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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

大麦の刈り入れが始まった頃に…(1)

ルツは言った。「あなたを捨て、あなたから別れて帰るように、私にしむけないでください。あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住まれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。あなたの死なれる所で私は死に、そこに葬られたいのです。もし死によっても私があなたから離れるようなことがあったら、主が幾重にも私を罰してくださるように。」(ルツ1:16-17)

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主が与えられた職場は本当に恵みに満ちた場所であり、提示した条件は着々と満たされつつある。今回のことでも私は、聖徒らが理不尽な事柄に遭遇した時に、主に直談判して一歩も退かずに祈ることがどれほど重要であるかが分かった。忘れてはいけない、目の前にどんな対立があるように見えても、そこで糾弾されるべきはサタンであって、目に見える人ではない。だから、決して人に目を向けず、ただ神に向かって談判すべきである。キリストは十字架ですでに悪魔に対して勝利を取られ、ご自分の死によって悪魔を滅ぼされた。だから、我々を窮乏や理不尽や惨めさに追い込もうとする全ての悪魔の策略について、私たちは神に向かって激しく訴えて良いのだ。

ヘブル書にはこう書いてある、「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司となられたのです。」(ヘブル5:7-10) 

御子でさえ、地上における生涯の間、多くの苦難を通過され、ご自分を死から救うことのできる方に向かって、絶えず叫びと涙を持って呼ばわられたのだ。そして、御父は御子の深い信仰のゆえにその願いを聞き入れられた。それなのに、どうして私たちが手をこまねいたまま破滅を待っているような態度で良かろうか。だから聖徒らよ、今こそ、祈れ。

(今回のスマトラ島沖の地震も、陸地で起きなかったのは大きな幸いだったが、)アブラハムがソドムの街のためにとりなしたように、この国のためにも、とりなしが必要である。「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。」(マタイ9:13)と、なぜ神が言われたのか考えてみるべきである。私たちにいつまでも不毛状態の中を堂々巡りさせたり、背信のゆえに御怒りによって滅ぼすことは神の本意ではないことを知るべきである。しかも、私たちはすでに信仰によって生きる義人とされているのだから、主イエスの御名によって、臆することなく神に願いを申し上げる権利がある。それなのに、なぜ私たちは御父に向かって叫ぶことも涙することもなく、今日主の民や神の家と呼ばれている所を覆っている暗闇を目にしてさえ、切なる嘆きとうめきを持って主に願いを申し上げようともしないのか。

だから、神に談判せよ。神はいのちを与えられる方であり、死んだ者の神ではなく、生きている者の神である(イザヤ66:9, ルカ20:38)。天におられる御父は、正しい人と誤った人々を一緒に滅ぼされるような方でなく(創世記18:25)、聖徒らを守って、悪から救い出して下さり(マタイ6:13)、年老いるまで、白髪になるまで持ち運び、背負い、救い出して下さる方である(イザヤ46:4)。この方の限りない憐れみと赦しが全地に告げ知らされるように、多くの人々が罪赦されて御怒りからかくまわれ、この地にはびこる背信に対して恐るべき裁きが下らないように、悔い改めて神にとりなし、十字架において自己を否み、神ご自身が私たちに出会って下さり、ご自分の栄光のために御顔の光を照り輝かせて下さり、私たちにとって本当にすべてのすべてとなって下さるように懇願せよ。

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さて、以下の記事では、神の妬みの激しさと、それと表裏一体となった死のように激しい愛のことについて語ったが、神のこのような愛への私たちの愛による応答という文脈では、何度でもルツ記を引き合いに出したい。

この記事の冒頭に挙げたルツの言葉は、直接的にはナオミに向けられているものの、実際には、ルツの口から主に向かって発せられた言葉である。神の独占的で排他的な愛に対するルツの愛の応答である。

ルツの覚悟は半端なものではなかった。彼女はまず「私の民ではない」と言われたモアブの生まれであり、初めから神の民から排除されていた。主に従うためには、彼女は自分の民も父母の家も忘れねばならなかった。さらに、主に従うことには幾多の困難がつきものであり、死を持ってでも添い遂げなければならないことを彼女は知っていた。また、彼女の言葉が神の愛の本質をとらえていることに注目したい。ルツは、もしも神から離れるようなことがあれば、神の燃え上がる妬みによって幾重にも罰せられなければならないことを知っていたのだ…。

一体、神の排他的な愛に応答するとはどのようなことであるかを考えてみる時、なぜ神の家にいる人々がしばしば正気ではないかのように見られるのかが分かるだろう。彼らは神への愛のために何もかもを捨ててしまった人々だからである。他の全てを置いても、神の召しに応答し、神と共に住まうことだけを選んだ人々だからである。

たとえば、私たちはとても幼かった頃には、恋に身をやつし、愛のために絶えず苦悩しているような大人たちを見て、滑稽だと思っていたかも知れない。それは私たちにはまだ全く理解できない感情であり、何か近寄りがたいもの、無用な苦しみや、行き過ぎた自己陶酔、何かしら狂気じみた不幸な状態、その状態のために無駄に自分を失っているように思われたかも知れない。しかし、大人になれば、私たちには彼らの思いも行動も説明なしに分かるようになる。

それと同じように、時が来て、もし神が私たちを召されるならば、私たちはその方の愛に心を奪われ、自分を失ってしまう。理屈では説明がつかないのに、何もかもをただちに置いて、御声に応答しようとする自分を発見するだろう。私たち自身にも、それがなぜなのか分からない。それまで愛し、慣れ親しんだ全てのものに容赦のない別れを告げて、人々の誤解や憎しみや不興を買って、身近な人々の制止を振り切ってでも、ただ子羊の声に聞き従うためだけに、どのような地にでも駆けつけ、赴いていきたいと願う。

その時、私たちは、その召しにどのような代償が伴い、苦難が伴い、死が伴うかなど考えず、また、その代償がどれほどのものであろうとも、神と共に住まうことを願う。それがなければ、その召しを失ってしまえば、私たちの人生に生きる目的はもはや存在せず、私たちのいのちとなり、私たちを照らし、輝かせてくれる存在は何もなく、ただ暗闇と絶望があるきりであることが分かるからだ。私たちはただ神ご自身の満足のために、神の栄光のために選び分かたれた民であり、他の人々と区別されるはっきりした特徴を持っている。その特徴とは、他の人々は、神の召しがなくても、十分に自分のために生きられるが、私たちにとって神と共に生きることは唯一の嗣業であり、それを失うなら、私たちは人としての人生さえも失ってしまうということである。「あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。」(マタイ5:13)

さて、かなり長くなってしまうが、以下ではオースチンスパークス、ルツ記注解、第一章より抜粋したい。ルツ記を読むに当たり、まずはこの私たちに重い自戒と反省を迫る厳しい内容に耳を傾けなければならないのではないだろうか。

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