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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

私はわが羊を捜し出し、雲と暗やみの日に散った全ての所から救う

今日は休日ゆえ、もろもろの用事を済ませてからある人に会いに行った。昼下がりの陽気のもと、家の近くで何枚か写真を撮ったが、去年、咲いていた花がまた可愛らしい顔を出しており、久しぶりに余裕のある一日を過ごせた。

初めてのお願いであったにも関わらず、親切に対応してくださったその人に感謝だった。テーブルを囲んで和やかなひと時を過ごし、折にかなった叱咤や忠告をも受けることができた。

近頃、各地で主を愛する人々と知り合う機会が増えている。そのような交わりが広がりつつあることに驚いている。日曜礼拝や、団体の枠組みにとらわれない交わりが拡大している。私は切に願う、主にあって真に御霊の自由の中にある交わりを日々生きたいと。そして、各地に散らされている羊を神ご自身が懐に抱いて養われ、お集め下さることを願う。以前にも、何度も振り返った御言葉だが、神が一人ひとりの羊をどれほど心に留めておられるかを思うのだ。

「主の言葉がわたしに臨んだ。人の子よ、イスラエルの牧者たちに向かって預言せよ。預言して彼ら牧者に言え、主なる神はこう言われる、わざわいなるかな、自分自身を養うイスラエルの牧者、牧者は群れを養うべき者ではないか。ところが、あなたがたは脂肪を食べ、毛織物をまとい、肥えたものをほふるが、群れを養わない。あなたがたは弱った者を強くせず、病んでいる者をいやさず、傷ついた者をつつまず、迷い出た者を引き返らせず、うせた者を尋ねず、彼らを手荒く、きびしく治めている。彼らは牧者がいないために散り、野のもろもろの獣のえじきになる。わが羊は散らされている。彼らはもろもろの山と、もろもろろの高き丘にさまよい、わが羊は地の全面に散らされているが、これを捜す者もなく、尋ねる者もない。

それゆえ、牧者よ、主の言葉を聞け。主なる神は言われる、わたしは生きている。わが羊は野のもろもろの獣のえじきとなっているが、その牧者はいない。わが牧者はわが羊を尋ねない。牧者は自身を養うが、わが羊を養わない。それゆえ牧者らよ、主の言葉を聞け。主なる神はこう言われる、見よ、わたしは牧者らの敵となり、わたしの羊を彼らの手に求め、彼らにわたしの群れを養うことをやめさせ、再び牧者自身を養わせない。またわが羊を彼らの口から救って、彼らの食物にさせない。

主なる神はこういわれる、見よ、わたしは、わたしみずからわが羊を尋ねて、これを捜しだす。牧者がその羊の散り去った時、その羊の群れを捜し出すように、わたしはわが羊を捜し出し、雲と暗やみの日に散った、すべての所からこれを救う。」(エゼキエル34:1-11)


目を見開いて、聖書を読んでみよう、兄弟姉妹が互いに愛し合いなさいとの戒めは、全聖書を通して主イエスが最も大切なものとして教えられたものであり、目に見える兄弟を愛さない者は、神を愛することはできないと、はっきり言われている。「『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者は、偽り者である。現に見ている兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することはできない。」(Ⅰヨハネ4:20)、「律法の全体は、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』というこの一句に尽きるからである。」(ガラテヤ5:14)「律法の一画が落ちるよりは、天地の滅びる方が、もっとたやすい。」(ルカ16:17) 

この隣り人とは、明らかに、キリストのことではなく、私たちの兄弟姉妹を含む目に見える隣人のことである。律法の全体がこの戒めにかかっていると言われるほどに、互いに愛し合いなさいという戒めは全聖書において極めて重要なのである。もしも神の愛というものを取り去るならば、御言葉は曲げられ、聖書はもはや聖書ではなくなってしまう。

しかし、「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう。」(マタイ24:12)と言われている通り、この終わりの時代、世からも教会から愛が失われていることにどんなにクリスチャンが心を痛めているかについても考えてみないわけにいかない。霊的な達成を追い求めることはさかんに提唱されても、自らがへりくだって試練を耐え忍び、愛に生きるようにとの勧めはほとんど聞かれないのである。だが、私自身、多くの戦いと紆余曲折を経て学ばされたことは、敵はサタンであり、目に見える人間ではないということだ。だから、私たちはどんなことがあっても、目に見えるものに注目して、それとの戦いに生きてはいけない。もしも人を相手に戦いを挑むならば、必ず、いつか後悔せねばならない時がやって来るだろう。

