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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

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異端思想は家庭を拠点に地上天国を目指す―キリストの十字架の切り分けを否定して未分化の東洋思想への回帰を唱える危険な運動⑤

ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。」(マタイ24:38)

「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイ7:13-14)

「しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師は、ただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。あなたがたは地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただひとり、すなわち天にいます父だけだからです。また、師と呼ばれてはいけません。あなたがたの師はただひとり、すなわち、キリストだからです。」(マタイ23:8-10)

「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。
人の子が来たのは、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。
」(マタイ20:25-28)

不正を行なう者はますます不正を行ない、汚れた者はますます汚れを行ないなさい。正しい者はいよいよ正しいことを行ない、聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい。」(黙示22:11)

 



10.宗教指導者を「霊の父母」とし、これに絶対的に帰依する信者の家庭を増加させることで、地上天国を成就させることを目指す思想は異端である


さて、この論稿は、前の記事の続きとして、信者の家庭をエクレシア建設の単位とみなし、地上でクリスチャン家庭を増やすことにより、神の国が招致されるとする思想が根本的に誤っていることを、各種の異端思想と比較して明らかにすることを目的としている。

だが、同時にこのテーマは、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師にとっての家族モデルとは何なのかを明らかにする目的で筆者が追究し始めたものでもあるため、まずはそこから話題を開始して行きたい。


・「霊の父母」を作ることにより、縦の関係を絶対化する偽りの教え

 
カルト被害者救済活動を率いるアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師は、約十四前、同教団に属していた鳴尾教会において、当時の鳴尾教会の主監者であり、自らの義理の父であった津村昭二郎牧師と協力して、津村氏の後継者と目されていた伝道師夫妻を教会から追放した。(この事件については記事「村上密牧師による鳴尾教会への不当な介入問題 まとめ」を参照。)

伝道師夫妻の異動は、一見、彼らが自主的に異動届を出した結果であるかのように見せかけられていたが、実際には、その裏に村上氏と津村氏からの伝道師に対する圧力があったことが、後に教団が公にした伝道師らの書簡によって判明した。そのため、鳴尾信徒らの間には、教団と津村氏・村上氏に対する根強い不信感と疑惑が生まれ、これが、鳴尾教会に長く続く混乱をもたらす原因となった。

しかし、教団は津村氏と村上氏をかばってこの不正な事件をもみ消すために、教会の混乱の原因を後に鳴尾教会に赴任した山田牧師夫妻に転嫁しようと試み、かつて伝道師らを追放した時と全く同様に、山田牧師夫妻に対する異端の疑惑をでっちあげようとした。(村上密氏のブログ記事参照)。
 
鳴尾教会はこのデマを信じず、信徒らの総意により、かえってこの腐敗した教団から離脱する道を選んだため、教団側の目論見は頓挫した。教団は裁判にまで及んで鳴尾教会の教団離脱を阻止し、これを手中に取り戻そうとしたが、それもことごとく敗北に終わった。


村上密氏は、今年になってもまだ、鳴尾教会がやがてアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団とは別の教団に属することになるだろうことを見越して、これを何とか阻止しようと、負け犬の遠吠えのごとく、懸命に山田牧師夫妻の印象を貶めようと叫んでいるが、みっともないことである(村上密氏のブログ記事参照)。

こうして、自分に対する離反者には長年に渡り、容赦なく制裁を加え、教団を去る者には呪いのような非難の言葉しかかけることのできない、この牧師の自己本位で執念深い性格は、同氏の記事において十分に明らかになっている。これを読めば、
信仰を持たない一派市民でも、この教団には疑問と恐怖を感じて近寄らなくなるであろう。

村上氏率いるカルト被害者救済活動は、教会に恨みを持つ(元)信者ばかりを集めては決起させることによって、信者を懺悔させることを目的に、教会や信者を裁判に引きずり出しては懲罰を加え、諸教会の平和な信仰生活を妨害して来た。その上、教団離脱した教会に対しても、将来に渡ってまで悪影響を与えるような制裁を今も公に加え続けているわけだから、これでは教団の評判も落ちようというものである。

このようにキリストの福音を平和的に伝道するという牧師の第一義的な使命から著しく逸脱し、他の牧師の伝道を妨害することしかできなくなった牧師にこそ、しかるべき厳しい処分を下すのが、教団の本来の組織としてのあるべき姿である。

しかし、そのようなことはこの教団には言っても無駄であろう。何しろ、村上密氏のカルト被害者救済活動は、村上氏個人が率いているものとはいえ、教団そのものの理念とも、密接な結びつきがある。もともとこの教団が推進するペンテコステ運動は、聖書に基づかない弱者救済活動として始まったものであり、なおかつ、リバイバル招致による地上天国という異端的な偽りの神の国を目指している。このように、神に反逆する人類の一致を唱えている以上、その裏面として、キリスト教を内側から破壊する理念を持つ運動が現れて来ることは避けられないのである。そのことは以下で明らかにする。

 
さて、本題に戻ると、今回のテーマの一つは、なぜ十四年前から現在に至るまで、村上氏が鳴尾教会に関して、義理の父である津村氏と一心同体のようになって行動を共にしたのか、という疑問を、同氏がかつて深く関わっていた異端思想に照らし合わせて検証することにある。

つまり、村上氏にとって「父」とは何か、という問題にスポットライトを当てることによって、なぜ津村氏・村上両氏が、なぜ長年に渡り、鳴尾教会にいわれなき制裁を加え続けたのか、その理由も幾分、明らかになると考えるのである。
 
村上氏は、義理の父とはいえ津村氏とは互いに別の人間であるから、たとえ津村氏が大先輩の牧師であっても、同氏の判断に絶対服従せねばならない理由はない。まして、村上氏には自らの牧会する教会が別にあるのだから、直接の関わりのない鳴尾教会に対して、わざわざ教団や教会内規則を踏み越えてまで、内政干渉しなければならない理由もない。

にも関わらず、鳴尾文書を読んでも分かるように、村上氏は十四年前の当時から現在に至るまで、常に義理の父である津村氏の意向を忠実に体現し、津村氏と一体となって、自分ではなく津村氏の願いを実現させるべく、鳴尾教会の内政に不当に介入して来たのである。

その有様を見ると、なぜここまで父子が一つになって行動しているのだろうかという疑念が生じないわけにはいかない。


この疑問に対する答えとして挙げられるのは、統一教会を脱会して、キリスト教の牧師になった後でも、村上密氏はかつての統一教会流の、指導者を絶対化するカルト的思考を捨てられずに今日に至っているのではないかという疑惑である。

特に、統一教会には指導者夫妻を「真の父母」とする独特の「霊の家族」モデルが存在する。そして、次の論稿で示す通り、プロテスタントには、ペンテコステ・カリスマ運動の枠組みの中から登場しながら、この運動の枠組みを超えて、福音派を含む諸教会に「バイブル」のように受け入れられた「教会成長論」という異端的な家族モデルが存在する。

統一教会は、文鮮明を再臨のキリストとみなし、この宗教指導者夫妻を「真の父母様」として褒めたたえ、その教えに帰依し、合同結婚式を通して、彼らの家族モデルに加わることによって、信者は「聖なる血統」にあずかり、罪から救われて清められ、聖家族に加えられると教えている。

このような統一教会が理想とする家族モデルを、村上氏はこのカルト団体を脱会した後も、心に持ち続け、さらにそれが上記のペンテコステ・カリスマ運動において提唱されている「教会成長論」の異端的家族モデルとも合わさって、ますます補強されて行ったのではないかということが言える。


つまり、村上氏は合同結婚式にまで至ることなく統一教会を脱会したものの、その後、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の中でも相当の権威とみなされていた教職者・指導者である津村昭二郎夫妻のクリスチャン家庭の一員に加わることによって、また、津村氏夫妻を師のように仰いで、その意向に忠実に従うことによって、あたかも「聖家族」に連なったかのように、理想的なクリスチャン生活を体現でき、「聖化」が成し遂げられるかのように考えていたのではないかと推測される。
 
村上氏にとって、津村氏は単なる「義理の父」ではなく、その教えに背くことが決して許されないような宗教指導者であり、自身の「霊の父」なのである――そういう事情でもない限り、村上氏・津村氏らがそこまで長年に渡り、思想的に一致して鳴尾教会への迫害という行動を共にして来た理由が見当たらないのである。
 



・「子」が「親」を守り、「家」を守ることを要求する転倒した家族モデル

これから見て行くように、統一教会であれ、カリスマ運動であれ、国家神道であれ、異端的な家族モデルにおける「縦の関係」は、「子」に「親」への絶対的な従順を要求するという共通点がある。

本来、「家」とは、強い大人たちが弱い子供たちを守るのでなければ立ち行かない。赤ん坊や、未成年や、子供たちが自分で自分を守れるはずもなく、彼らには大人たちの保護が必要である。このような非力な子どもたちが、親を守る防波堤になどなれるはずもないし、家を守るために立ち上がって戦う戦士にもなるわけがない。家を守るのは大人たちの仕事である。

また、当然のことであるが、子供たちはいつまでも子供のままでいることが望ましいのではない。やがて親から自立し、一人の人間として独立し、生まれ落ちた家を離れて、自らの人生を切り開いていくことが求められる。

しかしながら、異端的な家族モデルは、「子」を「家」(親)を守り、支えるための道具とみなし、なおかつ、「子」の「家」(親)からの自立を決して認めない。そこでは、アジアの貧しい農村の家庭で、朝早くから子供たちが学校にも行かず、労働力として働きながら、家計を支えているのと同様に、「弱い者」である「子」が「強い者」である「親」に仕え、「子」が「親」を守り、「子」が「家」に名誉と繁栄をもたらすために生きることが義務とされ、親子の縦の関係から「子」が離脱することが許されないのである。

このようなものを筆者はアジア的な家族モデルとみなしているのだが、これを教会生活にあてはめ、指導者夫妻を「霊の父母」、信徒を「子」の立場に置いて、親子の縦の関係を絶対化するのが、異端的家族モデルである。

こうして指導者(親)が信徒(子)を守るのではなく、信徒(子)が指導者(親)を守り、指導者(親)に仕えて生きるという、転倒した家族モデルを教会の基礎とみなし、同じ家族モデルに連なる信者の家庭を地上で増やしていくことによって「リバイバル」を引き起こし、全人類を「一つの霊の家族」に帰依させて、地上天国を実現できる、とするのが、あらゆる異端の教えに共通する基礎的な型である。

村上氏は、こうした異端的な家族モデルにのっとって、義理の父である津村氏を絶対視し、宗教指導者と信者との縦の関係を絶対視すればこそ、鳴尾教会もまた指導者である津村氏に絶対服従すべきであると考えていたのではないか。そこで、鳴尾教会が、主監者であった津村牧師の不祥事を追求して告発したり、津村氏の不祥事を明るみに出すことによって、同氏を辞任に追い込んだり、村上氏と津村氏による伝道師らの理不尽な追放という事件についてもためらうことなく真相を追究し、教団と村上氏・津村氏の対応に不信感を突きつけ、こうして「弱者」であるはずの教会が、「強者」である教団や指導者に責任を追及し、物申して事態を明らかにしようとしたこと自体が、「(霊の親たる教団と指導者に対する)あるまじき反逆である」、とみなしているのではないだろうかと考えられる。
 


・全人類を「一つの霊的家族」に結びつけようとする教えは神への反逆である
  
村上氏は、一方では、「教会のカルト化の危機」を叫んで、教会から被害を受けたとする信者らを積極的に集めては、「疑わしい」牧師や教会に裁判をしかけ、教会の破壊活動にいそしみながらも、他方では、統一教会や教会成長論に見られるような異端的家族モデルに基づいて、信徒は自らの宗教指導者に絶対服従すべきという教えを振りかざし、自分たち(身内)に対する離反や告発は決して許さず、離反者に対しては長年に渡り厳しい報復行為に及んで来た。
 
この二つの運動――身内の指導者や教団の権威の絶対化――と、自分たちの集団に属さない指導者や教会の権威を容赦のない制裁によって引きずりおろすこと――は、一見、相矛盾する行動に見えるかも知れないが、ともに聖書の御言葉に基づかず、人をキリストではなく人間に従わせる異端的家族モデルから生まれて来る活動なのである。
 
