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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

目に見える望みは、望みではありません(2)

女は言った。「先生。あなたは預言者だと思います。私たちの先祖は、この山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」

イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない。そういう時が来ます。<…>真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4:19-24)

さて、神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。『そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」(ルカ17:20-21)


愛する私の兄弟たちよ、私はあなた方を大切な神の家族と考えており、あなた方を通して主が私に送って下さった光を否定しません。私はあなた方が血潮によって結ばれた兄弟であることを否定しませんし、その交わりから多くの恩恵を受けてきたのです。けれども、そのこととは別に、もう一度、私たちは全てのことを、よくよく御言葉に照らし合わせて吟味しなければならないと思います。

確かに、私たちはこれまでに得た知識や経験が役に立たない未曾有の時代に直面していると思います。が、だからといって、自分で物事を考える作業まで放棄してよいわけではありません。終末が近づいたからといって、何も考えなくて良くなったわけではないのです。むしろ、逆です。背教がはびこるにつれて、御言葉によりすべてを検証する必要性はさらに深まっているのです。ですから、決して思考停止に陥ってはなりません。聖書がはっきりと次のように勧めているのですから、もしも聞かされた最初の福音をしっかり心に留めていなければ、あっけなく(偽りへと)押し流されてしまうでしょう。

「ですから、私たちは聞いたことを、ますますしっかり心に留めて、押し流されないようにしなければなりません。もし、御使いたちを通して語られたみことばでさえ、堅く建てられて動くことがなく、すべての違反と不従順が当然の処罰を受けたとすれば、私たちがこんなにすばらしい救いをないがしろにしたばあい、どうしてのがれることができましょう。」(ヘブル2:1-3)

そうです、こんなにすばらしい救いを改ざんしたり、ないがしろにしたりするならば、私たちは処罰を免れることはできないのです。黙示録にはこうあります、「私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。」(黙示22:18-19) そのような恐ろしいことが私たちの身の上に起こらないように、しっかりと目を覚ましていなければなりません。

さて、以前に「目に見える望みは望みではありません!」という記事を書いたときにはまだ漠然とした予想に過ぎなかった事柄が、次第に具体的な現実になって姿を現してきているという印象を私は受けています。私はその記事を書いて後、再び兄弟姉妹の交わりに関わっていますし、今、目に見える集会全般からのエクソダスを唱えているわけでもありませんので、現在の私の姿勢は当時とは少し異なっているのです。

誤解のないように言っておきますが、現在、私は兄弟姉妹の交わりそのものを否定しているわけではありませんし、兄弟姉妹が一同に会し礼拝を捧げることの意義を否定しているわけでもありません。日曜礼拝を否定したり、クリスチャンの交わり全般からのエクソダスを唱えているわけでもありません。しかし、それとは別に、その記事において警告しようとした内容の重要性は当時も今も少しも変わらないと考えているのです。

もう一度書きますが、神の国はキリストの御霊による霊的な統治であり、決して目に見える物理的時空間に還元できるものではありません。歴史上、「教会の外に救いなし」と言った誤謬が広がったことがありましたが、そのようにして、神の国を目に見える時空間(教会の領域内)に還元しようとする考え方は、根本的に誤っているのです。たとえば、ある特定の時間、決まった建物の中、どこそこの集会に集っていなければ、その人は真理から落ちてしまったとか、神の国からふるい落とされてしまったというような考えが述べられる場合、それは根本的に誤りであるとはっきりと言えます。そのような考え方は、キリストが自由として下さった兄弟たちを再び、恐怖によって拘束するばかりでなく、神に捧げられるべき礼拝を人間が獲得した上で、この地に根付かせ、それによって自分たちの名を高く掲げようとの願望と一体となっているのです。(以下は前述の記事より部分的な訂正と加筆をしたもの)

「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」(Ⅱコリント4:18)

「私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。」(ローマ8:19-25)


何度も引用していますが、ある兄弟の言葉より

"エクレシア、コイノニヤの時空における現れは
臨機応変、伸縮自在、そして神出鬼没であるべきです。
何故でしょう、それは復活したキリストが正にそうであるからです。

そのような現在のキリストと聖徒達を、この世の何者も(そして多くの
キリスト者でさえも)捕らえることは出来ません。そしてまた決して
誰も自分のものとして所有することも不可能です


