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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

神に疎外された者たちによる神への復讐としての「エクレシア殺し」

・「イゼベルの霊」(被造物崇拝)による歪んだ支配がグノーシス主義者の心にもたらす尽きせぬ怨念と復讐心

さて、ようやく本題に戻ろう。当ブログでは、東洋的な「母なるもの」を神とする母性崇拝の思想は、グノーシス主義的被造物崇拝に起源があることを論証して来た。 

グノーシス主義とは、唯物論の教えでもある。なぜなら、この教えは聖書とは反対に、見えるものが、見えないものではなく、見えるものから出来たとしているためである。

聖書の秩序は、次のように言う、「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。」(ヘブル11:3)

グノーシス主義は聖書の唱えるこの秩序をさかさまにする。グノーシス主義は、まず第一に、世界の創造を、「神の言葉」によるものではなく、神が自分自身の像を水面に映し出すようにして、自らの「似像」を造ることによって始まったとしている時点で、「目に見えるものが見えるものからできた」かのように聖書の秩序を壊している。

グノーシス主義とは、父なる神がすべてを創造し、支配する方であるという原則を逆転させて、被造物に過ぎない者が、父なる神の神聖を盗み取ることで、被造物自身が神となって、父なる神を被造物の欲望に従わせようとすることを正当化する教えだということを見て来た。

そこで、我々は、鈴木大拙がしきりに説いていたように、「母を守る」ことを至高の価値とする東洋思想の考えの根本にあるのも、グノーシス主義であり、そこで言われている「母」とは、被造物全体を指しており、要するに、人類を指しているのだと理解することができる。

結局、東洋思想における「母を守る」という思想は、グノーシス主義の言う「ソフィアの過失を修正する」ことと同義なのである。つまり、それは神ご自身から、神のご性質を不当に盗もうとした悪魔と、その悪魔につき従って堕落した人類の欲望を正当化することに、人類は全生涯を捧げて生きよ、という悪しき思想なのである。

キリスト教を知らず、東洋思想の中だけで育てられた人間は、無意識のうちに「母を守る」ことを至高の概念のように考えて生きているため、このような考えが罪であることを知らない。

だが、クリスチャンとなっても、未だそうした思想から抜け出せない大勢の人々が存在する。彼らは無意識のうちに、人類を至高者のように考える被造物中心の思想に従っているため、クリスチャンを名乗っていても、実際には、神を人間の欲望を叶える道具とし、人間の栄誉を保ち、人間が恥をかかなくて済むことだけを第一として行動する。

そして、聖書の御言葉に基づき、人間の悪なる本質を明らかにするような言説を見つけると、憤激して立ち向かって来ることもある。

このような人々は、父なる神の目に、唯一正しいと認められる存在が、キリストだけであるという事実を認めようとせず、キリストだけに従うと言いながらも、同時に、キリストに匹敵する「誰か」を担ぎ上げ、その人間を宗教指導者とし、神のように栄光を帰しながら、その人物を拝み、誉めたたえる。

最後には、その人物を栄光化するだけでなく、その人物に従っている自分自身をも、神だと宣言して誉め讃えるまでに至るのである。

そういうことは、教祖を再臨のキリストと同一視する異端の宗教団体だけで起きることだと考えるのは浅はかである。目に見える人間を神の代理人のようにみなし、信徒にまさる階級であるとして、ほとんど絶対化している牧師制度は、教祖を再臨のキリストとして拝む宗教と実質的に何も変わらない。

だからこそ、異端の宗教団体で起きているのとほぼ変わらない腐敗した現象が、キリスト教界でも起き続けているのである。それはプロテスタントに限った話ではなく、カトリックも同様である。

そういう問題はすべて、彼らが根本的に人間の本性を偽り、人類について美化されたフィクションを作り出してこれを教会に持ち込み、その幻想のフィクションの象徴として、現人神のような宗教リーダーを作り出し、その人物を拝み、褒めたたえることにより、人類の欲望を賛美しているために起きているのである。

私たちは、先の記事で、大田俊寛氏がグノーシス主義における「父なる神」の概念はフィクションであるが、「父とはフィクションを創設することによって、人間社会を統御する者である」と述べ、「フィクションとしての父」が、家制度の基礎となり、共同体社会の基礎となり、都市国家の基礎となって行ったと説明していることを見て来た。

聖書を参照する限り、私たちは、人類には神と悪魔という二種類の「父」が存在することを見て取れる。イエスは偽善的なユダヤ人たちに向かい、彼らは悪魔を父として生まれた種族であるとはっきり指摘された。

「わたしの言っていることが、なぜ分からないのか。それは、わたしの言葉を聞くことができないからだ。あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである。<略>神に属する者は神の言葉を聞く。あなたたちが聞かないのは神に属していないからである。」(ヨハネ18:43-47)

だが、ここで、悪魔を父として生まれたと指摘されたユダヤ人たちは、地上的な自分の生まれに大いなる誇りを持つ人々であった。彼らはアブラハムを父祖に持つ選ばれた民であり、それぞれ立派な出自を持っており、自分の家系図について大いに誇るところがあっただろう。他方、それに比べ、異邦人たちは、選民でないため、初めから救いに縁のない人々として蔑まれていた。

ところが、イエスは、生まれながらの出自がどれほど由緒あるものであれ、さらに行いの上でも、律法を落ち度なく守っていたとしても、信仰がないユダヤ人たちは、悪魔を父とする民であり、悪魔の欲望を満たすためにしか生きていないと宣告し、ユダヤ人たちが最もよりどころにしている地上の由緒ある生まれを根こそぎ否定されたのである。

こうした記述からも、我々は、グノーシス主義が言う「フィクションとしての父」とは、本質的に悪魔を指しているとみなせる。イエスが述べた通り、悪魔は「偽り者」であって、「彼の内には真理がな」く、「悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている」ためである。まさに「フィクションとしての父」という呼び名がふさわしい。

しかし、聖書の父なる神は、「わたしはある」と言われる方であり、フィクションとしての父ではない。すでに述べたように、聖書の父なる神は、ご自分の子供たちが誰であるかをちゃんと見分け、ご自分の子として受け入れた者に、父として「宣誓」をされる。イエスがバプテスマを受けられた時に、神はイエスがご自分の心にかなう子供であることをはっきりと他の者にも分かるように示されたのである。

しかし、グノーシス主義の「父」はもともとフィクションであって、お飾り的な存在でしかないため、決して我が子が誰であるのかを、人前ではっきりと宣言することなく、それを良いことに、「子」の側でも、好き勝手に「父」の権威を濫用して、詐称に詐称を繰り返す。

「万世一系」などとされる天皇家に関する神話も同様で、神武天皇などと言う存在は、学術的にも実在性が認められていないようだが、こうした神話を継承しようとする勢力から見れば、重要なのは、実在性が認められるかどうかという議論や、生物学的な血統が証明されうるかといった問題ではない。

ただ「神聖なる始祖」の威光を代々継承するために「家」制度が続いて来たのだという「神話」が維持されることにより、その「家」のルーツが正当化され、権威づけられ、栄光を失わなければそれで良いのである。

当ブログでは、かつて「国体の本義」を通して、国家神道においては、「生み生まれるという親子の立体関係」がほとんど絶対視されており、その「生み生まれる親子関係」に基づいて、臣民と天皇との関係が定義されていたことを述べた。

このような親子関係は、地上における「生み生まれる親子関係」を指しているとは言っても、文字通りの生物学的な絆を指すのではない。そこには大いなるフィクションが混じり込んでいるのであって、そこで重要なのは、生物学的な血統が証明されるかどうかではなく、たとえその「親子関係」が虚構のものであろうと、「神聖な始祖」から「神聖な火花」を受け継ぐ「家制度」が存続して来たという「フィクション」が維持されることが肝心なのである。

さらにそのような神話に基づく家制度が、「一大家族國家」として、国家レベルにまで高められたのが戦前の国家神道である。

こうして、国家レベルで「万世一系の天皇家」というフィクションが作り出され、それと並行して、国民レベルでは「ご先祖様」を「神聖な始祖」として崇拝する「家制度」が存続した。

しかしながら、こうした神話が社会に何をもたらしたかは明らかである。グノーシス主義が「父とは、フィクションを創設することによって、人間社会を統御する者」と主張するのとは裏腹に、そのような壮大なフィクションによって、人間社会が統御されたり、秩序が保たれることはない。逆に、国家レベルにまで膨らんだ虚構の神話は、大勢の人々を破滅に巻き込みながら、最後には風船のように弾け飛んで消えてなくなったのである。

こうしたグノーシス主義的な神話は、国家神道や、先祖崇拝に基づく家制度のみならず、王権神授説や、国民全員の負託によって国家権力が出来たという現代社会の国家観などにも、共通して流れていることであろう。

要するに、この世には、時代を超えて常に人間存在に意義を与え、社会のヒエラルキーを成り立たせるための何らかの「神話」が存在しており、要するに、現実がどうあれ、この世全体が、悪しき者の支配下にあって、偽りの父である悪魔が作り出す「壮大なフィクション」によって、様々な権威づけがなされ、それによってあたかも社会が「統御されている」かのように、見せかけの秩序と幻想が保たれているという事実は、時代を超えて変わらないのである。

「わたしたちは知っています。わたしたちは神に属する者ですが、この世全体が悪い者の支配下にあるのです。」(Ⅰヨハネ5:19)

だが、そのようにしてフィクションに過ぎない神話の守り手となった人々には、虚偽を真実であるかのように告白し、先祖の罪をかばい立てするために辻褄合わせの嘘をつき続けて生きるという大いなる苦悩が降りかかる。

そのような「フィクション」に閉じ込められた人々は、一方では、家族の絆や、天皇と臣民の関係や、国家的なレベルで作り出された神話や、宗教指導者との関係や、独裁者から信任を得ていることなどを誇りとし、その関係を神聖なもののように誉め讃えながらも、もう一方では、「父なる神」を骨抜きにして自分を支配する「母」なる被造物に対する尽きせぬ憎悪と復讐心を無意識のうちに心に募らせて行くことになる。

もちろん、彼らには、自分が本当は「母」を憎んでいるのだという意識はない。自分が身を委ねているヒエラルキーや、それを成り立たせている価値観が幻想だという認識もなく、それに反逆する意図もない。だが、これまで書いて来たように、人類のアイデンティティは「喪失した父」を真に回復することによってしか見いだせないため、「父」を名目だけの存在として、その存在を骨抜きにし、「フィクション」にしてしまう「母」の存在は、決して「子」にとってためにならず、「母」の呪縛(被造物崇拝の呪縛)はかえって「子」を破滅に追い込むだけなのである。

すでに述べて来たように、目に見えるものを神とする「イゼベルの霊」(被造物崇拝)は、「子」を永遠に自立させず、自分の罪をかばうための道具として支配する。そこで、人類の罪をかばい立てするという無理な仕事を負わされて、その神話のために犠牲になって生きるしかなくなった人々には、自分は神に拒まれ続けて、「父」を喪失したまま生きねばならないという鬱屈した怨念がたまりにたまって行くのである。

何しろ、彼らが敬愛する「母」は、どんなに思いを寄せて仕えても、彼を「嬰児」のように扱い、道具として支配し、利用するだけで、決して自由を与えず、一人の人間としてのプライドをも認めない。

そうであるがゆえに、人類はそういう「母」を敬愛しているつもりでありながらも、その支配を受ければ受けるほど、「母への歪んだ愛」が、やがて本人の中で、憎しみと怨念と復讐心に変わっていくのである。
 
彼らは「母」と運命共同体として結ばれているため、その関係から抜け出ることができず、「母」に直接反逆することができない。そのため、彼らの憎しみと怒りは、本来、向かうべき「母」へは向かわず、「母よりも弱い女性」に向けられるという屈折した形を取ることになる。

一言で言えば、彼らの怨念は、自分自身を疎外し、「母」を脅かす「父」の存在へと向かい、ここに、グノーシス主義者による「神殺し」というプロットが生じるのであるが、目に見えない「父なる神」を殺すことは、人間には不可能なため、グノーシス主義者に残された手段は、「父なる神」の似姿が投影されている神の教会を破壊し、神の神殿である自分自身を破壊することだけとなる。

「イゼベルの霊」による支配に耐え切れなくなった人々の怨念は、まずは神に愛される神の子供たちへ向かう。すなわち、キリストの花嫁である「エクレシア」へと向かい、教会の破壊という形になって現れ、最後に、神の神殿として創造された自分自身へ向かい、「自分殺し」となって終わるのである。

ここで、当ブログでは、なぜ村上密や唐沢治や杉本徳久のようなカルト被害者救済活動の支持者が、キリスト教そのものを告発することをライフワークにして来たのかを思い出したい。しかも、彼らがとりわけ女性指導者や女性信者などを標的に攻撃をしかけて来たことを思い出されたい。

「イゼベルの霊」による支配は、東洋的な「情」による支配であるが、これはマザー・コンプレックスとも密接な関係があることは幾度か記した。なぜなら、「父」(男性)という存在が、知性に基づいてすべての物事に善悪の区別をつけ、秩序や規則によって支配する象徴であるとすれば、「母」(女性)は、すべてを善悪の区別なく慈愛によって包容する情意的な存在だからである。

一人のグノーシス主義者が誕生する背景には、このような「母性的な情愛による支配」が、「父性的な知性や規則による支配」に比べ、圧倒的に優位にある環境で育ったという事情があることは珍しくない。もう一度、鈴木大拙の言葉を通して、どれほど「母性的な要素」が東洋民族の心理の根本となっているかを振り返ろう。
 
 

「万物分割の知性を認識すること、これもとより大事だが、「その母を守る」ことを忘れてはならぬ。東洋民族の意識・心理・思想・文化の根源には、この母を守るということがある。母である。父ではない、これを忘れてはならぬ。

 欧米人の考え方、感じ方の根本には父がある。キリスト教にもユダヤ教にも父はあるが、母はない。キリスト教はマリアを聖母に仕立てあげたが、まだ絶対性を与えるに躊躇している。彼らの神は父であって母ではない。父は力と律法と義とで統御する。母は無条件の愛でなにもかも包容する。善いとか悪いとかいわぬ。いずれも併合して「改めず、あやうからず」である。西洋の愛には力の残りかすがある。東洋のは十方豁開である。八方開きである。どこからでも入ってこられる。

 ここに母というのは、わたしの考えでは、普通にいままでの注釈家が説明するような道といったり、また「ゴッドヘッド」といったりするものではないのである。もっともっと具体的な行動的な人間的なものと見たいのだ。しかし今は詳説するいとまをもたぬ。」
(『東洋的な見方』、鈴木大拙著、岩波書店、pp.13-14、太字、下線は筆者による)


このような「女性的な情愛による支配」は、母だけでなく、祖母からの支配という形で現れることもある。たとえば、杉本がブログで祖母から溺愛にも近い愛情を注がれて育った事実を記したり、長い間、親しい人々の間で「ちゃん付け」で呼ばれるなどして、ある種の子どもを喜んでいた事実を自ら記していることは興味深い。

杉本はこうしたことが、自分の心を圧迫し、束縛する枷となったという事実を認めていないのであろう。しかし、実際には、その記事が書き記された時、杉本は自ら三十代であったことを告白しているわけだから、その年齢になっても、まだ「ちゃん付け」で呼んでくれる人が少なくなったと寂しがったり、祖母に溺愛されて育った親族関係を強調するなどの行為は、大人の社会人である男性としては、相当に年齢不相応な子供っぽさを感じさせる行動である。だが、ペンテコステ・カリスマ運動の信者の告白には、これよりももっと年配の信者であっても、年齢相応の落ち着きが全く感じられない例が少なくないことはすでに述べて来た通りである。
 
このように、子供時代から「父性的な要素」よりも「母性的な要素」を重んじる環境の中で、無意識のうちに、「女性的なるものの」に心を絡めとられ、その代弁者として行動することを求められながら生きて人々の心の中には、本来であれば、父親をモデルとして作られるはずの、健全な自己像、揺るぎない自信、確固たるアイデンティティが喪失しており、「自分が何なのか分からない」という、不確かでコンプレックスに満ちた自己が形成されることが多い。

しかしながら、本来であれば、聖書に「それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。 」(創世記2:24)とあるように、人間はまず、生み生まれるという、肉による家族関係を離れて、初めて一人前となるのであるから、父からも母からも離れねばならない。

この地上の人間社会においては、肉による自分の両親に心から満足している人はほとんどいないであろう。ある人々は、両親が優れた知性や美貌の持ち主でなく、億万長者でなかったがゆえに、自分が子供として受けられる恵みが不足していたと考えるであろう。いずれにしても、肉による親子関係は、いつも子供にとって不公平であり、それゆえ、大変に不完全なものでしかない。

聖書は、そのような肉による地上の親子関係に対して、信仰者は十字架を通して死ぬ必要性を説いている。そして、そのことは一般的に考えても、常識にかなっていると言えるだろう。人が一人前になるためには、父からも離れねばならないが、まず最初に離れねばならない存在が「母」である。まずは、母のへその緒から分離され、次に乳離れし、精神的にも、「母」を離れて新たな家庭へと旅立って行かねばならない。

ところが、この分離が上手くいかず、いつまでも「母」なる被造物とへその緒で結ばれ、「母」の子宮に閉じ込められるがごとく、嬰児扱いが続き、「生み生まれる関係」から脱することができなくなると、人は精神的に大人になることができなくなり、著しい幼児化が起きるなど、精神が歪められてしまう。

それは個人の家庭のレベルだけでなく、国家レベルでも起きうる。たとえば、臣民は天皇の「赤子」であると教えられたり、牧師夫妻を「霊の父・母」として、信徒はその「子」であるなどと教えを受けた人々は、目に見える被造物を「母」として、これとへその緒でつながれたまま、いつまでも分離することができなくなり、健全なアイデンティティを失ってしまうのである。

こういった形で、「母なるもの」に心を絡め取り、被造物崇拝から離れられなくなってしまった人々は、自分を優しく包み込み、すべてを許容してくれる慈愛に満ちた「母」こそが、自分の心を不当に抑圧し、正常な「父なる神」のモデルを失わせて、自分から健全な模範を奪い去ったなどとは疑うこともできないため、彼らの心の内に無意識に蓄積された憎しみや怨念は、「弱い女性たち」に向けられることになる。

その結果として、この種の自立できず、自信を喪失して、コンプレックスを抱える人々の多くは、常に弱みを持った女性を探し出しては、その女性たちを助けてやる風を装いながら、彼女の心を支配して、彼女たちから誉めそやされることで、自分の傷ついた自尊心を埋め合わせようとしたり、もしくは、自分たちから見て「格下」の存在のように見える女性たちを虐め抜いて抑圧することで、自分のコンプレックスや自信喪失を覆い隠そうとする。

このような形で、彼らは自分の心を抑圧し、支配して来た「母なるもの」に対する復讐を果たそうとしているのである。

だが、そこに、我々は「自分よりも弱い女性を抑圧し、罵倒・嘲笑することでしか、男性としてのプライドを保てない」という惨めな人格を見るだけでなく、より深い文脈において、そこには、以下に記すように、被造物の理想であるキリストの花嫁たる「エクレシア」を冒涜し、蹂躙することでしか、神の御前での自分の罪深さ、愚かさ、弱さ、醜さから目を背けることのできない人間の心理を見るのである。
 
 
・神に疎外された者たちによる神への復讐としての「エクレシア殺し」
 
グノーシス主義の「母性崇拝」は、被造物自身を高める教えであるから、それを受け入れた人間に、当初は、陶酔感や、解放感にも似た心地よい満足をもたらすかも知れない。東洋的な「母なるもの」は、人にとって、初めの頃は、自分を優しく包み込み、生かし、守り、養ってくれる生命の源のように見え、かつ、慈愛に満ちた理想像であり、憧憬の的と映る。

彼らは、その「母なるもの」の延長上に、自分が慕う女性美があり、自分の自立もあるのだと考えようとする。「母なるもの」を慕い、追い求めることが、そのまま、未来に理想的な「妻」を得ようとする願望へとつながり、自分が完全な存在になることへとつながるのだと考えようとする。だが、時が経つうちに、そのようなことは不可能であると分かって来る。

「母なるもの」に心を捧げるグノーシス主義者にとって、「母なるもの」の支配は、次第に重荷になって来る。彼は自分では「母」を敬愛し、そこに「最高の女性美」を見ているつもりでおり、憧憬の念を抱いているのであって、憎んでいるのではないと思うかも知れない。

ところが、どんなにその「母なるもの」を守って、離れずに生きても、実際には、いつまでも嬰児として扱われているという屈辱感が募るばかりで、「母なるもの」を追えば追うほど、ますます悔しさと惨めさを味わうことになる。

グノーシス主義における「母」は、一見、慈愛に満ちた存在であるかのように見えても、人の心を拘束し、支配するだけで、決して自分自身を彼に与えようとはせず、人を一人前の存在とも認めないため、グノーシス主義者の心の内側では、「母なるものへの憧憬」が、次第に「憎しみ」や「怨念」へと変化して行くことになる。

その変化の過程を、以前も引用した映画" Mishima A Life In Four Chapters The Criterion Collection] [1985] Paul Schrader "の中から、三島由紀夫の小説の『金閣寺』の主人公の言葉を引用して見てみよう。

 

「永遠(とわ)の美しさっちゅうもんは、怖いもんやで。どんどんどんどん大きなって、何もかも押しつぶしてしまうんや。」 「美しさはぼくの怨敵(おんてき)なんや。金閣寺が滅びん限り、とてもやないが、耐えられへん」


ここで主人公の言う「永遠の美」とは、鈴木大拙の言う東洋思想の「母なるもの」や、ゲーテの言う「永遠の女性」、老子の言う「玄牝」などと本質的に同じであるとみなせる。『金閣寺』の主人公は、金閣寺を「永遠の女性美」として崇め、金閣寺を守り、これを離れず、絶えず追い求めることで、自らの憧憬の対象との一体化を目指そうとしている点で、まさに「神秘なる母性」を至高の存在と崇める東洋思想の担い手であり、根本的にはグノーシス主義者であると言える。

ところが、三島の『金閣寺』の主人公は、吃音という障害ゆえに、自己に深刻なコンプレックスを抱えている。そのコンプレックスゆえに、主人公は、金閣寺という心の理想にはおろか、地上のどんな女性にも近付けない。

(*ここで言う吃音という問題は、より深く象徴的な意味では、人類の罪を示している。人類が罪ゆえに感じる恥の意識や、コンプレックス全般が、吃音の中に象徴されているのである。)

こうしてコンプレックスゆえに、どんな女性からも一人前とみなされることがなく、一人の男性として完全な自信を持てない主人公の苦悩は、金閣寺と関係において、究極的な形にまでクローズアップされ、凝縮される。金閣寺は彼にとって、最高の美の化身であり、女性美の究極的完成であり、彼はこれと一体化し、我が物とすることさえできれば、すべてのコンプレックスから逃れて、完全な存在になれるはずである。

いわば、金閣寺は、この主人公にとって、待ち望んだ花嫁のような存在であり、彼を一人前にしてくれる「妻」のような存在なのである。金閣寺が得られさえすれば、彼は不足だらけの卑俗で惨めな自己から脱して、真のあるべき男性となり、欠けたところのない、非の打ちどころのない一人前の完全な人間となれるだろうという予感を持っている。

戦中には、金閣寺が戦火にさらされ、破壊されたり、消失するかも知れない危険に直面していると考えることによって、この主人公は、自分が憧れている金閣寺も、自分と同じように、弱い存在として、共に受難を受けているのだと考えて心を慰め、金閣と一体になれずとも、騎士のように金閣を守ることによって、自分は金閣から必要とされているのだという誇りを持つことができた。

ところが、金閣の美は、戦火によっても少しも動かされることなく、この「永遠の美」は、地上の何物によっても影響を受けず、不動の美をたたえているだけで、戦争も含め、地上の一切の醜く、歪んで、不自然で、不完全なものを寄せつけない。

主人公が金閣寺を守ってやることによって、金閣寺に少しでも近づけるかのような幻想は、むなしく砕け散った。金閣寺はそれ自体が完全であり、独立しており、永遠に誰の助けも必要としておらず、まして、コンプレックスだらけで醜い主人公の存在など全く寄せつけず、初めから必要としていなかった。

そのことが分かり、主人公は打ちのめされる。金閣寺は常に完璧で、弱さのかけらも見せず、とりつく島がない。どんなに憧れ、熱心に追い求め、守ってやろとしても、主人公の手を冷たく振り払うだけで、彼にとっての「永遠の美」は、どこまで行っても、不完全な人間とは交わることがない。それはまさに人間を寄せつけない「サンクチュアリ」である。

金閣寺は、主人公の心を一方的に捕えることはしても、彼の側からの接近を許さず、金閣寺から彼に突きつけられる回答は、いつも「(あなたはあまりにも惨めで低い存在でありすぎるがゆえに、永遠の美には)値しない」という結論だけであった。

主人公は、自分が理想として拝んでいるものから絶えず「値しない」という宣告だけを突きつけられるという繰り返しに絶望する。金閣寺と一体化することによってしか、完全な存在になれないにも関わらず、金閣寺が自分を拒んでいることにより、その目的は永遠に達成不可能となっているのだ。

そうなっても彼は金閣という偶像を心の中から捨てることができず、そのせいで、ただでさえ、人前でもコンプレックスを覚えずにいられない上に、金閣寺のように完璧な美と絶えず比較されて、絶えず途方もない屈辱と惨めさを味わわねばならない。

ついに主人公は、自分にそれほどまでの耐え難い惨めさしか味わわせることのない金閣寺を憎しみの対象とみなし、「殺そう」と考える。自分の心を一方的に支配し、翻弄するだけで、決して、その存在を自分には与えず、常に自分とは比較にもならない崇高な存在として、高みにいて勝ち誇り、自分に疎外される惨めさと屈辱だけを味わわせる金閣寺を焼き払うことによって、彼は自分を拒み、惨めにさせるだけの「永遠の女性美」に対して復讐を成し遂げ、これを否定し、美醜の概念そのものを葬り去ることによって、それを乗り越えることができると考えようとするのである。