端的に言えば、それらはともにキリストの霊に属さない、人の生まれながらの古き「自己」が行う果てしない「自己保存」と「自己増殖」の試みでしかない。

たとえば、村上密氏が率先して行って来た裁判による他教会の取り潰しや併合は、「他家」を容赦なく取り潰して「我が家」に併合することで、果てしなく「我が家」の拡大(自己増殖)を目指し、やがて全人類を「我が家(自己)」に同化させて、同じ「霊的血統」に属する一つの家族に帰依させることにより、地上にユートピアが到来すると教える異端的家族モデルの現実的な運用なのである。村上氏が提唱している「カルト監視機構」も同じであり、これは宗教界全体を己の支配下に治めるための試みに過ぎない。

こうした思想はすべて、異端思想が一様に提唱する「全人類一家族理想」のモデルーー宗教指導者夫妻を「霊の父母」として崇め、それに「子」として連なる信者を増やすことにより、人類全体を自己に同化させて「一つの家族」としようとする試み――から来るものであり、そのようなものは断じて、聖書の神が望んでおられるキリストの花嫁たるエクレシアの建設ではなく、それはずっと古くからある神に反逆するための建物の建設の試みである。

「さて、全地は一つのことば、一つの話ことばであった。そのころ、人々は東のほうから移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。
彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作ってよく焼こう。」彼らは石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いた。

そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」

そのときは人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。
は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。

こうしては人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、が人々をそこから地の全面に散らしたからである。」(創世記11:1-9)

結局、全人類をともに「一つの霊の家族」につなげることにより、地上で「リバイバル」を呼び起こせるとしている「教会成長論」は、神に反逆するバベルの塔建設の試みに他ならない。それはどんなにキリスト教の中から生まれて来た運動のように見えても、実際には、神に対する人類の思い上がりの必然的な結果として、キリスト教界に分裂と、混乱しかもたらさないのである。

そこで、地上天国としての「リバイバル」を唱えているペンテコステ・カリスマ運動の只中から、教会に裁判をしかけては破壊と混乱をもたらしているカルト被害者救済活動が出て来たのは、偶然ではない。それらは共にコインの表と裏のように、同じ性質を持つものであり、表向きに掲げている「全世界の一致」と、それに完全に相反するように見える「分裂と混乱」――これら二つの側面は、全人類が一致して神に反逆しようとする試みに必ずや伴う両面を示しているに過ぎない。
 
このように、聖書の神に逆らう悪魔的な発想としての全人類の一致・地上天国建設の計画は、何度頓挫しても飽きたらずに、繰り返し、繰り返し、キリスト教の中に、聖書の教えを装って現れて来た。聖書を見ると、そうした教えは、失敗続きの中でも次第に肥え太り、最初は単なる小さなバベルに過ぎなかった町が、最後には「地上の王たちを支配する大きな都」(黙示17:18)バビロンにまで成長しているのを見ることができる。ちょうど創世記では小さな蛇だった悪魔が「巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇」(黙示12:9)になったのと同様である。

このバビロンこそ「大淫婦」、すなわち、「すべての淫婦と地の憎むべきものとの母、大バビロン。」(黙示17:5)である。

最初は「町」だったものが「都」になっただけでなく、それは今や性別と人格が与えられ、「母」や「女」と呼ばれている。なぜ大淫婦なのか? その理由はクリスチャンならば誰でも知っていよう。聖書の御言葉に反するあらゆる虚偽の教えを喜んで奉じ、キリストだけに従う真実と貞潔を捨てたからである。

しかし、ここでバビロンが女性の名で呼ばれていることに注意が必要である。なぜ「母」なのかは、この論稿を読み進めて行けば分かるはずである。

それは東洋思想と密接な関係がある。結論から提示するならば、これは東洋思想の誉め讃える女性原理・母性原理を人格化したものだからである。

大淫婦バビロンとは、聖書の御言葉の「二分性」を否定して、御言葉の持つ「分割」や「切り分け」という父性原理を否定して、御言葉に基づいて善悪を識別することをやめ、何でも愛して受容する東洋的な「母性原理」を高く掲げる東洋的(オリエント的・ヘレニズム的・アジア的)な思想の総称なのである。いや、堕落したキリスト教が東洋思想と相通じた結果として生まれて来た混合物を意味するのである。
 
こうした東洋思想とキリスト教とを混合させることで、キリスト教を堕落させる試みは、キリスト教の中から、あたかもキリスト教のような仮面をつけては、度々、登場して来た。以下で見て行くペンテコステ・カリスマ運動もまたその混合物の一つであることがよく分かるであろう。

ペンテコステ・カリスマ運動はキリスト教ではない。それはキリスト教と、聖書が最も憎むべきものとみなしているものとの混合である。そこで、このような運動には決して関わらないことを勧める。これに深く関わり、その教えを信じた人々は、必ずや、聖書の御言葉に対する真実性と貞潔さを失う。そして、御言葉の切り分けを曖昧にし、神と人との断絶を否定した上で、最終的には、まことの神を押しのけて、自らを神とする異端的告白へと行きつくのである。
 
<続く>

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わたしの母とはだれのことですか。また、兄弟たちとはだれのことですか。神のみこころを行なう人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。

「さて、イエスの母と兄弟たちが来て、外に立っていて、人をやり、イエスを呼ばせた。大ぜいの人がイエスを囲んですわっていたが、「ご覧なさい。あなたのおかあさんと兄弟たちが、外であなたをたずねています。」と言った。

 
すると、イエスは彼らに答えて言われた。「わたしの母とはだれのことですか。また、兄弟たちとはだれのことですか。

 
して、自分の周りにすわっている人たちを見回して言われた。「ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。神のみこころを行なう人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」(マルコ3:31-35)

「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。

 さらに、家族の者がその人の敵となります。

わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。

自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」(マタイ10:34-39)

 



 1.神の家族とは、信者の肉による家族のことではない。にも関わらず、信者の肉による家庭をエクレシアの基礎単位とみなす考えは誤りである。

さて、エクレシアと神の家族のテーマについて補足しておきたい。

 
それは、信者の家庭(集会)を信仰生活の基礎とみなす考えは、根本的に異端であり、間違っているという見解を述べるためである。

当ブログを始めたばかりの頃、このブログには熱心なコメント者も相当おり、キリスト教界を脱出した数多くの信者たちとの生きた接触があったため、あたかもこれからエクレシアの建設に向けて、純粋に神を求める信者たちが集まって、地上で大きなうねりができるのかも知れないという印象を筆者も受けなかったわけではない。

その頃、ある兄弟が言った、「初代教会の教会は単純素朴で、立派な礼拝堂などなかったはずです。大規模な集会もなく、組織化された団体というものはなく、指導者もおらず、信者が日々の生活の中で、互いの家庭を訪ね合って、単純素朴に交わりを持つというのが、エクレシアの姿だったわけです。だから、今日の教会も、そのように『家々の教会』であるべきなんですよ」。そして、「家々の教会が増え、広がって行くことが、主の再臨を呼び寄せるのです」と言うのである。
 
「家々の教会」、言い換えれば、家庭集会である。そこまで組織化された集会でないとしても、素朴な家庭の集まりが、エクレシアの最小単位であり、地上において信者の家庭集会が増え広がって行くことが、エクレシアの拡大であり、主の再臨の秘訣だというのであった。

この兄弟はその信念に基づいて、それ以後も、ずっと大規模な組織を離れたところで、家庭集会の増加に努めているようである。その後も、筆者は、この兄弟とは別なところで、家庭集会こそが、地方教会の基礎であり、家庭集会の増加が、エクレシアの拡大を意味し、主の再臨を引き寄せる秘訣だと考えている集団に出会った。

だが、筆者の見解は、この人々の見解とは全く逆のものである。地上における「家々の教会」が増えることにより、人数が集まってエクレシアが拡大して行き、やがて主の来臨を引き寄せるなどという考えはれっきとした異端である、というのが、筆者の動かせない見解である。

上記の兄弟もそうであったが、彼らは「エクレシアとは組織ではない」と言って、既存の教団教派を離れ、組織や団体を作ることには反対していた。だが、筆者から見れば、地上における家庭という単位も、やはり、れっきとしたミニ組織なのである。

何しろ、家庭とは、個人ではなく、すでに集団である。個人の信仰ではなく、集団をエクレシアの基礎単位とし、地上における家庭集会という「拠点」を増加させるために活動することは、次回の記事で述べる通り、聖霊派の唱えているリバイバルとほとんど変わらない、地上天国への招きなのである。

そんな風に家庭の数を増加させることにより、人数を増やし、地上での権勢を誇るよりも、一人一人の信者(誰よりも自分自身!)の中で神への信仰が増し加わることの方がはるかに重要であることに筆者は気づいたため、他者への期待と関心は、年々、薄れて行った。そればかりか、目に見える他の信者に心を向けることが、重大な危険であることが分かったので、そのような関心を自ら否む必要があることが分かったのである。

このような筆者の見解をはっきりと裏付けるいくつかの事件があったので書き記しておきたい。


 
➀元アッセンブリー信者の青年の例から
  
2009年頃、上記の「家々の教会」を主張していた兄弟たちとの交わりに、熱心にエクレシアを求めているかのように装って現れた一人の青年があった。

その青年は、筆者のブログを読んで、何としても筆者に会いたいと願ったのだと言って、コンタクトを取って来た。だが、交わりに加わるや否や、早速、その青年は、自分の家庭のために連綿と祈りのリクエストを出すようになった。

そのリクエストは、最初は「我が家のリビングルームに主をお迎えしたいのです。妻子に主を受け入れて欲しいので祈って下さい」といった比較的無難な内容であったが、すでにこの時点で、筆者の心には、深刻な疑問が生じていた。
 
青年は大の愛妻家であり、子だくさんの家庭と、素敵なリビングルームのある家を所有していた。青年のリクエストは、家庭こそ、エクレシアの拠点であるべきという兄弟の心の願いに火をつけたので、そういったものを持たない信者を取るに足らない存在として退ける効果をももたらした。

だが、筆者には疑問であった。果たして、主をお迎えする場所は、立派な家庭の整えられた素敵なリビングルームであるべきで、そこには信者が愛してやまない妻子がいるべきなのだろうか? 
  
筆者の念頭には、これは何かがおかしいぞという直観が初めからあった。なぜなら、主との交わりは、極めて排他的かつ厳粛なものだという動かせない現実があるためだ。

私たちの神は、「あなたはほかの神を拝んではならないからである。その名がねたみである主は、ねたむ神であるから。」(出エジプト34:14)と言われる神である。

信者が最も愛してやまない対象は、ただお一人の神であるべきであって、見えない神をこそ第一とするのが信者の信仰生活である。神以外の全ての目に見える地上のものは、どんなに信者が愛していても、神との交わりに持ち込むことはできず、神以上に心を留めるべきでもない。

神との関係は、あくまで個人を基礎として、他の追随を許さない排他的関係であって、信者が集まって心を一つにして祈り合うことは可能ではあるが、それは地上の家族とは無関係の話である。たとえ愛する自分の家族であっても、人が自分の都合でそれを神との関係の中に持ち込むことはできない。

むしろ、肉によって生まれた地上の家族への愛は、神への愛の前で退けられる。

主イエスははっきりと言われた、わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」(マタイ10:37-39)

だが、その当時、筆者の疑問をよそに、「家々の教会」を目指していた兄弟は、飛びつくように、その青年の素敵なリビングルームを訪問し、早速、第一回目の家庭集会を持ったようであった。

その後、観察していると、前述の青年は、自ら愛し、誇っていた立派なリビングルームのために、巨額の借金を負っていることが判明した。リビングルームだけではない。立派な外車も借金による購入であったし、青年が誰よりも愛していた自慢の妻は、かつて上司と婚約していたのを横恋慕して、他人から奪うようにして手に入れた人であった(おそらくは未信者だった時代に犯した過ちとして告白していたように記憶している)。

そして、その青年のリクエストも、「家族が救われて我が家のリビングルームに主をお迎えしたいので祈ってもらいたい」というものから、「借金返済のデッドラインが迫っているので、〇月〇日までにお金が与えられるように祈って欲しい」という緊迫した内容へと変わって行った。

筆者は、仕事や生活の必要性は、主が必ず満たして下さるはずだという確信があったので、だんだん強迫的な内容となって行く青年のリクエスト内容に違和感を覚えた。しかも、その青年は就職活動を全くしないまま、ただ祈りによって金銭と就職口を願い求めている様子であったため、筆者の目には、それは非常に危険な行為であると映ったが、青年の家庭の「危機」を聞いて涙を流し、祈り、支援を申し出た人たちも、信者の中にはいたようである。

