忍者ブログ

私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

わたしを信じる者は、その人の内から生きた水が川となって流れるようになる。(2)

渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れるようになる。」イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている”霊”について言われたのである。」(ヨハネ7:37-39)

「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。


死は勝利にのみ込まれた。
 死よ、お前の勝利はどこにあるのか。
 死よ、お前のとげはどこにあるのか。

死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」(一コリント15:54-58)

* * *

「求めよ、さらば、与えられん」「叩け、そうすれば開かれる」
信仰を持たない一般人の間でも、ことわざのように使われるこの言葉は、実は聖書から来ている。

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」(マタイ7章7-12)

ある時、一つの大きな問題をどう解決したものか、考えあぐねていた時、ふとしたことから、裁判官を通じて貴重な助言を受けた。民事訴訟法においても、民法上でも、信義則というものが存在する。これは伝家の宝刀のような規則であり、私たちが普段、法に縛られていることを認識していないようなことがらを裁くときに使える法である。

たとえば、行政法の多くには罰則規定がない。そして、罰則規定があったとしても、行政法は個人の権利義務を定めたものではないので、行政法に違反しただけでは、個人の権利が侵害されたとはただちには言えない。そういう時に、民法上で権利侵害を主張するために利用することができるのが、この法である。

その他、たとえば、訴訟の相手方が、特段の理由もないのに答弁書を送ることを先延ばしにして、訴訟をいたずらに長引かせる行為に及んだとか、何一つ相応の根拠もないのに、準備書面に虚偽の事実を書き記して、相手方への誹謗中傷を書き連ねるなどした場合にも、訴訟における信義則違反を主張できる。

あまりにもひどい内容が訴状や準備書面に書かれており、どのように制止されても、警告を受けても、紛争当事者がそれを聞き入れることもなく、いつまでもただ相手方を中傷するためだけの相応のない主張をだらだらと続けるようであれば、訴訟においても、信義則違反、また、名誉毀損等に問うことを考えた方がよかろう。

裁判官とはどんなに短くとも、話すことがとても有益であると言えるのは、ほんの短い助言から、実に多くのことが分かるからである。

思いもかけない時に受けた助言であったが、それを受けたおかげで、当時、どうしても理不尽なので黙って通り過ぎることはできないと思った問題を、解決する糸口が見え、途中であきらめなくて本当に良かったと思った。

このように、あきらめず根気強く主張を提示し、助言を探し求めることは、決して無駄にはならない。それは警察官との間でも同じであった。今はまだ何も起きていないように見えるため、どれだけ多くの人たちが筆者を支えてくれているのかも、外側からは全く見えないことであろうが、筆者を迫害している人々についても、すべての情報は共有されている。

これまで多くの困難を乗り越えながら、根気強く関わりを続けることで、互いに信頼できる関係が時間をかけて築かれて来たのである。
  
昨今は、そのように不思議な協力関係を生む出来事が続いている。

一つ前の記事にも書いた通り、人々に罪を告げるというのは、とても嫌な役目を果たすことである。 何かを理不尽だと主張したり、他者を告発することは、告発された相手が、それを不快に思い、信頼関係が崩れたり、報復を受けるきっかけとなりかねない怖さをはらんでいる。

筆者はそれでも、悪者にされることを覚悟でものを言うし、どんな相手に対してもひるまない。それを無防備だと考える人も、あるいは蛮勇だと思う人もあるかも知れないが、ところが最近、筆者の周りでは、どういうわけか、そんな筆者の無防備さを、さらに力強い防衛の力によって覆い、どこまでも味方になって追いかけて来る人々が出現し始めた。

筆者が何かを言ったことによって、信頼関係が壊れるのではなく、むしろ、壊れたと思う信頼関係までが、回復することが続いている。そして、それは筆者の力ではなく、上からの力である。

それが始まったのは、昨年の当ブログを巡る訴訟の最中であった。筆者は裁判所以外には主張を訴える場所もなく、他に助言者も協力者もいないような状況で、自ら助けを求めて裁判所に駆け込んだのだが、その際、前にも書いた通り、原告となった筆者は、法廷ではないところで、裁判官と直接、対面して弁論準備手続きを進めることのできる「役得」にあずかった。

そのため、被告と電話がつながっていない時に、裁判官と打ち合わせをすることもできたのである。これは本当に大きな恩恵であったと今も感じている。

ある時、審理が大荒れになり、裁判官が議論を制止して、被告との電話会議が終わった。すでに何度も言及した通り、その時には、被告らから反訴の予告があり、もはや当事者の心はバラバラとなり、原告と裁判官との信頼関係も壊れたかに思われた。

だが、筆者は発言を遮られたその後の打ち合わせの時に、忌憚なく裁判官に心中を打ち明け、激論を戦わせたのであった。

「お願いです、発言を遮らないでください、最後まで言わせて下さい。」

というリクエストから始まり、筆者がこの訴訟にかけている思いの丈を裁判官に伝えたのであった。どんな結果が出ようと、裁判官のせいにするつもりはないと告げ、それでも、明らかにせねばならないことがたくさん残っている以上、筆者はそのために犠牲を惜しむつもりはなく、まだまだ労苦せねばならないこと、そして、筆者が求めているのは、真に正しい判決であり、ただ早く紛争が終わって解決されることではないのだという思いを伝えた。

率直に思っているところを伝えているうちに、裁判官はしまいには事情をすっかり理解してくれたのであった(そのように見えた)。

ちなみに、断っておくと、激論を戦わせたというのは言葉の綾で、裁判官はほとんど心中を述べないので、実際には議論があったわけではない。

それでも、話の最後に、裁判官が、「今、分かったことがある」と、決然とした表情で言ったとき、筆者は、思いが通じた、という気がして、一瞬、表情を緩めた。

だが、裁判官はその瞬間、立ち上がって深々と礼をして、原告と書記官だけを残して、一人部屋を立ち去って行った。

どんな印象を受けたか、どんな結論に至り着いたか、決して当事者の前で自らの判断を口にしてはいけない裁判官の鉄則を守ったのである。

だが、筆者は、まるで返答の代わりに、深々とお辞儀をすることで、「よく言ってくれた。ありがとう」と、言外に言い表されたように感じ、ちょっと面食らい、照れくさくなった。

もちろん、その時、裁判官が筆者の言葉から、実際に何を受けたのかは知らない。だが、当事者の切なる痛み苦しみを、真正面から受け止めてくれた裁判官は、信頼に値するだけでなく、男らしく、頼もしいと感じた。

筆者は、決して安易な慰めの言葉や、自分にとって有利な決定が欲しくて、発言したわけではない。そこには、何の約束も、取り引きもなく、ただ筆者の苦悩があっただけかも知れない。

反訴を予告されるなど、全くもって誰にも望ましくない混乱としか言いようのない状況であったが、筆者は、それでも自分のことを気遣う前に、裁判官に恐怖を覚えてもらいたくなかったし、ただ物事が紛糾して欲しくないという思いから、紛争が手に負えなくなったという印象を持って終わってもらいたくなかった。何よりも、そんなつまらないことで、互いの信頼関係が断ち切れるのが嫌だったのである。

その時初めて、筆者は、どんなことをしても敵に渡しくないと願う人に出会った。というより、自分自身がどんなに追い詰められても、自分をかばうのではなく、自分と共に協力して働いてくれている人をかばわねばならないという心境になったのである。

裁判官の思いは、筆者の思いであり、彼の行動は、筆者の行動であり、その判断は、筆者の人生を左右するものであり、決してこの人を敵に渡すわけにいかないから、信頼を壊すものを排除せねばならないと覚悟して、発言したのである。

だが、その時、筆者が予想していたよりももっと、裁判官には、人の苦しみを深く理解し、受け止める力があり、その用意がある、ということが、言外に伝わって来た。

筆者が語ったことを、決して迷惑だとも、鬱陶しいとも思わない裁判官の態度があった。それは、書面においても同じであった。審理の行く末に影響を与えることがらだけでなく、そうでない内容も、たくさん書いていたが、それを鬱陶しいとか、時間の無駄だから、事実関係に関することだけに的を絞ってもらいたい、などといった忠告を一切受けたことがなかった。

その頃から、裁判所というところは、筆者にとって「干潟」と感じられるようになったのである。誰も取り扱うことができないようなこじれた紛争、誰が本当のことを言っているかも分からないような錯綜した紛争、もつれた人間関係と当事者のおさまらない思い、誰一人受け止めることもできないような深い苦悩の伴う紛争をも、丹念に解きほぐし、事実を究明していく力を持った人々がそこにおり、何よりも、人の深い苦悩を受け止める力を持った人たちがいる。
 
もちろん、裁判所で出されるすべての決定や判決が何もかも正しいというつもりは毛頭ない。証拠がなければ、真実な訴えも、認められないのが裁判なのである。だが、それでも、人々の切なる思いを汲み上げ、真実な裁きを下すことが、裁判所の使命であることに変わりはない。

そして、裁判官の中には、それができるだけの包容力や、理解力も備わっている人たちが、ちゃんといることを筆者は信じている。そして、事実、それを確かめて来たのである。

その上、筆者が不利な立場に立たされても、その時には、また別の人たちが現れて、助けの手を差し伸べてくれるようになった。どういうわけか、後から、後から、助言者や、助け手が現れるようになったのである。

「ヴィオロンさん、こんなにもはっきりと、ものが言えるのはあなただけです。他の人にはできません。私たちは、あなたが自分勝手な思いから発言しているのではないことを知っています。だから、私たちはあなたにバトンを託します。負けないで下さい。」

まるでそう言われているかのように、援護射撃がどこからともなくやって来る。
 
不思議なことに、当ブログを巡る訴訟とは関係のないところで、争いや混乱が起きたり、あるいは起きそうになって、信頼関係が壊れそうになるときにも、昨今は、 聖書に、兄弟から訴えられたらすぐに和解しなさいと書いてある通り、この世の信仰を持たない人たちが、あたかも筆者の兄弟のごとく行動して、和解の手を差し伸べて来るようになった。

「あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。はっきり言っておく。最後の一クォドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」(マタイ5:23-26)

信仰を持たないはずの人々が、信仰者を標榜している人たちよりも、もっと真摯に悔い改めて、筆者に和解を呼びかけるのである。

筆者は自分をかえりみない。良く思われようとうわべを飾ることもなく、ご機嫌取りもしないし、誤解されても、弁明しようとも思わないが、どこからともなく、そんな筆者のために、誤解を解こうとしたり、駆け寄って自ら和解しようとしたりする人が現れるようになった。

筆者がどうしても理不尽だと思うことについて、身を挺して本気で主張すると、どういうわけか、すぐに駆け戻って来て、心をなだめ、和解のために手を差し伸べる人たちが現れるのである。

それも、深刻な争いになることを恐れているためでは決してない。その行動の背後に、筆者に対する、もちろん、それ以外の人々に対してもだが、深い愛情や、信頼のようなものが感じられる。

要するに、筆者を惜しみ、筆者との関わりが断ち切れてはならないと惜しみ、そして、筆者の主張の中に込められた真実を見失ってはならないと思うがゆえに、筆者の非難の言葉を聞くや否や、たちまち駆け戻って来て、和解の手を差し伸べるのである。

そういうことが、最近、どういうわけか、連続して起きるようになった。

そんなわけで、これまでのように、意を決して憎まれ役に徹しようと思っても、それができない時がやって来たのである。

つい最近も、当ブログを巡る訴訟に携わってくれた裁判官によく似た経歴を持つ人が、しばらくぶりに筆者の前に現れて、争いが起きるよりも前に、友のように手を差し伸べてくれた。

長い別離の期間中に、誤解はうず高く積み重なり、当初の信頼はすっかり薄れ、互いにそっぽを向いて、関わりも悪化して終わるだけのように思われた。
 
「ごめんなさい。もうきっと遅い(手遅れだ)と思います」

と、筆者は当初、すげなく言ってみたが、相手は全くひるむことなく、しかも卑屈ではない態度で首を横に振った。

「そんなことは決してありません。あなたの主張を私は止めるつもりはありませんが、今ここで話し合っているのに、問題が起きることはありません。あなたが望んでいることを率直に言って下さい。応じられる限度があるとはいえ、できることは応じましょう」

筆者は驚いた。この人には、筆者のような立場のない年下の者からもの申されて、腹を立てたり、プライドを傷つけられたと感じる心はないのだろうかと。そんな人間に自ら譲歩するなど正気だろうか。そこで言ってみる。

「私のような人間から、何かを言われれば、それだけで、信頼関係が壊れた、と腹を立てる人もあると思います。たとえ正論であっても、これ以上、何も言われたくないから、耳を塞ぎ、関係を断ち切る、という人もいると思いますが?」

「確かにそういう人もいるでしょう。でも、私はそうしません。あなたの言っていることが正しいのであれば、それは実行しなければいけないと思います」

筆者は、その相手から、何か反撃らしき言葉が投げかけられるのを待った。怒りだけでなく、蔑みや、嘲笑や、悪意でも良い。だが、その人は筆者を責めない。言いたいことは山ほどあると思われるし、材料にできるものもあるかも知れないのに、決して責めず、攻撃の言葉を使わない。権威を持って威圧しようと思えば、それもできるのに、そうせず、その代わりに、言った。

「でも、あなたも最初に約束してくれたことを守ってくれなくてはいけませんよ?」

拍子抜けするほど、争うつもりのないその姿勢を見て、筆者は、ただ頷かざるを得なかった。当ブログを巡る訴訟を担当してくれた裁判官、そして、筆者に助言をくれた裁判官を思い出すのだが、彼らと同じように、その人にも、筆者のすべての負の思いを吸収し切ってしまうくらいの包容力と理解力があった。

いわば、筆者の側で感じている悲嘆、悩み、苦しみなどは、すべてお見通しだと言えるほど、言葉にしなくとも伝わる人間力のようなものがあったのである。

それだけの理解を受けていることが分かると、どんなに立腹する瞬間があっても、この人の言い分には決して逆らえない、この人を傷つけることはできない、この人と争うこととはできない、と思わされてしまう。