このような エクレシア、コイノニヤの姿には神の無限の知恵が
隠されています。この最後の時代 神はそのような復活の中の
隠された知恵を隠された方法で行使されるでしょう。
そのような有様のエクレシアのみが 遂には次の時代 
極めて圧倒的かつあからさまな王国の到来を招致出来るのです。

あなたがある固定された箱の中へ、固定された時間に行って見る時、
もしも 決まってある同じ人物が登場し、その人を見るために「お客」が
集まって来ると言う風景に固定的に出会うのであれば、そこには復活、
不死、無限の性質はなく、健康な人間性も見ることは出来ません。

そこで見られるのは
四隅を区切られた時空の中の限りある朽ち行く物質の性質です。
なぜなら その固定、制限、区別と言う箱(時空)によって限定された
ひと時内でのみ活動を許されている王は かつてのルシファー、
永遠の苦悩と恥辱と破滅の運命が既に固定確定されている
今現在のサタンであるからです。

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人は「キリストに似て非なる あるセンター」を持ちたがります。
先ずは ある人間を中心とする「自分達のワンセット」をある場所に固定し 
その上に安定的で堅固なものを建て上げようとします。


即ち人にある宗教性には ある時間と場所を定め そこに「立派な礼拝」を
構築したいとする強い願望があるのです


更に言えば そこには
「神への礼拝」を獲得した上で この地上に自分達を根付かせ自分達の名を
高く掲げたいと言う 人本来の宗教本能
が働いている
のです。


その達成の時には あの「大バビロンと言う名の女」は安心し誇って
言うでしょう、私は乏しい「やもめ」ではない、
拠り所がある 安定があると


<中略>
これこそが、全聖書が首尾一貫糾弾するバベルでありバビロンなのです。
そして現代 全世界のキリスト教宗教はかつて無かったほどの
「大いなるバビロン」構築に向かってまい進していると言ってよいでしょう。


そこにあるのは 神の言葉・黙示録が再三にわたって警告する
「地に住む」(原文では「地に座る」)と言う人の奥底に居座る根深い
願望なのです。それは今この瞬間でさえ私達の心にも存在し得るのです。



教会はただ「迫害の中、ゆくえ知れない旅のさなかに」初めて
出現するのです。あなたが死に向かう その途上にのみ現れるのです。

教会がこの地に居座ることなどありません。
教会に安定や固定などあり得ないのです。私達は単に 寄る辺無き 
何も持たない「やもめ」でなければならないのです。

わが民よ、この女から離れなさい。」(黙18の4)
「あなた方はシオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、
無数の御使い達の大祝会に近づいているのです。」(ヘブル12の22)


私の兄弟たちよ、この中にはいくつかの重要な警告が含まれています。まず、人間には、本来、神へ捧げられるべき礼拝を自分たち人間のものとして獲得し、自分たちの名を上げるために、その礼拝を地に根付かせようとする深い宗教的本能が備わっています。しかも、その欲求を達成するために、人が神ご自身ではなく、自分たちの目にかなう偶像を礼拝の中心に据えて、人を集団的な跪拝の対象としてしまうということが往々にして起こるのです。

これまでなぜ人々がキリスト教界へ向けて警告を発して来たのか、なぜそこで牧師制度が危険なものとして訴えられたのかを思い出していただければよいでしょう。それは牧師制度が、神と人との仲介者である主イエス・キリストに事実上置き換わってしまう危険性を持つだけでなく、この宗教「センター」の事実上の中心として目に見える偶像となってしまう危険性が初めから想定されているからなのです。ところが、これは牧師だけでなく、あらゆるメッセンジャーにもあてはまる危険性なのです。(兄弟たちに与えられた賜物の役割分担の一つに教師の役目があることは誰も否定しないでしょう。しかし、それが固定化された制度となっていくときに、私たちはメッセンジャーの偶像化という危険性に遭遇することになるのです。)

ドストエフスキーは終末にサタンの作り出す擬似キリスト教の特徴として、人が天からのパンである御言葉によって生きるのではなく、地上のパンと引き換えに権威に服従するよう求めることや、人々の憧れを満たす集団的で統一的な跪拝の対象をもうけること、奇跡、神秘、権威の上にその宗教体系が築き上げられることを述べています。

