忍者ブログ

私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

もし蛇が人をかんでも、その者が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きた

民は神とモーセに逆らって言った。「なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした。」

そこでは民の中に燃える蛇を送られたので、蛇は民にかみつき、イスラエルの多くの人々が死んだ。民はモーセのところに来て言った。「私たちはとあなたを非難して罪を犯しました。どうか、蛇を私たちから取り去ってくださるよう、主に祈ってください。」モーセは民のために祈った。

すると、はモーセに仰せられた。「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。」

モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上につけた。もし蛇が人をかんでも、その者が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きた。(民数記21:5-9)


日曜礼拝を終えて去り際に、ある姉妹が励まして言ってくれた。「私はあなたと同じところを通って来たから、そのつらさも痛みも全部分かる。今は墓の中にじっととどまっていれば良いの。そうすれば時が来たら、主が引き上げて下さるから」

その言葉を聞いて涙が溢れた。敵の襲来に打ち勝つために死の谷の陰を通らされるならまだ分かる。福音のために困難に出会うなら分かる。だが、主がとり扱われるのが、まさにこの自分自身である時、私たちは狼狽しないことはできない。だが、主は私たちに何度でも、死刑宣告を下される。取り扱われなければならないのは、あれやこれやの障害ではなく、あなたです、と主は言われる。

十字架のより深い取り扱い――それは痛みに満ちた出来事である。私たちはすでにキリストと共に死んだはずであり、よみがえらされたのだと自分では思っている、それは確かにその通りである、しかし、それで終わりではない。十字架は私たちの内側で実際となるために、より深く内面を通過していく。そして自己に属する全てのものを全て取り去っていくのである。その時、自分自身がどれほど深く、アダム来の腐敗に――あの蛇の毒に――致命的に冒され、またそれに固執していたのかが分かるのである。

その時、私たちは叫ばずにいられない、ああ、私たちは主の御前に死ぬことを拒み、主と共に苦難を背負うことよりも、この腐敗したアダムの命によって安楽に生きることを望んで罪を犯しました、と。どうかこの蛇の毒から、肉から、アダムの命から、私たちを救って下さい、と。

死がなければ、復活はない。もし私たちの生来の自己が生きているなら、そこに神の栄光はない。神はご自分の栄光を決して他の者に与えはしないと言われる。ただ神だけが事をなすために、私たちは完全に死んで退かねばならない。自己安堵、自己満足、自己耽溺、すべてが取り除かれねばならない。

そのために、主は私たちの心の中に願いを、いや、叫びを起こさせるのだろう。それは前進し、いのちを生み出したいとの強烈な渇望だ。からみつく罪との泥沼のような戦い。このままでいたくはないし、決して、このままであってはならないという強烈なうめき。しかし、その前進を妨げるものが、まさに他でもなく私たちの内側にあることを知って、私たちは苦しみのうちに、主に向かって泣き、叫ぶ。

サラは子供を切望したが、その子供は、彼女の肉の力によってではなく、御霊によって生まれなければならなかった。サラは幸福な家庭の女主人となるためにあらゆる努力を惜しまなかったろう。ただ自分の幸福が実現されないことを悲しんだのでなく、息子が生まれることは主の御旨であったため、御旨を実現できないことで自分を責めたかも知れない。彼女はハガルを主人に与えさえしたのである。自分が退きさえすれば、すべては上手く行くと考えたのかも知れない。

だが、彼女の努力は全て水泡に帰した。それは人ではなく、神が事をなさなければならなかったからだ。神は人の試行錯誤が全て終わるまで、じっと脇に退いて見守っておられた。アブラハムもサラも、長い年月、死の中にとどまらなければならなかった。彼らはまるで無駄に年老いて行ったかのように見え、約束の成就は、年々遠ざかり、絶望的になって行くかのようであったろう。

真理の御霊は私たちの内側を貫いて高速道路を作らなければならない。死に渡されなければならないのは私たちの肉だ。もし私たちが切り裂かれることに同意せず、立ち退くことにも同意しなければ、その道路はいつまでも完成に至ることはなく、どんなに主の御業を待ち望んでいると言ったとしても、イサクが生まれることは決してない。

なぜ私にはいのちを生み出す力がないのか? それは私が完全に死に渡されることに同意していないからだ。ただ御霊だけが事をなし、ただ神だけが栄光を受けられる地点に至っていないからだ。神はただご自分の栄光だけが求められる場所には、必ず、ご自身が現して下さるに違いない。

…シメオンは両親を祝福し、母マリヤに言った。「ご覧なさい。 この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現われるためです。」(ルカ2:34-35)

私たちは復活を求め、命の水の川々について大胆に語るだろう。だが、剣が私たちの心を刺し貫くとき、それを喜ぶことができるだろうか。自分自身が一粒の麦として死ぬことがなければ、多くの実が結ばれることはない。自分はただ一人の無名な人間に過ぎないと思って、私たちは自分の命をこの手にしっかり握りしめているかも知れないが、それは他の人々のいのちの問題に密接に関係しているのである。

