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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのです

十字架と結実

 ヨハネによる福音書十二章二十四、二十五節を、もう一度読みましょう。「よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一 粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。自分の命(魂―ギリシャ語訳)を愛するものはそれを失い、この世で自分の命(魂)を 憎むものは、それを保って永遠の命に至るであろう。」

 ここに十字架の内的な働きがあります。それは私たちが今まで語ってきた魂を失うことです。<…>一粒の麦の目的は、実を結ぶことにあります。自己のうちに命を持つ一粒の麦があります。しかしそのままでは「ただ一粒のままである」のです。それは他のものに命を分け与える力を持っていますが、そうするためには、死の中へ入って行かねばなりません。

 さて私たちは、主イエスがとられた方法を知っています。イエスは死の中を通り抜けられたのですが、すでに学んだように、そのいのちは多くの命となって出現しました。御子は死に、そして
「多くの子」の初穂としてよみがえられたのです。イエスは、私たちが彼のいのちを受けるため、それを捨てられました。私たちが死ぬために召されているのは、主の死のこの面においてです。

そこにおいてイエスは、御自分の死に合わせられることの価値を、明らかにされています。それは私たちが生来のいのち、すなわち魂を失い、その結果、私たちがいのちの分与者となり、私たちの内にある神からの新しい命を他の者に分かち与えることです。これが奉仕の秘訣であり、神のために真の実を結ぶための道なのです。そのことをパウロはこう言っています。
「わたしたち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されているのである。それはイエスのいのちが、わたしたちの死ぬべき肉体に現われるためである。こうして、死はわたしたちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのである」(第二コリント四・一一、一二)

 私たちは今や問題の中心に近づいています。もし私たちがキリストを受け入れているならば、私たちは新しい命を内に持っています。私たちのすべてが、その貴重な持物すなわち宝を器のうちに持っているのです。私たちの内に実在する神のいのちのゆえに、主は賛美すべきかな。しかし、なぜその主のいのちの表れが、あまりにも少ししかないのでしょうか。なぜそれは、自分の内にだけ留っていて、溢れ出て他の者にいのちを与えないのでしょうか。なぜそれは、私たち自身の生活においてさえ表れることが少ないのでしょうか。なぜいのちがあるのに、そのいのちの印が非常に薄いのでしょうか。

それは、私たちの内にある魂が、そのいのちを包み、かつ閉じ込めてしまうために(ちょうどもみが麦の殻を包むように)いのちは出口を見いだすことができないからです。私たちは魂によって生きており、自分自身の生来の力によって働き、かつ奉仕しています。私たちは神から力を引き出していません。
いのちが溢れ出る道に立って妨害しているのは、魂なのです。その魂を失って下さい。そうしてこそ満たしがあるのです。

暗黒の夜――復活の朝

 ここで私たちは、一晩の間――何ものをも見ることのできない暗黒の一夜――聖所の中に持ち込まれ、そして翌朝には芽を出したあのはたんきょうの杖に戻ってきます。そこにおいて私たちは、死と復活、捨てられたいのちと獲得された命を見ました。また神によって承認された奉仕について学びました。しかし、このことは実際にはどのようにしてなされるのでしょうか。どのようにして私は、神がこのような方法によって私を取り扱っておられると知るでしょうか。

 まず最初に、一つのことを明らかにしなければなりません。生来のエネルギーと力を持った魂は、私たちが死ぬ時まで存続します。その時まで絶えず、私たちの内に働き、肉の性質の源泉を深く泥さらえする十字架が、毎日毎日必要なのです。これが、
マルコによる福音書八章三十四節の中に主張されている、奉仕のための終生の条件です。「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。」

私たちは、この学課を決して卒業することができません。そのことを避ける者は「わたしにふさわしくない」(マタイ一〇・三八)のであり、「わたしの弟子となることはできない」(ルカ一四・二七)のです。死と復活は、魂を失い御霊の働きを促すために、私たちの生活の永続的な原理とならなければなりません。

