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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

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国家神道の異端的家族モデルーキリストの十字架の切り分けを否定して未分化の東洋思想への回帰を唱える危険な運動⑩

④ 国家神道の地上天国建設のための異端的家族モデル 続き

・神と人との断絶を認めない「和の大精神」とグノーシス主義的原初回帰の類似性

国家神道は、なぜ個人を家や社会や国家や自然環境と切り離せないものとみなし、それを離れての個人というものは「所詮本源を失った抽象論」に過ぎないとして、個人の概念そのものを退けて、個人をより強い存在の一部であるかのようにみなしたのか。

その理由としては、東洋思想においては、神と人との断絶が否定され、「神と人との和」という独特の思想が存在していたことが挙げられる。

キリスト教では、生まれながらの人間は、罪によって堕落しているがゆえに、神から切り離され、キリストの十字架における贖いを信じて受け入れることなくして、神と人との和解は不可能である。従って、信仰のないところでは、神と人とは敵対関係にあり、神と人とのいかなる「和」も存在しない。

しかし、国家神道は、東洋思想を基礎として神というものをとらえるため、キリスト教における「神と人との断絶」という概念そのものを否定する。

「国体の本義」は、東洋思想の「神」とは、キリスト教の神のように、人類を罪に定めたり、(残酷な)処罰によって脅かすような「恐ろしきものではなく」、「西洋の神話」に現れたような、「神による追放」、「処罰」、「厳酷なる制裁」のような、神の側から人類に対する一切の脅かしは存在しないのだと言って胸を張る。

そして、東洋思想においては、西洋思想と異なり、「神と人との間は極めて親密である」から、神と人との間には「一致」や「和合」があり、いかなる断絶も敵意も存在しないと誇らしげに言うのである。

このように、人間を罪に定めたり、脅かすことのない、愛と慈悲に満ちた「神」の概念は、人の耳にはまことに心地よく、都合よく響くであろうが、実際には、以下に示す通り、キリストの贖いの十字架を抜きにして主張される「神と人との和」ほど恐ろしいものはなく、それこそが、最も人間性にも反する様々な歪んだ概念を生み出す源となるのである。
 
 国家神道は、キリスト教における「神と人との断絶」という概念を否定したがゆえに、これを基礎として、天皇と臣民、人と自然、人と家、人と国家、などがすべて「一つの源」から生まれて互いに和合するものであると考え、それを根拠として、人が生まれ落ちた家や国から離脱することを許さず、「子」が「親」に仕え、弱い者が強い者に仕えて、その利益のために自分を犠牲として捧げて生きることを一生の義務とみなし、個人を家や社会や国家といった全体の一部分か、あるいは所有物のようにみなし、それを離れた個人という概念すらも否定するに至ったのである。

そして、このような「和合」を無理やり実現するために、国家神道は、残酷な異論の排除のための装置を生み出さないわけにいかなかったのである。

以下に、以前にも引用した「国体の本義」の「神と人との和」の抜粋をもう一度、挙げておく。そこでは、諸外国と比べて、いかに日本の思想の優れているかということが、嫌になるほど強調されており、その点で、これは自惚れと優越感と競争意識に満ちた醜悪な文章なのであるが、少なくとも、この引用を通して、明らかになるのは、東洋思想が「神と人との断絶はなく、神と人とは和合している」とみなしたことから、その「和」なるものが、人と全ての対象物との関係に無限に適用・拡大されて、「全世界は一つである」という思想を生んだ様子である。

国家神道は、東洋思想を基礎として、「神と人とは和合している」という主張から始まって、これを人と自然、人と人、人とすべての対象物との関係に当てはめ、万物は一つに調和しているという「和の大精神」を説くのである。
  
これはキリスト教の裏返しである。つまり、そこでは、鈴木大拙や、リューサーのような解放神学者が徹底して非難した聖書の「二分性」が完全に否定されて、すべてのものが「一体」であるとみなされ、世界を一元化しようとする試みがなされているのである。
  
東洋思想においては、神は「恐ろしい存在ではない」とされるのと同様、自然も人間にとっては脅威にならない、人間と調和した愛すべきものであるとされる。同様に、親子の関係、個人と家の関係、企業と社員の関係、国民と国家、臣民と天皇との関係といった、すべての関係性にはいかなる断絶もなく、すべてが一つに調和し、溶け合い、和合しているのが我が国の風景である、ということにされてしまうのである。
 
このように、神と人との関係をどうとらえるかによって、人と自然、人と人、人と世界の関係などのがすべてが規定されるのである。国家神道の言う「和の大精神」なるものは、「神と人との断絶」という聖書の二分性を否定したところから生まれて来る、全人類の一致、全世界の一致の思想であると言えよう。
 

国体の本義 
四、和と「まこと」
神と人との和 より抜粋

「更に我が国に於ては、神と人との和が見られる。これを西洋諸国の神人関係と比較する時は、そこに大なる差異を見出す。西洋の神話に現れた、神による追放、神による処罰、厳酷なる制裁の如きは、我が国の語事とは大いに相違するのてあつて、こゝに我が国の神と人との関係と、西洋諸国のそれとの間に大なる差異のあることを知る。このことは我が国の祭祀・祝詞等の中にも明らかに見えてゐるところであつて、我が国に於ては、神は恐しきものではなく、常に冥助を垂れ給ひ、敬愛感謝せられる神であつて、神と人との間は極めて親密である

  又この和は、人と自然との間の最も親しい関係にも見られる。我が国は海に囲まれ、山秀で水清く、春夏秋冬の季節の変化もあつて、他国には見られない美しい自然をなしてゐる。この美しい自然は、神々と共に天ッ神の生み給うたところのものであつて、親しむべきものでこそあれ、恐るべきものではない。そこに自然を愛する国民性が生まれ、人と自然との和が成り立つ。印度の如きは自然に威圧せられてをり、西洋に於ては人が自然を征服してゐる観があつて、我が国の如き人と自然との深い和は見られない。これに対して、我が国民は常に自然と相和してゐる。文芸にもこの自然との和の心を謳つた歌が多く、自然への深い愛は我が詩歌の最も主なる題材である。それは独り文芸の世界に限らず、日常生活に於ても、よく自然と人生とが調和してゐる。公事根源等に見える季節々々による年中行事を見ても、古くから人生と自然との微妙な調和が現れてゐる。年の始の行事はいふに及ばず、三月の雛の節供は自然の春にふさはしい行事であり、重陽の菊の節供も秋を迎へるにふさはしいものである。季節の推移の著しい我が国に於ては、この自然と人生との和は殊に美しく生きてゐる。その外、家紋には多く自然の動植物が用ゐられてをり、服装その他建築・庭園等もよく自然の芙を生かしてゐる。かゝる自然と人との親しい一体の関係も、亦人と自然とが同胞として相親しむ我が国本来の思想から生まれたのである。

  この和の精神は、広く国民生活の上にも実現せられる。我が国に於ては、特有の家族制度の下に親子・夫婦が相倚り相扶けて生活を共にしてゐる。「教育ニ関スル勅語」には「夫婦相和シ」と仰せられてある。而してこの夫婦の和は、やがて「父母ニ孝ニ」と一体に融け合はねばならぬ。即ち家は、親子関係による縦の和と、夫婦兄弟による横の和と相合したる、渾然たる一如一体の和の栄えるところである。

  更に進んで、この和は、如何なる集団生活の間にも実現せられねばならない。役所に勤めるもの、会社に働くもの、皆共々に和の道に従はねばならぬ。夫々の集団には、上に立つものがをり、下に働くものがある。それら各々が分を守ることによつて集団の和は得られる。分を守ることは、夫々の有する位置に於て、定まつた職分を最も忠実につとめることであつて、それによつて上は下に扶けられ、下は上に愛せられ、又同業互に相和して、そこに美しき和が現れ、創造が行はれる。

  このことは、又郷党に於ても国家に於ても同様である。国の和が実現せられるためには、国民各々がその分を竭くし、分を発揚するより外はない。身分の高いもの、低いもの、富んだもの、貧しいもの、朝野・公私その他農工商等、相互に自己に執著して対立をこととせず、一に和を以て本とすべきである。

  要するに我が国に於ては、夫々の立場による意見の対立、利害の相違も、大本を同じうするところより出づる特有の大和によつてよく一となる。すべて葛藤が終局ではなく、和が終局であり、破壊を以て終らず、成就によつて結ばれる。ここに我が国の大精神がある。而して我が国に現れるすべての進歩発展は、皆かくして成される。聖徳太子が憲法十七条に、
  和を以て貴しとなし、忤ふることなきを宗と為す。人皆党有り、亦達れる者少し。是を以て或は君父に順はずして、乍隣里に違ふ。然れども上和ぎ下睦びて、事を論はむに諧ひぬるときには、則ち事理自らに通ず。何等か成らざらむ。
と示し給うたのも、我が国のこの和の大精神を説かせられたものである。」


 当然のことであるが、こうして国家神道が美化し、謳い上げる「和の大精神」は、聖書に照らし合わせれば、事実に反する考えであり、これは何よりも、分離によって人類に死が入りこんだためにすべての二分性を克服して原初的統合を回復せねばならないとするグノーシス主義を思い起こさせる。

実際に、「和の大精神」なる考えの根底にあるのは、神と人との断絶を否定して、すべての関係における分裂を超えて、全世界を一元化したいという欲求である。

そこで、実際、そこで言う「和」なるものは、結局、グノーシス主義の目指す「原初的統合」の呼びかえに過ぎないと言うこともできよう。

しかしながら、このように聖書の「二分性」を一切否定したところに成り立つ「和の大精神」なる一元的世界は、実際には、自然の摂理にも反し、人間性にも反する完全な幻想に過ぎないのである。

こうした美辞麗句が虚偽に過ぎない幻想であったことは、この「和の大精神」のもとでの麗しい一致や和合が、実際には、暴力による弾圧や、強制的な異論の排除によらなければ、到底、実現不可能であったことからも分かるのである。
 



・聖書の二分性に逆らって世界を一元化しようとする試みは必ず異論を排除する暴力装置を生む
 
「国体の本義」がそのように自然で美しいものとして謳い上げる「和を持って貴しとなす」という精神が、具体的に、どのような方法で実現が試みられたのか、今日、我々は誰でも歴史を通して知っている。

国家神道の完成期に定められた悪名高い治安維持法は、この「和」を強制的に成し遂げるために欠かせない暴力装置の一環であった。治安維持法は、「国体の変革」を試みた人間に対する容赦のない弾圧を定めていたが、大正から昭和に変わるとさらに厳罰化が進み、「国体の変革」を試みた者に対しては死刑さえも導入されることになった。
 

治安維持法(旧法)(大正14年法律第46号)
 第一条 国体ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ之ニ加入シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁固ニ処ス
 2 前項ノ未遂罪ハ之ヲ罰ス

治安維持法(昭和16年法律第54号)
 第一条 国体ヲ変革スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者又ハ結社ノ役員其ノ他指導者タル任務ニ従事シタル者ハ死刑又ハ無期若ハ七年以上ノ懲役若ハ禁錮ニ処シ情ヲ知リテ結社ニ加入シタル者又ハ結社ノ目的遂行ノ為ニスル行為ヲ為シタル者ハ三年以上ノ有期懲役ニ処ス
 第七条 国体ヲ否定シ又ハ神宮若ハ皇室ノ尊厳ヲ冒涜スべキ事項ヲ流布スル事ヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者又ハ結社ノ役員其ノ他指導者タル任務ニ従事シタル者ハ無期又ハ四年以上ノ懲役ニ処シ情ヲ知リテ結社ニ加入シタル者又ハ結社ノ目的遂行ノ為ニスル行為ヲ為シタル者ハ一年以上ノ有期懲役ニ処ス


国家神道が、このような弾圧を通してしか、「和の大精神」を実現できなかった様子を見ても、 そこで唱えられている「神と人との和」から始まって「人とすべてのものとの和」が、しょせん、神話であり、虚偽に過ぎなかったことがよく分かるのである。

国家神道は、神を人間を脅かす恐ろしい存在ではないととらえることによって、我が国は、西洋諸国の陥った二分性の行き詰まりを避けて通れるかのように主張していたわけであるが、実際には、西洋諸国の人間と違って、我が国の人間だけがそうしたことを自然になしうる特別な人間性を備えていたなどということはまずありえない話であった。
 
「国体の本義」が高らかに謳い上げる「神と人との和」、あらゆるものの調和は、実際には、暴力によってしか成立し得ず、維持することもできない、人間性に反する幻の概念に過ぎなかったのである。
 
だが、この「神話」をリアリティと見せかけ、国民を天皇の傘下に一致団結させて、「一家族国家」の理想を成し遂げ、なおかつ、これを全世界にまで押し広げるために、当時の日本政府は、国家神道の理念を否定する者たちをことごとく暴力的に弾圧、排除し、殺したり、処罰したりすることによって、強制的に自ら理想とする「和」を作り出そうとしたのである。

こうして、神というものを、人間を罪に定めたり、処罰したり、追放したり、脅かしたりすることのない「愛と慈悲の神」と定義すると、逆にその「神」の概念を保つために、人間を容赦なく弾圧し、罪に定め、処罰し、追放せざるを得ないというパラドックスが発生するのである。
 
こうした矛盾はすべての異端思想につきものなのであり、だからこそ、「神と人との断絶」を否定する思想は恐ろしいのだと言える。国家神道と全く同じことが、ペンテコステ・カリスマ運動や、共産主義の唱える地上天国の理想にもあてはまった。共産主義思想においては、共産主義ユートピアを実現するためには、階級的を抑圧して滅ぼし、人類を一元化するための抑圧機関としての秘密警察がなくてはならないものとして、理論上、認められていたが、ソ連時代の秘密警察はまさにその理論に忠実に従って作り上げられたものであった。

また、ペンテコステ・カリスマ運動を推進するアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団は、「リバイバル」という地上天国による一致を唱える一方で、カルト監視機構や、カルト被害者救済活動といった、キリスト教界を力によって制圧し、強制力によって一致を作り出すための抑圧機関を提唱せざるを得なかった。
 
つまり、異端思想が目指す全人類の一致という全世界が一元化された地上天国の理想と、これを実現するための暴力・強制力による排除の装置は、コインの両面のように表裏一体なのであり、目に見える地上天国を唱えるすべての運動には、必ず、その半面として、世界を一元管理するための暴力装置、抑圧機関が欠かせないものとして伴うのである。

なぜそうならざるを得ないかと言えば、そのような全人類の調和や一致は、もともと人間性に反する達成不可能な幻想であり、強制力によって異論を排除し、恫喝して反対者を黙らせる以外には、決してあるように見せかけることもできない虚偽だからである。
 
このような偽りの思想、しかも、聖書の神に悪質に敵対するバベルの塔としての全人類の一致を唱える思想という点において、実際には、国家神道も、共産主義思想も、統一教会も、ペンテコステ・カリスマ運動も、基本構造は全て同じだと言えるのである。

これらの思想は、どんなに「神と人との和」や「和の大精神」などの言葉で、「全人類は一つの家族」などといった人類一致の理想を唱えていたとしても、本質的にそれはキリスト教への敵対意識、聖書の神への敵対意識から生まれて来た悪魔的思想なのであり、その幻想に過ぎない全人類の一致という偽りの理想を実現するために、最も反人間的で容赦のない暴力的な弾圧を人間に強いることになるという点でも、実に悪魔的な特徴を持つ思想であり、基本構造が全く同じなのだと言えるのである。



・西洋思想と東洋思想との混合物を作り出すことによってキリスト教を凌駕することを使命とする国家神道

「国体の本義」の提唱する、世界の一元化を目指す「和の大精神」の理想は、キリスト教の二分性にそぐわず、聖書に敵対する思想であることは明白であるが、そうであるがゆえに、「国体の本義」は、自ら唱えている理想は、西洋思想とは根本的に全く異なるものであることを幾度も強調せざるを得なかった。

結局、国家神道とは、まさに鈴木大拙氏が非難したようなキリスト教の「二分性」そのものに対抗するために生まれて来た、聖書に敵対する思想なのである。

以下の抜粋を読めば、国家神道の主張が、鈴木大拙氏の主張とほぼ変わらないものであり、その根底には、西洋思想に対する敵意が流れていることがよく分かるであろう。

「国体の本義」もまた、鈴木大拙氏と同じように、キリスト教の二分性こそが、西洋諸国に個人主義の弊害を生み、世界を行き詰まりに追い込んでいる元凶であるとみなしていた様子が分かる。そして、結局、このようなキリスト教の二分性に基づく西洋的な行き詰まりを打開するためには、西洋思想の欠点を補うことのできる東洋的発想を持ち込んで、西洋思想と東洋思想の混合物である「新日本文化を創造する」ことがぜひとも必要であり、それによって世界文化に貢献することこそ、我が国の使命であると考えていたことが分かるのである。

国家神道は、あからさまに西洋思想を全否定した上で、東洋思想を高く掲げることによって、西洋思想の「行き詰まり」を打開できるとするのではない。むしろ、西洋文化の長所はあくまで長所として学び、取り入れながら、そこに東洋的(日本的)エッセンスを加えることにより、両者を合体した新たな文化を打ち立てようとするのである。

ここに西洋と東洋との思想的混合物を作ることを悲願とする終末のバビロン宗教の一つとしての国家神道のミッションが見えて来る。
 

「国体の本義」、結語、新日本文化の創造、より抜粋

 これを要するに、西洋の学問や思想の長所が分析的・知的であるに対して、東洋の学問・思想は、直観的・行的なることを特色とする。それは民族と歴史との相違から起る必然的傾向であるが、これを我が国の精神・思想並びに生活と比較する時は、尚そこに大なる根本的の差異を認めざるを得ない。

結語、諸般の刷新、より抜粋

 明治以来の我が国の傾向を見るに、或は伝統精神を棄てて全く西洋思想に没入したものがあり、或は歴史的な信念を維持しながら、而も西洋の学術理論に関して十分な批判を加へず、そのまゝこれを踏襲して二元的な思想に陥り、而もこれを意識せざるものがある。

<中略>

 かくの如く、教育・学問・政治・経済等の諸分野に亙つて浸潤してゐる西洋近代思想の帰するところは、結局個人主義である。而して個人主義文化が個人の価値を自覚せしめ、個人能力の発揚を促したことは、その功績といはねばならぬ。併しながら西洋の現実が示す如く、個人主義は、畢竟個人と個人、乃至は階級間の対立を惹起せしめ、国家生活・社会生活の中に幾多の問題と動揺とを醸成せしめる。

 今や西洋に於ても、個人主義を是正するため幾多の運動が現れてゐる。所謂市民的個人主義に対する階級的個人主義たる社会主義・共産主義もこれであり、又国家主養・民族主義たる最近の所謂ファッショ・ナチス等の思想・運動もこれである。

