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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

わたしに近づくために命をかける者は誰か

一つの大きな戦いがあり、隠れた問題が、私の目の前にはっきりと明らかにされた。これまで長い時を経て、病巣が少しずつ拡大するように、それは生長して来ていたのだが、取り扱われるべき時がまだ来ていなかったため、主はそれを憐れみを持って放置しておかれたのだ。

その間にも、私の内側にある色々な問題は取り扱いを受けてきた。だが、今ここに来て、時が来たと主は言われ、恐らくは最も深刻な問題を明らかにするために、ある出来事を私に配剤してくださったのだ。その出来事を通して、私はプリズムを通して見るように、自分の内側を見させられている。

私はこれまでずっと主に向かって問い続けてきた、私には分かりませんと、理解できないため、分かるように説明して下さいと。それに応えて、主は語って下さっている、あなたには捨てなければならない思いがあります。得られなかったもの、失ったものを自分の手で得たいと願うことをやめねばなりません。あなたの幸せを願う、そのために助力する、と言ってくれる人々の声に決して耳を傾けてはなりません。それは虚偽だからです。あなたの選ぶ道はたった一つしかありません。その道は、あなたが私を信頼すること、私こそ、あなたの必要のすべてを供給する者であると知り、私を信じてすべてを捨てて従うこと、その道は、他でもなく私が置いたものであり、あなたが私の呼び声に応えるために通らなければならない道です。

これ以上、自分の安全を第一に考えてはいけません。これ以上、戦いを避けようとしてはなりません。これ以上、憎まれることや、悪し様に言われることに疲れ切って、戦いを避けようとしてはなりません。あなたが自分で自分の幸せを確保することよりも、もっともっと大切なことがあるのです。神の国と神の義を第一にすることです。ですから、父母を忘れ、故郷と自分の民を忘れ、自分を否み、すべてを置いて、すべてを捨てて、十字架を負う、それだけしかあなたには生きられる道はないのです。もしもあなたの願いがかなえられるとしたら、この道にいる時だけです。私がそれをかなえます。私があなたを守りましょう。私はあなたの嘆きも悲しみもつらさも全て知っているのです。しかし、もしもあなたが自分の手で命を確保しようとするならば、すべては失われます。

私は神の排他的な愛に応えようと格闘しており、この愛を離れれば、妬みの炎で焼き尽くされることも分かっている。それは燃える柴の中に入ることであり、自分が尽きて、復活の命だけが残る道だからだ。自分の命を保つために、柴の中に入ることを拒むならば、死が待っている。

ある兄弟が尋ねられたように、私たちも尋ねられる、「あなたは御心を行なうのが好きですか?」と。誰がその意味を真に知っていよう。本当に、一体、なぜこれほどまでに試練を耐え忍ばなければならないのかと問いたくなるほど試練の連続だという人がおり、どうか放免して下さいとどれだけ主に願うことか知れない。しかし、神は問うておられるのだ、「だれか自分の命をかけてわたしに近づく者があろうかと」(エレミヤ30:21) 

私は自分の幸福の道しるべとなる全てのものと訣別したが、戦いはこれからが本番なのだ。これは非常に深刻な戦いであり、説明することができない。それでも、主の憐れみがどんなに私に対して深いか、それがどんなに人の想像をはるかに超えた圧倒的な愛であるかを予め言っておきたい。人々は私を責めるかも知れない、それでも私は主イエスを信じており、この方の御名だけによって生きているのだ、神の愛は光となって、どんなに深く恐ろしい暗やみにも届くことを信じている、これは自己憐憫でも自己安堵でもなく、自分で自分を罪なしとすることでもなく、すべてが私の意志を越えており、神のご計画のもとでしかなされえないことであり、神の御旨にすがることなしには、もはや何一つ達成されえないと分かっているからこそ、私は自分の手からこの問題を離すのだ。