そのようなことは、反キリストの到来するときに最も大規模で起きるでしょうが、今も小規模で色々なところで見られるのです。「この山でも、エルサレムでもない」と、主がはっきりと言われた言葉に反して、礼拝のために地に自分たちの居場所をもうけようとする人々は、その礼拝に自分たちを喜ばせる偶像を据えて、その象徴によりすがって、自らの義や、権威や威信を主張します。また、人々をいかにも宗教的な気分にさせるために、さまざまな目に見える装置を編み出し、奇跡や神秘的出来事を求めます。その装置によって生みだされる効果を礼拝と同一視し、それに魅了されるだけでなく、束縛され、自由を奪われていくのです。それが霊ではなく、魂の領域に作り出された模造品に過ぎず、自分たちの行なっていることが、神の国を打ち立てることではなく、まさにその正反対で あることが分からないのです。

しかも、このように人工的に作り出された礼拝に働く共通の法則として、ある恐ろしい事柄が挙げられます。それは、人が御霊によらず、人工的に神の国を地上に作り始めると、必ず、それと一まとめになって、擬似十字架としての人間の恐ろしい自己懲罰が行なわれるようになることなのです。誰かがまず神の御名を用いて、 自分たちに都合の悪い一人の人を会堂から追放します。すると、粛清(浄化)の歯車は自動的に回り始めるのです。時とともに追放される人々の数はますます多くなって いきます。

そこでは、見せかけの「愛」や「憐み」の美辞麗句とは裏腹に、やがて断罪、粛清、追放が当たり前となり、それはやがてダモクレスの剣のようにそこにいる全ての人の頭上に迫るようになり、人々は恐怖の中でおびえながら集会に集うようになります。この粛清(浄化)とは、本来、十字架が果たすべき霊的な役割を、人の力によって成し遂げようとする代替物としての偽りの十字架に他なりません。

主イエスの十字架は霊的なものであり、人の内側からその人の自主性を侵害しない形で働き、その人の同意のもとに、信仰によって彼の肉、古き人を死に至らせます。ところが、御霊によらず、人間が自らの威信と力によって地上天国(神の国)を打ちたてようと試みると、人間が人間の力によって肉を殺し、そうして人間の努力 によって人々(集団)を浄化しないわけにはいかなくなるのです。それは強制によって行なうしかありません。ですから、人類が肉の力による自己浄化しようとする試みは、反対者の力づくでの追放と、肉の力によって新創造なる「新しい人間」を造り出そうとする絶望的に不可能な試みを生みます。それは懲罰や監視といった恒常的な抑圧を不可欠にしてしまうのです。どうにかしてふさわしくない人間を罰し、追放し、新しい人類を造り出すための仕かけを作らないことにはユートピア(神の国)は生まれないからです。

しかし、このように神の国を人間が人間の力で打ちたてようとすることほど恐ろしいことはありません。人工的な偽りの神の国と、それを生み出すためのしかけとしての人工的な偽りの十字架とは切り離せない関係にあります。人が神の国の模造品を自力で地上に作り出そうとするその試みにおいては、人の内側から働く真の十字架の代わりに、外的強制力によって人を変えようとする偽りの十字架としての懲罰が存在しないわけにはいかないのです。しかし、人間が人間を正しくふるいわけたり、裁いたり、罰したりすることはそもそも不可能ですから(それは神の領域に属する事柄ですから)、人類が自らの力で地上に神の国を打ち立てようとする試みは、一つの例外もなく、反人間的で悲惨な結末へと至り、内部闘争や分裂という形で自己崩壊していくことになるのです。

それでも、実に多くのクリスチャンが、この宗教的センターに魅了され、地に深く根ざしたバビロン――地上天国の建設の夢――を手放せなくなってしまいます。自らが地に座して、宇宙の中心となり、麗し い聖徒らも含め、神に属する全ての輝きあるものを自分自身のもとに集めて身を飾りたいという欲望――、それが「『神への礼拝』を獲得した上で この地上に自分達を根付かせ自分達の名を高く掲げたいと言う 人本来の宗教本能」なのでしょう。それは人がキリストの中心性を否定して、自分自身を宇宙の中心に据えようとすることであり、キリストの頭首権に人がすすんで服するのではなく、逆に目に見えるもの(人間自身)をキ リストに置き換え、キリストを信ずる人々を人間に服させようとする試みなのです。神に服すると言いながら、事実上は目に見える人(偶像)が中心となり、それに服することが求められているのです。にも関わらず、そうしている人々にはその実態が分からないのです。