  併し我が国に於て真に個人主義の齎した欠陥を是正し、その行詰りを打開するには、西洋の社会主義乃至抽象的全体主義等をそのまゝ輸入して、その思想・企画等を模倣せんとしたり、或は機械的に西洋文化を排除することを以てしては全く不可能である。


結語、我らの使命、より抜粋

 今や我が国民の使命は、国体を基として西洋文化を摂取醇化し、以て新しき日本文化を創造し、進んで世界文化の進展に貢献するにある。我が国は夙に支那・印度の文化を輸入し、而もよく独自な創造と発展とをなし遂げた。これ正に我が国体の深遠宏大の致すところであつて、これを承け継ぐ国民の歴史的使命はまことに重大である。

現下国体明徴の声は極めて高いのであるが、それは必ず西洋の思想・文化の醇化を契機としてなさるべきであつて、これなくしては国体の明徴は現実と遊離する抽象的のものとなり易い。即ち西洋思想の摂取醇化と国体の明徴とは相離るべからざる関係にある。

世界文化に対する過去の日本人の態度は、自主的にして而も包容的であつた。我等が世界に貢献することは、たゞ日本人たるの道を弥々発揮することによつてのみなされる。


こうして、「国体の本義」によると、西洋文明の舞台に遅れてやって来た日本が、西洋キリスト教国の行き詰まりを見抜いた上で、これを打開する有効な策を提示することによって世界をリードし、西洋思想と文化の欠点を巧みに補いながら、世界文化に貢献することができるということになり、なおかつ、それが我が国の使命であるとされるのである。

このように、比較的「後進国」である国が、「先進国」の誤りや行き詰まりを飛び越えて、一足飛びに世界の救済者になれるという発想は、ロシアの革命以前の初期の社会主義思想を彷彿とさせるものである。当時、ゲルツェン等の初期の社会主義者らは、帝政ロシアが資本主義においては比較的後進国であるがゆえに、先進諸国の腐敗や堕落を踏襲することなく、これを避けて通りながら、ロシアの農村共同体を神聖な核として一足飛びにユートピアに至りつけるとみなしていたのであった。

国家神道もそれと同じように、日本は西洋文明の優れたところを取り入れ、これに学ばなければならないとしながらも、同時に、キリスト教の二分性を根源とする西洋思想の弊害としての個人主義の行き詰まりを糾弾し、言外に、我が国は東洋思想を基礎としているがゆえに、そのような西洋的行き詰まりを避けて通りながら、一足飛びに、独自の発展形態を辿り、世界をリードすることができると主張して、西洋思想に対する東洋思想の優位を誇るのである。優位性を誇るのみならず、その思想を核として世界を西洋的な行き詰まりから救うという世界救済が可能であるという結論にまで行き着くのである。

しかしながら、このようなメシアニズムの思想は、西洋文明に対する劣等感の裏返しとしての歪んだ選民意識に基づく実現不可能かつお節介で厚かましい一種の誇大妄想のようなものでしかないことに加え、そのように西洋思想と東洋思想との折衷案を作り出すことは、キリスト教の側から見れば、到底、容認できない異端のレシピに他ならない。

なぜなら、それは単に文化や技術だけでなく、「西洋的な神」と「東洋的な神」を混ぜ合わせることによって、思想的・宗教的混合物を作ろうとするのは、明らかにまた新たな異端の発生を意味するからである。

どう考えても、キリスト教の父なる神と、天照大神を互いになじませようというのは、無理な相談である。だから、そのようなことを企てれば、どちらかが排斥されることになるのは間違いない。東洋思想を高く掲げている国家神道が、キリスト教の神に十分な注意を払うことはあり得ない。従って、国家神道が述べている西洋思想の長所を取り入れた上での「新たな日本文化の創造」なるものは、結局、キリスト教の否定に他ならないのであって、それはキリスト教の側から見れば、実現不可能な幻想であるばかりか、キリスト教にまた新たな異端を作り出そうとする冒涜的思想に過ぎないのである。

そして、国家神道の提示する異端作りためのレシピも、何ら新しいものでなく、古くからグノーシス主義によって温められて来た思想の焼き増しに過ぎない。

そこにあるのは、西洋思想と東洋思想を混ぜ合わせることによって、キリスト教の父性原理の二分性に母性原理の受容性を補い、それによって、世界をキリスト教の二分性の抑圧から解放しようという、あの伝統的なレシピである。

国家神道において最高位の「神」とされる天照大神の性別については、議論も存在するようであるが、天照大神は、通説では大抵、女神とみなされている。

東洋思想における「神」の概念が、大抵、母性原理の象徴を指すことを考えても、天照大神は女神とする方が自然である。すでに見て来たように、東洋思想は、万物の根源を父性原理にではなく、母性原理に求める。そして、万物を生み出す根源としての母性原理の象徴を「神秘なる母性」、「母なる混沌」として賛美するのである。

グノーシス主義神話においては、男女の対が完全とみなされることから、「父・母・子」という異端的三位一体が提唱され、真の神は「原父」という男性的属性とみなされてはいるものの、実際には、グノーシス主義神話においては、男性的属性としての神に対して、女性的属性が反逆を企てることが正当化されるストーリーがあるため、実際には、これは母性原理を父性原理よりも高く掲げる思想だ、とみなすことができる。筆者の考えでは、東洋思想における母性崇拝は、まさにこのグノーシス主義神話を基盤として生まれて来たものなのである。

そこで、もし天照大神を通説に従って女神とみなすならば、以上に述べたようなグノーシス主義的特徴が、国家神道にもぴったり当てはまることになる。

つまり、国家神道のミッションとは、キリスト教の父性原理の二分性のために行き詰まりに陥っている西洋思想に、天照大神を最高位とする東洋的な母性原理を補うことによって、世界を西洋文明の行き詰まりから解放してやろうという思想だ、ということになるのである。

たとえ表向きには、「母性原理を補う」などと慎ましげな表現を用いていても、実際にそこにあるのは、聖書の「唯一の神」の否定であり、「父なる神」を押しのけて、「母性原理」をそれ以上に高く掲げようとする思想であり、聖書の神に対する敵対・反逆の思想である。

国家神道の理念も、結局、煎じ詰めれば、「キリスト教の父性原理の二分性の抑圧から世界を解放せねばならない」というおなじみの主張へと行き着く。アジアの諸国を欧米列強の植民地から解放することを名目とした大東亜共栄圏なる概念の根底にも、この歪んだメシアニズムの思想が流れている。つまり、列強植民地支配からの解放という題目をどんなに表向きに唱えていても、その根底にあるのは、キリスト教そのものへの拭いがたい敵意と対抗意識であり、結局、そこにあるのは、解放神学者らと同じ、「キリスト教の二分性の抑圧と支配から全世界を解放することが我らの使命である」という思想なのである。

そのような観点から見ると、「国体の本義」が随所で盛んに西洋思想の弊害であるとあげつらって非難している「個人主義」にも、結局のところ、キリスト教の二分性への敵意が秘められているのだと言える。

それはちょうど解放神学者リューサーが、キリスト教の男女の二元論が、あらゆるものに断絶と疎外をもたらしたと非難したのと同じであり、国家神道が主張しているのも、キリスト教における「神と人との二分性」こそが根源となってバラバラの個人主義が生まれたのであり、西洋思想はこのキリスト教の「欠点」を克服せねばならない、ということに他ならないのである。

西洋諸国における「個人」の概念は、まず、神から切り離された人間の孤独を前提としなければ、決して生まれて来ることのない概念である。まず「神と人との断絶」という聖書の事実があって、そこから、西洋思想における個人という概念が発生するのである。

しかしながら、東洋思想は、神と人との断絶を全く認めないことから、個人を全体の一部とみなし、全体を離れた個人という概念すらも否定することしかできない。そのように聖書の二分性を否定して、世界を一元化してとらえようとする試みは、結局は、「和の大精神」という美辞麗句の下での残酷な異論の排除と、個人の諸権利の否定と抑圧、反人間的な弾圧を生むだけであることはすでに書いた。

だが、国家神道は、何とかして「神と人との断絶」をないものとし、人間が神から排除されているという事実を否定したいのである。そのためにこそ、聖書の神を否定して、そこに東洋的な「愛と慈悲の神」を持ち出すことにより、キリスト教の父性原理の二分性を溶解し、無効化しようと試みるのである。さらには、個人という概念そのものを否定してまで、神と人とは一つであり、人は世界と一つであると主張するのである。

結局、国家神道の目指している目標とは、解放神学や、ペンテコステ・カリスマ運動と同じように、「キリスト教の二元論の抑圧からの全人類の解放」、もっと言えば、「全世界のキリスト教からの解放」だと言って差し支えない。

そこにあるのは、聖書の「父なる神」の否定と、それに対する人類の側からの反逆の試みである。その試みを天照大神を持ち出して来ることによって、また、天皇皇后という「霊の父母」を持ち出すことによって正当化しようとしたのが国家神道だと言えるのである。



・「子」を守る「父」が存在せず、「子」が「母」のために命を捨てることが義務化される東洋的な「母子家庭」としての国家神道の転倒した家族モデル


そのようにしてキリスト教の父性原理の二分性を「欠点」として非難し、「霊の父母」を持ち込むことによって、キリスト教に「父・母・子」の異端的三位一体を築き上げ、それによってキリスト教に母性原理を補い、西洋思想と東洋思想との合体を試みようとする異端思想は、今までに見て来たように、必ず、途中で、「父」に対する「母」の反逆が起こり、結果として「父」を持たない私生児が生まれるだけに終わる。

以前の記事で筆者は、創造(=命を与える行為)は「父なる神」の働きであって、母性原理が単独で命を生み出す力はなく、それにも関わらず、万物の生命の根源を女性原理にあるとみなす考え方は、聖書の秩序を転倒させて、母性原理を創造者に据えることによって、父なる神の権威を否定して、母性崇拝を肯定する聖書に敵対する反逆の思想である、ということを述べた。

フェミニズム神学もそのように聖書の秩序を転倒させるべく生まれて来た思想の一環であり、「母性原理」を万物の生命を生み出す根源として父なる神以上に高く掲げる思想は、どれも最終的には「父なる神」の否定と、その結果としての「母子家庭」と「父なし子」の発生という悲しい結末を生むだけに終わる。

聖書の父なる神は、ご自分の子らを守るために、自ら人類に必要な救済を全て用意された神である。主イエスが、「人の子が来たのは、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」と言われたように、多くの人々を命にあずからせるために、父なる神はその独り子の命をも惜しむことなくお与えになったのである。

しかし、このまことの命である方を否定して、神による唯一の救済を退けて、人類にとって脅威とならない別の「愛と慈悲の神」を提唱する思想は、必ず、その偽りの神を「救済」するために、信者が命を投げ出すことを要求する残酷なものとならざるを得ない。

そのためにこそ、鈴木大拙氏が述べているように、「父を持たない宗教」である東洋思想の根源には、「(子が)母を守る」という転倒した家族関係が義務づけられているのである。最終的には、「子」が「親」のために犠牲となって死ぬことが、「子」の「親」に対する義務として説かれるのである。

その点で、国家神道も全く例外ではない。
 

第一 大日本国体、三、臣節、忠君愛国 より抜粋

我が国は、天照大神の御子孫であらせられる天皇を中心として成り立つてをり、我等の祖先及び我等は、その生命と流動の源を常に天皇に仰ぎ奉るのである。それ故に天皇に奉仕し、天皇の大御心を奉体することは、我等の歴史的生命を今に生かす所以であり、こゝに国民のすべての道徳の根源がある。

 忠は、天皇を中心とし奉り、天皇に絶対随順する道である。絶対随順は、我を捨て私を去り、ひたすら天皇に奉仕することである。この忠の道を行ずることが我等国民の唯一の生きる道であり、あらゆる力の源泉である。されば、天皇の御ために身命を捧げることは、所謂自己犠牲ではなくして、小我を捨てて大いなる御稜威に生き、国民としての真生命を発揚する所以である。


国家神道において、臣民は天皇の「赤子」であるとされたにも関わらず、その「赤子」である臣民を天皇が守る必要はなく、むしろ、臣民こそが「絶対随順」によって「我を捨て私を去り、ひたすら天皇に奉仕する」ことが、「我等国民の唯一の生きる道」であって、「あらゆる力の源泉」であるとされた。さらには、臣民が「天皇の御ために身命を捧げる」ことこそ、「国民としての真生命を発揚する所以である」とまで説かれたのである。

こうして、臣民が天皇に仕えるために自ら命を捨てることは、「自己犠牲」ではなく、「小我を捨てて大いなる御稜威に生き」ることであるから、断じて「犬死」などではなく、「真生命を発揚する」ことだとして美化されたのである。

一体、母胎の中にいる「赤子」に過ぎないような無力な者が、どうやって「親」を守ることなどできようか。「赤子」こそ守られるべき存在であって、「親」がその生命を絶やさないように注意して見守っていなければ死んでしまうような弱い存在である。

しかし、国家神道においては、上記のような詭弁によって、親子の関係は逆転され、「赤子」が「親」のために命を捨てるよう義務づけられ、「死」に過ぎないものが「真生命の発揚」にすり替えられ、勝ち目のない戦争において、若者を特攻に赴かせるような無謀な犠牲が、連綿と美化されて行ったのである。

むろん、国家神道には、聖書のように復活という概念はないので、天皇のために死ねば「神になれる」という偽りの他、死によって得られる功績など皆無である。

このように、人類に命を与えるために独り子の命を惜しみなくお与えになった聖書の父なる神を退けてまで、人間が勝手に担ぎ出した偽りの神は、人に命を与えるどころか、我が身の保身のために、臣民の命を大量に奪うことしかできなかった。もし本当に万物の生命の根源が「神秘なる母性」にあるのだとしたら、どうして天照大神の子孫である者が、臣民の命を奪うことによってしか、己を存続できない理由があろうか。一体、神を救済するために、信者が犠牲になって死ななければならないような転倒した思想において、「我等の祖先及び我等は、その生命と流動の源を常に天皇に仰ぎ奉るのである。」という文句の根拠は、どこに求められるのであろうか。

このことは、結局、神でないものを神とすれば、その偽りの神のために、人は己の命を無駄に奪われる結果にしか至らないことをよく物語っている。まことの神は人に命を与えるが、異端の神は命を奪うのである。そのようにして、万物の生命の源がどこにあるのか、創造の力を持つ者とは誰なのかという問題の答えが逆説的に証明され続けているのだと言えよう。

こうして、親の名誉のために子が犠牲となって死ななければならず、偽りの「神」の「救済」ために「信者」が絶えず生贄に捧げられるしかないという転倒した世界が、「父なる神」を持たない「母子家庭」としての宗教である東洋思想においては連綿と広がっている。そのようなものが果たして「愛と慈悲の神」であろうはずもなく、そんな「神」と運命共同体にされることは、人間にとって不幸以外の何物でもないのだが、このような思想を信奉している人々には、「愛と赦しと受容」という優しい仮面の裏側に隠された偽りの神の残酷さが分からないのである。

国家神道も、東洋思想の系列に属していればこそ、あれほどおびただしい犠牲を人類に当然のごとく要求したのであり、それが鈴木大拙氏が「母を守る」という言葉で美化する東洋的世界観の実態なのである。

<続く>

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国家神道の異端的家族モデルーキリストの十字架の切り分けを否定して未分化の東洋思想への回帰を唱える危険な運動⑨

④ 戦前の国家神道における天皇・皇后を「真の父母」として国民がその「赤子」となって従う「一大家族国家」という異端的理想
 

さて、前の記事では、統一教会や、プロテスタントの牧師であり、カリスマ運動指導者である手束正昭氏の提唱する教会成長論に見られるような、「父・母・子」という異端的な三位一体の解釈に基づいて、宗教指導者夫妻を「霊の父母」、信者を「子」とみなして、「一つの霊の家族」に連なる信者の家庭を地上で増やすことにより、やがて全人類を「一つの霊の家族」に結び付けて、地上天国が成就されるとみなす考えが、根本的にグノーシス主義に由来する異端であることを確認した。

このように、「父・母・子」という異端的三位一体論を基礎として、目に見える形で地上天国を成就しようという考えは、異端思想の基本理念であると言える。その点で、ペンテコステ・カリスマ運動の目指す「リバイバル」と、統一教会の目指す「全人類一家族理想」とは、名称が異なっていても、ともに異端思想の最終目的としての一つの霊の家族から成る地上天国を目指している点で、根本的に同一なのである。

むろん、異端思想の全てはキリスト教を換骨奪胎してできる疑似キリスト教なのであり、そこで唱えられる地上天国の理想も、聖書における神の国の模倣である。聖書における神の国は、人の目で見られるような形で来るものではないが、異端思想は一様に、これを目に見える地上天国という形に置き換える。

また、聖書においてはキリストによって生まれた兄弟姉妹は神の家族であり、「あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。」(Ⅰペテロ2:5)とあるように、霊の家の建造というアイディアが存在するが、異端思想も「一つの神の家」という聖書のアイディアを模倣する。そして、聖書における神の家はキリストのみを土台として築き上げられるものであるが、異端思想はそこにキリスト以外のもの――「霊の父母」――などを持って来て、これを基礎に「一つの霊の家」を築き上げようとするのである。
  
さて、こ
こからは、戦前の日本の国家神道においても、上記の統一教会やペンテコステ・カリスマ運動に見るのとほぼ同様の異端的家族モデルに基づく地上天国の夢が提唱されていたことを振り返りたい。

国家神道においては、天皇を現人神として、万世一系」という「神の血統」を持つ「霊の父母」である天皇・皇后を頂点に、日本国民全体がその「赤子」となって天皇に仕えることで、「一大家族国家」を築き上げ、天皇皇后の「永遠の統治」を確立するという「聖旨」の大義を成し遂げることにあるとされた。

つまり、当時、国家神道のイデオロギーに基づき、日本という国全体が「一家族国家」という異端的家族モデルの理想を成就するための母体(実験場)とされたのである。また、その「一家族理想」のモデルは「八紘一宇」の名で、国境を超えて、全世界にまで適用されるべきと概念が押し広げられた。その点でも、これはまさにあらゆる異端思想に共通する事実上の地上天国の夢であった。

すでに幾度か引用して来た「国体の本義」にはこうある。
 

文部省、「国体の本義」、
第一 大日本國體、一、肇國より抜粋

「大日本帝國は、萬世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ、我が萬古不易の國體である。而してこの大義に基づき、一大家族國家として億兆一心聖旨を奉體して、克く忠孝の美徳を発揮する。」
第一 大日本国体、二、聖徳、愛民 より抜粋

 天皇の、億兆に限りなき愛撫を垂れさせ給ふ御事蹟は、国史を通じて常にうかがはれる。畏くも天皇は、臣民を「おほみたから」とし、赤子と思召されて愛護し給ひ、その協翼に倚藉して皇猷を恢弘せんと思召されるのである。


