌3章40節には、私たちが信じる者の道を尋ね調べて、「主のみもとに立ち返ろう」と語られているのです。

私たちは静まって、主によって吟味していただくことが、本当に大切なのではないでしょうか。主が私たちに語ってくださり、妨げとなっているものをすべて明らかに示してくださるように調べていただく必要があります。

詩篇の作者であるダビデは、どういう心構えを持っていたかが分かります。彼はご存じのように
「みこころにかなう人」と呼ばれましたが、とんでもない過ちを犯してしまい、とんでもない方向に行ってしまいました。しかし、彼の心構えは素晴らしいものでした。

詩篇139篇23、24節です。これら2節を読むと、六回も私、私、私という表現が出てきます。

詩篇 139篇23節、24節
神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。
私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。


相 手ではありません。「自分」です。(私たちがはっきりと知っていなければならないことは、いくら私たち自身を見つめても実際は何の役にも立たない、という ことです。自分自身を見つめる者は、打ちのめされた気持ちにならざるをえないからです。)イエス様だけを見るのでなければ、間違いなく落ち込みます。もし 私たちが自分自身を見つめるなら、私たちは少なくとも千回、偉大なるイエス様を見上げなくてはならないでしょう。

しかも、私たちはまず、私たちの動機が本当に正しいものであるかどうか、主の御顔によって自分たちを吟味すべきです。そうしなければ、私たちは簡単に流されてしまい、いかに下へ向かっているかに全く気がつかないようなこともあり得るのです。
絶対的な拠り頼みを意識しないで生きる者は、災いではないでしょうか。私たちは自分のみじめさ、自分の無力さ、すべての失敗を認め、そのままの状態でイエス様のところに行くことが大切です。そうすれば、主は必ず新しい力を与えてくださいます。


『私たちの道を尋ね調べて、主のみもとに立ち返ろう』と、哀歌3章40節に記されているように、主を信じる者は誰でも、何度も何度も悔い改めて主に立ち返ることが必要です。それによってのみ、主は新たに生かすことがおできになるからです。
信 じることは良いのですが、それだけでは十分ではありません。私たちは、みこころにかなう者なのでしょうか。「はい、そうです」と言える兄弟姉妹は、おそら く私たちのうちにひとりもいないでしょう。ですから、私たちの道を尋ね調べて、主のみもとに立ち返ることが、どうしても必要です。私たちは、主と結びつい ていないことがあったり、また、主の愛が既に私たちを駆り立てない、ということがあり得るのです。

やがて殉教の死を遂げるパウロは、最後の手紙の中で、次のように書いています。

テモテへの手紙・第二 2章21節
ですから、だれでも自分自身をきよめて、これらのことを離れるなら、
その人は尊いことに使われる器となります。すなわち、聖められたもの、
主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。


これは単なる可能性ではなく、事実です。
『主のみもとに立ち返ろう。』

簡単な三つのことについて考えましょう。
・私たちの生活を、尋ね調べること。
・私たちの障害物を認めること。
・私たちの歩みを吟味すること。

即ち言い換えるなら、
・第一に、私たちは自分の生活を、尋ね調べなければなりません。
・第二に、私たちは自分の障害物を認めなければなりません。
・第三に、私たちは自分の歩みを吟味しなければなりません。

*第一番目。私たちの道を尋ね調べましょう。
ここで大切なことは、「私たちの」ということが強調されていることです。即ち他の人ではなく、私たち自身の道が吟味され、究明され、尋ね調べられるべきです。他の人々の道を判断したり、調べたりすべきではありません。問題となっているのは、「私たち自身」です。
パウロは二箇所で、私たちが、まず「私たち自身」の生活を吟味しなければならないこと、問題となっているのは他の人ではなく、「私たち自身」であることを指摘しています。

即ち、ひとりひとりが主の前に静まり、次のような願いをもって、主の光に自分自身を照らし出していただくべきです。「主よ。どうかあなたの前に妨げとなっているものを明るみに出してください」と。

コリント第二の手紙13章5節で、パウロは、コリントにいる、なかなか成長しなかった兄弟姉妹に書いたのです。

コリント人への手紙・第二 13章5節前半
あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。

とあります。

私 たちは他の人を吟味したり判断して、裁いたり、また他の人のいろいろな欠点を詮索せんさくしたりしがちです。私たちは、福音を聞く時でさえ、聞いた事がら が自分自身に関係のあることではなく、「これはあの人に当てはまる」、「そのことにあの人が気づくといいのだが…」、と思ったりするのではないでしょう か。

