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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

肉のものと霊とのものを区別する必要性~キリスト教界に入り込むグノーシス主義的・東洋的神秘主義の危険⑤~

さて、武術がどのように悪魔的な起源を持つものであるかを知るために、『龍の正体』の解説に戻ろう。ウィルソンはその後、大学に通いつつ、ビルマ拳法の学校に通うようになり、そこで5年間の月日をかけて黒帯を取り、キックボクシングの大会に出場して勝利をおさめる。その成功体験が、彼の虚栄心とプライドをさらに建て上げることになる。
 

「クリーブランドの町にいた頃、
いくつかの武術学校に通った。
最初に通った武術学校は
一心流空手道だった。
大学に通いつつ、二年半訓練を受けた。
それからある武術のクラスが
YMCAで行われていると耳にした。<略>

そこで習ったのがバンドー空手だった。
ビルマの国から来たものだ。
中国や日本、沖縄の武術の影響が強く
色んなものがごちゃまぜになった武術だった。
フルコンタクトが基本でボクシング
徒手格闘、五形拳もあった。
カンフーと少し違った動物が出てきたが、
似ていたのですぐに慣れた。

五年間の訓練でやっと黒帯が貰えた。

その直後、全国キックボクシング大会に
出場することになった。
こんな大きな大会に出たのは初めてで
ものすごく緊張した。
あんな大勢の前で戦ったことが無かった。
スポットライトが当たり、本当に緊張した。
リングに上がった時、大勢の観客を見渡し、
ラウンドガールが水着姿で番号を持って歩くのを見て
これは現実か?と思った。
とにかくリングの反対側の相手を見た。
そして、彼と目が合った瞬間、周りのすべてが消えた。
もう誰も見えず、何も聞こえず、観客は姿を消し、
ただ目の前にある闘いだけが重要だった。

振り返れば、あの闘いはすごく自分を変えた。
試合後、自分と自分の武術チーム仲間について
書かれた新聞記事が出ていた。
非常に優れた成績を獲得したと書いてあった。
自分の中のプライドがまた少し膨らんだ。


ウィルソンは、ある意味で、パウロがそうだったように、何事も徹底的に追求して熱心に極めようとするタイプだったらしく、一つの成功体験だけで満足することなく、自分にはまだ足りないものがあると感じ、なんと最初に学んでいた武術学校へ戻って、緑帯からやり直そうとする。
 

「ビルマ拳法で黒帯を取ってから
師匠たちは他の生徒たちを指導するよう勧めてきた。
だが何か足りないものを感じていた。
まだ獲得していないものがあったからだ。

すぐに私は最初に通っていた武術学校に戻ることにした。
最初に始めたところで自分の能力を試してみたかった。
だがその選択が暗闇への道に導くことになるとは
少しも気づかなかった。

武術学校史上四人目の黒帯獲得者に
出会ったのはこの頃だった。
その儀式は今まで見たことが無いようなもので
畏敬の念を起こさせるようなものだった。

最初の学校に戻って、緑帯からまたやり直し。
六ヶ月のうちに優等緑帯になり、
一年半後には茶帯になった。
師匠は私が黒帯になって教えるようになりたい
と思っていることを知っていた。

その頃に、優等茶帯が黒帯になる儀式が行われた。
ろうそくが並べられ、かなり本格的なものだった。
茶帯の人が黒帯を受けとるところで
師匠の目が私を見つめていたのを覚えている。
自分もいつかこの日が来る。
この学校で黒帯を取る日が来ると悟った。」



最初に通った武術学校で、ウィルソンは、人体の限界を超えた魔法のような驚異的な技を使うためには、「気」というものを引き出す秘訣を学ばねばならないことを知らされる。彼がはっきりと「暗闇への道」に引き込まれて行くのは、彼が「気」を汲み出す訓練を始めてからのことであった。