天地の造られる前から、私たちを愛を持って選び出してくださった神以外に、ご計画をなしとげられる方はいない。私たち一人ひとりの生い立ちから、人生の喜び苦しみ全ての行程を知った上で、その人にとって最良の采配をなして下さることのできる方は神以外にはいない。多分、一人ひとりの戦いの深さについては、理解できる人はほとんどいないだろうと思う。その深さを知らない人は、責め、嘲笑い、絶望だと言うかも知れない。しかし、神のご計画と、神の御約束は揺らぐことなく、さらに、私たちが神に対してなした不十分極まりない約束でさえ、御霊により、守り通されるのだ。たとえどれほど大勢の人が疑っても、私は誰のものであるか、その事実を変えることは誰にもできない。ただ主イエスが血によって私を買い取って下さっただけでなく、私自身が主の御前に約束をしているのだ、この私自身は、私のものではなく、キリストのものであると。その約束は、神が成就して下さるのでなければ、人の力では成し遂げることはできないのだ。

だからこそ、ここからが決戦なのである。その戦いとは、またもや、病人と外科医のメス(御言葉)との格闘である。私は会堂から排除された病人を、会堂につり下ろす。いや、主の御許に追いやる。しかし、その病人の一人とは他人ばかりでなく、私自身のことでもある。

屋根に穴をこじあけてでも、主イエスの御許に行きさえすれば、友は癒されると信じた四人の人々。彼らの信仰が一人の友人を救った。その一人の人は寝たきりでもはや歩くこともできなかったのだ。

健康な人のために医者はいらないと主は言われた。しかし、もしも癒されるための秘訣というものがあるとしたら、それはただ自分自身が病人であるということを真摯に認め、どんなに大きな問題を抱えていたとしても、それを神は受け止め、癒すことができると心から信じて、主イエスの御許に駆けつけることだ。彼のよみがえりの命にすがらなければ、決して生きることができないというほどに、ただひたすらに主にすがり続けることだ。すべてのものをかなぐりすてても、ただ主イエスの御許に駆けつけ、自分にはできないことでも、神にはできると信じ続けることにあるのだ。

そこに血の出るような戦いが伴うことがありうる。何よりも大きな妨げは、人は自分を病人だとは決して認めたくないものであり、自分が無力であるということを徹底的に思い知らされ、まして、それを人前で公にされることを願わないことだ。

だが、私は旧約聖書のハンナのことを思い出すのだ。ハンナがつらい仕打ちを受けたのは、特に、彼女が宮もうでをしていた時のことであったと聖書にある。「彼女を憎んでいる他の妻は、ひどく彼女を悩まして、主がその胎を閉ざされたことを恨ませようとした。…ハンナが主の宮に上るごとに、ペニンナは彼女を悩ましたので、ハンナは泣いて食べることもしなかった。」(サムエル記上1:6-7) 

これは、ハンナが礼拝を捧げるとき、それを妨げようとする力が働いていたことを示している。その力は、ハンナに自分のつらい境遇を嘆かせることで、主を恨ませようと仕向け、そうすることによって、彼女が主の宮に出られないように仕向けようとしたのだ。この悪の霊的な力は、ただハンナという一人の人を自己憐憫に落として信仰を失わせようとしただけではなく、ハンナが主の宮に参り、主の御前に出て捧げる礼拝と祈りが、キリストを産む母体となることを確実に知っていればこそ、それを阻止しようとしたのだろう。