主人公は、寺という有限なる物質を焼き払うことによって、目に見えない「永遠の女性美」という、それまで自ら信奉して来た理想自体に復讐を果たそうとしたのであった。

彼は、言わば、「神殺し」のような作業に着手したわけであるが、正確に言えば、彼が破壊したのは神ではなく、神を入れるための「器」であり、「神の宮」である。

「宮」を冒涜し、破壊することによって、彼は、自分自身がそれまで「神」として拝んできた理想を否定し、それを否定的に乗り越えることで、自分自身が「神聖」となり、誰にも支配されることのない絶対的な主人になろうとしたのである。



三島由紀夫は、小説『金閣寺』の原文において、主人公による金閣寺へのこの放火という犯罪行為を、決して悪なる所業として断罪してはいない。小説は、主人公に厳しい報いの足音が近づいていることを知らせながらも、主人公の心に生じた何かしらの清々しい解放感を描くところで終わっている。

このことは、三島自身が、グノーシス主義者であって、この放火をどちらかと言えば、「解放」という側面からとらえていたことを意味する。そのような立場は、三島自身の最期にもよく表れている。

しかしながら、上記の映画は、ある意味では、小説よりも進んで、三島の描こうとした内面的な葛藤を、決して主人公の立場に一方的に肩入れすることなく、より客観的にとらえている。

この映画を観れば、それが決して主人公の放火をすがすがしい「解放」として描いたり、その行為に賛同することはしておらず、かええって三島自身の生きていた世界観の歪みをもそれなりに理解した上で、三島の人生に重ねて、この主人公の心に起きた悲劇と絶望を描き出そうとつとめていることが分かる。

この主人公は、金閣寺を葬り去ることによって、自分を苦しめている「被造物の理想像」から解放されようと考えたのだと言える。だが、逆説的に、彼が自分を疎外しているとして憎み、否定しようとした「金閣寺」は、彼自身の存在でもあった。

それは「神の宮」であるがゆえに、主人公が自分を殺すことと同義だったのである。むろん、物語は、主人公が金閣寺を焼き払ったところで終わっているため、その後、主人公が逮捕されて刑罰を受けねばならないとか、それによって主人公の人生は破滅し、金閣に身を捧げることだけが唯一の人生目標だった彼は、残る人生において、抜け殻同然となるといった事実は描写しない。

しかしながら、我々は、小説の枠組みを超えて、ここに不思議なパラドックスが存在しているのを見ることができる。つまり、金閣寺を焼き払うことにより、自ら神を「簒奪」し、「神」になろうと、「神の宮」の強奪と破壊行為に及び、「神殺し」を試みた人間は、結局、自分で自分の首を絞め、滅ぼすことになったというパラドックスである。

筆者は、三島由紀夫は無意識かも知れないが、この物語を書いた時点で、自分の最期を予告していたも同然だと考える。

聖書によれば、人はみな神の宮とされるために創造されたとあり、神の神殿を壊す者は、自分を破壊しているのと同じで、やがて自滅へ至るのである。

「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなた方に宿っておられることを知らないのですか。もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です。」(Ⅰコリント3:15-16)

むろん、聖書がここで「神殿」という言葉で指しているのは、直接的には、キリストへの信仰を有し、神の霊を内側に持っているクリスチャンを指すのであって、信仰のない人々を「神の神殿」であると呼んでいるわけではない。また、仏教の寺を、キリスト教における神の宮と同一視することもできない。

とはいえ、深い霊的な意味においては、人はみな神の宮となるべく創造されたのであって、どれほど堕落して、神から遠く離れて生きており、聖書の御言葉を信じてもいないにせよ、それでも、人に備わっている宮としての機能がすべて否定されるわけではないのである。

むろん、「神不在」の宮は、宮として機能しておらず、荒れ果てて死んだ器も同然であるが、それでも、あらゆる「宮」には、神の霊を入れる器という意味が込められているのであって、そこで、人が神の宮を破壊するという行為に及ぶことは、同時に、神の霊を入れるための器であり、神の宮となるべく創造された自分自身を破壊するという行為を象徴的に意味するのである。

だからこそ、『金閣寺』の主人公は、金閣寺を焼失させることによって、自分を苦しめていたコンプレックスの呪縛から解放されることはなく、かえって金閣寺と共に自分の人生を失うことになるのである。

彼は金閣寺の理想だけを否定して、その理想から神聖な要素を奪い、自分はこの「神」を否定的に乗り越えて生き残ったつもりだったかも知れないが、実際には、彼の人生は、金閣寺の焼失と共に終わったのである。

これと同様に、天皇を神として「生み生まれる関係」の中に、人間社会の理想を追求しようした三島も、彼自身の「金閣寺」に拒まれた結果、その理想を入れる宮であった自分自身を破壊するという行為に出ざるを得なくなる。天皇も、自衛隊も、三島の語る「理想」には耳を貸さず、彼は自分自身の理想から置いてきぼりにされたのであるが、その時、彼が選んだのは、自分は、自分の信じる理想に「値しない」という事実を直視することではなく、自分自身の存在を抹殺することで、その理想がもともと自分には達成不可能であって、自分はそこから疎外されているという現実から目を背けることであった。

三島が否定しようとした現実とは、彼がどんなに肉体を鍛え、研鑽を積み、崇高な理想を語っても、罪にまみれた人間の一人にすぎない彼には、決して自力では完全に至り着くことができず、どんな理想をも打ち立てることができないという事実である。むろん、三島だけでなく、三島が期待をかけたすべての人間がそれと同様なのである。彼らが望んでいる理想に「値しない」というのがあらゆる人間の出発点である。

しかし、『金閣寺』には、「永遠の女性美」との対比の中で自分が味わう惨めさやコンプレックスを受け入れることを拒み、かえって「永遠の女性美」を滅ぼすことで、自分の罪や弱さから逃れ、自分を義として、罪から解放されようとした主人公の姿が描かれている。

その主人公の姿は、かなりの程度、三島自身に重なる。彼は弱さ、罪、歪んだもの、醜いもの、不完全なものが本質的に悪であることを知り、その克服につとめながら、それを自力で自分から切り離すことができないと分かった時、自ら目指して来た「完全なもの」を否定することで、自己存在の不完全さを否定し去ろうとしたのである。

グノーシス主義がそれを信じた人間にもたらす結論とは、常にこのようなものである。

聖書が教える事実とは、人には生まれながらの自己のまま、キリストの十字架の死を介さずに、神に受け入れられることは決してないというものである。

人には創造された時点で、宮となるべき機能はあるかも知れないが、神がそこへ入って来られない限り、その宮は、単なる死んだ器でしかない。

人の生まれながらの自己がもたらす自覚は、自分は神から遠く離れ、神に拒絶されているという罪の意識だけであって、肉体を改造しようと、精神を改しようと、どんな方法を使っても、人がその罪威意識を自力で払拭して神に至り着くことはできない。

キリストと共なる十字架の霊的死を通って、初めて、人は「新しく造られた者」として神に受け入れられる神の子供とされる。

だが、それが達成されるためには、人がまず己が罪を認めて神の御前に悔い改めねばならない。自己の不完全さ、醜さ、愚かさ、弱さ、欠点、恥といったものを、自分に思い知らせる存在をことごとく退けることで、自分の不完全さから目を背けようとするのではなく、まずはそういうものが究極的には、すべて自己の罪に由来する当然の結果であるとして理解せねばならないい。

もちろん、吃音者を馬鹿にしたり、障害者を嘲ったりする人々の心が陰険であり、力の強弱によって人間の価値がおしはかられるこの世の社会の価値基準そのものが歪んでいるのであるが、だが、だからと言って、自分が暴力を行使して破壊活動に及ぶことによって「強者」の側に立てば、自己の不完全さから逃れられるかと言えば、そうではない。彼はその行為の報いとしてさらに大きな暴力に飲み込まれるだけであり、それでは終わりなき力の争いしか生まれるものはないのである。

人間の不完全さは、すべて究極的には人間自身の罪から来るものであって、神の御前に悔い改めて贖われることなくして、どんなにそれを不当な差別だと叫んでも、人ガ自分でそこから逃れることはできない。

「自分は差別された被害者だ!」などと叫んだり、自分の弱さをダシにして同情を乞うことで、自己正当化をはかることも、自己欺瞞でしかない。

ところが、自分の弱さが罪から来るものであることを認めず、自分に恥の意識をもたらすという理由で、完全なものを否定し、蹂躙、冒涜することによって、自分自身の罪から目を背け、あたかも自分が聖なる正しい存在になったかのように思い込もうとしているのが、カルト被害者救済活動の支持者のような人々なのである。

以上の映画では、三島とおぼしき人物が、幼少期から祖母の精神的な支配を強く受けて成長したために、祖母によって自分が体の弱い人間であると思い込まされ、それゆえ、人前で自信が持てなくなり、大人になっても、絶えず自分の弱さについて恥とコンプレックスを持たずにいられなくなった様子が描かれている。

そこで成長してからの彼は、体を鍛えるなど、様々な方法を通して、自己のコンプレックスから逃れる道を模索し続けたのだが、自分を一人の人間として認めず、永遠に道具として支配する「母なるもの」の支配こそが、そうしたコンプレックスをもたらした元凶であると思い至らなかったために、自分のコンプレックスの真の原因を見いだすこともなく、見当外れな方法でその克服を試みては挫折し続けるのである。

そうこうしているうちに、当初は、「祖母」や「母」という存在に限定されていたはずの、彼の心を支配する「母なる存在」は、やがて彼の中で無限大とも言える巨大なスケールにまで拡大して行き、「神話」となり、「天皇崇拝」といった国家レベルの思想にまでなって行き、耐えられないほどの重圧として、彼自身を押しつぶし、粉々に打ち砕くのである。

「永遠の女性美」なるものが、無限に拡大して、人間の心を打ち砕き、押しつぶしたのである。なぜそのようなことが起きたのかと言えば、彼が誉め讃えていた「永遠の女性美」はリアリティではなく、真のリアリティは、目に見える被造物の側にはなく、目に見えない父なる神の側にあったためである。それにも関わらず、影に過ぎない被造物を「本体」としたことによって、そのフィクションの鏡を見つめるうちに、フィクションが現実とされ、それに合致しない(値しない)彼の自己は奪い去られて消失したのである。

結局、東洋思想は、聖書が言うように、神と人との間に、罪による超え難い断絶があることを認めず、神と人とは本来的に一つであるとして、「神と人との融和」を唱える。そして、「すべてを慈愛によって包含する母」の存在を高く掲げる。

ところが、おかしなことに、そのような思想を実践に移そうとすると、その「慈愛に満ちた母」であるはずのものが、逆説的に、人類をことごく残酷に疎外し、自分の子供たちを「慈愛によって包み込む」はずが、ことごとく「値しない」という宣告を突きつけるのである。

「金閣寺」から疎外されたのは、主人公だけではない。天皇崇拝の思想を信じる三島も含め、は、どれほど多くの人々をこうした被造物崇拝の思想のために弾圧され、疎外されて、殺されたか数知れない。天皇崇拝は、すべての「臣民」を自分から疎外したとも言える。

このように、キリスト教の神が人間を疎外しているのではなく、神と人との断絶を認めず、地上の「生み生まれる関係」こそ、人間生活の根本であるかのように教えるグノーシス主義こそ、絶えず人間を残酷に疎外し続けているのであり、こうした思想を信じると、人は結果的に「父を喪失」するだけでなく、「母」をも喪失して終わることになる。「父なし子」であるだけでなく、「みなし子」にまでなってしまうのである。

彼らは自分たちのルーツを正当化し、自己を取り戻そうとして、かえってすべてのルーツを失い、自己をも失ってしまうという結果に至るのである。

繰り返すが、被造物は、本来は、キリストの花嫁たる教会となるために創造されたため、被造物それ自体では完全となることはできず、被造物は本体の影に過ぎず、そこにリアリティはないのである。

にも関わらず、被造物がリアリティであるかのように誉め讃え、人が己を神として、自力で理想状態へ至り着こうとすると、自己の尊厳、自己肯定感、健全な自己愛が持てなくなるだけでなく、最後には彼らの自己も消えてなくなる。

『金閣寺』の主人公が、寺を焼き払った行為の中には、自分の理想の否定だけでなく、神の宮を破壊する行為を通して、自分自身を否定し、さらに、そこには象徴的な意味で、贖われた被造物の総体である「エクレシア」殺しという悪魔の欲望も込められていると言える。

なぜなら、真の意味での「女性美」は、キリストの花嫁たるエクレシアにしか見いだせないからである。(東洋思想における被造物崇拝は、エクレシアの歪んだ摸造としてのバビロン崇拝と同一である。)

カルト被害者救済活動の支持者は、神の宮である教会を冒涜、破壊し、蹂躙すれば、キリストの花嫁から、神聖な花嫁たる性質を強奪して、我が物とでき、かつ、自分自身の罪や弱さからも目を背けられると考えようとした。

ところが、その試みは成らず、結果として、彼らの恥だけが残り、アベルの流された血が天に向かって叫ぶように、彼らが犯した行為自体が、彼らが最も人前で隠したかった自己の罪、恥、弱さの証拠となる。

彼らがどんなに自分を苦しめる「永遠の女性美」を否定しようとして神の教会に害を加えたとしても、それによって、彼らの罪がいささかも取り去られることはなく、ますます罪が増し加わるだけである。

アベルを殺し、エクレシアを破壊して、自分の罪の証人を目の前から消し去っても、それでも、自分の罪から逃れられないことが分かると、彼らはその事実から目を背けるために、次なる行動に出るしかなくなる。すなわち、神の神殿として作られた自分自身の破壊である。

エクレシアの破壊という行為に手を染めた人間には、例外なく、自分が目指していた究極の目的から疎外されて、自分を滅ぼすという結果が降りかかる。今、現実の物語のプロットは、この最後のステージにさしかかろうとしている最中である。

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「イゼベルの霊」(異教的母性崇拝)に支配される「神の家の乗っ取り運動」としてのペンテコステ・カリスマ運動(4)

・神に疎外された者たちによる復讐の哲学としてのグノーシス主義

さて、本題に入る前に、先の記事にいくつか補足しておこう。

先の記事では、グノーシス主義における「父なる神」の概念は、本質的にフィクションであると述べた。グノーシス主義においては、「真の至高者」と呼ばれる最高位の神から、神的存在が流出し、その神的存在がさらに自分自身の似像を創造することで、様々なアイオーン(神々)が生まれるが、「真の至高者」自身は、神的存在を映し出すための物言わぬ「鏡」であって、誰も見ることのできない虚無の深淵であるとされる。

グノーシス主義の神話的プロットにおいては、「真の至高者」が、意志をもった主体として登場したり、被造物の世界に介入することはなく、「真の至高者」による被造物の創造も、主体的な創造行為というより、ただ自分自身の姿を鏡に似像として映したというだけの、かなり消極的で受動的なものである。

前の記事では、結局、「真の至高者」は、リアリティを持った存在ではなく、ただ被造物の存在に意義を与えるためだけに名目だけ作り出された擬制的概念で、本質的には、被造物の欲望を「鏡」のように映し出す偶像であり、「フィクション」なのだと述べた。

ちなみに、虚無の深淵に、水面に光が反射するようにして「神的存在の流出」が起きるというグノーシス主義の神話のくだりは、創世記の次の記述を彷彿とさせる。

はじめに神は天と地とを創造された。
地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。
神は「光あれ」と言われた。すると光があった。
神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。」(創世記1:1-4)

しかし、この創世記の記述を、グノーシス主義の神話的プロットと同様のものとみなすことはできない。なぜなら、この記述においては、神の霊があたかも「やみの深淵」に等しい存在であるとか、神の霊が水のおもてに自分自身を映し出すことによって「光」が生まれたなどとは決して書かれていないからだ。

また、創世記には、神が人を創造された際、主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。」(創世記2:7)という記述がある。

神が人間に息を吹き入れることにより、人は生きた者となったという聖書の記述についても、グノーシス主義のプロットの中に類似したくだりが見られる。だが、聖書のこの記述とグノーシス主義の神話のプロットの間にも、あまりにも多大なる差異があるため、これも同じようにみなすことは決してできない。

グノーシス主義においては、人類は、ヒエラルキーを犯して「真の至高者」を知ろうとしたソフィアの過失によって生まれた悪神ヤルダバオートから生み出されたことになっている。繰り返すが、このヤルダバオートとは、グノーシス主義において、旧約聖書の神と同一視されている。

グノーシス主義文献の一つ、『ヨハネのアポクリュフォン』では、母ソフィアに捨てられて下界に転落したヤルダバオートは、自分のいる下界よりも上位にプレーローマ界があることを知らないまま、下界にさまざまな被造物を生み出し、自分だけが世界の創造主であると自己過信して、「私の他に神はいない。私は妬む神である。」と宣言する。

しかし、それを聞いたプレーローマ界の創造者であるバルベーロー(真の至高者から最初に生み出された女性人格であり、プレーローマ界を創造した神的存在)はその宣言をヤルダバオートの傲慢さの表れであるとみなして憤激し、「人間と人間の子が存在する」と言って、自分の姿を下界に映し出す。それを見たヤルダバオートは、初めて見た神の姿を自分のものにしようと、バルベーローを模して人間(アダム)の体を創造したという。

だが、体が造られただけでは、人間は立ち上がることができなかったので、プレーローマ界の神々は、ヤルダバオートに、アダムの口に「息(プネウマ)」を吹き込むようにそそのかした。「そそのかした」というのは、ヤルダバオートがアダムに吹き込んだ息は、母ソフィアに由来する霊であって、ヤルダバオート自身は、その「息」をアダムに吹き込む代わりに、自分自身はそれを失ってしまったからである。

ところで、このような神話のプロットには、それ自体、相当な無理があると言えよう。グノーシス主義の神話では、それぞれの神的存在の間にヒエラルキーがある。そこで、本来、ヤルダバオートによって創造された人類は、ヤルダバオートの似像となるのが当然であって、吹き込まれた息も、ヤルダバオートの霊であるはずであり、ヤルダバオートを飛び越えて、さらに上位の神の似像として造られるなど考えられない。

ところが、グノーシス主義は、バルベーローがヤルダバオートを出し抜いたことにより、人類は、ヤルダバオートの存在を飛び越えて、プレーローマ界の直接の創造者であるバルベーローの似像として創造されたのであって、その息も、ヤルダバオートを飛び越して、母ソフィアに由来するとしている。これはいかにバルベーローの意志のもとで行われたことになっているにせよ、グノーシス主義が、神的存在の間にヒエラルキーを定めておきながら、そのヒエラルキーを自ら壊すようなプロットを作ったことを意味する。

グノーシス主義においては、このように、自ら定めた秩序やヒエラルキーを自分で破壊するようなプロットが次々と展開される。第一に、ソフィアが、自分の分を超えて「至高者」を知ろうとしたことによりヒエラルキーを覆し、第二に、ソフィアの過失によって生まれたヤルダバオートが、自分こそ至高の存在であると宣言して、ヒエラルキーを犯し、さらに、人類がヤルダバオートを飛び超えて、さらに上位の神の似像として創造されることによって、ヒエラルキーが覆され、さらに、以下に示すように、アダムから最初に生まれた子供たちであるカインとアベルが悪しき種族となる一方で、カインとアベルよりも後に生まれたセツの種族が「生命の霊」を継承する善なる種族となって、ヒエラルキーが覆される。

グノーシス主義においては、「私は妬む神である。私の他に神はいない」というヤルダバオートの宣言だけが、あたかも許し難い傲慢のようにみなされているが、実際には、ソフィアもヒエラルキーを犯し、人類もヤルダバオートより優れた存在として創造されることにより、ヒエラルキーを犯しているのだが、それらのことが悪として非難されたり、罰せられることはない。
 
しかし、そういう不公平でナンセンスな解釈をすべて取り払って、ただ単純に物語のプロットだけに注目するならば、グノーシス主義の物語では、ただ延々と「秩序転覆」(大田氏の言葉によれば、「簒奪の模倣」)が繰り返されているだけであることが分かる。

要するに、自分よりも上位にあるはずの存在から、オリジナリティを盗むことによって、自分自身がその者になり代わり、その者の優れた特性を剽窃して、歪んだ模倣を行うという「秩序転覆」が延々と繰り返されているのがグノーシス主義の物語なのである。
 

「グノーシス主義の造物主であるヤルダバオートは、プレーローマ界の似像として可視的世界を創造しながらも、その原型であるプレーローマ界の存在を認知せず、「私の他に神はない」と、自らの至高者と唯一性を宣言する。彼は、神的な秩序のオリジナリティを、本当の至高者から、そしてプレーローマ界から奪い取ってしまうのである。ヤルダバオートによる創造行為は、ソフィアが不意に踏み出してしまった「簒奪の模倣」という行為を、全面的に展開したものと捕えることができるだろう。
(『グノーシス主義の思想<父>というフィクション』大田俊著、春秋社、2009年、pp.104-105)

 
既述した通り、グノーシス主義においては、ヤルダバオートが創造した人間が、プレーローマ界の創造者であるバルベーローの似像として生み出され、ヤルダバート以上の存在となったことは、全く悪とはみなされない。
 
だが、人類の誕生が、ヤルダバオートが水面に映ったバルベーローの姿を「我が物にしよう(=盗もう)」と欲したことによって起きたことを考えれば、結局は、これも「簒奪の模倣」の結果でしかないのである。さらに、ヤルダバオートがバルベーローの似像を奪い取ろうとして生み出した人類の中にも、二種類の種族が現れ、アダムから先に生まれた「カインとアベル」の種族は、ヤルダバオートが「生命の霊」を真似て造りだした悪しき「模倣の霊」にとりつかれ、互いに憎み合い、殺し合うという「運命の鎖」の中に閉じ込められて生きるしかなくなる一方、アダムからカインとアベルの後に生まれた「セツの種族」が、プレーローマ界に由来する「善なる、憐れみに富む霊」である「生命の霊」を受けて、物質的欲望から解放されて崇高な人生を生きるのだという。
 

創造された人間の肉体には、バルベーローが人間を救済するために派遣した「生命の霊」が、あるいはヤルダバオートがそれに対抗するために、「生命の霊」を真似て造り出した「模倣の霊」が植えつけられる。そして、これらの指導的な霊の種類の違いによって人間たちは、「セツの種族」という祝福されるべき種族と、「カイン・アベルの種族」という呪われるべき種族に分かれ、相互に対立を繰り広げるようになる。」(同上、p.107)


 
ここで、カインとアベルの両方が、堕落した種族の呼び名とされているなどの、あまりにも聖書からかけ離れた荒唐無稽な呼称について非難することは脇において、プロットだけに注目して話を進めることにしよう。こうして、ソフィアから、ヤルダバオートへと受け継がれ、さらに人類にも受け継がれた「簒奪の模倣」という、グノーシス主義に特徴的なヒエラルキーの転覆願望は、人類にも悪しき種族を通じて受け継がれて、呪われた「運命の鎖」として延々と継承されて行く。その「模倣の霊」の悪なる本質は、ヒエラルキーを下へ下がれば下がるほど、争いや殺人といったますます醜い形で現れるようになっていることが分かる。

『ヨハネのアポクリュフォン』は、一方では、悪しき「模倣の霊」とは異なる「生命の霊」なるものがあるとして、その霊によって導かれる善良な「セツの種族」なる人類が存在すると主張し、そこに救済のようなものを見いだそうとするのだが、しかし、そのようなプロットにも、あまりにも無理があると言えよう。なぜなら、セツの種族も含めた人類全体が、ソフィアが至高者の像を盗み取るという「簒奪の模倣」をきっかけに生まれたのであり、ソフィアの過失によって誕生したヤルダバオートが、さらにバルベーローの像を盗むという「簒奪の模倣」を行った結果として誕生していることは明白だからである。そのような呪われた出自を持つ人類全体の中から、どうしてセツの種族だけが、「簒奪の模倣」とは無縁の、プレーローマ界に由来する善なる霊だけを持つ神聖かつ善良な存在であるとみなすことができるのだろうか。
 
我々クリスチャンの目から見れば、グノーシス主義の神話的プロットの中で、唯一、確かなリアリティとして存在しているのは、決して「生命の霊」とか「セツの種族」といった救済めいた概念ではないのである。むしろ、そうしたものは、グノーシス主義の物語のプロットの中で、延々と繰り返されている秩序転覆、ヒエラルキーの破壊、「簒奪の模倣」を正当化するための言い訳として、ソフィアの過ちを「修正」するために作り出された方便でしかないのである。

そのことは、「セツの種族」なる人類が、自分の本当の出自がプレーローマ界にあると気づくことによって、「母ソフィアの過ちを修正する」ことを最大の使命としている点を考えても納得がいく。「セツの種族」が目指しているのは、悪しき模倣の霊と手を切って、それと無縁の人生を送ることではなく、悪しき模倣の霊の生んだ産物の子孫として生まれた自分自身のルーツを、何とかして正当化することで、ソフィアから延々と人類に受け継がれているヒエラルキーの転覆を正当化することなのである。
 
結局、グノーシス主義の物語は、全体が、「簒奪の模倣」を正当化し、それを弁明するために作り出された物語なのだと言える。そこで、グノーシス主義とは何か、ということを一言で言い表すならば、「妬みに基づく剽窃を正当化する教えである」と結論づけることができるものと思う。

グノーシス主義は、旧約聖書の神を指すというヤルダバオートが「私は妬む神である」と宣言していることを、あたかも彼の愚かさや偏狭さや嫉妬深さの証拠であるかのように徹底的に侮蔑・嘲笑・非難するが、ところが、よくよくこの物語を見れば、実際には、妬みに駆られているのは、ヤルダバオートだけでなく、ソフィアの過失にせよ、人類の創造にせよ、グノーシス主義の物語全体が、創造主なる神に対する妬みによる「剽窃」と秩序転覆を延々と繰り返しながら、上位の神からオリジナリティを盗み、奪うことを正当化して出来上がっているとしか言えないのである。

このように、終わりなき秩序転覆が繰り返されていることに見る通り、グノーシス主義の教えは、誰かが自分よりも優れた他者を妬み、その他者からオリジナリティを盗むことで、自分がその者になり代わって、高貴な存在となり、その者の功績を倣して、歪んだ摸造としての「盗作」を生み出すという悪しき行為を言い訳し、助長するために作り出されたものなのである。

それだからこそ、この物語においては、本来であれば、オリジナリティを盗み取られて、最も憤慨して、立ち上がり、無法者の行為を罰せねばならないはずの「真の至高者」が、物言わぬ「鏡」や「虚無の深淵」と同一視されて、被造物の過失の責任を問うこともなく、最初から最後まで沈黙し続けているのである。

