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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

遅くなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない

以下の記事では、私たちクリスチャンの内側には、誰しも一人ひとり、知らずにバビロンを建てあげてしまう誘惑の足がかりとなるような欲求が存在するということを見ました。

神の国を建て上げようとしながら、その実、最も御心に反するものを建て挙げてしまう危険性が一人ひとりのクリスチャンにあるのです。いかに人間が高慢に陥りやすく、真理を知っていることを自分の優位性を確保するために利用しようとするものか、いかに人間が目に見えるものに弱く、神以外に、自分たちの象徴となる目に見えるものを担ぎ上げようとする誘惑に陥りやすいかということを確認しました。

次の言葉は、私たち自身にも向けられているものとして受け取らねばなりません。一体、誰がその厳しい警告に耐え得るでしょう? 「あなたがたのうちの一番偉大な者は、あなたがたに仕える人でなければなりません。だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。しかし、忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、人々から天の御国をさえぎっているのです。自分もはいらず、はいろうとしている人々をもはいらせないのです。」(マタイ23:11-13) 

偽りに関してはまだ言わねばならないことが多くあります。しかし、今、私たちはこの議論をこれ以上推し進めないでおきましょう。こうしたことのせいでどんな混乱がクリスチャンの世間に起きているかは周知の通りです。しかし、このことで他人を裁くのではなく、私たちはまず自分自身が天の御国をさえぎらないように自戒しなければならないからです。引用した兄弟の言葉それ自体にも、「それ(地に根ざし自分たちの名を上げバビロンを建てる誘惑)は今この瞬間でさえ私達の心にも存在し得るのです。」と書いてある通りなのです。

最近、主が送って来られた人と、長い時間を費やして、今起きている事柄について真剣に語り合いました。雲のような証人がさらに現われ、私の知らなかった事実が明らかにされ、 宙に浮いていた疑問がいくつもの証拠によって裏づけられたようでした。私の中では落胆に近い感情が広がり、このもつれた糸のようなしがらみをすぐにでも抜け出て、もっと混乱のない人生を送りたいとの願いが起こるのでした。

しかし、主が引き止めておられることがいかなる場所でも感じられるのです。私は主に向かって言います、もうどんな戦いにも巻き込まれたくありません、私がどんな風に生きて来たかはご存知でしょう? なぜ私をそっとしておいてくれないのですか?

これに対して、主は答えられます、あなたは自分を私に捧げると言ったはずです、あなたは自分を自由にすることはもうできないのです、私があなたにさせたいことがある限り、それを避けてはなりません、そうでなければ、あなたの人生は一歩も進みませんよ。

私は答えて言います、しかし、あなたの御旨が分からないのです。事態はますます悪くなっているように見えます。最悪のシナリオがもう見えて来ました。賢明な人は傍らに退いて関わらないだろうと思います。聞く耳を持つ人はいません。どこにあなたの御旨を成就させる希望があるのですか?

しかし、それでも、答えは沈黙なのです。沈黙の中で、主は私の本当の願いを正直に言いなさいと促しておられるかのようです。あなたはあきらめるのですか? すべてをあきらめて、ただ脇に退いて予想通りの結果が起こるのを受け入れるのですか? それはとても簡単なことでしょうが、あなたはすべてを失うでしょう。それとも、それ以外の結論をあなたは願っているのですか? その願いのために犠牲を払うつもりはありますか? 言いなさい、あなたの真の望みは何ですか。私がそれに答え得ないと思っているのですか――?

そうです、目に見える風景は最悪のシナリオを辿っているように見えるかも知れません。かなりの割合で、それは客観的な事実でさえあるのかも知れません。世は――(多くは教会も一緒に)――あの悪霊につかれて崖を駆け下る豚の群れのように、雪崩を打ったように破滅へと落ち込んでいるように見えるかも知れません。