燃える蛇。それは、地獄の炎でもあり、また、神以外のものを切望し、神と共に貧しさや苦難を背負うことよりも、エジプトの富を恋い慕う私たちのアダム来の肉を焼き尽くす妬みの炎でもある。しかし、私たちはこの致命的な蛇の毒に冒され、肉にあってうめきながらも、信仰によってあげられた青銅の蛇を見上げる。どうしてこれを人知によって理解できようか。そこでは、キリストと蛇はまるで一体となっているかのようである。すべてのサタンの悪しき策略と支配を、すべてのサタンの足がかりとなる肉を、神はキリストに負わせ、彼を十字架にかからせ、その身に肉に対する神の処罰を負わせたのだ。私たちはこのあげられた青銅の蛇である方を仰ぎ見て、生きる。それは彼の死が私の死であり、その十字架において彼と共に私が死に渡されたことを信じるからだ。

「もし蛇が人をかんでも、その者が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きた。」

「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」(ヨハネ11:25-26)


もし私たちが同意しさえするならば、そこから一粒の麦の殻を打ち砕くための、魂の手術が――治療が――始まるだろう。アダムの腐敗した命と、キリストの聖なる復活の命に属するものを切り離すための手術が。私たちはそれまでは子供のように楽天的で、自分はどこまでも主に従っていけるとさえ考えていたかも知れない。恥ずかしいことに、自信満々だったのだ。そこにどの程度、生来の力が入り込んでいたのかも知らなかったのだ。私たちの幼さのゆえに、人々はそれを知りながら、私たちを存分に用いて、高く上げてくれたのかも知れない。

ところが、今や私たちは地に落ちて、人々の靴で踏みつけられる。石膏の壺が粉々に砕け散るようにして、私たちの外なる人の美は損なわれ、魂は水のように注ぎ出される。私たちは何もできなくなり、不信仰と、恥と、失敗だけが公にされ、聖徒としての誇りは消えうせる。全ての退路は塞がれ、全世界からも、愛する人々からも、主からも、見捨てられたような有様で、ただ墓に横たわっていることしかできない。

暗黒の夜がやって来る。私たちはそこを通過せねばならない。暗やみの日、全世界からも、神からも忘れられたように感じながら、自分自身の完全な無価値さと、恐ろしい罪深さをかみしめつつ、真っ暗な墓の中にじっと沈黙の内にとどまっていなければならない。

その時、私たちはただ贖いの完全さを信じることしかできない。自分自身でなすことのできることは全て終わった。もう自分自身には何も残ってはいない。試行錯誤も、抗うことも、全て終わった。ただ神だけが働かれなければならない。

ああ、贖いよ、贖いの尊さよ! この堕落した被造物のすべてを死と滅びから救うことができ、私たちの心の奥底の最も深い暗闇をも照らすことのできる光を信じるだろうか。キリストの完全な贖いが、人自身に潜む最も絶望的な問題に対する完全な解答としてやって来ることを信じるだろうか。

クリストフ・ブルームハルト、イエスは勝利者、イエスは我々を戦いに召す

確かに、物事が改まるには、時には何年も待たなければならない。我々は誘惑に駆られそうになる。妥協して、「これはどうしようもありません。これが人の性質なのです」と言いそうになったり、自分自身の力で無理強いしようとしそうになる。我々には何も変えることができない。イエスだけが我々を救うことができ る。イエスは理論上救うだけでなく、実際に、はっきりと、まさに今ここで救うことができる。確かに、我々を妨げる障害すべてに打ち勝つことは我々にはでき ない。我々の善い意図ですら、これを信仰と誤解する人もいるが、我々の助けにならない。クリスチャンの諸々の所感はさておき、キリストの力を経験しない限 り、我々は以前同様贖われないままであろう。自分の力ではなくキリストの力が現れるよう、我々は戦うのである。

 これによって我々は謙 (へりくだ)らなければならない。しかし、「自分たちに必要なのは、思考方法を変えて、もっとクリスチャンらしい態度を取ることだけです」と考える人もい るであろう。まるで、イエスの「宴会」に加わる以上のことは求められていないかのようである。しかし、そういうことではない。例えば、ある嘘つきが福音に 捕らえられて、光が彼を照らし、何か劇的な変化が生じたとしよう。今、彼の嘘はどうなるのか? 信じているからといって、嘘をまったく見過ごしてしまうのだ ろうか? 否、征服者なる御方は嘘の背後に隠れているもの――その人を縛っている地獄の力――を暴き出して征服されるのである。もしこの力が退けられないなら、それは勝利でも贖いでもないのではないだろうか?

 
贖いが我々の生活の中に訪れない限り、たとえ我々が自分をクリスチャンと称してい たとしても、我々は王国に対する妨げなのである。罪の束縛、死の束縛、地獄の束縛は断ち切られなければならない。何か全く新しいことが我々に起きなけれならない。何かが本当に神から到来して、我々の生活を新しい方向に転換させなければならない。これが信仰である。要するに、小さな事にせよ大きな事にせよ、我々はイエスと共に戦う者にならなければならないのである。その時、我々は永遠の希望の確かさを知るであろう。

 それゆえ、心配するのではなく、戦わなければならない。たとえ多くのことで苦しみ、耐え忍ばなければならなかったとしても、我々は確信していることができる。なぜなら、死の中にさえ命は到来するからである。助けを求めて叫ぶ者は皆、暗闇の支配から救出されるであろう。我々のなすべきことはただ、自分自身を犠牲にして忠実であり続けることである。自分自身の願望に仕えて安楽な生活を求める代わりに、我々は物質的所有や霊的所有をすべて彼に明け渡して戦わなければならない。イエスが全世界を支配しておられるので、我々はこれを証ししなければならないのである。


PR