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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

主がお入用なのです

オリーブという山のふもとのベテバゲとベタニヤに近づかれたとき、イエスはふたりの弟子を使いに出して、言われた。「向こうの村に行きなさい。そこにはいると、まだだれも乗ったことのない、ろばの子がつないであるのに気がつくでしょう。それをほどいて連れて来なさい。もし、『なぜ、ほどくのか。』と尋ねる人があったら、こう言いなさい。『主がお入用なのです。』」

使いに出されたふたりが行って見ると、イエスが話されたとおりであった。彼らがろばの子をほどいていると、その持ち主が、「なぜ、このろばの子をほどくのか。」と彼らに言った。弟子たちは、「主がお入用なおんです。』と言った。そしてふたりは、それをイエスのもとに連れてきた。そして、そのろばの子の上に自分たちの上着を敷いて、イエスをお乗せした。(ルカ19:29-35)


いかなる目に見える人間にも惑わされずに、ただ主ご自身にだけ聞くために、私は日曜礼拝からはひっそりと身を引こうと考えていた。だが、その計画は、その一週間さえも終わらないうちに仕事があっけなく取り上げられることで頓挫した。私は真剣に主の御旨を問うた。

主ご自身からのストップが入っているとしか考えられないのだから、神ご自身に聞くしかない。いけないのでしょうか? 日曜礼拝を去ったらいけないのでしょうか? それはそんなにもあなたの御旨に反することなのですか? なぜでしょう、私は期待が長びきすぎて、待つことに疲れたのですが?

私が心の底から知りたかったのは、何が正しいかということではなく、あくまで主が私に何を願っておられるかということだった。私が本当にお入用なのかどうか、その点を、主に詰め寄ってでもいいから、真にお答えいただきたかったのだ。

私の心には、神ご自身にしか癒せない深い、深い倦怠と孤独が生じていて、主ご自身が直接、声をかけて下さるのでなければ、立ち上がって歩き出せないくらいであった。人々は一緒に行こうと気軽に誘ってくれるが、もうそれだけでは歩き出せない。以前には人々の先頭を切って、意気揚々と走っていくことができる私であった。主のためにこの命も惜しくないと幾度も口にしていた私であった。疲れた人々を叱咤し、励まし、元気づけることさえできたのだ。なのに、なぜこんなになったのかは分からないが、とにかく、もう正しいというだけの理由では何事にも従えなくなっていたのだ。人々が誘ってくれるからという理由だけでも、着いて行く事はできない。期待が長びきすぎたせいで、心が病み、耐え切れないほどの孤独があったのだ。御名の権威が押されるのでなければ、一歩たりとも歩き出したくない。本当に神ご自身が直接、私を呼んでおられるとの確信がない限り、私は岸辺に立って、手を振って人々の出発を見送り、船が沖合いに出たのを見届けてから、一人、黙って道を引き返すつもりでいた。

このような入り組んだ道が人の心には誰しもそれなりにあるものだ。自分にはそのような複雑な心は決してないと思っていても、やはり一人ひとりにあるのだ。そこを通って私たちの魂に達することのできる方はイエス・キリストただお一人である。問題は、困難の中で心を閉ざすのか、それとも、この方を呼び続け、その応答があることを信じるのかどうか、だ。疲れることや、立ち止まることや、疑うことそれ自体が悪いのだとは私は思っていない。ただそれでも、主を待ち望み、この方に解決を見いだすことができるかどうかで、道が別れてしまうのだ。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」(ヘブル11:6)

私はこの方を呼んだ。主よ、私はあなたから本当に必要とされているのでなければ、もう一歩も進んでいきたくないのです、あなたが本当に私を必要としておられるのか、それとも、もう私はあなたにとって必要なくなってしまったのか、どうぞお答え下さい。

もしもエクレシアに連なるという夢がないならば、この関東にたった一人で残っている理由もないだろう。この不況の世で、たかが自分ひとりを養うためにこの地に住み続けることさえも、今やそんなにも楽ではないのだ。実家に戻れば、家族もいれば、美味しいご飯もあり、見慣れた風景があり、安楽な生活が待っている…。少なくとも、そこには私の魂に気を配り、心配してくれる人たちがいる…。だが、もしも今持っているものを放棄すれば、二度とそれを手にすることはできないだろう。そんなにも簡単にすべてをあきらめてしまうことができるのか?

そんな中で、私が月曜に書いた記事の内容は、ホセア書の御言葉、それから、生ける水の川々のことであった。
「さあ、に立ち返ろう。
主は私たちを引き裂いたが、また、いやし、
私たちを打ったが、
また、包んでくださるからだ。
主は二日の後、私たちを生き返らせ、
三日目に私たちを立ち上がらせる。
私たちは、御前に生きるのだ。

私たちは、知ろう。
を知ることを切に追い求めよう。
主は暁の光のように、確かに現われ、
大雨のように、私たちのところに来、
後の雨のように、地を潤される。」(ホセア6:1-3)


これを書いた時には知りもしなかったことであり、文脈も多分甚だ異なっているのだろうが、その前日の礼拝において語られたメッセージの題名は、「大雨の音が聞こえる」であった。それを知ったとき、クリスチャンの内側では、どうにも、互いに何かが呼応し合っているらしいと感じられた。こんなにも、肉においてはかけ離れ、異なる地点に立っている一人ひとりの内側で、何かが響き合っているとしか考えられない。

