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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

神に選ばれた人々を訴えるのは誰ですか。神は彼らを義として下さるのです。


「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」(ヨハネ11:25-26)

 「真理とは何か」(ヨハネ18:38)とピラトのように尋ねる人に向かって私は語りました、私が今までに知った最も大きな真理はこうですと、「わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。わたしはキリストと共に十字架につけられた。」(ガラテヤ2:19) 「この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである。」(ガラテヤ6:14) 「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。」(ガラテヤ2:20)と。

 私たちはキリストと共に十字架につけられて死んだのです。私たちはこの方と共に十字架につけられて死んだ者であって、私たちの命はキリストと共に神の内に隠されているのです。「あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されているのである。」(コロサイ3:3) 

 キリストご自身が、真理であり、よみがえりであり、いのちなのです。私たちはこの方と共に死んだだけでなく、よみがえったのです。そして天に昇り、共に御座にまで引き上げられているのです。この真理に立たずしては、 いかなる自由もないのです。キリストと共なる死を認めないならば、復活に至る道はないのです。そして、この真理は私の知っていた教会では決して教えられることもなく、聞くこともできなかったのです。

 ピラトは博学であったかも知れませんし、人類愛にさえ立っていたかも知れません。彼はキリストには処刑される理由がないことを知っていたのです。そして、できるならば、宗教的争いを終わらせて、この方を無罪にするために何か手立てはないかとさえ思ったのです。しかし、ピラトは人間と世を知ってはいましたが、真理を知りませんでした。ピラトはこの世の政治には精通していたかも知れませんが、彼の目には神の復活の命に至る道が閉ざされていたのです。

 私たちはこの世の有様を見る時、あれやこれやの理不尽が終わることを願い、自分以外のさまざまなものが死ぬべきだと考えているべきかも知れません。しかし、断じてそうではありません。死ぬべきものは肉につける古き私自身なのです。これがサタンの支配するこの世の全ての理不尽な統治から私たちを救い出し、愛する御子の支配下に移すために神が取られた唯一の奇跡的な方法なのです。主イエスは私たちの旧創造のすべてを十字架で負って死に赴いて下さることにより、この旧創造に属する「わたし」というものに終わりをもたらして下さったのです。そして、その古き私の代わりに、キリストご自身の尊い命をもたらして下さり、神が意図しておられる新しい創造として、私たちを御子の復活の命と同じ命によって生かす道を開いて下さったのです。

「神の霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇とし、肉を頼みとしないわたしたちこそ、割礼の者である。」(ピリピ3:3)

 私はゴルゴダで主と共に処刑されたのです。この事実を認め、彼の死と復活を実際としていたたくことだけが、地獄の大軍勢が大挙して押し寄せ、猛攻撃を加えるときにも、その力から私たちを守るのです。どんなにヒューマニズムで武装しても、それによって自分を守ることは全くできません。しかし、御子と共なる十字架の死にとどまるならば、鳥は死体をついばむことはできても、復活の命には全く触れられません。

 今のあなたの状態が絶望的に思われるというだけであきらめてはなりません。「なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。」(ローマ8:13)と書いてあります。問題が明らかにされるなら、対処されるときが来たということです、まことの医者である方がついておられるのです、何を恐れる必要がありますか。

 十字架のより深い徹底的な働きが、私たちの思いと魂にも達しますように。からだだけでなく、魂の生来の働きも死に渡される必要があるからです。生い立ちも、気質でさえ、取り扱われる必要があるのです。アダムから来たすべてが終わらされなければならないのです(神は御子を通してそれら全てのものに死刑宣告を下されたのです、それらのものが一切無用であることを認めましょう。私たち自身から来るものではなく、キリストから来るものだけが神の御前に価値あるのです。)贖いの完全さを知るために、どれほど深く十字架の取り扱いを私たちは必要としているでしょうか。いずれにせよ、キリストの贖いの完全さがこの時空間を貫いて 永遠に至るほどであることを信じるのです。たとえ私たちの歩みが不完全であったとしても、子羊の血、神の義が、私たちの不義の代わりに、私たちを覆うことを信じましょう。

「永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか。」(ヘブル9:14) 

 もし私たちさえ同意するならば、神はさらに私たちを扱われるでしょう。勇気を出しましょう、「そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。」(ローマ5:5)

 「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神は彼らを義として下さるのです。 罪に定めようとするのはだれですか。死んで下さった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座につき、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」(ローマ8:33-34)

 「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」(ヘブル5:15-16)

(2012.3.13)
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