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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

あなたの民とあなたの父の家を忘れよ

「娘よ。聞け。心して、耳を傾けよ。
あなたの民と、あなたの父の家を忘れよ。
そうすれば王は、あなたの美を慕おう。
彼はあなたの夫であるから、彼の前にひれ伏せ。
」(詩篇45:10)

「あなたはほかの神を拝んではならないからである。その名がねたみである主は、ねたむ神であるから。」(出エジプト34:14)

あなたの神、主は焼き尽くす火、ねたむ神だからである。」(申命記4:24)

「私を封印のようにあなたの心臓の上に、
封印のようにあなたの腕につけてください。
愛は死のように強く、
ねたみはよみのように激しいからです。
その炎は火の炎、すさまじい炎です。

大水もその愛を消すことはできません。
洪水も押し流すことができません。
もし、人が愛を得ようとして、
自分の財産をことごとく与えても、
ただのさげすみしか得られません。」(雅歌8:6-7)


記事内容は軽いものではないが、不思議なことに、日々の生活はとても軽やかで、守られている。こうして無事に生きていられることも、主の憐れみ以外の何ものでもない。まるで骨董品か何かのように、神がそっと私を持ち運んで下さっていることが感じられる…。

私という人間の生来の努力が終わるときに、キリストがすべてを始められる。キリストがついて下さっていることの何という幸い、安心。この方だけが、私たちの本当のセーフティネットだ。

今日は仕事が早めに終わったので、桜木町を散歩して来た。その名の通り、見事な桜が咲いていたので、良いお花見となった。人々が遊園地のそばを笑顔で歩き、外国人の姿もちらほら見かける中で、今、この国がただ主の憐れみにより、かろうじて支えられて いることを感じる。私はこの憐れみにすがり、感謝する。そして心から、ただ心から、願う、どうかこの一年が主にあって守られますように。これは私たちの日常を守るためだけでなく、神の御業がこの地になされるために願う。

春が来るよりも前から、今年は主が新しい御業をなして下さるのではないかとの期待がこみ上げて来てならなかった。私たちは今こそ汚染された死せる水ではなく、永遠にまで至る生ける水を流し出す管とされなければならない。その水が溢れ、流れるときが来よう。

今までは掘っても掘っても、掘り下げることもできないような固い地盤だったところで、何か不思議なことが起き始めているように思う…。共に泣いてくれ、共に幸いを喜んでくれる兄弟姉妹が現われるようになったこともありがたい。肉にある両親も、一体、いつの間にこんなに話を聞くのが上手になったのだろうかと思うほど、忍耐強く耳を傾けてくれるようになった…。

それでも、まだ杯が溢れるほどには愛を受けていない、と思っている私に、人ではなく、主ご自身が、妬む神の死のような愛について教えて下さる。たとえ理解者も、賛同者もなく、人から憎まれ、排斥されているようなときであっても、ただ主の懐に必死で救いを求めて飛び込んでいくならば、主ご自身が私たちの義となって、私たちをかくまって下さり、解決となってそばに降りて来て下さり、事態を収束させて、私たちの涙をぬぐって下さる。生きることが困難になればなるほど、日々が信仰によって生きる実験となるのだ。

だが、主に身を避けるとき、同時に、恐ろしいまでに激しく燃え上がる神の炎のような愛について知らされるのだ。この妬む神の炎のようなすさまじい愛については、誰が十分に知っていると言えるだろう。神は決してご自分のものとされた者を二度と離しはしない。

キリスト者には少女時代のようなものがあって、その頃には、私たちは神の慈しみや、憐れみの深さだけを知っており、牧場の羊のようにやすらかな気持ちで、主の御許で憩う。丘を駆け回る子供のように、近所の子供と一緒になって悪戯をしては、叱られたりしている。迷子になっても、主は何度でも私たちを引き戻して下さり、神は私たちにとって決して恐ろしい方ではない。私たちは自由とされた幸いを満喫する。私たちはまだ妬む神の愛の激しさを知らずにいて、いつまでもそんな関係が続くのだと思っている。だが、私たちが生長し、娘となり、花婿キリストとの婚約関係についてだんだんはっきりして来ると、私たちのすべてを所有なさりたいと願っておられる神の愛の激しさ、死のように強い愛について知らされる日が来る…。