そして、絶対にこのような人を敵陣に渡すことはできないから、何としても信頼関係を失うことはできず、問題が大きくなるよりも前に、関わりを修復しよう、と思わされる。

前から書いている通り、キリスト者はみなそうであるが、筆者にも、人々に対する試金石としての役目がある。確かに、筆者にも未熟なところはあり、それゆえ、誤解が生まれることもあるのだが、その未熟さや誤解もすべて含めて、筆者に対して、人々がどういう態度を取るのかが、その人たちのその後の命運を分けてしまうのである。

もしも筆者が若輩者だから、未熟だから、力がないからと、あるいは性別により、筆者を見下げ、その主張を退け、筆者を踏みにじってしまうと、その後、決定的にその人々は暗闇の軍勢に引き渡されて、その後の人生を狂わされてしまう。

それも、並大抵の狂わされ方ではなく、誰が見てもおかしな人生を送り始めることになってしまうのである。それが、彼らが暗闇の勢力に引き渡されたことの証左である。

ある時は、団体まるごと、暗闇の勢力に引き渡されることもある。そうなると、その団体はもはや栄えることもできず、四、五年もする頃には、何かのスキャンダルに見舞われて不正が明らかになるだけである。

だから、筆者は、愛する人々を、決して敵に渡したくないという願いを持つようになった。人々が筆者に対する恨みに燃えて、自分は裏切られた、見捨てられた、罪に定められた、プライドを傷つけられた、信頼されなかった、という思いだけを抱えて、生涯を地獄の業火で焼かれて、憎しみと復讐心だけを糧に過ごすようなことには決してなってもらいたくはないし、もしも人々の心を取り戻せるなら、何としても取り戻したい。

昨今、筆者に和解の手を差し伸べた人は、筆者の非難の言葉をことごとく吸収してしまい、筆者の新たな要望をかなえる代わりに、筆者にも新たな約束をさせた。

敵かも知れないと身構えていたその人は、筆者に向かって、頼もしい友になれと、有力な助言者になれ、参謀になれ、カウンセラーになれ、といったニュアンスのことを言ったのである。

筆者はまたしても驚いてしまった。筆者よりも強い立場にある者が、筆者に助言を求めるなど、あって良いものだろうか。しかも、あわや敵対関係に陥るかというときにである。

だが、そのへりくだりに、筆者はすっかり戦闘意欲を失い、むしろ、懐柔されてしまったのである。争い事としては、これでは徹底抗戦ができないので、敗北なのかも知れないが、人間関係としては、そうではない。

むろん、これは最終的な和解というよりも、むしろ、おそらくこれから提携して大きな困難を乗り越えなければならない奮闘の始まりとなる可能性があるが、それが分かっていても、やはり人は孤軍奮闘するのではなく、協力することでしか立ち向かえない困難があることを思わされる。

筆者は、これまで自分の持っているエネルギーの使い道がよく分からず、悩んで来た。職場などでも、博士号を持っているか、博士課程で学んだような人たちを何人か身近に見かけたが、その人たちはいずれも、常人を上回る非凡で圧倒的なエネルギーを持っていた。

それと同じように、司法試験を受けて裁判官や弁護士になったりする人々にも、常人の及ばない巨大なエネルギーがあると思われる。それは生まれ持った人間としての器の大きさ、力量の大きさである。

しかし、これまで筆者は、そういう人たちに関わることも非常に少なかったので、自分の持っているエネルギーを上回る力を持つ人に出会うこともなく、筆者の主張や思いを真正面から受け止める力量のある人もおらず、それだけの知識や、経験を持つ人もおらず、助言を受ける機会も、理解を示してもらう機会もほとんどなかった。

むしろ、弱い犬ほどよく吠える、といった具合に、力の弱い人は、自分が攻撃を受けていると少しでも感じると、もうそれに耐えられず、ものすごい勢いで吠えかかってきたりもする。

悪意などなくとも、ほんのちょっと誰かから何かを言われただけで、生涯、恨みに燃えて、復讐しようなどと考えるほど、器の小さい人も、世にはいないわけではない。

だが、大きな犬は、小型犬から吠えられても、びくともしないし、ゆったり構えている。それどころか、遠くから小型犬の姿を見かけただけで、威圧せずに、敵対心を和らげることもできる。

大きな犬と小さな犬が、仲良く互いの面倒を見ていたり、犬と小鳥が友達になったりしているのを見るのは、とても快い、慰めに満ちた光景である。

そういうことが、人間としての器の大きい人には簡単にできてしまう。敵対者さえ魅了し、自分に対するすべての不利な訴えを、何の策略も打算もなしに、到達前に空中で打ち砕いてしまうことができる。

だが、それには、人間としての力の大きさがものを言うだけでなく、やはりへりくだりのためであろうと思わずにいられない。

人々が、自分よりも弱く、無力な者の訴えの前に、率直にへりくだり、悔い改めや、和解や、譲歩や、償いによって、新たな関係を結ぶことを申し出るのを見るとき、何かしら得も言われぬ感動を覚え、彼らが立ち帰ったことが、我がことのように嬉しく、筆者はそういう人たちに対して全く闘う意欲がなくなってしまうのである。

以前には、筆者は主張を受け止められず、むなしい奮闘しかしていなかったかも知れないが、今は、筆者よりも強くて、心ある善良な人たちが、筆者の悲しみも、痛みも、苦しみも、怒りも、悩みも、ためらいも、小骨を取り除くように、丹念に取り去って行ってしまうので、筆者は議論の途中で、むしろ、彼らのファンか、心強い味方か、友のようにさせられてしまう。

これは明らかに筆者よりも強い者が現れたことを意味する。筆者にはない力を持ち、そして、筆者の弱い所を覆い、欠けた所を満たし、痛みを和らげることのできる共感能力と権威を持った人たちが、一人ならず現れ始めたのである。

そういう状況に、筆者は深い慰めを覚えている。

動かない壁に向かって、何かを訴え続けるのは、とても骨の折れる作業であり、それが耳の痛い苦言を他者に向かって呈するような内容であれば、嫌われたり、憎まれ者になることも覚悟せねばならず、非常につらいことである。そういう風にしてまで、何かを言わねばならない立場は、孤独かつ痛みに満ちたものである。

しかし、それを聞き入れて謝罪と償いと和解のできる人たちが次々と現れるとき、その言葉の意味は全く違ったものとなる。

筆者が、他人に悔い改めを迫るなど、全くおこがましい作業に思われるかも知れない。だが、筆者は、指導者や、権威者としてそんなことを他者に向かって命じているのではなく、人を辱めるために言うのでもなく、ただ自分自身のやむにやまれぬ思いを、そして、正しいと信じることがらを打ち明けているだけである。
 
筆者自身も、筆者の言葉も、未熟で不正確な部分があることであろう。それにも関わらず、人々が筆者の呼びかけの前に、へりくだってひざを折り、対立を乗り越えて、自分の歩む道を変えて行くのを見させられるとき、何かそこに筆者を超えた力が及んでいることを思わないわけにいかない。

筆者の忠告を無用なものとして退け、憤りに満ちて立ち向かったり、無視して通り過ぎるのは、実に容易である。それなのに、取るに足りない筆者の忠告の前に、自らひざを折り、へりくだり、あなたには何が必要なのかと問うて来る人々の姿を見るとき、また、彼ら自身にも、筆者の力が必要だという言葉を聞かされるとき、何か今までとは全く違った関係性が出来つつあるのを感じる。

筆者がどんな人間であれ、真実を訴えたことで、壊れない関係が現れたのである。うわべだけを取り繕い、互いの耳に心地よい言葉ばかりをささやきあっているから、関わりが続くというのではなく、本当のことを言っても壊れない、これまでとは異なる関係が、次第に、姿を現し始めたのである。

こうして、決裂し、壊れるはずだった関係が、修復され、告発されていた人が、罪赦されて歩き出すのを見、裁判所へ向かう道すがら、訴えたはずの相手が追いかけて来て、和解を呼びかけ、償いを申し出、途中まで書いていた訴えを、筆者が自ら破り捨てることとなり、判決によって不法行為の認定を受けて当然の相手が、潔白となり、それを見て、筆者自身が、まるで自分が解放されたかのように、大いに喜ぶ・・・。

そんな具合に、悔い改めと、罪の赦しと、償いと、和解が、これでもかというほど連続して起き、人々が解放されるのを見ることで、筆者は、本当に喜びと感動を覚えるようになった。
 
しかも、それによって筆者が傲慢になったり、栄光を受けたりすることもないのである。相変わらず、筆者は見栄えのしない干潟そのものであり、権威を持って命令する立場にはなく、むしろ、うわべは、筆者が罪に定められているようにしか見えないので、何かが筆者の功績だとたたえられるようなことは決してない。

筆者にとって大切なのは、自分自身ではなく、人々が正しい道に引き戻されて、自分を縛っていた罪による告発の力から解放されることである。

病も、死も、根本的には、何もかも人を縛る罪の力から来る。

その力を源から断ち切ってしまうことにより、人々は解放される。だが、そのためには、誰かが彼らに対して真の意味での和解勧告をなし、人との和解だけでなく、神との和解の可能性があることを告げなければならない。

知らずに罪によって浸食されている部分に対し、十字架の切り分けの力がどうしても必要なのである。

筆者は、そういう意味で、筆者自身の中に、何か非常に不思議な解放的な力があって、それをこれまで周囲の人々が、何としても引き出そうと、筆者に殺到して来たのを知っている。だが、それを引き出す秘訣を知っている人たちは非常に少なかったため、多くの人々は、それを得られないまま、むしろ、筆者の不倶戴天の敵のようになって去って行った。

だが、そうした決裂が何度起きても、今なお、筆者は自分の中に「干潟」が存在していることを知っている。そして、これが機能するための設備を建設し続け、その可能性を開発し続けている。

そうしていたところ、その設備が間もなくフル稼働するというときに、真っ先に、その水が欲しいと名乗り出る人たちが現れるようになった。筆者が常に追い詰められて、生きるだけで精一杯となり、その上、争ったり、戦ったりしているだけのように見える中、どうして彼らは、それでも、筆者の中に、彼らのための慰めや解放や平安が用意されていることを知っているのか。

なぜ筆者から甘い言葉を聞かされるのではなく、耳の痛いことを言われている最中に、筆者の中に、彼らのための慰めがあることを、この人々は察知するのだろうか。
 
だが、他ならぬ筆者自身が、それが確かにあることを知っている。そして、それが現れるために、筆者自身が、打ち砕かれねばならないことも知っている。そのために、一時的に、誤解を受けたり、憎まれたり、悲しみを負うことも避けられないのであり、栄光ではなく、痛みや、恥や、蔑みを負わねばならない時もある。

だが、たとえそのようにしてでも良いから、何とかして、罪の力から、死の力から、人々が解放されて、自由になって欲しいというのが、筆者の切なる願いであり、そのためにこそ、筆者は天の秩序を地に引き下ろそうとして奮闘しているのであって、そのためにこそ、すべてを主張している。

それは、告発のための告発ではなく、人々が告発から解放されて、自由になるための第一歩である。

なぜそんな苦労を背負わねばならないのか、知らないが、それでも、ただ心の命じるままに進んで行くのみである。何があっても、その奮闘を恥じるつもりもなければ、自ら退却するつもりもない。

だが、本当に不思議なことに、わざわざ決意のほどを語らなくとも、以上に記した通り、人々が筆者の敵になるどころか、自ら謝罪と償いと和解を求めて、駆け寄って来るようになった。しかも、それがすべて信仰を持たない世人ばかりであることに、筆者は改めて意義深いものを感じている。

今、救いをもたらす福音は、もしかしたら、神の家から取り上げられて、その他の人々に向いているのかも知れない。
 
これらの人々は、筆者の人生において、出会うべくして出会わされているのであって、多分、これからもかけがえのない役目を果たしてくれるだろうと思わずにいられない。

いずれにしても、それはすべて主のなさる解放のわざであって、筆者の手柄ではない。

当ブログの題名の通り、高く掲げられるのは「私」ではなく「キリスト」ただお一人なのである。彼は栄え、筆者は衰える。それが命の水が流し出されるための唯一の原則である。
PR

何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。

「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。わたしたちは、願い事は何でも聞切れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります。」(ヨハネ一5:13-15)

ここ一週間、曇天と雨が続き、それに合わせて、心を曇らせる出来事が山のように起きた。

だが、同時に、誰かが筆者のために、非常に心を砕いて心配してくれていることも、ひしひしと伝わって来た。

そういうことは、これまでにも幾度かあった。 筆者の身を案じてくれているのが、誰なのか分からないこともある。もしかしたら、御使いなのかも知れない。

それでも、苦難がやって来るときに、錯覚とはとても思えないリアルな感覚として、本当に筆者のために心を悩ませてくれている人がいることが伝わって来る。誰であれ、そういう人がいると分かると、心が慰められるし、立ち上がって、圧迫を粉砕するため、何度でも奮闘しようとの力が湧いてくる。

昨朝、目覚めた際、懐かしい知人が、まるで顔を覗き込み、「ヴィオロンさん、大丈夫ですか 私はあなたの味方ですからね」と、幾度も語りかけているように感じられた。

何をそんなに心配されねばならないような理由があるのかと、その時は思ったが、理由はあとになって分かった。その慰めは、しばらく経った今も続いている。これは主から来た慰めなのか、それとも、人から来たものなのか、御使いによるものか、知らない。だが、至る所で、特別な配慮に満ちた励ましをそば近くに感じる。

だから、筆者は出来事に振り回されることはなく、また、人の思いとは一切関係なく、静まって、内なる気力を養い、虚偽と、不当な制約と、死の宣告を打ち破るために、何が必要なのかを神に知らせて下さいと願うのみである。

サタンからは、絶え間なく、筆者のもとに「あなたは値しない」という証書が届く。

「あなたが望んでいることは、あなたに値しない」「あなたの言い分は、あなたに値しない」「あなたの願いは、あなたには値しないから、あきらめなさい」「あなたが抱えている不自由と苦しみと制約こそ、あなたが選んだ、あなたにふさわしいものである」

