忍者ブログ

私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

もうしばらくすれば、 来るべき方が来られる。遅くなることはない

「インターネットなどをしているから荒野の40年なんだよ、そんな暇があったら、聖書を読み、祈りなさい」と、ある兄弟が言った。

証をする方法はブログの他にも多くあり、何よりも、生きて交わらなければならない多くの兄弟姉妹がいる。少しずつ、周りに兄弟姉妹との今までになかった交わりが生まれ、キリストの復活の証し人として現実に生きることが求められている。

さらに、私は今のところ語るよりも、聞くことに早くなるべきである。生きた交わりの中で語り合い、主の御前に安息しつつ、御霊に聞いて過ごしたい。こうしてキーボードを打つ力も衰え、長い文章を書くのは疲れ、随分、ミスタッチが多くなって来た。だから、兄弟たちよ、確かにこのブログという発信方法は間もなく終えるものと思う。そして、証は別の形で続行していくことになるのではないかと思う。

さて、今日、深く考えさせられることがあった。それは私が過酷な生活を送っていた月日の間に、どれほど自分の無力に耽溺し、またそれと同時に、自己憐憫を心に受け入れ、私の無力を明るみに出すものに対して、激しく抵抗していたかということであった。

この世情であるから、今まで魂をすり減らされるような過酷な出来事が数多くあった。しかし、その中をくぐる間に、私が理不尽だという思いを心に溜め込んでいたこと、それが罪であり、それによって、私は死の力へと引き寄せられて、キリストのまことの命から遠ざかっていたのだということが分かった。

この理不尽だという思いを捨て去らなければ、人はあまりにも簡単に弱くされてしまう。自己憐憫はあっという間に人を自分が思うとおりの惨めな者としてしまうのだ。それは私たちが、キリストが十字架で打ち立てられた事実を退けて、サタンの虚偽を受け入れることであり、自分への神の取り扱いは理不尽だという思いから始まる。

サタンの虚偽とは、いつも神の人間に対するお取り扱いは理不尽だという思いから始まる。そして、神に逆らって自分を義とするために、偽りの強さを身にまとうようそそのかす。だから、どんな出来事があっても、その思いが自分に侵入することを許してはならない。これは、一見、正しい思いのように見えて、その実、神への不信と密接に結びついている。そしてゆくゆくは神に対する反逆となっていくのである。

もしもこの世の理不尽な出来事に対して、逐一、私たちがその理不尽さに憤っているようであれば、私たちは自己憐憫と手を切れないばかりか、いつか生来の義憤によって立ち上がらされてしまうだろう。

このことは決して、不正に鈍感であれということとは違う。確かに、聖徒らを苦しめる多くの不条理な出来事が存在するのであり、聖徒らはそれを神に訴えることができる。神は正しい裁判官であり、公義をもたらすことができる方であり、最も弱い聖徒をも守って下さる方である。

しかし、神を真に信頼するならば、私たちは自分がどん底にいるように思える暗い出来事に対しても、自分自身がどんなに理不尽に扱われているように思われる時にも、決して自分の中に生来の怒りが蓄積することを許してはならない。まして、自己憐憫が心にはびこることを許してはならない。また、人間的な方法でそれに立ち向かおうとする誘惑を許してはならない。

どんな理不尽な出来事の中にも、キリストの十字架における勝利は不動であることを信じるべきである。いや、それを解決することができるのは、ただキリストの十字架だけであることを堅く信じ、主がその勝利をすでに実現して下さったことを信じるべきである。

そして、この主と共なる十字架において、世だけではなく、私自身もはりつけにされたという事実を決して忘れてはならない。世だけがはりつけにされたのではない。世と、生まれながらの私(肉)とは同じ起源なのであり、ともにサタンから来ている。キリストはそのどちらもに十字架において死刑宣告をされたのだ。だから、何よりも、ゴルゴダにおける自分自身の死、それにとどまらなければ、私たちにはいかなる正義もないどころか、ただ神への反逆があるきりである。自分自身を地獄の通路としてはならない。もし義憤によって立ち上がるなら、私たちは簡単に誤った道へ、サタンの道へと逸らされるだろう。

さらに、私たちの肢体は神に捧げられた義の武器なのであるから、苦しみを味わっている間も、神を賛美する喜びを保ち続けるべきである。苦しみに耽溺し、絶望だけを見つめ、自己憐憫にふけって、自分のために涙を流すことや、生来の義憤に身を任せることは、私たちの思いや身体をただ不義の武器としてしまうだけである。それは大いなる罪であって、どんなに周りにいる全ての人々に無用な苦しみをもたらすだろうか。

何よりも恐ろしいことには、自己憐憫の罪は、私たちを辱め、打ち負かしたように思われる人々に対して、私たちを憎しみを持って奮起させてしまうことである。それはただ強い人々に対する反抗になるだけではなく、最後には、あらゆる権威に対する反逆となり、生まれながらの自分自身を正当化して神の聖徒らに対抗し、神に対抗するという道を選ばせるのである。

だからこそ、そのような感情は根こそぎ十字架で対処されなければならない。自己憐憫にふける罪を軽く見てはならない。自己を保とうとする全ての見栄とプライドを主と共なる十字架で死に渡し、私たちの罪や恥が人前に最も明るみに出されるときでも、それを喜んで受け入れるべきである。不正な出来事に遭遇する時にも、そのうわべだけを見て憤るのではなく、主の御手を見るべきである。犯していない失敗を責められる時でさえ、それも主の御手から来たものとして受け取るべきである(これは無実を弁明してはならないと言っているのではない。その出来事のゆえに憤りと自己憐憫が心に忍び込むのを許してはならないということである)。