私たちは、自分たちの生活を尋ね調べ、意識的に、主の光の中に自分自身を置くことの必要性について考えるべきです。そのことはどのように行なわれるべきでしょうか。
次の三つのことが考えられます。
1.規則正しく行なうこと。
2.適当にではなく、徹底的に行なうこと。
3.正直に行なうこと。

1.私たちは、規則正しく私たちの生活を尋ね調べなければなりません。

コリント人への手紙・第一 11章23節から29節
私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは、渡される夜、
パンを取り、感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。
「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行ないなさい。」
夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。
これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。」
ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、
主の死を告げ知らせるのです。したがって、もし、ふさわしくないままでパンを食べ、
主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。ですから、
ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。みからだを
わきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります。


28節のみことばは、パン裂きについて述べていますが、聖書によると、パン裂きはたまに行なわれるのではなく、規則正しく行なわれるべきです。即ち、私たちは、私たちの「主の苦しみと死」について、そして「イエス様の成就された勝利」について考えるべきです。パン裂きのとき、私たちは、ゴルゴタ、即ち「イエス様の十字架上における犠牲」を思い起こし、「御座に引き上げられたイエス様」を見上げ、そして、すぐに成就される「主のご再臨」を待ち望みます。

しかし私たちの生活をも尋ね調べなければならない、とパウロは主の使命をもって語っています。私たちは、イエス様が祝福し、ご自身を啓示し、奇蹟の御業をなしてくださる妨げとなるものがないかどうかを、尋ね調べなければならな
いのです。
明 らかに私たちに要求されていることは、あなたの生活を尋ね調べなさい、ということですが、それは、妨げるものが思い当たった時に、主の聖餐から「遠ざかる ため」ではなく、「悔い改めて」パンを食べ、杯を飲むためなのです。このことは、ひとりひとりが自分自身を吟味してふさわしくなければ、パンとぶどう酒を 隣りの人に回すことを意味しているのではなく、大切なことは、ひとりひとりが自分を尋ね調べ、赦しを必要とする事がらが私たちに示されるためなのです。

実際私たちは、主の前にへりくだって身をかがめ罪過を告白するなら、私たちはすべてを赦され、その赦しが受け入れられた後、私たちはパンを食べ、杯にあずかるべきです。
したがって、精密検査の目標は、私たちががっかりして身を退くことや、断念しようとすることではなく、イエス様との更に親密な交わり、更に大いなる祝福をいただき、用いられるためです。

パン裂きの時、「洗礼を受けても受けていなくても・・・」と言われています。もちろん、習慣になっているかもしれません。普通の教会では、洗礼を受けていなければパン裂きにあずかってはいけない、と決められているのです。この決められたことは間違っています。

ですから、洗礼を受けても受けていなくても良いのです。しかし、何度も言わなくても良いかも知れません。むしろ、信者であっても、救いの確信があっても、
「隠されている罪」があればあずからないように、と言うべきではないでしょうか。ですから、パウロはこのコリント第一の手紙11章の中で書いたのです。

私 たちは、日曜日の朝、パン裂きのときにだけ自分の生活を吟味するのではなく、規則正しくいつもなされるべきです。例えば、大晦日、新年、喜びの集い、特別 な祝福を受けた時も、自分を吟味することが必要でしょう。というのは、私たちはともすると主に対して感謝の少ない者となり、自分自身のことを考えてしまい がちであるからです。また試練の時にも、私たちが自分の生活を吟味することが必要でしょう。しかしその際に、なぜ、どうしてと尋ねるのではなく、
「主よ。あなたのご目的は何ですか。あなたはそのことを通して、私に何をお語りになりたいのですか」と尋ねることが大切です。

私 たちが主から離れているときに、私たちと主との間に妨げるものが入ってくると、主は私たちを教育してくださいます。即ち、主は、私たちを罰するのではな く、そのことを通して、私たちを更にみもと近くに引き寄せるために、私たちを教育なさるのです。ですから、悩みや試練のときに、私たちが主の光を主に願い 求め、私たちの生活を吟味し、主がすべてを明らかにしてくださることが大切です。

しばしば主の御手が働けないようにしてしまうものは、私 たちの「不信仰」であり、私たちの「不従順」であり、私たちの「不純な動機」なのです。私たちが主に仕えても、ほとんど、或いは全く実を結ぶことができな いとき、私たちは、改めて自分たちの生活を調べてみることが大切です。