それは焼き尽くす炎のような激しい愛である。この死のように強い愛を知らされる時、私たちは恐れる。今まで父と子のようであった神との優しい関係が崩れたかのように思い、その妬みの深さを恐れて、その愛から逃げようとする。神の妬みを引き起こすものに、激しい御怒りが臨むのを見て、御心が分からなくなり、このようなものが本当に愛なのだろうかと疑い、神がとても残酷な方であるように思って悩み、この排他的な愛から逃れようとする。

主は激しいほどに私たちの心を求められる。そして、それに応じようとする願いが少しでもあるなら、私たちの願いに応えて、私たちを受け止めて下さる。だが、主はご自分の愛する者に向かって言われる、私のそばを決して離れるな、と。あなたは私のものだと。あなたは私だけのものだと。あなたは私によって証印を押された者、私によって買い取られた者、あなたは私だけの所有であり、私だけのものでなければならないと。あなたはまだ少女時代を生きているつもりであるが、あなたはすでに私の妻なのだ。私だけがあなたの夫である。どこへも行ってはいけない、他のものに目をくれてはいけない、私の愛の中だけにとどまりなさい。私の中にいる限り、あなたは安全だが、もしこの愛の外へ出るならば、私はあなたを滅ぼさなくてはいけなくなる。もしもあなたが他のものに目を留めるなら、私はそれをも全て妬みの炎で焼き尽くしてしまうだろう。他の人々を滅ぼさないよう用心せよ、それほどまでに私の愛は激しく、深いのだ。あなたはそれに耐えられるだろうか、それでも、あなたはそれを受けるか、私と同じ愛で、私を愛するか、と…。

神の愛は確かに私たちの旧創造をことごとく焼いてしまうものだ。この全能者の燃え上がる愛で抱きしめられるなら、私たちには何一つ残らず、灰になってしまう他ない。それなのに、娘は生長して、この恐ろしいまでに排他的な愛に自ら応えたいと願う日が来る。そのようにまで愛されていることを、この上もない喜び、光栄とみなす時が来る。つまり、彼女はキリストに恋してしまったのだ。花嫁としての愛を持つようになり、彼の命が彼女の命となったのだ。それまでは、その排他的な愛は彼女を恐れさせ、おびえさせ、遠ざからせるだけであった。その愛は、彼女にとっては死のように感じられたのだ。だが、今彼女は自分が焼き尽くされて灰になってもいいから、その愛に応じたいと願って、神の懐に飛び込むことを願っている。それは娘が花嫁にまで生長した証である。彼女の少女時代は終わり、彼女は今や何もかも捨てて主の懐に飛び込むために全生涯を投じようとしている。

私たちはキリストに恋し、彼にとらえられてしまったのである。そのあたりから、主の満足が私たちの満足になり、他のものは何も見えなくなる。ただ主のために生き、主のために死ぬことが願いとなる。思いはひたすら主に捧げられ、心はこの方に魅了され、とらえられてしまった。神の愛の炎で抱きしめられて、私たちの人生は本当に灰にまで焼き尽くされたかのようだ。私たちが他の喜びにほとんど目を留めないので、人々はきっと私たちが何のために生きているのか分からないと言って首をかしげるだろう。

多くの先人たちが迫害に耐え、長い投獄や、危難に耐えたのも、ただ主による解放や、殉教や、携挙や、身体の復活という望みを持ち続けたことだけによるのでなく、日々、この愛に生きたからなのだろうと私は思う。彼らは日々、主への愛の中に喜んで自らを消失していったのだ。自分の民を忘れ、父の家を忘れ、死のように強く、よみのように激しい、すさまじい炎のような神の愛の前に自分自身を投げ出し、その愛に殉じていったのだ…。

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