 
一大家族国家」という名称は、それ自体が、統一教会の唱える「全人類一家族理想」とほとんど変わらない。そして「八紘一宇」も、全世界を一つの家とみなす思想であるから、これもまさに「全人類一家族理想」の呼び変えと言って差し支えない。結局、それは「現人神」である天皇皇后を「霊の父母」として、その下に全人類が「一つの霊の家族」として結び合わされることによって、地上天国が成し遂げられるという理念を指すのである。
 

Wikipediaによると、「八紘」とは「8つの方位」「天地を結ぶ8本の綱」を意味する語であり、これが転じて「世界」を意味すると解釈される。
また、「一宇」とは、「一つ」の「家の屋根」を意味している。
そこで、結局、「八紘一宇」とは、「世界は一つの家である」という理念を意味する。


 



・一大家族国家の理想を成就するための「家の生活」における「子が親に仕え、家を守る」という転倒した家族モデル


さて、「国体の本義」では、天皇の「赤子」たる国民の「」というものが、「一大家族国家」という地上天国の理想を実現するための重要拠点とみなされていた。

このことも、宗教指導者夫妻を「霊の父母」として崇める「子」としての信者の家庭を地上で増やすことが、全人類を一つの霊の家に結びつけて、地上天国を成就する最も有効な手段であるとみなす統一教会やペンテコステ・カリスマ運動の理念とも基本的に合致する。

そして、国民生活の基本となる「家の生活」とは、夫婦や兄弟といった横(平面)の関係ではなく、「生み生まれるといふ自然の関係」という、「親子の立体的関係」という縦の関係を中心とするものでなければならないとされた。

つまり、そこでは、「生み生まれるという」肉によって築かれる親子の縦の関係が、一生涯、動かすことのできない絶対的で神聖な序列のようにみなされ、肉によって築かれた生まれながらの親子関係が、個人が自らの意志によって選んだ夫婦や、横の関係である兄弟の関係よりも重視されたのである。
 

「国体の本義」、第一 大日本国体 三、臣節 より抜粋

我が国民の生活の基本は、西洋の如く個人でもなければ夫婦でもない。それはである。家の生活は、夫婦兄弟の如き平面的関係だけではなく、その根幹となるものは、親子の立体的関係である。この親子の関係を本として近親相倚り相扶けて一団となり、我が国体に則とつて家長の下に渾然融合したものが、即ち我が国の家である。従つて家は固より利益を本として集つた団体でもなく、又個人的相対的の愛などが本となつてつくられたものでもない。生み生まれるといふ自然の関係を本とし、敬慕と慈愛とを中心とするのであつて、すべての人が、先づその生まれ落ちると共に一切の運命を託するところである。

 我が国の家の生活は、現在の親子一家の生活に尽きるのではなく、遠き祖先に始り、永遠に子孫によつて継続せられる。現在の家の生活は、過去と未来とをつなぐものであつて、祖先の志を継承発展させると同時に、これを子孫に伝へる。古来我が国に於て、家名が尊重せられた理由もこゝにある。家名は祖先以来築かれた家の名誉であつて、それを汚すことは、単なる個人の汚辱であるばかりでなく、一連の過去現在及び未来の家門の恥辱と考へられる。従つて武士が戦場に出た場合の名乗の如きは、その祖先を語り、祖先の功業を語ることによつて、名誉ある家の名を辱しめないやうに、勇敢に戦ふことを誓ふ意味のものである。」


一体、この「家」の生活とは具体的にどのようなものなのかを説明するにあたり、「国体の本義」が、早速、「家の名誉」を守るという抽象論に没入していることにも注意が必要である。

つまり、「国体の本義」における「家の生活」とは、赤ん坊や、子どもたちや、弱い者たちを、強い大人たちが守り、支え、養い、育てるための場所ではないのである。その「家の生活」において、最も重視されているのは、生きた人間の安全や幸福よりも、「家の名誉を守る」という抽象概念である。しかも、それは「子孫が先祖に仕え、子が親に仕える」という、転倒した家族関係の中で成し遂げられるというのである。

つまり、国家神道における「」においては、先祖崇拝を盾にとって、「子孫」が「先祖」に仕え、「子」らが「親」を仕え、弱い者が強い者の名誉を立て上げる道具となることこそ、義務であるとされたのである。

国家神道は、人間を守るために家があるのではなく、家を守るために人間がいるとみなした。そして、一家のメンバーの存在意義は、「家」という集団の名誉を立て上げることにあるとし、しかも最も弱い者に最も重い義務を負わせる形で、家の名誉が脅かされる時には、先祖から伝わった家名を守るために、子孫は立ち上がって我が身を投げ出して勇敢に戦わなければならないと言う。

先祖代々から伝わる「」という集団の名誉が脅かされる時には、家族の成員は、我が身を犠牲にしてでも、「家を守る」ために積極的に戦うべきという精神が「」という名で呼ばれて、先祖に対する子孫の義務、親に対する子の義務とされるだけでなく、そのような精神を土台にして、「臣民が天皇に仕え、天皇のために我が身を犠牲にする」という「忠君愛国」が国民の義務として説かれるのである。

国家神道においては、親子の感情的・情緒的な結びつきは「慈愛」や「敬慕」などの言葉で美化される一方で、強い者(親)たちには弱い者(子)らを守り、保護する義務があり、同様に、権力者には国民を守る義務がある、ということは全く言及されることもない。

本来、家とは、親が子を守り、育てなければ機能もしないわけで、自力では生きられないような弱い子供たちや赤ん坊に親に仕え、家を守れと言っても、無理な相談である。そのような要求をすると、当然のごとく、家の中で最も弱い立場にある者たちに大変な犠牲が強いられることになり、家の健全な機能が失われ、「子」らの成長はなくなってしまう。

だが、このように、「弱い者(子)が強い者(親)に仕え、弱い者が強い者を守る」という弱肉強食の転倒した家族モデルは、これまで見て来たすべての異端思想の家族モデルにほぼ共通する思想である。

異端思想は、自力では生きる術もないような弱い者たちが、強い者たちを支え、守る義務について、いやというほど強調しながら、強い者たちには彼らを保護する義務があることには触れない。そして、強い者たちの名誉と利益のために弱い者たちが命を捨てることさえ、当然のごとく要求し、奨励する。だから、必然的に、それは健全な家族関係を壊し、「家」を搾取と弱肉強食の場へと変えてしまうのである。


記事「クリスチャンは神の子か、それとも神の養子か?(1)」でも見たように、カリスマ運動を率いる手束正昭氏は、自らの著書において、教会を成長させるためには、「子」である信徒らが、「霊の父母」たる牧師夫妻の威厳を守るために、率先して教会内雑用を引き受け、牧師に代わって憎まれ役に徹し、泥をかぶるべきと主張していた。

また、記事「異端の教えは必ず子供を犠牲にする~吉祥寺キリスト集会の事例 リンデはなぜ亡くなったのか~」でも示した通り、この種の弱肉強食の転倒した異端的家族モデルの影響を受けると、結局、親の名誉を守るために、子供や若者が自らを率先して犠牲に捧げて死んで行くという現象が起きる。さらに、その痛ましい犠牲を美談として讃えるという異常極まりない現象が後に続くことになる。


むろん、聖書には、このように「弱い者が強い者に仕えるべき」という考え方は存在しない。聖書における家族の秩序は、弱肉強食の精神とは全く逆であり、強い者こそ、弱い者を守り、強い者こそ、弱い者のために仕えて生きるべき、というものである。

パウロは書いている、「子は親のためにたくわえる必要はなく、親が子のためにたくわえるべきです。」(Ⅱコリント12:14)

このように、「強い者こそ、弱い者を守るために蓄え、弱い者を守るために、我が身を犠牲にして投げ出すべき」――という模範を、誰よりも率先して、実行に移されたのが、聖書の神ご自身であったと言える。

世祖の父なる神は愛する独り子を地上に送って、人類のための贖いの代価としてその命を与えられることによって、人類のために自ら救済を完成されたのである。御子は、人々に仕えられるためではなく、自ら仕えるために地上に来られた。そして、信者たちもそれにならって、自らの強さにより頼んで弱い者の上に権力を振るわず、率先して仕える者となるようにと言われた。

「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。人の子が来たのは、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」(マタイ20:25-28)

聖書においては、「生み生まれるといふ自然の関係」、「親子の立体的関係」の意義は、地上にキリストが来られた時に終わっており、それ以後、最も重要なのは、肉によって築かれた信者の地上の生まれながらの親子関係ではなく、父なる神と、神の子供としての信者の霊的親子関係である。

聖書においては、親孝行は否定されてはいないものの、同時に、キリストが十字架の死に赴かれたことによって、アダム系列の「生み生まれる」という肉による関係の価値は、永遠に無価値なものとして廃棄されたのであって、信者の地上の「生み生まれるという縦の関係」が絶対化されるということはない。
 
今や信者にとって最も重要なのは、地上で誰を親として生まれたかという生まれながらの縦の関係ではなく、「水と霊によって上から生まれる」こと、すなわち、地上の出自によらず、キリストにある新創造として生きることである。
 
さらに、そこでは、信者にとって真の「父」は天におられるただお一人の神であり、その他にいかなる「霊の父母」も存在しない。神と人との間には、キリスト以外の仲介者は存在しない。

「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。」(Ⅰテモテ2:5-6)

「イエスは答えられた。「まことにまことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることはできません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。」(ヨハネ3:5-7)

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)
 
だが、異端思想はこれらすべての聖書の秩序を覆して真逆のものに変え、生まれながらの肉なる関係を神聖なものとみなして絶対化し、しかも、子が親に仕え、子が親を守るべきと、親子の秩序をも転倒させて、キリスト以外の「霊の父母」を持ち出して来ることによって、偽りの「霊の家族」を築くのである。



・人を永久に「赤子」のままにとどめ、、「子」が「親」を離れ、「家」を離脱することを許さない思想

また、聖書においては、創世記において「それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、二人は一体となるのである。」(創世記2章24節)という夫婦のモデルが提唱されているように、子がいつまでも子のままで親から自立せず、親に仕えて生きることを奨励する記述はどこにもない。

むろん、この記述は、何よりも、キリストと教会の結婚の予表であるのだが、いずれにせよ、信仰面においても、実生活においても、子が成長して一人の独立した人間となって、生家を離れ、自らの意志によってパートナーを見つけ、新しい家庭を築くというのが、聖書的家族モデルだと言える。

いつまでも人が精神的に「嬰児」のまま、「生み生まれるという親子の立体関係」に従属し、死ぬまで自分を生んだ父母(と先祖)の名誉を守るために犠牲となって生きよ、という教えは聖書にはない。

信仰において、人はいつまでも子供のままでいてはならない、と聖書は言う。それは信者がものの考え方において生長して、誰にも頼ることなく、独立して一人前の判断力・識別力を持った成熟した人間にならなければならないからである。

パウロは書いている、「兄弟たち。物の考え方において子どもであってはなりません。悪事においては幼な子でありなさい。しかし考え方においてはおとなになりなさい。」(Ⅰコリント14:20)

「私たちは、このキリストを宣べ伝え、知恵を尽くして、あらゆる人を戒め、あらゆる人を教えています。それは、すべての人を、キリストにある成人として立たせるためです。」(コロサイ1:28)

「それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により教えの風に吹き回されてたり、波にもてあそばれたりすることがなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。」(エペソ4:12-15)

ところが、異端思想は、人が「その父と母を離れ」ることを決して認めない。「国体の本義」が唱えているように、人が生まれ落ちた家から決して離脱できないようにさせて、子を親の従属物のように貶めるだけでなく、精神的にも、「霊の父母」の支配下にからめとることによって、決して人を「成人」に生長させないのである。

すべての異端思想の原則は、信者をいつまでも目に見える指導者という「霊の父母」に依存させて、永久に「子」として半人前の状態にとどめ置き、決して「霊の父母」から自立することを許さないばかりか、いつまでも物の考え方において未熟な「子ども」であって、一人前の自己決定権を持つ「成人」には達しないようにと生長を妨げるのである。

離脱を許さない「家」の生活においては、信者は永久に「霊の親」から自立できず、一人前の判断力も識別力も養うことができず、いつまでも嬰児のごとく半人前とみなされ、指導者と一蓮托生で人生を送らねばならない。

そのような家族モデルは、もともと家族関係と呼ばれるにもふさわしくない転倒した関係であり、搾取と癒着の構図と呼ぶしかないのだが、国家神道においては、そのような転倒した癒着・支配関係の下にある「家」というものが、「すべての人が、先づその生まれ落ちると共に一切の運命を託するところである。」とされて、生まれ落ちた以上、そのしがらみから抜け出る選択肢は個人にはないものとされるのである。

これと同様に、「国」というものも絶対化され、この国に生まれ落ちた以上、臣民は「生まれながらにして天皇に奉仕し、皇国の道を行ずるものであ」るとされ、臣民(子)が天皇(親)に仕える義務は一生のものであり、そこから抜け出る選択肢や自由は、個人には事実上ないものとされた。


 
・全人類を「現人神」である天皇に帰依させることによって「神の血統」に転換し、世界救済を目指すという国家神道の歪んだメシアニズムの思想

そもそも国家神道では、個人というものが、家や、社会や、国家などに所属して初めて意味をなすパーツに過ぎないもののようにみなされ、生まれ落ちた家や国や歴史を離れての個人という概念は、幻のような抽象概念、「所詮本源を失った抽象論」に過ぎないものとして完全に退けられた。
 

第一 大日本国体、三、臣節、忠君愛国 より抜粋

個人は、その発生の根本たる国家・歴史に連なる存在であつて、本来それと一体をなしてゐる。然るにこの一体より個人のみを抽象し、この抽象せられた個人を基本として、逆に国家を考へ又道徳を立てても、それは所詮本源を失つた抽象論に終るの外はない。」

このような状況では、いわば、個人という概念そのものが存在していないに等しく、そのような中で、個人の自立、自由、大人としての精神的成熟、自己決定権、などの概念が考慮されるはずもなかった。

このように個人というものを否定して、独立した個人という概念を認めず、個人をより強い何者かの関係と常に一体とみなし、まるでその従属物であるかのように、強者との関係性においてしかとらえることができないという盲目性は、上記したような誤った親子関係という家族モデルだけでなく、誤った神と人との概念から発生して来るものでもあった。

「国体の本義」においては、日本における天皇と臣民の関係が、いかに西洋諸国と異なっているかということが繰り返し強調される。

西洋諸国においては、君主と人民の関係は絶対的なものではなく、人民を虐げる君主が追放されたり、人民が自ら君主を選ぶということも起きる。しかし、そのようなことは、我が国では決して起こり得ない、とされた。なぜなら、我が国の「国体」においては、天皇と臣民の関係は、生まれながらにして与えられるものであり、さらに、天皇の権威は「神」に由来するものであって、人民の選びにあるのではないので、従って、その関係が変更されたり撤廃されたりすることはなく、しかも、天皇は臣民の発展と幸福のために存在するのではなく、臣民を守ることが天皇の義務なのでもない、と言うのである。
 

第一 大日本国体、三、臣節、臣民 より抜粋

「臣民の道は、皇孫瓊瓊杵ノ尊の降臨し給へる当時、多くの神々が奉仕せられた精神をそのまゝに、億兆心を一にして天皇に仕へ奉るところにある。即ち我等は、生まれながらにして天皇に奉仕し、皇国の道を行ずるものであつて、我等臣民のかゝる本質を有することは、全く自然に出づるのである。

 我等臣民は、西洋諸国に於ける所謂人民と全くその本性を異にしてゐる。君民の関係は、君主と対立する人民とか、人民先づあつて、その人民の発展のため幸福のために、君主を定めるといふが如き関係ではない。然るに往々にして、この臣民の本質を謬り、或は所謂人民と同視し、或は少くともその間に明確な相違あることを明らかにし得ないもののあるのは、これ、我が国体の本義に関し透徹した見解を欠き、外国の国家学説を曖昧な理解の下に混同して来るがためである。」


一体、なぜそこまで天皇と臣民との関係が絶対的かつ不可分のものとされ、個人と国家の関係が切り離せないものとして絶対視されたのか、その根拠となるのは、天皇と臣民は共に「一つの根源」から生まれて来たという思想である。
 

第一 大日本国体、三、臣節、臣民 より抜粋

「然るに我が天皇と臣民との関係は、一つの根源より生まれ、肇国以来一体となつて栄えて来たものである。これ即ち我が国の大道であり、従つて我が臣民の道の根本をなすものであつて、外国とは全くその撰を異にする。固より外国と雖も、君主と人民との間には夫々の歴史があり、これに伴ふ情義がある。併しながら肇国の初より、自然と人とを一にして自らなる一体の道を現じ、これによつて弥々栄えて来た我が国の如きは、決してその例を外国に求めることは出来ない。こゝに世界無比の我が国体があるのであつて、我が臣民のすべての道はこの国体を本として始めて存し、忠孝の道も亦固よりこれに基づく。」

ここで言う「一つの根源」とは、要するに「神の血統」を指す。
  
第一 大日本国体、三、臣節、忠君愛国 より抜粋

我が国は、天照大神の御子孫であらせられる天皇を中心として成り立つてをり、我等の祖先及び我等は、その生命と流動の源を常に天皇に仰ぎ奉るのである。それ故に天皇に奉仕し、天皇の大御心を奉体することは、我等の歴史的生命を今に生かす所以であり、こゝに国民のすべての道徳の根源がある。


このことから、なぜ「生み生まれるという親子の立体関係」が国家神道においては、ほとんど絶対視されていたのかが、説明がつくであろう。臣民と天皇の関係を含め、地上の「親子関係」は、「神の血統」を受け継ぐものと理解されていたからである。

このような発想は、文鮮明を再臨のキリストとみなし、文鮮明夫妻を「霊の父母」とみなして、信者が彼らに「子」として連なることによって、信者が堕落したアダムの血筋から救われて「神の血統」に転換できるとしていた統一教会の教えにそっくりである。

つまり、国家神道は、天皇皇后を「霊の父母」とみなして、全人類をこの「神の血統」に転換させることによって、世界救済を成し遂げようというメシアニズムの思想に他ならないことがそこから分かるのである。

また、それは牧師夫妻を「霊の父母」とみなしてそれに信者が「子」として連なることによって、地上に「リバイバル」が成就すると主張するペンテコステ・カリスマ運動とも全く同型の異端的家族モデルである。

統一教会が文鮮明を再臨のキリストとみなし、信者がこの宗教指導者を現人神として崇めるのと同じように、国家神道は、天皇を天照大神の子孫とみなすことで、天皇を事実上の神(救済者)とみなし、天皇に「子」として帰依する「信者」を増やすことによって、「神の血統」に属する家庭を地上に増やし、そうして「一つの根源」に連なる「霊の家族」を「一大家族国家」として日本全体に普及させるだけでなく、「八紘一宇」のスローガンの下、これを全世界にまで押し広げることによって、全世界を天皇を中心とする「神の血統」に転換して「救済」しようとする世界救済のメシアニズムの思想であったことが分かるのである。