事態は常に最悪のシナリオを辿っているように見えるでしょう――。あの人、この人、すべてが誇らしげに自分の正しさを主張していますが、全員が間違っていることを私たちは心のどこかで知っているのです。深い偽りの闇があたりを覆い、どこにも真実らしきものがなく、当てになるものもありません。しかし、それが私たちの結論なのでしょうか? それが私たちの唯一の行き着く先なのでしょうか? まことの命なるお方がついているのに、まさかそんなはずがあるでしょうか。この暗い印象について意見を同じくしている人でさえも、私に向かって言うのです、「あなたがそう思うなら、あなたの役割はまだ終わってはいないのです。しなくてはならないことが残されているのでしょう」と。

どんな時にも、打つ手が一つだけ残されています。ただ主を見上げることです。

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)と言われた方はキリストただお一人です。あらゆるもつれた議論の中で、深い偽りの暗闇を駆逐し、何が真理であるかを真実お示し下さることができるのは、キリストご自身だけです。

キリストが来られる時、初めて、私たちは何が神の御前で真実であるのかを知ります。この方が来られて、初めて、私たちは真理とは何かを知り、この方によって初めて、無知の暗闇から連れ出され、まことのいのちの知識の中に入れられるのです。

ですから、主を待ち望むこと以外に解決はないのです。事態がたとえ最悪の展開を辿っているように見える時にも、全ての周りの混乱から目を離し、ただ主を見上げるのです! どんなに私たちが議論を重ねて偽りについての膨大な知識を蓄えたとしても、それによって、ありてある方に出会うことはできません。クリスチャンは決して偽りについて無知であってはなりませんが、知識による議論はますます人を迷わせ、まことのいのちなるお方を見失わせるのです。

ちょうどオリーブ園新着ブログに、クリストフ・ブルームハルトの「イエスは暗闇に打ち勝つ(3)」が連載されています。ここでもはっきりと指針が打ち出されています。

暗闇が至るところで支配しているが、特に我々の内側でそうである。それゆえ、各自警戒しようではないか。なぜなら気づかぬうちに、堕落の奴隷になってしまうおそれがあるからである。我々の最も貴い働きですら、汚されてしまうかもしれない。注意していないなら、神に関する事柄をもはや話せないおしのように なってしまうかもしれない(ルカ11:14)

喜んで、元気よく、楽しそうに神を見上げる人々をほとんど見かけないのは、おそらくこれが原因であろう。我々はおしになってしまったのである。人々は色々な種類の武器や力ある道具についてたくさん話しているが、誰が神の御旨について話しているだろう? その代わ りに我々が耳にしているのは、嘘や悪意ある言葉なのである。「この方法がよい」とある人が言うと、別の人は「あの方法がよい」と言う。しかし、
「神の御旨が願いなのです!」と誰が叫んでいるだろう?

キリストによる征服――キリストが到来して、自分たちの間で王国を偉大ならしめて下さること――を本当に願っ ている人が我々の中に誰かいるだろうか? キリストは主ではないのか? それとも、「自分で自分を救うことができる」と我々は思っているのだろうか?

イエスだけが暗闇から抜け出す道を我々に示すことができる。イエスは救いに導く神の力である
(ローマ1:16)砕かれて屈(かが)んでいる全ての人を、 イエスは和解させて下さるそれゆえ、たとえこの世がひどく引き裂かれている時でも、また我々自身の罪から即座に贖われる見込みがなさそうな時でも、我々は決して落胆する必要はない神が遅れておられるからといって、気落ちしてはならない。神はイエスの御名をもってこの世に証印を押されたのである。もしそうでなかったなら、我々はとうの昔に必要を抱えたまま滅んでいたであろう。

我々のときの声は、
「イエスは勝利者」である。特に今日、こ の叫びを何度も響かせなければならない。なぜなら、イエスはまだ地上におられた時、暗闇の軍勢に対するこの権威を授かって、その権威を今ここで行使し続けておられるからである(コロサイ2:9)

「しばし待て。そうすれば、あなたは暗闇の手から解放され、あなたの目は開かれる――その時、あなたは信じるだろう!」というのが我々の姿勢でなければならない。このような姿勢を取るなら、我々は初穂、光と塩、他の人々のための開拓者となるであろう。


以前に窮地の中で紹介されたハバククの言葉を私は思い出すのです。

「もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない。
見よ。心のまっすぐでない者は心高ぶる。しかし、正しい人はその信仰によって生きる。」(ハバクク2:3-4)


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