しかし、筆者は、その証書を破り捨て、サタンの言い分は粉砕し、さらなる自由と解放を求めて、神が望んでおられる道を歩いて行くために必要な知恵と手立てが与えられるように天に願う。
 
突飛な話と感じられるかも知れないが、このようなことについて考える時、筆者はどうしても、人を生かす力は、女性にはなく、男性からやって来る、と思わざるを得ない。

このところ、筆者に関わる全く同じような手続きを、女性と男性の二人の権威者が、違ったやり方で成し遂げるのを筆者は見させられた。

その結果、この二つのケースにおいて、ほとんど同じ状況で、180度異なる結論が出たのである。

女性は、筆者に自由や解放を与えず、困難を乗り越えて信頼を維持し、手続きを成功裏に導くことができなかった。それだけでなく、筆者に疑いを抱き、大きなダメージを与える結果をもたらしたが、他方、男性は、そういう困難を打破して、根気強く、誰もが生きられるような結論を導き出すことができた。

この二人が相手にしたのは、筆者という同じ人間である。この二つのケースがあったおかげで、筆者は、何もかもが自分の選択の結末ではなく、誰を相手にするかによって全く結論が変わって来ることを思い知らされた。

女性は早々に筆者に向かって、信頼を手放し、望みをあきらめるよう釘を刺したが、男性はそのようにはしなかった。だとすれば、信頼を維持できないことは、必ずしも筆者の側の責任ではないことが分かる。
 
筆者の目には、女性には、困難を根気強く乗り越えながら、互いに信頼を維持し、願っている自由へ向かって、あきらめることなく、手を携えて進んで行く能力が、そしてそのために苦しみを負う能力が、男性に比べ、極度に不足しているように見えてならない。

だから、女性との連帯は、困難が来るとすぐにあっけなく壊れ、かえって女性が女性を束縛し、死に導くという結果が起きてしまいがちなのである。

こうした出来事を筆者はこれまで山のように見せられて来た。職場でも、それ以外の場所でも、女性に自分の決断を委ねようとすると、なぜか命に至り着くどころか、束縛と、死の宣告を受け、死に触れることになるのである。

最近、その傾向がますます強まっており、女性が筆者にもたらす死の力は、何かしらものすごいものとなっているように見受けられるため、一体、これは何なのだろうかと、どうしたらそのような影響を防げるのかと、筆者は考えさせられている。

虚無に服した被造物全体を象徴する女性が、非常に美しい笑顔で笑いながら、死神のように、サタンが作った債務証書を筆者に突きつける。

「あなたにはこの限界がふさわしい。いい加減、あきらめてそれが自分の運命だと悟りなさい。私もあなたと同族で、大きな制約を負って生きてきたのです。なぜあなたは自分だけがそこから逃れられるなどと思うのですか。そんなのはわがままです」

だが、筆者はそれでも首を振り、限界と死の宣告を受け入れない、という意思表示を行う。不可能事を望んでいると言われても、構わない。見えない領域に向かって、その証書を突き返し、改めて死の力ではなく、生きた命をもたらすことのできる人々へ担当者の交替を願い出る。

筆者は死神など呼んだ覚えはなく、神の御言葉に沿って正しい解放をもたらすことのできる存在を呼んだのである。
 
当ブログでは、繰り返し、聖書によれば、男性が先に創造され、女性は男性から後になって造られたという順序があり、男女の秩序は決して覆せないものであるということを述べて来た。

男性は、主イエス(救済者)のひな型であり、女性は、教会(被造物)のひな型である。もちろん、人類は男性も女性も含め、神の神殿であり、宮なのだが、とりわけ象徴的には、男性は神を象徴し、女性は被造物全体を象徴している。

そうである限り、男性には、誰であれ、またどんなにそれがかすかなものとなっていようとも、人を困難から救い出し、追い詰められている人を解放し、自分の命を投げ出してでも、弱い他者を救うことを、己が使命とするキリストの面影が宿っているように見える。

男性には、男性である限り、誰であれ、救済者になろうとする願望がある。それはしばしば誤った形で発揮されることも多いが、いずれにしても、その性質の中には、神ご自身が持っておられる他者を生かす力が、受け継がれていると筆者は見ている。

だが、女性にはそうした性質がない。女性は憐れむことはできるが、それは自分を投げ出してでも、他者のために命を与えることとは、別の種類のものである。

教会は宮であり、あくまで主がなければむなしい存在であるから、女性は単独では虚無であり、解放者ではなく解放される側に立ち、空っぽで満たされるのを待っている器である。それゆえ、単独では、制約と、死を象徴する。

このようなことを言い始めると、たちまち差別だと誤解する人たちも出て来るかも知れないが、あくまでそういう文脈ではないことを断っておきたい。

以上のようなわけで、女性は、筆者から見ると、その存在自体に、単独では「理不尽」と書きこまれていると言って良い存在である。だからこそ、その存在に触れるとき、理不尽に触れてしまうことになり、死の力が及ぶのである。女性は、自分だけでは、その理不尽を打ち破ることができず、その中に閉じ込められているからこそ、他の女性を解放することもできないのである。
 
そこで、筆者はこの先、被造物の象徴としての女性の受けている死の圧迫を避け、その制約から自由になるために通るべき道を知らねばならないと思わされている。

さしあたり、筆者を生かすことのできる人々を天に向かってオーダーすることしかできないが、一体、この問題に終止符を打つために具体的に何が必要なのであろうか、と考えさせられる。
 
* * *

とはいえ、女性同士の間でも、痛みを分け合いながら、共に進んでいくことのできる人たちがいる。

人生が落ち着いたときに、時折、互いに身の上話をして来た友人と久々に会話したところ、その人は、筆者に向かって、いつになく確信に満ちた断固たる口調で、早いうちにボーナスや退職金が支給される環境に行かなければならない、そうでなくては、生涯の賃金格差を決して乗り越えることができない、と切々と説いた。

その言葉は、いつになく切迫した重要な助言のように響いた。なぜなら、ちょうど筆者の感じていた危機感と一致していたからである。

筆者は雇用契約書に目を通す際、育児休暇・産前産後休暇、介護休暇に賃金が支払われるのかどうかを気にしている。さしあたり、そうした休暇をすぐに取る予定があるわけでないのに、それに注意を払うのは、もしもそれらの休暇が、無給であれば、その職場は、真に人を人間として育てて行こうとの意識がないところだから、そう長くは続けられない、と認識して構わないからである。

社員を労働力としてしか見ず、人として豊かな生活を送るために、必要な余裕を与えない職場では、社員が幸福を求めて行動を起こすと、大きな障壁にぶつかる可能性が高い。

それは身長の高い人が、天井の低い家に住むようなもので、人間の身の丈に合っておらず、窮屈な生活の中で、幾度、頭を鴨居にぶちつけて痛い思いをするか分からないのを分かって、あえてその家に住もうとするのは愚かである。

もちろん、短期の派遣の雇用や、契約社員の雇用に、そのような恵まれた条件があるはずもなく、通勤交通費さえ支給されない職場に、有給の産前産後休暇や介護休暇を望むのは愚かである。

そういうものは、屋根も壊れて雨漏りのする家のようなものであって、それが家だと思っている限り、その人には安全な暮らしさえ保証されない。

筆者は、人が人らしく生活を営むことと、働くことが両立しうるような雇用体系の中に身を置かない限り、その人の勤めている職場は、結局、人を使い潰すことしかできない、という法則性は変わらないという結論を得ている。

そのことを明白に悟ったとき、筆者は、これまでの自分が、あまりにも微小なものしか求めず、ほんのわずかな条件の向上を見ただけで、天から救済者が現れたかのように喜び、本当の意味で、自分の身の丈にあったものが何であるのかを、知らず、それを探し求め、得る道があることを十分には知っていなかったことを思い知らされた。

たとえるならば、カビの生えたパンを毎日食べながら、これが食事だと思い込み、雨漏りのする家に住みながら、これが家だと思い込んでいるような具合で、本当の食事とは、本当の家とは、決してそのようなものではない、ということを漠然と感じながらも、では、一体、自分の探し求めているものは何なのかを具体的に知ることなく、ただ一体、なぜ自分はこんなに窮屈で不快な思いをしながら毎日を苦しんで暮らさねばならないのだろうか、これが本当に人の生活というものだろうかと思い悩んでいたような具合である。

自分の望む真の食事とは、真の家とは何なのかを見極め、見極めたならば、それが自分に値することを信じなければならない。

そういうわけで、筆者は、限界と制約と死の象徴である死神が、どんなに限界だらけの証書を筆者のもとに届けても、それが筆者にふさわしい最終宣告であると受け入れる気はないのである。

「あなたには、雨漏りのする家と、カビの生えたパンで十分である。あなたは自らそれを望み、知っていて、それを選んだのだ。だから、それがあなたの人生にふさわしい応酬だ。それを不満に思い、それをあなたに与えた者を、騙したなどと言って、非難する資格はあなたにはない」

などと言われても、筆者は言う、

「そんな馬鹿なことはない。私は雨漏りのしない本当の家らしい家と、カビに悩まされることなどない食事に憧れ、それを探し求めてあらゆる場所の門戸を叩いた。その結果、知りもしないうちに、雨漏りのする家をつかまされ、カビの生えたパンを口に押し込まれたとしても、それが自ら招いた選択であり、私の望んだ結果であり、私にふさわしい結末であったなどとは、決して認めない。私はこういうものを、家とも、食事とも思っていないし、そんなものを求めた覚えもないし、そんなものしかないなどという話も聞かされていない。にも関わらず、これが私に値するものだとどうして言えるのか。制約よ、引きさがりなさい。」

実りをもたらさない干からびた大地をいつまでも耕し続け、貧しい家の中で、こんなにも収穫がないのは誰のせいなのだと言って互いを責め合うのは、愚かな所業であり、そんな場所からは、離れるべきなのである。必ず、実りをもたらす大地が存在するはずである。

筆者と久方ぶりに話した知人は、前途洋々たる20代、30代の中に、多額の借金を抱えている人たちが非常に増えていることを話してくれた。筆者よりも年下の世代の中に、筆者の世代よりもさらなる困難の中に投げ入れられている人々がいることが分かった。

私たちの世代も大きな困難の中に長い間、助けなく放置されて来たが、それより下の世代は、無知と無防備につけこまれ、さらにもっと大きな抑圧の中に置かれている様子が垣間見えた。

誰がこの人たちの抱えている苦難に目を留め、彼らのために自由を用意し、貧しさの連鎖が生まれないように手立てを打つのであろうか。それは大人たちが考えてやらねばならないことではないだろうか。

こんなことでは、貧しい農村から、若者を身売りさせ、騙してひどい職業に従事させたり、特攻に送り出していた戦前・戦中と何が違うのだろうかとため息をつきたくなる。

しかし、知人は、そういう悲しい出来事ばかりを毎日のように見聞きする状況を離れ、貧しさではなく、豊かさを求めねばならないこと、働くことが苦痛でしかない環境を去り、喜びを感じられる仕事を選んだこと、筆者にも、あきらめて制約を受け入れるのではなく、飽くことなく自由を探し求めるよう、改めて背中を押してくれた。

その時、筆者の目の前には、今見ているものより、はるかに遠く、もっともっと先にある目的がおぼろげながら思い浮かんだ。

雨漏りのしない本当の家――貧しさや、限界や、不幸に追い詰められ、絶えず家族のメンバーがいがみ合い、争うような不幸な家ではなく――生きるために馬車馬のように働き、休息も取れず、不意の事態にも対応できないような生き方ではなく――家族が集まって、安心して団らんのできる、幸福な家、笑顔の溢れる家――安息に満ちた生き方――それは絶対にあるはずだし、筆者はそれをこそ絶え間なく探し求めて来たはずである。

何度、騙されかけ、何度、あきらめるよう求められ、何度、制約の中に閉じ込められ、何度、それがあなたの選んだ選択であって、それ以上のものにあなたは値しないと言われたとしても、決して、それが筆者の動かせない結論であるとは認めない。

もちろん、ここで言う家とは、あらゆる環境条件のことである。そこには、雇用条件や、それ以外のあらゆる条件も含まれる。

雨漏りのしない堅固な家を願うなら、それは必ず、存在し、手に入れることが可能であり、また、自分はそれに値するという確信を持つ必要がある。あなたはそれに値しないという、サタンの死の宣告を破り捨て、これを無効化する、新たな命に満ちた証文で上書きしなければいけない。

たとえ荒野の中を通されていても、そこが永住の地ではないことを、私たちは信じている。乳と蜜の流れる土地へ向かって、長い長い道のりかも知れない。だが、その約束の地がなぜ遠く、長い道のりに感じられるのかと言えば、私たち自身が、それが自分に値することを、まだ十分には知っておらず、信じる力が十分に達していないためである。

しかし、神は私たちを根気強く教えて下さる。

主は、日々起こる波乱のような出来事の中で、瞬間、瞬間、こう言って下さる。

「私はどんなことがあっても、あなたの味方であり、あなたを見捨てません。私があなたを教え、あなたを平安に導きます。だから、どんなことがあっても、落胆せず、私に従って来なさい。私は必ずあなたを安息の地に導くことができます。それがあなたのための私の約束なのです。」

筆者はその約束を信じている。だから、試練があるときにこそ、慰めは深く、解放も近いということを、常に思わされている。

だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。(1)

「だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。」(ヤコブ4:7)

「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食いつくそうと探し回っています。信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。

あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです。それはあなたがたも知っているとおりです。しかし、あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へと招いてくださった神ご自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。」(Ⅰペテロ5:8-9\10)
 
* * *

主が時間をお与え下さるときは、大抵、何か正しい仕事を果たす必要が迫っている時である。今年に入ってから、当ブログでは、新たな権利侵害による告訴状を作成し、これが受理されたところであるが、事件に関する情報を調べていたところ、改めて某掲示板に、大量の著作権侵害の書き込みがあることを発見し、これも告訴対象に含めることとした。