むろん、当時の国家神道は、自らを宗教であるとみなしていなかったので、世界救済などといった用語を持ち出して、そのミッションを公に語ることはなかったが、実際に主張していた内容から判断すれば、それはまさに世界救済の思想に他ならないことが明白なのである。

つまり、国家神道における「国体」とは、そうしたメシアニズムの思想を使命として持ちながら、世界を「神の血統」に塗り替えて行くための核としての役割を担うものだったのであり、それがゆえに「世界に無比なるもの」として賞賛され、神聖視されたのであり、その世界救済の使命こそが、帝国植民地支配からの解放という名目で、当時の日本の世界征服の野望を正当化し、果てしない軍事侵略、軍国主義化を促す根拠となって行ったのである。

村上重良氏の著書『国家神道』においては、日清、日露戦争の時期にはすでに「国体の教義」の中心には、「神の血統」を持つという「世界に無比なる国体」を基礎とする「神国日本」が、「全世界を指導する聖なる使命意識」を持つというメシアニズムの思想があった様子が記されている。その「聖なる使命意識」こそ、日本の軍国主義の強化を思想的に美化・正当化し、侵略戦争を「聖戦」として美化し、正当化する根拠となっていったのである。
 

国体の教義の中心には、世界における「神国日本」の絶対の優位性の主張と、全世界を指導する聖なる使命意識があり、天皇の名による戦争は、無条件に聖戦として美化された。」(『国家神道』、村上重良著、岩波書店、1970年、p.144)

つまり、当時の国家神道は、「我が国は、天照大神の御子孫であらせられる天皇を中心として成り立つてをり」、「開国の初めより、自然と人とを一つにして自ずからなる一体の道を現じ」て来たという神話を根拠にして、日本には事実上、「神に至る聖なる血統」を有する「世界に無比なる国体」があるとみなし、それゆえ、日本は「世界救済」という使命を負うにふさわしい神聖な核となりうる存在であり、この神聖な核を(侵略戦争を通して)全世界に押し広げて行くことによって、事実上、全世界を救済できると主張していたに等しいのである。

<続く>

ペンテコステ・カリスマ運動のグノーシス主義的三位一体論―キリストの十字架の切り分けを否定して未分化の東洋思想への回帰を唱える危険な運動⑧

② (続き 2) 
 
・キリストによって生まれていない「私生児」を「神の子供」と偽るカリスマ運動

さて、以前に記事「クリスチャンは神の子か、それとも神の養子か(終)」でも確認したように、手束正昭氏は、異端ネストリウス派の主張を擁護して、養子論的キリスト論を展開する。

同氏は、「ナザレのイエスにおいて無比なる仕方において働いていた聖霊の豊かさこそが、彼をしてキリストたらしめたと言える。」と述べて、イエスは生来は神性を持たない人間に過ぎなかったが、聖霊が吹き込まれたことによって「キリスト」としての性質が付与されたのだとする。だが、同氏の主張によれば、聖霊とは「母なる霊」なのである。

こうして、神の独り子であるイエス・キリストを、神性を持たない単なる人間に貶め、聖書に基づかない「母なる霊」という正体不明の「霊」を高く掲げる手束氏の荒唐無稽な主張がどこから来たものかは、グノーシス主義神話を考慮すれば分かる。

グノーシス主義において、悪神ヤルダバオートから創造された人間は、本来は創造神を父としているため、創造神を超えられない堕落した存在であるはずなのだが、サイト『ヨハネのアポクリュフォン』においても説明されているように、真の父の同意なしに単独でヤルダバオートを生んだ母ソフィアが、愚かな我が子を欺いて、天からの光を「息」として人間に吹き込ませたため、人間にはヤルダバオートにはない神聖な光が宿ったとされている。また、ヤルダバオートは自分の似姿だと勘違いして天上の完全な人間の姿を模して人間を造ったのだという。

こうして、グノーシス主義神話は創造神をひたすら愚弄しながら、創造神によって造られた人間を創造神より優れた存在として高く掲げ、反逆を正当化する。そして、天からの「息」が吹き込まれたことにより、人間の本来的な「父」は創造神ではなく、創造神を超える真の至高者であるとする。

聖書は、キリストの十字架の贖いを信じ、キリスト共に十字架の死と復活にあずかることによって、人は新創造とされると教えるが、聖書を否定して、聖霊を「母なる霊」とみなし、この「母なる霊」を受けることによって、人類は「新創造」に達すると主張する手束氏の見解は、以上のようなグノーシス神話に起源を持つとみなせるのである。

筆者はかつて手束氏の教えを、信者に神の子供としての地位を失わせる「私生児の教え」として非難したが、今また同じ確信を繰り返すのみである。

キリストが神の御子であるという聖書の真理を否定し、キリストと共なる十字架を経由することなく、正体不明の「母なる霊」を受けることによって、「新創造とされる」などという偽りを信じた者が、父なる神の子供として受け入れられることは決してないことは、聖書に照らし合わせて明白である。
 
グノーシス主義神話においてさえ、その「母」とは「原父」の意志を無視して単独で子を生むという「過失」に及んだのだから、その「母」によって生まれた「子」は、父を持たない子ということになる。そんな「母」の「霊」を受けたからと言って、なぜ子が「父」の承認もなしに、「父」から正統な子として認められる理由があるだろうか。そんな主張はあまりにも愚かで身勝手である。

さらに手束氏は、次のようにも述べる、
 

「信仰というものは、外に居給う神に私達が懸命に従おうというものではない。<略>いまや、私達は聖霊をいただくことによって、内に居給う神の促しに従って、その神と一つとなって生きていくことができるのである。<略>そこにあるのは、外なる神から内なる神への転換であり、服従としての神から交わりとしての神への転換である。更にこれは旧約から新約への転換なのである。

 多くの学者達は不十分なままでいる。旧約聖書は預言であって、新約聖書はその成就であると解釈し主張している。この解釈は確かにまちがいではないが、しかし重要なことは、旧約というものは外なる神であり、新約というものは内なる神であるということである。更に旧約というのは律法であり、新約というのは聖霊なのである。

ルターは宗教改革の合言葉として『信仰によって義とされる』と言った。<略>今、私は『律法によらず聖霊による』と言いたい。『信仰によって義とされる』というのでなく、『聖霊によって新創造される』と言いたい。」 (『聖霊の新しい時代の到来』、手束正昭著、マルコーシュ・パブリケーション、2005年、p.33-34、下線は筆者による)


服従としての神から交わりとしての神への転換」、この言葉に特に注意したい。

手束氏はこうして、「父なる神」に服従する必要をひたすら否定して行くのである。同氏は、旧約聖書は律法という父性原理に基づいて服従を求める厳格な宗教であったが、新約は「愛と赦しによる母性的な福音」であり、新約から旧約への移行は、「外なる神から内なる神への転換」であると述べて、新約の時代を生きる信者たちには、神の御言葉への従順がもはや必要なくなったかのように説く。しかし、これは全くの偽りである。

キリストの贖いを信じることにより、信者の内にはキリストが住んで下さるが、だからと言って、律法自体が無効になったわけではなく、信者が御言葉に従う必要性が消えたわけでもない。信者は律法を完全に全うされたキリストの贖いを信じ、キリストの御言葉にとどまることを通して、神の御前に律法を完全に守ったとみなされるのである。

そこで、新約になっても、信者は依然として、自ら神の御言葉を選び取り、これを守って生きることにより、神への従順を成し遂げる必要がある。律法を守るのではなく、キリストの御言葉を守り、そのうちにとどまるのである。しかし、それは信者が自らの意志によって成し遂げるべきことであり、キリストが内に住んで下さるからと言って、信者の意志を抜きにして、神への従順が自動的に成し遂げられるわけではない。

信者には御言葉に従う自由も、背く自由も存在し、もし信者が御言葉に従わず、キリストのうちにとどまらないならば、その信者は律法によって裁かれ、罪に定められる。

「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
<略>だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。」(ヨハネ15:4-6)

「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

イエスも言われた、「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が、みな天の御国にはいるのではなく、ただ、天におられるわたしの父みこころを行なう者がはいるのです。」(マタイ7:21)。

従って、新約の時代も、クリスチャンにとって最も肝心なのは、聖書の御言葉を守ることによって、キリストの内にとどまって生きることであって、そうして初めて、キリストとの交わりがその信者の内で保たれるのである。

ところが、ペンテコステ・カリスマ運動の支持者らは、「外なる神から内なる神への転換」、「服従としての神から交わりとしての神への転換」などと主張して、信者自身が自らの意志で「御言葉を守る」ことによって、「父なる神の御心を行う」必要性、信者が神の御言葉に「服従」する必要性を否定して、あたかも、信者が御言葉に従わなくとも、「霊の父母・子の交わり」に加わってさえいれば、これを通して神に至れるかのように説く。

結局、父なる神の意志、御言葉の切り分けを全くないがしろにして、御言葉への従順なしに、人が神に至れると教えるのである。
 
だが、聖書においては、はっきりと二組の対照的な「母子」の姿が示されている。一つ目は己の肉の欲望に基づいて、父なる神の御心に背いて生きる「母子」の姿、もう一つは、己の肉の欲望を十字架の死に渡すことに同意し、父なる神の御心を行って生きる「母子」の姿である。

イサクとイシマエルは、共に同じアブラハムを父として生まれた。しかし、イシマエルは父なる神の約束の成就を待たずに、奴隷の女であるハガルを母として肉によって生まれた子であるため、アブラハムから正統な後継者とは認められず、「奴隷の女の子」として退けられた。

他方、己の肉の力に死んですでに「不妊の女」となっていたサラから、ただ神の約束に基づいて、御霊によって生まれたイサクは「自由の女の子」として、アブラハムの家の正統な後継者として受け入れられた。 

パウロは言う、

「律法の下にいたいと思う人たちは、私に答えてください。あなたがたは律法の言うことを聞かないのですか。そこには、アブラハムにふたりの子があって、ひとりは女奴隷から、ひとりは自由の女から生まれた、と書かれています。女奴隷の子は肉によって生れ、自由の女の子は約束によって生れたのです。このことには比喩があります。この女たちは二つの契約です。一つはシナイ山から出ており、奴隷となる子を産みます。その女はハガルです。このハガルは、アラビヤにあるシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら、彼女はその子どもたちとともに奴隷だからです。
しかし、上にあるエルサレムは自由であり、私たちの母です。
すなわち、こう書いてあります。

喜べ。子を産まない不妊の女よ。
声をあげて呼ばわれ。
産みの苦しみを知らない女よ。
夫に捨てられた女の産む子どもは、
夫のある女の産む子どもよりも多い。

兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。

しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。

こういうわけで、兄弟たちよ。
私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」(ガラテヤ4:21-31)

これら二組の「母子」の違いは、聖書の御言葉への従順によって父なる神の御旨を行って生きているかどうか、という点である。

グノーシス主義神話におけるソフィアの転落は、まさに聖書におけるハガルの姿に重なる。両者に共通するのは、父なる神の約束の成就を待たずに、己の「肉欲」に基づいて「時期尚早な出産」に及んだことにある。

聖書が全体を通して人間に求めているのは、人が己の肉の欲望により頼んで自らの願いを成し遂げることではなく、神の御言葉に基づき、信仰によって、神の約束の成就を待ち望むことである。しかし、ハガルもソフィアも、神の約束の成就を待たず、父なる神の意志を無視して、己の欲望に突き進んだ結果、時期尚早に子を生んだ。彼女たちはその子が神の家族だと主張するが、聖書はそのような「奴隷の母子」は神の国の相続者になれないと教える。

しかし、グノーシス主義のような転倒した教えは、聖書の御言葉に従わず、神の家から追い出されるべき「奴隷の母子」を逆に擁護する。だからこそ、それは「私生児の教え」なのである。

今日も、ペンテコステ・カリスマ運動運動の支持者らが、己の肉を誇っては高慢に振る舞い、延々と肉の欲を自慢しながら、至る所で真の信者を踏みつけにして迫害している様子は枚挙に暇がない。

 


 

・「分割」を「死」ととらえ、時間を逆にすることによって、「原初的統合」への回帰を主張するグノーシス主義

さて、聖書における「罪」とは、神の戒めに背くことであり、聖書において「死」は「罪」の結果としてもたらされる。「罪から来る報酬は死です。」(ローマ6:23) しかし、グノーシス主義は「罪」というものを一切、認めず、「分割」こそ「死」をもたらした原因であるかのように話をすり替える。

多くのグノーシス主義文献では、至高者である神のみならず、人間の男女もまた対であることが完全であるとみなされているため、人間は創造された当初は両性具有的存在であったが、その後、女が男から「分割」したときに「死」が入り込んだ、とされている。こうして、人類が神の戒めに背いたため、死に定められたという聖書の記述は無視され、人間が「原初的な男女未分化の状態に回帰する」ことが、人が本来的自己に回帰すること(救済)と同一視される。
 

「――デーミウルゴスはアルコンテスと共に、自分のかたちに人を、男と女とにつくった(創世記一・二七)。この場合、「人」は単数であるから、人は元来両性具有であった、と解釈されることになる女(イブ)が男(アダム)とから離れたとき(三・二二)、死が生じた。彼女が再び入りこみ、彼が彼女を受けいれれば、死はないであろう(『ピリポ福音書』七一。――七八をも参照。)」(『トマスによる福音書』、荒井献著、p.110)


 

「実際多くのグノーシス文書において、「神は自分のかたちに人をつくられた。すなわち、神のかたちにつくり、男と女とにつくられた」(創世記一・二七)の「人」が単数形になっているところから、「原人」は男女両性具有であった、そして地上の人間(男と女)は原人から「女」が分離された時点(創世記二・二一―二二)から生じた、と解釈されている。例えば、『ピリポ福音書』には次のような言葉がある。――「イブがアダムの中にあったとき、死は無かった。彼女が〔彼から〕離れたとき、死が生じた。彼女が(アダムに)再び入りこみ、彼が彼女を受けいれれば、死は無いであろう」(七一)。「もし女が男から離れなかったら、男と共に死ななかったであろう。女の分離が死のはじめとなったのである」(七八)。」(同上、p.159)


むろん、「男女未分化の原初的統合」などと言っても、半ば言葉遊びのようなもので、実際にそのような「原初的」状態に回帰できる人間はいない。だが、グノーシス主義は以上のような確信に基づき、人間に「叡智」を告げる「真の開示者」は、単に人間に、出生を巡る「真実」を告げる役割のみならず、人間を「男女未分化の原初的状態」に回帰させる「統合者」としての役割も担うものとみなす。
 

「<略>イエスは「父のもの」(本来的自己)の具現者として分裂に統合をもたらす者であり、それを「分ける者」「分割者」ではないというグノーシス的意味をも含ませている可能性がある(六一参照)。――「分離が死のはじめとなったのである。それ故に、はじめからあった分離を再び取り除くために、彼ら両人を統合するために、そして分離の中に死んだ人々に命を与え、彼らを統合するために、彼が来たのである」(『ピリポ福音書』七八)。」(同上、p.235)


ここまで来ると、なぜ手束氏や、フェミニズム神学者、鈴木大拙氏のような人々が、聖書の「二分性」に激しい反発を示し、キリスト教に「母性原理が回復される必要がある」と主張したのか、もう十分に理解できよう。

彼らは「分割」が「死」をもたらしたとみなすグノーシス主義の考えに立てばこそ、あらゆる「分割」を廃して「原初的統合を回復」することが「救済」だとみなしているのである。

彼らの嫌う「分割」とは、男女の区別にとどまらず、聖書におけるあらゆる「二分性」に及ぶ。鈴木大拙氏が「神ががまだ「光あれ」といわれなかったときのこと」、「明暗未分化以前」、(善悪を峻別する)「知性発生以前」などと呼んでいるのがまさにそれであり、これらはすべてグノーシス主義的な「二分性が生まれる前の原初統合の状態」を指す言葉である。

こうして、彼らは歴史を逆行させ、時間軸を逆にして、分割が発生する以前の状態に人類が自ら回帰することによって、原初的統合が成し遂げられ、人類は神に至る、と主張しているのである。

これは聖書の時間の流れとは逆である。

聖書においても、男女の「二分性」が廃される道が備えられている。「それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」(創世記2:24)とある通り、聖書によれば、時間を逆行することなく、「子」が成長して自らを生んだ「父母」を離れ、新しい伴侶を見つけることによって、男女の「一体化」が成し遂げられる。
 
この男女の統合は、キリストの十字架の死と復活による新しい人の誕生、すなわち、キリストとエクレシア(教会)との結婚を予表している。

聖書は言う、

「これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。」(コロサイ2:16)

ここで言う「影」とは直接的には、律法や、人間を縛る様々な古い規定を指しているのだが、同時に、目に見えるすべての被造物も「影」に含まれると言えよう。聖書によれば、罪によって堕落して、信仰を持たず、神に受け入れられることなく滅びゆく人類(旧創造)は、神の御前にすでにないも同然の「影」であり、真のリアリティはキリストのみなのである。

神の目には、真の「男子」、真の「人間」はただ一人しかおらず、それが「ひとりの人」(Ⅱコリント11:2)キリストである。キリストの内にこそ、すべての二分性の敵意を廃したところに存在する新しい完全な人の姿がある。

この新しい人であるキリストは、地上に来られたとき、神としての性質を持ちながら、同時に、罪の他は、何ら我々と変わることのない、人としての性質もすべて備えておられた。そして、神でありながら、ご自分を低くして人となられ、十字架の死と復活を成就して、人類のために贖いを達成されたのである。

このキリストこそ、神の御心を真に満足させることのできる真の人間なのであり、人は、神が十字架でキリストに下された裁きを自分自身に対する裁きとして受けとり、キリストの贖いを信じて受け入れ、キリストと共に十字架において自らの肉の出自に死んで(=その父母を離れ)、キリストの復活の命によって新たな人として生かされることにより、キリストの御霊によって上から生まれ、神の家族として、新創造に加えられる。そして、キリストの花嫁たる教会を形成する。

主イエスは、「次の世にはいるのにふさわしく、死人の中から復活するのにふさわしい、と認められる人たちは、めとることも、とつぐこともありません。」(ルカ10:35)と言われ、来るべき世には「男女の二元論」はもはや存在しないことを示されたのである。

だから、キリストにある新しい人には、もはや男女の区別も、国籍の区別もない。新創造には、「ただひとりの男子」(Ⅱコリント11:2)キリストがいるだけであり、キリストにあって召された男女はすべて花嫁たる教会である。

「バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。」(ガラテヤ3:27-28)

キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁をうちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に作り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。」(エペソ2:14-16)

そして、聖書は、キリストこそ、万物をご自分に服従させることで、すべての被造物の二分性を廃し、万物を一つにされる方であると述べている。神は被造物全体が堕落して神への反逆のうちに滅びることを望んでおられない。しかし、堕落した被造物が神に回帰する方法はただ一つ、キリストの十字架によって贖われることにしかない。こうして、万物をご自分に従わせることで、キリストは万物を神の御手にお返ししようとしているのである。