すでに述べたように、「気」というものの存在は、科学的には全く立証されていない。これは中国の伝統的な思想に由来する、非科学的な、純粋に東洋的な概念である。

中国の伝統的な思想では、「気」とは天地万物を構成する見えない根源的なエネルギーであるとみなされており、すべての物質に「気」が宿っているため、人が自らの体内にある「気」を汲み出し、養うことで、体の状態を変容させる修行法(=内丹術)が歴史を通じて編み出されて来たのである。

今や「気」という概念は世界中に広まり、欧米諸国においても、ヨガや瞑想、あらゆるトレーニングの宣伝広告に使われており、あたかも人間が簡単に「気」を高めることで体の調子を良好にし、人生を好転できるかのように謳われている。

だが、多くの人々は、そのその源流となる思想が、東洋神秘主義にあることや、「気」を引き出すために通らなければならないとされる激しい苦痛に満ちた修行のことを知らない。

ウィルソンが通っていた武術学校は、キリスト教文化圏の学校であるから、その師匠は、「気」が東洋思想に由来する異教的概念であることは明かさず、それはただ「神が人間に植えつけた内なる力」であると説明していた。

「気」こそ、圧倒的で驚異的な技を生み出すエネルギーの源であることに気づいたウィルソンは、自分もその力が欲しいと願う。だが、「気」を技に適用する方法を学ぶことは、黒帯のような選ばれた者だけに許された訓練であり、その訓練は、閉じた扉の向こうで行われる、武術の奥義の世界を意味していた。
 

「1999年私はこの学校で黒帯を取る五人目となった。
30年間での五人目だった。
14年もの特訓を経ての取得だった。
一番激しい内家拳(太極拳・形意拳・八卦掌など)の特訓は
閉じた扉の奥の上級クラスの中で行われた。

その特訓で私たちが教わった思想に
「気」というものがあった。
今日ではテレビなどで
良く使われる言葉だ。
歯医者の待合室にある健康雑誌にすら載っている。
しかし80年や90年代の頃は、誰にでも
通用する言葉ではなかった。

師匠が私たちに説明した「気」とは
神が人間の中に植えつけたもの、内なる力である。
それを自分の中から引き出して
技と一緒に使う必要があるのだと。
サンドバッグを蹴るにしても、
二百回腕立て伏せするにしても、
その「気」を内側から引き出して
一緒に使わなければいけない。

そしてこれこそ必要不可欠な力であり、
茶帯や上級茶帯や黒帯が成す驚異的な技は
すべてこの力に基づいている。

現代の映画やハリウッドや
ドキュメンタリー番組などで見かける
200キロの氷を一撃で打ち砕く技
鉛筆二本折るような話ではなくて
本格的なすごい力。

こういった技はどうしたらできるのかと
上級緑帯の頃に師匠に聞いたことがある。
こういう訓練は黒帯限定だと返された。
そういう訓練のための準備については教えられるが
「気」を汲み出す方法を学ぶのは
黒帯になってからの話だと言われた。」


 
ウィルソンは緑帯の時に、まずは「気」を汲み出す方法を学ぶ訓練を始めるように言われる。だが、その訓練は痛みの連続だった。生徒同士が、渾身の力で平手打ちを加え合う、板で腹を打つ、といった暴力的な訓練を通じて、激しい痛み苦しみが加えられ、それによって引き出される憎悪、敵意、攻撃性の只中から、「気」が引き出されるというのであった。

 


緑帯の頃、この「気」を出す準備訓練

というものは痛みの特訓だった。
この訓練をする数週間前から師匠は私たちに
これから始めることを少しずつ話した。

まず最初に自分と同等の実力の相手を選び、
そしてお互いに平手で顔を打ちあった。
私が相手を引っ叩いたら、交代で向こうも私を引っ叩いた。
最初は普通に叩くのだが、だんだんと一発ごとに強く叩く。
相手が私を強くたたけば、私はそれ以上にもっと強く叩く。<略>

緑帯たちはお互いに緊張していて
控えめに打ち合っていた。
だが茶帯の方は本格的に平手で叩きあっていた。
サメのようにお互いの攻撃性で刺激を増していた。
顔が終わったら、腕、そして足にうつった。