筆者はその交わりを離れたが、何年か後に、再び彼らと再会した。その頃、その青年は、筆者がこの交わりを離れていた間も、「家々の教会」を主張する兄弟に着いて回りながら、その間に、就職のために兄弟姉妹に幾度も憐れみを乞うては、信者たちの世話を受けていたことが分かった。なおかつ、彼らの支援を反故にし、その信頼を裏切っていたため、多くの兄弟姉妹から恨みを買っていたのである。

一時は、悲劇の主人公のように交わりの中心に立ち、同情を受けていたこの青年であったが、その頃には、すっかり周囲の信者たちに動機を見透かされていた様子で、かつて自分が利用した信者たちの怒りを避けて、彼らから逃げていた。

その後、またしても、借金のデッドラインと祈りの支援を求める便りが筆者にも送られてきたが、筆者が、神こそ信者の全ての必要を叶えられる方なので、自分の悲劇を他人に向かって声高に主張して他人の同情を求めることをやめ、沈黙のうちに、主だけに自分の必要を打ち明けて祈ってはどうかと提案したところ、その青年は、初めてそれまで被って来た善良で温厚な信者の仮面を脱ぎ捨てて、信者らに対する憎しみを口にした。

そして、「クリスチャンは冷たく、愛がなく、哀れみがない。自分を助けてくれたのはいつも不信者だった」という捨て台詞を残して、交わりを去ったのである。(だが、実際には信者らは彼に手厚い支援を行い、就職口の世話もし、祈り、助けて来たのであった。不信者の親戚も含めると、この青年が人の憐れみにすがってこしらえた借金は何百万円にものぼる。)

その後、この人がどうなったのか筆者は全く知らないが、こうして、「我が家のリビングルームに主をお迎えしたい」という願望から始まって、自分を喜ばせるための一連の願い事に、エクレシアを役立てようとした青年は、自分の願いがかなわないことを知るや否や、エクレシアを踏みつけにして去って行ったのであった。

この人の望んでいたのは、最初から、自分が神の御言葉に服することではなく、神の御言葉を自分に服させること、すなわち、エクレシアを自分の願望の道具とすることだったのであろうと、筆者は思わずにいられない。ちなみに、この青年もまた統一教会を脱会した元アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の信者であった。

この青年に起きた出来事は、「金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」(マタイ19:24)という聖書の事実を筆者に思い出させた。筆者が当初から予想していた通り、エクレシアとは、この青年が思い描いていたような軽薄かつ安楽なものではないことが明らかになったのである。

神との礼拝の中に、自分の生まれながらの家族、自分が選んだ愛する伴侶、自分が生んだ愛する子供たち、自分の家庭などを持ち込み、お気に入りの仲間たちと素敵なマイホームでみんなで手をつなぎ、楽しく快適に居心地よく一緒に天国の門をくぐれます、という教えは、どう見ても、聖書には全くない。

むしろ、自分の父母娘息子よりも主を愛さなければ、神に従い抜くことができないと聖書ははっきりと警告している。
 
上記で引用した主イエスの語られた御言葉では、父母娘息子という、親子の生まれながらの縦の関係だげが言及されており、伴侶についての言及はないが、だからと言って、伴侶についても、やはり聖書の言及は一貫して厳しいのである。

使徒パウロは、信者の結婚について、禁止まではしないものの、気乗りのしない言葉を記している。「現在の危急のときには、男はそのままの状態にとどまるのがよいと思います。」(Ⅰコリント7:26)

この表現は面白い。現在は「危急の時」だから、信者は結婚しない方がいいと言うのである。

他の場所でもパウロは言う、「時は縮まっています。今からは、妻のある者は妻のない者のようにしていなさい。」(Ⅰコリ7:30)

そこでも、やはり「時は縮まっている」と、同じように緊急性が告げられている。緊急事態だから、信者はできれば妻を持たない方が良いという見解が繰り返されているのである。つまり、この大変な時に結婚などすると、あなたの信仰にとって、のちのちそれがひどい障害になりかねないので、できれば信者は結婚せずに、神にのみ心を向けて暮らした方が良い、また、たとえ家庭があっても、ゆめこれに気を取られず、あくまで神だけに望みを置くべきで、地上の宝に欺かれてはいけない、という警告のニュアンスが含まれていると感じられる。

だが、使徒は、なぜ「現在の危急の時」と言ったのであろうか? この言葉と明らかに呼応しているのは、主イエスが述べられた次の言葉である。

「人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。」(マタイ24:37-39)

つまり、ノアの洪水にも勝るような、世の終わりが迫っている時に、人が自分を喜ばせる活動だけに没頭していれば、神の御心など全くおざなりとなり、自分にどんな危険が迫っているのかも分からないまま、突如、滅びに巻き込まれかねないので、自己本位で自分を喜ばせる活動に心を奪われるのはやめなさい、という警告なのである。

主イエスが「めっとたり、とついだり」する行為に否定的に言及されたように、伴侶を持つことさえ、本質的に重要な事柄から人の目をそらせ、人に地上のものを愛させる効果を十分に持つことをパウロも知っていたのである。

ちなみに、「飲んだり、食べたり、めとったり、とついだり…」といった行為は、教会行事で盛んに行なわれているだけではなく、たとえば、吉祥寺キリスト集会などのように、家庭集会をエクレシアの中心に据えているところでも、不思議にすべておさえられているポイントである。

主イエスは、こうしたことは、神の御前で本質的に重要な事柄ではないので、決してそれらに気を取られるなと教えたのである。

聖書を振り返ると、アダムの堕落はエバによってもたらされたのであり、ヨブの妻もヨブの信仰にとって大いなる障害となった。異邦の女デリラを愛しすぎたことが、サムソンの悲劇のきっかけとなった。
 
従って、信者が結婚しないでいられるならば、その方が良いと述べたパウロの言葉も、背教のはびこる今の時代、たった一人だけでも信仰を貫き通すことが、どれほど困難であるかをよく示しているように感じられる。
 
パウロは、信者の離婚を基本的に認めないが、ただし、不信者の伴侶が自ら離れて行く場合は別だと言う。「しかし、もし信者でないほうの者が離れて行くのであれば、離れて行かせなさい。そのようなばあいには、信者である夫あるいは妻は、縛られることはありません。神は、平和を得させようとしてあなたがたを召されたのです。なぜなら、妻よ。あなたが夫を救えるかどうかが、どうしてわかりますか。また、夫よ。あなたが妻を救えるかどうかが、どうしてわかりますか。」(Ⅰコリント7:15-16)

つまり、パウロは地上における信者の結婚や夫婦愛を、キリストへの愛以上に重んじることがなかった。

それは、聖書における真の「男女」とは、何よりも、キリストとエクレシアのことを指しており、地上における人間の夫婦はその型に過ぎないためである。そのことは以下のパウロの言葉からも明確に分かる。

私はあなたがたを、清純な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストにささげることにしたからです。しかし、蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、万一にもあなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真実と貞潔を失うことがあってはと、私は心配しています。」(Ⅱコリント11:2-3)

通常、この御言葉は、聖書に基づくキリストへの信仰以外の誤った異端の教えに気を取られて、信仰者としての貞潔を失ってはいけませんよ、という警告として受け止められている。

だが、この言葉にはより深い警告が込められているものと筆者は考えている。上記の言葉を字義通り受けとるならば、ただ「ひとりの人(男子)」とは、キリストのことであり、「ただ一人の男子キリストのみに捧げられた貞潔な花嫁」というのが、エクレシアの本意なのである。

すなわち、ここから、人にとって真の「男子」とは、人間ではなく、キリストであることが分かる。神と人とがパートナーであるというのは、衝撃的な事実であるが、霊的には真理であり、それこそ、聖書が述べていることであり、キリストが求めておられる花嫁の姿なのである。

キリストは、地上での生涯の間、妻を持つことなく、人としての地上的幸福の何一つ、ご自分のものとして所有されなかった。ご自分を低くされ、すべての地上的な富と栄光をすすんで十字架に渡され、その命までお与えになられたのである。だが、そうであるがゆえに、神はキリストにすべてのものにまさる栄誉をお与えになり、教会をキリストの花嫁として召し出された。我々は、やがてキリストとエクレシアの婚礼という、宇宙的に壮大な出来事へと向かっているのである。

信者はみなエクレシアとして、ただ一人の人であるキリストのためだけに備えられた花嫁である。だからこそ、たとえ信者に家庭があっても、そのような中で、信者がキリストをさしおいて自分だけ早々と地上の幸福を誇り、神よりも地上のものに心を奪われ、キリストへの真実と貞潔を失い、背教に落ちるようなことがあってはいけないと警告されているのである。

だが、おそらく、筆者がこのようなことを述べ始めた時点で、ほとんどの信者は立ち去って行くであろうと思う。ちょうど主イエスに出会って、全財産を捨てて従いなさいと言われ、悲しみながら立ち去ったあの金持ちの青年のように…。 
 
さらに、「家々の教会」を主張していた兄弟にも、別の問題があった。この兄弟は、長い間、異端の団体にいたために、子供が心を病んで自殺を遂げ、他の子供も重い病を患っていた。この兄弟は、病は異端団体とは全く関連性がないと幾度も述べており、それが御言葉から逸れたことに対する厳しい報いであるとは認めていなかったが、筆者はそれには同意できなかった。なぜなら、多くの異端団体で、これとほぼ全く同じような家庭の崩壊や子供の自殺などの共通する不幸が数多く見られたためである。

仮に異端団体への入信と家庭の悲劇に関連性がなかったとしても、家庭の危機と我が子の窮状、および、夫婦の断絶をよそにしてまで、エクレシアの建設という「大義」を口実に、自分の家庭を置いて他の信者の家庭を一人で訪れるのでは意味がない。そのような行状に、筆者は全く賛同することができないし、神がそのような方法でエクレシアの建設を信者に命じられることは決してない、と確信している。



②現役のアッセンブリー信者の女性の例から 
 
さて、上記の元アッセンブリー信者の青年と類似した現象が、Br.Taka氏に筆者を売り渡したアッセンブリー現役信者の「姉妹」にも起きた。

この「姉妹」は、知り合った当初から、筆者の信仰生活が孤独すぎるように見えると憂慮して、何とかして、筆者を集団の交わりの場に引き出す必要があると考えていたようである。しかしながら、そうした考えも、やはり、地上の家族を重んじる考えから来たある種の高慢さであった。
 
この人物とまだ交わりがあったある猛暑の夏、筆者の家でペットの小鳥が死んだことがあった(記事参照)。その事件を、この「姉妹」は、筆者の貧しさゆえだと陰で嘲笑していたことを、その信者の闘病生活の仲間から筆者は知らされた。

当時、筆者は、人の前に虚勢を張ろうという考えがなかったので、他者の愚かで尊大な心の内を見せられたとは感じたが、別段、見返そうなどとも思わなかった。ちなみに、その年の夏は、風が何日間も止まるという異常なもので、筆者の家ばかりか、それまで風通しの良い環境で問題なく過ごして来た動物たちが至るところで死んだというニュースを後になって幾例も聞かされたのであった。

さて、その闘病生活の仲間というのも、やはりアッセンブリー信者の重度の障害者で、この「姉妹」が伝道して信仰に導いた人であった。が、この「姉妹」は、彼女の洗礼式の際にも、彼女の書いた信仰の証をすべて自分好みに書き変え、本人が自ら話せるにも関わらず、これを代読し、代読の途中で泣き崩れ、自分を主役に据えて注目を浴びることで、他人のための式をすべて自分の手柄と変えてしまったようで、闘病生活の仲間は、このことを嘆いていた。

そういったことが分かるまでは、筆者はこのアッセンブリー信者を「姉妹」だと信じ、親しく交わっていたが、前述の「デッドライン」の青年と同じく、この頃から、だんだんこの人の信仰は何かが極めておかしい、ということに気づき始めたのである。

だが、思い返せば、それよりも前に、すでに異常を告げ知らせる事件は起きていたのであった。筆者はかつてこのアッセンブリー信者の「姉妹」と共に、KFCに長らく属していた闘病生活を送る別な姉妹のもとを訪ねたことがあった。

その時、KFCに長らく通っていた姉妹は死の床について、すでに話すことができなくなっていたが、意識は確かであった。このアッセンブリー信者は見舞いの場で、手際よく自ら用意していた讃美歌のコピーを筆者にも渡し、それを二人で歌うよう指示した。だが、声の出ない病人の前で歌を歌うことは、筆者にはひどく気が進まなかった。しかも、歌っている途中で、そのアッセンブリー信者は一人で泣き崩れたのである。

何かひどく自作自演的な芝居じみたものを感じたのは事実であった。声が出ない病人の前で、一方的に歌を歌い、病人がまだ生きているにも関わらず、まるで葬式のように泣き崩れて悲しみにくれることが、果たして、そのような見舞いを受ける病人の側から見て、本当に心からの同情と励ましと受け止められるであろうか?