「それは、神が御子においておあらかじめお立てになったご計画によることであって、時がついてに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。このキリストにあって、私たちは彼にあって御国を受け継ぐ者となったのです。」(エペソ1:9-11)

「それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。最後の敵である死も滅ぼされます。「彼は万物をその足の下に従わせた。」からです。ところで、万物が従わせられた、と言うとき、万物を従わせたその方がそれに含められていないことは明らかです。しかし、万物が御子に従うとき、御子自身も、ご自分に万物を従わせた方に従われます。これは、神が、すべてにおいてすべてとなられるためです。」(Ⅰコリント15:24-28)

こうして、すべてのものがキリストを通して、神に帰せられることが聖書の目的であり、これはただ死に至るまで神の御心に従順であったキリストを通してのみなされうることである。

被造物が神に立ち返る道は、ただキリストの十字架の死と復活の贖いを経由することにしかない。神の用意されたこの救済としての十字架を通らず、堕落して廃棄されるべき被造物が、自らの力で神に立ち帰る術はない。

しかし、グノーシス主義者は、このように、キリストこそ、十字架において「二分性の敵意を廃棄した」唯一の方である事実を認めず、時を逆行して原初的な未分化の状態に回帰することによって、神と人との統合が成し遂げられるとし、キリストも「原初的な統合者」に変えてしまう。

グノーシス主義者らは、徹底して、御言葉への従順なくして、神への回帰が成し遂げられるかのように主張する。こうして、彼らが聖書の「二分性」に反対する背景には、鈴木氏の言う「主客未分以前」へ回帰したい願望、すなわち、「創造神と被造物との区別」をなくしたいという欲望がある。

彼らの言う「男女未分化の原初的統合」も、結局は、この「主客未分以前」という欲望を意味する。ここにこそ、神によって造られた被造物でありながら、人間が「神の御心に反して、神の性質を盗み取り、単独で神になりたい」とする欲望が込められている。

フェミニズム神学者リューサーは言う、「男だけが神の像に似せられて造られ、女は男から造られたために、男性を抜きにしては、単独では完全な神の像をもたないとする聖書の教えは、女性を男性より劣った存在に貶める女性蔑視の思想である」と(『解放神学 虚と実』、pp.62-64参照)。

すでに述べた通り、この主張を推し進めて行くと、必然的に、「神だけが神であり、人類は神によって神に似せて造られたが、神との結合を抜きにしては、完全な神の像を持たないとする聖書の教えは、人類を神より劣った存在に貶める人類蔑視の思想である」という主張が出て来る。

そこで、聖書における男女の二元論に反対する人々は、結局のところ、神が唯一であり、人類は神の被造物に過ぎず、神の介在と承認を抜きに完全な存在になれず、神に属する者とみなされることはない、という聖書の真理に反対しているのである。そして、人間が神に創造されたことにより、神から分離されたという事実そのものに反対しているのである。(人類は神によって造られた被造物であるという点で、霊的には「女性」である。)

そして、グノーシス主義者は「神ががまだ「光あれ」といわれなかったとき」にまで時をさかのぼることによって、人類が神から分かたれる前の合一に回帰できるはずだと主張するのである。

しかし、そんな時間の逆行は無理な相談であり、現実を否定しているとしか言えない。そんな方法で、被造物が神と一体化しようとするのは、「小なる者」が「大なる者」と自らを同一視する高慢であり、被造物の分を超えているとしか言えない。

しかも、そこには、人類が自ら神に背いたために堕落して、自力で神に回帰する道が永久に閉ざされたという聖書の真理の否定がある。

もし新しい人であるキリストに目を向けさえすれば、上記のフェミニズム神学者やグノーシス主義者らが主張しているように、「神は自分だけを神として、人間を劣った被造物として創造した」という非難は全くあたらないことがすぐに分かろう。

グノーシス主義者らが考えているように、もし創造主である父なる神が、人間を自分よりも劣った存在にとどめておきたかったのだとすれば、独り子なるイエスを人として地上に遣わす必要がどこにあったろうか。なぜ愛する御子に人類のための贖いとして十字架の死を通らせる必要があったろうか。これらはすべて人類に対する神の果てしない愛のゆえになされたことなのである。

しかし、解放神学者や手束氏、鈴木大拙氏などは、決してキリストの十字架によって二分性の敵意がすでに廃棄されたのだという事実を見ようとはしない。彼らが最も反対しているのは、神によってしか、人間は救済され得ないという聖書の事実であり、彼らはどこまでも神の意志を抜きにして、人類が自らの力で神に至る道があるかのように主張する。

その過程で、彼らは神と人との区別、旧創造と新創造との区別を否定して、神の側からの救済としてのキリストの十字架の死を介さずに、神と人との区別を一方的に無効化することによって、神から神としての性質を盗み、神の地位を奪い、自らを神と宣言しようとしているのである。

従って、これらの人々がキリスト教の「二分性」によって不当に「抑圧されている」と訴えて、しきりに復権・擁護・救済しようとしているものは、神がキリストの十字架において完全な死の判決を下された旧創造全体としての人類なのである。

そこで、彼らの主張する「善悪を問わずにすべてを受容する母性原理の回復」というのは、結局、キリスト教は、神が滅びに定められた朽ちゆく旧創造と、堕落した旧創造が抱くすべての悪しき欲望をを罪に定めるのをやめて、これを正当化し、神の聖なる性質として認め、受け入れよ、ということなのである。

むろん、これは聖書の神に対する反逆の思想である。すでに見て来たように、グノーシス主義神話では、父なる神の同意によらずに、神の「血統」に属する命をわがものとしたいと願った「女性的属性」の欲望に基づき、父なる神を抜きにして生まれた「私生児」が、人類なのであり、人類はこの母の「過失」を修復することで、自らの出自を正当化することを、全生涯の目的として生きていることにされる。

しかし、それはどこまでも「父」の意志というものを抜きにした、人間側の身勝手な主張でしかない。仮に「母」が「父」を欺いて生んだ「子」が、「母」と一緒になって、「我々こそは神の血統に属する正統な後継者であるから、我々を神の家族として認め、家族の交わりを回復せよ」と主張したからと言って、「父」がそれを聞き入れ、この「母子」を家庭に迎え入れることがあろうか?

そんな行為は「母子」の側から「父」への反乱、神の家の乗っ取り計画、神の家族の詐称でしかない。たとえ血を分けた親子として長年同じ家に暮らしたとしても、親子の絆は絶対的なものではなく、もし子が父の訓戒や戒めに絶えず背き続けるならば、勘当されることもありえようし、子が自ら家出して親と絶縁することもありうる。

いずれにしても、父の承認なしに、家族としてとどまりつづけられる子はいないのである。そこで、もし神の家族としてとどまり続けたいならば、御言葉に服従するということが、信者の側にどうしても必要となる。

にも関わらず、グノーシス主義者はひたすら「(御言葉に)服従する」ことを拒みながら、それでも、「自分は神の正統な子だ」と主張するのである。そして、自分たちを神の家から排除した聖書の御言葉の二分性を、許しがたい傲慢かつ狭量な排他性として非難し、父なる神はこのような父性原理の残酷な「排他性」を克服して、もっとすべてを優しく受け入れる受容性を補うべきだと、神に向かって上から「説教」するのである。

そんな企ては、人間の物語としても破綻しているが、まして聖書に照らし合わせて、絶対に受け入れられることはない。このような「母子」は罰せられ、排除されるのが当然である。


 
「神秘なる母性」を褒めたたえることにより、肉欲を賛美する危険な思想

以上のように、聖書は明確に「肉によって女奴隷から生まれた子供」と「御霊によって自由の女から生まれた子供」の二種類があることを教えている。

御国の相続者は、父なる神の約束に基づいて、御霊によって生まれた子だけである。しかし、「肉によって生まれた者」は、自らの堕落した肉欲の罪が暴かれることを嫌うため、「キリスト教の御言葉の二分性」を己に対する脅威とみなし、「抑圧されている母性原理の回復」を唱えることで、己の欲望を正当化し、無罪放免しようとする。
 
解放神学者リューサーは、伝統的なキリスト教の「二分性」に対して、激しい憎悪と非難の言葉を浴びせるが、彼女がとりわけ強く反発しているのは、キリスト教が人間の肉欲を堕落したものとみなしていることである。
  

(伝統的キリスト教における)「救いとは、肉的なものを抑えることによってくるものであると解釈される。肉欲と感情の抑制、そして内的・超越的・霊的自己への逃避。食べること、眠ること、入浴さえもが、また、視覚的・聴覚的楽しみ、そして何にもまし て、一番強烈な肉体感覚である性の喜びなどが真の『悪魔の住処』とされた。文字通り、死の倫理を形成したのである。救いは死を目指しつつ生涯かけて『苦行』を実践することによって与えられる『魂の肉体からの分離』である。創造を堕落と見るグノーシス主義的思考を訂正しようとして苦心したにもかかわらず、 キリスト教はその同じグノーシス的精神性の多くをそのまま保存するにとどまった」(『解放神学 虚と実』、勝田吉太郎他著、(大石昭夫著、「解放神学の基本構造」)、荒竹出版、昭和61年、p.61-62)。


リューサーは、キリスト教は肉欲を堕落して罪深いものとみなしたがゆえに「文字通り、死の倫理を形成し」、一生かけて「魂の肉体という牢獄からの解放」を目指すしかないという、グノーシス主義と同じ罠に落ちたのだと言って、キリスト教を非難する。

彼女は「食べること、眠ること、入浴さえも<…>一番強烈な肉体感覚である性の喜びなどが真の『悪魔の住処』とされた」と嘆き、「飲んだり、食べたり、めとったり、とついだり」(マタイ24:38)といった行為に加え、「視覚的・聴覚的楽しみ」がキリスト教で罪に定められていることに異議を申し立て、巧みに「肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢」(Ⅰヨハネ2:16)を復権させようと試みる。

しかし、聖書ははっきりと、こうした人間の一連の肉欲が、この世(悪魔)に由来するものであると告げている。

「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。」(Ⅰヨハネ2:15-16)
 
さらに、キリスト教の救いとは、リューサーが述べているような、「肉的なものを抑えることによってくる」ものではない。キリストの救いは人間側の自己努力によって達成されるものではなく、神の恵みとして神の側から与えられるのであり、キリストの十字架の霊的死にこそ、堕落した肉に対する問題解決がある。

キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。」(ガラテヤ5:24)
 
しかし、リューサーはキリストの十字架を見ない。そして、神の側から人類に与えられた完全な解決を退けて、キリスト教には肉欲を制する方法がないのに、肉欲を罪に定めているのはおかしいと言って、神が十字架において旧創造に下された有罪宣告そのものを不当であると主張し、この理不尽な有罪宣告のせいで、人間は自らの肉体を嫌悪し、自分の肉欲を厭いながら、もがき苦しむ状態から抜け出られなくなったのであり、キリスト教のこの不当な罪定めから人類は解放されなければならない、と主張する。

こうして彼女は、神が救済として人類に与えられたキリストの十字架の死の判決から、人類の堕落した肉を救い出そうとするのである。

従って、こうした人々が「キリスト教において不当に抑圧されている」と非難している「母性原理」とは、結局、人間の欲望そのものであり、神が十字架で死に定められた人類の古き自己と、古き人に付随するもろもろの情と欲なのである。

彼らの言う「解放」とは、「キリスト教の二分性の抑圧からの人類の欲望の解放」を意味するのであり、こうした教えを奉ずる人々は、みな己の「欲望の解禁」を主張しているのである。

だからこそ、ペンテコステ・カリスマ運動の教えの影響を受けたクリスチャンたちはみな「肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢」に走り、「飲んだり、食べたり、めとったり、とついだり」という話ばかりを延々と繰り返し、地上的幸福の自慢話を「信仰の証」にすり替え、己の欲望に突き進むことが神の国の到来を招致する手段であるとはき違えるのである。

こうした人々は、神がキリストの十字架で死の宣告を下された己の欲望を「神聖」とみなし、欲望を通して神に至れるという誤謬に本気で落ち込み、欲望の解禁を主張することによって、絶えず神に反逆を企てているのである。

彼らがとりわけ十字架の死の判決から解放したいと願っているのは、リューサーも書いている通り、「一番強烈な肉体感覚である性の喜び」である。

手束氏はこう述べた、
 

「しかし聖霊を示すヘブル語のルァハは女性形であるばかりか、『人間のダイナミックな生命力が表現される特別な呼吸の出来事』を意味した。これは具体的には性的興奮分娩を指しているという。」


胸が悪くなるような記述だが、こうして彼らは「奴隷の女」の抑えがたい欲望を賛美することで、自らが「奴隷の女の子」であると告白しているのである。

一つ前の記事で筆者は、手束氏の言うように、聖霊を「母なる霊」とみなせば、乙女マリアが聖霊によってイエスをみごもったのは、女性が女性の霊によってみごもったことになるが、そんな理屈が成り立つだろうかと書いた。その疑問は、グノーシス主義神話を考慮すれば解ける。

こうした人々の主張の背後には、神に対して霊的に女性である人類が、徹頭徹尾、神を抜きにして、己の力だけで神と同等になりたい、神を愚弄する形で神の創造の力を盗み取り、自分も神のようになりたい、という願望がある。

そこで、彼らが正当化し、誉めたたえているのは、結局、人類が己の肉欲のうちに自己陶酔に浸り、神を抜きに自分の力だけで神に属する子を単独で生みたいとする欲望なのである。

このような教えを奉じた人々は、物事を深く考える力を失い、自分を満たしてくれそうなあらゆる「良さそうなもの」に無分別に飛びいては、これと霊的姦淫を繰り返すようになり、己の肉欲を賛美しながら、軽薄で愚かな感覚的・情緒的な享楽に陶酔し、あらゆる汚れた行いに手を染めながら、やがて善悪の感覚そのものを完全に失って、神への反逆に至る。まさに無分別で見境のない「八方開き」の状態に陥るのである。

こうした人々の異様な自己陶酔の様子は、ペンテコステ・カリスマ運動の支持者らが「聖霊のバプテスマ」と称して、理性を失った恍惚状態に陥っている様子を見ても分かるであろう。彼らの中にはすでにその自己陶酔の結果、己を神と宣言し、神属人類を自称する者たちもいる。

主イエスは言われた、

「まことに、あなたがたに告げます。人はその犯すどんな罪をも赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。」(マルコ3:28-29)

聖書の「二分性」に逆らって、己の肉欲を誇り、「神秘なる母性」を崇拝し、神の戒めを守らないのに、父なる神の子供を名乗って、十字架を否定してまことの神への反逆を正当化しているペンテコステ・カリスマ運動が、聖霊を冒涜する教えに該当しない理由があるはずもない。
 
この運動に限らず、「キリスト教に母性原理を回復せよ」と主張する教えは、すべてキリスト教と東洋的・グノーシス主義的異端との混合であり、人類が聖書の御言葉の「二分性」であるキリストの十字架を退けて、己の欲望を誇り、自らの欲望を通して神に到達しようという偽りの教えである。

聖書の御言葉は完全であり、これにつけ加えようとする者も、取り除く者も、災いを受ける(黙示22:18-19)。聖書の御言葉の二分性を否定すれば、待っているのは破滅だけである。
 
このように反逆的で汚れた秩序転覆と肉欲を賛美する教えには、絶対に関わるべきではなく、このような教えを信奉した結果、自らを神と宣言するに至った人々に、悔い改めの余地は残されていないであろう。
 
そこで、このような異端とそれを奉ずる人々からは、全力で遠ざかり、永遠に訣別するだけである。

わが民よ。この女から離れなさい。その罪にあずからないため、また、その災害を受けないためです。なぜなら、彼女の罪は積み重なって天にまで届き、神は彼女の不正を覚えておられるからです。」(黙示17:4-5)

<続く>


ペンテコステ・カリスマ運動のグノーシス主義的三位一体論―キリストの十字架の切り分けを否定して未分化の東洋思想への回帰を唱える危険な運動⑦

② (続き) 

・カリスマ運動の異端的な「父・母・子」の三位一体の家族モデルのグノーシス主義的起源

さて、前稿では、プロテスタントの牧師であり、カリスマ運動の指導者である手束正昭氏の主張を取り上げて、同氏が牧師夫妻を「霊の父母」とし、信者をその「子」とする家族モデルが、統一教会において指導者夫妻を「真の父母」と崇め、信者を彼らの「子」とみなす家族モデルにそっくりであること、また、手束氏の述べている家族モデルは、フェミニズム神学に基づいて同氏が聖霊を「母なる霊」とみなす「父・母・子」という異端的な三位一体論から導き出されたものであることを確認した。
 
聖書の従来の解釈において、万物を創造したのは「父なる神」であり、聖霊が「母なる霊」とみなされて生命の根源とされることはない。しかし、東洋思想においては、万物の生命の源は、母性原理にあるとされ、母性原理の象徴である「神秘なる母性(母なる混沌)」が賛美される。

そこで、統一教会であれ、ペンテコステ・カリスマ運動のようなキリスト教を自称する内部の異端であれ、「キリスト教に母性原理を回復せよ」という主張は、すべて東洋思想とキリスト教との合体を目指しているとみなせる。それは次回に述べるように、国家神道の目的でもあった。

このように、キリスト教と東洋思想との合体によって生まれる混合物こそ、悪魔の悲願としての聖書における終末のバビロンの姿なのである。
 
終末における世界規模での背教の象徴として聖書の黙示録に登場する大淫婦バビロンは、「混ぜ合わせた杯」(黙示18:6)を持っていることからも分かるように、混合の教えを意味する。大淫婦バビロンとは、キリスト教と非キリスト教的思想との混合体であり、ドストエフスキーの描いた大審問官のように、一見、キリスト教に偽装しつつも、本質的にはキリスト教に敵対する思想を内に秘めており、キリスト教を内側から転倒させ、食い破り、瓦解させていく効果を持つものである。
 
東洋思想は、太古から存在するグノーシス主義と密接な関係がある。グノーシス主義という名称自体は、初期キリスト教の異端として名付けられたものであるが、グノーシス主義的な思想はキリスト教の登場以前から存在していた。

グノーシス主義は旧約聖書の否定の上に成り立っており、この教えにおいては、聖書の創造神である「父なる神」は、悪神(デーミウルゴス、ヤルダバオート)として侮蔑の対象とされる。そこでは、聖書の創造神は愚かな悪神であるがゆえに、他の「神」を否定して自らを「唯一の神」と称するようになったとされて、この「偽りの神」よりも上位に「真の神」(真の至高者)が存在し、その至高者に回帰することが人間の「救済」であるとみなされる。