このことから、グノーシス主義においては、最高の存在であるはずの「父なる神」は、最初からリアリティを持たない、抜け殻のような存在に過ぎず、単なる名目だけのお飾り的な存在で、もともとオリジナリティが全くないのだと言えよう。

これまでの記事でも、「剽窃」や「贋作」や「盗作」といった概念が成立するのは、確固たるオリジナルが存在する場合だけだと述べて来たが、グノーシス主義における「至高者」は、それ自体が「鏡」であり、誰も見ることのできない深淵であるため、オリジナリティがないだけでなく、逆説的に、この「鏡」を通して、被造物が「至高者」の像を盗み取ることが可能となる。「至高者」であるはずの存在が、「鏡」とされることによって、被写体のように、「見られる対象」となってしまい、そこから「存在の流出」が起きるのである。しかも、その「至高者」は物言わぬ存在で、勝手に自身のオリジナリティを盗まれても、文句も言うことができない。

このような自己矛盾した筋書きは、グノーシス主義が、初めから「至高者の存在を盗み取る」ために生まれた物語であるからこそ、成立するのである。

さて、聖書においても、「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(ヨハネ1:18)という記述があるが、この記述の持つ意味は、グノーシス主義の主張とは全く異なる。

確かに、神を見た者はいない、という点では、聖書とグノーシス主義は共通点があるかも知れないが、しかし、聖書においては、神は独り子なるイエス・キリストを通して、ご自分を示されたのであり、クリスチャン一人一人はキリストを通して神を知ることが許されている。

ところが、グノーシス主義においては、神を見ることは誰にもできず、神を知る手段も被造物にはない。あるいは、独り子だけが神を見ることができるとしながらも、他の被造物には、独り子を通して神を知る道が閉ざされている。人類も、神を見ることはできず、神を見るためには、自分自身を見つめるしかない。このように、グノーシス主義の「父なる神」は最初から最後まで、あるかなきか分からない「フィクション」なのである。
 
だからこそ、グノーシス主義の神話のプロットにおいて、このように「神を知る」ことから疎外されている被造物には、神を知るために、結局、神を「盗み見る」しか手立てがないのである。
 
このように、グノーシス主義とは、「父なる神」を知ることから疎外された者たちが、不正な手段で、「父なる神」のオリジナリティを盗もうとすることを正当化するために作り出された教えであると言え、神の救いから除外されてしまった人々が、神から神であることを盗み取ることで自己正当化をはかるために作り出された教えなのである。

そして、そのような悪しき方法で自己正当化をはかったことの責任を問われないために、グノーシス主義は初めから、「父なる神」を物言わぬ鏡にしてしまっているのだとも言える。

とどのつまり、グノーシス主義の言う「父なる神」とは、結局、被造物の欲望を映し出す「鏡」なのであり、被造物の欲望の化身であり、偶像なのである。グノーシス主義者は自己の欲望を「神」とみなし、それを拝むことによって、自分は神と一体化しているかのように考え、実際には、拝んでいる神が、実体のないフィクションでしかなく、自分は神を知ることから疎外されているという事実を覆い隠しているのである。

以上のことを考えれば、真に「妬み」に支配されているのは、決してヤルダバオートだけではなく、グノーシス主義に登場するほぼすべての被造物、グノーシス主義の物語全体が、「父なる神」に対する妬みに基づいて作られたものである事実が見えて来よう。

このように、グノーシス主義の教えは、「神を知る」ことから疎外されている者たちが、自分たちには知ることのできない神を不正な方法で「盗み」、これを「模倣」して、自分自身を「神」とするために、聖書の父なる神に対する「妬み」によって作り出された偽りの教えなのである。


・神に疎外された者たちが、神のものを盗むために延々と繰り返す「簒奪の模倣」としてのペンテコステ・カリスマ運動

さて、以上のように考えると、グノーシス主義は「神に疎外された者たちが神を盗み取り、模倣することで、神に復讐する物語」であると言える。つまり、神を知りたいと願いながらも、神を知る道を閉ざされた者たちが、神から神であることを奪い、神を乗っ取り、自分自身が神になり代わって、復讐を果たすための教えなのだと言えよう。

そのような意味で、グノーシス主義とは、まさに悪魔によって直接息吹かれた思想であると言える。なぜなら、聖書において、悪魔は神によって創造された被造物であるにも関わらず、神に背いて、神のようになろうとしたがゆえに、反逆の罪に定められたからである。

グノーシス主義はソフィアの過失を悪とみなさず、彼女を罰しないことによって、聖書の神に背いて神以上の存在になろうとした悪魔の欲望を肯定しているのである。

以上の事を考えると、なぜペンテコステ・カリスマ運動に影響を受けた信徒らが、様々な教会や集会の中で、異常としか言えない行動に出るのかが理解できるようになる。

それは、ペンテコステ・カリスマ運動が、もともとキリスト教ではなく、グノーシス主義に由来するものであって、その中心にはグノーシス主義と同じ「簒奪の模倣」、すなわち、「乗っ取り」や「模倣」や「剽窃」の霊があるためなのである。
 
ペンテコステ・カリスマ運動の起源がグノーシス主義にあることについてはすでに幾度も論じて来たので、ここでは繰り返さず、今は具体例を見ることにしよう。

以下は、前にも説明した通り、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団(神召キリスト教会)の信徒であった鵜川貴範・直子夫妻がDr.Lukeの率いる横浜の集会Kingdom Fellowship Church(KFC)を乗っ取った時に作成したサイトである。

このサイトの更新は、2013年9月で止まっており、さすがに鵜川の肉声を記録した音声メッセージはすでに削除されているようだが、サイト自体は現在も放置されたままである。


https://kingdomfellowship.webnode.jp/
図1 当時、Dr.Lukeを集会から追い出して鵜川夫妻が作成した偽サイト。ウォッチマン・ニーの「荒野に宴をもうけ」が発信されるなど、当時の公式サイトがかなり細部に至るまで模倣されている。だが、Dr.Lukeがこの偽サイトを今日に至るまで放置していることにも、同じほど深い闇がある。

 
鵜川夫妻がこれまでにも様々なコピーサイトを作っては放置して来た事実があることは、記事で説明したが、同夫妻が、他教団の信徒であったにも関わらず、「いずれはエクソダスするつもりである」などとうそぶき、所属を隠してKFCに潜入し、メッセンジャーとなってKFCの集会を乗っ取ったこともすでに述べた。

鵜川夫妻は、それによって「神のものを盗める」と考えたのだと見られる。つまり、同夫妻はDr.Lukeに憧れ、Dr.Lukeのわざを盗み、真似することによって、自分自身が神に近付けると考えたのであろう。

しかしながら、乗っ取られた方も乗っ取られた方であり、同じほど深い虚無の深淵であったと言える。本来ならば、以上のような真似をされれば、オリジナルの所有者が出て来て、偽サイトを駆逐するための措置を取るはずである。それだけでなく、大変な迷惑をこうむったとして、他にも様々な法的措置を取り、無法者への処罰を求めて当然である。しかし、Dr.Lukeはそれを今日まで全く行っていないのである。

つまり、オリジナルの所有者が、オリジナルの所有者たる権利を全く行使しておらず、するつもりもないのである。そもそも「贋作」や「剽窃」を主張できるのは、オリジナルが存在する場合のみであるという理屈に当てはめれば、これは「偽物」であり、「コピー」でありながら、同時に、偽物でもコピーでもないということになろう。

それは、KFCという団体そのものが、実のところ、乗っ取った側と同じ、虚無の深淵からなる実体のないフィクションでしかないからである。

乗っ取られた側も、乗っ取った側と本質的に同じであったからこそ、「オリジナル」の所有者が出て来て権利侵害を訴えることができないのである。

そのことは、Dr.Lukeのミニストリーがフィクションであるだけでなく、Dr.Lukeという人物も、フィクションであることをよく物語っている。これまでの記事で、牧師という存在がみな信徒らの欲望を体現するための偶像であり、フィクションであると述べたが、Dr.Lukeという人物も、それと同じように、信徒らの願望を投影して作りだされた実体のない架空の概念でしかないのである。

Dr.Lukeのミニストリーは、その時、その時で、全く互いに相容れない異なる教えを掲げながら、次々とその看板をすげかえて続いて来た。目玉として打ち出される教えが何であれ、それらはすべてが「借り物」の域を出ないものだったのである。

そのことは、Dr.Lukeが、上記のなりすましサイトにも見られるように、かなり長い間、ウォッチマン・ニーを看板として掲げていたにも関わらず、それも一時的な「借り物」に過ぎず、現在は全く違う教えを看板として中心に据えている様子からも分かる。

KFCのミニストリーは、このように、その時々で、様々な教えをうわべだけの飾りのようにちりばめ、混合しながら出来上がって来たものである。とはいえ、その母体となるものも、明らかに存在しており、それは、鵜川夫妻が属するアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団と同じ、「異言」を伴う「聖霊のバプテスマ」を強調する聖霊派の教えである。

(Dr.LukeがKFCを創設する際にモデルとしたKingdom Feithを率いるColign Urquhartは英国のカリスマ運動に属するリーダーであり、1970年代には"When the Spirit Comes"『聖霊が降臨するとき』などの著書も記しており、そのミニストリーの有様を観察すれば、これが今日の日本のペンテコステ運動などの聖霊派のスタイルとほぼ同じであることが分かる。)
 
すなわち、KFCの土台をなすのは、その他にどれほど様々な教えを掲げていようと、あくまでアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団と同じ「異言」を伴う「霊のバプテスマ」を強調する聖霊派の流れなのである。それだからこそ、Dr.Lukeはサンダー・シングなどを読むアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の信徒が現れてこの異端の書を集会の中に持ち込もうとしても、それに反対することもなく、また、鵜川夫妻の本質的危険性を指摘されても気づくことがなかったのである。

それは、これらの聖霊派の信者らを導く「霊」が、Dr.Lukeを導く「霊」と本質的に同質だったためであろう。その他のどんな教本を読んでいるかなどの細かい差異は重要ではなく、彼らにとって重要だったのは、彼らを導く「霊」の共通性・同一性だったのである。

今日、Dr.Lukeが杉本徳久のような人物とも「遺恨を残すことは本意ではない」などと融和を唱え、村上密の活動にも異議を唱えなくなったことも、以上と同じ理由からである。この人々の思想の根底には、共通して聖霊派の教え、聖霊派の「霊」があるためなのである。そして、彼らがこれまで行って来たわざ、また、以下にも記す事柄を考慮すれば、聖霊派が強調する「霊」が、決して聖書における聖霊と同一でなく、キリストの御霊ではないことは明白である。
 
(ちなみに、Dr.Lukeは、筆者がまだカルト被害者救済活動の偽りをはっきりと知らなかった頃、筆者に向かって、杉本徳久を導く霊が、「キリストの御霊ではないと思いますよ」と、忠告して来たことがあった。そこで、筆者は、最初からDr.Lukeを導く霊が、杉本や村上を導く霊(ペンテコステ運動の霊)と完全に同一だったと言うつもりはない。おそらく、それとは異なる信仰のあり方の模索も存在していたのであろう。だが、Dr.Lukeの言動は常に二重性を帯びており、彼のミニストリーには互いに矛盾する様々な基盤が同居していたのであり、時と共に偽善性が深まった結果、最終的には、聖霊派の偽りの霊が、Dr.Lukeとそのミニストリーを占拠したのだと言えよう。)
 
もしも今日、鵜川貴範のメッセージが残っていれば、彼がその中で、単なる真似事や作り事とは思えないほどに「流暢な異言」を語っていた様子が分かるはずである。それほど流暢な「異言」は、実際に、聖霊派を知っている筆者から見ても、極めて特異なものであったと言える。

Dr.Lukeは、鵜川夫妻が登場する以前から、集会の中で異言を語ることに全く反対の態度を取っておらず、「霊の歌」などと称して、集会中に信徒が異言を語り続けることを奨励していたのであるから、聖霊派の唱える「霊のバプテスマ」の信憑性を疑ったり、鵜川の異言の出所に疑いを持つようなことは思ってもみなかったと考えられる。

KFCは、このように聖霊派の教えを土台として、その上に、アンドリュー・マーレー、オースチンスパークス、ジェシー・ペンルイス、ウォッチマン・ニーなどの霊的先人の教えをつけ加え、これらを総合的に混ぜ合わせて集会を作り出していた。

だが、本来、ペンテコステ・カリスマ運動のような聖霊派は、決して以上の霊的先人のメッセージと一致するものではない。両者は一見、キリストの御霊を強調している点で、同じような「霊の流れ」にある「霊的な教え」のように見えるかも知れないが、この二つの潮流の源流は全く異なるものである。

なぜなら、アンドリュー・マーレーにせよ、オースチンスパークスにせよ、ウォッチマン・ニーにせよ、その中心には常にキリストの十字架があるのに対し、ペンテコステ・カリスマ運動の強調する「霊」の教えの中心には、キリストの十字架が欠けているからである。
 
手束正昭氏の著書を通して、当ブログでもすでに見て来たように、聖霊派において常に強調される「聖霊のバプテスマ」とは、キリストを証するものではなく、人間自身をより高次の次元の存在へと引き上げる霊であり、人類の堕落したアダムの命に霊的死をもたらす要素を全く持たない。

そのことは、手束氏の述べている養子論的キリスト論をよく読めば、明らかになる。同氏の言う「聖霊」は、堕落した人間に過ぎないアダムの命によって生きる人類を、アセンションと同じように、何らかの方法で「改良」することにより、より高次の存在へ高めることによって、贖われていない者をあたかも贖われた者のように、さらには「神のように」見せかけ、神ではなく、人間自身に栄光を帰するため偽りの霊なのである。

その「霊」の偽りは、その「霊」が何を証するかという特徴によって顕著に見分けられる。聖霊派の信者が常に「聖霊」として強調する霊は、信者にさかんに自分自身を誇示させることはあっても、キリストご自身に栄光を帰さず、キリストが十字架で死を経られ、復活されたことを証ししない。

ジョン・R・ハイムズ著『異言の正体』には、聖霊派の強調する「異言」を伴う「聖霊のバプテスマ」の非聖書性・危険について詳しく解説されているが、その危険性をいくつか部分的に抜粋しよう。
 

それこそ異言の危険性です。異言を語る人は自分で、あるいは自分の教会だけで異言を語ることに満足しません。他の教会の信者も異言を語るように努力します。(p.4)

異言の魅力はどこにありますか。まず簡単です。異言の信者はこのように言います「異言を語ったら、すばらしい喜びを持つことができます。そして、この祝福を通してあなたのクリスチャン生活が簡単になり、あなたは罪に勝つことができます。
もしそれが本当であるならば、キリスト者は誰でも異言を語りたくなるでしょう。でもこの本で証明するようにそういう約束は聖書のどこにもありません。聖書的ではありません。(p.6)

異言は決してキリスト教のものだけではありません。1世紀にもいろいろな偶像の宗教は異言を語っていました。例えば:デルフィの宮の宗教や当時の「神秘の宗教」やグノーシス教やシリヤの女神ジュノの宗教などです。
現代にもキリスト教以外に異言を語る宗教があります。例えば、イスラム教のダービシュ聖人やヒンズー教のある聖人です。したがって、悪魔が話させる偽物の異言もあると言えます。これから勉強するように、キリスト教にも偽物の異言があります。(p.6)

カリスマの信者の目標は異言を認めない教会が異言を語るようになる、ということです。<略>カリスマ運動は教会を始めることより、他の教会のメンバーを盗むことが多いです。自分の教会を開拓しないで、福音派や根本主義者の教会に異言を伝えることが多い運動です。その態度は今まで続きますから、カリスマ運 動は多くの教会のけんかや分裂をさせてしまったことがあります。その理由だけで霊的にとても危ない運動です。(pp.8-9)

 

この最後の部分、「カリスマ運動は教会を始めることより、他の教会のメンバーを盗むことが多い」という指摘は極めて重要である。もちろん、これはカリスマ派のみならず聖霊派全体に
共通する特徴であるが、彼らには、「自分の教会を開拓しないで、福音派や根本主義者の教会に異言を伝えることが多い」という特徴があるのだという。

つまり、すでに出来上がった土台を有する他の教会に入り込み、そこで異言の重要性を解くことによって、その教会のメンバーを奪い去り、分裂をもたらすという行動が、聖霊派の信徒にはパターン化している様子が分かるのである。

鵜川夫妻がKFCでやろうとしたことも、まさにそれに当てはまる。つまり、この夫妻が行ったことは、まさにペンテコステ・カリスマ運動の信者に典型的な行動だったのである。

彼らは、クリスチャン・トゥデイの記事にも記されているように、早くから、路傍伝道を日常的に行っていたが、そのことからも、彼らが自分の影響力を、所属教会の許可なく、所属教会の枠組みを超えて、可能な限り、外へと押し広げようとしていた様子が見て取れる。

通常、教会が行う路傍伝道は、信徒らがチームを組んで、予め立てた計画に沿って行われるもので、所属教会の許可を得ずに、信徒の独断で行われることはまずない。しかし、彼らの場合は、あたかも自分の中にある抑えがたい情熱を定期的に外へ吐き出さずにいられないとばかりに、時間も場所も計画せずに、自分の心の赴くままに公共の場所へ出かけ、突如として、そこで通行人に向かって語り出すというスタイルであった。
 
その「伝道」が、所属教会の許可のもとに行われていない以上、仮にそうしたメッセージに耳を傾ける者が出て来たとしても、その魂が教会に導かれることはなかっただろうと思われる。

つまり、その「伝道」は、人々の救いのために行われたものでは決してなく、ただ聖霊派の信者が、自分の抑えがたい情熱を外へ吐露し、自分自身の欲望を満たす目的のためだけに行われていたのである。

ジョン・R・ハイムズ氏の記述からも分かるのは、ペンテコステ・カリスマ運動の信徒らには、自分が正しいと信じていることを他者にも押しつけねばならないという身勝手な思い込みのもと、秩序をわきまえず、独断的で専横的な行動を繰り返し、他教会に潜入したり、人々の生活に望まれもしないのに介入・干渉して行って迷惑をかけたり、分裂をもたらすというという特徴が共通して見られるのである。

聖霊派の信者が、「異言を語ったら、すばらしい喜びを持つことができます。そして、この祝福を通してあなたのクリスチャン生活が簡単になり、あなたは罪に勝つことができます。」などと自己宣伝しているように、聖霊派が強調する「異言」や「聖霊のバプテスマ」は、確かにそれを受けた信者に、それに病みつきになるような何らかの恍惚体験を与えたり、その信者が、通常人の域を超えて、周囲の人々に異常な影響力を行使することが可能になるような、何かしらの超自然的パワーを与えているのであろう。

その「霊」を受ければ、「神のように高次元の存在に引き上げられ、質の高い人生を送れる」という謳い文句は、単なる虚偽ではなく、そこには、実際に悪霊に由来する力が働いて、その「霊」を受けた人間が、何らかの異常な超自然的なパワーを得ている可能性は十分に考えられる。

だが、仮にそうしたことがあったとしても、その「霊」の本質が、キリストの御霊では決してない以上、その霊が結ぶ実が良いものとなることも決してない。それは、神から来た霊ではなく、以上で見て来たように、むしろ、神に反逆する悪魔的グノーシス主義に由来する「悪しき模倣の霊」であるからこそ、自分では何も生み出そうとせずに、他者の功績を盗み、他教会を乗っ取って信者を奪い去ったりして、分裂をもたらし、神を崇めると言いながら、自分自身を崇め、自己に陶酔するだけのナルシシズムの霊なのである。
 
その「霊」がクリスチャン生活を単純化し、罪に勝つ力を与えるなどという謳い文句も、偽りであって、錯覚でしかない。 実際には、聖霊派の出所不明の「異言」をもたらす怪しい「霊」を受けた信者は、自分に麻薬のような恍惚体験をもたらしてくれる「異言」にやみつきとなり、自己満足するために、ところかまわず「異言」を語っては、秩序を壊さずにいられなくなったり、その「霊」の悪しき影響によって、善悪の感覚や、良心や、罪悪感が麻痺させられるため、罪を犯しても罪と思わなくなり、それによってあたかもクリスチャン生活が単純化されて、自分が清められて、聖なる者になったかのような錯覚を抱くだけなのである。

それはちょうど重症のけが人や、重篤な患者が、麻酔薬のおかげで自分は健康になったと錯覚するようなもので、そうして痛みを無視して動き回ったことのツケは後になってすべて跳ね返って来るが、ペンテコステ・カリスマ運動の信者の場合、その破天荒な行動によって、本人よりも周囲の者たちが著しい迷惑をこうむるのである。

こうして、聖霊派の信者らが、悪しき「霊」を受けた結果、自分があたかも聖なる存在であって、自分の考えることはすべて正しいかのような思い込みに陥り、他者の人生に不当な干渉を繰り返しては、害を及ぼすという異常行動は、ただ「伝道」という名目だけでなされるのではない。

たとえば、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師が、被害者を募っては、他教会に裁判をしかけ、他教会の運営に介入するカルト被害者救済活動をライフワークとしているのも、教会に分裂をもたらし、信徒を奪い去り、「神のものを盗む」ために行われる「簒奪の模倣」なのである。

また、杉本徳久を代表として、ペンテコステ運動をすでに出たにも関わらず、依然、村上のカルト被害者救済活動を支持することで、ペンテコステ運動の影響をひきずり続ける「信者」らが、無関係の赤の他人にまで、不当な干渉を延々と繰り返し、自分の考えを押しつけ、従わせようと試みたり、他人のブログの趣旨を歪めるために、ダミー記事を作ったり、他人の文章や写真を剽窃したりしているのも、まさに「簒奪の模倣」の霊による。

むろん、彼らが信徒らの公開されていない情報を入手しては、それを次々と暴露するような行為に及んでいることも、「自分には知ることの許されていない神の像を盗み見ることで奪い取ろうとする」グノーシス主義の「簒奪の模倣」の欲望に基づいてなされていることなのである。

これらのことは、次回以降でも詳しく論じるが、すべて聖書の「父なる神」の教えに従わず、キリストの十字架によらないのに、神に等しい存在となろうとして、真にキリストに従う信者たちから、神に属する性質を盗み取り、それによって、自分自身が「神になり代わろうとする」グノーシス主義の霊が引き起こしている現象なのである。

このように、ペンテコステ・カリスマ運動の起源は、グノーシス主義にあるため、信者はこの運動と訣別しない限り、以上のように人格を破壊されながら、支離滅裂な行動に出て、神と教会とクリスチャンに反逆する者となって行くことを避けられない。

だが、極言すれば、牧師制度そのものがグノーシス主義的起源を持つものであるから、Dr.Lukeであろうと、村上密であろうと、ゴットホルト・ベックであろうと、鵜川貴範であろうと、ベニー・ヒンであろうと、他のリーダーたちであろうと、誰であれ、自分の気に入った教師たちを立てては、そのメッセンジャーに群がろうとする信徒は、結局のところ、自分自身の欲望と霊的姦淫を重ねているだけなのである。

だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい。」(Ⅱテモテ4:3-5)


「イゼベルの霊」(異教的母性崇拝)に支配される「神の家の乗っ取り運動」としてのペンテコステ・カリスマ運動(3)

・「父なる神」の概念を、被造物の都合によって生まれる擬制的な存在(フィクション、偶像)に変えてしまうグノーシス主義がもたらす悲劇

さて、旧約聖書の創世記においては、「神は自分のかたちに人を創造された。」(創世記1:27)とあるように、人類は父なる神に似せて創造されたことが記述されている。

だが、人類は罪によって堕落したために、父なる神から切り離され、「父」を喪失してしまった。そのため、人類は「失われた父」を取り戻すために遍歴を重ねており、完全なアイデンティティを回復するためには、キリストの贖いを受け入れて、御子を通して、まことの父を知るしかない。

つまり、堕落した被造物である人類が、いかにして「失われた父」へ回帰するか(逆に言えば、「父なる神」の側からも、いかにして失われた人類を取り戻すか)が、聖書の中心的なテーマなのだが、このテーマは、グノーシス主義においても、ある程度共通する。
 
それぞれのグノーシス主義文献の神話的なプロットに見られる無数の細かい差異の話などは、今はすべて脇に置いておくことにして、大きく見れば、グノーシス主義においても、人類が「父なる神」に似せて創造されたという事実は否定されていない。

さらに、人類が「父なる神」の似姿として創造されたにも関わらず、「父なる神」から切り離されて、「父を喪失」していることが、人類の悲劇の根本原因となっている、という認識も、グノーシス主義と聖書において、大筋では共通していると言えるだろう。

さて、人類が「父なる神」に似せて創造されたというとき、そこで使われる「似せて」という言葉は、何を意味するのかを考えてみよう。

創世記1章26-27節にはこうある。

神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。
神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。」

聖書は、こうして人間が、神の「かたちに」、神に「かたどって」創造されたと述べ、人間が神の「似姿」であるとする。

このことをグノーシス主義では「似像」という言葉を使って表現する。その「似像」とは、ちょうど鏡に映し出された姿や、水に映った姿と同じ「反映」である。
 
グノーシス主義も、「父なる神」(真の至高者)は、物質的な世界ではその姿形を捉えることのできない、目に見えない存在であるとしているが、人間は、その目に見えない至高の神が、自分自身の姿を、あたかも水面や鏡に映し出すようにして、目に見える世界に映像のごとく映し出すことによって出現したものであると言うのである。

このような表現は、たとえとしてはよく出来ている。グノーシス主義は、人類が目に見えない「父なる神」の似姿であり、影のような存在であるという事実を認めている点では、聖書の記述からそれほど遠くないと言える。

なぜなら、聖書においても、被造物全体は、キリストという本体の「影」であるとしているためである(コロサイ2:17)
 
だが、しかし、それでは、グノーシス主義の「似像」のたとえを、聖書にも通じる概念として、聖書に逆輸入できるかと言えば、それは無理である。なぜなら、グノーシス主義においては、霊的な世界と物質的な世界とが、どこまで行っても交差しないものであって、霊的な世界から物質的な存在を造りだすことのできる方は、神以外には誰もおらず、その逆は決してないという点が考慮されていないからだ。

聖書の記述において、「神は霊である」(ヨハネ4:24)一方、人類は、創造された時点においても、堕落した後も、キリストによって再生されない限り、この世の物質的存在の域を出ない、霊的な世界と全く接点を持たない者である。