神は隠れた事柄を明らかにされる方であるから、筆者は、昨年に民事訴訟を提起した時から、当ブログに対して長年に渡り組織的に行われているインターネット犯罪ネットワークの全貌を明らかにしたいと願って来た。

そこで、今回、見つけた投稿も、まさに飛んで火に入る夏の虫とで言うべき、絶好のタイミングであった。これでようやく有名指導者や有名信徒のみならず、無名の信徒に至るまでの犯罪ネットワーク全体を捜査対象に含めることができる段階に入った。
 
著作権侵害は、筆者から見ると、一番、告訴状の作成に手間がかからず、悩む必要のない手続きである。

不正な引用などによる著作財産権の侵害に対する罰則としては、著作権法第119条1項により、十年以下の懲役または一千万円の罰金もしくは両方が科される。法人には、3億円以下の罰金刑が科される(著作権法第124条)。
 
公表されていない著作者の氏名を無断で公表するなどの行為は、著作者人格権の侵害に該当するが、著作者人格権の侵害に対しては、「五年以下の懲役若しくは五百万円以下の罰金に処し、又はこれを併科する。」との罰則が定められている(著作権法第119条2項2号)
 
ちなみに、名誉棄損罪に対する罰則は、次の通りである。
「公然と事実を摘示し、人の名誉を損した者は、その事実の有無にかかわらず、三年以下の懲役若しくは禁錮又は五十万円以下の罰金に処する。」(刑法第230条)

従って、単純に比較するならば、名誉毀損よりも著作権侵害の方が、かなり罰則が重いのであって、掲示板に匿名で「××はバカ」とか「××は〇年〇月に××の犯罪行為をした」などとありもしないコメントを書いて他人を誹謗する罪よりも、誰かが作成した文章をまるごとコピペして出典を示さずに無断で掲載した罪の方が重い処罰を受けるのである。

名誉毀損の場合は、公然と事実を摘示して他者の名誉を毀損したと言える言い回しが必要となり、何が名誉毀損に該当し、何が侮辱罪に該当するかなどで議論が分かれる可能性があるが、著作権侵害は、オリジナルと偽物が対比できれば、犯罪事実の立証ができ、問責される余地が少なく、煩わしさが少ないのである

当ブログで、初めて刑事告訴が受理されたことを読者に告げたのは、昨年のことであるが、それから今まで、被告訴人らしき人間が逮捕されるなどの明白な現象が起きていないことを理由に、このニュースは嘘だと考えたい人々があるようであるが、刑事告訴が受理されてから、捜査が完了し、検察に送致されるまでの間、どのくらいの時間がかかるかという疑問については、やや少し前のデータにはなるが、とある弁護士のオフィシャルサイトに掲載されている平成29年4月25日の法務委員会の民法改正の審議の模様などを参考にされたい。

この審議においては、知能犯罪の刑事告訴が受理されてから、捜査が終了して検察に送致されるまでの間に、どのくらいの期間がかかっているかが質問された。

「配付資料二のとおり、知能犯罪の刑事告訴の件数はおおむね横ばいとなっていることなんですが、御答弁のとおり、検察官への送付までに要した期間としては、一年未満の件数と捉えても全体の約六割にとどまっているということで、やはり通達の趣旨、方針から離れて長期化している印象を受けます。」

この指摘を通しても分かることであるが、知能犯罪の刑事事件を受理すれば、司法警察員は、これを迅速に検察官に送付しなければならないことが義務づけられているとはいえ、実際には、刑事事件の一般的な処理スピードは、方針通りではなく、事件の内容によっても、かかる速度はまちまちなのである。

2017年に提示されたデータによると、知能犯罪の刑事告訴のうち、一年未満に捜査が終了して検察官へ送付されたものは、全体の6割程度でしかなかったことは、以上の審議において、政府参考人が、「これらの合計すなわち約六〇%が一年未満で処理されておりますけれども、一方、受理後一年以上二年未満で処理したものが約一九%、二年以上処理に要したものが約二二%となっている状況でございます。」と答弁している通りである。中には二年以上の月日を要したものも存在することが分かる。

このように、結局のところ、刑事事件が処理されるスピードについては、迅速な処理が期待されているとはいえ、一般的な目安を告げることは誰にもできず、事件の内容によって異なるとしか言いようのない部分があり、それにも関わらず、もしも当ブログの告訴において被告訴人とされた者たちが、捜査状況が明らかになっていないことを理由に、恐れることはないと高をくくっているとすれば、 「その日」は、突然、盗人のようにやって来るという以下の御言葉をそろそろ思い出す頃合いであろう。
 
終わりの時には、欲望の赴くままに生活してあざける者たちが現れ、あざけって、こう言います。「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ。父たちが死んでこのかた、世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらないではないか。」<略>

ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を送らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。

主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は激しい音をたてながら消えうせ、自然界の諸要素は熱に熔け尽くし、地とそこで作り出されたものは暴かれてしまいます。このように、すべてのものは滅び去るのですから、あなたがたは聖なる信心深い生活を送らなければなりません。神の日の来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです。」(Ⅱペテロ3:3-12)
  
捜査上の秘密は、当事者にさえも、つまびらかにされない。従って、まことに残念であるが、当ブログは、この先も、被告訴人らに対して、いかなる心の準備のための予告もすることはできない。
 
当ブログの内容を無断で転載するなどして、被告訴人となった者たちには、これからも警察と裁判所が有益な働きができるよう、国庫に十分なお金を納めていただくことになろう。昨今、著作権侵害は厳罰化されつつある傾向にあるため、去年に比べ、罰金額が増える可能性も考えられないことではない。
 
さらに、当ブログがペンネームで運営されていることを何の法的根拠もなく許せないと考えるこれらの御仁には、自らの信念に忠実に従い、犯罪事実と共に実名をさらされ、賠償の義務を負いつつ、残る余生を送ることを覚悟していただくのみである。
 
かくて、悪事は国家および市民の重要な資金源となるものであるから、これを見逃す手はない。悪魔からは最後の靴下一枚、最後の毛糸一本まではぎとることが実際に可能なのであり、それくらいの覚悟を固めて、我々は暗闇の勢力と向き合うべきである。

そのようなことが実際に可能なのだと知れば、虐げられた者たちはさぞかし勇気と希望を取り戻すことであろう。

* * *

さらに、筆者が前の記事で、今日の時代、神がキリストの十字架により罪を贖われたクリスチャンが、法廷で訴えられて被告とされるなど、あり得ないことであり、それ自体が、信仰的な敗北を意味すると書いたところ、これに対し、霊的に盲目な反逆の子らが、殉教者の名を持ち出して、愚かしい反駁をしているようなので、そのことについても一言述べておきたい。

使徒パウロや、イエスの十二弟子などが生きていた初代教会の時代は、ギリシア神話を取り込んで建国の理念としたローマ帝国の支配下の時代であった。

従って、初代教会に起きたキリスト教徒の迫害と殉教は、非キリスト教的・異教的な国家権力の存在を背景にのみ、成り立つものであった。秀吉の時代に殉教したキリシタンなどについても、同じことが当てはまる。

しかし、現在の日本国は、いかなる宗教神話をも、建国の理念としておらず、我々は憲法によって、信教の自由を保障されている。

従って、現代のクリスチャンとこの世の国家権力が、信仰的観点から見て、真っ向から対立しているという事実は存在しない(ただし、現代社会においても、一部の全体主義国、共産主義国などでは、これとは異なる状況がある)。

そこで、今日の我々日本のクリスチャンは、憲法を最高法規とする法体系によって、十分に身を守ことが可能なのであり、司法はその点で、我々の味方であり、我々自身も、法に服する存在である。

聖書には、クリスチャンが迫害を受けることについて、次のような記述がある。

「人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。 また、わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる。

引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない 。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。

兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい。はっきり言っておく。あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る。」 (マタイによる福音書 10:16-23)

 
ここで「地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれる」と書かれているのは、使徒たちの生きていた時代、ローマ帝国下の地方法院で、実際に彼らに対する鞭打ちが行われたことを指しているが、こうして彼らが罰せられたのも、ローマ帝国の公認宗教の側から見て、初期のキリスト教が異端視されていたという事情があるためである。
 
他方、今日の日本国憲法下では、キリスト教が異端視される根拠自体が存在しない。従って、それにも関わらず、誰かが、以上のような御言葉を口実に、異教的国家権力の統治時代と、我々の時代を同列に引き比べ、パウロやペテロのような使徒たちが処罰され、殉教しているから、現代のクリスチャンも、法廷に引きずり出されて、被告として訴えられ、(まして)処罰されて当然だと唱えるならば、そのような主張は、まさにあり得ないナンセンスな議論だと言えよう。

むしろ、事実はそれとは逆であり、現存する憲法下において、キリスト者が被告として訴えられることは、その者が憲法に保障された信教の自由を否定し、基本的人権を否定するなどして、法の精神を踏みにじり、敵に回したという嫌疑を受けることに他ならず、そうした嫌疑をかけられること自体が、クリスチャンの名折れである。現代の法の精神は、決して我々の信じるところの聖書と真っ向から対立するものではないからである。

さらに、霊的に盲目な人々は、よく目を開いて聖書を読めば良いが、聖書の中に、使徒たちの殉教した様子を表す記述は、全く書かれていない。ステパノは使徒ではなく、さらにステパノの殉教を扇動したのも、ユダヤ人たちであって、国家権力ではなかった。

このように、使徒たちは実際に殉教したにも関わらず、聖書にその記述がなく、ローマ帝国の支配下で、国家権力がキリスト教を公的に弾圧したがために、大規模な迫害が起きたという事実が聖書に記述されていないことには、極めて重要な意義があると考えられる。

筆者の目から見れば、それは、クリスチャンの殉教は、極めて個人的な十字架の道であり、各時代によっても、殉教に至るまでの背景や、その理由、形態が、すべて異なり、定式というものが存在しないためである。

さらに、もっと重要な事実として、聖書においては、国家権力が根本的に悪であって、キリスト教の理念と真っ向から対立するものであるという考えは、どこにも述べられていない。

むしろ、聖書では、人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は、自分の身に裁きを招くでしょう。」(ローマ13:1-2)と記されている通り、およそすべての権威が、根本的に、神に由来するものであるから、権威に対する反逆は、神の定めに背くことに通じるという重要な事実が述べられている。

(このことについては、愚かしい混同を招く浅はかな議論は禁物であるため、あえて書いておきたい。私たちが、あれやこれやの政治家の腐敗を糾弾することは、何ら権威を否定することを意味しない。政治家の汚職や腐敗を監視し、これを指摘し、非難することは、国民の義務と言えるのであり、それをしたからと言って、権威に逆らったことには全くならない。私たちは時の首相を含め、いくらでも政治家を批判することができるし、大いにそうすべきである。個人の政治家と、国家は同一のものではないからである。

しかしながら、世界の思想の中には、マルクス主義のように、国家権力そのものを根本的に悪とみなしてこれを打倒することを目指す思想が存在する。このように、革命やクーデターを唱道する思想は、権威そのものを否定し、権威に逆らう思想であると言えよう。

主イエスも、十字架にかかられる前には、その人気のゆえに、ローマ帝国の圧政からユダヤ人を解放する政治指導者になることを、弟子たちから期待されるほどだったのであるが、イエスは決してそのような道を選ばれなかった。)
 
使徒たちも、ローマ帝国の建国神話が嘘であることを知っていたが、世俗の権力によってあらぬ嫌疑をかけられたからと言って、権威に逆らって、世俗の権力の打倒を狙うことはなく、むしろ、当時の法の決定に従って、自ら十字架へ赴いたのであって、そのことによって、彼らが全く権威に反逆しなかったことが証明されている。
 
それでも、もしも今日、聖書の中に、使徒たちが殉教した場面の記述がなされていたとすれば、それを読む者は、殉教とは、国家権力がキリスト教徒を迫害して起きるものなのだと考え、その考えに基づき、使徒たちを弾圧した政治権力そのものに対して憎しみや反感を持ち、これを自分たちの生きている時代に重ねて、自国に対しても反感を持ったことであろう。

しかし、実際には、国家による大規模なクリスチャンの迫害は、いつの時代にも起きうる普遍的現象ではなく、あくまでローマ帝国や、軍国主義下の日本や、社会主義国などの、非キリスト教的、異教的理念を持った国家や、特殊な理念と政治形態の下でのみ起きうる現象であり、使徒たちの殉教も、そうした文脈でのみ成り立ったものなのである。

従って、ローマ帝国下で起きた特殊な時代現象を、あたかも普遍的現象であるかのように拡大して、現代社会においても、あらゆる国家のもとで、クリスチャンが迫害され、殉教するのが当然であるかのように主張している人々は、あまりにも愚かしい誤謬に落ち込んでいるのであって、さらにもっと言えば、そのような思想の根本には、マルクス主義と同じく、国家権力を、根本的に人民(自分自身)に敵対する悪とみなし、これを憎み、その権威を否定する思想が隠されていることを、我々は見抜かなければならないのである。

聖書には、そのようなことは書かれていない。聖書に書かれているのは、「兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。」とか、「わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをする」といったことだけであり、ここでは、迫害する主体が、国家ではなく、むしろ、ごく普通の市井の人々になっていることに注意が必要である。
 
ちょうど今、掲示板で愚かしい騒ぎを繰り広げている匿名コメント者も、権力もなければ、名もない無数の市民たちである。

ユダヤ人たちに扇動されて、キリストを十字架にかけるよう、声高に叫び、ピラトに向かって、強盗を放免する代わりに、キリストを引き渡すよう要求したのも、名もない群衆であったが、このような名もない市民たちが、より集まっては、無実のキリスト教徒を憎み、談義を重ねては、迫害するというのが、いつの時代も、クリスチャンに対する迫害運動の根本的な引き金なのである。