以上のことをまとめてみると、「私たちの生活の精密検査」は、規則正しく頻繁に行なわれるべきであるということが言えます。

2.徹底的な精密検査も必要です。
究 明するとか、吟味するという言葉は、うわべだけでなく徹底的に行なわれるべきであることを私たちに示しています。そのことは何度も何度も、私たちが、主に 真剣に願い求めるべきです。私たちのうちに隠れて、障害となっているすべてのもの、また、私たちに更に大いなることをなさろうとしておられる主のご目的に 対しての、その障害物の全てを明らかに示してください、と。

モーセは、詩篇90篇8節で証ししたのです。

詩篇 90篇8節
あなたは私たちの不義を御前に、私たちの秘めごとを御顔の光の中に置かれます。


このようにモーセは祈り、証ししました。不義と秘めごとは光の中に置かれなければなりません。

例 えば、あなたが歯医者に行き、痛んでいるところが発見されたとしますが、その歯は抜かなくても良い場合、まずみなが嫌がる歯の穿孔機(歯に穴を開ける機 械)が使われ、痛んでいるところはすべて徹底的に除去されます。そうするとその歯は突然大きな穴が開くことになりますが、使うことができるようになりま す。この方法は痛みを伴うかもしれませんが、やりがいのあるものではないでしょうか。ちょうどそれと同じように私たちもまた、徹底的に私たちの生活を検査 しなければなりません。私たちが主の器として主に用いていただくために、主との交わりを持ちたいとなお願うなら、何度も何度も自分自身を徹底的に検査して いただく必要があります。

以上のことをまとめてみると、私たちの生活の精密検査は、まず規則正しく、徹底的に行なわなければなりません。

3.最後に、どこまでも正直であることが要求されます。
私たちの人生については、四つの価値判断があるでしょう。
① 私たちの周囲が自分について何を考えて、またどのように自分を評価しているか。
② 自分と一緒に住んでいる家族が、自分について何を考え、どのように評価するか。
③ 自分自身が自分について何を考え、自分をどのように評価するか。
④ 最も大切なことですが、生けるまことの主が、自分について何をお考えになり、どの
ように評価なさるか、ということです。

ではなぜ精密検査が必要なのでしょうか。それは、主が、私たちの人生をご覧になると同じように、私たちも自分の人生を見ることができるため、即ち「自分自身を本当に知るようになるため」なのです。
他の人が、私たちについて何を考え、どのように見ているか、或いは、私たちが自分自身について何を考え、どのように自分自身を見るかということではなく、徹底的に大切なことは、
「燃える炎のような目」を持っておいでになる主の前には、造られたもので隠れおおせるものは何ひとつありません。主の御目にはすべてがさらけ出されてしまうのです。

その主が、私たちをどのようにご覧になるかということです。私たちは、人間の目に模範的に思われることはあり得ても、或いは、自分の過ちを他の人の目からうまく隠そうと思えばできるでしょう。しかし、主の前に隠れおおせるものは何一つありません。

ですから、ダビデは本当に祈りました。もう一度139篇を読んでみましょう。今度は、1節から読みましょう。なぜなら、ここでも1節から4節までに、私、私、私という言葉が、8回も出てきます。

詩篇 139篇1節から4節
主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。あなたこそは私のすわるのも、
立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。あなたは私の歩みと
私の伏すのを見守り、私の道をことごとく知っておられます。
ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはそれをことごとく知っておられます。


主の御目に隠れおおせるものは何一つありません。ですから、私たちは主に近づく時、
全く正直でなければならないのです。
もう一箇所読みましょう。


エレミヤ書 23章24節
人が隠れた所に身を隠したら、わたしは彼を見ることができないのか。――主の御
告げ。――天にも地にも、わたしは満ちているではないか。――主の御告げ。――

とあります。

私たちは、
「主よ。どうかすべてを明らかにしてください。私を調べてあなたを悲しませたところをお示しください」と祈ることができれば、本当に幸いと思います。というのは、主はいつも私たちを赦してくださるおつもりですから。
主は、私たちをあらゆる不義から清めようと待っておられます。私たちは、私たちの道を尋ね調べましょう。これは必要なことです。そのことを私たちは、規則正しく、徹底的に、正直に行なうべきです。

