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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

あなたは私があなたを救う主、 あなたを贖うヤコブの全能者であることを知る

「兄弟たち。あなたがたの中では、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れるものがないように気をつけなさい。『きょう。』と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。

『きょう、もし御声を聞くならば、
 御怒りを引き起こしたときのように、
 心をかたくなにしてはならない。』
と言われているからです。

聞いていながら、御怒りを引き起こしたのはだれでしたか。モーセに率いられてエジプトを出た人々の全部ではりませんか。神は四十年の間だれを怒っておられたのですか。罪を犯した人々、しかばねを荒野にさらした、あの人たちをではありませんか。

また、わたしの安息にはいらせないと神が誓われたのは、ほかでもない、従おうとしなかった人たちのことではありませんか。それゆえ、彼らが安息にはいれなかったのは、不信仰のためであったことがわかります。

こういうわけで、神の安息にはいるための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれにはいれないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。

福音を聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。信じた私たちは安息にはいるのです。」(ヘブル3:12-19,4:1-3)


ここのところ、私の内側にある問題が厳しい取り扱いを受けているので、苦しい日々が続いた。その問題とは、敵の恐るべき襲来の中、困難の中を通らされる時でさえも、私はいつもそれを自分一人の信仰の力だけで切り抜けようとして、御身体から確かに受けられる助けがあることを信じなかった、という問題であった。それゆえに、幾たび人生に著しい敗北がもたらされてきたか知れないのに、まだこの個人主義の弊害から私は抜け出せていなかった。

それは長年に渡り、私の人生に蓄積されてきた環境病のようなものであった。だが、今ここに来て、それを捨てよと求められている。神に属さない全ての経験は無価値であると主は言われ、私が絶えず主につながっていてこそ、初めて、私のすべてが生かされるのだと教えられる。そして、キリストにつながっているのに、御身体につながっていないなどということはありえないのだ。

神は私の個人主義を徹底的に粉砕し、何か別のところへ私を導こうとしておられる。そのようにして、私が自己をキリストと共に十字架につけて死に渡し、自己の殻(独立)を取り除いた上で、教会をキリストを頭とする一人の人として、キリストの意志に手足のように滑らかに従う、強力な軍隊のように立て上げようとしておられるのだ。

個人主義の弊害というものがどれほど御身体全体に打撃を与えることか考えて見なさい。霊的命が欠乏すれば、肉体的な生存も不可能になるのだ。自分を守ろうとする者は自分の命を失う。もしキリストの内に完全に自分の命を失っているのでなければ、ついには生きられないときが来よう。

その上、エクレシアがキリストを生み出す作業は兄弟姉妹の共同作業であり、決して一人でできることではない。体の各部分が一致協力し、助け合わねば、神の望んでおられるように、キリストの御身体が完成に至ることはなく、そして、エクレシアが敵の圧迫に立ち向かう要塞となり、軍隊のようになることはないのだ。

それなのに、私の中に抵抗するものがあって、私は未だに主と格闘していた。それはちょうどモーセが燃える柴の前で神の召しに抵抗した時のような葛藤であった。

「ああ主よ。私はことばの人ではありません。以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。私は口が重く、舌が重いのです。」

主は彼に仰せられた。「だれが人に口をつけたのか。だれがおしにしたり、耳しいにしたり、あるいは、目をあけたり、盲目にしたりするのか。それはこのわたし、主ではないか。さあ行け。わたしがあなたの口とともにあって、あなたの言うべきことを教えよう。」
すると申し上げた。「ああ主よ。どうかほかの人を遣わしてください。」(出エジプト4:10-13)


これに対しては、「主の御怒りが燃えあが」った、とある。召しを避けようとしても、避けられない、どんなに私たちが自分の無力を訴えても、神はその人をつかんで放さない。「神の賜物と召命とは変わることがありません。」(ローマ11:29) それでもなお私は、なぜですか?、とひたすらに問い続けていた。どうしてもとおっしゃるのであれば、あなたがこの私の裸の恥の上に、キリストを着せて下さらなければいけません…。

生まれながらの自分自身に立って生きるのなら、私は敗北以外のものは何も味わえず、決して安息に入ることはできない。だが、キリストの御業に立つならば、神のご計画は必ず成就するのだ。さあ、今、決めようではないか。どちらを選び、どちらを信じるのか。生まれながらの自分自身としていつまでも荒野で惨めな敗北の中をさまよい続け、ついには不従順のゆえに御怒りによって打ち倒されることを願うのか。それとも、神の安息に入ったのなら、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざをやめて休み、キリストが完成してくださった御業に基づいて勝利者として凱旋するのか。