グノーシス主義とは、このように聖書の秩序を完全に転覆させて、「唯一の神」の概念を否定し、聖書の神に対する反逆を正当化する教えである。
  
そこで、グノーシス主義とは、聖書に照らし合わせると、その起源は蛇(サタン)によって人類に吹き込まれた悪魔的な思想にあると考えられ、その秩序転覆の教えが、古代バビロニアなどのオリエント文化において発展し、東洋思想や文化の中に保存されて、今日に至っているものとみなせる。

グノーシス主義それ自体は宗教ではなく、厭世的・悲観的な世界観であり、時代や社会や宗教の枠組み超えていつでも生じうるものであり、さまざまな宗教に形を変えて入り込み、その宗教を内側から乗っ取り、変質させてしまう効果をも持つ。
 
ペンテコステ・カリスマ運動は、このグノーシス主義的思想がキリスト教に入り込んでできた混合物の一つである。

その証拠の一つとして、手束氏のようなカリスマ運動指導者が提唱している「父・母・子」の異端的三位一体論は、グノーシス主義に原型が見いだせるのである。

以下で引用する荒井献氏によるグノーシス主義神話論では、グノーシス主義的な三位一体論が解説されているが、そこでは、グノーシス主義において「真の神」とされる至高者「原父(プロパテール)」(または「霊(プネウマ)」)は、原初、女性的属性(「思い(エンノイア)」や「知恵(ソフィア)」や「魂(プシュケ)」といったギリシア語の女性名詞で表される)と対をなし彼らの「子」と共に「三位一体」をなしていたという。

ちなみに、「男女が対をなす」という考え方は、グノーシス主義に特徴的であり、この考えに従って、グノーシス主義においては「真の神」も男女の対をなすとみなされる。それが「子」と共に原初は「父・母・子」の「三位一体」を形成していたというのである。

ところが、グノーシス主義神話においては、ある「事件」が発生する。女性的属性の中でも最下位である「ソフィア(知恵)」が、単独で子を生みたいと願い、至高者の命令なくして、また自らの「伴侶」である男性人格を抜きに、自ら至高者を「知ろう」とした。その過ちの結果として、彼女は上界から転落しかかり、中間界に醜い悪神であるデーミウルゴスと諸々の権威と支配を産んだ。さらにそのデーミウルゴスによって、下界に狂ったこの世と堕落した肉体を持つ人間が生まれたという。これはグノーシス主義において一般に「ソフィアの転落」と呼ばれている出来事である。

つまり、グノーシス主義においても、男女のペアが存在しないことには子が生まれないという前提があったようで、女性的属性であるソフィアが、自分だけで子を生もうと願ったことは、「過失」とされている。しかし、グノーシス主義では、ソフィアは同情されても、罰せられることはない。そして、人間の内にはこの「母」を通して、「真の神」である「霊の欠片」が宿っているので、人間は本来的に、創造神よりも優れた存在であり、創造神はその「真実」を人間の目から不当に隠しているがゆえに、人間は無知の中に閉じ込められて悪神の道具となって支配されているだけで、人間は真の神についての「叡智」を告げる「真実の開示者」に出会うことによって、自らの出生をめぐる「真実」を悟り、堕落したこの世と悪神である創造神を否定的に越えて、魂の本来の故郷である上界に戻って行く、それがグノーシス主義的な「救済」だとされるのである。

キリスト教における「救済」とは神の側からの恵みであり、神の介在なくして成り立たないものであるが、グノーシス主義における「救済」とはすべて人間が自ら「叡智」に目覚めることにより自己の出自を悟り、本来的自己に回帰することが「救済」とされるのである。
  

「グノーシスの神話論
 <略>
 ――はじめに上界に、至高者(「原父(プロパテール)」「父(パテール)」または「霊(プネウマ)」があった。彼は女性的属性(「思い(エンノイア)」(「知恵(ソフィア)」または「魂(プシュケ)」)と対をなし、彼らの「子」と、いわば「三位一体」を形成していた(この三体は<略>「父」と男女二体の「子」から成り立っている場合もある)。

 女性的属性は至高者(または男性の「子」)を離れて、上界から中間界へと脱落し、ここで「諸権威(エクスウーシアイ)」あるいは「支配者たち(アルコンテス)」を産む。彼ら――とりわけその長なるデーミウールゴスーーは、至高者の存在を知らずに、「母」を凌辱し、下(地)界と人間を形成する。こうしてデーミウールゴスは「万物の主」たることを誇示し、中間界と下界をその支配下におく。しかし至高者は、女性的属性を通じて人間にその本質(霊)を確保しておく。

デーミウールゴスの支配下にある人間は、自己の本質を知らずに、あるいはそれを忘却し、「無知」の虜となっている。人間は自力でこの本質を認識することができない。そこで至高者は、下界にその「子」を啓示者として遣わし、人間にその本質を啓示する。それによって人間は自己にめざめ、自己を認識して、「子」と共に上界へと帰昇する。中間界と下界(宇宙全体)は解体され、万物は上界の本質(霊)に帰一し、こうして「万物の更新」が成就する。」

(『トマスによる福音書』、荒井献著、講談社、1994年、p.103-104。
改行・ふりがな等は読み見やすさを考慮して筆者が変更を加えた。)


 



・自ら神のようになり創造の力を得たいと願った「女性的属性」の欲望を正当化するために作られたグノーシス主義神話


しかしながら、以上のような神話を読めば、グノーシス神話における女性的属性「ソフィア(知恵)」は、大した悪者の反逆者だったのではないかという疑問が生じざるを得ない。以下の記述を読んでも、彼女を「過失」へと突き動かしたのは、「原父」の力によらず、自分だけが単独で「原父」と同じように、自分に似た生命を創造する力を得て、神のようになりたいという願望であったことが分かる。

セツ派のグノーシス文書である『ヨハネのアポクリュフォン』には、ソフィアの「過失」の動機が次のように描かれている。

「今度は、『見識の知恵』でありアイオーンでもあるソフィアが、『見えざる霊』と『先住の知識』を思い抱きながら、自らの内に一つの考えを宿した。自分と似た姿のものを生み出したいと思ったのだだが、それまでも賛同することのなかった『霊』の同意もなければ、斟酌してくれる伴侶もいなかった。ソフィアの男性格は賛成しなかった。ソフィアは伴侶を見いだしておらず、『霊』の同意もなければ、伴侶の知識もなしにこの考えを抱いた。そして、子を産んだ。不屈の力を内に秘めたソフィアの思い付きは無益には終わらなかったのだ。だが、伴侶なしに彼女が生み出したものは不完全で彼女に似ていなかった。母に似ていないだけでなく醜かった。(Ⅱ・9-10) 『原典、ユダの福音書』、ロドルフ・カッセル、マービン・マイヤー他著、日経ナショナル ジオグラフィック社、2006年、p.171から引用、下線は筆者による)


 
ソフィアがどうやって単独で子を産むに至ったのか、ここには具体的な記述がないが、考えられることはただ一つ、ソフィアが「原父」の子を生むために、彼の創造の力を何らかの方法で盗んだということである。そうして産まれたのが醜い悪神ヤルダバオートであり、彼女はその自分に似ても似つかぬ醜い子を見ると、上界の外へ投げ捨てたという。

こうして、グノーシス主義ではソフィアの過失がすべての悲劇の原因となって、あらゆる出来事に秩序転覆と反逆の思想が満ち溢れるようになるのだが、その転覆行為に一切、責任が追及されることがない。上記の「過ち」ゆえに、「ソフィア」は上界から転落しそうになるが、彼女は激しい後悔のゆえに同情を受けて上界からの追放を免れる。

グノーシス主義神話においては、霊的存在には序列があるため、本来、最下位の女性的属性が、最上位の「真の神」に対して越権行為に及んだことは「反逆」であるはずだが、それも後悔すれば罰せられずに赦されてしまう。さらに、グノーシス主義神話においては、男女の対が完全であると主張されているにも関わらず、女性的属性であるソフィアが自分一人だけで子を生んだわけだから、それ自体が神話そのものを崩壊させるような矛盾である。

しかし、グノーシス主義では、こうして秩序を揺るがしたソフィアとその産んだ子らが罰せられ、退けられることによってこの問題が片づけられる、ということにはならない。

むしろ彼女の「過ち」によって、人間には逆に「神聖な霊の欠片」が伝わることになったので、人間がその「神聖な自己」に目覚めて本来的故郷に帰ることによって、ソフィアの過ちが「修復される」のだとされ、彼女の過ちは正当化される。
  

「神聖なる世界とその下に位置するこの世界の欠乏はすべて『知恵』が犯した過ちに始まったものであり、人々の内に宿る光が再び神聖さを取り戻せば、ソフィアの過ちは修復され、完全なる神聖さが実現されるのである。」(同上、p.173)


こうして、グノーシス主義神話においては、人間とは自らの出生の「真実」を知ることによって「母の過ちを修復する」ためにこそ存在しているのだと言って過言ではない。それによると、人類は、本来は彼らが悪神とみなされている創造神と同様に、真の父の同意なしに、母の過失によって、「望まれない子」として「母子家庭」に生まれて来たことになるが、その人類が自分の出自を正当化して、自分は創造神ではなく「真の父としての至高者の子供である」と自称して、「真の父」に回帰することによって、「母の過ちが結果的に修復される」のだという。

こうして「子」が「母」の過失を正当化し、母の願いを正当化するための道具となって生きることを最大の目的として作り出された物語が、グノーシス主義だと言えるであろう。



・「母」を守るのが「子」の使命とする転倒した東洋思想

以上のようなグノーシス主義神話の特徴を踏まえた上で、改めて東洋思想の思想家である鈴木大拙氏が、東洋思想においては「母」を守ることが根源にある、と述べていることを考えてみると興味深い。

鈴木氏は述べる、
  

「万物分割の知性を認識すること、これもとより大事だが、「その母を守る」ことを忘れてはならぬ。東洋民族の意識・心理・思想・文化の根源には、この母を守るということがある。母である。父ではない、これを忘れてはならぬ。

 欧米人の考え方、感じ方の根本には父がある。キリスト教にもユダヤ教にも父はあるが、母はない。キリスト教はマリアを聖母に仕立てあげたが、まだ絶対性を与えるに躊躇している。彼らの神は父であって母ではない。父は力と律法と義とで統御する。母は無条件の愛でなにもかも包容する。善いとか悪いとかいわぬ。いずれも併合して「改めず、あやうからず」である。西洋の愛には力の残りかすがある。東洋のは十方豁開である。八方開きである。どこからでも入ってこられる。

 ここに母というのは、わたしの考えでは、普通にいままでの注釈家が説明するような道といったり、また「ゴッドヘッド」といったりするものではないのである。もっともっと具体的な行動的な人間的なものと見たいのだ。しかし今は詳説するいとまをもたぬ。」
(『東洋的な見方』、鈴木大拙著、岩波書店、p.13-14、太字、下線は筆者による)


鈴木氏の言葉から考えられることは、もし「母」が「子」によって守られねばならないほどに弱い存在でなければ、あるいは「母」が絶えず何者かに脅かされているという前提がなければ、「母を守る」という言葉は、決して生まれて来ないという事実である。

むろん、「守る」という言葉の中には、保存するとか、継承するとか、崇め、奉るという意味もあろうが、それだけではない。たとえば、「母を守る」とは言っても、「父を守る」とは言わないからだ。

特に、聖書の「父なる神」は全知全能であり、人間によって守られなければならないような弱い存在ではない。むしろ、「父なる神」の方が、信ずる者を日々「子」として力強く守って下さるのである。聖書の秩序は一貫して「強い者である親が弱い子供たちを守る」というものである。

ところが、東洋思想はそれとは逆で、弱い立場にある「子」が、自らよりも強い者である「母」を守ることを求めるのである。

手束氏は、心理学者河合隼雄氏の言葉を引用して、こう述べている。
 

「河合隼雄氏は日本社会の様々な病理的現象の背後には、父性が欠如し、母性が過剰になっているとことにあると分析している。さらに遡って河合氏は、このような日本の母性文化の発生の理由を、日本の宗教の母性的性格に見ている。日本人は『父なる宗教を知らぬ国民』なのである。」(『教会成長の勘所』、p.74-75)


もし河合隼雄氏の言うように、「日本人は父なる宗教を知らぬ国民』」であるならば、鈴木氏が述べる「母を守る」という言葉も、東洋思想の心理的特徴が本質的に父を持たない「母子家庭」であるか、もしくは、「母」が「父」に比べて圧倒的に弱く、「母が父によって不当に脅かされている」という被害者意識を前提に成立しているものと考えられてならない。

手束氏が『教会成長の勘所』でこう述べていることを思い出そう。
 

今日の『フェミニズム神学』の評価すべきところは幾つかあるが、そのうちの一つはこれまで父性的男性的な傾向の強かったプロテスタント的キリスト教のあり方に批判を加え、長い間隠され抑圧されていた母性的女性的な要素を回復しようとしたことにある。」(同上、p.77-78)


鈴木大拙氏の言う「母を守る」という言葉もこれと同じで、「キリスト教の父なる神の二分性の脅威から東洋的な母性を守らなければならない」という前提あってこその言葉のように思われる。

むろん、鈴木氏はキリスト教社会に生きておらず、リューサーのようにキリスト教がもたらす女性蔑視により被害を受けたと主張するわけでもなく、また、日本において東洋思想が抑圧されたマイノリティに追いやられている現実もないため、鈴木氏が一体、「母を守る」という言葉によって、何を具体的に指していたのか、文脈は明らかでない。

しかし、鈴木氏自身の主張全体を振り返っても、東洋思想における「母」を脅しうる存在とは、キリスト教の父性原理の二分性を置いて他にないものと考えられる。

そして、キリスト教の父性原理とはすなわち聖書の御言葉なのである。

鈴木氏の言う「母を守る」とは、以上に挙げたような、「原父」に逆らった母ソフィアの過失を「修復」することがその「子」である人類の使命だ、とみなすグノーシス主義の主張を考慮すると、より理解しやすい。

鈴木氏が「善いとか悪いとかいわぬ。いずれも併合して「改めず、あやうからず」である。西洋の愛には力の残りかすがある。東洋のは十方豁開である。八方開きである。どこからでも入ってこられる。」と主張しているのも偶然ではない。

彼らが目指しているのは、「父」だけが最高の権威者で、他の者はみな「父」に従わなければならないという制約の存在しない、「母」が「父」に等しい力と権威を持ち、「父」の御言葉に縛られる必要がなく、これに背いたからと言って罪に定められることもなく、「善悪」の判断自体が存在せず、どんなものでも受け入れ、どこからでも入って来られる世界であり、言い換えれば、「母」の欲望が無制限に肯定され、正当化される世界なのである。

つまり、こうした人々が否定しようとしているのは、人は聖書の御言葉に基づいて、父なる神の意志に従わなければならないという聖書の事実、それに背けば、罪に定められるという事実なのであり、彼らの言う「キリスト教の二分性の抑圧から母性原理を回復せよ」という主張は、結局、神に背いたために、神の家族から疎外された母子(=人類そのもの)を、神の意志に反して、神の家族に加えようという企てを指していると言えよう。

いずれにしても、鈴木大拙氏、手束正昭氏、リューサーなどの面々が、全く異なる立場から、キリスト教に対する同様の批判を提起していることは興味深い。そこで、こう言えるのではないだろうか。キリスト教徒を名乗っているかどうかに関わらず、また性別の如何や暮らしている国や社会の形態に関わらず、ある人々にとっては、キリスト教の父性原理の二分性それ自体が重大な脅威と映り、彼らはどうしても、キリスト教の「二分性」を、この宗教の「欠点」として告発し、これを乗り越えるために、キリスト教に母性原理を回復せよ、と訴えずにいられないのである。

しかし、彼らが「キリスト教の父性原理の二分性が母性原理を抑圧している」と述べる時、それは結局「聖書の御言葉の二分性が人類全体を脅かしている」と言っているに等しいのである。

こうした人々は、聖書の「二分性」につまづいているのだが、つまづいた自分自身を反省して自己吟味するのではなく、むしろ、自らをつまづかせたキリスト教の側に「重大な欠点」があって、キリスト教がそれを克服せねばならないと述べることで、キリスト教に「有罪」を宣告する。

そうした告発が、キリスト教界の内側から出てくるときには、それは解放神学や、ペンテコステ・カリスマ運動や、あるいはカルト被害者救済活動のように、うわべはキリスト教の装いをまとって、キリスト教の中から始まった自己批判や、改革運動のような形を取る。

しかし、彼らの主張は「聖書の御言葉のみ」に基づく信仰を否定して、本来、キリスト教に異質な思想(異端)を持ち込むことであるから、必然的に、それはキリスト教を内側から変質させて、キリスト教を内側から食い破って、破壊しようとするキリスト教への敵対運動になる。

他方、キリスト教の「二分性」への告発が、キリスト教の外側から発せられる時には、それは鈴木大拙氏の主張や、次に述べる国家神道の理念のように、明らかにキリスト教とは異なる(東洋)思想を公然とキリスト教と合体させよ、という主張になる。

だが、これらのキリスト教批判は、外側からの批判であれ、内側からの批判であれ、本来的には同一の起源を持つのであり、それは以下に述べるように、キリスト教を変質させてグノーシス主義的原初統合を実現しようという試みに他ならない。

彼らが最も激しく逆らっているのは、「わたしの他に神はない」とする聖書の唯一の神という概念である。彼らは、父なる神が単独で神であるという事実に我慢がならず、何とかして、唯一の神から神としての性質を盗み取りたいのである。それを、キリスト教における父性原理の「二分性」への批判と、「母性原理の回復」を主張することによって成し遂げようとしているのである。

つまり、聖書の御言葉を否定して、神の意志を抜きに、人類が単独で己の欲望を成し遂げて、神に至ることを正当化したいという欲望こそ、
おそらく、鈴木大拙氏の言う「母を守る」ことの意味ではないかと考えられる。

「唯一の父の意志に縛られず、従わないで良い世界、御言葉の切り分けを否定して、どんなものでも主人として受け入れることが可能な世界」、だからこそ、「八方開き」なのである。

だとすれば、そのような無分別な「母」から生まれて来た「子」とは、まさに父不明の「父なし子」、「私生児」ということにしかならないであろう。
  
だが、彼らには己が罪に定められることが我慢できない。「母の過ち」を擁護することによって、何とかして自らの出生を正当化したい。そのためにこそ、彼らは「キリスト教には母性原理の回復が必要である」と唱え、自分たちが「父なる神」の正統な家族であるかのように訴えて、神の家の乗っ取りを企むのである。

そのような理屈を正当化するために、彼らは「キリスト教にグノーシス主義的な「男女の原初的統合」を「回復」することが必要である」と主張するのである。

こうして結局、東洋思想もその根底にはキリスト教の唯一の神への敵意、聖書の御言葉へ敵意と否定を宿していることになる。これは決してキリスト教と別個に発生し、発展して来た思想ではなく、その起源は、グノーシス主義なのである。