 ところで、ここにもまた、一度通過したら私たちの全生涯と神への奉仕を変貌させてしまう転機があり得るのです。それは、私たちが全く新しい道に入るための狭き門です。そのような転機は、ヤコブの生涯でもペニエルで起りました。神に仕え、神の目的を達成しようと努めていたのは、ヤコブの中にある「生まれながらの人」でした。
「兄は弟に仕えるであろう」と神が言われたことを、ヤコブはよく知っていました。しかし、ヤコブは自分の才能や力によって、神の目的を達成しようとしたのです。それで神は、ヤコブの内にある生来の力を無能にさせなければならず、そのため彼のもものつがいにさわられたのです。

ヤコブはその後、旅を続けましたが、びっこのままでした。しかし彼の改名が示すように、彼は以前とは違ったヤコブでありました。彼は自分の足を持ち、それを使うことはできました。しかし彼の力は神に触れられたためにびっことなり、しかも一向に回復する見込みはなかったのです。


 神は私たちを、深い暗黒な経験を通して、私たちの生来の力が触れられ、根本的に弱められて、もはや自分にあえて頼ることができないという点まで連れて来られねばなりません。それはどのようにしてなされるか、私には言えません。しかし、とにかく神はそれをなさるのです。神は私たちのうちのある者を大変乱暴に取り扱われ、その人をそこに連れて行くために、困難で苦しい道を通らせなければなりませんでした。そして私たちが、キリスト者の働きをするのが「好き」ではなくなり、主の名によって事をなすのが恐ろしくさえなる時が来るのです。しかし、その時はじめて、神は私たちをお用いになることができるのです。
『キリスト者の標準』、ウォッチマン・ニー著、pp/292-296.
<つづく>

 
深い、深い暗黒の夜。自分自身には全く希望が見いだせず、神への奉仕をさえ続けられなくなる暗黒の夜。私たちが神の力によってびっこにされてしまう暗黒の夜。その夜はいつまで続くのかも分からない。ところが、そこに神の絶大なる愛が確かに届いていることを感じずにいられないのである。

いや、むしろそのような暗黒の中を通過しないならば、決して分からなかったであろう神の憐れみの深さを感じるのはなぜなのか。主は私たちが究極的に弱くされるときをただずっと待っておられたのだ。忍耐強く、憐れみを持って、私たちが自分の全てを御前に投げ出す時を、ずっと待っておられたのだ。私たちが拒み続けてなお、私たちを待ち続ける主の愛はどこまで深いのか。私たちが背いていたのに、なお私たちを召して下さった主の呼び声はどれほど強いのか。すべてが私たちの力によらず、ただ神の御力だけによることが証明されるために、ただこの方の力が現されるために、私たちは暗やみを通過せねばならない。だが、自分の無力と恥を知らされる時、神の愛と憐れみの深さを思って賛美せざるを得ないこの衝動は何だろう。

ああ、私たちが徹底的に弱くされる時にこそ、現される神の完全な強さがあるのだ、その一方的な恵みと憐れみが現されるのだ。御子が成就してくださった完全な贖いの尊さよ! 私たちの名は折られ、泥まみれになろうと、ただこの方の御名だけが高く掲げられるように! 不従順で不敬虔で、救いにも全く値しない罪人である私たちを救うために世に来られ、命を投げ出して下さった主の愛だけが讃えられるように! ただこの方のいのちだけが私たちを支配し、私たちを完全にとらえてしまうように! 

そのために私たちの生来の力がへし折られ、終わらされることを拒んではいけない。きょう、と言われた日に、御声を拒んではいけない。暗黒の夜が自分に訪れるとも、死の中に、墓の中に黙って横たわれ。主が私たちを獲得し、引き上げて下さるその時まで。主が私たちのうちで自由を得られるその時、私たちも主と共に自由になるのです。


「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者の ために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私た ちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。もし敵であった私たちが、御子 の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。そればかりでなく、私たち のために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。<…>

ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。律法がはいって来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリスト により、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを獲させるためなのです。」(ローマ5:6-11,19-21)

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