ちなみに、そのようにして、場の雰囲気を巧みにかっさらい、自分だけを主役に据える「泣き芸」のパフォーマンスは、ルーク氏のお得意の手段であり、ルーク氏はその姉妹の葬儀の場で泣き崩れることによって、あたかもこの姉妹を深く愛していたかのように装い、この姉妹をそれまでさんざん振り回し、苦しめて来た自らの罪を帳消しにしようとしたのであった。

だが、後に聞き取りによって分かった事実は、すでにこの姉妹は死の床で、KFCとルーク氏と訣別していたのであり、それがゆえに、姉妹の葬儀も、姉妹がもともと属していた教会によって執り行われたのであった。こういったすべてのいきさつをルーク氏の泣き芸は巧みに隠したのである。

ちなみに、その死の床についていた姉妹とは、筆者が関東に来る前に、挨拶状を突然、送って来た姉妹である。その手紙を読んで、KFCには行くべきではないという確信が筆者の心に生じたのであり、従って、本来は、姉妹を見舞うべきでもなかったのかも知れない。だが、生涯の終わりには、この姉妹は、ルーク氏の言説の誤りを理解して、明確にこれと距離を置いていたと思われることはまだしも幸いである。そしておそらく、その当時、姉妹の方が、KFCに関与して筆者がどうなるかを憂慮していたのではないかと思われる。

さて、上記のアッセンブリー信者も、闘病生活を送っていたため、筆者は幾度も、この人のために一連の記事を書き、病と訣別して、信仰によってキリストの復活の命を受け取り、立ち上がるよう促し、励ましたが、彼女は健康になるべきとは考えていないようであった。

さらに、このアッセンブリー信者は、上記のKFCにいた姉妹の死後、寂しさから、死後の世界を求めて、サンダー・シングに関心を持ち、この異端の教えを奉じたので、筆者はこれが危険であることを告げ、捨てるよう促したが、彼女がそれを異端であるという事実を認めることはなかった。そのような教えを信じれば、救いを失って死に至るので、明確に訣別した方が良いと警告したが、それも無用な警告と恨みにしか思われなかったようである。

この信者は、筆者から病と訣別すべきだと言われたり、異端の教えのことで警告を受けたことへの「報復」として、後にBr.Takaに筆者について讒言し、筆者を売り渡したのであるが、そうしたことが判明した際、つくづくアッセンブリー信者の偽善とは恐ろしく、この教団の信者とは、関わっても百害あって一利なしという確信を筆者は強めた。

筆者のこれまでの経験に立って言えば、アッセンブリー信者は、男女を問わず、ほぼ例外なく、深く考えることのできない、軽率で人騒がせなトラブルメーカーで、次から次へと事件を引き起こして行くのであるが、決して自分がそれらを引き起こしているのだとは認めない。そして、誰かから注意や叱責を受ければ被害者を決め込み、どこまでも、自分は弱いふりをしながら、自分に忠告した人に恨みを抱くのである。

その当時、Br.Taka夫妻、ルーク氏、このアッセンブリー信者の女性は、自分たちが異端の教えを信じ、御言葉から逸れている事実を隠すために、みなで連帯して、自分たちの地上における幸福な家庭を誇り、それを持たない筆者を嘲笑して踏みつけ、濡れ衣まで着せて、KFCから追放したのであった。

だが、それだけに終わらず、このアッセンブリー信者の女性は、自分が信仰に導いた闘病生活の仲間に向かっても、「私はもっと設備の良い病院で治療を受けるから」と言い残して上から目線でさよならを告げていたことを知らされた。

その後、この「姉妹」は自ら豪語した通り、ルーク氏らと共に豊かになったのかと言えば、逆に家計が苦しくなり、家を手放して実家に引っ越さざるを得なくなったことを知らされた。その頃には、とうに関わりもなくなっていたが、それでも不思議な形で、その事実を聞かされた時、主は生きておられると筆者は思った。

神は、自分には家があり、家庭もあって、たくさんの味方がおり、属している宗教団体もあるから、一人寂しく信仰を守っている孤独な信者とは別格の存在であると言って、自分以外の他の信者を見下して、勝ち誇っていた人の愚かで高慢なつぶやきを、決して見過ごされることはなかったのである。

「あなたがたは、この小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい。まことに、あなたがたに告げます。彼らの天の御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。」(マタイ18:10)

さて、このアッセンブリー信者らが誇っていた家庭とは、そんなにも素晴らしいものであったのかと言えば、それはやはり元アッセンブリー信者の上記の青年と似たり寄ったりの状況であった。

まず、上記のアッセンブリー信者については、彼女の闘病生活が家庭にとっては大きな負担となっており、それゆえ、子供もまた危険な重労働を強いられている様子がブログに記されていた。そして彼女のブログ記事を追って行くと、絶え間なく、家人の誰かに、事故や、怪我や、発病や、手術といった出来事が降りかかっている様子が見え、非常にいぶかしく思われるのである。

さらに、この「信者」は、未信者の夫の突然の怒りの暴発に自分が脅かされているという話をもよくしていた(自ら記事にもその愚痴を記しているため、こうした話題は秘密ではなかろう。)障害者であり、病人であることに加えて、家庭においても「弱者」だというのであった。

だが、このように、家庭における「被害者意識」も、アッセンブリー信者には非常によく見られる特徴なのである。

多くの場合、アッセンブリー教団を含め、異端の団体に入信する妻たちは、家庭における孤独や悩みが原因となって、宗教団体に誘われて行く。そして、入信しても、自分たちは家庭や社会において不当に脅かされている弱者だという意識を捨てられぬまま、様々な問題に自ら勇敢に立ち向かって行く気力を、かえって宗教団体によって奪われるのである。

そうした妻たちの多くが、宗教団体に入信することによって、いずれ夫を回心させることができ、それが起きさえすれば、家庭におけるすべての問題と、自分たちの立場が、劇的に改善するだろうという予想に望みをつないでいる。家庭のすべての問題に真正面から向き合うことなく、それを、夫がいずれ回心して、キリストのために大胆に用いられる器となることによって変えられるという思いを持つことで、むしろ、諸問題から逃避してしまうのである。

そのようにして、ほとんど夢物語のような幻想にすべての望みをかけている妻たちに、筆者はこれまで幾度も出会った。問題は自分にあるのではない、神を信じない夫や子供たちのような家族にこそある、そう思うことで、彼女たちは、自分は夫よりも正しく、家族よりも正しく、彼らには信仰がないから、自分の言い分を理解できないだけなのだ、というところに逃げ込んで、自分を慰め、被害者意識に甘んじているのである。

むろん、口論しても勝てず、力によっても打ち負かされるだけで、仕事も、社会における栄光も、すべてを独占しており、この世の方法論においては、どうやっても勝つことのできない家庭の「強者」としての夫に対する妻たちの不満が、筆者に分からないわけではない。

だが、「自分は神を信じているから、信じていない夫に比べ、本当は何もかも分かっている、だが夫や子供たちは…」という、ひそかな見下しの気持ちを含んだ思いは、本当は、決して神への信仰ではなく、家人への愛でもなく、復讐心の裏返しに過ぎないのだということは、いくら説明しても、余計な恨みを買いこそすれ、本人たちにはおそらく分からないであろう。

家族の救いや、家庭の回復という問題について、誰かが神に期待すること自体は、誰にも非難できない。だが、彼女たちが望みを託しているのが、異端の団体である以上、絶対に彼女たちの願いはかなえられることのない、幻のような現実逃避でしかない。

さらに、上記のアッセンブリー信者については、筆者がどうしても首をかしげざるを得ない、もう一つの問題があった。それは彼女が、信仰を持たない夫を通して、神が語られるのを聞いたという体験をブログ記事に記していたことである。

これは正常な信者としては絶対にあり得ない体験であると考えるため、この記事だけは、誤解のないように引用しておきたい。

主と一つ (ブログ「十字架の恵みが溢れて」)
 2010.11.18 Thursday  から抜粋

 サウロは主の弟子たちを脅迫し、迫害し、男も女も縛り上げ、エルサレムに引いてくるためにダマスコに向かっていた。
 その途中の出来事だった。
 このときはすでにイエスご自身はこの地上にはおられなかった。でも主がサウロに現れておっしゃったことは、
「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」と語られた
「なぜわたしを信じる者たちを迫害するのか」とは言われなかった。
「なぜわ・た・し・を迫害するのか」と仰せられたのです。

 この箇所を読むたびに、思い出すことがある。
 それは主人の闘病中に語ってくださった主の言葉を忘れることができない。
 初めて外来での抗がん剤を投与する日、主人を送ったあと、病院の駐車場に向かっているその時だった。

 主の御名を呼び求めながら歩いていると
 「私のために祈っていただけませんか」
 という御声を感じた。
 
 私はその御声を聞くと同時に、それが主人のことであることがわかった。主は、主人のことを祈るように言われたのではなく、
 私のために祈って欲しい・・と語られたのだ。

 私は・・・胸がいっぱいになって言葉を失い、驚きと共に涙がどっと溢れ出た。
 それほどに、主はご自身と、信じる者とを一つとしてくださっている。主の中で区別などないほどに
 ひとつとしてくださっているのだ。
 あなたがたはキリストのからだであって、
 ひとりひとりは各器官なのです。
 第一コリント12:27
 
主の深い愛を褒め称えます。
詩篇の歌を持って褒め称えます


分かりにくい文章であるが、これはそのアッセンブリー信者が、信仰を持たない目に見える人間に過ぎない自分の夫を、キリストと事実上、同一視していることを示す文面である。

つまり、彼女は、「病の中にある夫のためにあなたが祈りさない」という促しを神から受けたというのではなく、彼女の夫を指して、「わたしのために祈ってくれませんか」と、キリストが懇願されたと言うのである。

彼女はそのように「主が語られた」と主張しているのである。

だが、筆者から見れば、真の信仰を持つ者として、このような状況は絶対にあり得ないことである。

第一に、この時点で、彼女の夫は不信者であり、エクレシアの一員ではなかった。キリストは不信者の内には住んでおられない。そこで、キリストが不信者を指して「わたし」と名乗られることは決してあり得ないことである。さらに、彼女の夫は、信仰ゆえに迫害されている信者でもないため、パウロの回心の場面はあてはまらない。

また、仮にたとえ彼女の夫がこの時点で、信者であったとしても、パウロの回心のくだりで、イエスがパウロに現れて、「なぜわたしを迫害するのか」と言われたのは、特定の信者を指して言われたのではなく、パウロが迫害している教会全体を指して言われたのである。だから、一人の目に見える信者の誰かを指して、キリストが「わたし」と名乗られることは絶対にないと言える。従って、これは聖書の文脈の歪曲である。
 
エクレシア全体に向けられた呼びかけを特定の人間に置き換え、さらに信者に関する記述を、不信者に対するものに置き換えて解釈するのは、聖書の歪曲である。
 
その上、このアッセンブリー信者は、キリストが彼女に現れて、「わたしのために祈っていただけませんか」と、彼女に懇願したというのである。「あの人のために祈りなさい」と言われたのでもなく、「こうしなさい」と命じられたのでもなく、「祈っていただけませんか」と言ったというのである。

聖書のどこを見ても、主イエスは常に権威を持って他者に向かって語られたのであり、主イエスが他人に向かってそのようにご自分の必要を訴えて懇願したところは見当たらない。もしあえて似たような表現を挙げるとすれば、「わたしに水を飲ませてください。」(ヨハネ4:7)と、サマリヤの女に向かって言われた下りくらいではないかと思うが、それにしても、これは一つのパラドックスであり、主イエスは、決してご自分の必要のためにこの女に話しかけられたのではないのである。