そのうち約3センチの太さの板を持ち出してきた。
この板は頑丈なオークやヒッコリーの木で出来ていた。
そして体を引き締めて、相手に板で腹の方を打たせる。
そして打たれる際に思いっきり息を吐き出す。

師匠は私たちにこれが内なる力を
引き出す第一歩なのだと説明した。

あの夜あったことは、今となれば
あの頃よりも理解できると思う。
特訓が終わったあと、師匠が私たちにその夜は格闘を禁じた。
いつも特訓が終わった後は、互いに格闘をし、
訓練するのが上級クラスの特徴だった。
数年後、師匠にどうしてかを尋ねてみた。
「あまりにもテンションが上がりすぎてお互いを傷つけてしまう。
あの状態だとお互いに手加減はしないだろう」
彼の言葉は私の頭に残った。」 


 
「気」を引き出す訓練の最中には、生徒たちがあまりにも激しい痛みを互いに加え合い、敵意が高まったために、そのまま格闘に入れば、相手を死に至らせてしまう可能性があることを師匠は理解しており、格闘を禁じた。

一体、これほどまでの憎悪、殺意、攻撃性を通じてでなければ、養えない「気」とは何なのだろうか?
 
そこで、「気」を汲み出すことで、人体を変容することを目指す内丹術が、一体、どのような経緯で生まれたのかを見てみたい。これは調べてみると、老荘思想、神仙思想、禅宗、儒家の思想など、数々の思想を合体して出来た思想・修行法であることが分かる。

特に、注目されるのは、これが神仙思想の流れを汲んでいることである。神仙思想では、不老不死の神仙(仙人)が実在するとみなして、人間は生を養い(養生術)、丹(または金丹)という薬を作り服用する(錬丹術)などの修行を行うことで、神仙となり、不老不死(永遠性)を手に入れられるなどとしていた。

この神仙思想がやがて道教に取り入れられて、煉丹術となり、そこでは金などを液体として服用する「外丹」と、体内で気を養う「内丹」の二つの方法が編み出され、金属などを摂取する方法は人体に有害であったため、次第に廃れて行き、不老不死の素となる要素を体内に求める内丹術の方が後まで残った見られる。とはいえ、外丹術は中国の医薬学の発展を促し、火薬の発明の基礎になるなどしている。

このような経緯を見ると、内丹術が「気」を汲み出し、練ることで何を最終的に目指しているのかが見えて来る。この思想では、万物が生まれる前の「混沌とした状態」を「道」と呼び、この「道」こそが物質世界の真の根源であり、「道」が目に見える物質を生み出す際のエネルギーが見えない「気」だとみなす。

内丹術は、人間も「気」によって生み出され、構成されているため、人がいたずらな「気」の消耗を防ぎ、自らの体内で「気」を集め、これを練り、「内丹」という霊薬を生み出す方法を学べば、損なわれた人間の生命エネルギーが回復されて、生み出された当時の人間の自然なありようが回復され、最終的には「道」との一体化が成し遂げられるとする。

だが、端的に構造だけを見つめれば、この思想に表れているのも、やはり、グノーシス主義と同じ「原初回帰」の願望であり、時間軸を逆にすることで、人間が、創造される前の状態に自力で回帰することで、神と一体化し、永遠の命に到達しようという欲望であることが分かる。

つまり、この思想が目指しているのは、 ただ「気」を集めてこれを「内丹」として再生させることで、人体の生命力を回復しようという単なる健康法のレベルの達成ではなく、それをはるかに超えて、人間が自ら「気」を養う修行を通して「本来の自己」に立ち戻り、「道との合一に至る」ことによって、永遠性を身に着けることなのである。
 