<続く>


異端思想は家庭を拠点に地上天国を目指すーキリストの十字架の切り分けを否定して未分化の東洋思想への回帰を唱える危険な運動⑥

➀ 文鮮明夫妻を「真の父母」とし、信者が「子」となって「神の家族」を形成することで地上天国が実現すると述べる統一教会の「全人類一家族理想」

統一教会は、2015年に「世界基督教統一神霊協会(統一教会)」というかつての名称から、「世界平和統一家庭連合」と改称された。この名称だけを見ても、いかにこの宗教が自らメシアと崇めている「真の父母様」である文鮮明を中心とする家族モデルを、信者全体の信仰生活の極めて重要な拠点として思い描いているかがよく伝わって来る。

さて、統一教会が理想と思い描いている信者の家族モデルとはどのようなものかは、以下の統一教会信者とおぼしき人物のブログの抜粋を通してもよく理解できる。
 

ブログ「原理に帰りましょう」
記事
「全てを許してやりたいのが親の心情」から抜粋

「神様の創造理想は、実体を持った人間を創造し、人間に責任分担を与え、愛を完成すること、そして人間と共に地上天国、天上天国を完成することでした。しかし人間始祖アダムとエバが堕落することにより、神様の理想とは似ても似つかない地上地獄、天上地獄を形成してしまいました。

 真の愛による真の生命の創造で神様の真の血統が繁殖するはずでしたが、偽りの愛による偽りの生命が誕生し、サタンの血統を繁殖してしまったのです。

 その血統を転換するために、メシヤすなわち 真の父母 を神様は送って下さいました。
 
私たちは真の父母を迎え、同じ神様の血統を共有する全人類一家族理想を成就しなければならないのです(以下、引用中の太字は全て筆者による)



統一教会では、宗教指導者の執り行う合同結婚式を通じて信者が自らの家庭を築くことにより、現実には全く血のつながりのない宗教指導者の「聖なる血統」を霊的に継承することができ、それによって信者は罪から清められて「神の家族」の一員に加えられると教えられている。

その教えによれば、文鮮明は人類を罪の堕落から救うメシアであり、信者たちは、この宗教指導者の夫妻を「聖なる父母」(「真の父母様」)として崇め、文鮮明の「子供」となって、「お父様」の願いを実現するために生きることこそ、信仰生活の基礎であると信じている。

おそらくは、信者自身の家庭にも同様の構図があって、信者が「真の父」である文鮮明の願いを体現して生きるのと同じように、信者の子供も、親に服従し、親の願いを体現して生きることが求められているのであろう。

このように「真の父母」によって結ばれる「神の家族」である信者の家庭を地上で増やしていくことで、「全人類一家族理想」が成し遂げられ、地上天国が成就すると、彼らは言うのである。「全人類一家族理想」という用語からも分かるように、全人類を統一教会の信者として、「真の父母」を中心とする「一つの家族」に結びつけることそ、彼らのミッションとなのである。

このように、信者が宗教指導者の夫妻を「聖なる両親」と仰ぎ、その「子供」となって彼らの教えに帰依することで、この世の堕落から救われて、聖なる神の家族の一員に加えられ、それによって「神の家族」が拡大して行くという考えは、異端思想のほとんどに共通して見られる特徴である。

そのような教えは、宗教指導者の教えに従うことで、信者の家庭が清められ、「聖家族」が地上で増え広がって行くことにより、やがて全人類がこの一つの神の家族に連なり、地上天国が成し遂げられると教える。

「全人類一家族理想」――すなわち、聖書によれば目に見えないものである神の国を、目に見える地上の王国に置き換え、地上天国を成し遂げるために、全人類を一つの教え、一組の
「真の父母」に帰依させて、「一つの家族」に結びつけること――それこそ、異端思想の時代を超えて変わらない普遍的な目標であり、悪魔が夢見るまことの神の国の模倣としての「地上天国」の「理想」なのである。



② 牧師夫妻を「霊の父母」とし、信者が「子」として牧師夫妻を崇めて「一つの霊的家族」として交わることが「教会成長の勘所」だとするプロテスタントにおける異端思想

驚くべきことに、そのような異端的な教えは、プロテスタントにも入り込んでいる。かつて記事「クリスチャンは神の子か、それとも神の養子か?(1)」で記したように、カリスマ運動の指導者である日本基督教団高砂教会の手束正昭牧師は、著書『教会成長の勘所』において、クリスチャンは、自分の属する教会の牧師夫妻を「礼典的・象徴的存在」として崇め、牧師夫妻を「霊の父、霊の母」として、これに「子」として従うべきであるという、統一教会とほとんど変わらない家族モデルを提唱している。

「クリスチャンには三人の父がいると言われる。まず第一には、言うまでもなく、『肉親としての父』である。次に、信仰の対象としての『天の父』、そして第三には、『霊の父』である牧師である
(『教会成長の勘所』、手束正昭著、マルコーシュ・パブリケーション、2003年、
p.74)



むろん、記事でも記して来たことであるが、聖書には牧師を「霊の父」として崇めることを奨励する記述は全くないどころか、それは聖書が逆に明確に禁じている行為である。

「しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師は、ただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。あなたがたは地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただひとり、すなわち天にいます父だけだからです。また、師と呼ばれてはいけません。あなたがたの師はただひとり、すなわち、キリストだからです。」(マタイ23:8-10)

しかしながら、手束氏は聖書の記述などお構いなしに、
牧師夫妻を「霊の父母」とする家族に信者が属して交わることこそ教会成長論の勘所だと説き、統一教会とほとんど変わらない「リバイバル」という地上天国の夢、一家族理想に邁進して行くのである。


・異端的な「父・母・子」の三位一体論に基づくプロテスタントにおける「母性原理回復」の試み

手束氏がこのような「霊の父母子」という家族モデルの提唱に至ったその背景にあるのは、同氏による異端的三位一体論である。

手束氏はフェミニズム神学者らの主張に基づいて、聖霊を「母なる霊」とみなすことで、父なる神・聖霊・子なるイエスの交わりを、「父なる神・母なる聖霊・子なるイエスの交わり」としてとらえる異端的な三位一体の解釈に至った。(このことは記事クリスチャンは神の子か、それとも神の養子か?(2)でも触れた。)

つまり、手束氏は、三位一体を「父・母・子」とみなす異端的な解釈にならって、信者らも、「霊の父母」である牧師夫妻を頂点に、「一つの霊の家族」となるべきであり、その交わりが成し遂げられることによって、教会が成長して行く、と述べるのである。そのようにして成長する教会が数多く現れることが、リバイバルの秘訣であると言うわけである。
  

三位一体の神ご自身が『父性的存在』と『母性的存在』と『子的存在』の交わりとしてあられるならば、当然教会においても、このような交わりが必要であり、そのような交わりが成就するときに、教会は健全となり、安定性を持ち、従って成長していくことになるのではなかろうか。

 パウロはテモテを『愛する子』(第二テモテ一・二)と呼んでいる。牧師や牧師夫人にとって、信徒は『愛する子』であり、『霊の子』である。信徒にとって、牧師は『霊の父』であり、牧師夫人は『霊の母』である。ここにおいて、『神の家族』(エペソニ・十九)であり、『霊の家族』である教会は成立する。

だとするならば、牧師は父性原理の体現者として信徒を教え導いて秩序付け訓練することに秀でなくてはならないし、牧師夫人は母性原理の具現者として、信徒を受容し、慈しむことのできる人でなくてはならない。このとき、教会は落ち着いた安定性を得、また信仰において成熟していくことになるのである。このような雰囲気を持つ教会には、必然的に多くの人々が集まってくるのである。」
(『教会成長の勘所』、p.79)


  
それだけでなく、手束氏がこのような「父・母・子」という異端的三位一体の解釈に基づき、牧師夫妻を「霊の父母」、信徒を「霊の子」とする家族モデルを提唱しているのは、それによって、「キリスト教に母性原理を回復するため」という目的があることも見逃せない。

プロテスタントがカトリックの堕落と腐敗に抗議して、これと訣別すべく生まれたことは知られているが、手束氏はまるで歴史を逆行させるように、カトリックには聖母マリア崇拝がもたらされたことによって、多少なりとも母性原理が回復されたが、聖書の御言葉だけを中心として、マリア崇拝を退けているプロテスタントには、御言葉に基づいて、善・悪を峻別する「分割」、「切断」、「二分」という父性原理ばかりに重きが置かれ、母性的な受容性がなくなり、その結果、プロテスタントは安定や健全さの欠ける、人間を精神病理に追い込むような、「極めて父性的で、厳粛な宗教に陥ってしまった」と嘆く。

「著名な心理学者河合隼雄氏によると、父性とは『切断する』ことにその特性を持っている。物事を上と下に、善と悪に、主体と客体に分類して、秩序付けや成長を促していく。他方、母性とは『包含する』ことにその特性があり、すべてのものを良きにつけ悪しきにつけ受容していくのである。

人間が精神的に健全に成長し成熟していくためには、どうしてもこの父性原理と母性原理のバランスが必要なのであり、どちらかに偏重すると、いろいろな点で不健全さ、不安定さを免れ得ない。河合隼雄氏は日本社会の様々な病理的現象の背後には、父性が欠如し、母性が過剰になっているとことにあると分析している。さらに遡って河合氏は、このような日本の母性文化の発生の理由を、日本の宗教の母性的性格に見ている。日本人は『父なる宗教を知らぬ国民』なのである」(同上、p.74-75)


 

「ところで、<略>その後のキリスト教の歴史においては、どちらかと言うと、母性的要素がことさら抑えられてきたように思える。特に我らプロテスタント教会はその感が強い。

カトリック教会の場合は『マリヤ崇拝』を導入することによって、何とか父性の偏重にバランスをとろうとした努力がうかがえるのであるが、プロテスタント教会は“聖書のみ”の立場から、聖書からは導き出し得ない『マリヤ崇拝』を廃棄せざるを得なかったのである。その結果、プロテスタントは、<略>極めて父性的で、厳粛な宗教に陥ってしまったのである。

しかしそこには人間性の安定や健全さを求めることは難しく、従って、プロテスタント国においては精神的な病を患う人々がより多く排出されることになったのである。父性というのは、上と下、善と悪を峻別して、秩序立てていこうとするので、どうしても心理的葛藤が起こりやすいからである」(同上、p.76-77)



このような手束氏の主張は、これまでも何度か言及して来たように、聖書の御言葉の「二分性」をキリスト教の「短所」として非難する仏教学者・禅の指導者鈴木大拙氏の主張にそっくり重なっている。手束氏は自身がキリスト教徒を名乗っており、プロテスタントの牧師であるにも関わらず、仏教学者の主張に歩調を合わせるかのように、プロテスタントの聖書の御言葉中心主義を否定的なものとしてとらえ、善悪を峻別する御言葉の「二分性」を、人間にとって不都合なもの、人間を狂わせる、精神病理に追い込む不健全なものとみなし、この「病理的な弱点」を克服するために、プロテスタントには、善悪を問わずすべてを受容するような(東洋的な)母性原理の回復がぜひとも必要であるとして、そのために「母なる聖霊」や「霊の母」としての牧師夫人論を持ち出すのである。



・「創造」や「生命を与える」力の源を「父なる神」ではなく「女性原理」にあるとするフェミニズム神学の誤り
  
ところで、一体、フェミニズム神学とは何なのであろうか。
手束氏の以下の文章からは、聖霊を「母なる霊」とみなす異端的三位一体の解釈が、解放の神学の一派であるフェミニズム神学の強い影響を受けて生まれたものであることがよく分かる。
そして同氏が、フェミニズム神学がキリスト教が父性原理のうちに長い間、抑圧して来た母性的・女性的な要素を回復すべきと主張したことを、高く評価している様子も伺える。
 

「『父なる神』と『母なる聖霊』

 今日の『フェミニズム神学』の評価すべきところは幾つかあるが、そのうちの一つはこれまで父性的男性的な傾向の強かったプロテスタント的キリスト教のあり方に批判を加え、長い間隠され抑圧されていた母性的女性的な要素を回復しようとしたことにある。<略>

フェミニズム神学の論者たちは言う、『聖霊は女性ではないのか』と。従来、三位一体の一位格である聖霊もまた『父なる神』『子なるキリスト』に続いて、男性的人格として見なされてきた。
しかし聖霊を示すヘブル語のルァハは女性形であるばかりか、『人間のダイナミックな生命力が表現される特別な呼吸の出来事』を意味した。これは具体的には性的興奮と分娩を指しているという。

しかも創世記の冒頭の天地創造の物語において、創造を直接的にもたらした神の言葉の前には、『神の霊』(ルァハ)が働いていたのである。さらに、『新しい存在』(新しい被造物)であるナザレのイエスの誕生に際しては、聖霊が介入している。『聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたをおおうでしょう。それゆえに、生まれ出る子は聖なるものであり、神の子と、となえられるでしょう』(ルカ1:35)。

つまり、聖霊の中心的な働きは創造や生命を与えるということにあるのであり、これは勝れて女性的母性的特徴と言える。このように見てくると、三位一体の教義も、新しい視点の下に解釈していくことが可能となる。すなわち、『父なる神』と『母なる聖霊』によって生み出されたのが『子なるキリスト』であり、三位一体は神の家族的象徴性を担っているということになる」(同上、p.77-78)

 

しかし、すでに書いたことであるが、従来の神学においては、聖霊はギリシア語では“pneuma”(中性名詞) 、「性を持たない人格」として扱われて来た。また、ラテン語では“Spiritus Sanctus”(男性名詞)、他の言語においても、男性か中性のどちらかの人格とみなされ(たとえば、露語 Святой Дух 男性名詞)、少なくとも、フェミニズム神学を除き、従来の神学上、女性人格とみなされることはなかった。

聖書を見ると、「聖霊」は確かに「息」と密接な関係にあり、命を与えるという役割を担っていることが分かる。創世記において、神が人を創造された時、神は人に息を吹き込まれることにより、人に命(霊)を与えられた。

「その後、神であるは、土地のちりで人を形作り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。」(創世記2:7)

しかし、アダムに吹き込まれた命は永遠性がなく、アダムは罪によって堕落したため、死が人類に入り込んだ。しかし、キリストが人となられ、十字架の死と復活を通られたことにより、「最後のアダム」であるキリストを信じる者は、永遠に滅びることのない、神の非受造の命としてのキリストの御霊を受けることができる。

キリストの御霊は、命を与える源であるだけではなく、キリストご自身の人格と一つに結びついている霊である。主イエスは弟子たちに息を吹きかけて、この永遠に命なる御霊を受けるように、と言われた。これは信じる者に新しい命がもたらされたことを意味する。


「聖書に、「最初の人アダムは生きた者となった。」と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました。」(Ⅰコリント15:45)

「イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけられて言われた。「聖霊を受けなさい。」(ヨハネ20:21-22)


このように、確かに、聖霊には「命を与える霊」としての役割がある。しかしながら、だからと言って、果たして、手束氏の言うように、聖霊を女性人格とみなすことが可能なのか。手束氏は聖霊を女性人格とみなす根拠としてこう述べる、「聖霊の中心的な働きは創造や生命を与えるということにあるのであり、これは勝れて女性的母性的特徴と言える。」と。

多くの原始宗教において、女性は、生命、創造、多産、豊穣などの象徴として扱われて来た。しかしながら、我々は、原始宗教の固定概念に立脚して物事を考えているわけではないので、先入観にとらわれることなく、よくよく冷静になってこの問題を考えてみたい。

果たして、フェミニズム神学の言うように、「創造や生命を与える」行為は、「勝れて女性的特徴」なのであろうか?

筆者の観点から見ると、解放神学というものは、聖書を裏返しにして、神と御言葉に反逆する秩序転覆の思想である。解放神学については、記事「偽りの教えの例――弱者解放の福音の誤りとグノーシス主義(10)」を含む、いくつもの記事を書いて来たので、そちらも参照されたいが、フェミニズム神学も、解放神学の一派である。

フェミニズム神学に限らず、フェミニズムという思想そのものが、男性(父性原理)に対する強い嫌悪感に基づいて、これに対する反発から、母性・女性原理を高く掲げるという構造になっている。これは聖書の説く男女の秩序を転覆させる思想であり、東洋思想(グノーシス主義)とも密接な関係があると筆者はとらえている。

だから、先入観に惑わされずに、この問題をよく考えてみる必要がある。聖霊に性を見いだすかどうか、という問題を脇に置いても、筆者の目から見ると、命を与える役目は、あくまで男性にあるように思えてならないのである。女性は、これを受ける器である。女性は、分与された命を受け取り、これを自らの命と結びつけて新しい生命として養い、世に送り出すことはできても、女性だけがひとりでに命を生み出す能力はない。従って、命を分け与えることは、男性の本来的な使命であると思われてならないのである。

聖書においても、エバはアダムから生み出されたのであり、女性が先に生まれて、女性から男性が生み出されたわけではなかった。イエスを産んだマリヤも、聖霊の働きがなければ、一人では何も生み出せなかったであろう。もし手束氏の言うように、聖霊を「母なる霊」とするならば、キリストの誕生は、女性が女性の霊によってみごもったことになるが、そんな説明が成立するであろうか?