主イエスはこの会話を皮切りに、ご自分が無限に尽きない、いのちに至る水を与えることのできる方であることをお示しになられ、かえってサマリヤの女の方が、その水を得るためにはどうすれば良いのかを主イエスに尋ねる結果となった。
 
キリストは、無限に富んでおられ、すべてのすべてであられ、人間に過ぎない誰かに何かを懇願する必要の全くない方である。さらに、ご自分が天の無尽蔵の富によって富んでおられ、父なる神に直接、願い求めることのできるお方である主イエスが、ご自分ではなく、誰か他人の必要をかなえるために、人間に過ぎない者に向かって懇願する必要はない。

従って、このアッセンブリー信者の記述は、神が自分の必要をかなえるために、人間に過ぎない彼女に膝をついてへりくだって懇願されたと言っているのであり、神と信者との関係を完全に逆転させて、神を自分よりも下に置こうとするものである。
 
このアッセンブリー信者は、信者が神に向かって自分の必要を願い求めるのではなく、神が信者に向かって必要を願い求めたのだと言っているのであり、 なおかつ、自分の夫に仕えることを「キリストに仕える」ことと混同しているのである。
 
結局、上記のアッセンブリー信者は、目に見える人間をキリストと同一視するという、聖書の御言葉からは絶対に出て来ることのない思想を述べているのである。しかし、こうした思想は、「(信仰を持たない)貧しい人々の中にキリストがおられる」としたマザー・テレサの主張と本質的に同じであり、困難に見舞われている社会的弱者の中に主がおられるなどと主張することによって、目に見える人間をキリストと同一視し、信仰がなくとも人は救われており、すべての人は生まれながらにキリストと一体であるという異端思想を示すものに他ならない。

聖書に照らし合わせて、そのようなことを神が語られることは決してあり得ないと筆者は考えている。だとすれば、この信者が聞いたとする「神の声」は、どこから来たものなのであろうか?
 
このアッセンブリー信者がサンダー・シングに傾倒していた時、筆者はかなり厳しい忠告を発したために恨みを買ったのだが、危険なのは、サンダー・シングだけではない。そもそもサンダー・シングへの傾倒も、この信者の心の深いところで、福音を最初から聖書とは違うものとしてとらえるということがなければ、決して、起き得ない出来事だったと筆者は理解している。

その「違う福音」とは、結局、生まれながらの人を神(キリスト)と同一視する思想である。

筆者自身もよくは知らないが、おそらくは、この信者がアッセンブリー教団以前に入信していた何らかの異端団体や思想があるものと思う。アッセンブリー教団も、相当に問題のある場所で、ほとんど異端団体と言って差し支えないが、こうした異端的な信念は、おそらくはアッセンブリー教団で初めて生まれたものではなく、そこに入信する以前、聖書に触れる以前から、本人の内に基礎が築かれていたものと考えられる。

さて、上記ブログの最後の方の記事で、このアッセンブリー信者は、「日本人脳科学者・ドクター愛子 科学を用いて聖書の奇跡を語る」というクリスチャン・トゥディの記事を引用しており、人間の脳に神に至る要素が本来的に含まれているとするルーク氏の言説と同種の霊的影響を受けている様子も伺える。

こうしたものは、心理学や科学を巧みに聖書に織り交ぜて、御霊による啓示を通してではなく、人知によって、神の御言葉を理解しようとする異端的試みの一つである。

聖書に記されている一連の奇跡は、人知では解明できない、神の霊的な力によるものであるからこそ、奇跡なのである。そもそも、奇跡に限らず、聖書全体が、神の御霊の啓示によって理解すべきものであり、人知によって、人の脳によって理解する事柄ではない。だが、もしそれが科学や、人間の脳によって解明できるものならば、奇跡を起こすメカニズムさえ解明できれば、人間の力によって何度でも同じ現象を引き起こすことが可能となろう。早い話が、キリストの誕生さえも、人間の力によって繰り返せるということになるのである。

おそらくはそれこそが、こうした異端の真の目的なのである。こうして、科学や心理学を用いて、人間の脳には生まれながらに神を理解することができ、神に至ることのできる要素(神的自己)が含まれており、脳の進化によって、人は誰でも「聖化」に至り、キリストに到達できるとする主張が、おそらくは今後、グノーシス主義的異端思想の主流になって行くのではないかと思われる。
 
このような時代、キリスト者は、目を覚まして、いかにある人が聖書の御言葉をもっともらしく引用して語っていても、果たして、その人の言う「神」や「キリスト」とは一体、何を指しているのか、その概念をきちんと確かめずに、浅はかに御言葉の引用文だけを見て、信者だと思い込み、信用するのは極めて重大な危険となろう。

他のブログにも、この点で全く同様の記述が認められたので引用しておきたい。

「真さんのブログ」
神を窮地に訪ね求める人には神の言葉が魂に教えてくれます。」から抜粋

我々、すべての人類の脳には神の御霊が肉体の中の魂に宿っています。



標題も、冒頭の一文も、かなり錯綜した文章であり、これ以上引用する必要もないだろう。こうして、すべての人類の脳には神の御霊が本来的に宿っているとする思想は、生まれながらの人間に神に至る要素(神的自己)が本来的に含まれているとするグノーシス主義以外の何物でもない。上記ブログにも、聖書の御言葉がたくさん引用されているが、この一文を読むだけで、この人がキリスト者ではなく、キリストの御霊によって発言しているのでもない、ということが分かるのである。
 
さて、話を戻せば、上記のアッセンブリー信者も含め、真にキリストの花嫁たらんとして神への真実と貞潔を守り抜く信者らの前で、肉による家庭を誇り、地上的豊かさを誇り、被造物に過ぎない生まれながらの人間との地上での束の間に過ぎない結びつきを、あたかも神聖な絆であるかのように誇り、生まれながらの不信者にキリストを見いだし、十字架抜きに、生まれながらの肉による家族愛を聖なるもののように高く掲げた人々は、ことごとく、聖書の御言葉から逸脱して、「異なる福音」に逸れて行った。

そのように、肉によって生まれた家族愛を高く掲げる思想は、すべて「広き門」であり、異端思想から来るものだと断言して構わないと筆者は考えている。
 
幾度も示して来た通り、キリストが再臨される前に、キリスト以外のものによって富んでしまい、地上での自分の贅沢な暮らしを誇り、キリストだけを待ち望むつつましい花嫁であるエクレシアの真実と貞潔を見下して嘲笑することこそ、バビロンの罪深い姿だからである。

「彼女が自分を誇り、好色にふけったと同じだけの苦しみと悲しみとを、彼女に与えなさい。彼女は心の中で『私は女王の座に着いている者であり、やもめではないから、悲しみを知らない。』と言うからです。
それゆえ一日のうちに、さまざまの災害、すなわち、死病、悲しみ、飢えが彼女を襲い、彼女は火で焼き尽くされます。彼女をさばく神である主は力の強い方だからです。」(黙示18:7-8)
 



他にも、類似の例はある。以前の記事に書いたように、「なぜ、聖書66巻だけが、神の霊感を受けた御言葉なんですか!」と、筆者を問い詰めた別の女性は、夫婦愛を誇っていたが、伴侶を差し置いて、若年の信者と毎日のように交わりを持つようになり、聖書外伝に没頭し、ついには上記のような問いを発して、明確に御言葉を否定するにまで至った。

このように、家族愛が、信仰生活の基礎であると説く人々の実態をよく観察してみれば、彼らの誇る家庭生活がいかに異常であるかが良く分かるであろう。そしてそこには大抵、霊的姦淫の問題がつきまとい、家庭や伴侶を高らかに誇っている割には、ただ一人の定められた伴侶以外の人々と不適切な心の結びつきがあったり、あるいは、大切なはずの子供たちを犠牲にしている様子が見えて来るのである。

こうして、自らの目に見える娘息子配偶者やらを誇り、「家々の教会」がエクレシアの基礎だと言い張る人々に限って、ほぼ例外なく、その家庭が崩壊に瀕しているという不思議な逆説的現象があるのだが、それはちょうど文鮮明の合同結婚式でできた家庭が不幸だらけなのとよく似ている。
 
弱肉強食の論理によって支配され、子供への搾取、子供の自殺など、弱い者が苦しめられ、病や、度重なる不幸な事故などが絶えず、配偶者との争いや、対立や、被害者意識から抜け出られない・・・そうした忌むべきものが溢れているのに、そのようなものが、信仰の基礎たりえるはずもないのは明らかである。

だから、惑わされてはいけない。いわゆる「クリスチャン・ホーム」なるものは、幻想に過ぎないのである。信者は、確かに自分の家庭を治めなければならず、家庭人の義務をきちんと果たすべきであるが、聖書は、信者の家庭こそが教会と信仰生活の基礎であるとは教えていないのである。

むしろ、聖書が教えているのは、信者が自ら築いた家庭も含め、神以外の地上の目に見えるものに心を寄せ、神以上に地上の宝を愛することは危険であるという事実である。
 
次回の記事では、さらに詳細に記す予定であるが、異端の教えとは、例外なく、神の国を目に見えるものとしてとらえ、地上天国を築こうとするものであるが、そうした異端の教えのほぼ全てが、地上天国を築くための土台が、家庭にあると説いているのである。

それは、国家神道しかり、統一教会しかり、ペンテコステ運動しかりである。

次回の記事では、国家神道がどれほど家族というものを重んじたかを振り返りたい。それは、この思想が、一大家族理想国家という地上天国を築くために、家庭が基礎単位となるとみなしていたからである。

統一教会もこれと同じように、合同結婚式を行ない、地上で信者の「聖家族」を増やすことにより、地上天国が到来すると教えた。聖霊派は、信者がクリスチャン・ホームを増やすことが、教会成長の勘所であり、それによってリバイバルが到来すると教える。

これらは全て信者の地上における肉なる家族の絆を「聖」として祭り上げ、信者の家庭を理想社会(地上天国)の基礎単位とみなす点で、根本的に同一の思想なのだと言える。さらに、そこに、ウォッチマン・ニーの教えを奉じる吉祥寺キリスト集会や、ローカルチャーチの「地方召会」の理念など、「家々の教会」をエクレシアの基礎とみなす人々の考えも加えられる。

しかし、どれだけこうした教えが、信者の家庭生活を聖なるもののように高らかに謳い上げても、聖書は、信者の肉なる家族がそのまま神の家族になるのではないとはっきり教えている。神の家族とは、御心を行う兄弟姉妹のことであり、信者の肉の家族を意味しない。家庭集会の増加によって主の再臨がもたらされるという考えも、聖書には見つけられない。

それにも関わらず、信者の肉なる絆に基づく家族がそのまま神の家族であるかのように教え、信者の家庭を教会・信仰生活の基礎単位とみなす思想はすべて異端思想に該当する。それは必ず、地上における信者の家々の教会を拠点とし、この拠点の増加がリバイバルに結びつくと教え、結局、地上天国を目指す点でみな基本構造は同じなのである。

<次回へ続く>


伊勢志摩サミットにおける米国と日本の首脳による戦争犯罪の正当化―「皇軍」と「米軍」の一体化―

さて、伊勢志摩サミットは、落ちぶれた政治家たちが、名誉挽回のために思う存分、この会合を利用した他、誰にも成果などないままに終わった。

安倍首相の最大の「成果」は、皇国史観・軍国主義の復活への願いを巧みに隠しながら、G7首脳のキリスト教徒を伊勢神宮に招くことで背教へ導き堕落させる計画に成功したことであろう(G7諸国の先行きは暗いと、もっぱらの評判だ。)

安倍氏とその背後に控える国家主義者らの真の意図については、エコノミスト誌がサミット前にすでに指摘している。(訳全文は、星の金貨プロジェクト、記事「宗教も政治も、そして原爆の投下すら、安倍首相の国家主義政策実現のための演出に利用される 憲法9条の廃止、歴史の書き換え、国家神道の復活 - 伊勢志摩サミットの演出に隠された国家主義的野望  安倍首相は戦前の宗教的、社会的、政治的秩序を甦らせようとして活動を続ける組織の一員」参照。以下は一部のみ抜粋する。)
 

星の金貨プロジェクト
に掲載された「エコノミスト」誌(
5月21日)の訳文から抜粋

広島と長崎に原爆が投下され、第二次世界大戦に日本が降伏してからそれほど日数も過ぎていないある日、アメリカ軍兵士の一団が日本の本州にある三重県の伊勢市にある、この国で最も神聖視されている神社の一つにやってきました。