主は召された者たちを呼んで言われる、私の安息の中に入れと。これ以上、不従順のゆえにさまよってはならない。なぜ信じないのか、私があなたを完全に贖ったのだと。私があなたを洗い、あなたに着せ、あなたを飾る、私があなたを整えて、私の花嫁とする。起きよ、光を放て。さめよ、美しい衣をまとえ。帰れ、主に贖われた者たちよ、悲しみの涙を拭い、喜びを持って主に帰れ。主があなたを呼んでおられるからだ…。

「雲のように飛び、
 巣に帰る鳩のように飛んでくる者は、だれか。
 まことに、島々はわたしを待ち望み、
 タルシシュの船は真先に、
 あなたの子らを遠くから来させ、
 彼らの金銀もいっしょに、
 あなたの神、主の名のために、
 イスラエルの聖なる者のために運んでくる。
 主があなたを輝かされたからである。

 外国人もあなたの城壁を建て直し、
 その王たちもあなたに仕える。
 実に、わたしは怒って、あなたを打ったが、
 恵みをもって、あなたをあわれんだ。
 あなたの門はいつも開かれ、
 昼も夜も閉じられない。
 
 国々の財宝があなたのところに運ばれ、
 その王たちが導かれて来るためである。
 あなたに仕えない国民は滅び、
 これらの国々は荒廃する。
 レバノンの栄光は、もみの木、すずかけ、檜も、
 共に、あなたのもとに来て、
 わたしの聖所を美しくする。
 わたしは、わたしの足台を尊くする。

 あなたを苦しめた者たちの子らは、
 身をかがめてあなたのところに来、
 あなたを侮った者どもはみな、
 あなたの足もとにひれ伏し、
 あなたを、主の町、
 イスラエルの聖なる方のシオン、と呼ぶ。

 あなたは捨てられ、憎まれ、通りすぎる人もなかったが、
 わたしはあなたを永遠の誇り、
 代々の喜びの町に変える。 
 あなたは国々の乳を吸い、王たちの乳房を吸う。

 あなたは、わたしが、あなたを救う主、
 あなたを贖うヤコブの全能者であることを知る。」(イザヤ60:8-16)


* * *
 
以下の雅歌の御言葉は主の花嫁が主の御前にどのような者であるか(どのような者であるべきか)を示している。それはただ美しく愛らしい花嫁であるばかりでない。キリストの愛の旗を掲げる恐るべき軍隊のような者である。

シュラムとはソロモン(安息)の女性形であり、ここでは、花嫁と安息(キリスト)との結合は完全である。花嫁にはもう罪と腐敗の痕跡がほとんど見られない。神はご自分の花嫁を慕い求め、そして、女たち、そばめたちも一緒になって、花嫁の美を歌い上げる…。

花婿のもとへ運び去られる花嫁に、女たちの眼差しは自然に引き寄せられる。帰れ、帰れ、シュラムの女よ、私たちはあなたを見たい、花嫁を引き止めるような彼女たちの呼び声は、ご自分の花嫁を切に見たいと願って、ご自分のもとへ召し出されようとする主の願いにも、なぜか重なって響く…。花嫁の完成は主の切なる願いであり、実に全被造物が切なるうめきを持って、キリストの贖われた花嫁の完成を待ち望んでいるのではないかと思えてならない…。

「わが愛する者よ。
 あなたはティルツァのように美しく、
 エルサレムのように愛らしい。
 だが、旗を掲げた軍勢のように恐ろしい。

 あなたの目を私からそらしておくれ。
 それが私をひきつける。
 あなたの神は、ギルアデから降りて来る
 やぎの群れのよう、
 あなたの歯は、洗い場から上って来た
 雌羊の群れのようだ。
 それはみな、ふたごを産み、
 ふたごを産まないものは一頭もいない。

 あなたの頬は、顔おおいのうしろにあって、
 ざくろの片割れのようだ。
 王妃は六十人、そばめは八十人、
 おとめたちは数知れない。
 汚れのないもの、私の鳩はただひとり。
 彼女は、その母のひとり子、
 彼女を産んだ者の愛する子。
 娘たちは彼女を見て、幸いだと言い、
 王妃たち、そばめたちも彼女をほめた。

 「暁の光のように見おろしている、
 月のように美しい、
 太陽のように明るい、
 旗を掲げた軍勢のように恐ろしいもの。
 それはだれか。」

 私はくるみの木の庭へ下って行きました。
 谷の新緑を見るために。
 ぶどうの木が目を出したか、
 ざくろの花が咲いたかを見るために。
 私自身が知らないうちに、
 私は民の高貴な人の車に乗せられていました。

 帰れ。帰れ。シュラムの女よ。
 帰れ。帰れ。私たちはあなたを見たい。
 
 どうしてあなたがたはシュラムの女を見るのです。
 二つの陣営の舞のように。
(雅歌6:4-13)


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