このように、キリスト教徒の殉教というものが、あたかも時代を問わず、いつでも国家権力の側からの弾圧によるものだと考えて、愚かしいステレオタイプに落ち込んでいる人々は、ただ聖書を全く理解していないことを自ら証しているだけでなく、さらにもっと言えば、自分自身が処罰に値する人間であると自ら告白しているだけである。

殉教者の名前を持ち出して、自分があらぬ嫌疑をかけられて法廷に引きずり出されて被告とされることを容認するような思想は、次のステップへ進むと、自分自身への処罰を容認する思想へと発展し、ついには自分が死刑に処されることをも容認する思想へと至り着くことが予想される。
 
しかしながら、近年、我が国で、誤った宗教的信念とそれに基づく行動が原因となって、死刑に処されたのは、キリスト教徒ではなく、カルトの教祖であったことを見ても分かる通り、現代の日本国憲法下において、キリスト教徒を処罰したり、処刑する口実となる法など、どこにも存在しないのである。

むしろ、キリストは、律法の要求をすべて完全に満たして、神の目にいかなる落度もないと認められた聖なる神の独り子であるから、この方の御霊を内にいただいている者が、律法に及ばない現代の法体系によって裁かれる理由などあるはずがない。
 
それにも関わらず、パウロなどの殉教者を引き合いに出すことで、現代日本社会において、自分が法廷で被告とされるだけでなく、法の裁きを受けて処罰されることまでも、当然視かつ容認するような思想を唱える者は、まさに自分で自分を異端者(違反者)として告白し、カルトの教祖と同列に、自分が処罰されて当然の存在であることを告白しているだけなのである。
 
このような発想は、断じてキリスト教に基づくものではない。掲示板で、火あぶりにされたり、磔刑にされた人々の名を引き合いに出しながら、現代キリスト教徒もそのような末路を辿るのが当然であると、世迷言を日々書き連ねている人々は、その違反行為によって、自分自身が処罰されて当然の存在であることを言い表し、その日が来るのを夢見ているだけのことであって、自分の口で告白した通りの結果を身に招くことになろう。

ただし、今日も、キリスト教徒が世から迫害を受けることと、その結果、世俗の権力者および司法の人々の前で証することは、聖書に記されている通り、変わらない事実である。

現に当ブログに関しても、まさにその通りの現象が起きており、筆者が反訴や提訴や刑事告訴の脅しを受けたことは、それ自体が、聖書の預言の成就であり、そうした迫害が起きた結果、筆者がかえって司法および警察の前で、立派に信仰の証しをし、御子の十字架の贖いの確かさや、それを通して得られた完全な身の潔白を公然と証明して、神を誉め讃える結果となっていることも、まさに聖書の御言葉の忠実な再現なのである。

神は正しい方であり、神が御子の十字架を通して私たちにお与え下さった贖いは、永遠に変わらない判決であるから、暗闇の勢力には、これを奪い取ったり、覆したりするいかなる権限もない。彼らにできることは、脅すことだけであって、神の子供たちを手にかける権限はない。こうして、神はご自分の救いの確かさを万人の前に明らかにして下さり、それによって私たちの主に栄光が帰される。
 
* * *

さて、このように、キリスト教の信者を名乗りながらも、掲示板にたむろして、そこで自らの情欲の赴くままに世迷い言を並べては、神の聖なる子らを罵り、嘲ることをよすがとしている連中については、以下の御言葉を思い出さずにいられない。
  
「彼らは、厚かましく、わがままで、栄光ある者たちをそしってはばかりません。<略>この者たちは、捕えられ、殺されるために生まれてきた理性のない動物と同じで、知りもしないことをそしるのです。そういった動物が滅びるように、彼らも滅んでしまいます。」(Ⅱペテロ2:10-12)

この者たちは、干上がった泉、嵐に吹き払われる霧であって、彼らには深い暗闇が用意されているのです。彼らは、無意味な大言壮語をします。また、迷いの生活からやっと抜け出て来た人たちを、肉の欲やみだらな楽しみで誘惑するのです。その人たちに自由を与えると約束しながら、自分自身は滅亡の奴隷です。」(Ⅱペテロ2:17-19)

こうした信者の名にも値しない不良信者の中には、かつてキリスト教会に失望・幻滅して以来、ずっと心の漂流を続け、キリスト教を憎んでいる者たちが多くいるものと見られる。筆者は、こうした信者たちに向かって、二度と教団などの組織や団体に戻らず、ただキリストだけに頼って生きるよう幾度も呼びかけたが、多くの人々がその忠告を無視して、自分だけは何としても一人になりたくないとばかりに、宗教団体に舞い戻って行った。

しかし、彼らは団体に所属していることによっては、全く心満たされず、依然として、神に出会うことも、神を知ることも、神を愛することもできず、救いの確信も得られず、罪の赦しの確信もなく、形式的な礼拝だけは守るものの、いつまで経っても、罪から自由になることもできず、自分たちの指導者にも敬意を払えず、兄弟姉妹との交わりで心満たされることもなく、罪悪感と劣等感でいっぱいになった空っぽの心を抱えて、結局、夜昼となく、掲示板に漂流し、そこで教会や信者たちの悪口を書き連ねて鬱憤を晴らすしかない状態に陥っている。

このような連中に対しては、次の御言葉を提示するだけである。

 
「人は、自分自身を打ち負かした者に服従するものです。わたしたちの主、救い主イエス・キリストを深く知って世の汚れから逃れても、それに再び巻き込まれて打ち負かされるなら、その者たちの後の状態は、前よりずっと悪くなります。義の道を知っていながら、自分たちに伝えられた聖なる掟から離れ去るよりは、義の道を知らなかった方が、彼らのためによかったであろうに。」(Ⅱペテロ2:17-21)
  
彼らが福音を全く知らない者たちであったならば、まだ罪は軽かったであろう。しかし、キリスト者を名乗りながら、以上のような行為に手を染めることにより、彼らはキリストを知らない世人よりも、なお一層、悪の道を転げ落ちていると言えよう。

しかし、腐敗した宗教団体を一旦、エクソダスしながらも、再び、宗教団体に所属することで、団体からの承認を救いと取り替えた人々に対しては、誰に対してであれ、以上の御言葉は、当てはまるものなのである。

たとえば、アッセンブリー教団に失望してこれを離脱して、日本基督教団へ行き、次に日本基督教団にも失望したから、プロテスタントをやめてカトリックへ行く・・・などという形で、団体から団体へと漂流している人々は、筆者の目から見れば、移籍する度毎に、ますます前よりも状態が悪くなって行くだけである。

筆者はアッセンブリー教団の理念に全く賛同しておらず、ペンテコステ運動も支持していないが、少なくとも、聖霊を重視するこの教団が、プロテスタントの中で、御霊の働きを回復するという、最新の信仰回復運動の中にあったというただ一点においては、どうにかこうにかそれなりの役割を担っていたと言えるであろう(だが、今となっては偽物の霊的運動が取って代わったため、その役目も果たせていない)。

そこで、聖霊派の団体につまずいた人々が、より御霊の働きを重視しない、さらに形骸化したプロテスタントの別の教団に移籍したとからと言って、そこには、信仰の後退以外に、起きるものはない。そのようなことをすれば、その者は、いずれ時が来れば、その団体からも去って、より一層、古く、より一層、命の息吹が感じられない、さらに形骸化した団体へと後退して行くことになるだけである。そして、そうなる頃には、すでに信仰の片鱗も見られず、ゲヘナの子と成り果てていることも保証できる。

しかし、もちろんのこと、誤りだと分かった教団に属したままでいることは、さらに致命的な危険であるため、ある宗教団体の理念の虚偽性が分かった時点で、信徒はこれと訣別しなければならない。その後は、聖書の御言葉が告げる通り、人間の指導者によらず、御霊に直接、教わって生きて行くべきである。

「しかし、いつもあなたがたの内には、御子から注がれた油がありますから、だれからも教えを受ける必要がありません。この油が万事について教えます。それは真実であって、偽りではなりません。だから、教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい。」(Ⅰヨハネ2:27-27)
  
我々は、何が真実な御霊の働きであり、何がそうでないかを、見わけねばならない(Ⅰヨハネ4:1)が、聖書の御言葉を守り、信仰によってこれを実際として生きるに当たり、聖霊の働きを無視することは、致命的な危険と誤りであることを知るべきである。

御霊は、キリストの死と復活を経たまことの命である以上、その働きをないがしろにして、クリスチャン生活は成り立たない。

従って、今日の信者のせねばならないことは、どこかの教団教派につまずいたからと言って、時代を遡って、より古く形骸化した団体に逆戻ることではなく、聖書の御言葉に基づいて、真実な聖霊の働きを飽くことなく求め続けることにあり、私たちは常に、より前衛的でより革新的な真実な命の現れのある信仰回復運動を追い求めて行く必要がある。

とはいえ、前から書いている通り、今日における「より前衛的で革新的な信仰回復運動」は、決してこれまでのような大規模な大衆運動の形を取らないことであろう。

当ブログで、再三再四、引用して来たオースチンスパークスの論説「私たちのいのちなるキリスト」にも、次のようにある通りである。

「聖霊の主要な目的の一つは、信者を復活・昇天した主であるキリストと一体化し、キリストの復活のいのちを信者の経験の中で実際のものとすることです。時代が終末――キリストの現れ――に向かって進むにつれて、二つの特徴がますます明らかになるでしょう。一方において、事物、人、運動、制度、組織などが優勢になり、大衆を引きつけ、群衆をとらえるでしょう。他方、そうしたものへの失望や幻滅が増大し、少数の人々が主ご自身に立ち返り、主だけが自分のいのちであることを見いだすでしょう。

「教え、伝統、制度、運動、人などの何かにクリスチャンが帰属するなら、必ずいのちが制限される結果になるでしょう。そして、やがて混乱や幻滅が生じ、おそらくさらに悪いことになるでしょう。」

時代が終末に向かって進むに連れて、目に見えるもの、「物、人、運動、制度、組織」などは、反キリストの統治手段として利用されて行く。それらのものに付随している「教え、伝統、制度、運動、指導者」なども同じであって、そこに自分を当てはめようとすることが、今や反キリストの原則に身を委ねることを意味する時代が到来しつつあるのだと言える。

組織や事物や指導者に束縛されることが、まことの命なるキリストの御霊の働きを制限するか、もしくはこれに悪質に敵対するものとなることが、今日、明白に証明されつつあるのだと言えよう。

従って、今から約10年ほど前に、宗教団体をエクソダスせよという主張が登場して来たのは偶然ではなく、これらの目に見えるものを離れなければ、純粋かつ正しい信仰を守れない時代が到来しているのである。

ただし、宗教団体をエクソダスせよと唱えながら、自らが宗教団体となり、宗教指導者となっている偽物の団体にも所属してはならない。

今日の信者に必要なことは、目に見えるいかなる指導者にも頼らず、目に見える組織や団体からの保証にすがらず、見えないキリストご自身にのみ立脚して、この方の命によって、信仰の道を歩むことである。そして、それは何ら特殊なことでもなければ、著しく困難なことでもなく、ただ代価を払って主に従う決意があれば、誰にでも十分に可能である。

<続く>


わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にして下さる。

先の記事で、筆者は、キリストのみに捧げられた聖なる花嫁としてのエクレシアの一員として、人間を頼りとしないで、改めて主にのみ頼って生きる覚悟を固めたと書いた。

これは神が筆者の心を、予め様々な別離に準備させたものであったようにも感じられる。

昨年には、困難な戦いを戦い抜くに当たり、筆者は多くの力添えを得た。しかし、筆者の事件のために、助力してくれた人々は、そのほとんどが、今年の春までには、様々な理由により、筆者のそばを離れて行こうとしている。職務上の異動が複数、他に、信念の違いが浮き彫りとなったケースもある。信仰の違いによる別離が起きる場合には、もしかすると、この地上だけでなく、天においても、別離となる可能性が考えられないことではない。

こうして、人々が散らされて行くのを見ることには、寂しさがないとは言えないが、それでも、このような現象に対して、筆者は予め心の準備がかなり出来ていたものと思う。

昨年の一年間は、それほど大きな心の生長を筆者にもたらしてくれた。この一年間の戦いは、筆者が、一人で立つために十分かつ激しい訓練の期間となったのである。

前々から述べて来たことであるが、筆者は、支持者や、理解者の人数を誇り、肉なる腕を頼りに生きたくないと願っている。預言者エリヤがしたように、ただ神だけを頼りとして、神のみに栄光を帰するために、450人のバアルの預言者を前にしても、一人で向き合うことのできる信仰が常に必要であるものと思う。

そのようにして、神以外の何者にも頼らない自由を保つために、筆者は自分の心が、周囲にいる人々に結び付けられて離れられなくなったり、あるいは、周囲にいる人々の心が、筆者に結び付けられて離れられなくなるよりも前に、彼らが様々な理由により、筆者自身の意思とは関係なく、神の采配により、去って行かざるを得なくなることを、肯定的に受け止めている。

我々の弁護者はキリスト、御霊が私たちのための約束の保証、裁き主は、天におられる父なる神であって、私たちには世の終わりまで共におられる方が一緒であるから、肉なる腕に頼る理由がない。

そういうわけで、「あえて事を難しくする」ために、筆者はますます念入りに、祭壇に水をかけているところである。

さて、代価を払って戦いを最後まで耐え忍んだ人と、それをしなかった人との間では、この先、大きな差が生まれるのではないかと筆者は思う。その差は、最初は小さなもののように見えても、十年も経つ頃には、巨大な差になっているものと見られる。

たとえば、あなたが仮に学校を卒業したばかりの若い世代であり、友人と共に、同じ企業に就職して、入社数ヶ月で、そこがブラック企業であることが判明したとしよう。賃金の支払いは滞りがちで、残業代は支給されず、果ては雇用契約書さえ交付されず、強欲な社長は、すでに多くの社員を不当に解雇している。

あなたと同僚にも、ついに順番が回って来て、共に落ち度もないのに解雇が言い渡された。あなたたちはこの措置を、何も言わずに受け入れるであろうか。働きづめに働いた期間の給与もあきらめて、路頭に迷わされる選択肢を受け入れるだろうか。それとも、何らかの方法でこの悪しき企業に打撃をもたらし、彼らが不当にため込んだ富を吐き出させて、取り返すべきものを取り返すであろうか。