彼らは貴重なイトスギ材で造られた長さ100メートルの宇治橋をジープで渡り、そのまま神社の境内に入ろうとしたため、一人の警備員が押しとどめようとしました。
しかし彼はピストルを突きつけられ、退くように脅されました。
この1,300年の歴史を持つ伊勢神宮の本殿は遷宮と言って20年ごとに作り直されますが、宇治橋も同様に20年ごとに作り直されるため、損害を被ってもいずれ修復されることにはなっていました。
日本は敗戦国として戦後様々な屈辱的な目にあいましたが、これなどは些細な出来事であり、いつのほどか忘れられてしまいました。
世界の中でも富裕な国々のクラブである主要先進7カ国の年次サミットが伊勢神宮近くの島で開催され、5月26日に安倍晋三首相がその仲間のリーダーたちを歓迎するために宇治橋を使うことになっており、その時こそかつての屈辱が拭いさられることになるでしょう。


この施設は人里離れた目立たない場所にあり、海外ではほとんど知られておらず、戦後その神聖特権が廃止された神道により守られてきました。
1947年に施行された日本国憲法はいかなる宗教的特権も認めていません。
「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。」
憲法第20条にはこう明記されています。

伊勢市、志摩市を中心に三重県はほぼ無競争でサミットの会場に選ばれましたが、その背景には安倍氏が率いる首相官邸の強い意向がありました。
安倍首相は自らの政治的使命について「戦後体制からの脱却」と規定し、日本を再び誇り高い強力な国家として蘇らせることを主張しており、今回の選択については隠された意図がほの見えます。

いずれにせよ今回のサミット開催は、特にバラク・オバマが広島を訪問する初のアメリカの大統領になることにより、安倍首相にさらなる政治的恩恵をもたらすことになるでしょう。


ホワイトハウスは、オバマ大統領は1945年8月6日に広島に、そしてその3日後に長崎に課された大量虐殺と大量破壊について謝罪はしないという方針を明確に示しました。
しかし世論調査の結果は、日本人の90パーセントがオバマ大統領の広島訪問を歓迎する意思があることを明らかにしました。



 オバマ大統領の広島訪問の「成果」は、原爆を投下しても被害者はただで許してくれて謝罪は求められることなく、その上、被害者に寄り添う心優しき同情者にもなれて脚光を浴び、なおかつ「核なき世界」を提唱するリーダーにもなれるという、魂の安い買い物が可能だと世界に示したことである。何しろ、ノーベル賞の返却まで求められたというオバマ氏である(「ロシアの声」参照)から、この不名誉を払拭するために広島訪問は政治的に利用したかったことであろう。

だが、実際にはどこにも「成果」などない。このサミットは、 まさに我が国が被害者をダシにして魂を売ったことの証明にしかならず、しかも、他国までもその罠に引きずりこんだのである。
 
沖縄で米軍属により事件が起こされたとされる4月28日は、日本にとっては主権回復の日であり、子の日に起きた沖縄の事件が伊勢志摩サミットに永久に暗い影を投げかけることは間違いがない。沖縄だけではない。広島も、徹底的に被害者を利用して手柄を立てることしか考えない政治家の野心と冷酷無慈悲に利用されたのである。

ともあれ、沖縄の事件は、我が国の真の「主権回復」を決して真に実現したくない勢力の思惑をよく示しているように思われる。本当にこの事件は偶発的に起きたものだろうかという疑問を起こさせる。この事件は、この日をいつまでも沖縄及び日本全体にとっての「屈辱の日」とし、度重なる凶悪事件を起こすことによって、日本国民全体の心に恐怖と無力感を植えつけ、間違っても、日本の国民が属国を脱し主権を求めて立ち上がらないように仕向けることが目的なのだと思わずにいられない。 
 
「ジャーナリスト通信」(執筆者は創価学会員のようである)が、この主権回復の日に起きた二つの凶悪事件について書いていることは興味深い。さらに同ブログの著者は、米軍属による事件が、かつての皇軍の仕業と同じだと指摘する。折しもネットアイドルの巻き込まれたこれまた凶悪事件等が盛んに報道されているのもスピンとは言え単なる偶然とは思えないのである。すべては属国民に無力感を植えつけるためとしか思われない。
  
そして、主語を省くことによって、原爆投下という恐るべき殺戮を誰が行ったかにさえ言及せず、米国の罪を巧妙に隠すオバマ演説の虚偽性については、「原爆は誰が落としたのか」オバマ広島演説 騙しの手口 [核兵器]」でよく解説されている。

上記の記事は次のように締めくくられている。

 

「原爆は誰が落としたのか」オバマ広島演説 騙しの手口 [核兵器]」から抜粋

これで日米はお互いの非人道的な行為をとやかく言わないことになる。法の支配からいよいよ離れたズブズブの関係になって行く。それは例えばすでに沖縄の米兵や米軍関係者の容疑者の身柄をアメリカ側の「特別の配慮」で日本側に引き渡したり、日本からの「思いやり」で米軍駐留費の一部を肩代わりするようなところに現われているが、今後は日本自衛隊がアメリカの戦争に付き合わされる中で発揮されよう。日米の共犯関係が深まるわけだ。

悲しいかな被爆者までがオバマ演説を好意的にとらえている。この国の人々はいったい何度アメリカに騙されれば気が済むのだろうか。思えば「平和のための原子力」を押し付けられたときもそうだった。おー!原子力を平和のために!原発、すばらしい!と。

いずれにせよ安倍政権にとっては思惑通りの展開ではないだろうか。G7やオバマの広島訪問で世論の支持を得た。次は消費税増税延期の表明、株が急伸して、衆参同時選挙、自民圧勝、改憲、とまあこーゆーシナリオでしょう。



最後の自民圧勝の下りについては筆者には異論がある。植草氏もこの先には「まさか」という坂が控えていると指摘しているように、そこまで浅はかな展開にはならないであろうと思う。
 

 植草一秀氏のブログ
安倍首相のこじつけリーマン級危機説に異論噴出 から抜粋
2016年5月26日 (木) 

サミット後、安倍首相は消費税再増税再延期を打ち出し、参院選に臨むものと見られる。
衆院選については、先送りして2016年から2018年までの好機を見定める方向に傾いていると思われるが、安倍政権の政局時計の歯車は明らかに狂い始めている。
サミットでは日米同盟の強化をアピールする予定であったが、沖縄での米軍関係者による卑劣で凶悪な事件が表面化して、同盟そのものの矛盾が表面化することになった。
オバマ大統領が広島を訪問することが目玉となったが、
「謝罪なき広島訪問」
は広島を侮辱するものである。
広島は物見遊山の観光地ではないのだ。
沖縄の事件についてもオバマ大統領は謝罪すらしていない。
米軍のトップに大統領が位置し、その配下の米軍関係者による凶悪犯罪について、トップが謝罪するのは当然のことだ。
植民地での凶悪犯罪については謝罪する必要がないと判断しているのだろう。

参院選で安倍政権与党が敗北すれば、衆院選に向けて野党共闘が加速する。
株価は安倍政権発足後から2015年6月までが上り坂。
2015年6月からは下り坂に転じているが、この下り坂の先には
「まさか」
が控えているようだ。


  
安倍政権の先行きが明るいとは筆者はお世辞にも思わないが、いずれにしても、安倍とオバマの今回の会見は、「お互いに過去のことをとやかく言わない(=過去の戦争犯罪については責任を問わない)」という暗黙の同意が日米のもとでなされたことを意味する。

つまり、米国がお手本として「過去の戦争犯罪について謝罪は不要」と示したので、日本もそれにならって、従軍慰安婦問題から人体実験その他その他の数々の忌まわしい戦争犯罪について謝罪が必要なくなったということである。(誰に?むろん、被害者となった人々に対してである。)
 
その目論見は、「のんきに介護」の記事「橋下徹さん 小物ぶりを発揮 相変わらず、かっこわるいおっさんですな」で指摘されている通り、橋下透氏の以下のツイートにもよく表現されていると言えよう。(橋下氏が故意に「戦争犯罪」と書かずに「戦争」としか書いていないことにも注意が必要。)
 
 

橋下徹‏@t_ishin さんのツイート。

――今回のオバマ大統領の広島訪問の最大の効果は、今後日本が中国・韓国に対して謝罪をしなくてもよくなること。過去の戦争について謝罪は不要。これをアメリカが示す。朝日や毎日その一派の自称インテリはもう終わり。安倍首相の大勝利だね【橋下ゼミ】⇒11:29 - 2016年5月12日11:29 - 2016年5月12日 〕――


 

 
このように、敗戦という歴史的事実と、過去の戦争犯罪を帳消しにしようという流れは、昨年の安倍談話によってあからさまに形成されて来た流れである。筆者は「一事不再理の原則(1) ~東京裁判の否定―日本のグノーシス主義的原初回帰~」において、日本政府は東京裁判で下された日本の戦争犯罪に対する有罪判決を公式に受け入れていたことに言及した。

ところが、その後まもなく、上の記事でも示した外務省のホームページは安倍談話の発表とほぼ同時期に削除されたのである。(記事「引き分け」から「敗北」へ~グノーシス主義的な原初回帰が招く政治的悲劇~安倍談話がもたらす日本の世界的孤立~」参照。)これも現政府による歴史の書き変えの試みの一環としてとらえることは可能である。
 
このように、すでに安倍政権による歴史の書き換えが進行して来た。すなわち、日本の過去の戦争犯罪に対して歴史的裁きが下されたという事実そのものを否定し、裁きはなかったとした上で、やがてそれらの戦争犯罪は犯罪ではなかったということにして、善悪の区別を排除して、罪人を名誉回復し、すべてをうやむやにしたいという意図が見えるのである。

筆者はここにグノーシス主義的原初回帰の野望があり、歴史を逆転させて東京裁判を否定して日本の敗戦と戦争犯罪の罪を帳消しにしようとすることは、戦争犯罪人を名誉回復させて、人殺しを無罪放免しようという悪魔的願望であり、これはキリストの十字架における裁きを否定して、罪人を名誉回復させたいという悪魔的願望に重なることを幾度も指摘して来た。

しかし、このようなことを敗戦国である日本が主張するだけならば、まだ理解もできようが、それを米国が追認したのが今回のサミットの驚くべき悪しき「成果」である。

それによって、旧日本軍による従軍慰安婦等の女性の徴用の問題と、米軍属による女性殺害という、国境を超えた軍隊がらみの忌むべき犯罪行為がともにうやむやにされようとしているのである。過去だけではない、サミット前の沖縄の事件に対する両政府の対応は、現在起きている事件までも同じ影響下にあることを示している。その意味で、安倍とオバマの会見は、かつての皇軍と米軍が一体化したこと(及びこれがまさに現代に復活しようとしていること)を暗に示していると言えるのではないか。

そこには、ただ女性に対する軍隊による犯罪を容認する思想が根底にあるだけでなく、強い者が弱い者に対して力によって何をしても許される世界を作ろうという意図が隠されている。
  
もし強い者がその力によって弱い者に何をしても、謝罪も必要なく、形ばかりの同情や、むなしい再発防止の決意や、空涙でことが終わるならば、米国が今後、力によって日本に何をしようとも、属国民である日本は異議を申し立てられないということになる。そのことは、日本国民には圧倒的な無力感をもたらすであろう。さらに、日本においても、もし自衛隊が軍隊に昇格することがあれば、その軍隊が無辜の民に何をしても罪に問われないという全く同じ理屈が出来上がるのである。

 従って、これは、もはやかつての戦争犯罪や、沖縄の基地問題だけに限定されることではないのである。そこで軍隊の犠牲となって殺害されようとしているのは、「女性」や「市民」といった非武装の個人であるばかりか、象徴的に、日本国民全体でもあるとも言えよう。
 
本来、市民一人一人が、武装せずとも殺されず、脅かされず、平和のうちに生活するための、誰にも侵害されることのない確固たる主権が回復されなければならないのに、その「主権」こそが、弱肉強食の力の論理の前に蹂躙され、否定されているのが現実なのである。そして、その考えは、政権与党においては、あろうことか、憲法改正と緊急事態条項案における人権停止のような極端な発想にまで結びつけられようとしている。