アダムには創造された時点で、神に由来する「息」が吹き込まれていたが、それは、被造物としての動物的生存のレベルの命ではあっても、神の霊ではなかった。

キリストの贖いを受け入れない限り、人間の霊は死んでいるか、悪霊のとりこになっているかであって、人間は霊的存在としての意味を全く持たない。(悪霊の世界に対して扉を開いていると言うことは言えるかも知れないが、神の霊とはいかなる接点もない。)

そこで、人類が「父なる神」の目に見えない姿を、目に見える世界に映像として映し出すことによって創造されたというグノーシス主義の表現を、そのまま聖書に当てはめようとすれば、いくつものおかしな破綻や矛盾点が生じることになる。

まず、そのように考えるためには、霊的世界の存在を物質的世界の存在に映し出し、変換するための装置として、「鏡」や「水面」のような媒体が存在すると仮定しなくてはならないが、一体、その「鏡」とは何なのかという問いが生じよう。

聖書の記述を読む限り、神の創造は、すべて神ご自身によって完結してなされたものであり、神がご自分の御思いを表すために、ご自分の外に、ご自分の御思いを映し出す鏡のような媒体を必要とされたという記述はない。聖書には、霊的世界と物質的世界の架け橋や、変換装置となるような媒体は一切、存在しない。
 
聖書において、霊的世界と物質的世界の架け橋となる存在があるとすれば、それは人格や意志を持たない「鏡」や「水面」といったような媒体ではなく、神と人との唯一の仲保者であり、人となられたイエス・キリストご自身、さらに今日、キリストと共に霊的に十字架の死と復活を経て神に対して生きるクリスチャンこそ、霊的な世界と物質的な世界の両方に生きる架け橋的な存在(天地の人)だと言えるのである。

さらに、もしもグノーシス主義のように、霊的な世界を物質的な世界に映し出すことのできる、意志を持たない「鏡」のような媒体があると仮定すると、「神は見られる対象なのか」という、厄介な問題が持ち上がることになる。

なぜなら、「鏡」というものは、誰かが自らの意志でそれを用いて自分自身の姿を映し出すことができると同時に、必ずしも本人の意志に関係なく、自動的に対象となる存在を映し出してしまうからだ。

もしも霊的存在である神が、自分自身の姿を「鏡」に投影して、被造物を生み出すことができると仮定するならば、神は「鏡」を通して創造する者であるだけでなく、「鏡」を通して被写体のように「見られる」対象だということになる。

そうなると、「鏡」の持つそのような双方通行性を利用して、物質的世界にいる何者かが、「鏡」を通して、霊的存在である神の似姿を「盗み撮る」ことも可能だということになる。
 
「盗み撮る」などという不届きな意志がなくとも、神の似像が自動的に「鏡」に映し出されることによって、神の意志とは関係なく、どんどん物質的世界に流出して行くという現象が起きうるのである。

ここに、グノーシス主義の神話的プロットに満ち溢れる「神的な存在の流出」という概念の源がある。

グノーシス主義においては、「父なる神」は誰も見ることのできない存在であるという。ところが、同時に、以上のような「鏡」の存在を仮定することによって(グノーシス主義では「父なる神」自身が「鏡」のような深淵であると定義される)、実際には、「見ることのできない」はずの「神」の似像が、神の意志とは別に、どんどん流出し、神的存在(グノーシス主義においてはアイオーンと呼ばれる)がほとんど無限に作り出されるのである。
 

「グノーシス主義の多くの神話によれば、世界の始原においては、絶対的存在者である至高神、すなわち「父なる神」が、ただ一人で存在している。そして至高者は、何らかの仕方で自分自身の「分身」を発出するのである。<略>

キリスト教教父のエイレナイオスによれば、ヴァレンティノス派のプトレマイオスという人物は、その教説を次のように説き始める。

(ヴァレンティノス派は、)不可視で名づけることのできない高みに、潜在した完全なアイオーンなるものがあると言い、これを「原初(プロアルケー)」とも、「原父(プロパトール)」とも、「深淵(ビュトス)」とも呼ぶのである。(エイレナイオス『異端反駁』I.1.1)

このようにヴァレンティノス葉は、至高神のことを「原父」と呼んでいる。それは確かに「父なる神なのだが、しかしただの「父」ではない。それはあらゆる父的存在の原型となるものであり、ゆえに「原父」と呼ばれるのである。

 同時に至高神は、「深淵」とも称される。先に見た『ヨハネのアポクリュフォン』においては、至高神は「霊の泉」のなかに自分自身の姿を見たのであるが、ヴァレンティノス派において至高神は、この「泉」自体と同一視されている。父なる至高神は、森の深部に潜み、その奥底を見通すことができない「深淵」のように、秘められた存在なのである。

 しかしあるとき、その「深淵」に、一条の光が差し込む。そして、水面のきらめく反射によって周囲に光が溢れ出すように、「深淵」から数々のアイオーンたちが流出するのである。同じくヴァレンティノス派に属すると見なされている『三部の教え』というテキストでは、後に触れるように、父なる至高神のことが「水がどれほど溢れ出ても尽きることがない泉」と称されている。このように至高神とは、そこから万物を流出する「泉」であり、同時に万物を映し出す「鏡」そのものなのである。」(『グノーシス主義の思想<父>というフィクション』、大田俊寛著、春秋社、2009年、pp.123-125)


グノーシス主義においては、このように「父なる神」である「至高者」の像が絶え間なく流出して、無限とも言える神々が造りだされるが、そうこうしているうちに、不正な流出事件も起きる。大田氏はこれを「模倣による簒奪」、「模倣による剽窃」と呼ぶ。

グノーシス主義の神話のプロットにおいて、最下位の女性人格であるソフィアが、「至高者」を知りたいという、分不相応な欲望を抱いた結果、単独で神を知ろうとして失敗し、醜いヤルダバオートを生むという事件がそれに当たる。彼女は、「至高者」の像を不正に「盗み見よう」とした結果、歪んだ似像を生み出したのである。

だが、そのようなプロットも、そもそも至高者の存在が、もし誰かが盗み見ようとすれば、あたかもそれが可能であるかのように、「鏡」のような深淵であると定義されることなしには、成立し得ないものであったと言えるかも知れない。
  
このように、グノーシス主義における被造物の創造は、あたかも水面に光が反射するような受動的な「神的存在の流出」によるのであり、時には、創造主の意志を超えて存在が流出することさえあるのに対し、聖書における「父なる神」による被造物の創造は、すべてが神の意志に基づいた、主体的で能動的な命令の結果である。

聖書においては、被造物は決して神の意志の範囲を超えて誕生することはなく、グノーシス主義の言うような、受動的な「存在の流出」はない。

さらに、聖書においては、創造主と被造物との間には絶対的な主従関係があり、被造物には生み出された後も、存在している限り、創造主の意志に従う義務がある。創造主は確固たる人格を持った存在であり、決してグノーシス主義の言うような、意志を持たない沈黙する「鏡」ではない。そして、創造主は被造物の違反を沈黙して見逃したりすることはなく、被造物は絶対者である神に背いたがために、堕落し、滅びに定められたのである。

このように、聖書において、創造主である神の意志は絶対であり、被造物は決して創造主の意志や許しの範囲を超えて自らの存在を主張したり、保つことができない(そのようなことをすれば結果的に破滅するだけである)。

だが、グノーシス主義における「至高者」は、聖書の「父なる神」のような絶対的な意志を持つ存在ではなく、それゆえ、グノーシス主義においては、絶対者の意志に背いた被造物が罪に定められたり、罰せられることはない。人類が父なる神に背いたがために、神と断絶したという事実も全く認められていない。

しかしながら、以上に記したような、看過できない重大な差異をすべて脇に置いて、大筋だけを見るならば、グノーシス主義においても、人類は真の至高者の影のような「似像」であるがゆえに、「本体」である「父」と共にいなければ、存在意味が完全でなく、それにも関わらず、「父を喪失」したことが、人類の悲劇の原因となっているということは、ある程度、認められている。

そうした意味で、グノーシス主義においても、人類は、自己の同一性を、初めから「父なる神」に担保されているのであり、それにも関わらず、本体である「父」を見失い、自分のルーツを喪失していることが、人類の悲劇の原因なのである。

そこで、聖書においても、グノーシス主義においても、人類がいかにして「喪失した父」を取り戻し、「父に回帰する」ことができるか、という問題が焦眉の課題であり、それによらなければ、人類は自分が一体、誰を模して創造されたのか、何のために創造されたのか分からず、自分の存在意義を見失ったまま、意味のない人生を生きるしかないという認識は、大筋では、共通していると言える。
 
しかし、結論から言ってしまえば、グノーシス主義は、「神は不可知である」と定義することによって、人類が自らの創造主を知って「父なる神」に回帰する解決の道を自ら閉ざしてしまう。

人類には、母のルーツと、父のルーツがあり、母のルーツは、常に明白で、人類の「母」は人類である。つまり、人類は、目に見える被造物として、自分と同じ目に見える人類という被造物を「母」として生まれる。肉なる人類は、肉なる人類からしか生まれない。(「母」という言葉自体が、被造物を象徴する。)

しかし、人間の誕生の際、DNA鑑定などの手段のなかった昔には特に、父が誰であるかを証明することは難しかったように、人類にとっても、「母」のルーツは常に議論の余地なく明白であるにも関わらず、「父」のルーツはより精神的で見えないつながりを意味し、それを証明するためには、「母」とは異なる、より複雑な内的証明手段が必要とされるのである。
 
そのように「父」を証明することは単純でないにも関わらず、人類にとってより重要なのは、動物的生存のレベルの「母」のルーツではなく、見えない精神的なルーツとしての「父」である。なぜなら、「父」のルーツは、創造主へと続くものであるから、「母」のルーツに比べて、圧倒的に高貴であり、それを発見するときに初めて、人類は、動物的生存のレベルを超えた完全な在となる可能性を持つことができるためである。

ところが、グノーシス主義は、「父」という存在を「フィクション」にしてしまうことによって、事実上、人類には父に回帰する道がない、という結論に自動的に行き着いてしまうのである。

グノーシス主義における「父なる神」とは、万物を生み出す根源となる「真の至高者」であるが、グノーシス主義において、その「至高者」は、あまりにも崇高な存在であるために、言葉によっても形容できず、感覚によってとらえることもできない、誰も見ることのできない虚無の深淵であり、不可知的存在であるとされる。
 

グノーシス主義によれば、父なる神は「鏡」として存在しており、それ自体を認識することができない。父なる神からは、鏡のなかに束の間に浮かび上がる仮初の像のように、見せかけの姿を呈した数多くの神々が流出し、そして彼らは、可視的世界においてさまざまな交流と相克を展開し続けるのである。こうしてグノーシス主義は、彼らなりの仕方で、この世界にはなぜかくも多くの神々の形象が溢れかえっているのか、そしてその状況のなかで「真の父」の存在が見失われてしまうのかということを、明らかにしようと試みたのだった。」(同上、p.175)

グノーシス主義では、すべての被造物が、根源的には「至高者」によって創造されたことになっているものの、それぞれの被造物がどれくらい至高者に近い存在として創造され、どの程度、至高者を知ることができるかによって、被造物の間にヒエラルキーが定められる。
 

「「深淵」として存在する至高神から、アイオーンの神々が流出することによて成立する世界は、「プレーローマ(充溢)」と呼ばれる。プレーローマ界は、光と美によって満たされた、精神の充溢界なのである。<略>

 それでは、完全無欠の世界として成立したはずのプレーローマ界に、どのような理由で亀裂が発生することになるのであろうか。一言で言えばそれは、神々のあいだに立ち現れる「競合」の関係である。

 これまでに述べてきたように、プレーローマ界に住まうアイオーンの神々は、すべて「深淵」である至高神から流出する。しかしながら、それゆえにすべてのアイオーンが平等の立場にあるかと言えば、実はそうではない。「(原)父」である至高神を見ることができるか、またそれによって自分自身を知ることができるかということに応じて、アイオーンたちのあいだには、暗黙のうちにヒエラルキーが設定されているのである。」(同上、p.126)


 そのため、「至高者」に創造されながらも、「父を知らず」、それゆえ「自己を知ることのない」アイオーンたちが数多くいる。そして、ある神話的プロットでは、「独り子」だけには「至高者」を知ることができる資格が与えられているが、それ以外の者には、人類も含め、一切、「至高者」を知る手立てはないとされる。
 

「このようにヴァレンティノス派の教説によれば、プレーローマ界を構成する数々のアイオーンたちのなかで、父を知り、また自らを知っている者は、「独り子(モノゲネース)(別名は「叡知(ヌース)」と呼ばれるアイオーンのみであった。「父」は「子」のみによって知られ、そして「子」だえけが、父の存在を表すことができるのである。すなわち、「父」と「子」のあいだには、鏡像的かつ想像的な一体性が特権的に確保されており、そしてその他のアイオーンたちは、このような完全な一体性から疎外されている。「他のアイオーンたちは、(子と)同じように自分たちの種子を流出したものを見たい、また初めのない根を観察したいと、密やかに憧れていたのだった」(エイレナイオス『異端反駁』I.2.1)。

アイオーンたちのなかで、このような欲望をもっとも激しく抱くようになったのは、『ヨハネのアポクリュフォン』の物語と同様に、末娘のアイオーンである「知恵(ソフィア)」であった。ソフィアは、自分も至高神から生み出されたアイオーンであるのに、どうして「独り子(ヌース)」と同じように父を知ることができないのかと憤り、彼に対して嫉妬の感情を抱く。」(同上、pp.128-129)


 このように、グノーシス主義の矛盾や悲劇は、「万物の創造の根源となる至高者は確かに存在する」として、その至高者からほとんど無限とも言える神々の流出を認めながらも、同時に、その「至高者」は被造物の側からは不可知であって、ヒエラルキーに応じてしか知ることができず、「独り子」なる存在の他には、ほとんどすべての被造物に見ることができず、知ることもできない存在であるとして、あらゆる被造物を「父なる神を知る」ことから締め出し、疎外していることに起因する。

最下位の女性人格であるソフィアだけが、大胆にもその禁を破って、自ら至高者を知ろうとするのだが、彼女の試みは失敗に終わる。それは当然である。なぜなら、グノーシス主義における至高者とは、誰にも自分を開示することのない虚無の深淵だからである。

以下の大田氏の指摘は、驚くほどに正鵠を射たものではないかと筆者は思う。
 

さて次に、「独り子」以外には知りえないという「父なる神」の姿を、ソフィアは一瞬であるとはいえ垣間見たわけであるが、その姿は果たしてどのようなものだったのだろうか。

 その答えとは、おそらく先に見たように、父とは「深淵」であり、「鏡」である、ということであるように思われる。やや積極的な解釈を試みるとすれば、父が不可視であるということは、鏡そのものが不可視であるということに等しい。いくら鏡をのぞき込んでみても、そこに映っているのは鏡をのぞき込んでいる自分自身にすぎず、「鏡そのもの」を見ることはできないからである。

 ソフィアがそこに見たものを想像してみよう。ソフィアが見たものは、自分自身の姿であると同時に、鏡という「無」であった。ソフィアはナルキッソスと同じように、自分自身の姿の美しさ、その甘美さに酔いしれる一方で、それがいくら手を伸ばしても自分のものにすることができない「虚無の深淵」であり、手に入れようとして深く身を伸ばせば、「死」のなかに飲み込まれてしまうということを知ったのではないだろうか。オウィディウスがナルキッソスの物語で描き出したように、自己愛の甘美さの裏には、死の棘が潜んでいるのである。」(同上、pp.132-133)


 このように、グノーシス主義は、人は神に似せて創造されたとしながらも、「至高者」の存在を「鏡」や「深淵」にたとえ、「至高者」を知ることのできない存在とみなすことによって、被造物が「至高者」を知るためには、自分自身を見つめるしか手段がなくなり、その結果、見えない「至高者」よりも、その影として生まれたに過ぎない「被造物」の方が、あたかも確かなリアリティであるかのように関係が逆転してしまうのである。
 
グノーシス主義においては、こうして見えざる存在である「至高者」と見える存在である被造物との唯物論的な関係の逆転が起こり、人類が「神を知ろう」と思えば、神の似像として造られた自分自身を見つめるしかないため、人類は自己の内に神を探しつつ、歪んだ自己愛に溺れ、結局、神を得られず、絶望の中で苦悶するしかないというトートロジーに陥るのである。そうした支離滅裂なトートロジーの結果として起きたのが、ソフィアの過失であり、ソフィアによって生まれたヤルダバオートが作り出した出来そこないの下界であり、今日も、グノーシス主義的な考えに立脚して神を探求することは、自分自身の内に神を探求することを意味するから、そのようなことを企てる者は誰であれ、結果として、水面に映った自分の姿に恋い焦がれて死んだナルキッソスと同じように悲劇の運命を辿るしかないのである。
 
だが、一体、なぜこんな愚かしいトートロジーが生まれるのであろうか。そもそもグノーシス主義はなぜ「真の至高者」をこんな風に不可知的深淵であると定義しているのであろうか。

大田氏はその謎を解く鍵を、古代社会に求める。古代社会おいては、父という存在が、生物学的にはきわめて不確かな存在であり(父方のルーツは証明不可能であり)、しかも、子供の死亡率が高かったため、「養子制度」の需要も高く、そうした時代には、家族を生物学的な絆にとらわれてとらえることのメリットが薄く、それゆえ、より流動的で融通の効く家族制度を作り上げるために、父子関係を、生物学的なつながりに必ずしもとらわれない、儀礼的なものとみなす必要があったのであり、その結果、生物学的な絆ではなく、言語表明(宣誓)によって作り上げられる儀礼的な父子関係を中心として、家族制度が作り上げられて行ったのだと主張する。
 

古代社会の宗教において、父と子の関係を成立させるのは、母子関係のような生物学的事実ではなく、むしろ「宣誓の言葉」という儀礼的行為であった。すなわち、生まれてきた赤子に対して、「これは私の息子(娘)である」と父親が宣言することにより、正式な父子関係が成立すると見なされたのである。

このような宣誓行為は、古代の宗教における中心的な行事の一つであった。すなわち、子供はただ母親から産まれてきただけでは家族の一員となることはできず、父親によって司られた祭祀において、正式な成員として承認されなければならないのである。」(同上、pp.34-39)


こうして、大田氏は、古代社会においては、子供はただある家族のもとに生まれて来たというだけの理由では、または、父や母と生物学的な絆を有するというだけの理由では、子として認められず、父親が「わたしの子である」と宣誓することによって、初めて生きた父子関係が成立したのだと言う。

ここまでならば、ある程度、聖書においても、同様の原則が見られると言えるかも知れない。

なぜなら、聖書においても、人類は生まれながらにして神の子供とは認められないからである。人類は父なる神に似せて創造されはしたものの、罪に堕落して神と断絶したため、キリストの贖いを信じて受け入れ、水と霊によって生まれなければ、神の子供とはならない。

そして、聖書の父なる神と人類との間で結ばれる父子関係は、極めて排他的なものであって、人の側から、神の側からの双方の「宣誓」が必要となり、人間の側からの宣誓としては、己が罪を認め、これを悔い改め、キリストの十字架の贖いを信じて受け入れると告白し、この世と分離し、父なる神の御心に背く一切のものからの分離としてのバプテスマを通過しなければならない。

「だから、あの者どもの中から出て行き、
 遠ざかるように』と主は仰せになる。
 『そして、汚れたものに触れるのをやめよ。
 そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
 父となり、
 あなたがたはわたしの息子、娘となる。
 全能の主はこう言われる。」(Ⅱコリント6:17-18)

このことを、主イエスご自身が、人類の代表として、バプテスマのヨハネから洗礼を受けることにより証明された。

「イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのをご覧になった。そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。」(マタイ3:16-17)

イエスは聖霊によって生まれたので、最初から神の独り子であったにも関わらず、人類の代表としてバプテスマを受けることにより、霊的死を通って、堕落したアダムに属する自分自身も含め、神の忌み嫌われる一切のものと分離し、神に属する新しい命によって復活されたことを象徴的に表されたのである。その時、初めて、天が開けて、父なる神の御許から聖霊がイエスに降り、イエスが神の御心にかなう、神の子供であることが、周りの人々にもはっきりと分かる形で、父なる神によって宣誓された。

このように、聖霊によって生まれたイエスでさえ、バプテスマという霊的儀礼を通過することによって、初めて、父なる神から「わたしの子である」という公的な承認を受けたという点では、大田氏が指摘しているように、父子関係は「宣誓」によって初めて確かなものとなるという主張は、聖書からそうかけ離れて遠いものではないと言えるかも知れない。
 
パウロも、選民であったユダヤ人をさし置いて、異邦人に救いが最初に宣べ伝えられ、かつては神の民とは認められなかった異邦人が、救いを受け入れることにより、神の側から「わたしの子である」と、承認されたことについて、次のように述べた。これも信仰に基づく「父」と「子」の双方からの「宣誓」であると言えないこともないかも知れない。
 
「神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出して
くださいました。ホセアの書にも、次のように述べられています。
わたしは、自分の民でない者をわたしの民と呼び、
 愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。
 『あなたたちは、わたしの民ではない』
 と言われたその場所で、
 彼らは生ける神の子らと呼ばれる。」(ローマ9:24-26)

以下の詩編も、直接的にはキリストを指すとはいえ、救いを受け入れ、水と霊によって新しく生まれたすべてのクリスチャンに当てはまる神の側からの宣誓である。

主はわたしに告げられた。
「お前はわたしの子
 今日、わたしはお前を生んだ。
 求めよ。わたしは国々をお前の嗣業とし
 地の果てまで、お前の領土とする。
 お前は鉄の杖で彼らを打ち
 陶工が器を砕くように砕く。」」(詩編2:7-9)

このように、聖書においても、父なる神とその子供たちとの関係は、生まれながらの生物学的な絆(肉による絆)によるのではなく、信仰による双方からの宣誓に基づくものである。人間の側からも、キリストの救いを受け入れ、神の御心に背く一切のものと分離して、バプテスマによって霊的死を通り、キリストの命によって新しく生まれたことを宣言すると共に、神の側からも、その信仰による表明を受け入れて、その人間を信仰を通じて神の子供として承認するという宣誓により、霊的父子関係が成立するのである。

だが、そこから先、グノーシス主義と聖書における記述では、この「父子関係」を巡る態度が決定的に分かれる。グノーシス主義は、こうして成立した父子関係を、生物学的な絆に基づかず、物理的に立証不可能な儀礼的なものであって、それは家族や社会に秩序を与えるために便宜上、造りだされた概念に過ぎないため、本質的には「フィクション」であると結論づけることにより、聖書とは正反対の結論へとたどり着く。

聖書においては、信仰によって宣誓された父子関係は、決して人間社会を保たせるための便宜上の絆ではない。それは生物学的な絆を超越して、永遠のリアリティとして効力を発する、父と子との排他的な結びつきであり、神の側からの無償の愛と人間の側からの従順による強力な人格的な結びつきである。

それに引き換え、グノーシス主義は、儀礼的な祭祀を通して言語による宣誓によって表明された父子関係は、あくまで社会を保たせるための便宜上の絆であり、「擬制的なもの」「パフォーマティブなもの」、要するに、実体の伴わないフィクションだと言うのである。

大田氏は、古代社会において、父子関係は、生物学的な絆にとらわれず、家族制度を維持するために便宜上、作り出された儀礼的・擬制的なものであったということを根拠に、「父とは擬制(フィクション)的な存在である」と言い切るだけでなく、古代社会における「父」の概念は、そもそも、死者(先祖)を神として祀る家制度の中で、「神聖な始祖」々から先祖代々に受け継がれる「神聖な血統(火花)」を継承するという「神話」に基づいて作り出されたものであり、「神聖な始祖」自体が虚構の概念である以上、そのような「神話」を継承するために造りだされた「父」の概念も当然ながらフィクションだと言うのである。

さらに大田氏は、そこからすすんで、「父」とは「フィクションを創設することによって、人間社会を統御する者」であると定義し、古代社会の家族制度におけるフィクションとしての「父」の概念が、その後、発展して、共同体社会や都市国家の基礎になったのだという。
 

「それでは「父」とは、一体何だろうか。端的に言えばそれは、フィクションを創設することによって、人間社会を統御する者である。すでに述べたように、父と子の関係は、「お前は私の息子(娘)である」という儀礼的宣誓、すなわち、パフォーマティブな言語行為によって創設される。これを言い換えれば、そのような言語行為が行われる以前、子供が子供でないのと同様に、父もまた父ではない。父はその子と同じように、言語によって創設されるのである。

 しかし、父が擬制的な存在であるというのは、このような意味においてのみではない。そもそも彼が、新しく生まれた子を家族の成員として承認するという権限を持つと見なされるのは、どのような背景に基づいているのだろうか。それは彼が、家族の「神聖な始祖」から「生命の火花」を継承していると考えられていることによる。そしてこの「神聖な始祖」は、先に述べた通り、普段は先祖代々の墓に眠っているのだが、神聖な篭に火が灯されると、現世へと来臨する。すなわち、真の意味で「父(パーテル)」と呼ばれるにふさわしいのは、現実世界に存在しているわけではない、この「神聖な始祖」という虚構の人格、虚構の存在者なのである。」(同上、pp.41-42)


 このように、大田氏が古代社会の家族制度や都市国家の成立とグノーシス主義における「フィクションの父」という概念を結びつけていることは、非常に興味深く、的を射ているのではないかと思われる。
 
だが、それは聖書における「父なる神」と神の子供たちに当てはめることのできる概念ではない。以上のような分析を通して、はっきり分かることは、グノーシス主義における「父子関係」と、聖書における「父子関係」は、それが一体、誰のために結ばれる関係なのか、という点で、完全に異質であり、全く逆の方向を向いていることである。

聖書においては、父なる神は、失われた人類を滅びから救い、罪から贖い出すことを願っておられ、その神の御心に気づいて、これに応答してキリストの十字架を信じて受け入れた人々が、神の子供とされる。それは「初めの愛」にもたとえられるように、当事者同士の強力な個人的な結びつきであって、あくまで当事者の利益のために結ばれるものであって、決して、当事者以外の周囲の人々のために便宜をはかったり、人類社会や家制度を存続させる目的で生み出される絆ではない。