聖書は、私たちクリスチャンはこの世では寄留者であり、やもめであり、地に住むこともできなければ、目に見えるもの、地に属するものを追い求めないように勧められています。それなのに、クリスチャンが自分ではあたかも天にあるものを求めているように思いながら、実際には神の国を目に見える地上の領域に建設しようと試み、目に見える集会に神の現われを見いだそうとすると、混乱と悲惨がもたらされ、しかも、どういうわけか、多くの場合、それは一方では行き過ぎた懲罰、禁欲主義を生むと同時に、もう一方では、肉の欲の解禁のような放縦、むさぼりに結びつくのです。

世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。」(Ⅰヨハネ2:15-17)

御霊はすべての物事を目に見えない領域から始められます。神の国とその義、それは決して目に見える地上にある何かではありません。賛美や、祈りや、人の視覚や聴覚などの五感によってとらえられる礼拝形式のことでもありません。特定の時空間や、教会内の領域のことでもありません。はっきりと聖書に書かれています、私たちは「この地上に永遠の都を持っているのではな」いと。目に見えるものは、目に見えないものから生み出される結果に過ぎず、目に見えるものが本当のリアリティではないのです。真の礼拝は霊と真理を持って始められるものであり、目に見える礼拝形式はその結果や表れの一つに過ぎません。

ところが、サタンは目に見えるものこそ真のリアリティであるかのように人間に思いこませ、人が目に見えるものに心奪われ、 そこにあるものが礼拝の本質であると誤解し、その目に見える形式に束縛されていくよう仕向けるのです。そこでは、見えないものは非現実的空想であると言われて軽視され、結局、目に見えるものが真のリアリティであると謳われるのです。もしそのような観点から礼拝をとらえるならば、礼拝とは目に見える形式や効果それ自体であるということになり、人の五感でとらえられるものが事実上、礼拝と同一視されるのです。ですから、たとえば、その目に見える礼拝形式を拒否することが、霊と真理による礼拝そのものを拒否することと同一視されてしまうのです。ああ、これは人間の感覚によって礼拝をおしはかることですから、神ご自身の観点を無視しており、冒涜的と言っても良いくらいの考えなのです。それが肉にあっての人間のものの見方です!  しかし、これは偽りなのです!

今日、多くのクリスチャンが、目に見える地上に神の国を打ちたてようとした結果、目に見えるさまざまな礼拝スタイルを絶対視するようになったり、目に見える指導者のメッセージを真理と同一視するよう求められたりして、目に見える交わりに束縛されていながら、それでも、自分たちは目に見えるものを追い求めているのではなく、それによって神を正しい方法で礼拝しているのだと思っているのです。

しかし、真理はそれとは逆です。聖書は目に見えるものではなく、目に見えないものこそが真のリアリティであることを告げます。この目に見えないものとは、ロゴスとしての神の言葉であり、見えない神のかたちである御子キリストご自身のことです。

信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。」(ヘブル11:3)

御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方ですなぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。」(コロサイ1:15-16)


私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」(Ⅱコリント4:18)

「私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。」(ローマ8:19-25)


私たちは今たとえ交わりのために地上のどこかへ集まっていたとしても、本質的には、見えるものに望みをおかず、来たらんとする見えない都を待ち望む民です。私たちは地に座して、地のさまざまな富と栄光に満たされて、「私は女王の座に着いている者であり、やもめではないから、悲しみを知らない」(黙示18:7)と いうバビロンを憎み、離れ去るのです。バビロンは常に自分が中心に座し、自分が権威となり、自分のもとへすべての人々を集めようとします。

ところが、私たちキリスト者の立場はこれと正反対で、私たちは全世界に遣わされて出ていく者であり、自分のもとへ人々を集めるのではないのです。私たちは地上のどこにも座を持たず、地に拠り所がありません。主は言われました、「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」(マタイ9:20)。これがキリスト者の道です。私たちも宿営を後にし、門の外に出て、キリストのはずかしめを身に負いつつ、信仰によって見えない方を仰ぎ望み、まだ見ぬ安息の地へ向かって歩んでいくのです。

「…イエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました。ですか ら、私たちは、キリストのはずかしめを身に負って、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。私たちは、この地上に永遠の都を持っているのではな く、むしろ後に来ようとしている都を求めているのです。」(ヘブル13:12-14)
 

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