もしもただ一つの交わりの中で兄弟が互いに罪定めし合い、警戒し合い、排斥し合うようなことをしてしまえば、疑心暗鬼により、交わりは崩壊してしまう。歴史に目を閉ざす者は現在にも盲目となる、との言葉通り、歴史上、外なる敵との絶え間ない戦いに生きた組織は、必ず、その戦いが内なる敵との戦いに転化して、疑心暗鬼の内に滅びたのだ。これは歴史的法則であり、覆すことは困難だと思う。しかし、クリスチャンはそれを霊性という言葉で置き換えて、兄弟同士が互いを疑い、罪定めするようなことをいとも簡単に行なってしまう。しかし、私はある時点ではっきりと気づかされたのである、兄弟同士の疑いと分裂によって誰が益を得るのかを考えて見よと。ある兄弟が語ってくれた通り、誰がどうやって各自の霊性を判断するのだろうか。誰がその基準を定める資格を持っているのか。

だからこそ、他方では血潮による赦しを強調しながら、もう一方では互いに同じ主を信じている兄弟を罪定めしあって互いを警戒し排除するようなことをしてはいけないのだ。しかし、何とクリスチャンはそのような盲目に陥りやすいのだろうかと自戒する。実際にそのようなことがさまざまな教会で行なわれて来たし、そのことにクリスチャンたちがどれほど深く心を痛めているかも知らされて来た。

ただし、それは今の時代にあって神の子供たちが避けられない試練でもある。「人々はあなたがたを会堂から追い出すであろう。更にあなたがたを殺す者がみな、それによって自分たちは神に仕えているのだと思う時が来るであろう。」(ヨハネ16:2)と言われている通り、各地の教会が背教に占拠されればされるほど、信仰者には会堂の中で居場所がなくなるだろう。

だが、私たちの長兄であられる御子は、そのようなことに対してこう言われた、「弟子がその師のようであり、僕がその主人のようであれば、それで十分である。もし家の主人がベルゼブルと言われるならば、その家の者どもはなおさら、どんなにか悪く言われることであろう。」(マタイ10:25) 

罪汚れの一切ない、きよい聖霊によって導かれていた御子イエスの霊が、人々によってベルゼブルと罪定めされたのだ。だから、私たちは家の主人がこのような扱いを受けたことを心に思い起こし、僕に過ぎない自分が罵られ、誤解され、悪し様に言われることは当然だと考えるべきであろう。そのような時には、それが主の御名のゆえであることに思いを馳せて、大いに喜ぶべきである。「喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(マタイ5:12) 

逆に人々から歓待されることの危険性についてはこう言われている、「人が皆あなたがたをほめるときは、あなたがたはわざわいだ。彼らの祖先も、にせ預言者たちに対して同じことをしたのである。」(ルカ6:26)

多くの人々に立派な信仰だと誉められていたときには全く見えなかった事柄が、迫害されるときに見えて来るものである。主イエスご自身は脅かされても脅かさず、罵られても罵り返さず、人々を排斥する側に回らなかった。彼は敵の訴えの前で沈黙を守られた。だから、私たちも、いつでも主イエスのへりくだりと沈黙の中に隠れ、神ご自身がその義を現して下さることを信じて、忍耐強く待つべきである。いのちが勝利として輝き出るその時まで。

ある人は偽預言者扱いされたためにミニストリーが壊滅的打撃を受けたが、十字架の死を経て、初めて復活のいのちに至る働きが始まることが、それによって逆説的に証明された。だから、私たちは何度でも、主の御名のために死をくぐろう。一粒の麦として葬られることに、喜びを持って応じよう。真理が私たちの内に造り込まれるために、私たちの内側を貫いて、御霊が高速道路を作ることに同意しよう。

このことを学ぶために、長い学課がある人々には必要である。しかし、本当にこの学課を学んでしまうと、後は私たちの力によらず、おのずからキリストのいのちが働いて、全ての出来事をなして下さるのである。私は何度そのことを見せられて来たか分からない。この私にかばう価値があるとは到底言えない。それなのに、神はご自分の者として贖った者を最後まで守って下さるのである。私自身が戦おうとさえしなければ、主ご自身が私のために戦って下さるということを今まで幾度も知らされてきた。