こうして、弱い国民には無力感と失意を植えつけて、人権を奪い取り、抵抗できないようにしておいてから、最上層部の詐欺師連中が自分たちの人気取りと汚名挽回のためのパフォーマンスを上から目線で見せつけているのである。

だが、日本政府が己の戦争犯罪を無罪放免しようという野望を抱いているとしても、それはまだ理解できるとしても、本来、日本と米国との間には、戦勝国と敗戦国としての圧倒的な差がある。原爆投下について、米国はこれまで「日本のファシズム・軍国主義政権を無条件降伏に至らせるために不可欠な措置であった」と主張して、大きな顔をして来た。それを戦後70年以上が経過した今更になって、原爆投下の「罪悪感」を帳消しにするために、米国が日本と取引しなければならなかったとはおよそ考えられない。

なのに、なぜ戦勝国である米国までが、日本政府が過去の汚名を払拭したいという野望を認め、それに便乗する形で、己の罪を払拭しようとして日本政府と取引するに至ったのか。

それには二つの理由が考えられる。一つ目には、そこから、米国支配層も相当に追い詰められて自己正当化をはからずにいられない様子が見えて来ることである。

つまり、そこにはパナマ文書の公開によって高まった世界の人口の1%に過ぎない富裕層の支配に対する99%の非難と憎悪にも見られるように、米国の支配層もまた追い詰められて、かりそめにも、「弱者への配慮」や「同情」があるかのように見せかけねばならない状況となっている様子が伺える。そのようにして形ばかりのパフォーマンスで欺かなければ、あからさまな偽善と、力の論理だけではもはや進んでいけなくなっているのである。

ここでは、戦勝国も敗戦国もなく、ただ弱者を徹底的に踏み台とし、どこまでも欺きながら、自分だけが栄光を受け、うまい汁を吸い、助かりたいという一念によって団結する世界の支配層の姿が見えて来る。

第二に、彼らは手を組んで過去の罪を無罪放免しようとしているのみならず、これから犯そうとしている罪を無罪放免しようとしているのだと見られる。過去の戦争犯罪について、「とやかく言わない」空気を作り出そうとしているのは、日米両政府に過去を無罪放免したいという思惑があるためだけではない。何よりも、これから過去と同様か、あるいは過去を凌ぐような「戦争犯罪」を作り出したい勢力が、その欲望を予め正当化するために先手を打っているのだと見ることができる。

その悪しき野望を気取られ、非難させないために、かつての戦争犯罪については、被害者を形ばかりの「同情」でなだめ、沈黙させておきながら、それ以外の人々は、予め共犯とすることで、ものを言わせないようにしようとしているのである。

そのために、我が政府が行おうとしているのは、学術界を堕落させることである。まず、日本のマスコミはすでにほぼ完全に御用機関に堕しており、抵抗・非難する力を奪われている。次なる標的は学術界である。「軍事研究」の復活により、インテリ層を完全に攻略して、共犯とすることが必要となる。

東京新聞 2016年5月26日 朝刊
学術会議会長「自衛目的の研究許容を」 軍事否定から転換の可能性

 国内の科学者を代表する機関である日本学術会議(東京都港区)の大西隆会長が、「大学などの研究者が、自衛の目的にかなう基礎的な研究開発することは許容されるべきだ」とする考えを、四月の総会で示していたことが分かった。学術会議は今後、委員会で軍事研究の許容範囲などについて議論し、一定の見解をまとめる見通し。これまで軍事目的のための研究を否定する声明を発表してきたが、その基本姿勢を転換する可能性も出てきた。 (望月衣塑子)

 学術会議は一九四九年の発足時の決意表明で、科学者の戦争協力を反省し平和的復興への貢献を誓った。五〇年と六七年には、「戦争目的」や「軍事目的」の科学研究を行わないとする声明を決議した。五〇年の声明に会員として関わったノーベル賞受賞者の湯川秀樹氏は戦時中に原爆研究した反省から、戦後は核廃絶運動に取り組み「科学者の社会的責任」を唱えた。軍事目的の研究に関わることを否定する考え方は科学者の間に定着していった。

 大西会長は、学術会議の全会員が参加した四月の総会の会長報告で、過去の声明を「堅持する」とする一方で「国民は個別的自衛権の観点から、自衛隊を容認している。大学などの研究者がその目的にかなう基礎的な研究開発することは許容されるべきではないか」と述べ、学術会議としての見解が必要と主張した。

 こうした発言に対し、自由討議で「従来の立場と異なる考えだ」との反対意見も相次ぎ紛糾。京都大の山極寿一(やまぎわじゅいち)総長は「自衛隊の活動全般にわたって国民の総意は得られていない」と指摘し、見解をまとめる際は「これまでの声明を変えることのない文言を考えてほしい」と求めた。別の会員からは「会長の私見には疑問がある。科学には倫理や規範が必要な時がある」という意見もあった。

 大西会長は二〇一一年十月に会長就任。都市工学が専門で、豊橋技術科学大学長を務める。



こうして巧妙に線引きをずらしながら、日本の学術界には、良心を葬って、かつては全面「禁止」されていた軍事研究を少しずつ「許容」して行く方向に方針転換しようという動きが生まれている。いよいよ科学者がかつて訣別したはずの殺人や人体実験を主たる目的とする「悪魔的研究」に取り込まれ、軍事研究を容認する空気作りが行われようとしている。軍事研究の中心は、もちろん、核兵器である。かつて湯川秀樹博士が原爆開発の反省に立って禁止したものを、全面的に容認したいというのが本音であろう。

この国で、すでに文官統制が廃止され、制服組の優位が確立しようとしていることは、「科学者の社会的・道義的責任」が事実上、退けられたこと、つまり、人の良心によって、人間の欲望の暴走や権力の暴走に歯止めをかけ、枷をはめようとする試みそのものが否定されようとしており、知性を排除したところでの力と実利優先の唯物論的な考え方にこの国が傾きつつあることを意味する。このまま、この政府が存続し続けたなら、いずれ、政府の補助金を断たれたくなければ、大学関係者は進んで軍事研究に協力しなければならないような状況が作られるものと見られる。

安倍氏と並んで反知性主義者の代表のような橋下徹氏が愚かにも賞賛しているように、これはインテリの良心に対する殺人、インテリの抹殺である。マスコミのみならず、学術界のインテリも抹殺されようとしているのである。「過去の戦争について謝罪は不要。これをアメリカが示す。朝日や毎日その一派の自称インテリはもう終わり。」

こうして、米国が率先してお手本として広島の核による犠牲に対して善悪を問わない姿勢を見せることで、米国がかつての日本のファシズム・軍国主義政権の戦争犯罪をうやむやにする手助けをし、なおかつ、日本政府による核開発の野望を根底に秘めた軍事研究が(米国の暗黙の認可の下)解禁に向かっているらしい様子は、やがて米国と日本とが共に絶望的な戦争に突入しようという計画があることを伺わせる。

さらに巧妙に文官や一般市民をもこうした犯罪的な企てに加担させていこうとする動きが見られる。たとえば、以下の記事である。すでに削除されているようなのでキャッシュから拾った。

「ゆとり」市職員、空自で鍛え直し…3年目研修
 YOMIURI ONLINE  2016年05月26日 15時00分
 
 東京都府中市は今年度から、入庁3年目の市職員全50人を自衛隊に2泊3日で体験入隊させる。
 研修の一環で、同市は「厳しい規律の中で『ゆとり世代』の若手職員を鍛え直したい」とその意義を強調。ただ、識者からは否定的な意見も出ている。

 研修は同市内にある航空自衛隊府中基地で実施。事務職、技術職、保育士職の全員が6月の平日3日間を使い、災害時の救助活動やあいさつ、行進などの基本動作の訓練を行う。宿泊を伴う集団生活では時間厳守や整理整頓も重視される。

 同市の入庁3年目は、初めて配置された部署から異動する時期。一部の職員には自分が何をすべきかを見失ったり、積極性に欠けたりする傾向が見られるという。

 このため、市職員課は「規律に厳しい自衛隊の訓練を通じて、ゆとり世代があまり経験していない上下関係を学び、チームワークや積極性などの向上につなげたい」としている。



 おそらくこの記事にはあまりにも大きな反発があったものと見られる。ネット上ではどこを見ても、不気味だ、ぞっとするという人々の反感が溢れている。そこで、このような世論の下では、上記の構想の実現は無理だろうと筆者は考えるが、おそらくそれでも、この手の話は、今後も、繰り返し繰り返し出て来るであろうと思う。マイナンバーカードの携帯が国家公務員に義務付けられているように、若年層の自衛隊での「研修」も、まずは国家公務員、地方自治体職員から始まり、やがて民間企業に及ぶということが考えられる。すでに幾年も前に民間企業の新入社員を自衛隊で研修させるという提案が出ていたのだ。
 
 こうして、裁判員制度と同じように、人間が人間を殺すという行為に全国民を加担させるような試みが行われようとしている。上の記事でも強調されている通り、軍隊での序列は絶対的なものであり、個人は命令に従うロボット同然に、上部の命令に逆らうことは許されない。軍隊は個人の良心に基づく意志決定よりも序列と上官の命令がものを言う世界である。殺せと言われれば殺すしかない世界である。

  このような厳しい軍隊の規律と上下関係の中で、一兵卒のような末端の末端にいる人間は心を破壊される。その結果が、自分よりもさらに弱い者(女子供)を痛めつけることによる鬱憤晴らしとなる。そうして行なわれる「女性殺し(エクレシア殺し)」の問題については、今は触れないが、東洋思想と絡めて今後、書いて行く予定である。

 ちなみに、G8から早々に除外されたために、ロシア首脳が今回、伊勢神宮に足を踏み入れることなく、キリスト教徒として、G7諸国ほどのあからさまな堕落に至らなかった点は、幸運だったと言えるだろう。原爆投下に拍手を送ったオバマと十字を切ったプーチンではどちらが本当に被曝者に「同情的」か、たとえパフォーマンスだけであったとしても明白である。

 G7諸国のメディアは、消費税増税の先送りを正当化するために発せられた安倍の「リーマンショック前の状況に似ている」という発言に皮肉と失笑と懐疑の混じった反発を投げかけているが、それでも、これらの国々が、サミットの場に居合わせたことによって、安倍の共犯として利用されてしまった事実は変わらない。

 聖書の神はご自分に忠実な信仰者を覚えておられ、すべての危機から必ず救い出して下さることを筆者は確信しているので、悪しき政権と命運を共にするつもりなど全くないが、安倍氏の策略を十分に知りながら、あえて利用された諸国にも暗い将来が待ち受けているであろうことを疑わない。


私たちの主イエス・キリストの十字架は、誤った栄光をすべて断ち切るものです。

オリーブ園の新着ブログに、十字架についてのオースチン-スパークスの記事が掲載されている。当ブログでは、基本的に聖書以外の先人の引用は控えることを原則としたいと思っており、また、オリーブ園に掲載されているペンテコステ系の記事を筆者は支持していないこともすでに述べた。

だが、「主の御腕」には、十字架の働きについて、同感できる様々な点があるため、あえて引用しておきたい。

誰もが知っているイザヤ53章、キリストに関するあの有名な詩編は、次のように始まる。

「私たちの聞いたことを、だれが信じたか。
 の御腕は、だれに現れたのか。」(イザヤ53:1)

これは矛盾に満ちた始まりである。オースチン-スパークスは記事全体を通して問いかける。「主の御腕は誰に向かって伸ばされたのか?」と。つまり、「神は誰を擁護されたのか?」、「神が満足される人の姿とは、どのようなもので、どのような条件を備えた人を、神はご自分の僕として力強く弁護されるのか?」
 
この問いかけが極めて重要なのは、それが次のようなくだりとも呼応しているからだ。

わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が、みな天の御国にはいるのではなく、ただ、天におられるわたしの父みこころを行なう者がはいるのです。」(マタイ7:21)。

「主よ、主よ」と日々熱心に祈る人々は、いかにも外見は敬虔そうで、天の御国にふさわしい信者に見えるかも知れない。多くの証を語り、ひざまずいて涙して祈り、たくさんの奇跡を経験し、人々をキリストのもとへ導いているように見える信者たちがあるかも知れない。

だが、神は、あくまで人の外見や行動ではなく、心をご覧になられる。その人が何をしゃべり、行なっているかではなく、その人が「父のみこころを行なっているかどうか」を基準にすべてを判断されるのである。

そして、一体、「父のみこころ」とは何であるのか。イザヤ書の上記のくだりを読んで行くと、神が満足される条件を備えていたただひとりの人であるキリストは、何ら人の目から見て賞賛されるべき特徴を持たなかったこと、世間で敬虔な信者として認められるために今日多くの人々が熱心に求めているすべての条件において、むしろ完全に規格から外れていたことが分かる。

「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、
 輝きもなく、
 私たちが慕うような見ばえもない。
 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、
 悲しみの人で病を知っていた。
 人が顔をそむけるほどさげすまれ、
 私たちも彼を尊ばなかった。」(イザヤ53:2-3)

このような人は、今日の教会からも「のけ者にされ」相手にはされるまいと思う。

だが、今日、信者は、イエスに従い、日々自分の十字架を負って彼に従おうと決意するとき、果たして、自分も主が通られたこの道を通り、父なる神の御心を真に満足させる人となりたいと願うだろうか?

