忍者ブログ

私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

主に贖われた者たちは帰って来る。 彼らは喜び歌いながらシオンに入り、 その頭にはとこしえの喜びをいただく

昨夜、家に帰り、涙と叫びを持って祈っていると、FMラジオのフランクのヴァイオリンソナタが耳に入ってきた。キリストの復活と再臨を謳っているようにしか思えない終楽章のエンディングであった。

楽観だと叱られるかも知れない。だが、私にはこの地にやって来たばかりの頃がしきりに思い出されてならないのだ。ここが、生ける水の川々が溢れ、流れ出す拠点となることだけを願った。それから、挫折や、死に満ちた時が流れ、長い無意味な苦悶が続いたかのようであった。だが、今や本当に御霊の雨がこの地に降り注ぐときが近づいているように思えてならない。

生ける水の川々とはキリストの命であり、キリストご自身のことである。エクレシアはキリストを産む者であり、ここから命の水が溢れ、流れ出さなければおかしいのである。御霊ご自身の治める上なるエルサレムは、神の子供たちを産む母であり、キリストを産むことは、私たちの共同作業、兄弟姉妹の共同作品である。

それなのに、エクレシアはまるで夫のない女性か産まず女のようであった。誰もがいのちを待ち望んでいるのに、その信仰はまるで何も生み出さないかのようであった。どのようにして生ける水の川々が流れるのか? いつになれば、命を見ることができるのか? 長い沈黙の時が続く。だが、その苦しみは被造物全体がこうむっている産みの苦しみ(ローマ8:22)に他ならず、聖徒らがキリストを生み出すために通らなければならない苦しみでもあった。

「あなたがたは悲しむが、しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。女が子を産むときには、その時が来たので苦しみます。しかし、子を産んでしまうと、ひとりの人が世に生まれた喜びのために、もはやその激しい苦痛を忘れてしまいます。あなたがたにも、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなたがたに会います。そうすれば、あなたがたの心は喜びに満たされます。そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。」(ヨハネ16:20-22)

もちろん、これは直接的にはキリストの十字架の死と復活のことを言っているのである。だが、このことは幾分か、エクレシアがキリストを生む者とされるまでの苦しみにもあてはまるのではなかろうかと私は思う。それもまた小さな十字架だからだ。とにかく、私たちは、たとえ長い間、死のような沈黙の中を通らされるとしても、御約束の通り、自分自身からキリストのまことの命が川となってほとばしり出ることを信じるだろうか?

マリヤは御使いに言った、「どうして、そんな事があり得ましょうか。わたしにはまだ夫がありませんのに」(ルカ1:34) しかし、それでも、彼女は信じたのである。同様に、エクレシアからキリストが生まれることも、神のなさる奇跡以外のなにものでもない。それは人間の能力によらず、権勢によらず、ただ神の霊によるのである。御使いはマリヤの疑問に答えて言った、「神にとって不可能なことは一つもありません。」(ルカ1:37) 

主イエスは祭りの終わりの大いなる日に(終わりの日の象徴でもある)立って大声で言われた、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から(腹から)、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:37-38) と。

私たち一人ひとりは内側においてすでに主に出会っていると言うかも知れないが、あのペンテコステの日のように、主の霊が人々に注がれるときが来る。今は主の死に遭遇した弟子たちのように一所にとどまっている人たちが、力を帯びて出て行く日が来る。私たちは世からも全てからも見捨てられてしまったように思い、渇いているかも知れない。その上、こんなささやきが聞かれるかも知れない、「ナザレから、なんのよいものが出ようか」(ヨハネ1:46) だが、そのように言ったナタナエルが、次の瞬間、イエスの言葉を信じたのだ、「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。」(ヨハネ1:51) 

ヤコブが天の梯子を見たのは、彼が父を欺き、兄エサウを出し抜いて長子としての祝福を受け、追われるようにして家を出たその旅の途上のことであった。ヤコブの命は危険にさらされ、彼は自分が神の祝福を受けるに値する証拠を何一つ見いだせなかっただろう。しかし、「…彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の御使いたちが、そのはしごを上り下りしている。そして、見よ。が彼のかたわらに立っておられた。そして仰せられた。

『わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、である。わたしはあなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫とに与える。あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西、東、北、南へと広がり、地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」(創世記28:12-15)