それをするかしないかによって、その後の道は分かれることであろう。だが、受けた打撃を取り返すためには、声を上げて、自分の権利を主張して、戦わなくてはならない。だが、あなたの元同僚は、狭い業界で、そのようなことをすれば、次の就職先は見つからなくなると危ぶんでいる。多分、どの企業も似たり寄ったりの状態だから、このような理不尽をも、甘んじて受け入れる心がなくては、この先、どの企業でも、やっていけないだろう、などと言っている。さて、あなたはどのような選択肢を選ぶだろうか。

筆者の考えはこうである。もし抵抗しなければ、その人は、黙って就職した次なる会社でも、前よりもさらに悪い搾取の犠牲となるだけであり、おそらく、その連鎖は、本人が抵抗して断ち切ろうとしない限り、ずっと続くことであろう。これを断ち切るためには、業界からの根本的なエクソダスが必要になるかも知れない。

奪われたものを取り返す手段は存在する。また、不当な濡れ衣も返上する方法も存在する。多くの人々を傷つけ、獲物ののようにかみ砕き、食い物にして来た要塞のような企業に、恥辱と打撃をもたらし、しかるべき償いをさせてから、これと手を切る方法は、確かに存在する。
 
だが、声を上げる際にも、注意しなければならないことがある。一方には、弱い人々を食い物にする強欲な企業があるかと思えば、その反対には、食い物にされた人々の苦しみをさらに食い物として、強欲な救済ビジネスを展開している人々がいる。ブラック企業との戦いを売り物とし、成功報酬を分捕ろうと待ち構えている長蛇の列がある。このような人々に助けを求めている限り、あなたには、戦ったとしても残るものがない。だから、自分の権利や栄光を安易に他者にかすめ取られないよう、きちんと考えてから行動することが肝心である。

さて、以上の話は、ブラック企業の話をしたいがために持ち出したのではなく、信仰の世界で起きている事柄の比喩として持ち出したものである。筆者がここで言いたいのは、神の国の権益を守るために、代価を払って勇敢に戦った人と、それをしなかった人が、同じ報いを受けることは決してないということである。

キリスト者は、ただ自分のためだけに生きているわけではない。私たちは、自分が不当な濡れ衣を着せられたから、それを晴らそうとしているのではなく、神の御言葉が曲げられ、神ご自身の栄光が傷つけられているから、これに立ち上がって応戦するのであり、私たちの信仰の証しが妨げられることにより、神の国の権益が傷つけられているから、これに断固、立ち向かい、御国の前進に貢献しようとしているのである。従って、ここには、個人の失われた利益をや名誉を取り戻すというだけには決して終わらない、もっと大きな利益というものが存在する。
 
だが、いずれにしても、御言葉に従って、神がキリストを通して私たちにお与え下さった自由の絶大な価値を知って、これを守り通し、行使することができた者と、それをしないで、自由が取り上げられることに甘んじた者との間では、地上の生涯においても、やがて大きな差が現れるだろう。
 
筆者はかつて、神の御言葉の正しさを証明し、不当な言いがかりを跳ね返すために、ある人々に訴訟を勧めたことがあった。弁護士など雇わずとも、勇気と根気があれば、訴訟はできるのだから、諦めてはならないと筆者が言ったところ、彼らは言った。

「ヴィオロンさん、それはきっとあなただからこそ、出来たことだと思いますよ。」
筆者は、眉をひそめて聞き返した。
「どういう意味ですか、それは。私が文章を書くことを得意としていたから、出来たという意味ですか。」
「いや、あなたがとても強い人だからです。」
筆者はますます眉をひそめて問い返した。
「何を言っているんですか。私は一人の弱い人間に過ぎません。それでもこうしていられるのは、私の力ではなく、神様が助けてくれているからです。でも、この私にできるならば、あなたには、私よりも、助けてくれる人たちが、もっとたくさんいて、はるかに有利な立場にあるじゃありませんか。それなのに、私にできて、あなたができないはずがありません。
でも、状況はどうあれ、もしも私たちが真に正しく、御名の栄光のためになる仕事を果たそうとするならば、神様はそのために、必要なすべての手段を与えて下さることは確かです。あなたがたが、勇気を持って、御名のために立ち上がるなら、そのために必要な時間も、費用も、何もかも天が用意して下さいます。それは主のための戦いですから、必要なものは、すべて神ご自身が用意して下さらなければなりません。」
「いやはや・・・、私たちは、あなたを雇いたいくらいですね」
「何ですって?」
筆者は耳を疑い、聞き返した。
「私に何をしたいですって?」
「いや、私たちはあなたを雇いたいくらいだと言ったんですよ」

筆者はその言葉を聞いて心の中で絶句してしまった。だが、うわべはまるで聞かなかったようにして、御国のための権益を守る戦いに参加することを、真剣に検討しておいてもらいたいとのみ提案し、話を終えた。

筆者は、神の国の権益を守るための戦いのためならば、無報酬で働くつもりであったし、せいぜい要求できるとしても、紙代とインク代程度であろうと思っていた。そもそも裕福でない信者らが、弁護士に払うような報酬を筆者に払えるはずがないし、筆者も、金さえ払われれば、誰の味方にでもなる弁護士ではない。筆者はこの世の富に仕えるために、御言葉の証しを書き続けているわけではないし、この世の富の支配下に置かれるつもりもない。

それにも関わらず、もしも誰かが、このように貴重な仕事のために、筆者に金を払うというならば、それは、筆者をはした金で雇うという意味でしかない。つまり、彼らは、はした金でもいいから、筆者に金を払って、自分たちは雇い主であるという顔をすることなしに、弱く無名な存在である筆者に、無報酬で助けられるなど、プライドが許さないと、内心では思っていたものと見られた。

まるでそれは、一人で歩行がおぼつかない病人が、自分よりももっとはるかに重症に見える患者から差し伸べられた助けの手を、こんなにも哀れな人間から同情を受けたくないと、心の中で蔑み、冷たく振り払ったような具合であった。
  
以上のような返事を聞いた時点で、筆者は、彼らには決してこの戦いに参加することは無理であろうことを悟った。多分、彼らには筆者を助けてあげているという思いはあっても、自分たちも、命がけで立ち上がらなければ、救いを保てない恐れがあるとは、考えてもいなかったのに違いない。

だが、すべては神のなさることであるから、神がこの人々を導かれるのに任せようと、筆者は彼らを説得することも、異議を唱えることもなく、少し時間を置いて待った。

数ヶ月後、もう一度、彼らに心中を問い尋ねてみると、彼らは、面倒な争い事を自分から起こすのは嫌だとはっきり返答したので、筆者はそれを聞いて、この人たちのために助力することは必要ないと、主が答えを出されたのだと、ほっと胸をなでおろした。

それはちょうどギデオンが、ミデヤン人の13万5000人の軍隊に立ち向かうために、300人の勇士たちを集めた時のことを思い出させる。

主のための戦いに勝利するためには、数さえ集まれば良いということはない。むしろ、数などなくとも、心から、その戦いのために自分を捧げることに、準備が出来ているほんのわずかな人々がいれば、いなごのような大群にも、十分に立ち向かうことができる。

暗闇の勢力との戦いを貫徹するためには、代価が必要であり、世との間で軋轢が生まれることを望まない人は、これに参加することはできない。ただ人間の利益が侵害されたというだけの理由では、主の権益を守る戦いを共に戦うことはできず、兄弟姉妹との連帯さえも成り立たないのである。

かくて、エクソダスできる人々と、そうでない人々が分かれる。紅海を渡るところまでは、共に進んで行けた多くの信者たちが、その後、荒野に入ると、そこで倒れてしまう。いや、今は、荒野で倒れるというよりも、むしろ、神が奇跡によって開いて下さった紅海を、船頭を雇ってまで逆に渡り、再びファラオの奴隷となって生きるために、エジプトへ舞い戻ってしまうと言った方が良いかもしれない。
 
そのような光景を見る度に、筆者は、愚かな花嫁のたとえを思い出さずにいられない。筆者がどんなに誰かに自由になって欲しいと願ってみたところで、自分自身で代価を払おうとしない人々に、筆者は自分の油を分けてやることはできないし、それは許されない相談なのだと痛感する。

だから、そうした人々は、自分の足りなくなった油を増し加えるために、筆者の助けなど全く借りない代わりに、安価かつ偽物の油を買うために市場に走って行き、その遅れのために、結局、花婿を出迎えることができなくなり、宴会の扉が閉められて終わってしまうのである。

このようにして、今やプロテスタント全体が、御霊の油の欠如により、御言葉の証しを公然と保つことができなくなって、敵の圧迫に屈し、沈黙に入ったのではないかと思われる。この宗派に属するほとんどすべての教会と信者が、教会が迫害されても抵抗せず、御言葉が曲げられても、抗議せず、主の御名が傷つけられているのに、ほえたける獅子の咆哮に怯え、全く立ち上がることなく、腰砕けになって、一切、戦わずして、敗北する道を選んだことは、筆者には唖然とするような出来事である。

このように、神の教会が冒涜されても、立ち上がることができないという極度に情けなく臆病な有様を見ても、筆者は、プロテスタントはもはや霊的に終焉を迎えており、今、新たな信仰回復運動が起こることが必要なのだという確信を強めないわけにいかない。
 
だが、このような状況でも、絶望など一切する必要がないと言えるのは、神はどんな状況からでも、最も先駆的で前衛的な、新鮮な御霊の息吹を持つ新たな霊的運動を起こすことがおできになるからである。今日、信者に求められているのは、プロテスタントの中でも、どの教団教派ならば、多少、マシであるかなどと考えて、教団教派の間を走り回ることではなく、あるいは、プロテスタントが駄目ならば、カトリックに戻れば良いなどと議論することでもない。

新たな革新的で先駆的な信仰回復運動の登場が待たれるのだが、これから起きる信仰回復運動は、かつてのような大規模な大衆運動とはならないであろうと筆者は予想する。それはただ万民祭司という新約の原則を忠実に実行に移すだけで良く、筆者のような、無名の信者が、一人一人、知られざる場所で、ただ御言葉なるキリストご自身だけに忠実に従い、静かに自分の十字架を負って歩みを進めさえすれば良いのだと思わずにいられない。

それは牧師のいない、宗教指導者のいない、宗教団体や組織の枠組みにとらわれることのない、神と信者との直接的で個人的な知られざる信仰の歩みである。

そこで、筆者の周りに団体が築き上げられることは、今もこの先も決してないであろうと言える。筆者が何かを成し遂げる際に、周りに集まって来た人々がいるとしても、彼らも、必ず、やがて散らされることになる。なぜなら、そこにバベルの塔のような、人間の肉なる力が結集することは、神の御心に全く反するからである。
  
改めて、金持ちが天国に入るのは、らくだが針の穴を通過するよりも難しい、という御言葉を思う。「招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」(マタイ22:14)

筆者は、招かれただけで終わりたくはない。神の褒賞を受けるために、試練に勝利する者でありたい。そのために、自分の心が、地上の何者にもとらわれることなく、自由であって、ただ主だけに捧げられ、御心の実現だけにいつでも傾けられる状態であって欲しいと強く願う。そこで、筆者と神との間に立ちはだかって、主の栄光の妨げとなりうるようなものは、この先も、何であれ、取り去られる必要があることを認める。

人や物や目に見えるものに心を傾注しすぎることは極めて大きな危険である。そこで、 御国の権益にとって、損失とならないのであれば、筆者は、地上的なすべての別離に対し、「主が与え、主が取りたもう。主の御名は誉むべきかな。」(ヨブ1:21)と同意したいと考えている。

* * *

さて、話が少し変わるが、裁判手続きを通して、司法の世界を垣間見るようになって、筆者はそこではかりしれないほど大きな学びを得た。

誰もが知っている通り、訴状には、まず最初に、以下のような命令文で、被告に対する請求が記される。
「被告は、××××万円を支払え。」
「被告は、××××をしてはならない。」

このように書き記すことによって、原告はその通りの判決が下されることを裁判官に求める。

しかし、この世においては、ただ訴えが出されただけで、それが認められることはまずなく、通常は、幾度もの弁論手続きが重ねられ、証拠が積み上げられ、議論が尽くされてから、判決が出される。

しかし、筆者はただ原告として以上のような文面を書いてるわけではなく、キリスト者として、キリストの御名の権威を帯びた者として、このような命令文を書いている点で、そこには世人の訴えに込められた以上の重みがあると言えよう。
 
もちろん、筆者は地上においては何者でもないただの無名の市民であって、筆者の訴えが、他の人々の訴えと異なる理由などないかに見えるだろう。しかし、筆者は、信仰によって、キリストの代理として、御名の権威を持って、自らの言葉を発している。そこで、筆者の書いている命令文は、単なる文字である以上に、霊的に、はかりしれないほどに重い意味を持つものであると言えよう。

昨年が来るまで、筆者は主としてブログにおいて、信仰の証を続けて来たが、裁判手続きの場に信仰の証が持ち出されてからは、御名の権威を行使して証する作業が、より厳粛で重い意義を持つようになったと感じている。
 
こうした手続きの中で、極めて重要なことがいくつも分かった。そのうちの一つが、主に依り頼んで生きるキリスト者が、被告として訴えられるようなことは、絶対にあってはならず、また、あり得ない事態だということである。

この世には冤罪事件もあれば、スラップ訴訟もあり、誰かが被告として訴えられたからと言って、決してそのことは、その人々が何かの罪を犯した証拠を意味しない。事実無根の訴えや、不当訴訟といったものも、存在しないわけではないからだ。推定無罪の原則があり、何が事実であるのかは、審理を進めてみなければ分からない。

ところが、信仰の観点から見るならば、キリスト者が被告として訴えられることは、それだけで、深い霊的な敗北の意味を持つのである。そこには、何かしら非常に暗い運命的な意義があることを、筆者は思わないわけにはいかない。

筆者はこれまで、このささやかな信仰の証のブログのために、提訴、反訴、控訴、刑事告訴の脅しを幾度にも渡り受けたが、そうした脅し文句を聞く度に、ただちに以下の御言葉を使って、その脅しの効力を無効化し、敵の放った火矢が、筆者に届く前に、それを空中でへし折って来た。

「では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。

だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。

だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。

「わたしたちは、あなたのために
 一日中、死にさらされ、
 屠られる羊のように見られている」

と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。


わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:31-39)

そういう経緯があったおかげで、聖書の御言葉には、現実に、私たち信じる者を、完全に潔白な者として神の御前に立たせ、敵のすべての言いがかりに満ちた訴えを無効化することのできる絶大な意義があることを、筆者は幾度も実地で学ばされて来たと言える。

キリストの命は、私たち信じる者を、本当に一点の罪の曇りもない、しみもしわもない、完全かつ潔白な存在として立たせることができるのである。

そこで、私たちも、自分を見るとき、主がご覧になるように自分を見なければならない。神が選ばれた民であるにも関わらず、私たちに、被告として訴えられる根拠などがどうしてあって良かろうか。

キリスト者を訴えるという行為は、その者を贖われたキリストの贖いを無効にすることを目的とする行為であって、悪魔と暗闇の勢力のみが抱く願望であると言えるが、そのようなことをする力を、暗闇の勢力はそもそも持っていない。

暗闇の勢力にできることは、せいぜい嘘を振りまいて信者を脅すことだけであり、神の下された永遠の判決を覆すような力は、彼らには付与されていない。そういうわけで、それにも関わらず、キリスト者を名乗る人間が、訴えられて法廷で被告とされることには、何かしら非常に深い、暗い霊的な意味が込められており、筆者の目から見れば、それ自体が、すでに信仰的に敗北を意味することが分かったのである。

一体、自分が有罪者として訴えられている者が、どうして100%の潔白に立って、悪魔と暗闇の勢力を全身全霊で糾弾することができようか? 