だとしたら、肉の相違はもしかして、何の意味もないものなのかも知れない。主は私たちの思いをはるかに越えて今何かを天で計画しておられ、私たちがこれまでどんな風に生きて来たとか、どんな性格であったとか、れまでどんな出会いと会話を積み重ねて来たのかとか、そのようなことを一切取り払ったところで、ただ新創造とされた領域だけで、霊だけによって、何かをなさっておられるのかも知れない…。

そのようなことを考えながら、真剣に主の御旨を問うていると、無職となったその一週間が終わりもしないうちに、今度は何の苦労もなく、次の仕事が与えられた。しかも、中断した仕事と同じ会社、ほぼ同じ業務内容であり、条件は前より良いばかりか、通勤の苦労もほとんどない場所であった。こんなことは未だかつてないことであった。この話が決定する前に、私は主にいくつかの条件を提示して祈った。そもそも、私が日曜礼拝を去ろうとしたからこんなことになったのだとしか思われないのですが、そんなにもあなたは私をここに置いておきたいのでしょうか? 本当に、本当に、私がお入用なのでしょうか? 本当に、それがあなたの御旨なのでしょうか? 私はたとえ自分が200%間違っていることが明るみに出されても良いから、ただあなたの御旨を知りたいのです、私が知りたいのは、あなたの真実なのです。ですから、私は一定の条件を提示しますから、その条件が満たされるなら、私はそれをしるしとして受け取り、あなたの御旨に従いましょう、そして、片道切符でもいいから、出発しましょう…。何もかもを置いて、もう一度、あなたのために人間を取る漁師となるために、平和をもたらす戦士となるために…。

旧約聖書で、預言者エリヤは貧しいやもめの家に身を寄せた。かめの粉も、びんの油も尽きかけているやもめの家に。その最後の乏しい食物を食べて一家は死のうとしていたのだ。なぜ全能の神が、万物の真の所有者であられる神が、豊かさに満ち満ちておられる神が、このような惨めで貧しい女の信仰をあえて利用されなければならなかったのか。しかも、生きる気力さえ尽き果てて、自ら命を絶とうとしていたこの女の信仰を。一見、不信仰の極みのようではないか。一体、どこに信仰が見られるというのか。食物もそうだが、信仰なら、もっと他に求める場所があったのではないか。主イエスが水を求められたスカルの井戸の女にせよ、何と惨めで貧しい人々を主はお遣いになったのだろう。

しかし、神はそれほどまでに貴重なものを探しておられるのだろうと思う。その貴重なものとは、私たちの心の最後のよすがとなる何かさえ崩れ、取り払われようとするときに、私たちの心に残る、あるかなきかも分からないような一抹の信仰なのではないかと思う。

「兄弟たちよ。私たちがアジヤで会った苦しみについて、ぜひ知っておいてください。私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、ついにいのちさえも危うくなり、ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという望みを、私たちはこの神に置いているのです。」(Ⅱコリント1:8-10)

そうなのだ、私たちの心が意気揚々として、疲れを知らず、主のために何も惜しまず、どれほどの距離でも走って行けると思っているとき、なぜか主は私たちをあまり大きな仕事のために使って下さらないようなのだ。私たちが自分には信仰があると思っているとき、主は重要な仕事に私たちをあまり登用してくれないのだ。そして、私たちが花婿を待つことに倦み疲れ、生きる望みも絶え果てて、涙のうちに、手の中に残っている最後の希望を使い切ってから、命を絶とう(全てをあきらめて沈黙のうちに去ろう)としているような時に、主は速やかに来られて、「あなたのその手の中にある最後のものを私に下さい」と言われるのだ。

本当に、一見、意地悪な話のようであるし、私たちの神は何というお方だろうかと思う。しかし、それほどまでに貴重なものを神は探しておられるのだ。あり余る力、あふれる財産のほんのわずかな一部ではなく、私たちの最後に残った本当に貴重なもの、そのなけなしのもののすべてを主はお求めになるのだ。もしもそのようでなかったならば、私たちは多分、自分を誇ってしまうだろう。自分が多く捧げたから、主が富まれたのだと後になってから言いふらすだろう。自分が捧げたものを誇るだろう。

しかし、主はそのようなことをお許しにならない。かめに残った一握りの粉と、つぼに残ったほんの少しの油を捧げたからといって、私たちは一体、何を誇ることができようか。人目を恥じるようにして、人知れず井戸のほとりにやって来た女が汲んだ一杯の水が誰にとって何の意味を持つだろう。その人にとっては最後の何かに等しいものかも知れないが、人から見れば何の価値もなく、誰も見向きもしないようなものだ。そこから、尽きることのないいのちの豊かさが流れ、満ち満ちた復活の命が溢れたことを、どうして私たちは自分の手柄として誇れようか。

だからこそ、真に主に栄光が帰されるためにこそ、私たちの行き詰まりは、なくてはならないものなのではないかと思う。私たちの終わりこそ、神の始まりなのだ。「あの方は盛んになり私は衰えねばなりません。」(ヨハネ3:30) 我が魂よ、なぜ絶望しているのか。神を待ち望め。

* * *

ヤコブよ。なぜ言うのか。
イスラエルよ。なぜ言い張るのか。
「私の道は主に隠れ、
私の正しい訴えは、
私の神に見過ごしにされている。」と。

あなたは知らないのか。聞いていないのか。
主は永遠の神、地の果てまで創造された方。
疲れることなく、たゆむことなく、
その英知は測り知れない。
疲れた者には力を与え、
精力のない者には活気をつける。

若者も疲れ、たゆみ、
若い男もつまずき倒れる。
しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、
鷲のように翼をかって上ることができる。
走ってもたゆまず、歩いても疲れない。(イザヤ40:27-31)


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