しかし、グノーシス主義における「父子関係」は徹底して、当事者である「父子」のために結ばれるものではなく、むしろ、「神聖な始祖」というフィクションに基づき、当事者以外の人々、先祖、家族、家制度、共同体、人間社会の秩序を保ち、人間社会に便宜をはかるために結ばれる絆なのである。そうであるがゆえに、それはどこまで行っても、真実からはほど遠く、人間の威信を保ち、社会の秩序を成り立たせるために便宜上、作り出された「神話」の一部であり、「フィクション」なのである。

そのことを考えれば、なぜグノーシス主義における「至高者」が「鏡」や「虚無の深淵」にたとえられ、不可解かつ不可知な存在であって、聖書の「父なる神」のように、はっきりした人格や意思を持って、物事に善悪の区別をつけり、時には被造物の世界に積極的に介入し、神に反して反逆した被造物を罰したりすることがないのか、その理由もおのずと見えて来る。

グノーシス主義において「虚無の深淵」にもたとえられる「至高者」は、多数の神々を流出させはするが、物事の善悪を定めたり、背いた者を怒って罰することのない、意志表示さえしない沈黙する神である。その代わりに、「至高者」によって生み出された様々な被造物たちは、「至高者」よりもはるかに活発に動き回り、自らの意志や願望を表明する。

天界の被造物を生み出す根源となったのも「至高者」自身ではなく、「至高者」から最初に生み出されたとするバルベーローという女性人格であり、さらに、時にはソフィアのように、分を超えた逸脱行為を犯して「至高者」の真似をしようとする者も出て来る。それでも、ソフィアが「至高者」によって罰せられて滅ぼされることはない。

ソフィアの過失の結果、天界の歪んだ模造である不幸な下界が誕生したわけだが、それでも、最終的には、人類が天界に復帰することにより、ソフィアの過失も修正されることになっている。
 
その際、グノーシス主義においては、人類は、自己の内に生まれながらにして「神的自己」(「至高者」に由来する神聖な霊の欠片)が宿っていると気づくことにより、自分が「至高者」の子孫であると名乗り出るのだが、その一方で、その神話のプロットに「至高者」が登場して、人類を我が子として「認知」するという場面はない。
 
グノーシス主義においては、子の側から名乗り出る場面はあっても、父が子を前にして「これが我が子である」と宣誓する儀礼的場面が全く存在しないのである。大田氏は一方では、父子関係が、言語行為によって宣誓される儀礼的なものであると述べているのだから、「子の側からの宣誓」はあっても、「父の側からの承認」がないことは、極めて奇妙な矛盾に感じられる。

だが、このことは、グノーシス主義の物語が、根本的に、創造主なる「父なる神」を中心として造られたものでなく、「和を持って尊しとなす」式に、被造物の思いや願望を中心に、被造物の世界に秩序を保たせるために造られたものであることを考えれば納得が行く。

グノーシス主義においては、ソフィアのように、ヒエラルキーを無視して過失を犯した者も、決して悪者にされたり罰せられたりすることなく、彼女の願望もある程度、認められ、彼女の過失を「修正」する仕事は、人類が身代わりに負わされることにより、何とかして物事がおさまりがつくように、辻褄合わせのような筋書きが作り出される。

こうして、グノーシス主義においては、どの被造物も罪に定められることがない一方で、悪者にされている存在が一人だけいる。それは「私は妬む神である」と宣言しているヤルダバオートである。
  
だが、普通に考えれば、ヤルダバオートはソフィアの過失の結果として生まれたのだから、彼もまた哀れな被害者であって、ソフィアの過失を責めずにヤルダバオートだけを責めるのは筋違いであると言えよう。

それにも関わらず、グノーシス主義は徹底してヤルダバオート一人に責めを帰する。
 
グノーシス主義が責め立てているヤルダバオートの「非」や「罪」とは、一体、何なのかという問題を通して、我々は、グノーシス主義という思想の本質をかなりはっきりととらえることができる。

すなわち、グノーシス主義の考えるヤルダバオートの「非」とはおそらく、

➀外見が醜く愚かであるため、他の被造物(特に「母」であるソフィア)の不快を催す存在であること、
②自分の他に神はいないと考えて神の称号を独占しようとしており、他の被造物とのヒエラルキーの中におさまらず、他の被造物から見れば、秩序を乱し、自分たちの栄光にならない目障りな存在であること、

の二点であろう。要するに、ヤルダバオートが他のすべての被造物との間のヒエラルキーに従わず、自分だけが神であるかのように宣言して、他の被造物たちの自惚れに水を差し、他の被造物たちの考える「秩序」を壊し、かつ視覚的にも他の被造物に不快をもたらす存在であるから、徹底的な侮蔑に値するというわけなのである。

このことからも、グノーシス主義とは、徹頭徹尾、被造物の都合や願望を中心に造られた者であり、被造物の世界に、何とか折り合いをつけ、「和をもって尊しとなす」式に、うわべだけの秩序を成り立たせるために作られたストーリーだと言えよう。

そこで最も重要な価値は、聖書の教えるように、絶対者である「父なる神」の命令に背かず、その意志に従うことではなく、むしろ、被造物の社会で、多数決式に、他の被造物にできるだけ迷惑をかけずに、浮いた存在とならず、他の被造物たちとの間で、折り合いをつけて生きることなのだと考えられる。

グノーシス主義において、最も大切なのは、至高者の意志ではなく、被造物たちの意志であるからこそ、至高者に背いたかどで誰も罰せられたり滅ぼされたりすることなく、過失を犯しても、それぞれの被造物の願望がみなある程度、認められているのである。
  
つまり、グノーシス主義にもし善悪という概念があるとすれば、それは、「至高者」の意志に服従するかどうかとは全く関係なく、被造物たちに好ましい影響を与えるかどうか、被造物たちの社会の秩序を成り立たせることに貢献し、そのヒエラルキーに従っているかどうかという基準ではかられるものだと言って良いかも知れない。

グノーシス主義は、被造物の自己肯定や自己都合のために(被造物の欲望をかなえるために)作り出された物語あり、そこでは、被造物の都合が第一優先されているがゆえに、被造物たちの目に慰めとならず、被造物のヒエラルキーにも従わない、「空気」を読めないヤルダバオートが、目障りな存在とみなされ、侮蔑の対象とされ、「悪」とみなされるのである。「神々」の世界において、ヤルダバトートが「わたしの他に神はいない」と宣言することが、他の被造物の自己愛に水を差し、面目を失わせる行動に映るからこそ、ヤルダバオートは毛嫌いされ、「悪」とみなされるのである。
   
グノーシス主義の中心は、被造物の思いであるがゆえに、「至高者」であるはずの「父なる神」さえも、決して絶対の存在ではない。「至高者」は、言葉の上では、至高の存在であるかのように讃えられてはいるものの、実際には、被造物らの願望や都合によって、事実上、骨抜きにされ、形骸化してしまっている。「至高者」は、被造物の勝手な振る舞い合を制止することも、罰することもできず、自らの意志表示を行うことさえなく、まるで神棚に祭られた先祖の遺影のごとく、ただ被造物の願望に口実を与え、彼らの存在を神格化するためだけの名ばかりの存在として沈黙しているだけである。

グノーシス主義において、最高の位階にある神的存在であるはずの「至高者」が、これほど不確かな人格や意思を持たない存在として描かれ、「鏡」や「虚無の深淵」と同様の存在であるかのように、極めて曖昧かつ否定的な表現でしか表されないのは、この「至高者」の存在が、もともと被造物の欲望を集積して作り出された「フィクション」であり、「偶像」だからだと考えられる。

つまり、「至高者」の存在を「虚無の深淵」であると定義するグノーシス主義は(根源的にはその「虚無の深淵」は、仏教などの「無」の概念にも通じるが)、「父なる神」をただフィクションにしているというよりも、「至高者」とは、結局、被造物の欲望の総体として作り出される偶像だとみなしているのであって、それゆえに、「至高者」自身が、あらゆる被造物の願望を映し出す「鏡」と称されているとみなされるのである。
 
つまり、グノーシス主義における「至高者」とは、このように、被造物の存在を承認し、彼らに「神々」としてのステータスを与え、被造物の欲望の総体として生み出された偶像なのであり、被造物自身の欲望の化身としての「フィクション」なのである。
 
このようにして、グノーシス主義の神話は、創造主に似せて人類が造られたため、人類はまことの創造主に回帰することによらなければ自己を発見できないと言いながらも、その創造主を、人類の欲望の対象、偶像に変えてしまうことによって、無限のトートロジーに陥っているのである。

そこで、このような教えを信じた人々が、神に至る道を見つけるために、無限の深淵なる鏡をのぞき込み、そこに自分自身の姿を投影して果てしなくそれに耽溺し、ついに自分が神であると宣言するか、あるいは、「至高者」の崇高な姿を見ることのできない苦悩から逃れようと、嫉妬に駆られて、自分が憧れる対象を歪んだ摸造に写し取ることで剽窃するという、不幸な悪循環に陥るのは当然である。 

こうしたことを考えれば、なぜKFCのDr.Lukeが「わたしたちはエロヒムだ!」というとんでもない宣言をメッセージで行ったり、杉本徳久のような人々が、クリスチャンの個人情報を集めてはそれを利用して、自らのブログを鏡のようにして、そこにターゲットとなる人物の印象操作を行うために歪んだ像を造りだして映し出すことで、ガティブ・キャンペーンを行ったり、あるいは鵜川貴範のような人々が、他教団の人間であるにも関わらず、KFCの違法なコピーサイトを作ったり、KFCの半分を乗っ取って横浜で集会を開き続けたりしたのか、その理由もおのずと明らかになろう。

これらはすべて「簒奪の模倣」や「剽窃」(歪んだ「模倣の霊」の働き)であって、「父なる神」を探求しながらも、自己存在を見つめる以外に「父なる神」に至る道を見つけられないグノーシス主義者が、苦悩のあまり、不正な方法で「父なる神」の似像を盗み見、模倣しようとする手法を意味するのである。
 
さらに、多少、先走って結論を述べれば、牧師制度も、グノーシス主義における「至高者」を模して成り立つ誤った制度であり、大田氏の言葉を借りれば、「擬制的存在である」。

グノーシス主義における「至高者」が、被造物の都合や欲望によって、被造物を神格化して存在に意義を与えるためだけに作り出された「フィクション」であるのと同様、牧師という存在もまた、信徒らの欲望に口実を与えるために作り出された「偶像」であり「フィクション」であり「擬制的存在」なのである。
 
大田氏は、「父」とは「端的に言えばそれは、フィクションを創設することによって、人間社会を統御する者である。」と述べるが、現実には、このような「フィクションとしての父」は、人間の欲望をいたずらに刺激し、苦悩を増し加えるばかりで、決して人間社会を統御などせず、何の秩序をももたらさない。

「フィクションとしての父」しか存在しない場所では、人々は己が欲望を「父」に投影し、「父」にそれを叶えてもらおうと熱心に願い出るが、その「父」自体がフィクションなので、彼らの願いは実現できない。結果として、ソフィアの欲望がもたらしたと同様の悲劇が延々と繰り返され、誰もが知ろうとしても知りえない「父」のために、嫉妬と苦悩を増し加え、悶絶しながら神の像を盗み取ろうと、悪しき模倣を繰り返し、争いを繰り広げるだけなのである。

以上の考察を通して、ペンテコステ・カリスマ運動の支持者らが、なぜカウンセリングを通しての自己認識につとめているかも理解できよう。大田氏は著書で精神分析とグノーシス主義の関連性について論じているが、カウンセリングも、神を見いだそうとしながら、その神を自己の内にしか見つけられないと考える人々(グノーシス主義の教えに影響を受けた者たち)が、「鏡」に映し出した自己像に耽溺することで、何とかして完全な自己を取り戻そうと苦しい努力を重ねる過程なのである。

ある人が、自分の悩み苦しみを他者の前で言葉を通して吐露し、それに他者が頷きながら耳を傾けるのを見ることによって、その人は、他者の眼差しという「鏡」を介して自己存在に承認を受けたように錯覚する。人はそこで他者が自分の主張に頷いてくれたことで、自己存在のリアリティが取り戻されたかのように錯覚する。

ところが、「鏡」を通して自己を発見しようとする過程では、常にそのような望ましい結果が出るとは限らない。他者の眼差しの中に「あらまほしき自己像」を見つけようとしても、そこには、自分の意に反して、自分が望みもしない醜く悪しき自己像が映し出されるということが度々繰り返される。そこで、人は、満足の行く自己像を発見するために、願い通りの自己像を映し出してくれそうな「鏡」を探し求めて走り回るという作業を重ねずにいられないが、そのようなことをすればするほど、他者の眼差しに自己を奪われ、数多くの「鏡」に乱反射する自分自身の一体どれが本物なのかも分からなくなり、ますます自己を見失って行くだけなのである。

人が「鏡」を通してしか自己を認識できないと考えている限り、自分を「鏡」によってどんどん質に取られ、不正に流出させられる結果を防ぐこともできない。
 
結局のところ、「父なる神」をフィクションであると仮定すると、「父なる神」に似せて創造された人類も「フィクションである」という結論しか生まれないのである。神的自己を発見するどころか、自己存在を発見しようとして、虚無の深淵だけが残る(もしくは歪んだ模倣の結果、異形の産物が生み出される)という本末転倒な結果に至るしかないのである。

神を探し求めると言いながら、このような無限のトートロジーに陥った人間は、最後には狂気に至るしかなくなる。

それゆえ、筆者は、「母性原理の崇拝」すなわち、「被造物崇拝」のグノーシス主義を基盤として成立しているペンテコステ・カリスマ運動が、キリスト教の二分性を非難しているのは、とんでもない見当違いであると言うのである。キリスト教の二分性が人を狂気に陥れているのではない。グノーシス主義の支離滅裂なトートロジーの教えこそ、人間を狂気に陥れる根源なのである。 


人間の指導者崇拝という偶像崇拝の罪と手を切ることこそ我が国の主権回復の道――安倍による宮中クーデターとトランプ・プーチン賛美者を待つ暗い未来――

・安倍政権が宮中で繰り広げるクーデターと、2017年も終わらないであろう米ロの対立
 
2017年が始まった。今年に予想されるいくつかの問題について述べておきたい。

まず、安倍政権による天皇の政治利用の問題と、米国におけるオバマからトランプへの政権の引継ぎが本当に順調に行われるのか、それによって米ロ関係に緊張緩和が訪れる可能性があるかどうかという疑問から入ろう。

筆者はオバマ氏がこのまま政界から引退することがあるのかどうかに疑問を持っている。すでに他所でも指摘されているように、大統領選前、ヒラリー・クリントン、トランプの両氏が候補者として様々なスキャンダルの疑惑と非難にさらされる中、オバマには不思議なほどスキャンダルがなく、安倍に真珠湾詣でをさせたことなどにも見るように、最後の最後まで、政治家として一定の功績を挙げた。

むろん、筆者はオバマの政治手法を評価しているわけではない。広島訪問の際のオバマ氏の空虚な演説内容によく表れているように、それは単に政治家としての表面的なパフォーマンスに過ぎず、同氏の人間的な資質や誠意や良心などといった事柄とは全くかけ離れた次元の話である。

それでも、国内で大きな反乱を経験せず、最後まで比較的クリーンに見える功績を積み上げたことは一つの成功と言えるであろう。それが、ただ任期が終わったというだけで、政治の舞台から退場して消え去るとは、筆者には思いがたいものがある。

他方、トランプは選挙中から人種差別的・性差別的な偏見に満ちた様々な発言が取りざたされて、相当に偏った狭量な思想を持つ人間であることが明らかになっており、最近も、ツイッターで新年のあいさつと称して爆弾発言をして非難を浴びていることなどにも見るように、その思想的狭量さは本人の人格の深い所に根差すものであって、単なる選挙中の受け狙いのパフォーマンスではないと考えられる。

このような人間が大統領に就くことは、米国国民にとって決してプラスとはならないと筆者は確信するが、とりわけ、この人間に黙って道を譲ることは、オバマにとって、自分の在任中の功績を全て無にするにも等しいだろうと思われる。

オバマ自身が、もし自分が今回の大統領選に出馬していれば、ヒラリー・クリントンとトランプの両候補を凌ぐ功績を残せただろうと語った事実にも見るように(「オバマ氏「私なら勝てた」 クリントン氏批判」毎日新聞2016年12月27日 10時50分(最終更新 12月27日 12時55分)参照)、ひょっとすると同氏にはこの先も何か仕事してやろうという思いがある可能性が否定できない。そういう意味においても、米国の今後は予想不可能な要素に満ちている。

さて、安倍はプーチン訪日の際に、経済協力と称してロシアに無償で国富を提供する約束をしたことにより、領土問題の解決をさらに遠のかせただけでなく、真珠湾訪問では、日本やアジア諸国の戦死者をよそにして、米国の戦没者だけを讃え、慰霊することによって、太平洋戦争を正当化したいという自分の思想を脇に置いても、オバマの引退のための花道を整えるという属国首相ぶりを発揮した。

安倍はその際、パールハーバーで犯した罪の前に頭を垂れるという「屈辱感」から目を背けるためであろう、自分の卑屈さを、天皇に転嫁して話をすりかえたのであった。すなわち、安倍は、今上天皇が、被災者を含め、日本人の苦しみの前に膝をついて耳を傾ける姿を「卑屈」なものとして揶揄することによって、自分は、天皇のように日本人のために跪いたりせず、むしろ、米国人の前に膝をつくのだから、天皇以上の存在である、と、暗黙のうちに、安倍以外の人間には誰も納得できないような、ねじ曲がった理屈によって、パールハーバーを訪れねばならない内心の屈辱感から目を背けようとした。天皇に対して上から目線で接することにより、自分は天皇に「模範を示した」と考えていたものと思われる。

(「生前退位で天皇の意向無視した安倍首相が親しい政治家の前で天皇を茶化す発言! 天皇は誕生日会見で何を語るか」LITERA 2016.12.18.参照)

実際に、安倍は自分をすでに天皇を超える存在とみなしているものと思われる。それが証拠に、自分の息のかかった人物ばかりを集めた有識者会議で、今上天皇が表明した生前退位に関する希望を、一代限りに限定し、皇室典範の改正を拒むことで、事実上、退けてしまった。それも憲法改正という自身の野望の実現に向けてスケジュールを乱されないための策であり、同時に、国家神道の復活にとって障害となりうるような皇室典範の改正を拒むためであったと見られる。

それに加えて、今年は、天皇の新年のあいさつもとりやめになった(「天皇陛下、新年の感想取りやめ=年末年始の負担軽減で-宮内庁」JIJI.COM 2016/12/26-15:32等参照)。

巷では、これについて「天皇の負担軽減のため」という公式説明をほぼ誰も信じていない。今上天皇の新年のあいさつとりやめの事実は、生前退位に関する天皇の意向をNHKが突如スクープした時と同じように、国民の間では、内閣による陰謀として受け止められている。そこでは、➀安倍が自らの政治思想とははるかに隔たりのある今上天皇から発言の機会を奪うために口を封じ、この先も、天皇からは徹底的に出番を奪う気だ、という説と、②天皇自らが安倍に対する無言の抵抗として、自らあいさつを控えたのだ、という二つの観点が論じられている。

だが、今回は、ネットを見る限りでは、➀の観点を支持する人々が圧倒的に多いように見受けられる。LITERAの以下の記事などは明らかにその立場に立っていると言えよう。(「天皇が「主権回復の日」に「沖縄の主権は回復されてない」と異議を唱えていた! 安倍政権に奪われる天皇の発言機会」LITERA 2017.01.01.)

いずれにしても、安倍と天皇との間でバトルが繰り広げられていることは今やほとんど誰も否定しない周知の事実となっている。そして、安倍が着々と今上天皇の意向を退けながら、自分自身が天皇以上の存在であるかのように傲慢に振る舞い、宮中をも自らの勢力下に置きつつあることは、あらゆる事実から察することができる。

当ブログでは前々から予測して来たことであるが、安倍政権の目論見は、巧妙に今上天皇と現皇太子(徳仁)から力を奪って、いずれ秋篠宮家を担ぎ上げて将来的には悠仁を天皇の座につけることにあるだろうと予測する。なぜなら、それによって、安倍政権は今上天皇にしたたかに報復できる共に、最も操りやすい天皇を手に入れることができるからである。仮に現在の皇太子徳仁が天皇に即位したとしても、安倍政権は、その在位を短期間に終わらせるか、実質的な権力を初めから秋篠宮に与えようとしていることが予想される。そのための「皇太子待遇」である。

秋篠宮さまを「皇太子」待遇…「退位」特例法案」(YOMIURI ONLINE 2017年01月01日 12時02分)

上記記事は、タイトルを見ただけでも、安倍政権が今上天皇の「生前退位」の意向を利用して、「退位」と「皇太子待遇」を引き換え条件のようにして、自らに有利な形で皇室に介入を試みている様子が理解できる。

筆者は以前から、佳子様ブームなるものも、秋篠宮家に注目を集めるために意図的に作り出された現象であって、安倍政権の目論見は、今はほんの子供に過ぎない人間(悠仁)を将来的に天皇の座につけることで、天皇を完全に内閣の奴隷、政権の操り人形とすることにあるものと語って来た。
 
そうした懸念は、現在、至るところで表明されており、何ら珍しいものではない。たとえば以下の記事の中には、読売の記事で発表された特例法案に対する分析と批判が詳しく書かれており、今回、内閣が行おうとしていることの恐ろしさが見て取れる。詳細は記事を読んでいただきたいが、要点は、今回の変更は天皇家の三代にまで及ぶものであるにも関わらず、これを憲法と皇室典範の改正という正式な手続きを経ずに、政府が「一括」の特例法案で済まそうとする目論見の恐ろしさ、そこに隠されたやましさである。
  

生前退位特例法案(「一括」という罠)自民党憲法改正草案を読む/番外62(情報の読み方)」詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)2017-01-01 10:42:19 から抜粋
   
 安倍は「ていねい」に審議することを嫌い、すべて「一括」ですまそうとする。そこに多くの「隠し事」がある。
 秋篠宮の経済負担を軽くする(皇族費を値上げする)といえば「聞こえ」はいいが、その背後にどんな思惑が動いているか、見過ごしてはいけない。
 さらに「18年中の退位を視野」というのは、天皇を18年中に退位させ(邪魔を取り除き)、19年には憲法改正を推し進めるというスケジュールを安倍が組んでいることを語っている。安倍の暴走はますます加速している。


安倍の押し通した解釈改憲の時もそうであったが、このように、常に規則破りな形で、自分が超法的な存在ででもあるかのように、法を骨抜きにして、あるいはないがしろにして、己が意向を無理やり押し通そうとするのは、異端・グノーシス主義者の常なる行動である。グノーシス主義は「秩序転覆の霊」だから、そのような思想を持つ人間は、必ず、何事においても、秩序を破壊して行動する。まだ現在の皇太子が即位もしていない今から、秋篠宮をあたかも皇太子と対等であるかのように扱うニュースを発表させるなどのことも、まさに秩序転覆の思想がなければ出て来ない発想である。

しかしながら、ロシアのSputnikなどは、安倍政権のこの卑しい目論見に便乗し、勝ち馬に乗ろうとして、今上天皇の新年のあいさつがとりやめになっただけでなく、来年からは一般参賀もなくなるであろうと、すでに今上天皇を完全に過去の人のように扱う記事を出している。「今日、天皇陛下の最後の新年一般参賀であろう?」(Sputnik 2017年01月02日 07:59)一応、疑問符はついているものの、実際には、もはや今上天皇は安倍の言いなりになるしか道はないと見透かして、今から今上天皇にさよならを告げているのである。常に強い方へばかり簡単に寝返るロシア人の精神性が見事に表れている記事と言える。

しかしながら、こうしたことがあっても、筆者は長期的な展望に立てば、このようにまで安倍政権が暴走して、天皇を再び、内閣の奴隷として政治利用しようとしていることは、将来的には、マイナスにならないと考えている。なぜなら、このようなことをすれば、安倍政権の倒壊と共に、必ずや、天皇制自体の廃止が訪れるからである。ここまで極端な天皇の政治利用が行われなければ、天皇制は今後も平和裡に我が国に存続した可能性が高いが、安倍政権の暴走が決定的な負の事件として歴史に刻まれることにより、やがては天皇制にも終止符が打たれるのである。

本当は、今上天皇により「生前退位」の意向が表明された時点で、この国の天皇崇拝者にとっては「太陽がお隠れになった」のであり、天皇制についてはすでにパンドラの箱が開かれたのである。国民は天皇の苦悩を理解しており、天皇制は国民の前に意義を失っている。この国の「神」(むろん、天皇崇拝者にとっての神)は、この国を精神的な象徴として統治する仕事を自ら放棄したいと望んだのであるから、この国は偶像にさえ見捨てられ、末法のような闇の世界となったのである。

従って、天皇自身がこうして「お隠れになった」以上、今上天皇の退いた後の空席を誰に譲り渡し、誰を後の天皇や摂政に据えてみたところで、この見捨てられた国には日は再び昇らず、この国を統治することは、その人間にとって栄光となるどころか、むしろ、とてつもない重荷となるであろう。末法と化した世を収束させるためには、天皇制を廃止し、安倍政権を終わらせるしかないが、多少、先走って言えば、安倍は必ず最後には、祖父の負うべきであった罪を自ら負って果てるであろうと筆者は予測している。ちょうどヒトラーの最後のようなものだ。全ての事柄について常に規則違反を繰り返すヤクザ・博打・軍国主義政権の指導者には決してまともな最期は来ない。
 
さて、安倍の真珠湾訪問に話を戻せば、オバマに花を持たせることで、属国の卑屈さをこれでもかと見せて、安倍が拙速なトランプ詣でのお詫びをしたにも関わらず、真珠湾での安倍の表情は写真で見ると、どれもこれもプーチンと共にいた時とは比べものにならないほど暗くさえない。顔は悲愴感に歪み、やつれている。それはただ単に慰霊のための演技とは思えず、この真珠湾への訪問が、安倍にとっておよそ報いのないものであったことをよく物語っていただろう。
 
安倍が真珠湾で見せたこのやつれ具合は、何よりも、オバマから受けた精神的苦痛のためと思われる。おそらく、オバマには安倍のお追従が全く通用せず、憎悪にも近い嫌悪感をあからさまに向けられていたのであろうと推測せざるを得ない。そう思っても不思議ではないほど苦り切って困り果てた表情である。
 