(さらに、手束氏の考えに基づくと、「父なる神」と「母なる聖霊」の交わりの結果、「子なるイエス」が生まれたことになるが、そうであれば、イエスの本当の「母」は聖霊ということになるから、マリヤはカルケドン信条に定義されているように「神の母」ではなく、代理母でしかないということになろう。この点でも、完全に手束氏の主張は異端である。)


聖書の秩序は常に、男性が命を与える側に立つというものである。父なる神がアダムを創造され(創造された側のアダム――人類――は、神の命なる霊を受ける器という意味では、霊的に女性。これも教会の型)、アダムの肋骨からエバが作り出された(アダムとエバとの関係も、キリストと教会を予表する)、聖霊が乙女マリアのうちに働き、キリストの誕生に至らせた(これもまたキリストと教会の型)、ただひとりの男子キリストが十字架にかかられて死なれたそのわき腹から、水と血と霊によって生まれたのが教会であり、キリストは、十字架の死と復活を経験されたがゆえに、永遠に朽ちない命を与える御霊を、信じる者たちに分け与えることができる。

こうして詳細に見て行くと、聖書的な観点からは特に、創造や、生命を与える」行為は、母性原理ではなく、むしろ、父性原理(父なる神)の特質であると言って差し支えないことが分かる。むろん、フェミニズム神学にとっては、このような考えこそが憎悪の対象なのである。フェミニズム神学は、父性原理に対する嫌悪感から、「創造」と「生命を与える」という栄誉ある役割は父性原理にあるのではなく、女性原理にあると主張して、「創造」という役目を、父なる神から母性原理の役目へと奪おうとしているのである。

そのように、命を与えることが、あたかも母性原理であり、女性の専売特許であるかのような誤解は世に広く普及しているが、少なくとも聖書においては、「創造」と「生命を与える」力の根源は、創造主である父なる神にこそある。そこで、いみじくもキリスト教「神学」を名乗っているにも関わらず、父なる神による創造という聖書的事実を退けて、女性こそ創造者であるかのように、母性・女性原理を高く掲げるこの教え(フェミニズム神学)は完全に、聖書の定める男性と女性との秩序の転覆をはかるものだと言えよう。

従って、男性である牧師たちが、自らこのような理念を信奉するならば、必ずや、彼らは男性としてのプライドと名誉を失うことになるであろうと筆者は確信する。なぜなら、この思想の中には、根本的に男性(父性原理)そのものに対する激しい嫌悪と蔑視が含まれているからである。



・解放神学(フェミニズム神学)とそれに基づく(ペンテコステ・)カリスマ運動は、キリスト教ではなくキリスト教に敵対する東洋思想(グノーシス主義)の一種である

フェミニズム神学を含め、解放神学もそうなのだが、手束氏の主張も含め、キリスト教においては「父性原理に基づく二分性ばかりが強すぎるので、母性原理の受容性を補うことによって、その欠点を克服しなければならない」という主張は、根本的には、みな異端であると言って良い。

なぜなら、これは聖書の御言葉を毀損することによって、キリスト教そのものを歪曲する試みであり、キリスト教とは全く相容れない思想がその根底にあるからである。その思想こそ、東洋思想である。

そのことは、こうした思想がすべて、仏教学者・東洋思想家・禅の指導者である鈴木大拙氏の主張とぴったり一致することからも分かることである。結局、「キリスト教における母性原理の回復」を唱える教えは、すべて東洋思想を基盤としているのだと言って過言ではない。従って、それはどんなにキリスト教の仮面をつけて、キリスト教のように装っていても、本質的にキリスト教ではないものから出てきているのである。

記事「偽りの教えの例――弱者解放の福音の誤りとグノーシス主義(11)」でも記したことであるが、女性解放の神学の代表者、ローズマリー・リューサーは、解放神学は、魂と肉体、主体と客体の二元論が、古典的キリスト教の「欠点」であるとして、これを克服せねばならないと述べた。彼女は、古典的キリスト教は、男性だけが神の像に似て造られた「人間性」の真髄を備えた存在であり、女性は完全な神の像を持たず、頭である男性と共にあって初めて真の人間性を持つことができるとしている点で、キリスト教は女性を男性の客体、「対象物」におとしめているとして非難した。

リューサーは欧米諸国のようなキリスト教社会においては、このような聖書的男女二元論が原型となって、社会の全ての抑圧形態に作用しており、この二元論の断絶があらゆるものに応用されて、人類社会に無限の断絶をもたらしており、それゆえ、社会には「もろもろの権威と支配」が乱立し、疎外が満ち溢れたのだと言って、伝統的なキリスト教に「有罪」の宣告を下す。そして、キリスト教の二元論から来る断絶・疎外を解消し、人間を「客体性」から解放することが、人間の救済である、と主張するのである。
 
記事「カルト被害者救済活動の反聖書性について―キリストの十字架の切り分けを否定して未分化の東洋思想への回帰を唱える危険な運動④ー」でも見て来たように、フェミニズム神学者が非難しているようなキリスト教の「二元論」は、創造主と被造物との二分性、すなわち、「知る者」である神と「知られる者」である人との主客の区別を根源として発生して来るものである。

男女の二元論から始まり、「主客の区別」そのものに反対し、人間の「客体性」からの解放を唱えるリューサーの主張は、全くもって鈴木大拙氏の主張にそっくりであることに驚かされる。
再び、鈴木大拙氏の文章を引用しよう。
 

分割は知性の性格である。まず主と客とをわける。われと人、自分と世界、心と物、天と地、陰と陽、など、すべて分けることが知性である。主客の分別をつけないと、知識が成立せぬ。知るものと知られるもの――この二元性からわれらの知識が出てきて、それから次へ次へと発展してゆく。哲学も科学も、なにもかも、これから出る。個の世界、多の世界を見てゆくのが、西洋思想の特徴である。

 それから
分けると、分けられたものの間に争いの起こるのは当然だ。力の世界がそこから開けてくる。力とは勝負である。制するか制せられるかの、二元的世界である。」(『東洋的な見方』、鈴木大拙著、岩波書店、p.10-11)

 

「西洋文化といえば、ギリシャ、ローマ、ユダヤ的文化の伝統ということになる。その不完全さは、宗教の上に最も強くあらわれる。自分はキリスト教をみだりに非難するのでなく、また悪口するのでもない。これはいうまでもないところだが、キ教には、二分性から来る短所が著しく見え、それが今後の人間生活の上に何らかの意味で欠点を生じ、世界文化の形成に、面白からぬ影響を及ぼすものと信じる。キ教はこれを自覚して、包容性を涵養しなくてはならぬ。

 二分性から生ずる排他性・主我性などは、はなはだ好ましからざる性格である。二分性を調節して、しかもそれを包含することになれば話はわかるが、これがないと、喧嘩が絶えない。」(同上、p.169-170)



鈴木氏は、西洋思想における「分割する知性」、すなわち、「主客の区別」の根源となっているものは、キリスト教における創造主と被造物との区別であると見る。そして、この「主客の区別」から生じる「二分性」、「排他性」、「主我性」を極めて否定的なものとみなす。

もしそこにリューサーの言葉をあてはめるなら、聖書によれば、創造主は「知る者」であるが、被造物としての人間は神によって「知られる者」(客体)であるから、神によって造られた人間は、男女を問わず、みな神の満足の「対象物に貶められている」ということになろう。

以上からも分かるように、東洋思想が最も激しく反発しているのは、人間は神によって造られた「客体」に過ぎず、どこまで行っても、神(主)ご自身にはなれない、という点なのであるそして、その点はフェミニズム神学者の主張とも根本的に一致する。
 
造られた者であるがゆえに、人は神ご自身ではなく、神から切り離されて、神性から疎外されている、どんなに信仰が増し加わっても、人自身は完全な聖に達し得ず、造られた被造物ではあっても、創造主たる神にはなれない――この点こそ、東洋思想の学者や、フェミニズム神学者らが、最も激しく反発する点である。

「男性だけが神の像に似せて創造され、男性からできた女性は、男性に比べ、完全な神の像を持たない、という聖書の見解は、女性を貶めている」というリューサーの主張は、結局のところ、「神だけが神であって、人間は神のかたちに似せて創造された被造物に過ぎないので、完全な神のかたちを持たない、という聖書の理屈は、人類全体を貶めている」と言っているのと同じなのである。そのような考えには根本に、人間が完全な神のかたちを持たない(人は神になれない)という聖書の事実に対する嫌悪・反発・抵抗がある。

従って、こうした思想の持主が、キリスト教は、聖書の御言葉の「二分性から生じる排他性・主我性」という「短所」を克服することこそ、必要である、と述べているのは、結局のところ、「神と人との区別を廃止して、人を被造物という客体性から解放せよ」と言っているのと同じなのである。

お分かりと思うが、このような思想は、結局、聖書の「唯一の神」という概念そのものに逆らっているのである。グノーシス主義が、自らを唯一の神であるとする創造主の宣言を「悪神の傲慢」として嘲笑・否定するのと全く同じ構図がそこにある。(記事「キリストの十字架の切り分けを否定して未分化の東洋思想への回帰を唱える危険な運動④ー」参照。)

従って、彼らの述べる、「人間を(被造物の)「客体性」から解放せよ」という主張は、「わたしのほかに神はいない」とする聖書の唯一の神を退けて、人が神の地位を乗っ取り、自ら神になろうとする反逆に他ならないのである。

わたしより先に造られた神はなく、
 わたしより後にもない。
 わたし、このわたしが、であって、
 わたしのほかに救い主はいない。」(イザヤ43:10-11)

わたしがである。ほかにはいない。
わたしは光を作り出し、やみを創造し、
平和をつくり、わざわいを創造する。
わたしは、これらすべてを作る者。」(イザヤ45:6-7)

「ああ。
陶器が投機を作る者に抗議するように
自分を造った者に抗議する者。
粘土は、形造る者に、
「何を造るのか。」とか、
「あなたの作った物には、手がついていない。」
などと言うであろうか。」(イザヤ45:9)

「ああ、あなたがたは、物をさかさに考えている
 陶器師を粘土と同じにみなしてよかろうか。
  造られた者が、それを造った者に、
 「彼は私を造らなかった。」と言い、
  陶器が陶器師に、
「彼はわからずやだ。」と言えようか。」(イザヤ29:16)



・キリスト教の「父なる神」に対抗して東洋思想が賛美する「神秘なる母性(母なる混沌)」

さて、それでは、一体、以上のように「唯一の神」を否定して、人間を「客体性」から解放することを主張する思想の持ち主は、一体、どのような方法で、キリスト教の「二分性」を克服することを目指すのであろうか?

それは、キリスト教に「母性・女性原理を回復する」ことによってである。彼らはキリスト教において「父性原理」と「母性原理」を新たに融合することによって、未だかつてない新しい境地に至ることができるかのように主張しているのである。キリスト教と東洋思想とを合体させて混合態を造ることを使命としていると言っても良い。

鈴木大拙氏は、すでに記事で述べた通り、キリスト教の「二分性」から来る「排他性」の問題を解消する方法として、キリスト教に母性原理を補い、「主客(善悪)未分以前の母なる混沌」への「嬰児的回帰」を提唱する。

鈴木氏は、それを「神が光あれ、と言われる以前の状態」と表現する。結局、それは光と闇が分かたれる前の状態、サタンが堕落して神から切り離される前の状態、人間が神によって創造されて、堕落によって楽園を追放されて、神から切り離される前の状態に回帰しようとする試みである。

つまり、事の善悪に拘泥せず、万物をあるがままに受け止め、知性が先走る状態を克服して「知」と「行」とを一つにすることで、知性による分割発生以前の「未分的」で「全一的」状態を取り戻すこと(いうなれば、「真如」に回帰することであろうか)、そのようにして、、「二度目の林檎を食べる」ことが必要であり、それが禅の悟りの本質であるかのように鈴木氏は述べているのである。

相当に長い引用であるが、母性原理・女性原理の回復という言葉が、何を意味するのかを理解するのには役立つと思うので、以前の記事でも度々挙げたが、同氏の言葉を再び引用しておく。
 

「なぜ、西洋的に見たり考えたり行動したりしてゆくと、行き詰まりを見なくてはならぬかというと、人間の生きている世界は、五官で縛られたり、分別識で規定せられる外に、いま一つ別の世界があるのである。これを明らかにしておかぬと、人間は生きてゆけぬのである。生きていると思っていてもそれは自己欺瞞で、虚偽の生涯である。『今一つ別の世界』などいうと、また数の概念に収めこんで、そんなものが、この可視的、可把握性の世界の外にあるかのごとく、思惟せられるのであろう。これが言葉なるものの短所で、禅者はことにこの点に気を配る。」(『東洋的な見方』、p.22)

 

人間の本質とでもいうべきは、理性的、知性的なものでなくて、むしろ情性的、意欲的なものである。知性はどうしても二分性を根本的に帯びている。それゆえ、表面的になりがちである。すなわち薄っぺらだということになる。これに反して情意的なものは未分的すなわち全一的であって、人間をその根本のところから動かす本能を持っている。人間は行為を再先にして、それから反省が出る、知性的になる。知が行を支配するようになるのは、知がその本質からはなれて、その底にあるものと一つになるところが出なくてはならぬ。

アダム、イブの世界には『行』のみがあって『知』がなかった。それでエデンの楽園が成立した。一旦、知が出ると、失楽園となったのである。入不二法門の世界では、その知をそのままにして、もとの行の世界、意の世界を、新たな面から再現させている。この点で入不二界はエデンと相違するのである。一段の進出といってよいのである。二度目の林檎を食べぬといけない。」(『東洋的な見方』、p.195-196)

 

「東洋民族の間では、分割的知性、したがって、それから流出し、派生するすべての長所・短所が、見られぬ。知性が、欧米文化人のように、東洋では重んぜられなかったからである。われわれ東洋人の真理は、知性発生以前、論理万能主義以前の所に向かって、その根を下ろし、その幹を培うところになった。<略>

 主客未分以前というのは、神がまだ「光あれ」といわれなかったときのことである。あるいは、そういわんとする刹那である。この刹那の機を捕えるところに、東洋真理の「玄之又玄」(『老子』第一章)なるものがある。<略>

 「光あれ」という心が、神の胸に動き出さんとする、その刹那に触れんとするのが、東洋民族の心理であるのに対して、欧米的心理は、「光」が現れてからの事象に没頭するのである。主客あるいは明暗未分化以前の光景を、東洋思想の思想家である老子の言葉を借りると、「恍惚」である。荘子はこれを「混沌」といっている。また「無状の状。無象の象」(『老子』第十四章)ともいう。何だか形相があるようで何もない。<略>またこれを「玄牝(げんぴん)」ともいう。母の義、または、雌の義である。ゲーテの「永遠の女性」である。これを守って離れず惑わざるところに、「嬰児(えいじ)」に復帰し、「無極(むきょく)」に復帰し、「樸(はく)」に復帰するのである。ここに未だ発言せざる神がいる。神が何かをいうときが、樸の散ずるところ、無象の象に名のつけられるところで、これから万物が生まれ出る母性が成立する。分割が行ぜられる。万物分割の知性を認識すること、これもとより大事だが、「その母を守る」ことを忘れてはならぬ。東洋民族の意識・心理・思想・文化の根源には、この母を守るということがある。母である。父ではない、これを忘れてはならぬ。

 欧米人の考え方、感じ方の根本には父がある。キリスト教にもユダヤ教にも父はあるが、母はない。キリスト教はマリアを聖母に仕立てあげたが、まだ絶対性を与えるに躊躇している。彼らの神は父であって母ではない。父は力と律法と義とで統御する。母は無条件の愛でなにもかも包容する。善いとか悪いとかいわぬ。いずれも併合して「改めず、あやうからず」である。西洋の愛には力の残りかすがある。東洋のは十方豁開である。八方開きである。どこからでも入ってこられる。

 ここに母というのは、わたしの考えでは、普通にいままでの注釈家が説明するような道といったり、また「ゴッドヘッド」といったりするものではないのである。もっともっと具体的な行動的な人間的なものと見たいのだ。しかし今は詳説するいとまをもたぬ。」(同上、p.13-14)


 こうして、鈴木氏は、「人間の本質とでもいうべきは、理性的、知性的なものでなくて、むしろ情性的、意欲的なものである。知性はどうしても二分性を根本的に帯びている。それゆえ、表面的になりがちである」とした上で、キリスト教の「知性による分割」、「二分性」を否定的なものととらえ、同氏が「人間の本質」であるとする、「情性的なもの、意欲的なもの」に回帰するために、神人とが分かたれる前の「主客未分以前」、「明暗未分化以前」、「知性発生以前」、「善悪未分以前」の状態に回帰することが必要であると述べる。

そして、このような神と人との主客の区別が発生する以前の原初的な状態のことを、鈴木大拙氏は「恍惚」とか、「混沌」とかいう言葉で呼ぶ(まさにペンテコステ運動にふさわしい言葉ではないだろうか?)

そして、この原初的な混沌を「母なる混沌」として(玄牝(げんぴん)と呼ぶ。

ここでなぜ「母」なのか。なぜ女性なのか、という疑問が生じよう。

なぜなら、もし聖書の父なる神が「光あれ」と言われる前の状態に回帰するというならば、そこには、父なる神お一人だけしか存在する方はいないはずだからである。

ここで、いつの間にか、聖書の「父なる神」が、東洋の「母なる混沌(神秘なる母性)」にすり替わっていることに気づくのである。鈴木氏は言う、「万物が生まれ出る母性」と。つまり、東洋思想においては、万物を生み出す源は「父なる神」ではなく「神秘なる母性」でなければならないのである。従って、東洋思想の「神」とは、母なる神なのだと言っても差し支えない。

それは、カリスマ運動の指導者・手束正昭氏が、「創造や生命を与えるということ<…>、これは勝れて女性的母性的特徴と言える。」と述べているのと同じである。

このような考えは、東洋思想において古くから存在して来た。鈴木氏は老荘思想を根拠に挙げる。老子の思想においては、この「神秘なる母性」は「玄牝」と呼ばれる。
 

河瀬直美監督 映画『玄牝』公式サイトから抜粋

玄牝とは?
『谷神不死。是謂玄牝』――谷神(こくしん)は死せず。これを玄牝という。
タイトルの「玄牝」とは、老子の『道徳経』第6章にあることば。大河の源流にある谷神は、とめどなく生命を生み出しながらも絶えることはない。谷神同様、女性(器)もまた、万物を生み出す源であり、その働きは尽きることがない。
 老子はこれを玄牝――“神秘なる母性”と呼んでいる。


このように、東洋思想の基本には、生命の源は「永遠に女性的なるもの、神秘なる母性」にあるという考えがあり、生命を生み出し、創造する力を「母性」に求める。そして、人は知性によって自他の区別が生じる前の、赤子のような無意識の状態に戻り、「神秘なる母性」に身を委ねてこれと一つとされることが、人間にとっての究極の解決であると言うのである。

むろん、これはキリスト教における「父なる神」の否定であり、「父なる神」による天地創造という聖書の事実そのもの否定と言って良い。聖書をどう歪曲しようとも、聖書の神は父なる神であって、母なる神ではない。初めからないものに回帰せよと言われても、荒唐無稽な話である。

しかしながら、それでも聖書を巧妙に曲げるために、手束氏のようなカリスマ運動の指導者は、「父・母・子」の異端的三位一体論を唱えることにより、キリスト教に「母性原理の回復」がなされねばならないと主張して、「母なる聖霊」論を持ち出すのである。

そこで、この「母なる聖霊」論は、本質的にキリスト教とは無縁の(むろん異端という意味で、絶対にキリスト教ではあり得ないのだが)、もともとは東洋思想に由来する発想なのだと言うことができよう。すなわち、手束氏の言う「母なる聖霊」とは、東洋思想における「神秘なる母性」、「母なる混沌」の言い換えなのである。

つまり、ペンテコステ・カリスマ運動(筆者はこれらの運動を一つにまとめて問題ないと考えている。日本基督教団の手束氏の著書は、聖霊派の枠組みをはるかに超えて、プロテスタント全体に行き渡っている)は、うわべだけはキリスト教の装束をまとってはいても、実際には東洋的な「神秘なる母性」を崇拝する別の教えなのだと言って差し支えないであろう。

全く恐ろしいことである。こうなってもまだペンテコステ・カリスマ運動をキリスト教だと考えて信奉している信者は哀れとしか言いようがない。そして、この東洋的な「神秘なる母性」への崇拝こそが、聖書が全体を挙げて告発する「大淫婦バビロン」の本質なのである。マリア崇拝、フェミニズム神学も含め、キリスト教に「母性原理を回復せよ」という主張は、すべてここから出てきていると見て良い。

<続く>