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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

義人はいない、ひとりもいない。

「私は、こう思います。神は私たち使徒を、死罪に決まった者のように、行列のしんがりとして引き出されました。こうして私たちは、御使いにも人々にも、この世の見せ物になったのです。

私たちはキリストのために愚かな者ですが、あなたがたはキリストにあって賢い者です。私たちは弱いが、あなたがたは強いのです。あなたがたは栄誉を持っているが、私たちは卑しめられています。

今に至るまで、私たちは飢え、渇き、着る物もなく、虐待され、落ち着く先もありません。また、私たちは苦労して自分の手で働いています。はずかしめられるときにも祝福し、迫害されるときにも耐え忍び、ののしられるときには、慰めのことばをかけます。今でも、私たちはこの世のちり、あらゆるもののかすです。」(Ⅰコリント4:9-13)


これまでブログ記事を書くのはやめるようにとの忠告を何度か受けた。だが、私は思う、主の時が来たら、望んでいてもきっと書けなくなる日が来るだろう。それまでの間、どんなに私が弱くとも、主の御名だけを高く掲げ、ただ神に栄光を帰し、御国が到来していることを告げ知らせ、神がどんなに私たちに良くして下さったかを証し、そして、霊的な敵のあらゆる圧迫に打ち勝つために、大胆に証の言葉を述べるのをやめてはならないと思う。

実のところ、真理に立って、主の御名を証しすることにはますます栄光がなくなりつつある。パウロが述べた通り、キリスト者は次第に死刑囚のようにされつつある。キリストの名のゆえに、まるで行列の最後に引き出される者のように、天にも地にも、見せ物のようにされている。私たちはキリストのゆえに愚か者となり、気のふれた者のようになった。弱くされ、卑しめられ、栄誉を奪われ、飢え、渇き、着る物もなく、落ち着き先もない。辱めを耐え忍び、それでも慰めの言葉をかけ、祝福するようにと求められ、この世でまるで価値を持たない者のようになりつつある…。

* * *

この一週間というもの、私は葛藤の中にいて動揺していた。私の内側にある腐敗が表に出され、痛みを伴う手術が開始されたからだ。アダムにある私の自己は激痛のために悲鳴を上げ、助けてくれと命乞いをして叫び出す。(手術は今も続行中である。)そのため、自分はもう駄目なのだろうか、恵みから落ち、二度と回復の見込みはないのだろうかと思い、手が震え、恐ろしさのあまり失敗をし、神に真剣に憐れみを乞うた。神の憐れみの深さはとても深く感じられたのだが、私自身が、まるでカインのように御前に顔を上げ得ない心境であった。

人はみな生まれながらにして神の御前では腐乱死体だという言葉が、以前、私はとても好きであった。ローマ人への手紙にはこうある。

「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」
「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。」
「彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、」
「彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。」
「彼らの足は血を流すのに速く、彼らの道には破壊と悲惨がある。また彼らは平和の道を知らない。」
「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」(ローマ2:10-18)


かつて私はこの御言葉が気に入っており、まさに自分こそ腐乱死体出身の人間であり、死体の山の中から、神が憐れみを持って私を掘り起こし、死んで当然だった私をキリストと共に生かして下さったその幸いを忘れなかった。

なのにいつの間にか、私は腐乱死体ではなくなろうとしていた。自分の出自を自分で否定しようとしていたのだ。いつの間にそのような思いが入り込んだのか知らないが、これが自己のパン種である。それに気づいた時から、御言葉のメスとの格闘が始まった。

キリスト者が神から受ける取り扱いは、主の御前で自分がどれほどひどい病人であるかを、どのくらい事実に即して、正直に認めることができるかによって決まってしまう。病人には治療を受けずして治る見込みはないのだ。まして腐乱死体には死と墓が当然の報いであって、それを拒むことは、神の真実から目を背けることと同じだ。私たちにはキリストと共なる十字架の死によってしかアダムの命にある呪われた人生から抜け出る道はない。

しかし、しようと思えば、神の御前で自分は病人ではない、と言い張ることも可能だ。あるいは、病気と縁を切りたくないので、癒される必要はないと言うこともできる。ある人たちは、あまりにも長い間、病気に慣れ親しんだために、病気をまるで人生の伴侶のように考えて、これと縁を切ることを望まない。むしろ、病気であること(=腐乱死体であること)がどういうわけか光栄あるステータスにさえなっているのだ。だから、それと縁を切るように言われると、ひどく立腹し、病人扱いしないで欲しい、私の弱さや病気を思いやりを持って扱って欲しい、私を差別しないで、正常にみなして欲しい、私は腐乱死体などではなく、愛すべきひとかどの人間である、なのに、あなたの言うことは人間に対する冒涜であり、中傷だと反論するのである。私には癒されなければならないような欠点は何もない、と言うのである。

だが、このように自己義認してしまえば、キリスト者はそれ以上、進んで行くことができない。その人は神の取り扱いを拒んだだけでなく、アダムの命を擁護したその罪のために、何か恐ろしいことがその身に起こりさえするだろう。神はその人をアダムの命がどのようなものであるかを証明するための生きた見本とされるだろうから。

だから、アダムの命を擁護する人の行く末は例外なく同じなのである。御言葉を読んでみよう、生まれながらの人間を擁護する人たちは、神から迷い出て、義を行わなくなり、無益な者、御霊の知恵を見失った愚か者となり、その人の喉は開いた墓となり、その舌は欺きを語るようになり、その言葉は呪いと苦さとで満ち、憎しみが心に満ちて、ついにその人の足は罪のない人の血を次々と流すことに走るようになり、破壊と悲惨とが人生につきまとうようになる。その人は平和の道に戻ることができず、実を結ばない枝として切り捨てられ、焼かれてしまう。