このつらい思いのために、ハンナはもはや通常の状態で礼拝を捧げることが不可能となってしまった。食べることもできず、宮に行っても、祈ることもままならず、喜んで賛美を捧げることなどできるはずがなかった。その異常に近い姿を見て、祭司エリでさえ、はからずも、彼女が酒に酔っているのではないかと疑い、さらに苦しめる一端を担ったほどであった。ハンナは神の御前に進み出るために、自分の魂を拒まなければならなかった。自分の保ちたいと願うすべての安寧と訣別し、さげすまれ、誤解され、最も大きな問題を抱えた哀れな人、気のふれた人のようにみなされてでも、主の宮に出なくてはいけなかった。多分、誰一人、そんな彼女の捧げる礼拝に何か意味があると考えた人はいなかっただろう。もしかすると、祭司にとっても、彼女の存在は無意味であったかも知れない。しかし、彼女にとっては、神にすべてがかかっていたのだ。夫でもなく、父母でもなく、ただ神お一人だけに、彼女の希望のすべてがかかっていたのだ。神の御前に進み出るひとときは、彼女にとってあたかも自分の死の瞬間のようであっただろう、肉の全ての喜びが取り去られた。だが、それにも関わらず、彼女はこの方に希望のすべてを託したのだ。

主を待ち望む者は失望に終わることはない。だから、彼女は喜びに満ちて男の子を抱いて祭司のもとを訪ねることができた。この男子は型であり、私たちが待ち望んでいる方、再び来られる御子キリストご自身のことである。

神は必ず、死んだも同様なこの一人の人から、多くのいのちを起こされる。一粒の葬られた麦粒から、多くのいのちが生まれる、これが法則である。だから、それはハンナに限らず、彼女(エクレシア)がサムエル(キリスト)を産む者とされるために通らなければならない道である。ルツもすべてを捨ててナオミに従い、エステルも神の民と命運を共にするために、命をかけて王の前に立った。主の御前に信仰によって立った人の中で、自分を保ち得た人はいない。それでも、この死の中にとどまりながら、彼らは神を信じ続けたのだ。

神の御前に近づくために、誰が命を捨てるのか?

オリーブ園ブログより、クリストフ・ブルームハルト、イエスは勝利者、イエスは死の力を滅ぼす(4)より

 あらゆる種類の自然災害も起きる。これは被造物を握っている、ある種の活動的滅びである。我々はどうするべきか? 恐れるべきか? 否、私は言う、「静まれ!」と。征服者なる御方は、破壊する力が勝利することをお許しにならない。我々は故人の棺にしがみつく必要はない。

あなたの心から死を除き去れ。イエス はあなたの心の中に住むことを欲しておられ、我々を悲しみにふけらせはしないのである。イエスは命の種を成長させて下さる。多くの人はこの命の種のそばに死を置いているが、そのような真似をしてその成長を危険にさらすことはしないようにしようではないか。

 それゆえ、私は尋ねる、「どうし てこんなにも嘆き悲しむのか?」と。闇夜のように暗く、葬列が近づいている。しかし、勝利者なる御方はどこにいるのか? 泣く時、我々は泥沼にはまってしま う。イエスが必要としておられる人々は、彼の御許に来て彼に会い、悲しみの中でもこう言える人である、「静まれ!イエスは生きておられる。イエスはこの悲 しみをお許しになりません。いかなる病であれ、私たちはそのなすがままではありません。死とその悲惨さが私たちに訪れようとしても、もはや訪れることはでき ないのです」
なぜなら、死が訪れる時、なおも光が射し込みうるからである。イエスが生きておられる証拠には事欠かないのである。

 てんかん患者、盲人、足なえ、耳の聞こえない人、いわゆる不治の病にかかっている人々の間で、私が経験したのはこのことであった。私はいつも彼らに言う、「このような状態にあっても喜びなさい。あなたがなすべきことは、今、キリストの復活からの何かを、あなたの苦難の中に、不治の病の領域の中にもたらすことなのです」。キリストの命からの何かをもたらしなさい。あなたの状況の中で、忠実な働き人となりなさい。そうするなら、キリストの勝利が拡張され、「盲人は 見えるようになり、足なえは歩き、らい病人は清められ、耳の聞こえない人は聞こえるようになっています。死者はよみがえり、貧しい人には福音が宣べ伝えら れています」というキリストの御言葉の正しさをあなたは経験するであろう。
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