いかなる時にも自分を自分で罪なしとしようとはせず、塵と灰をかぶって悔い改めることこそ神の御前での自分自身の当然の態度であることを信じつつ、その態度をあらゆる兄弟姉妹の前で保ち、そして、それができずにいたことを己が罪として正直に告白しつつ、だがそれと同時に、主が憐れみを持って、私たちの罪を赦してくださり、裸の恥を覆って下さり、王族の衣装を着せて下さったことを信ずるべきである。その赦しがあればこそ、私たちは御前に進み出ることができるのである。

思えば一人で生きていて助けを拒んでいたとき、自分で自分を守らねばならないという誤ったプレッシャーの中にあって、私はどれほど弱くされて来たことだろう。自己の死というものを徹底的に受け入れることを避けて、自分の強さを保とうとしたために、どれほど涙の内を歩まねばならず、弱くされてきただろう。未だにそのような習慣から抜け出せているとは言えないものの、私は自分を最も苦しめ、最も理不尽だと感じさせられてきた問題についても、今、塵と灰をかぶって悔い改めるべきは自分であることを真摯に受け入れるのである。

私の今の弱さは、神の強さから遠ざかったことから来るのであり、それは憐れまれるべき弱さではなく、むしろ、罪であると神の御前に認めねばならない。神が共におられるなら、もっともっと私は弱い時にこそ強いといえるはずなのである。そして、私が到底打ち勝つことのできないような強さを持っていた人々に対して、私が心の底に無意識に持っていた反感や、憤りや、悲しみ、そしてできるならば事実(自分の弱さ)を暴かれたくないという思い、また、遭遇した色々な出来事に対して持った憤りも、全て、主と共に死に渡されるべきものなのである。

これらの理不尽に対して憤り、そして、何とかして自分を保って生き続けようと試行錯誤して来た私は、キリストと共に死んだ。キリストこそ、これら全ての出来事に対して永久の解決をもたらして下さったのだ。キリストにあって、すでに解決はもたらされたのだ。すべてはこの方にあって完成されているのである。ただキリストがおられるからこそ、私はどんなに相容れないように見える人々とも、信仰によって一致に至ることが可能なのであり、どんなに恐ろしい理不尽な出来事の只中をも生きることができるのである、あの火の中を歩き回った三人のように。キリストがおられるからこそ、私は罪赦されることができ、また、人々の罪を赦すことができる。そして、神は私が最も弱く、粉々に砕かれて、恥をまとっているような時にこそ、助け主として共にいて下さり、神の恵みは私に対して十分であると言われ、私の弱さを憐れみを持って覆って下さり、私が弱い時にこそ強いことを信じよと言って下さるのだ。

だから、私は神の強さを信じないで自分の弱さに耽溺したことを、御前に罪として悔い改める。そして、私が心の中で悲しんできた全ての出来事に別れを告げて、喜びを持って、今こそ、ハレルヤ!と叫びたいと思う。

ハレルヤ! どうか主が私を心の底から喜ばせて下さるように。どうかこの痛みと涙に満ちた全ての問題に、まことの解決となってご自身を現して下さるように。どうか私がこの弱さを握りしめていた間に生じた全ての対立を終わらせて下さるように。主は私の弱さから私を解放して下さった。もし私さえ同意するなら、私の限界を、主は打ち破って働かれるだろう。それをなすことができるのは、ただ主のみなのだ。

だから、もうこれ以上、泣き言は言うまい。もうこれ以上、自分の限界で自分を縛るまい。そして、人々との比較によって打ちのめされることもするまい。そして、たとえ毎日が戦いのようであっても、勇気を持って立ち向かって行こう。私たちはキリストと共に凱旋する者、キリストにあって勝利者なのだから。

* * *

人生は下りのエスカレータに乗って上へ行こうとすることに似ている。もしくじけるならば、あっという間に下へと引き下ろされてしまう。私がくじけていた間、不信仰によってどこまで引き下ろされたのか分からない。もう誰にも出会えないほど下へ行ってしまったのかも知れない。天に上ることを夢みていたのに、地獄が隣りに見えるほど下ろされてしまったのかも知れない。取り返しはつくのか――。

だが、たとえそうであっても、私は天を見上げ、この死の力に全力で抵抗しながら、日々、上へと駆け上がる。ただ信仰によって、一人の方だけを見つめて、死の力に抵抗し、いのちを目指して歩む。どうか、大祭司なるキリストが私たちの弱さのためにとりなして下さるように、どうか主が速やかに来られて私たちの涙を拭い、全ての労苦をねぎらって下さり、全ての罪と悪の力から私たちを解放し、完全な贖いへと入れて下さる日が来ますように。主の憐れみが聖徒ら一同の上に豊かにありますように――。

「もうしばらくすれば、
来るべき方が来られる。おそくなることはない。
わたしの義人は信仰によって生きる。
もし、恐れ退くなら、
わたしのこころは彼を喜ばない。」(ヘブル10:37-38)

「しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬべきものが不死を着るとき、『死は勝利にのまれた。』としるされている、みことばが実現します。

『死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。』

死のとげは罪であり、罪の力は律法です。
しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。

ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだではないことを知っているのですから。」(Ⅰコリント15:54-59)


PR