死を前にした病人のようなこのひどい表情は、安倍が一方では米国との同盟関係を強調しながら、他方では、トランプとプーチンに拙速に媚を売ったという、理念と礼節の欠如した安倍の八方美人外交に対して、オバマから非常に手厳しい「お仕置き」をされたことの証明であるように思われてならない。

オバマは、安倍が拙速なトランプ詣でをしただけでなく、米国に先んじて、プーチンとの「仲良しごっこ」を世界に見せつけて自慢し、制裁を受けている最中のロシアの大統領に手柄を与えたことを、決して内心では許さなかったものと思われる。そこには、もしかすると、初の黒人大統領としてのプライドもあったかも知れない。
 
ABE OBAMA

写真は以下から転載。「安倍首相の前に現職首相3人が真珠湾を訪問していた、外務省が確認
 The Huffington Post    |  執筆者: ハフィントンポスト編
投稿日: 2016年12月26日 18時51分 JST   更新: 2016年12月26日 18時51分 JST

「真珠湾、安倍」の画像検索結果

写真は以下から転載。「安倍首相を敬語で讃えるワイドショーキャスター、真珠湾訪問報道の違和感-「ポスト真実」支えるメディア」志葉玲  | フリージャーナリスト(環境、人権、戦争と平和) YAHOO!JAPANニュース 2016/12/28(水) 20:49 
 
何しろ、口にするにも値しないほど愚劣極まる発言のため、我が国でさえ、すでに人々には忘れられている可能性が高いが、自民党のさる議員が、昨年に次のような発言をしたことも、当然ながら、オバマの耳に入っていたに違いないと思われる。安倍の軽はずみな行動は、まさに以下のような人種差別的な思想が、安倍の心の中にも存在している可能性を、改めてオバマに想起させた可能性があるだろう。
 

丸山和也議員、オバマ大統領についての「黒人奴隷」発言を謝罪

CNN.co.jp 2016.02.19 Fri posted at 13:52 JST から抜粋

丸山議員は17日の参院憲法審査会で、「いまアメリカは黒人が大統領になっているんですよ。黒人の血を引くね。これは奴隷ですよ」と発言した。

この発言は日本の憲法改正を巡る論議の中で飛び出した。丸山議員は米国の「ダイナミックな変革」を引き合いに出し、「アメリカの建国、あるいは当初の時代に、黒人、奴隷がアメリカの大統領になるなんてことは考えもしない」と力説していた。

<中略>

オバマ氏は初のアフリカ系米国人の大統領だが、奴隷の子孫ではない。父はケニア人、母はカンザス州出身の白人だ。

丸山議員の発言は人種差別的と見なされ、審査会後の記者会見で同議員は「誤解を与えるようなところがあった」として謝罪した。<後略>


オバマはトランプのように表立って相手を罵り、踏みつけにして勝ち誇ったりはしないが、自分が「歴史の舞台から消えゆく人間」として存在を軽んじられたことに黙ってはおらず、静かに怒りを表明し、大統領として残された時間を使って、対ロ制裁強化という「最後っ屁」を放ち、自分をないがしろにした安倍やプーチンやトランプへの置き土産とした。(「オバマ政権、対ロシア制裁発表へ 米大統領選への介入めぐり」CNN.co.jp 2016.12.29 Thu posted at 12:46 JST等参照)。

そこで、2017年の米ロ関係は緊張関係で幕を開けることになるが、それでも、世には未だトランプ大統領の出現によって米ロ関係は緊張が緩和されるという楽観的なムードが漂っている。だが、筆者にはそのように単純に物事が運ぶとはどうしても思えないのである。
 
米ロの二国は、この先、どんなに歴史が進んだとしても、仮想敵国同士の立場から解放される道はないであろう。その点で、天木氏の以下の見解に、筆者はかなり同感する。それはロシアという国が持つイデオロギー本質がもたらす当然の結果である。

そして、その対立は必ず、日本にも波及する。つまり、ロシアが日本にとって真に友好国となることは、多分、この先も決してないと筆者は見ている。だから、安倍が勇み足でトランプとプーチンの二人に媚を売ったことは、全く愚かしい徒労にしかならず、この先も頭痛の種をさらに増やすだけに終わるのではないかと思う。
 

最後に凄みを見せたオバマとひとたまりもないプーチン
2016年12月31日 (天木直人氏のブログから抜粋。)

(前略)
 そして、米国にとって、ロシアは今も昔も、価値観が最も異なる潜在敵国なのである。

 今度の対ロ報復制裁措置は、弱腰大統領と言われ続けてきたオバマ大統領が最後の最後に見せた、プーチン大統領に対する必殺のカウンターパンチだ。

 そして、それはまた同時に、オバマ大統領のレーガシィを全否定しようとするトランプ氏に対する、これ以上ない重い置き土産だ。

 トランプ大統領は、みずから繰り返す米国の国益ファーストと、プーチン大統領のロシアとの関係構築の間で、また裂き状態で出発することになる。

 そして、わが日本の安倍首相は、トランプの米国とプーチンのロシアの間で、また裂き状態となる。

 最後まで、オバマ大統領は安倍首相にとって相性の悪い米国大統領だったということである。


ロシアはしたたかで、プーチンはこの程度のことでは動じない。だが、筆者は、もしかすると、オバマと安倍との因縁は、今回限りで終わらないという気がしている。この先、安倍政権の暴走にどのような形で終止符が打たれるかは分からず、誰にも未来のことは断言できないが、安倍に引導を渡す役割が、政界に返り咲いたオバマになる可能性も、完全には捨てきれないような気がするのだ。いずれにしても、ロシアとの融和を唱えてトランプとプーチンを浅はかに支持した者たちは、間もなく馬鹿を見させられることになるであろう。

さて、ロシアという国のイデオロギー的本質の問題に関してであるが、筆者は以下の一連の記事において、ロシアは共産党政権が崩壊しても、未だ共産主義思想のままなのであり、それはこの先も決して変わらないという見解を述べて来た。そうである限り、ロシアはいつまで経っても、思想的に危険をはらむ国のままであり続けるのであって、我が国がそのような国を信頼することは不可能である。
 
これとほぼ同じ見解を、筑波大学名誉教授の中川八洋氏がブログに記している。同氏のブログはつい最近拝見したばかりだが、その論調は檄文かと思うほどの激しい非難に貫かれていたため、筆者はこれを最初に読んだ際には、学者の見解だとは思わなかったほどである。

しかしながら、よく読んでみると、その内容は、国際政治学、政治哲学の観点から書かれたものであり、相当にロシアという国の歴史や文化に迫って、この国の本質を解明しようとしていることが見えて来る。ロシア人とロシアという国を実際に知っている人間には、痒い所に手が届くように、うなずけるロシア批判なのである。

中川八洋氏は上記のブログで、この度の安倍・プーチン会談の合意を、日本の国益を著しく損なう売国行為として厳しく非難しているが、筆者にとって、何より興味深いのは、同氏がそこで、ロシアという国において、共産主義思想は、ただソ連時代だけに限定して一時的に国家イデオロギーとされただけのものではなく、この国と本質的に一体不可分の精神的基盤をなすとみなし、それゆえ、ソ連崩壊後の新生ロシアも、事実上の共産主義ソ連の延長であるとみなしている点である。こうして、ロシアは今でも思想的に共産主義のままであるゆえに、ロシアと日本との間には、いかなる友好・信頼関係も、決して発生し得ないと結論づける点には、筆者は同感する。

このような説を学者が唱えているとは予想しておらず、それゆえこれが学説としては批判を受けるであろうことも理解できるが、このような見解は、以前に筆者が当ブログで他所の引用をしながら述べたのとかなりの部分で一致しており、国際政治学者でさえ、現在のロシアを共産主義時代の延長とみなしているというのは、大変興味深い。

筆者の見解では、すでに述べたように、ロシアにおける共産主義思想は、1917年革命によって初めてロシアに公に取り入れられたものでは全くなく、それはナロードニチェストヴォなどにも見るような、ロシアの初期の社会主義思想から受け継がれて、その思想が変化したものに過ぎず、そうした思想の起源はさらに古くは、正教の宗教的メシアニズム、より古くはキリスト教導入以前の異教信仰(グノーシス主義)に求められる。要するに、社会主義思想もまた、ロシアにもとからあった異教的精神を土台として移植されたものなのである。

筆者は、「母なるロシア」を神格化する母性崇拝の思想こそ、ロシアの精神性の核となる土着の異教的信仰であり、これが歴史を通じて、ロシアの真の宗教、真の政治思想を形成していたものと見ている。キリスト教や、共産主義といったものは、みなロシアのこの土着の異教的信仰の上にコーティングされた表層に過ぎない。この国の根底に流れるものは、昔も今も変わらず「母なるロシア」への信仰なのである。これは、本質的にはグノーシス主義の変種であり、母性崇拝(=人類の自己崇拝)の思想なのであるが、ロシアのこの異教的本質は、強制的なキリスト教の移植によっては変わらなかった。革命と同時に、表層に過ぎなかったキリスト教の仮面はあっさり脱ぎ捨てられ、代わりに共産主義が表層に移植されたが、それもまた表層だけのことであり、ロシアの本質はずっと異教的精神性のままであったが、ソ連崩壊後に、共産主義の表層が取り去られた時に、内側にあるこの異教的本質が「強いロシアの復活」というスローガンになって表に出て来たのである。

だから、筆者が、ロシアは今でも共産主義国だと言うのは、何もマルクス主義に限定した話ではなく、もっと深い意味で、ロシアの本質が、国家(及び指導者たる人間)を賛美・神聖視する母性崇拝の思想にあり、この国が国家を神聖な世界救済の母体とするメシアニズムの思想に貫かれていることを広義で言い表したものに過ぎない。ロシアのマルクス主義においては、世界初の社会主義国家であるソビエトが、全世界に共産主義ユートピアをもたらす母体として事実上神聖視されたのであるが(しかし、その母体は、望まれた子を生むことなく、むしろ子を食い殺して自分が永遠に存続しようとした)、「母なるロシア」の思想に流れるのも、ロシアが世界を破滅から救う神聖な母体だという思想である。そうした思想は、決して宗教や政治思想の形をとってはいないが、これまでのロシアの国家イデオロギーは全てこの「母なるロシア」を神聖視する異教的信仰が、キリスト教や共産主義を含む多くの異なる思想と合体•混合して生まれたものである。現在のプーチンの「強いロシア」に源流として流れるのも、ロシアそのものを神聖視する異教的信仰なのである。こうした思想があるゆえに、ロシアでは国家指導者が、事実上「母なるロシア」と神聖な結婚の関係にあるものとみなされ、その人物の意向が、国家の意向と同一視され、神格化されるのである。
 
そして、このロシア賛美という母性崇拝の思想の本質は当然ながら、人間を神とするグノーシス主義である。もともとグノーシス主義は、様々な宗教や哲学の中にもぐりこみ、そこに寄生することで知られている。ロシアでは、それがキリスト教や共産主義の中にもぐりこみ、息づいて来たと共に、ソ連崩壊後にもこの国の精神的基盤をなし続けているのである。

だから、ロシアという国が、思想的に大いなる脅威だと筆者が言うのは、この国が本質的にずっと「母なるロシア」こそが世界を救うというメシアニズム信仰に立ち続けているためである。これは統一教会や国家神道やペンテコステ運動と同じく、世界救済の思想であり、言い換えれば、世界征服の野望を示すものでしかない。

ところが、我が国の世論の一部も、このようなロシア美化、ロシア賛美を疑うこともなく取り込んで、すでにかなりの割合、ロシアのメシアニズムに毒されている。たとえば、ネット上では、プーチンを「米国という巨悪と対立して、NWOと勇敢に戦う善人」のように描こうとする意見があるかと思えば、プーチンが日本の国家主権を危ういものとして、「あなた方はどの程度自分で物事を決められるのですか」と問うた台詞を、我が国が対米隷属から脱し得ていないことを見ぬいてこれを鋭く糾弾する慧眼だともてはやし、ロシアこそ、我が国を自立に導く助け手だとする説まである。

こうしたロシア賛美者は、全く愚かなことに、我が国がただロシアに欠点をあげつらわれて、足元を見られ、余計なお節介を受けているだけだという事実がまるで見えていないのである。そもそも、自国の外交の欠点や弱みについて、他国の指導者からお説教され、それを疑問にも思わず、善意と受け止めて喜んでいる時点で、そのような人々はとてつもなくおめでたい愚者としか言えないだろう。
 
実のところ、プーチンは日本人の心に揺さぶりをかけ、分裂を促すために以上のように言ったのであるが、こうしたやり方で、接近した相手の尊厳を貶め、現在、その相手が享受している大いなる特権を自ら捨てさせ、何らかの短絡的なアクションを取るよう促す方法は、まるで聖書の創世記において、悪魔が人類をそそのかすために吐いた言葉にそっくりである。

「それを食べると、あなた方の目が開け、あなた方が神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」(創世記3:5)

プーチンの言説のポイントは次の通りである。「米国は本当にあなた方にとって『友』なのでしょうか? もしそうなのだとしたら、どうして米国の許可なしに、あなた方は自分では何も決められない惨めな状態に留め置かれているのですか。あなた方が誰の許可もなしに自分で物事を決められるだけの知恵と力を得ることこそ、あなた方の自立であり、完全な主権ではありませんか。その自立を奪うことによって、米国はあなた方の主権を侵害しており、そうすればあなた方を無力化できると知っていて、わざとそうしているのです。あなた方にそのような状態を強いて、あなた方の主権を侵害している存在が、果たしてあなた方の『友』なのでしょうか。それは友というよりも、敵と言った方がふさわしいのではないでしょうか…」。

これは米国に対する暗黙の反乱の勧めである。国家主権や対米隷属からの脱却や「自立」という甘い言葉を餌にして、同盟国でもないロシアが、我が国に向かって同盟国への裏切りを勧めているのである。それは、ただ我が国を貶める発言であるばかりか、我が国をいずれ米国と分裂させて弱体化させる目的あってこその発言であり、その先には、我が国を侵略し、米国の代わりに属国化したい目的あってのことである。それをなぜ見抜けない人々が多いのであろうか。

筆者は、日本は確かに米国に対して多くのことを物申さなければならず、日米の関係性は変化し、属国状態は解消されなければならないものと思う。沖縄にも、自由が与えられるべきであって、我が国の現在の自立の程度が完全でないことは認めるべきであるものと思う。だが、その自立や、米国からの分離は、これから先、日本人が文化的・精神的成熟によって自ら勝ち取って行くべきものであり、ロシアには関係ない事柄である。我が国の自立の問題は、我が国固有の問題であって、ロシアに指図されるべきものでなく、また、ロシアに接近することによって解決が与えられるような種類の問題でもない。

それにも関わらず、プーチンの言説は、話が途中ですり替えられている。日本が主権を完全に取り戻すという問題が、我が国がロシアへ接近することによって、ロシアから承認されるべきだという内容に話がすり替えられているのである。
 
こうした論理のすり替え、ごまかし、トリックはソ連時代からのロシア人の常套手段であり、プーチンは、同じような論理のすりかえにより、四島返還はナンセンスであるという話題を持ち出し、二島返還の可能性をもはぐらかし、帳消しにした。

「ロシアとは決して交渉してはならない」という中川八洋氏の主張がまことに正しいと言えるのは、こうした事情があるためである。上記で、聖書の創世記で悪魔が人類をそそのかした誘惑の言葉を筆者が引用したのは故なきことではない。こうして、相手の弱点を巧みに突いて、その弱みを最大限に利用して、不当な交渉を行って自分にとってのみ有利な解決を引き出し、相手の弱みを利用して相手の心の内側に侵入し、精神的に揺さぶりをかけ、分裂させて、支配するというやり方は、一連の記事で述べて来たグノーシス主義者のマインドコントロールの手法に共通する。こうした人々が、弱みを抱えた人たちの前にぶらさげる餌も、約束も、決して果たされることのない嘘の「夢」である。

ロシアは、我が国の弱みを盾に取って、我が国を脅し、ゆすっているだけである。つまり、日本が「完全なる主権」を回復し、「自立した外交」を打ち立てるためには、米国から距離を置くだけでなく、むしろ、ロシアに接近し、ロシアとの「友好関係」をロシアに承認してもらえるよう努力すべきだと言っているのである。米国に従っている限り、日本には、ロシアとの友好はなく、領土問題の解決もないのだとささやくことで、「主権」や「自立」や「平和条約の締結」や「領土問題の解決」などを餌に、ロシアに接近すれば、米国との関係からは生まれ得ない利益が我が国に飛躍的に生じるかのように思わせて、その絶対に実現しない期待を担保に、我が国から融資を無限にむしりとり、領土返還についての話もはぐらかして帳消しとし、さらには、あわよくば日米同盟にもヒビを入れて、日本を孤立化させて、ロシアが日本を思い通りに操ることがより容易になるように仕向けようとしているのである。

このように、ロシアと交渉することの危険性は、ロシアが相手の弱みや、利益となりそうな餌をちらつかせることによって、征服したい相手の心に揺さぶりをかけて、思う存分気を持たせて利用し、あわよくば分裂を引き起こし、弱体化したところで、支配して来る点にある。

筆者は、以前に、キリスト教が社会的弱者に対して冷たい宗教であると断罪することによって、クリスチャンに罪悪感を持たせ、キリスト教徒を思い通りに変革しようという悪しき試みがあることに言及したが、ロシアがやっていることはそれに非常に似ており、「日本には完全な主権がない」と暗に示唆することにより、プーチンは日本人に自らの状態が不完全であるかのような自覚を与え、その問題の解消のために、ロシアの指南に従うよう仕向けようとしているのである。
 
プーチンは、安倍や、日本人の心に眠る米国への心理的恨み、対米隷属から脱していないという屈辱感やコンプレックスを存分に利用しながら、以上のようなトリックを用いたのであり、それによって、ロシアこそ、日本のパートナーにふさわしく、世界の未来の覇者にふさわしいかのように見せかけて、日本を自分にひきつけようとしたのである。だが、ロシアが我が国にそのように思わせる目的は、決して我が国の誠意あるパートナーになるためではなく、日本の完全な主権の回復のためでもなく、ただ日本の弱みを盾に取って、脅し、ゆすり、騙すためである。もし、我が国がそれを理解せずに、ロシアに弱点を逆手に取られ、ロシアから承認されたいばかりに、ロシアへの接近を続ければ、どこまでもロシアに思い通りにゆすられる運命が待っているだけである。
 
我が国は、どの国の指導者にも、国家としての主権の不完全性などを指摘されてはならないのであり、まして弱みを利用して足元を見られ、嘘に満ちた不誠実な誘惑の台詞を語らせるような隙を与えてはならない。我が国が完全な主権を回復し、これを発展させ、真の自立と尊厳をぜひとも身につけたいと願うなら、米国に支配の口実を与えてはいけないのと同様、ロシアにも、内政干渉される隙を決して作ってはならないのである。そのような初歩的な事柄も理解できないで、他国から完全な主権がないと言われてそれに反駁するどころか、その説教に喜んで耳を傾けているような愚かさでは、外交などおよそ無理であって、どの国に接近しても、属国化される以外の運命はないであろう。

ロシアが善意から我が国の「主権」や「自立」の問題に言及するなどあり得ないことを理解すべきである。それはただ「分割して統治せよ」の法則に乗っ取り、相手をより操りやすくするために、疑いを吹き込んで分裂を促しているだけである。こうして近づいた相手をまず分裂させて弱体化させることこそ、侵略しようとの意図を隠し持つ国の使う古典的な外交手段なのだと、いい加減に早く理解した方が良い。

すでに述べた通り、ロシアという国の国家イデオロギーは、いつの時代も、ロシアが世界の覇者となることにこそあり、そのためにこの国は膨張・拡大を続けて来た。ロシアはその精神性において、今でも世界征服を国家の最終目的とみなしているのである。そうである以上、必ず、同じように世界の覇者を目指す米国とも対立関係になる運命にあり、米国だけでなく、ロシアに接近する全ての国は、この国に飲み込まれないために対策を講じなければならないのである。

オバマにはおそらくプーチン率いるロシアの戦略がよく理解できており、安倍が心理的な弱みを握られてすっかりプーチンの手玉に取られていることも分かっていたであろうし、それが分かっていればこそ、対ロ制裁の強化という形で抗議を残して行ったのであろうが、残念ながら、安倍の方では、自分がプーチンに何をされているのかさえ、見抜く力はなかったと思われる。

安倍のみならず、我が国の世論の一部は、あまりにも未熟で、お人好しすぎるために、ロシアという国が持つ潜在的な悪意を見抜くことができないで、70年間、関係が膠着状態にあった国と、望みさえすれば、速やかに友好や信頼が成立するように思い込んでいる。プーチンに「私を信頼してほしい」と言われれば、疑うこともなく「はい」と頷いて着いて行くのでは、まるでショッピングモールで迷子になった子供が、知らない大人に声をかけられて、そのまま疑うこともなく誘拐されるのと同じような愚かさである。

インターネット上では、プーチンとトランプがタグを組むことで、この二人があたかも現在の悲壮感溢れる諸問題から世界を救ってくれる救済者になるかのような楽観的な期待さえ漂っているが、こういう安易な期待に身を任せる人々は、何度、騙されれば、自ら愚かな為政者(しかも他国の!)の野望の道具とされる馬鹿さ加減から、目覚める時が来るのであろうか。
 
このような人々の心理は、いかがわしい宗教指導者の言い分を真に受けてカルト団体に入信する信者たちによく似ており、自分を誰かから完全な存在と認めてもらいたい、自分を承認し、受け入れてもらい、自分が今抱えている問題に一足飛びに解決を与えて欲しいという願いがあだとなり、自分に都合の良いことを言ってくれる宗教指導者に群がり、子供のようにその後を追って誘拐されて行くのである。彼らは連れ去られ、戻って来ないであろう。

そのように、自分の抱える問題を、自分の手で解決しようとする忍耐強い努力を常に怠って、誰か強そうな他者にすり寄り、手っ取り早い助言や解決を求めて彼らにすがり続ける幼児的な欲求があだとなって、彼らは自分に優しくしてくれる者を簡単に善人だと思い込み、他人の悪意や、下心を見抜けず、その不誠実な発言に何度でも騙され、振り回され、人生の宝を奪われるのである。
 
そして、そのように自ら騙されて行く愚かな人々は脇に置いたとしても、詐欺師と詐欺師との間にも、友情と信頼が成立するはずがないのは言うまでもなく、この先、トランプとプーチンとの間に、決して信頼関係が生まれることはないと筆者は確信している。そこにあるのはただ、どちらが先に食われるかという問題だけである。

イスラエルが孤立化へ向かっているのと同じように、どの時点で、どこの国が、ロシアに対して実力行使に立ち上がるのか、ということが問題なのである。そうなるまで、ロシアは自分には敵を作ったり、世界と戦ったり、世界を征服する野望など全くなく、目指しているのはあくまで友好と信頼関係だと言い続けるであろうが、いつまでそのように気を持たせて時間を稼ぐことができるだろうか。
 
プーチン訪日前には、ソフトバンクの孫正義氏が、海底パイプラインを使ったロシアの電力会社との取引に乗り気だというニュースが流れたりもした。(「プーチン氏とも会談 北方領土の鍵握る「孫正義ペーパー」」(NEWS ポストセブン 2016.11.21 07:00)参照。)だが、もしも我が国がこの先、ロシアのエネルギーに依存して、ライフラインをロシアにあずけたりすれば、有事の際には、早速、我が国も現在のウクライナのような運命を辿るだけである。IT事業や人工知能の分野でロシアと協力すれば、すべての情報がロシアに渡り、もはや国防どころではなかろう。

トランプ、プーチン、安倍、孫正義などの面々に共通するのは、彼らが本質的に理念の欠如した商売人だということである。彼らは常に儲け話を追い、自らの権勢の拡大と栄光を飽くことなく追い求め、常に勝ち馬に乗って、自分を素晴らしく偉大に見せかけてくれる環境を求め、そのためには、人を欺いたり、約束を翻すなどの不誠実な行動も平気で取り、自分が騙して凋落させた敗残者を容赦なく踏みしだいて勝ち誇ることを、己の人生のよすがとしている。このような商売人が政治の世界に足を踏み入れ、為政者になると、国民はひどく不幸になる。

孫正義氏は、以下の記事等にも見るように、以前には60歳を迎えれば引退するかのように表明していたが、これを撤回することにより、グーグルから自らの後継者と目して引き抜いたニケシュ・アローラ氏をわずかな期間で退任させた。「アローラ退任、孫社長「変心」までの22カ月 「欲が出てきてわがままで続投」は本当か?」(東洋経済ONLINE 2016年06月27日)

複数の情報によると、関係者は、孫氏がアローラ氏に事業を譲るなどの計画は初めから信じていなかったように見受けられる。だが、もし後継者として道を譲るという期待を持たせておかなければ、アローラ氏は孫氏のもとへやって来たであろうか。

ビジネスの世界では、他人を騙すがごとくに出世を約束し、存在しない偽りの期待を持たせることで、その人の人生を自分に都合よく利用して、短期間で使い捨てるなどのことは、ありふれた現象に過ぎず、ブラック企業では毎日のように起きている。まさに生き馬の目を抜く世界である。

上記のような出来事を通して、孫氏が個人的にどういう人柄であるか、我々は伺い知ることが出来る。勝つためには、手段を選ばず、他人を踏み台にしてでも、勝ち残るというタイプである。こういう人間であれば、トランプやプーチンとはウマが合うであろう。

だが、孫氏がアローラ氏に対して行ったことは、違法ではなくとも、必ず何かの報いを伴うであろう。なぜなら、人にいたずらな期待をもたせて失望に追い込む人間は、自分が他人にしたことの報いとして、もっと大きな罠にかけられる危険があるからだ。おそらく、このような理念の欠如した商売人のタイプの人々は、何人集まっても、意気投合するのは一瞬だけで、互いに利用し合い、最後には裏切り合って終わり、彼らの間に真の友情や連帯が生まれることは決してないであろうと予測する。誰が最初に食われるのか、問題はそれだけなのである。

さらに、日本国では急速に国民の貧困化が進んでいるため、高額な携帯料金を払えないで解約する人々も続出している。ただでさえスマートフォンが盗聴や監視の手段として利用されている事実が世間に広まっているため、人工知能も警戒されており人気がない。携帯業界はこの先、急速に斜陽になる可能性があるものと筆者は思う。