これまで実に多くの知人たちが、私に向かって厳しく忠告したことを私は忘れてはいない。人々は言った、あなたの貴重な時間を決して無益な戦いに費やしてはいけないと。クリスチャン同士の間で起こっている絶え間ない罪定めや、争いや、競争には決して関わってはいけないと。人々が互いに罪定めし合い、争い合っているような場からは離れなさいと。どんなに悪し様に言われようとも、それに言い返さず、注意を払わず、ただ神があなたに本当にさせたいと心から願っておられることが何であるかをしっかり見極め、その御旨の中にだけ生きなさいと。あなたの人生は限られているのだから、決して無益な争いに時間を無駄にしてはいけない、死ではなく、いのちをもたらす働きの中に生きなさいと。

肉にある父母も、やはり私にそう願ってくれている。キリストの十字架における和解を経て、彼らは本当に私の身を案じて忠告してくれるようになった。忘れてはならないのは、大切なのは日曜礼拝を何としても遵守することではなく、キリストの戒めを守り、キリストの愛の内にとどまり、キリストにつながって生きることである。その時、私たちは真に実を結ぶ枝とされるのである。神の愛を離れてはどんな偉業を成し遂げても全く価値がなく、この方によらなければ私たちにできることは何一つなく、そして、私たちの結ぶ実が何であるかは万人の前に必ず明らかになるのだ。

春が来て、私は以前に関西にいた頃ととてもよく似た状況に置かれている。もう一度、主が私に人生をお与え下さったこと、いのちをお与え下さったこと、行って豊かに実を結ぶように、改めて命じて下さったこと、しっかりと御霊の守りの中に私を入れて下さっていることが分かり、喜びと平和が心の内側からこみ上げて来てならない。

* * *

以下は、愛する父が私に向けて書いてくれた手紙だ。何度読んでも、涙が出て来る。この手紙をもらって後も、実にさまざまな苦労があり、基礎固めの時期はなおも続いた。全くの徒労にしか思われない多くの事柄を経た。しかし、今、本当に人生の骨組みが立ち上がろうとしていることが分かる。私たちの土台はキリストであり、このキリストを基礎に私たちはそれぞれの働きを建て上げている。しかし、今までを振り返って、私が建て上げたものがあるとは言えない、私はただキリストの十字架の内にとどまることを学ばされ続けたと言えるだけである。しかし、この十字架の内に本当にとどまりさえするならば、それを土台として、神が必ず、私に目に見える骨組みを造ることを許して下さることを信じているし、その時がすでにやって来ていることが分かるのだ…。ハレルヤ、失われたいのちを回復される方、死によって失われた嗣業を回復される方、まことの命なる方に栄光があるように。

「近況報告有難う。確かに出発点を見ているあなたの様子が伝わります。そしていよいよこれから、自分のやり方に集中して、何かに取り組んでいく準備が出来たのだとわかります。

十年を棒に振ったと見るより、他人には出来ない体験から、独自の価値観を得たと言うのが正確かも知れません。気付けばあなたも人生で一番力を発揮できる年代にさしかかっています。これからの十年が自分の骨組みを築く時代です。今まではその地固めの基礎工事だったと思います。

一人ひとりの基礎の大きさや高さはそれぞれに違います。それは基礎であるからこそ、その上に立つものの高さ、大きさを すでに決める力があるのです。一見徒労のような、何も見えるものの無い基礎工事の次に、独自の骨組みを立ち上げ、目に見える何かを築く時代が来るのです。

あなたはこれから自分の力を世に問い、周りの要請に応えながら、徐々に自分の骨組みを立ち上げ築くのです。この時にこそ、今までの徒労のような体験が、あなたの揺らぐことの無い価値観となって、二度と無い重要な時に自分と周りを支えるのです。<…>」


主よ、どうか聖徒らを全ての悪から守って下さい。私たちをむなしい不毛な建設から救い出して下さり、御国の統治の中にしっかりと入れて下さい。この霊的飢饉の時代にあって、私たちが真にキリストの上に永遠に残る働きを建てあげることができるように、行って豊かに実を結ぶことができるように、あなたの御霊の統治の中で、復活のいのちの豊かさにあずかり、天のパンを通して地上のパンにもあずかり、周囲を潤すことができるように、助けて下さい。私たちに触れる人々があなたのいのちを感じ、あなたのいのちにあずかることができるような者とされるように、どうか助けて守って下さい…。御名のゆえにどんな扱いを受けるときにも、私を自分自身の力によって立ち上がらせず、ただあなたの愛のうちにとどまらせて下さい…。

(クリストフ・ブルームハルト、イエスは勝利者、イエスは死の力を滅ぼすもお勧めします。)
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