しかし、必要な精密検査に属するものは、私たちの人生の検査だけではなく、私たちの障害物を認めることでもあります。私たちの障害物を認めないと、主は祝福することがおできになりません。前に読みました
エレミヤ哀歌3章40節
哀歌 3章40節
私たちの道を尋ね調べて、主のみもとに立ち返ろう。

とあります。

主は、立ち返るべきであると言っておられます。それは、いったいどうしてでしょう。それは私が間違った方向に進んでしまったので、私たちは戻らなければならないからです。なぜでしょうか。それは、私が主から離れてしまったからです。

・旧約聖書の中に出てくるサムソンという、主によって用いられた器について、いろいろなことが書かれていますが、このサムソンは、主の民に属し、もちろん信者で、長い間主の御手にある器でした。
士師記の16章を読むと、ショックを受けます。サムソンが主のご臨在を通して、自分の抑えがたい情熱によって、気がつかないうちに「主の霊が自分から去ってしまったこと」を認識した、という事実を知ることができます。神の敵は、サムソンを嘲笑いました。というのは、彼は神の霊なしに、力なく、望みなく、助けのない者になってしまったからです。何という悲劇でしょう。彼は戦い続けなかったのです。

・ダビデについて考えても分かります。ダビデは、ただ主の民に属していた者だけではなく、特別に選ばれた者でした。イスラエルの民の指導者でした。
サムエル記下の11章を見ると、彼はバテ・シェバと姦淫を犯し、ナタンのとりなしによって、自分自身を主の光の中に見ることができ、次のように告白せざるを得ませんでした。「その姦淫をした男は私です」。ここにも悲劇があります。

・ 旧約聖書の中で最も用いられた預言者エリヤは、主によって特別に遣わされた者でした。しかし、彼は落胆して荒野に引き戻り、主が自分のいのちを奪って欲し いと真剣に祈りました。彼はぺちゃんこになってしまったのです。そのことに対して悪魔はどのように勝ち誇ったのでしょう。

・イザヤという預言者は、自分自身を主の光の中に見ました。彼は自分の不潔さ、不純さに驚き、次のように叫ばざるを得なかったのです。
「ああ私は災いです。私はもう駄目だ」と、イザヤはすべての障害物を認識し、告白したのです。

・イエス様の弟子たちについて考えても分かります。最後の晩餐の時に、イエス様は彼らに言われました。
「あなたがたのひとりがわたしを裏切ります」と。するとすべての弟子たちは驚いて尋ねました。「主よ。それは私でしょうか」。私たちもまた、「主よ。それは私でしょうか」と問うべきです。「私があなたを悲しませたのでしょうか。隠れたところにある障害物を私にお示しになってください。私の障害物を認める恵みをお与えになってください」と。

・ペテロは弟子たちの中の一人でした。
ルカ伝22章を読むと、彼は自分の恐るべき絶望的状態を認めるようになったことが分かります。彼は外に出て行き激しく泣いた、とあります。

こ れらの主のしもべたちは、主に立ち返りました。というのは、彼らは主の命令に従ったからです。私たちの道を尋ね調べてください。このことを行なう者には、 立ち返り、戻る恵みが与えられます。自分自身を検査してもらう人は、すべてのことを明るみに出してしまう備えを持っています。もちろんそのような人は、私 たちのうちにある悪しきもの、不要なもの、憎むべきものだけがあることをも経験しなければなりません。

しかし、認識したあとには、告白が続かなければなりません。というのは、告白した時に罪が赦されるからです。恐らく主なる神は、私たちの人生の中で、主を悲しませ、主の祝福の流れを押しとどめるものが他にもあることを、私たちに示してくださるでしょう。
光の中に出ることをあえてしましょう。すべて偽善的な行為をやめましょう。

私たちも、
・サムソンのように、力のない、望みのない、助けのない、あらゆる状態から脱出すべきです。
・ダビデのように、あらゆる偽善と、姦淫から脱出すべきです。
・エリヤのように、あらゆる無気力さと、失望、落胆から脱出すべきです。
・イザヤのように、あらゆる盲目の状態と、不純から脱出すべきです。
・ペテロのように、あらゆる思い高ぶりと、傲慢から脱出すべきです。

必要な精密検査、或いは健康診断に属するものとしては、すでに考察しましたように、まず第一に、私たちの人生の精密検査、それから私たちの障害物の認識が必要です。
はじめに言いましたように感謝なことは、主は私たちと違うことです。


イザヤ書 42章3節
彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、まことをもって公義をもたらす。
哀歌 3章22節
私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。



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