このヤコブへの神の約束を、私たちはキリスト者に対する神の約束の予表として見ることができる。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ16:15) 「主はこう言われるのです。『わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」(ヘブル13:5) もちろん、アダムの命にあって子孫を増やすことではなく、キリストの命が私たちにあって多くの人々に分け与えられることが、私たちに与えられた使命である。地理的な領土を征服することではなく、キリストの御霊の統治をこの地にもたらすことが、私たちに与えられた使命である。

このような約束に対して私たちはどう応答するだろうか。主の御許へ行きさえすれば、私たちの渇きが潤されるだけでなく、まことの命が、尽きることのない生ける水の川々となって私たちから流れ出し、全地を潤すことを信じるだろうか? 神の子供たちを通して、キリストの命が全土にもたらされることを信じるだろうか? この私には到底似つかわしくない、値もしない、不可能に見えるこの約束を受け取るだろうか? マリヤのように答えるだろうか、「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」(ルカ1:38)

主イエスは弟子たちに向かって言われた、「…わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」(ルカ24:49)
「…聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒1:8) 


まるで夫のない女のようであったエクレシアがまことの主人である方に巡りあい、この方を知り、上から力を着せられる時が来る。そこからキリストの命の流れがほとばしり出て、主によって心を捕えられた男女が、危険をも死をも、ものともせずに、地の果てまでキリストの復活の証人として大胆に出て行く日がやって来る。

「主が、言われる。
見よ。日が来る。
わたしが、イスラエルの家やユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る。
それは、わたしが彼らの先祖たちの手を引いて、
彼らをエジプトの地から導き出した日に
彼らと結んだ契約のようなものではない。
彼らがわたしの契約を守り通さないので、
わたしも、彼らを顧みなかったと、
主は言われる。

それらの日の後、わたしが、
イスラエルの家と結ぶ契約は、これであると、
主が言われる。
わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、
彼らの心に書きつける。
わたしは彼らの神となり、
彼らはわたしの民となる。

また彼らが、おのおのその町の者に、
また、おのおのその兄弟に教えて、
『主を知れ。』と言うことは決してない。
小さい者から大きい者に至るまで、
彼らはみな、わたしを知るようになるからである。
なぜなら、わたしは彼らの不義にあわれみをかけ、
もはや、彼らの罪を思い出さないからである。」(ヘブル8:8-12)


「神は言われる。
終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。
すると、あなたがたの息子や娘は預言し、
青年は幻を見、
老人は夢を見る。
その日、わたしのしもべにも、はしためにも、
わたしの霊を注ぐ。
すると、彼らは預言する。

また、わたしは上は天に不思議なわざを示し、
下は地にしるしを示す。
それは、血と火と立ち上る煙である。
主の大いなる輝かしい日が来る前に、
太陽はやみとなり、月は血に変わる。
しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。」(使徒2:17-21)


だから、

「弱った手を強め、
よろめくひざをしっかりさせよ。
心騒ぐ者たちに言え。
『強くあれ、恐れるな。
見よ、あなたがたの神を。
神は来て、あなたがたを救われる。」(イザヤ35:3-4)


「もしおそくなっても、それを待て。
それは必ず来る。遅れることはない。」(ハバクク2:3)


ただ失われた人生を神が回復して下さるだけではない。盲人の目が開かれ、耳の聞こえない人の耳が開かれ、足のなえた人が鹿のように飛び跳ね、口のきけない人が喜び歌うときが来る。その時、荒野に水が湧き出し、荒地に川が流れ、焼けた地は沢となり、潤いのない地は水の湧き出すところとなる。

「そこに大路があり、
 その道は聖なる道と呼ばれる。
 汚れた者はそこを通れない。
 これは、贖われたものたちのもの。
 旅人も愚か者も、これに迷い込むことはない。
 そこには獅子もおらず、
 猛獣もそこに上って来ず、
 そこで出会うこともない。
 ただ、贖われた者たちがそこを歩む。

 主に贖われた者たちは帰って来る。
 彼らは喜び歌いながらシオンにはいり、
 その頭にはとこしえの喜びをいただく。
 楽しみと喜びがついて来、
 嘆きと悲しみとは逃げ去る。」(イザヤ35:8-10)


PR