さて、ロシアに話を戻そう。以上に挙げた国際政治学者の中川氏は、Wikipediaには、「政治哲学に関しては、1980年代はマルクス・レーニン主義に対する批判的研究をしていたが、1992年から英米系政治哲学に研究の軸足を移した。2000年に入り、フランクフルト学派社会学を含め、ポスト・モダン思想、フェミニズム、ポストコロニアリズムにまで研究対象を広げ、これらの思想の危険性を訴えている。」とあり、詳しい研究内容はまだ知らないのだが、おそらく共産主義思想とフェミニズムなどの思想に、共通の土台がある事実を見ていたであろうと思われることが極めて興味深い。

こうして、学者の世界においても、共産主義や、フェミニズムの思想に、本質的な共通性があって、それは古くはグノーシス主義にまでさかのぼることを、「正統と異端」という概念に照らし合わせて研究していた人々の存在があることは興味深く、このような視点は、『解放神学 虚と実』(荒竹出版)を著した勝田吉太郎氏らと重なる部分を感じさせる。

筆者の考えでは、現代政治のあらゆる問題は、その本質を辿って行くと、最終的にはみな「正統と異端」という対立構図に行き着く。世界のおよそ全ての政治的・思想的対立の背後には、未だに「キリスト教対グノーシス主義」という構造が潜んでいると言っても過言ではない。

むろん、ここで筆者の言う「キリスト教」とは決して、決してプロテスタントやカトリックや正教といった今日的なキリスト教界の宗教組織を指すのではなく、聖書の記述が現す見えない思想的(霊的)本質を指す。

そして、グノーシス主義の危険とは、今までずっと当ブログで述べて来たように、ロシアの国家イデオロギーだけにつきものなのではなく、欧州・米国・我が国などのキリスト教界にも公然と入り込んでおり、統一教会と深い関わりのある安倍政権や、日本会議に支配された日本政府を通して、我が国の政界に深く浸透している。政府与党が暗黙のうちに目指している国家神道に基づく戦前回帰のイデオロギーなども、まさにグノーシス主義を起源としている。その意味で、現在の日本の政府と政治は全体がグノーシス主義に汚染されてしまっている。

だが、だからと言って、もともとすでにある危険の上に、さらなる危険として、ロシアにおける共産主義までも取り込んで、国を消滅の危険にさらす必要はないであろう。


・人間に過ぎない宗教・政治指導者を美化・神格化して崇拝する偶像崇拝の罪と訣別しなければ、沖縄を含め、我が国には自由も解放もない

信仰者の目から見れば、この世の事象と霊的世界は合わせ鏡であり、この世の問題の根底には「正統と異端」の対立があることが見て取れる。

2009年、自民党から民主党への政権交代が起きたのは、日本のクリスチャンの間で、グノーシス主義に汚染されたキリスト教界への批判がかつてなく高まっていた時期であった。ペンテコステ運動のような米国発の非聖書的な偽りのキリスト教への疑念と批判が信者の間で噴出し、さらに、人間に過ぎない宗教指導者を絶対的な存在として崇め、奉る牧師制度がキリストへの信仰に反する人間崇拝の罪であるとの批判が噴出し、この罪と手を切って、キリスト教界からエクソダスしようとする信者が続出していた。

これは、キリスト者が人間を美化・賛美する偶像崇拝から脱し、聖書に基づく正しい信仰に立ち戻ろうとする正しい運動であったと筆者は見ている。

しかし、この運動がその後、辿った経緯は非常に教訓に満ちたものであった。この時に生まれたキリスト教界への批判者たちが、その後、どうなったかというと、彼らは自分が批判していた教会からエクソダスして、聖書に基づくまことの信仰に立ち戻るどころか、再びどこかの宗教指導者や、組織や団体に帰依して、前よりも深く巧妙な偶像崇拝に落ちて行き、その結果、キリスト教界における偶像崇拝の罪を批判する者たちや、教界をエクソダスした者を同士討ちに陥れて口を封じ、自ら改革を潰すという愚行に及んだのである。

当初、見えない神にのみ従うことを誓って、人間に過ぎない指導者への隷従からの自由と解放を目指して、組織や団体を出ようとしていたはずのクリスチャンたちの、この180度の転向と愚かしい同士討ちという、腐敗と堕落の過程は、民主党の瓦解の経過にも似ており、筆者がそれらの出来事の分析から得た教訓は計り知れないほど大きい。

この草の根的な運動を堕落させて潰すために、とりわけ信者たちに巧妙な分裂の罠をしかけたのが、キリスト教界の宗教指導者であり、その中に、信者を泥沼の裁判に引きずり込んで疲弊させる村上密やDr.Lukeのような人々がいた。

この人々は、キリスト教界に対する信者たちの怨念を巧みに吸い上げる形で、人々の弱みを利用して自らの運動を作り上げた。彼らは、不誠実で信頼ならない指導者であったが、彼らを非難したり、告発する人間たちが、彼らよりもずっと不器用でみっともなく見えたため、人々は立ち回りが上手く声の大きいこの指導者の方を支持し、すすんでその手先となって利用されて行ったのである。

人前で救済者を演じる詐欺師のような宗教指導者たちは、人々の心の中にある勝ち馬に乗りたい願望、人前で見栄を張り、自分が攻撃されて恥をかきたくない願望などを大いに利用して、反対者を徹底的に嘲笑して、見世物にすることで、自分を勝者に見せかけて、支持を拡大したのである。

しかし、彼らの虚勢は見せかけに過ぎなかったので、以上のような宗教指導者に信頼を託した人々の希望は、すぐに風船のように弾け飛び、解放や自由の代わりに、隷属と恐怖だけが残った。

トランプとプーチンの手法は、以上のような宗教指導者らの手法に非常によく似ている。彼らは反対者を貶めることと、自分が勝利者であるかのような「ムード」を醸し出すのは得意だ。だが、彼らの主張には内実がないため、「まことしやかな雰囲気」に欺かれて、彼らを支持した人々は、悲惨な結果に至るだろうと筆者は見ている。この人々の連帯は、気の持たせ合い、騙し合いの連帯なので、長く続くことはないからだ。

筆者が、沖縄は米軍基地問題を巡る政府との闘いで敗北するであろうと言っているのにも、以上と同様の理由がある。沖縄の解放という問題の根っこには、偶像崇拝が深く絡んでおり、筆者は、沖縄クリスチャンがカルト被害者運動と公然と訣別しない限り、彼らには政治的にも勝利はないと考えている。

なぜなら、人間の利益は神の利益に勝らないからだ。自分の生活の安寧や自分の名誉を、信仰よりも優先して、人間に過ぎない指導者につき従っている限り、その信者にはいかなる自由も解放もない。まことの神は全てをお造りになった方であり、この方のみを崇め、従うことは、辺野古の海を守るよりもはるかに重要事項である。そのことをクリスチャンが理解して、自分を解放してくれそうな人間への浅はかで愚かな期待を捨てない限り、沖縄が騙され続けることは変わらないであろう。しかし、それは沖縄だけでなく、日本全体に共通する問題なのである。

改革者や解放者を名乗って現れる人間の指導者に安易な期待を託して欺かれる人々の心の根底には、いつも自己美化の願望がある。自分を美化しているから、宗教・政治指導者などを美化して、期待を寄せるのである。しかし、聖書は人間の本質について何と言っているか。クリスチャンが聖書の事実に立ち戻り、真に頼るべき存在は誰かという問いに正しく答えを出さない限り、我が国にはただ人の奴隷となる道だけが延々と続くのである。だが、かつて起きた出来事は、信者が人間崇拝という罪と完全に手を切って、まことの神への貞潔を回復するならば、速やかな解決があることを示している。


イゼベルの霊がもたらす男女の秩序転覆――男性化した女性たちと、非男性化された男性たち

・「偽りの期待を持たせて人を欺きながら、梯子を外し、騙された相手を嘲笑する」(ダブルバインド)イゼベルの霊の典型的な心理操作のテクニック

さて、話題は少し変わるようだが、以前の記事の末尾で紹介したEden Mediaの警告動画では、興味深い事実が告げられている。それは「イゼベルの霊」が、女性の男性化と、男性の非男性化という転倒した現象を人々にもたらすという指摘である。

本稿では、ペンテコステ運動に関わった信者たちと接して来た筆者自身の実体験を通して、この問題について、より踏み込んで考察していきたい。
 


 
 
筆者は、ペンテコステ運動とはイゼベルの霊に率いられる弱者救済を装った秩序転覆(キリスト教破壊)運動であると見ており、イゼベルの霊とは、端的に言えば、グノーシス主義の秩序転覆の霊を意味する。

なぜイゼベルという女性の名がついているかと言えば、この霊は神に対する人類(霊的女性)の側からの反逆の霊であり、より低い次元では、男女の秩序を覆すフェミニズムの思想を指しているからである。ペンテコステ運動にも、その思想的な基盤に、フェミニズム神学なるものが存在することはすでに確認した。
 
このように、イゼベルの霊とは、男女の秩序を覆す霊、もっと言えば、神と人類との立場を置き換えて、被造物に過ぎない人間が、己を神として自分自身を拝み、栄光化する人類の自己崇拝とナルシシズムの霊であり、他者の心の傷をきっかけに人の心に侵入し、ターゲットを抑圧的に支配する。当然ながら、この霊は、ターゲットが自分よりも強い男性であっても、弱みを握ることで、思い通りに支配して行く。

さて、「男性の非男性化、女性の男性化」という本題に入る前に、まずは最初にイゼベルの霊の心理的支配のテクニックについて述べておきたい。

以下の図は、以上の動画の画像に筆者が注釈を書き加えたものであるが、これはイゼベルの霊がターゲットとする人間を、自分に都合の良い「箱(マトリックス)」に閉じ込めた上で、様々な心理的な駆け引きを行うことによってターゲットを自分の支配下に束縛し、搾取・抑圧する手法を構造的に表している。
 
 
  
イゼベルの霊とターゲットとは、何らかの心の傷(コンプレックスや負の記憶のトラウマ)を通じて強固なソウル・タイによって結ばれている。この霊は一見、人の心の傷に優しく寄り添い、これを癒してやるように見せかけながら、ターゲットに近づいて行く。その偽りを見抜けず、心を開いたターゲットは、彼女の偽りの優しさに依存するようになる。だが、イゼベルの霊は、ターゲットの心の傷を癒すどころか、より押し広げ、ますます重症化して行くことで、ターゲットの弱みを半永久的に握って、自分から離れられないように仕向ける。「傷」を頼りに結ばれるこの「絆」が絶ち切れない限り、ターゲットはイゼベルの霊によって永久に搾取され、人格がどんどん弱体化して行くことになる。

イゼベルの霊は、愛や同情や優しさに見せかけて、自分がターゲットを搾取し、不当に抑圧していることを気取られないように、ターゲットを自分の用意した「マトリックス」(=イゼベルの霊の管理と統制が行き届いている閉鎖的な組織や宗教団体やサークル等)に閉じ込め、ターゲットが得られる情報が非常に偏った一方的な内容に制限されるように操作する。

情報こそ、人間が物を考え、自由を希求する上で最も有力となる手掛かりなのであり、人間へのマインドコントロールは、まずはターゲットとなる人間から自由な情報源を奪い、ターゲットを社会的に孤立化させて、得られる情報を制限することから始まる。ターゲットとなる人が客観的な情報を自由に幅広く入手した上で、自分自身の頭で、何が正しくて何が間違っているのかを自主的に吟味し、物事を疑いながら批判的に考察しながら判断を下す自由と考察能力を失った時点で、マインドコントロールの基礎はほぼ完成している。

イゼベルの用意する「箱(マトリックス、子宮)」はそのためにこそ存在する。つまり、この霊は、ターゲットがまるで子宮の中にいる赤ん坊のように、彼女からの栄養補給がなければ、自分では何もできないような、依存的で手足を縛られた状態にするのである。この霊は、ターゲットを何かの閉鎖的な組織や団体に閉じ込めることで、ターゲットが誰とでも自由に交流でき、様々な情報を自分の意志で広く入手できるような環境を奪う。経済的な自立を奪うことで、行動を制限することも少なくない。そして、この霊は、自分の気に入った一方的で都合の良い偏った情報だけを、ターゲットに「正しい情報」として与え、それ以外の情報を一切、「間違ったもの」として受けつけなくなるように教え込むことで、ターゲットが不都合な情報に接するのを禁じ、マインドコントロールを施す。

多くの場合、宗教団体がターゲットを閉じ込める「マトリックス」の役割を果たすことになる。イゼベルの霊は、「神」の概念を悪用することによって、自分にとって都合の良い情報にしかターゲットが接触しなくなるように仕向ける。彼女は、世話好きで、慈愛に満ちた優しい助力者、敬虔な信者や、宗教指導者の姿に仮装し、自分こそが人生の正しい指南役であるかのように、ターゲットの前に現れてその心を掴み、「神」や「宗教」に名を借りて、ターゲットが自分の与える情報や助言だけに依存して生き、彼女の思う通りの人間になるよう操作して行く。こうして、イゼベルの霊が、ターゲットを閉じ込めるための「子宮(マトリックス)」が完成する。

もしこの霊の閉じ込めがあまりにも乱暴で性急であれば、誰でも自分が操作されている危険に気づくであろう。そこで、イゼベルの霊は、ターゲットが自分は騙され、搾取されているだけなのだとは気づかないように、様々な偽りの「餌」を与えることで、ターゲットを懐柔しながら、アメとムチによって心理的駆け引きを繰り広げる。ある時は、ターゲットをおだてあげ、立派な指導者的な立場などを用意してやることにより虚栄心をくすぐり、ある時は、か弱いふりをして、泣き落としや、同情を引き出す作戦に出、ある時は、性的な魅力をアピールし、思わせぶりな態度を取ることで、恋人の代わりを演じ、ある時は、何か偉大な奇跡のような事柄を約束し、心を揺さぶる。そのようにして、ターゲットを様々な「餌」を使って自分に引きつけておきながら、いざターゲットがそれに騙されて近づいてくると、冷たく突き放して混乱させる。そして、その混乱した姿を見て、ターゲットを侮蔑し、恥をかかせ、それはターゲットが悪かったからそうなったのだと言っては、罪悪感を持たせ、態度の改善を求めて、自分から離れられないようにして行くのである。
 
このように相矛盾するメッセージを同時に投げかける心理作戦(ダブルバインド)に陥れられたターゲットは、イゼベルの霊の絶えず豹変する矛盾に満ちた行動にどう反応すべきか分からず、立ちすくんでしまい、彼女への同情心や、自分が慰めてもらいたい願望から、彼女を憎み切ることもできず、離れられないまま、対処に悩み続けることになる。そのように悩みながらこの霊と関わりを続けること自体が、すでにしかけられた罠にはまっていることを意味するのである。

さて、このようなマインドコントロールのテクニックを用いて人を思うがままに支配するイゼベルの霊の持ち主が、必ずしも、女性であるとは限らない。なぜなら、男性であっても、イゼベルの霊とソウル・タイを結べば、その人の人格は、やがてイゼベルの霊そっくりになって行くからである。

たとえば、筆者は以前の記事で、Kingdom Fellowship ChucrhのDr.Lukeによる信者への心理的駆け引きの手法についてすでに触れた。同氏には、青春時代において、将来の結婚を前提とする交際をしていた女性から結婚を求められた際に、曖昧な態度で身をかわし、返答を先延ばしにしたことがきっかけとなって、交際が破局したという事件が起きたことを、同氏自身が、自らのメッセージにおいて明らかにしていたことにも触れた。

Dr.Lukeはそれがきっかけで神を求めて回心に至ったと証するのだが、その後の人生でも、全くこれと同じパターンの行動を繰り返し、今度は、KFCという宗教団体を舞台として、そこへ集まって来る信者に対して、以上の女性に対して行ったのと同じ心理的駆け引きを繰り広げているのである。すなわち、同氏は、ブログやインターネットや動画や様々なツールを使って、いかに自分が霊的に高邁で魅力的な存在であるか(そこには性的な意味合いも当然ながら含まれる)をしきにりアピールしながら、人望を集め、その心理的トリックを見破れずに、同氏を魅力的な宗教指導者のように思って期待して近づいて来る信者らに対して、ことごとく「梯子を外す」ような行動に出て、彼らを失望させ、恥をかかせ、その信者らの混乱した様子を見て、「自分は何も約束していないのに、彼らは勝手に期待してぶら下がって来た。そういう依存的な心に問題があるのだ」などと言って彼らを侮蔑し、嘲笑するということの繰り返しであった。それでも、KFCに残り続けているのは、Dr.Lukeのそういう残酷な性格をよくよく理解した上で、殴られても殴られても夫のもとを去らない妻のように、何かの弱みがきっかけとなって、不当な扱いに完全に抵抗する力を失ってしまった信者たちだけである。

このように、何かの約束を口にしておきながら、それを守らず、あるいは思わせぶりな態度を取って人の心をひきつけておきながら、相手を突き放すことによって、ターゲットを混乱させ、その心を傷つけ、侮辱するという不誠実な行為は、典型的なイジメのテクニックである。こうした行動は、たとえば、Dr.Lukeが一方的に杉本徳久氏を提訴すると語った行動にも、よく表れていただろう。同氏は杉本徳久氏からの非難に遭遇した時、これに対してきちんと反論しようとはせず、誰も依頼していないにも関わらず、自ら勝手に筆者の名前を持ち出して、同氏に提訴の予告を行った。ところが、多くの関係者に絶大な影響を及ぼしたにも関わらず、同氏は、全く理由不明なまま、長期間に渡り、その宣言を実行に移そうとせず、ただ巻き込まれた関係者だけが大変な迷惑をこうむるという事態が起きた。Dr.Lukeがこの不誠実な行動に対して弁明らしき言葉を公に発したのはずっと何年も後になってからのことである。当時、筆者が同氏の行動の不誠実さを責め、どんなに対立している相手に対しても、そのような行動を取るべきでないと指摘し、回答を迫った時のDr.Lukeの反応は、まさに返答を先延ばしにすることで梯子を外し、自分の発言の影響に巻き込まれた全ての人間に恥をかかせ、追い詰めるものでしかなかった。しかも、KFC外の人間に対してはこのように曖昧な態度を取っておきながら、Dr.Lukeは元KFCの信者でありながら自分を批判する人間に対しては速やかな告訴に及んだのである。当時、同氏の行動の意味を正確に理解できる者はなかったであろう。

このようなことはすべてイゼベルの霊が行う心理的な駆け引きをよく物語っている。Dr.Lukeの行動は、自分の潔白を証明するために行われたものではなく、ただKFCという団体を通じて自分に接触して来た信者たちが、偽りの期待や、もしくは、何かのこじれた事件を通して自分自身につながり、半永久的に離れなれなくなることで、苦しめることを目的とするものであった。同氏は常日頃から特に何も事件が起きないまでも、他人にいたずらに期待を持たせておいて、約束したものを決して与えないことによって、いつまでも信者たちが自分から離れられなくなるように仕向けていたのである。

若い時分に、Dr.Lukeのこうした行動の背後にある不誠実さを見抜いた上で、同氏に対する希望を完全に捨てて、同氏の元を早々に去った女性は、その意味で、慧眼であったと言えよう。その女性に信仰があったのかどうかは知らないが、それに引き換え、これまで何十年間もDr.Lukeの人柄を観察して来たにも関わらず、今日になってもまだ、心理的なトリックを見抜けず、Dr.Lukeの信奉者となってKFCに束縛されている信者たち以上に愚かな存在はいない。むろん、彼らは何かの弱みを担保に取られていればこそ、不誠実な指導者といつまでも癒着を続けねばならない状況に陥っているのである。

このようなことは、村上密牧師のカルト被害者救済活動の場合にも、同じように当てはまる。村上牧師の人柄が、その外見とは裏腹に、全く信頼できない不誠実なものであることは、約14年前に鳴尾教会で同氏が引き起こした事件によって証明されている。村上牧師は、Dr.Lukeが公然とキリスト教界に反旗を翻すことで"ワル"をきどり、その挑戦的な態度で人気と注目を集めたのと同じように、キリスト教界に恨みを持つカルト被害者を集めて、裁判を通じてキリスト教界に戦いを挑むことで、自分自身を正義の味方のように見せかけたのである。

だが、その正義の味方としての立ち振る舞いも仮面に過ぎず、この牧師のもとに身を寄せた信者の中でも、裁判による解決に至るのはごくわずかでしかなく、裁判にも至らないケースが水面下に数多く存在し、真に解決を得られる信者は稀であった。さらに、鳴尾教会に対する訴訟に見るように、村上牧師自身が、スラップ訴訟としか言いようのない勝ち目のない裁判を自ら教会にしかけて、敗訴する側に回っている。そのように、問題解決の見込みがほとんどないにも関わらず、偽りの期待を持たせることによって信者たちを自分のもとに引きつけ、かつ、反対者をひどく中傷することで、自分自身の不誠実な行為の犠牲者となった人間を愚弄し、笑い者にするというのは、Dr.Lukeの行動とほとんど変わらない狭量さである。このような指導者が自らの配下にある者たちを守ることができないのは一目瞭然であろう。

だが、そうした特徴は、Dr.Lukeや村上密牧師といった個人に限ったものではなく、ペンテコステ運動全体の特徴でもある。天声教会のケースでも、KFCと全く同じように、教会という団体そのものが、指導者層が自分にとって都合の良い情報だけを一方的に信徒に信じ込ませるための「マトリックス」となっている。指導者自身も、社会から隔絶されたこの閉鎖的な環境に束縛されて、偏った物の見方しかできなくなっているが、信者たちもそこに束縛されている。

KFCや、天声教会や、カルト被害者救済活動のすべての例に共通するのは、彼らが指導者を中心に自分たちにとっての安全地帯である何かの「マトリックス」を作り、そこに閉じ込められている者だけが、正しい信仰の持ち主であって、自分たちの活動に反対する人間は皆、悪魔の手下であるかのような虚偽を流布している点である。さらに、既存のキリスト教界に対して挑発的に振る舞い、自分たちには従来のクリスチャンにはない正しさがあるかのように主張して、自分自身を正義の味方に見せかけ、常に反対者を侮辱したり嘲笑するようなメッセージを投げかけることで、批判を封じ込め、自分たちの優越性を主張しようとしている点も同じである。

彼らのメッセージ内容はほとんど全てが自分たちの正しさと優越性を誇示するためのものとなっている。それは彼らの「マトリックス」がいかに優れて正しいものであるかを、関係する信者たちに信じ込ませ、他の教会は堕落しているので決して行かない方が良いと思わせて、接触を禁じ、情報を統制した上で、自分たちのもとに永遠に束縛するために使われるマインドコントロールの手段である。

こうした指導者たちが、本当は、自分自身がまるで牢獄のような環境に閉じ込められて、自由を失っているにも関わらず、牢獄の外にはもっとひどい世界が広がっていると思わせることで、また、自分たちの活動に与しない反対者を徹底的に吊し上げ、公衆の面前で侮辱・嘲笑することによって、彼らの「マトリックス」の異常性に人々が気づいて脱走するのを阻止するという手法は、かつてソ連が取っていた政策にそっくりである。ソビエト・ロシアは、一国社会主義路線を取っていた間、世界から孤立していたが、戦争や計画経済の失敗によって国が荒廃し飢餓状態に陥ってもなお、自分たちの政策が世界に先駆けて優れたものであるという思い込みを捨てることなく、「西側の資本主義国では地獄絵図のような風景が広がっているが、それに比べれば、我が国はまるでユートピアだ」などと偽りの宣伝を行うことによって、国民の逃亡を阻止し、国外への亡命者に対しては「人民の敵」として大々的なバッシングを行うことで見せしめとし、国外逃亡に対してはこれを「罪」として死刑に相当する厳罰を科していた。共産主義という絶対にやって来ない幻を「餌」としてぶら下げることで、無いものを担保に、徹底的に国民を騙し、搾取し、支配していたのである。
 
なぜ以上に挙げたようなペンテコステ運動の指導者たちは、自己の教会を「マトリックス」化して、自由なき牢獄に自ら閉じ込められた上、他の者たちをも同じ牢獄に閉じ込めようとするのだろうか。そこにどんな目的があるのだろうか。

第一には、指導者が信者たちを食い物にして栄光を受け、金もうけをしたいという欲望があるだろう。イゼベルの霊は名誉欲の塊である。だが、彼女の内心は非常に空虚なので、自分一人だけでは何事も果たせず、常に手下となってくれる信奉者を必要とする。支持者や信奉者たちを搾取し、彼らから盗むことによってのみ、彼女は栄光を受けるのである。

この霊は偽りの希望を信者たちに持たせて彼らを欺いている間、信者たちから栄光を盗むだけでなく、金銭(献金)や労働(奉仕)をも搾取する。すでに述べた通り、ペンテコステ運動の指導者たちは、その出身を調べて行くと、その大半が、単なる「自称牧師」や「自称カウンセラー」などの、まともな教育訓練をほとんど受けていない、ただ勝手に指導者として名乗り出ただけの、ほとんど成り上がり者と言っても良いようなにわか牧者たちである。中には、明らかに問題のある環境に育ち、非行(場合によっては殺人さえ)などの眉をひそめる行為を繰り返していたり、回心してクリスチャンになった後でも、成熟した社会生活を送った経験がないに等しいような場合も珍しくない。このように、詐欺師と言っても過言ではないような不誠実かつ不適格な人間が、「聖霊のバプテスマ」を口実にして、何かの超自然的な霊力を誇たというだけで、無から一足飛びに宗教指導者として栄光の座に就き、短期間で、自分のミニストリーを開き、信者たちを集めて大金を巻き上げるのである。

こうした指導者は、(詐欺師はみなそうであるが)大胆で厚かましくパフォーマンスが巧みで、人の心の弱点を見抜いてそれを利用する技に長けているので、最初のうちは、弱者救済などを口実にして、既存のキリスト教界を勇敢に非難してその問題点をあぶり出し、悪代官をやっつける正義の味方のように振る舞い、人々の抱える問題に寄り添うことで、救済者のように振る舞い、注目を集め、感謝され、信頼され、期待されるかも知れない。