神はアダムの命に対し、御子の十字架を通して滅びを宣告された。それがアダムにある人間の全ての自己が受けるべき刑罰である。それなのに、神が滅びを宣告されたものを擁護するということは、神の御業を否定することに等しい。なぜなら、神はこのアダムの命の罪と腐敗から私たちを救い、御子の汚れない復活の命によって生かすために、御子を十字架につけて下さったのだ。それなのに、私たちがアダムの命を擁護するなら、それは御子の十字架を否定し、復活の命を拒むことを意味する。だから、それはやがて神ご自身に対する反逆になってしまう。

だからこそ、私たちは自分のアダムの出自に対しては、聖書が宣告した通りの宣告を、そのまま受け入れなければならないのだ。アダムの生まれにあって、私たちは生まれながらにして自分の正体が、上記のローマ人への手紙の御言葉の通りの罪人であることを認めなければならない。望むと望まざるとに関わらず、それが神の事実である。どんな人生をこれまで生きて来たにせよ、どんなに自分が同情に値するにせよ、生まれながらの自分は(肉は)神の御前に何の役にも立たず、廃棄されるしかないことを認め、アダムにあるありのままの自己を擁護することは、神の御前にれっきとした罪であることを認めなければならない。アダムにある自分を美化しようとしたり、その本当の姿から目を背け、生まれながらの自分のために涙を流したり、そうするように他人に要求することは、恐ろしい罪でさえあるのだ。アダムにある自己にふさわしいのは死と墓、それだけである。生まれながらの自己に憐れみをかける必要はないし、弁明の機会も与える必要はない。

「悔い改めよ、神の国は近づいた」、バプテスマのヨハネも、主イエスもそう語った。神の国の只中に生きることと、悔い改めとが切り離せない関係にあるのだ。この悔い改めとは、ただもろもろの罪の悔い改めを意味するだけでなく、アダムにある単数形の罪が取り扱いを受けることとも、きっと深い関わりがあるのだろう。

生まれながらの自分の罪深さをあるがまま事実として認め、恐れ、おののいて主の御前に出ること、それが自分に対する正しい取り扱いである。もちろん、私たちの側で出来ることは、ただ祭壇の上に自分を横たえ、主の御名を呼んで憐れみを乞い、御業を求めること、それだけである。その後は、神のなさることである。私たちはただアダムの罪なる命を主と共なる十字架でどこまでも死に渡し、その古き命にあるすべてが神の目に忌まわしいものであることを率直に認め、それと訣別することを心から望みつつ、自分に対する神の御言葉(十字架)の生涯に渡る取り扱いに深く同意することである。

主の深い取り扱いが迫って来るとき、自分の病を認めることが、とてもつらく感じられる時がある。苦しんできた年月があまりにも長いため、自分を憐れみたい気持ちになって叫んで言う、神よ、どうしてこのような責任を私が負わされて、私が死ななければならないのですか、どうして私をお見捨てになるのですか。

しかし、その絶望の叫びを主イエスが十字架で担って下さったのである。我が神よ、どうして私をお見捨てになったのですか、と。もしもこの道からそれることができたなら、私は苦しみを軽減し、楽になることができるだろう。もし自分で自分を十字架から救うことができたなら、人前で罪を告白し、死の中にとどまり続ける苦労からも解放されるだろう。生まれながらの魂は言う、十字架を避けよ、十字架から降りて自分を救え、神を罪定めして、自分を栄光化し、悔い改めを拒めと。

しかし、生まれながらの人が十字架の死を避けようとすることは罪なのだ。そのような恐ろしい盲目的誤謬に陥ってはいけない。どうして神の宮である私が自分で自分を滅ぼして良かろうか。どうして前述のローマ人への手紙にあるような人生を辿って良かろうか。

だから、私は主イエスと共に十字架につけられた、その事実にとどまるのである。主と共に十字架につけられたあの強盗のように、私たちも主イエスの憐れみにすがることしかできない。自分が簡単に無罪放免されることを願っているのではない。痛みの記憶がなければ、人は容易にすべてを忘れてしまうからだ。だが、それと同時に、罪の増し加わるところには、恵みも増し加わるという御言葉が思い出されるのだ。

それはきっと、罪の悔い改めや、罪からの解放を願う心が増し加わるところには、恵みも増し加わるという意味なのであろう。多分、一度も取り扱われたことのなかった問題が、今、取り扱いを受けている、それによって何かとても新しい、未だかつてない新しいことが、私にも、他の人々の身にも、及ぼうとしているように思われてならない。それはいのちがあふれ出すためには避けては通れない、一粒の麦の殻が割られ、打ち破られるための神の手術の行程なのだ。神はその硬い殻は要らないと言われる、その中にあるもの、あなたの柔らかく、熱い心を私に差し出せと言っておられるのだ。

私たちとて好んでその殻を身につけているわけではなく、切にうめきながら、神の取り扱いを望んでいるのだ。そのうめき苦しみはその中にいる人でなければ決して分からない。だが、あの長血の女に語りかけたように、主は憐れみを持って私たちに語りかけて下さる、アブラハムの娘よ、と。長年に渡り、サタンに苦しめられてきた長血の女を憐れまれたように、私たちにも、アブラハムの娘よ、と言って触れて下さる。

神は私たちの創造者であるから、私たちの完全な取扱説明書を持っておられる。ただ神だけが私たちの内側で、不要なものを破壊し、新たに立て直す十字架の働きをすることができるのだ。神が着手されたことは、必ず、成就する。神の取り扱いは正しいのだ。今まで一度も解放されることもなく、長年、憐れみもかけられることなく、気づいてさえもらえなかった深刻な問題から、ついに解放されるときが来たとは、栄えある幸いではないだろうか。

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