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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

主の救いを黙って待つのは良い

私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。
主のあわれみは尽きないからだ。
それは朝ごとに新しい。
「あなたの真実は力強い。
主こそ、私の受ける分です。」と
私のたましいは言う。
それゆえ、私は主を待ち望む。

主はいつくしみ深い。
主を待ち望む者、主を求めるたましいに。
主の救いを黙って待つのは良い。
人が、若い時に、くびきを負うのは良い。
それを負わされたなら、
ひとり黙ってすわっているがよい。

口をちりにつけよ。
もしや希望があるかもしれない。
自分を打つ者に頬を与え、
十分そしりを受けよ。
主は、いつまでも見放してはおられない。
たとい悩みを受けても、
主は、その豊かな恵みによって、
あわれんでくださる。

主は人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは、
思っておられない。
地上のすべての捕われ人を足の下に踏みにじり、
人の権利を、いと高き方の前で曲げ、
人がそのさばきをゆがめることを、
主は見ておられないだろうか。

主が命じたのでなければ、
だれがこのようなことを語り、
このようなことを起こしえようか。

わざわいも幸いも、
いと高き方の御口から出るのではないか。
生きている人間は、なぜつぶやくのか。
自分自身の罪のゆえにか。」(哀歌3:22-38)


最近、どうしようもない飢え渇きが心の中にあって、それを上手く言葉にできないもどかしさを感じている。交わりの中でも、他のどの場所でも、それを上手く伝えられない。主が来られて私たちを救い上げ、御翼の陰にかくまうようにしてこの状況から引き上げて下さらなければ、もはや一歩たりとも生きていくことはできない…、その絶望にも近いもどかしさをどうやって言葉で伝えられるだろうか。そんな時には、もう何も語らないが良いのだ。

直接的には、孤独や、生活上の困難やら、色々な困窮の原因があげられるかに見えるし、今、日本に差し迫っている危機を理由にあげることもできるだろう。だが、それは何よりも直接、主に持っていくべき、甚だしい飢え渇きなのだ。それは主ご自身の不足に他ならない。

かつて必至で真理を探してあちこちを調べ、遠い距離をものともせずにキリスト者の間を訪ね歩いた時のことを思い出す。どうしようもない飢え渇きが心の中にあって、どんな同情も、優しい言葉も、真の満足とはなり得なかった。日常生活がかりそめに守られているように見えることなど何の気休めになろうか。そんなものが本当の満足に至るだろうか。何を犠牲にし、何を代償にしてもいい、ただこのいのちなる方にご自身をはっきりと現していただかねば何も悟ることはできないし、切り抜けられもしないという差し迫った危機感(渇望)があり、かつて絶望の最中で必至になって光を見たいと望み、主が現れて下さるためならば、何を捨てても構わないと思い、生涯を捨て去るつもりで、長い長いときを、沈黙のうちにただ頭を垂れて待ち望んだ、その時のことを思う。

ハンナが主の御前に心を注ぎ出した直接の動機は、彼女が男の子を望んだからかもしれない。地上的な困窮が彼女を追いつめ、主の御前に押し出したかのようであった。直接的には、彼女が望んだのは自分自身の恥が取り除かれることであった。私は時折エリサベツのこの言葉を思い出す、「主は、人中で私の恥を取り除こうと心にかけられ、今、私をこのようにしてくださいました。」(ルカ1:25) 当時、女にとって子供がないことは恥であったが、今日、それと同様に、エクレシアにとっていのちを生み出さないことはれっきとした恥なのだ。しかし、そのことを恥と思っている人はどの程度いるのだろうか。誰がそれにハンナのように打ち砕かれて主の御前に嘆き、呻くだろうか?

主イエスの前に進み出た多くの病人たちにとって、彼らが主の御前に進み出た直接的な動機は、地上的困窮、肉体的困窮だったかも知れない。だが、そのどうしようもなく追いつめられた状況は、彼らがただ一途に主だけを待ち望むきっかけを作り、彼らを主の御前に悔い改めさせ、地上的なものに対して真に絶望した者とし、御前に強く押し出した。彼らは表面的には、あたかも自分たちの生活の幸福が失われたことを嘆き、不幸に打ちのめされ、回復や安寧を求めていただけのように見えたかも知れない、が、その安寧も回復も、もはや人の力では実現不可能なところにあった。そのため、この人たちの希求は、必然的に、地上的幸福を追い求めることよりも、さらに深いものとならざるを得なかった。いや、彼らはその深い渇望を、絶望に近い希求を、ただ主に託すことしかできなかった。

ただ一点、キリストにだけ、彼らの望みがかかっていた。ただイエスの御名にだけ、真理でありいのちなるキリストご自身にだけ、彼らの望みがかかっていた。その希求が、彼らを地上の全ての幸福と安寧から引き離し、主の御許へ強制的に連れて行った。いや、神が彼らをご自分のもとへ引き寄せられたと言って差し支えない。主は、ご自分だけが彼らの望みとならざるを得ない究極の地点まで彼らを導かれた。この暗やみにも見える細い道を通って、彼らは世から選び分かたれ、主の御許へ連れて行かれた。世は彼らを全く無価値、無用なものとして吐き出したが、その無意味となった彼らを、屑にも近いものとなった彼らを、主が選び、ご自身のために分かたれ、御許へ連れて行かれたのだ――。

今、こう祈らずにいられない、主よ、主よ、どうか私たちを憐れんで下さい、どうかこの無となっている私たちを御心に留めて、かえりみて下さい。人々は地上的な人生を大いに楽しみ、今日、明日に望みをかけているかも知れません。自ら得た富や恵みを大いに誇っているかも知れません。しかし、私たちにはただ何もないばかりでなく、地上的な幸福には、もはや何の希望も見いだせないのです。私たちの心はどうしようもなく飢え渇いているのです。あれやこれやの人や物に対してではなく、あなたに飢え渇いているのです。私たちの幸福は、ただあなたにあるのです。私たちが生きるかどうかは、ただあなたのお心一つにかかっているのです。私たちの幸福はもはやあなたの御力によってしか実現しえないところにあり、私たちの望みは、ただあなたがご自身を現して下さることだけにあるのです。

主よ、帰って来て下さい、ご自身を現して下さい、スカルの井戸であのサマリヤの女に出会って下さったように、私たちを憐れんで下さり、私たちに、今一度出会って下さい。ご自分の民である私たちの貧しさと悲惨さをお心に留めて、私たちをかえりみて、御手で引き上げて下さい。私たちは再びあなたを見たいのです。もう一度、あなたに出会い、あなたの大能の御力を知り、あなたの懐にまで高く引き上げられ、あなたに抱かれて安息し、ねんごろにかえりみて世話をしていただく幸いにあずかりたいのです。主よ、来てください、ご自分の民である私たちをどうか忘れないで、心に留めて下さい、私たちの嘆きに耳を傾け、私たちの叫びを聞き届けて下さり、あなたによって打たれた私たちの傷を包み、あなたの民である私たちを、あなたがもう一度、得て下さいますように。私たちを一人に捨て置かないで下さい、どうか私たちを黄泉のうちに捨て置かれず、あなたが私たちの心に来て下さり、私たちの重荷を担って下さり、私たちの悲しみの涙を拭って御翼の陰にかくまい、あなたの安息の内に憩わせてくださいますことを切に切に希うのです。

主よ、来てください、私たちは頭を垂れて、沈黙のうちにあなたを、ただあなたを待ち望むのです…。

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