そのようなわけで、私たちは、暗闇の勢力の不当な言いがかりには、決して屈してはならないのであり、敵のあらゆる訴えを断固、はねのけて、冒頭に挙げた通り、声を限りに、容赦のない宣告を突きつけ、
  
おまえたちは、××してはならない!!
××することを禁じる!!
××せよ!!

という強い命令を、実行力のある方法で発して、彼らの口を封じなければならいのであって、それ以外の「コミュニケーション」はあり得ないのである。

ところが、ある人々は、それは暗闇の勢力に対して失礼かつ残酷すぎる措置であると考える。彼らは、暗闇の勢力と毅然と向き合って、断固、命令するどころか、かえって、おずおずと

私たちは、あなたたちに××して欲しいと願っています。
××して下さいませんか?

と、もみ手ですり寄るような、弱腰な訴えを口にして、直接交渉に及ぼうとする。

彼らはそのような”礼儀”が、暗闇の勢力に対しても必要だと信じているのである。だが、それは訴えではなく、懇願であるから、そんな言葉は、悪魔と暗闇の勢力にとって、自信を増し加える根拠にはなっても、何の脅威にもならず、痛くもかゆくもない。

彼らはそういう風に、自分たちの意思を問う人間が現れれば、喜んでいついつまでも彼らが頭を下げて自分のもとに懇願しにやって来ざるを得ない状況を作り上げるだけである。

アダムとエバの敗北は、そもそも神ご自身を抜きにして、蛇と直接、口をきいた時点から始まっていた。

そこで、今日、我々キリスト者に必要なのは、聖書の御言葉の権威に固く立って、それに基づいて、闇の勢力に対して、有無を言わさぬ命令を発することだけであって、彼らの意思など問うてはいけないし、中途半端な和解も、懇願も、してはならないのである。

ところで、裁判においては、弁論が重ねられるうちに、必ずある種のクライマックスがやって来る。つまり、どこかの時点で、論敵の嘘と詭弁に満ちた脅しが最大に達する瞬間が来る。そのときが、弁論の激しさが最高潮に達する時であり、裁判のクライマックスだと言えるが、信者は、その時、敵のもたらす恐怖に打ち勝って、敵の最大の武器をへし折ることによって、彼らの武装を解除して、彼らを無力化せねばならない。

それができるかどうかが、勝敗を分ける。つまり、裁判の決着は、判決が述べられる瞬間に初めて訪れるものではなく、むしろ、判決読み上げの瞬間が訪れるよりも前に、私たちキリスト者の中で、霊的な勝利がおさめられていなければならないのである。

そういう意味で、訴訟は一か八かの賭けであってはならず、裁判官の善良な人柄や、証拠の分量や、支援者の人数や、精緻なロジックの組み立てや、運の良さにすべてを委ねるような受け身の態度では、勝利をおさめることはできない。
 
これは裁判のみならず、日常のすべての場面に当てはまることである。キリスト者は、日常生活においても、暗闇の勢力と対峙することが必要となるが、その際、敵が持っている最も強力な武器が何であるかをよく理解し、時が来たときに、これを粉砕して無効化することで、敵の武装を解除することなくして、戦いに勝利して、次のステージへ進むことができない。
 
一つの戦いをクリアできないと、いつまでもずっと同じ問題に悩まされ、脅しつけられ、圧迫されたまま、不自由の中を生きて行くこととなる。
 
私たちキリスト者には、聖書の御言葉を武器として用いて、敵の嘘と詭弁の要塞を破壊して、彼らの武装を解除し、すべてのものをキリストの御名に従わせ、不従順を罰することが可能とされていることを忘れてはならない。

「わたしたちは肉において歩んでいますが、肉に従って戦うのではありません。わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ、また、あなたがたの従順が完全なもののになるとき、すべての不従順を罰する用意ができています。」(Ⅰコリント10:3-6)

さて、「最後の敵として、死が滅ぼされます。「神は、すべてをその足の下に服従させた」からです。」(Ⅰコリント15:26-27)とある通り、敵(悪魔)の最大の武器とは、死である。従って、悪魔と暗闇の勢力の最大の武器とは、死の恐怖によって、人々を脅かすことであると言えよう。

そこで、当然ながら、キリスト者が暗闇の勢力の武器を粉砕して、彼らの圧迫を打ち破り、勝利を収めるために必要なことも、死の恐怖に打ち勝つことである、と分かる。

このことは、王妃エステルが、ハマンの策略により、ユダヤ人の民が皆殺しにされるかも知れない危機にあった際、この脅しによる圧迫に立ち向かうために、自分自身も死を覚悟した上で、王の前に進み出たエピソードの中にも見て取れる。

私たちも、暗闇の勢力との戦いに勝利するためには、死をも厭わない覚悟で、自分をとことん主の御前に投げ出して、敵の脅しに徹底的に立ち向かうことが必要となるのである。

「今や、我々の神の救い力と支配が現れた。
 神のメシアの権威が現れた。
 我々の兄弟たちを告発する者、
 昼も夜も我々の神の御前で彼らを告発する者が、
 投げ落とされたからである。
 兄弟たちは、小羊の血と
 自分たちの証しの言葉で、
 彼に打ち勝った。
 彼らは、死に至るまで命を惜しまなかった。」(黙示12]10-11)
 
神に従い、御言葉を地に実際として引き下ろし、御心を成就するためには、死をも厭わない決意で、主と共なる十字架において、絶えず霊的な死を帯びて、敵の脅しを打ち破ることがどうしても必要なのであり、そうした決意を抜きにして、主に従い抜いて、敵の武装を解除して勝利をおさめることはできないのである。

そこで、私たちは、敵が最大限の脅しを用いて向かって来るときには、自分自身を完全に主と共なる十字架に同形化して、これに応戦することが必要となる。この世の訴訟においても、そのような瞬間があり、言葉や証拠の争いよりも、もっと深いところで、霊的な激しい戦いが繰り広げられる。この世に現れて来る勝敗は、この領域における霊的な勝敗に沿ったものにしかならないのである。

そこで、キリスト者は、いかなる瞬間においても、まずは御言葉によって、霊的に敵の武器を無効化し、彼らの武装を解除することなくして、自由と栄光を掴むことはできないことを知るべきである。
 
とはいえ、私たちの勝利の根拠は、私たち自身にあるのではなく、カルバリの十字架で、キリストの死と復活を通して、悪魔と暗闇の勢力に下された裁きと滅びの宣告にこそある。それが、私たちが悪魔と暗闇の勢力がもたらそうとする死の恐怖に対して、すでに完全な勝利をおさめていることのすべての根拠である。

「ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。」(ヘブライ2:14-15)

だから、私たちがなすべきことは、いかなる嘘、詭弁、脅しを受ける瞬間にも、徹底的に十字架の原則に踏みとどまって、キリストの死を、自分自身の死として受け止め、適用し続けることによって、そこにキリストの復活の命が働いて、勝利を得るまで、御言葉を武器に戦い抜くことであると言えよう。
 
私たちを死から命へと移し出す根拠は、ただカルバリにのみ存在するのであって、十字架にかかられたキリストこそ、私たちの命の源であり、私たちの勝利、栄光、自由の源なのである。

従って、私たちの平和と自由の根拠は、決してこの世との和合にあるのではない。この世との間に軋轢を生まず、強い者たちの意向に逆らわず、世に波風立てず、ご機嫌伺いをすることによって、命を保てる者は、誰一人としていない。それどころか、そのような方法では、かえって命を失うということを、聖書は一貫して教えているのだと言えよう。

従って、私たちが世に接触する時には、深入りしないための警戒が必要である。私たちを生かしているまことの命の源がどこにあるのか、片時も忘れない用心が必要となる。

「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にして下さる。」(ヨハネ12:24-26)


御国が来ますように―天地の架け橋としてのキリストにある「新しい人」(8)

今年も冬が近づいている。このところ、筆者は特注のクリスマスケーキ作りに忙しい。もちろん、これは比喩であって、本当にクリスマスケーキを作っているわけではないのだが。

筆者は今、書類の山に埋もれ、歳末総決算となる書類を書いているところだ。

こうして文書を作ることは、どうやら筆者の生涯で、避けて通れない仕事であるらしい。おそらく、これが筆者の真の仕事なのだろう。しかし、今年はこれまでに輪をかけて大変な作業であった。ブログ記事を書くための精力も吸い取られ、文章を書く力がほとんど残らないほどだ。

しかし、今年はこれまでにない大きな収穫があったと言える。それは、これまでには、ただ筆者一人だけが、孤独の中で懸命に奮闘して、正義や真実を守るための文書を作成して来たのだが、今年は、その文書の作成を、他の人々が手助し、補ってくれたことである。

それによって、筆者はどれほど肩の荷が下りて楽になったか分からない。

筆者は今年が来るまで、真に聡明な人たちに出会って、彼らの手で、筆者のために、胸のすくような文章を書いてもらったことがなかった。もしもそういうことがあったとすれば、推薦状くらいだったであろうか。しかし、推薦状には、胸のすくような内容は一行も書かれておらず、面白い内容もない。

ところが、困難な事件に遭遇した時に、目に見えない「推薦状」を書いてくれる人たちが現れたのだ。彼らは、きっと自分たちがそんな重大な役目を果たしたとは、夢にも思っていないかも知れない。しかし、彼らは、ちょうど痒い所に手が届くように、筆者が言いたくても言えなかった言葉を代弁してくれたのだ。頼んだわけでもないのに、まさに心の中を見通したかのように、今、筆者が最も必要としていることを言い当ててくれたのだ。

こういう文章を読み聞かされるとき、生きていて良かったとでも表現するしかない、何か深い感慨が心の内側に込み上げて来る。自分によく似た人間を見つけ、理解者を得た、という感慨のようなものか。

筆者はこれまで言葉の世界に生きて来たため、常に言葉を通して、相手の人格や、心の内を確かめることに慣れている。多くの人は、外見を見て人を判断するのであろうが、筆者は、まるで目を閉じて、暗闇の中で、声だけを頼りに人を判断するように、人の発する言葉の内容を通して、その人の人柄、生き様を確かめる。

もしかすると、究極的には、初めから最後まで全く互いの姿を見ずとも、言葉さえあれば、かなり深いレベルまで、その人を理解することができるのではないかと思う。学術研究などでは、そのように時代を超えて、姿を見ることもできない人物を深くまで理解する力は助けとなる。
 
しかし、筆者の孤独は、そのような方法で、共通理解に達することのできる人がなかなかいないことであった。耳を澄ましても、賢明かつ品位ある言葉はほとんど聞くことができない。聞こえて来るのは、虐げられている人、苦しんでいる人がいても、これを踏みにじり、罵り、嘲る言葉ばかりで、彼らを救うために、必要なタイミングで、権威ある言葉が発せられるのを聞いたことがなかった。

ところが、そのような状況がどういうわけか、大きく変わって来たのである。こうして聞こえて来る解放の言葉は、筆者にとってはまるで音楽である。

筆者が自由と解放を求めて言葉を発すると、その言葉が、水面に広がる波紋のように、目に見えない形で世界に影響して行き、虚空から、こだまのように言葉が返って来る。

その言葉が、筆者の言葉と同じように、自由と解放を求める言葉であったときの感動は、表現できない。

言葉を介して、同じ考えを共有する者たちの間で、音楽が成立する。言葉と言葉が、まるでフーガのような追いかけっこをしながら、一つの調べになって行き、複数の人間が同時にそれに参加して、一つの音楽を奏で、一つのストーリーを作り上げて行く。黙示録の十四万四千人の歌は、ちょうどそんな感じではないだろうか、と思う。

それはまさに人を解放する福音の調べである。

それは、互いが必死になって自分の言いたいことばかりをしゃべって、互いに押しのけ合うような、攻撃的な言葉ではない。あるいは、自分の方が相手よりすぐれて賢明であることを思い知らせようという意図で発せられる、人を圧倒する言葉ではない。揚げ足取りでもなければ、注意や叱責や非難の言葉でもない。