たとえ自分の願望が否定され、自分のプライド、名誉欲が傷つけられ、人に賞賛されることなく、疎んじられ、裏切られ、蔑まれることになっても、本当に、古き自己のものが十字架につけられ、自分が主の御前に恥を受け、低められることに甘んじることができるだろうか? そのようなことを人は決して自ら願わないが、もし主の御心ならば、自分がキリスト共に十字架につけられることに信者は同意することができるだろうか?

聖書にはこんなくだりもある、

「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、大地震があり、方々に疫病やききんが起こり、恐ろしいことや天からのすさまじい前兆が現れます。しかし、これらのすべてのことの前に、人々はあなたがたを捕えて迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために、あなたがたを王たちや総督たちの前に引き出すでしょう。

それはあなたがたのあかしをする機会となります。それで、どう弁明するかは、あらかじめ考えないことに、心を定めておきなさい。どんな反対者も、反論できず、反証もできないようなことばと知恵を、わたしがあなたがたに与えます。

しかしあなたがたは、両親、兄弟、親族、友人たちにまで裏切られます。中には殺される者もあり、わたしの名のために、みなの者に憎まれます。しかし、あなたがたの髪の毛一筋も失われることはありません。あなたがたは、忍耐によって、自分のいのちを勝ち取ることができます。」(ルカ21:10-19)

そろそろ、この終わりの記述が少しずつ近づいて来たようである。殉教者以外は「髪の毛一筋も失われることはない」と言われている。それが復活の体のことなのか、それとも、地上における体を指しているのか、筆者には分からない。

主がご自分に忠実に従う者を守って下さることがよく分かる記述である。おそらく、もし殉教しなければならない者がいるとすれば、そのことも主は事前に知らせて下さるだろうと筆者は確信している。

だが、それにしても、とにかく、すさまじい記述である。「両親、兄弟、親族、友人たちにまで裏切られる」。誰がそのようなことを願うであろうか。

しかし、筆者はこれをあらかた実際に経験して来たのでよく意味が分かる。特に今日、クリスチャンを名乗る者がクリスチャンを裏切り、売り渡すということがどれほど現実味を帯びているか、よく理解できる。十字架に敵対する者、十字架を通らずに神に至ろうとする者があまりにも多いからである。

そこで、もし自分の十字架を真に負って主イエスに従おうとする者が現れるなら、この世全体が(特に、クリスチャンを名乗っている者たちが)立ち上がって反対する、「そのようなことは正気の沙汰ではないのでどうかやめてくれ、あなた一人に本当に十字架に赴かれたら、我々全員の嘘がバレるので迷惑だ、どうか我々の商売を妨害しないでくれ」と言って引き留めようとする。その説得もかなわないと、ついに「狂信者」というレッテルを貼って排斥するのである。人を喜ばせる偽りの砂糖菓子のような「十字架」を拒み、この世と調子を合わせたご都合主義的な福音と訣別し、真に聖書の御言葉に立脚して生きるような信者は「悪魔の使い」とされて排斥される、今日の情けない似非信仰者たちの実態である。

そういう者たちからの裏切りが起きたときには、人は混乱したり、原因を色々考えたりしない方が良い。原因を探す必要などない。それは聖書が予告していることだからである。

だが、それにしても、筆者の経験も、まだ聖書の記述の深さにまでは達していない。似たようなところは常に通ってはきたが、いつもどこかに祈ってくれる者や、励ましてくれる者たちも主が備えて下さり、「わたしの名のために、みなの者に憎まれます。」言葉という言葉の深さにまでは達していない。次第に、しかし、時が縮まっていることは感じられる。

主イエスは最も身近な弟子たちにも裏切られ、見捨てられ、一人で十字架に向かわれた。確かに、そのためにこそ、私たちは死から救われ、贖われ、命を与えられた。まず、神が愛する独り子の命を、不従順な我々の贖いの代価として差し出して下さったのである。

だが、だからと言って、神は、この苦しみを御子だけに押しつけておいて、あたかも自分だけは一切、何の苦しみも悲しみも味わわずに、十字架の死など絶対に通らず、ハッピーな人生を送りたい、愛する人々と常に手を携えて、孤独を知らずに共に歩み、仲間に裏切られたり、憎まれるなどまっぴらだ、そのように自分は決して傷つくことも蔑まれることもない安楽な人生のために神を利用し、御言葉を利用して、自分を立派な信仰者として飾り立てたい、と願う似非信者によって、侮られ、利用されるようなお方ではない。

だから、信じる者は、そのようにならないために、常に自分の命を拒んで十字架を取り、主イエスに自ら従う決意が求められているのである。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かに実を結びます。

自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。

わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたし仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。」(ヨハネ12:24-26)

私たちは人生においてしばしば激しい戦いを通過する。その時、信者は自分は神に守られていると思っているかも知れない。だが、神の側には、私たちを擁護するにあたり、外せない条件があるのだ。それが、信者がカルバリに留まり続けるという条件である。

だから、もし信者の側がその条件を満たしていなければ、誰であろうと、最も重要な決戦の時に、自分から力が失せていたことを知らないまま、敵にやすやすと捕らえられたサムソンのようになる可能性がないとは言えない。デリラを愛しすぎたことが、サムソンの弱点だったと言って、これを他人事のように笑う人々は多い、しかし、デリラとは、人のセルフなのである。それが分かれば、サムソンを笑える人は誰もいないであろう。

主の御腕は誰に向かって現されたのか、神はどのような人をご自分の民としてお認めになり、どのような人を力強く弁護し、守って下さるのか。

主の御腕は誰に現れたのか。

十字架は、決して人にとって心地よく、優しいものではなく、人の五感にとって甘く、麗しいものでもない。カルバリには人が慕い求めるどんな見ばえの良い姿も、輝きもない。カルバリには何の栄光もなく、人からの賞賛や理解もない。そこにはただ十字架につけられたキリストがおられるだけである。それでも、その栄光の消え失せた十字架に主と共にとどまり、これを自分自身の死として受け取り、全焼の生贄として静かに祭壇に身を横たえ、御言葉が実際になることに同意するだろうか。

十字架を回避して、己を神と宣言する人々が身近に増えて行くに連れて、筆者は厳粛にそのことを思わされる。一体、どれだけ大勢の人々がこの先、惑わされるのであろうか。そして、誰が十字架にとどまり続けるのであろうか。

人にはできない、しかし、神にはできる。駱駝に針の穴を通過させるのは、神の仕事である。お言葉通りになりますようにと応答するのが信者の側の仕事である。

その時に、主は御腕を力強く伸ばされ、山々を割いて降りて来られ、山上の垂訓のあの完全な統治を信者は生きて知るであろう。しかし、今、ダイナミックな復活の命の統治だけに注目するよりも前に、人に注目されることのないこの霊的死の意義にあえて心を向けたいのだ。たとえ主が御腕を力強く伸ばされ、ご自分の民を人知を超えた力によって擁護して下さるその光景を見ても見なくとも、主の御腕の守りの中にとどまり、人に承認されるのでなく、神に承認される者として生きたいのである。


神のこの奇妙な道はなぜか?


 さて、このような反応をすべてまとめると、神が御腕を現す方向に向かって動かれる時の、神の深遠な道を目の当たりにすることになります。神の道は何と深遠なのでしょう!何と神秘的なのでしょう!何と見出しがたいのでしょう!そして、ああ、神の道が分かり始める時、それは何と驚くべきものなのでしょう!私たちはこの御方が神の御子であり、人の贖い主であることを知っていますが、この御方に対して人の思いが下すこの解釈や判断について考える時、このような道は神の深遠な道であることを認めないわけにはいきません。神は動いておられます――常に動いておられ、堅い決意をもって、毅然として動いておられます――御腕を現す地点に向かって動いておられるのです。これが神の道であるとは、凄いことではないでしょうか?

 さて、ここで二つの疑問が生じます。一つは、「なぜ世の人はこのエホバの僕に対して、このような普遍的反応を示すのだろう?」という疑問です。クリスチャンとしての私たちの観点からすると、人が普遍的にこのような判断や反応をすることができるとは驚くべきことです。しかし、事実、人々はそのような判断や反応をしたのです。さらに、これは依然としてそうであることを、私たちは知っています。この世の人々の思いからすると、この十字架に付けられた御方には慕うべき点は何も見あたりません。

 第二に――おそらく、この疑問はこの問題全体の核心・根幹にさらに迫るものですらあります――「なぜ神は、人からのこのような反応を避けられない、このような道をわざわざ取られたのでしょう?」。この道は本当に奇妙です。まるで人からこのような反応を引き出すために、神はこの道を行かれたように思われます。なぜ神は誰からも認められる「まったく愛らしい」御方、一目見ただけで誰からも受け入れられる立場にある御方を遣わされなかったのでしょう?なぜ神は御子を遣わすとき、威厳、光輝、栄光の中で遣わされなかったのでしょう?なぜ彼は最初に天からのあらゆるしるしを示して、すべての人が見るようにされなかったのでしょう?なぜ神は、このような反応を生じさせる道をわざわざ取られたのでしょう?神はわざとそうされたように思われます。そのような反応は必然的でした。イザヤが描いたように、この絵を描いて下さい、「彼の顔立ちは損なわれて人と異なり」――その姿は「人の子と異なっていた」。他にも詳しく記されています――次に、この絵を持ち上げて、「これがあなたの贖い主です!」と言ってみて下さい。神は人を驚かせて憤慨させる道を、わざわざ取られたように思われるでしょう。

 そして、神はそうされたのです!しかしなぜでしょう?

人の間違った価値観のため


 今や、この現実的問題にかなり迫っています。人の価値観はまったく間違っており、神はそれをご存じなのです。人の価値観はまったく完全に間違っています――なぜなら、それは人の自尊心の所産だからです。次のような言葉は自尊心が傷つけられたからではないでしょうか。「こんな水準まで降りなければならないだって!自分の救いのために、そんなことを受け入れなければならないだって!こんな水準まで身を低くしなければならないだって!絶対嫌です!そんなことは人の性質に反します!」。そうです、これは人の性質には人の高ぶりによって生み出された全く間違った価値観が備わっているためなのです。ですから、この受難の僕という思想は人の自尊心にとって侮辱であり、つまづきであり、人の価値観に対する挑戦なのです。まさにこの理由により、ユダヤ人も異邦人もこの知らせを受け入れようとしませんでした――自尊心がそれを許さなかったのです。私たちは次のように歌います。

 「素晴らしい十字架を見渡す時
 私は自分の自尊心をまったく蔑みます。」

 これが十字架の及ぼす影響であるべきです。しかし、そうではありませんでした。人はこのような者なので、人の自尊心はそれを受け入れようとしません。ですから、「彼はさげすまれ、拒絶された」のです。「彼には私たちが慕うべき美しさは何もありません」。

 私たちの主イエス・キリストの十字架は、誤った栄光をすべて断ち切るものです。十字架は人の自尊心や尊大さのまさに根本を打ちます。十字架は人自身の威信や価値観に基づく生活の根本を打ちます。たとえ、この世の観点やこの世の価値観からすると、人はひとかどの者になって、それなりのものを得ることができたとしても、また、先天的あるいは後天的に、自分の頭脳や賢さによって、熱心に働いたり学んだりすることにより、人は何らかの地位、栄光、成功、威信を得ることができたとしても、もしあなたや私が神の御前でそのようなものに基づいて生活するなら、私たちもまた神の価値観に完全に反している人々と同類と見なされるでしょう。