詐欺師は、無いところから幻に過ぎない栄光を引き出すために、他人の持っている栄光を盗むしかなく、その第一歩は、既存の秩序を引きずりおろして転覆させて、権力の空白地帯を作り出すことから始まる。彼らは従来の体制の不備を突き、それを転覆させる改革者のように装って現れ、その斬新で奇抜で挑戦的なパフォーマンスに圧倒された愚かな人々が、歓呼して彼らを支持し、そうした信者たちからさらに搾取して、自分の勝手気ままに支配できる団体(ミニストリー)を作り上げるのである。

だが、以上のようなペンテコステ運動の指導者たちは、突如としてどこからから現れ来て、一瞬、人々の注目をさらうものの、人間関係の結び方、行動があまりにも未熟で幼稚であり、不誠実かつ挑戦的なために、そのうち多くの人たちから相手にされなくなり、仲間内でも分裂し、孤立化して行くことになる。そうなると、何かしら一国社会主義路線のようなものが出来て、反対者も増えて来るので、信者の離散を食い止めるために、ますます彼らは疑心暗鬼に陥り、他の団体に対する敵意をむき出しにしながら、より厳しく情報を統制して引き締めをはかり、自己の優位性をしきりに強調して、信者を引き留めるしかなくなる。最後の一人が離脱するまで、自分の縄張りの外にいる信者たちを敵視・非難・断罪しながら、「自分たち(だけ)が正しい信仰の持ち主である」と言い張り続けるのであろう。指導者の不誠実な正体が早々に見抜かれてメンバー全員が離脱すればまだ良いが、そうならないうちに、指導者がいよいよ自分の正体が気づかれそうな段階になると、自らが責任追及されることを恐れて、人民寺院事件や、戦中の日本がまさにそうであったように、信者たちを道連れに集団的な心中ような悲劇的最期に向かうこともあり得る。そうなると、まさに「盗み・殺し・滅ぼす」という悪魔の意図が達成されることになる。
 
 
男性の「非男性化」と女性の「男性化」――イゼベルの霊が生み出す卑怯で軟弱化した男たちと尊大で厚かましい女性たち

さて、話を戻せば、筆者自身の目から見ても、ペンテコステ運動に関わる信者たちには、「女性の男性化」、「男性の女性化」という現象が顕著に見られた。
 
もっと卑近な言葉で説明するならば、この運動を特徴づけるのは、「男性の上に立ち、男性を思うがままに操ろうとする傲岸で不遜な女性たち」と、「そうした女性たちの尻に喜んで敷かれ、彼女たちの助けなくては何もできないほどまでに軟弱化した女々しい男性たち」であった。
 
ペンテコステ運動に関わる女性信者たちは、外見的には、非常に女性らしく、たおやかに、敬虔そうに、純粋そうに見えるかも知れない。以前、筆者は学生時代に遭遇した(後には著しいトラブルメーカーとなった)ペンテコステ信者について記事に記したことがあるが、彼女の場合も、その外見には、いずれそういう厄介な事態が持ち上がると予想させるものはなく、かえってある種の純粋な美しさのようなものさえ見て取れたものだ。その後、ペンテコステ信者たちとの関わりにおいて、筆者はこうした純粋そうに見える外見的な美が、この運動に関わる信者たちの多くに共通する特徴の一つであると分かった。

ペンテコステ運動に関わる女性信者たちは、一見、率直で、信仰熱心で、全てのことをあけっぴろげに語り、人の弱さに対しても敏感で、困っている他人にはかいがいしく寄り添う術を心得ており、その同情心溢れる行動や、親切心は、女性らしさや、内心の謙虚さの証のように見えるかも知れない。信仰生活においても、彼女たちは人助けに熱心で、自分が直面している問題や、様々な事柄についての印象を隠し立てなく語るので、それを信頼の証であるように誤解してしまう人もあるかも知れない。

だが、もう少し深く関わりを続けて行くと、そのぱっと見のたおやかさ、愛らしさ、優しさ、柔軟さとは裏腹に、彼女たちは内心では非常に頑固で、融通が利かず、しかも、一度、何かを思い込んだらどんなに周囲が止めても自制がきかないほどまでに猪突猛進で、その判断は、非常に偏っており、直情的で、非論理的で、一言で言えば、暗愚であり、何事も深く考察せず思いつきや印象だけで判断し、周囲の理解やサポートを度外視して、自分勝手に進んでいき、それにも関わらず、自分の判断に絶対的なまでの信頼を置いていることが分かるだろう。

彼女たちに何かを思いとどまるように説得するのは非常に困難である。なぜなら、彼女たちは、自分は他者よりも物事がよく分かっており、霊的に目が見えているのに、他者には自分ほど霊的視力がないから、自分の考えていることを理解できないのであって、そんな可哀想な彼らには、自分が逆に物事を教えてあげなければいけない、と考えているからだ。こうして彼女たちは、他者からの忠告を軽んじ、思い込んだ方向へまっしぐらに突き進んで行く。その勢いは止めようもないほど強引で、呆れながら見守っているしかない。すると、最後になって、やはり、彼女たちの確信は誤りだったのだということが事実として判明する。だが、それに巻き込まれた人たちは大変な迷惑をこうむるのである。

一言で言えば、ペンテコステ運動の支持者たちは、男女を問わず、大変なトラブルメーカーである。しかし、彼・彼女たちは、霊的な慢心に陥っているため、内心では自分を他者よりも賢いと思っており、自分がトラブルを引き起こしているとの自覚はない。彼らの自分は霊的に目が見えているという思い込みは、内心のコンプレックスの裏返しとして生まれる反知性主義から来る。

すでに述べたように、ペンテコステ運動の信者たちの中には、高学歴の信者は少なく、どちらかと言えば、マイノリティや、社会的に冷遇されて来た立場の信者が多く、女性信者たちの多くも、ごくごく平凡な主婦であったり、普通の人々であり、立派な学歴や、専門知識や、エリート的な職業を誇示して、自分は賢いとか、一般大衆に抜きんでた存在であるなどと言えるような人々はこの運動にはあまりいない。

だから、彼らは一見、自分たちは平凡な人間で、とりたてて賢いわけでもなく、特技があるわけでもないと振る舞っているが、その謙虚さも、真の謙遜ではなく、謙遜に見せかけた傲慢であり、彼らは謙虚そうな外見とは裏腹に、内心では、ひそかにあらゆる「知」を嫌悪し、憎みながら、無知である自分が最も賢いと考えているのである。

そのような考えが生まれる理由は、この運動の支持者らが、偽りの「霊」を受けていることにある。すでに述べた通り、ペンテコステ運動を率いる霊は、グノーシス主義的な秩序転覆の霊、人類の自己崇拝・自己栄化・ナルシシズムの霊である。この霊の特色は、まず反知性主義である。なぜなら、この霊の起源は、サタンが人類に吹き込んだ偽りの知恵に由来するからである。ペンテコステ運動が反知性主義的(別の言葉で言えば、体験主義)である理由は、まさにここにある。

なぜペンテコステ運動が体験重視なのかと言えば、それはこの運動が、もともとあらゆる知性(による考察と検証)を憎んでいるからである。この運動においては、何の論理的な裏付けも検証もなしに、信者たちが見せかけ倒しの奇跡や、安易な受け狙いのパフォーマンスに欺かれているが、そうなるのは、この運動に関わる信者たちがもともと深く物事を自らの頭で考察し、自分自身の知性によって検証することを馬鹿にし、嫌悪しているからである。こうした現象はペンテコステ運動を率いる反知性主義的な霊が引き起こしている霊的盲目である。

ペンテコステ運動の体験主義は、悪魔から来る偽りの知恵
であって、その起源は創世記において、エバが悪魔にそそのかされて、何が正しく、何が間違っているのかを自らの頭で考察・検証することをやめて、ただ感覚と印象だけに身を任せて、自分にとって美しく、好ましいと感じられる禁断の実を手に取って罪に堕落した時に、彼女に吹き込まれた偽りと同じトリックである。

悪魔は、決して信者たちに何事もきちんと考察・検証させず、ただ感覚と印象だけに従って、自分にとって好ましいものを選び取るようそそのかす。その上、そうした愚かで自己中心な行動によって、「神のようになれる」と吹き込むのである。今日も、ペンテコステ運動の信者たちは、何も考えずに自分にとって好ましいと思われる体験に安易に身を任せることで、自分が「神のように賢くなった」と偽りの高慢を吹き込まれているのだが、そんな思い上がりが、キリストの御霊から生まれて来ることは決してあり得ない。


ペンテコステ運動の信者たちは、内心では反知性主義的で、知性そのものを憎んでいる。彼らは、知性があるから、自分は賢いと考えているのではなく、「霊」を受け、何かの神秘体験を味わったから、自分には霊的視力が与えられたと思い込んでいるのである。彼らが「知性」だと考えているものは、その実、自らの欲にそそのかされる「愚かさ」であって、「霊的盲目」に他ならない。だが、その霊は、反知性主義的な高ぶりの霊であるがゆえに、それが愚かさに過ぎないことを気づかせず、むしろ、一番愚かな者に、「自分は一番賢く偉い」などと思い込ませるのである。


この反知性主義は、コンプレックスの裏返しでもある。もう一度、創世記で、悪魔がアダムとエバを堕落させるために欺いた時に用いた心理的トリックを振り返ると、悪魔は人類に向かって、「神は不当にあなた方(人類)の目から知性を隠して、知性を自分だけの専売特許として独占することによって、偉く賢い存在となっているのだ」などと思わせたことが分かる。悪魔は人類に対して、「あなた方は不当に教育(知)を受けられなかったがゆえに、未だ愚かさの中にとどめおかれているのであって、神のあなた方に対する扱いは不当である」という(神に対する)コンプレックスを植えつけたのである。

ペンテコステ運動の信者たちは、低い社会層の出身であることが多いと書いたが、彼らの中には、幼少期から満足な家庭環境がなかったために、心傷つき、あるいは低い社会層の出身であるがゆえに冷遇され、差別されたり、回心前には、少年時代からの不良であっていたり、非行に走っていたり、果てはヤクザになったりした者もある。こうした社会層の出身者には、たとえ無意識であっても、自分の生い立ちへの引け目があり、特に、「自分たちは貧しかったがゆえに不利な立場に置かれ、無学な状態に留め置かれ、十分な教育を受けられなかったために、こんなに愚かになってしまったのだ」というコンプレックスと恨みが心に存在していることが多い。そういう恨みは、特に、高い教育を独占することによって、有利な就職をし、高給にあずかり、「貴族」のごとく支配層となっている知的エリートに対する恨みとして心に潜んでいる。

その無意識の恨みと、被差別感情があるゆえに、彼らは常に自分よりも弱く、問題を抱えた人たちを周りに集めて、人々の救済者のように振る舞いたがるのであり、男性信者、男性指導者であれば、自分よりも知的な女性が目の前に現れた時に、コンプレックスゆえに彼女らを自分に対する大いなる脅威と感じ、敵愾心をむき出しにしたりするのである。

ペンテコステ運動の信者たちは、たとえ無意識であったとしても、いつまでも社会の底辺の敗残者とみなされたままでいることには我慢がならないという怒りと復讐心と、それでも、社会的弱者が知性において勝負しても知的エリートに決して勝つことはできないという確信から、自分たちを見下し、踏みつけにして来た知的エリートを出し抜くために、知性によらず、神秘体験を高く掲げることによって、エリートを凌駕し、復讐を果たそうと試みているのである。それは、彼らを導く霊がさせていることである。このようなことを全て認識した上で、この運動に入信する信者はいないであろうが、たとえ信者たちが認識していなくとも、この運動の根底に流れるものは、反知性主義を掲げることによる知的エリート(最終的には人類、神)に対する復讐である。

だから、こうした運動に関わる信者たちが、愚かな者こそ一番賢いと思って、一切の知的考察を退け、ただ感情と印象だけですべての物事をおしはかるような暗愚な行動を、「知」として誇っている背景には、自分は十分な教育の機会を不当に奪われて社会において冷遇されて来たがために、愚かさの中に閉じ込められて生きるしかなかったのだという恨みの念と、その劣等感ゆえに知性を軽んじ、嫌悪することで、あらゆる知的なものに対して優位に立ち、勝ち誇りたいという復讐心が潜んでいるのである。

筆者はむろん、この国の(あるいは世界の)知的エリートと呼ばれる人々の誇る知性が、必ずしも正しいものだとは思っていないし、彼らが高い教育を財力によって独占している状況もあるべきとは考えない。多くの国々では教育は無償化の方向へ進んでおり、それが世界的な流れであって、我が国もそうならなければならないと考えている。だが、たとえ、すべての人々が高い教育を受け、今とは比較にならないほどの知性を手に入れたとしても、まことの知恵はただ神にのみあり、人類にはどちらを向いても、正しい知恵はないのである。人間の知性にはいたずらに人を高ぶらせる効果がある。今日の知的エリートもまた歪み、病んでいる。だが、それでも、ペンテコステ運動の信者たちの知的エリート主義に対する反発から生まれる反知性主義がいただけないのは、たとえそれがどんなに表面的には、社会構造の歪みから生まれるやむを得ない反発であるように見受けられたとしても、その根底には、神に対する恨みに起因する、人類と神への挑戦という恐るべき性質が隠されているからである。特に、ペンテコステ運動の信者たちは、自らの無知や愚かさを「知」として誇ることで、内心では、悪魔の知恵を振りかざして神の知恵に挑戦しているのである。

こうした特徴のために、ペンテコステ運動に関わる信者たちは、うわべは柔軟で謙虚そうに振る舞っていても、内心では頑固で融通が利かず、一旦何かを思い込むと、周囲のどんな説得にも耳を貸さず、誰に対しても、自分の方が物事がよく見えていると思い込み、その思い込みに基づいて、他者を思い通りにコントロールしようとするのである。

だから、この運動に関わる女性信者たちは、外見がどんなに女性らしく見えたとしても、男性的なまでに猛烈なパワーを発揮してリーダーシップを握り、旋風のごとく周りを巻き込みながら、あらゆる物事を自分の思い通りに進めようとする。

そして、これと引き換えに、この運動に関わる男性信者たちは、軟弱で、意志薄弱で、女性たちからの助けがなければ何もできないほどまでに臆病で無責任な卑怯者となって、上記のような信者たちの言いなりになって、その掌で転がされ、彼女たちの命令に引きずられて行くのである。

このように「男性化した女性」と「非男性化された男性」との転倒した秩序は、たとえば、KFCで隠れてメッセージを語っていたBr.Takaこと鵜川貴範氏とその妻直子氏の関係性にも顕著に見られた。二人の内で主導権を握っていたのは、明らかに妻の方であった。直子氏の高圧的で恫喝的な物言いの前には、Br.Takaのみならず、Dr.Lukeもまるで忠犬のごとく従っていたのであった。

ペンテコステ運動に関わる男性たちが、このように大胆不敵な女性たちに屈従するのは、彼らの内面が空虚で、劣等感に苛まれ、自己が傷ついているためであって、彼らには真のリーダーシップを取れるだけの自信と力がないのである。こうした男性たちには、支持者に誉めそやされ、他者を押しのけて優越感に浸る以外には、自信の源となるものがない。そして、他者から何かを盗むことだけを生き甲斐としている。

筆者は、ペンテコステ運動(だけに限らないが)の信者たちが、勝手に人のメールを転送したり、他人のブログ記事を自分が思いついたもののようにメッセージで利用したり、聖書や先人たちの著書を無断印刷して大量に配布したり、これを自分の作品のように自分のブログで著作権表示もなしに縦横無尽に引用したり、改造する場面を幾度となく見て来た。その結果、こうした剽窃は、盗みなのだという結論に筆者は至っている。

彼らは、自分に近づいて来る信者から栄光を盗むだけでなく、手柄を盗み、思想を盗み、夢を盗む。特に、人の望みを奪って、他者を失望させ、隅に追いやっておきながら、自分だけが脚光を浴びて、すべての栄光を独占することで、気に入らない他者に対する圧倒的な優位性を誇示することが、彼らの最大の生き甲斐であり、よすがである。

この人々は内心が空虚なので、人から盗む以外には、自己の自信と力の源となるものが存在しない。彼らが力強く、大胆に、目を輝かせて、立派そうな態度を取り、雄弁なメッセージを語るのは、イエスマンの支持者に囲まれて誉めそやされ、持ち上げられている時か、教師然と人を上から教えている時か、他者を批判して引きずりおろしている時か、自分よりも弱そうな誰かに支援者のように寄り添い、人の弱みを巧みに聞き出しては内心で自分の優位性を確認して満足している時か、あるいは、自分の偉大な超自然的な力を誇っているような時だけである。

彼らは、人に正体を見破られ、おべっかを受けられなくなり、捧げてもらうものもなくなり、盗むものがなくなり、自己の優越性が失われると、完全に心弱くなって力を失ってしまう。彼らは自分が栄光を受けることのできる舞台には、好んで出かけて行くが、いざ自分が不利な立場に置かれ、人に非難されたりすると、途端に臆病になり、まともな反論一つもできずに、仲間を見捨ててさっさと逃亡し、自己弁護や反論の仕事を支持者たちに任せきりにしながら、自分は影に隠れて陰湿な復讐計画にいそしむことも珍しくない。

多くの場合、ペンテコステ運動のリーダーたちは、あまりにも自尊心が傷つきやすく、臆病で、ナイーブなので、普通の人々であれば、公然と反論できるような些細な疑問や批判にさえ、まともに立ち向かう力がない。それはただ自尊心が傷つきやすすぎるためではなく、内心では、自分が詐欺師だという自覚があるので、反論できないということもあるだろう。

こんなリーダーだから、男性であっても、自分や、配下にある人間を、各種の脅威から力強く守ることもできず、仲間が傷つけられても、我が身可愛さに、自分だけ難を逃れることを最優先して逃亡することしかできない。要するに、彼らは聖書のたとえにある通り、群れを守らない雇われ羊飼いなのであり、羊を食い物にして栄光を受けることだけが目的で、敵の襲来を受ければ、真っ先に羊を見捨てて逃亡するような、勇気と潔さのかけらもない、男らしさを失った、見栄と自己保身だけが全ての、卑怯で臆病な牧者なのである。

だから、そういう臆病で見栄っ張りで自己中心なリーダーの周りには、自然と、同じような取り巻きだけが残ることになる。そのように臆病でずるくて身勝手な人々が、自分たちの弱さ、欠点、醜さには目をつぶって、互いを誉めそやし、自分たちを高く掲げて、神に等しい存在とみなして自画自賛し、自分たちに逆らう者は「悪魔の手下」とみなして中傷し、追い払い、気に入らない他者を呪い、裁きや、破滅の宣告を下すのであるから、目も当てられない有様となる。もうこうなっては、男性らしさ、女性らしさ云々というレベルの話ではなく、人格が荒廃して狂犬のようになって人間らしささえ失っていると言った方が良いだろう。

ペンテコステ運動とは、現実の人生において、社会的に低い立場に置かれ、冷遇され、様々な弱さや屈辱感や劣等感を抱える人々が、地道な努力によって自己の弱さを克服することなく、また、真に神により頼み、信仰によって強められることによってその弱さを克服しながら歩んで行くのでもなく、自分自身の弱さからは目を背け、手っ取り早く、悪魔的な力を手にすることによって、栄光の高みに上り、自分を踏みつけにした人々を見返すための、霊的ドーピングのようなものである。

この運動に関わる信者たちは、自己の真の状態から目を背けて、偽りの神秘体験によって自分が飛躍的に偉大になったかのように錯覚している。そして、リバイバルなどと言った偽りの夢と、自分は神に油注がれた偉大な預言者であって他の信者たちとは別格の存在であるという思い込みに基づいて虚栄に生きているので、そのような目くらましの現実逃避に生きている期間が長くなればなるほど、人格が弱まり、現実の様々な問題に勇気を持って自ら直面しながら生きる力がなくなって行く。

彼らは常日頃から、宗教の世界に逃げ込み、誰もが立ち向かわなければならないような現実の諸問題との接触を避け、自分がいつでも人から賞賛を受け、決して憎まれ役や悪役になって名誉を傷つけられたり、対立に巻き込まれることもなく、ヒーローとなって活躍できるような、安全で夢のような幻想の舞台を、弱すぎる自己のための延命集中治療室として用意している。彼らはその「マトリックス」にあまりにも長期間引きこもっているため、精神的には手足をもがれたも同然の状態であり、その救命室から一歩でも外に出ると、もう自分では生きられないほどに弱くなっている。

現実世界においては、そんな彼らの弱さのために、多くの場合、こうした指導者らの家庭は深刻な危機にさらされている。夫婦仲が悪かったり、配偶者をよそにして信者との霊的姦淫にふけっていたり、子供たちが病に倒れ、自殺に追い込まれていたりするが、それにも関わらず、こうした指導者たちは、自らの崩壊しかかった家庭や、孤独に悩み苦しんでいる(あるいは死にかかっている)家族をかえりみようともせず、自分一人だけ脚光を浴びる舞台に立って、立派な教師然とメッセージを語り、人々の注目と拍手喝采を浴びて満足していたりする。最悪のケースでは、子供たちが自殺に至っても、その事件を「神が信者としての私に与えたもうた信仰の試練」などと言って美化・正当化し、自分の宗教活動の異常さに気づくこともなくさらに突き進んで行く有様である。

筆者は、異端の宗教はみな弱肉強食であり最終的には子殺しへと結びつくと述べて来たが、このような域まで達すると、信者が支払った代償も大きすぎるので、偽りに気づいて後戻りすることもほぼ不可能であろうと思う。ペンテコステ運動が信者に与える影響とは、このようなものなのである。どうしてそんなものが正常な信仰と呼べようか。

ところで、筆者の考えでは、真の男性らしさというものは、自分を傷つけられたり、脅かされたりする時にも、忍耐強く耐えしのびつつ、苦難に力強く抵抗し、言うべきことはしっかり言って反論もしながら、自分を守り、同時に仲間を励まし、希望を持ち続ける力にこそある。

真の男性らしさとは、人からいわれなく誤解されたり、非難されたり、評判を傷つけられたり、反抗されたり、あるいは突如、襲来する敵と戦いになって傷を受けても、自分と自分の配下にあるものを最後まで力強く勇敢に守り抜くことができる強さにこそある。この強さは、ただ単に肉体的な強さを意味するのではなく、何よりも精神的な強さを意味する。だが、その強さは、己のためにあるのではなく、自分よりも弱いものをかばい、声なき者の声を代弁するための強さである。だから、真に男らしい人間は、自分が憎まれ役になって泥をかぶることを厭わず、誤解されること厭わず、自分の栄光を愛さず、傷つけられても力づくで報復しない。このような強さと忍耐こそ、真の男気につながる賞賛に値する美徳ではないかと筆者は考えている。

真に完成された「男らしさ」は、人間にはなく、人類の救いのために、あらぬ嫌疑をかけられ、いわれなく誤解され、憎まれて、十字架において死に渡されることによって、人類の反抗を耐え忍ばれたキリストにこそ、最もよく表れているのではないかと思う。キリストにこそ、神は男性に本来的に与えられた理想的な忍耐力を余すところなく表されたのではないかと筆者は考えている。その忍耐力とは、自己の名誉や、自己の評判や、自己の安全を守るために、自己の圧倒的な強さを他者に見せつけ、他者を力づくで排除してでも、自分の正当性を主張するというものではなかった。むしろ、自分を理解しない者、自分を誤解する者、自分を非難し、自分に石を投げ、嘲笑する者のために忍耐し、また、自分の愛する者、自分の信じる者のために、自分自身を完全に投げ出して犠牲にし、愛する者が真に自分を理解して振り返ってくれる時まで、誰にも何事も押しつけることなく待つことのできる力であった。

むろん、このような完全な忍耐と自己犠牲は、キリストにしか提供することのできないものであり、神がついておられればこそ、御子の正しさが証明されるのであって、人間が神に代わって自己犠牲することで他者を救うことはできないし、それによって自分の正しさを証明することもできないであろう。だが、我々は、キリストを模範として、そこから学ぶことはできる。キリストは聖霊を受け、神の力を持っておられたにも関わらず、それを自己の強さや優位性を他者に見せつけて、他者を圧倒して排除する目的では用いられなかった。キリストの力は、自己の正当性を主張するためではなく、神の栄光を証するために、他者を生かすために用いられ、ご自身はその力によって武装することなく、自分自身を誇示することもなく、むしろ、徹底的な弱さの中を通らされることによって、ご自身ではなく、神に栄光を帰されたのである。

その行動を見れば、ペンテコステ運動の信者たちの目指している目的が、どれほどキリストの示された模範からほど遠いものであるかが分かるであろう。この運動は、神に栄光を帰さず、キリストを証しない。むしろ、神を口実として、人類が己を神以上に高く掲げ、自己を栄光化し、自分自身を「神」として崇拝することを正当化する。この運動は、キリスト教に名を借りていても、その本質は全くキリスト教ではない異質な思想であり、そこでは、劣等感や心の傷や怨念によって癒着した人々が、キリスト教界を仮想敵として団結しながら、聖書の御言葉に基づく真の知恵ではない、体験主義という偽りの知恵を掲げて、キリスト教に戦いをしかけ、怨念と反知性主義によって、クリスチャンを引きずりおろして、その代わりに自分自身を高く掲げるのである。

彼らは常に仮想敵を作っては、自分たちは敵に囲まれ、不当に攻撃されていると言って騒いでいる。その仮想敵は、主にキリスト教界を指しているのだが、一体、それほどまでにキリスト教界を非難し、攻撃し、侮蔑せずにいられない彼らの恐怖と疑心暗鬼はどこから来るのであろうか。それは、彼らの内心の拭い難い恐怖と劣等感――根源的には悪魔の恐怖と屈辱感――に由来する。自分たちの卑怯さを重々内心では分かっており、自分たちはいつか罪のゆえに必ず裁かれ、その裁きはすでに決定済であるという確信あればこそ、彼らは絶えず恐怖に怯え、自己正当化のために、キリスト教とクリスチャンに有罪宣告せずにいられないのである。彼らに裁きを宣告するのが、聖書の神であり、キリストの十字架であり、クリスチャンの証であればこそ、彼らは自分たちを訴える者を早々に取り除き、消し去ろうと、今日もキリスト教界を敵とし、キリストの十字架を敵とし、クリスチャンを敵として非難しながら、「バラバを赦せ!キリストを殺せ!」と叫んでいるのである。どうしてこんな運動がキリスト教の一派のわけがあろうか。