それは、一つの歌なのである。筆者には考えつくこともできない、非常にすぐれて賢明な言葉が、筆者ではない他人の口から発せられる。ところが、その言葉は、まるで筆者の言葉の続きであるかのように、何の違和感もなく、筆者の言葉となじみ、一つになって行くのである。

こうして、同じ心を持つ人々が集まって、壮大な歌が作り上げられる。

そういう光景に出くわしたとき、筆者は、それまで必死に言葉を紡ぎながら、弱者を守るため、自分を守るために、神の国の権益を、信仰を守るために、文章を書いて来た仕事を、途中で投げ出したくなった。これほど優れた人たちが現れたなら、筆者のすることはもう残ってはいないと、緑の草原に仰向けに寝ころび、そのまま心地よく寝入ってしまいたい気持ちになった。

どう表現すれば良いのかも分からないが、この地上は、隅から隅まで悪人ばかりではなかったのだと、途方もない安堵の念が込み上げて来たのである。

もちろん、だからと言って、筆者は自分のなすべき作業を投げ出したりはしない。そしてもちろん、束の間、少しばかり助けてもらったと言って、誰かを過度に賞賛したり、人間に栄光を帰するつもりもない。

私たちの助け手は神であり、ここで筆者が言及している人々は、あれやこれやの特定の人間ではなく、神がその時、その時に送ってくれる必要な助け手に過ぎない。
 
さて、コメント投稿欄も閉鎖してかなりの月日が経つ。ブログを書いても反響はなくなり、あるのは悪意による中傷ばかりで、真剣な応答が見られなくなって久しい。

かつてあれほど真剣に神を求めて共に歩もうとしていた民は、生活の心配の中で散り散りになり、もはや言葉を交わすこともできない遠い領域にまで去って行った。

各種の抗議文やら、訴えやらは、愚かしい虚偽の中傷を撃退して、自分の権利を守るために、避けては通れない戦いであるから、真剣に書き記す必要があるが、それはあくまで自分の正当な権利を守るために書き記すものであって、それ以外に、何を目的とし、誰のために、何のために、文章を書き続けているのか、誰がそれを読んで理解し、賛同を示すのか、反響もなく、目的がほとんど分からないまでになっていた。

ところが、その作業の最中に、思いもかけないことが起き、筆者が途中まで歌って、疲れて歌いやめようとしていた歌の、続きを歌う人たちが現れたのである。その時、これまでこういう大変な作業を続けて来たことは、決して無駄ではなかったのだと心から感じた。

心理的な負担の大きい文書は、初めからイメージ通りに作れるものではない。芸術作品としての詩や小説を書くことと、論文を書くことは、全く異なる。さらに、論文を書くことと、訴状を書くことは全く異なる。同じ訴えを出すにしても、他人に起きた事件について書くことと、自分の遭遇した事件について書くことは全く種類が異なる。

人は自分にとって重大な意味を持つ出来事であればあるほど、その事件について、冷静に客観的に分析することができなくなる。文才のある人でも、おかしなくらいに、紙の上でしどろもどろに、ろれつが回らなくなる。

そのような大きな心理的負担の伴う作業をこなせるようになるまでには、何年間もの歳月が要るのだ。

その間に、いくつもの試作品を作り上げては、何度も書き直す。最後の最後になって、ようやく人前に出せるような、意味の通る文書が出来上がる。

だが、すでに書いた通り、最も大変なのは、人に認められる立派な形式の伴う文書を書き上げることではなく、心の整理をすることである。自分の遭遇した出来事を客観的に見つめ、自分に起きた事件が、自分のみならず、この社会全体にとって、どういう意味を持つのか、普遍的価値を見つけて、これを引っ張り出して来なければならない。そうして、起きた出来事に意味づけを行うことができた時に初めて、その文章が一人の人間の訴えを超える重みを持ち、万人に対する説得力を持つものとなる。

しかし、そうなるまでに心の整理が必要であり、それには歳月を要する。

かつては司法の場に信仰に関する争いを持ち出すことに反対していた筆者が、司法の場に決着を委ねようとしているのは、皮肉な巡り合わせのようにも感じる。しかし、筆者は、宗教界の中では、決してこのような事件について正しく決着をつけ、これを裁ける人もいなかったであろうと思う。

それは非常に残念なことであり、また、恥ずべき有様なのだが、それにしても、ここには、御子はまず真っ先にユダヤ人の救いのために地上に来られたのに、選民たちの心には彼を受け入れる願いがなく、パウロがユダヤ人に伝道したのに、ユダヤ人に拒絶され、異邦人伝道に回ったと同じようなパラドックスがあるように思う。

筆者は、クリスチャンであるが、ある意味では、かなり長い年月、この世に足をつけて生きて来た人間であり、宗教界で純粋培養された信者ではない。その筆者が、若い頃から様々な文書を作り続けて来た人間であることも、決して偶然ではあるまいと考える。

司法の場での争いの形を取っているが、その本質は、異端反駁であると筆者は感じている。

さて、カルト被害者救済活動は、これまでキリスト教界の争いを、先手を打って、司法の場に持ち出すことで、クリスチャンを脅かして来た。多くの人々は、訴訟で訴えられること怖さに、この運動の支持者から恫喝されると、たちまち反対して声を上げることができなくなった。

しかし、筆者は今、その恫喝の手段を、敵から奪ったのである。

やたら裁判という言葉を振りかざしては、クリスチャンを脅し、罪に定めようとして来た勢力の手から、司法という手段そのものを取り返したのだ。

すると呆れることに、かつてはあれほど裁判、裁判と叫んで、牧師たちやクリスチャンを非難していた人たちが、自分ではまともな文書一枚、書けなかったことが判明した。

何ということであろうか。一体、教界の中には、なぜこのようなこけおどしのレベルの恫喝に、毅然と立ち向かえる人が、一人もいなかったのであろうか。

筆者は今、自分が行っていることを、ハマンを訴えた王妃エステルの所業になぞらえるが、果たして、教界にはこの出来事の重さを理解している人々がいるのだろうかと思う。

人里に熊が下りてくれば、捕獲せねばならない。そうでなければ、里に住む人々の生活が脅かされる。熊が可哀想だなどと言っている場合ではない。小熊くらいなら、まだ命は助けられるかも知れないが、野生の親熊を野放しにしておくわけにはいかない。動物愛護法も、人間のために作られたものであって、人間を犠牲にしてまで、野生動物を助けることを目的とはしていない。人里において、野生の熊と人との生活は併存し得ない。

同様に、クリスチャンは、暗闇の勢力に対しては毅然と立ち向かわなければならない。そして、これを勇敢に撃退して、自分たちの生活の安全を守らなくてはならない。ところが、今やどうだろうか。人里には野生の熊が溢れ、人々はやられ放題、それどころか、人里にいる人間が、普段から戦争し、憎み合い、殺し合っている有様なので、彼らは熊を見ても、これを排除するどころか、どうやって熊をうまく利用して、嫌いな人間を始末できるかなどと考えている有様である。

彼らは、内心、自分の憎む同胞をかみ殺してくれた熊には、勲章を授けたいほどなのだが、大っぴらにそうとは言えないので、動物愛護法などを持ち出して、脅かされ、傷つけられ、殺された熊のために涙を注ぎ、塚を作っている。それでいながら、熊にかみ殺され、傷つけられた人間のためには一滴の涙も流さない。

このようなものは、「人里」の生活ではないだろう。このようなものは、人間の暮らしではない。人間が獣のレベルにまで堕ちてしまったのだ。ここまで堕落した倫理道徳を、どうやって引き上げ、回復できるのか。こんな「人里」を、そもそも「熊の脅威」から守る必要が本当にあるのか。

しかし、それでも、教会は、神がご自分の瞳のように愛される、神の聖なる花嫁なのである。ゴリアテが大暴れして、神を穢す言葉を吐いているときに、神はこの地上をあまねくご覧になって、そこに誰か一人でも、神の御名の永遠に揺るぎない権威であることを確信して、信仰によって、勇敢にゴリアテに立ち向かう人間がいないかを探し出される。そうして選び出されて来るダビデは、いつの時代にも、まだうら若い未熟者で、誰から見ても勇士と呼ばれるような偉大な存在ではない――。

今日、キリスト教界がどれほど弱体化したか、どれほど倫理を失ったか、どのような恐ろしい内紛に陥ったか、そんなことは、神がご自分の花嫁たる教会――エクレシアーーをご覧になられる際には、全く関係ない事柄なのである。

そういう腐敗堕落にばかり目を留めてはいけない。神はバアルに膝をかがめない勇者たちを、いつでもどこからでも選び出して来ることがおできになる。

私たちは、御名を掲げる主の民であるから、その中から、神の国の権益のために、主の民の権益を守るために、暗闇の勢力に対して、勇敢に立ち向かう新しい人となる必要がある。

敵が手にしている武器を奪還し、敵の名の記された旗を引き下ろさなければならないのだ。

筆者は本年になってから、その手法を少しずつ学んだ。そのおかげで、今や敵軍は、自分たちの名を冠した旗を恥ずべきもののように降ろし始め、遁走態勢に入っている。

私たちは、彼らが私たちの名を奪い、私たちの存在を奪って、歴史を彼らにとってのみ都合よく書き変え、私たちの存在を地上から消し去ろうとしたことに対し、全力で抵抗し、敵のやり方を逆にして、彼らに攻撃をしかけ、彼らの名を奪い取って消し去り、彼らの武器を奪い取って我がものとし、彼らの改ざんした歴史を、我々にとっての真の歴史(His-story)に戻すために、勇敢に戦ったのである。

私たちは常に、我々人間の目から見た歴史ではなく、神がこの地上をどうご覧になるかという歴史を、追求し続けている。

神が御子の命と引き換えにしてまで贖われたのは、野生の熊ではなかった。神は悪魔と暗闇の勢力を惜しまれたがゆえに、地上に御子を送られたのではない。神は人間を惜しまれ、人間を救うために、ご自分の独り子を十字架にかけられたのである。

今日、神がご自分の民と認識しておられ、瞳のように守っておられるのは、十字架に敵対し、贖いを否定し、神を穢す言葉を吐き続けている旧創造ではない。

私たちは、自分が、神が御子の命と引き換えにしてまで贖われた民であることを自覚し、キリストの血の代価が支払われた民であることを自覚し、その価値をもっと惜しまなければならない。そして、自分が何者であるかをきちんと自覚して、その尊厳を守らなければならない。

私たちは、くつわをかけて引き回さなければ言うことを聞かない愚かな家畜や、捕獲されるべき荒々しい野獣ではなく、上品で、つつましく、教養があって、礼儀正しく、何が正義であり、真実であるかをわきまえ、御心に忠実に従うことのできる花嫁であり、御霊に導かれる民なのである。

しかし、御霊に導かれる民としての品格が、今、主の民の中にどれほど残っているであろうか?

いずれにしても、荒くれ者たちは、人里から去って行かねばならない。そうして、荒れ果てた庭は、花々が咲き、人々が行き交い、小鳥たちが歌う楽しい園が回復されなければならない。

筆者自身も、危ういところまでは行ったが、少なくとも、自分の名を敵に奪われることなく、取り返すことはできた。たとえ賛同する者が誰もおらずとも、これは神の教会を、暗闇の勢力から奪還し、キリストの花嫁としての尊厳を回復するために、なくてはならない戦いなのであり、主の民が、命をかけて戦い通さなければならない信仰の歩みの一歩なのである。

筆者は2009年に「キリストの十字架以外に救いはない!」と題する記事を書き、カルト被害者救済活動のむなしいことを訴えたが、その後、もしもその筆者が、自分の掲げていた御名の記された旗をあっさり降ろしてしまえば、筆者の証しは、本物ではなかったことになろう。

それでは、筆者の救いも、本物ではなかったことになろう。

そうなれば、筆者の名は、インターネット上だけでなく、命の書からも抹消されることであろう。人前で神を拒む人間を、神も拒まれるのだから。

そこで、筆者は、神が今日も生きて力強く働かれ、ご自分の愛する民を力強く守って下さり、ご自分の愛する子供たちを、この世の終わりまで見捨てず、共にいて下さり、助け、支えて下さることを生きて証明せねばならない。

しかし、その戦いの中で、いわゆるクリスチャンを名乗る人々ではなくて、この世の信仰を持たない人々が果たした役割のことをもきっと忘れないだろう。

だが、信仰があるかないかに関係なく、私たちは、すべてのものがひざをかがめ、キリストに服従する時が来るまで、この地上に、御名の権威を記した旗を立てるために進軍している。すべての目に見えるものが、目に見えないキリストの御名に服するときまで、十字架を貫き通すことが、私たちの戦いなのである。

その中で、私たちは、ただ自分の生存を保ち、支えるというだけではなく、主の民の霊的状態を整え、貧しく、荒廃した今日の民の状態を、回復するという役割を与えられている。

それが今日の祭司としての役目である。熊の脅威が取り除かれれば、人里の復興という課題が待ち構えている。しかし、それとて、私たち一人一人が、キリストにある新しい人として、命の御霊の路線をどう生きるかにかかっている。

キリストの花嫁たる教会の回復は、私たちの内なる尊厳の回復と密接な関係がある。落胆することはない――試練が大きければ大きいほど、その中で与えられる慰め、栄光も大きいからだ。どのような試練があろうとも、最後まで御言葉に固く立って信仰を守り通した者には、命の栄冠が待ち受けている。御霊の内なる油塗りが、私たちの心の内側に、高貴な花嫁としての人格を形造ってくれるだろう。

試練が、一人一人の信者の内側に、キリストの人格を、痛みと共に彫り刻んで行く。しかし、まさにその彫刻がなされている最中には、私たちは痛みしか感じず、それが一体、何のためであるのか、どのような実を結ぶのか、理解もできないことであろう。しかし、すべてを忍び通した後には、思いもかけない栄光が待ち受けていることと思う。それは、私たちの内側に、主の花嫁にふさわしい高貴な人格が造られることである。

外面の回復ではなく、内面の回復という新たな局面に、私たちは差しかかっている。このことについてはまた追って書いていきたい。