内丹術の修煉とは、本来純粋な気を宿して生まれ、生から死への過程で欲望などで損耗しつつある人体の気を「内丹」として再生させ、気としての自己の身心を生成論的過程の逆行、存在論的根源への復帰のコースにのせ、利己たる存在を超えて本来の自己に立ち戻り、天地と同様の永遠性から、ついには道との合一に至るという実践技法である。(Wikipedia 「内丹術」より)



ここで「道」と呼ばれているものは、「神秘なる母性」「虚無の深淵」「空=無」「永遠の循環(輪)」に置き換えることができよう。そう考えれば、そのままグノーシス主義の思想が成立する。結局のところ、内丹術が目指している究極的な目的は、人間が生まれながらの自己のままで、「神」(道)と合一し、永遠存在となることなのである。

中心概念の「道」は、宇宙と人生の根源的な不滅の真理を指し、道家と儒家で説かれる概念である。『老子』は第一章と第二十五章で、世界の根源である混沌を「道」と呼び、道は天地万物の一切を生みだす霊妙な働きがあるとする。それは「無為自然」で、おのずからそうなるという自然の働きそのものである。第十四章で、道は姿や形はなく目で視ることも聴くこともできないとされる。<略>『荘子』は「知北遊篇」の東郭子で、真実在としての「道」はこの眼前の世界を離れて在るのではなく、万物は道を含み「万物は道のあらわれ」であると説き、道はこの現実世界にこそ在ると示す。「齊物論篇」は、人為による二元的判断を捨て去ってありのままの真実を観れば、人間を含む一切の万物は齊(ひと)しく同じであると「万物齊同」を説き、道は通じて一と為すと「万物の一体」を言う。<略>

『老子』第二十五章は「大なれば曰(ここ)に逝き、逝けば曰に遠く、遠ければ曰に反(かえ)る」と万物の循環を説き、『易経』は万物を陰陽魚太極図に示される、陰陽の消長する運動体であるとする。仙学では、宇宙の万物にはすべて生成があれば必ず死滅の終わりがあり、一切が止むことがない生死消長の変化の過程とされ、虚無だけが唯一永久不変不滅のものである。虚の中に物はなく、質も象もないから天地が崩壊しても虚空だけは生死を超越し、崩壊することがない。虚無は「道」である。
Wikipedia 「内丹術」より)


 このような概念は、まさに神と人とが本来的に同一であるとするサタンの偽りの「道」である。聖書において、イエスはわたしが道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネ14:6)と言われたように、聖書におけるイエス・キリストという「道」は、不可逆的な一方通行の道である。人間は堕落した存在である自己に、キリストへの信仰によって一度限り永遠に死んで、彼のよみがえりの命にあずかり、新たな自己として父なる神のもとへ召されるのであって、このプロセスを逆行する者は、自分を救いから切り離すことになるだけであり、呪われた存在である。

しかし、東洋思想における「道」は、直線的な概念ではなく、曲線を描いて円(輪)となる。東洋思想の「道」、すなわち、世界の根源である混沌には、形はないとされるが、もしそれをあえて象徴として表すならば、永遠の循環としてのウロボロスの輪と同じものになるだろう。なぜなら、創造された当初の状態に人間が自力で回帰することにより、人が「神」(=混沌)と一体化して永遠の存在になれるとする教えは、時間軸を完全に無視してこれを逆行するものであり、永遠の堂々巡りとして、円を描くからである。このように、サタンの「道」は、直線ではなく、原初回帰の無限ループとしての「輪」なのである。

よって、これはグノーシス主義と同じように、物質世界に存在する人間が、キリストへの信仰を持つことなく、本来的に神と同一の性質を持つとみなす反聖書的な悪魔的思想である。世間一般で宣伝されている「気を養うことで健康を回復する」とか、「運気を高める」などということは、いわば、この思想のほんの前半部分に過ぎない。「不老不死に到達する」「神のような永遠の存在になる」という隠れた後半部分こそこの思想の中核である。

ウィルソンは、「気」という概念の背景に、そのような反聖書的で悪魔的な思想が込められているとは気づかずに、訓練に励むが、後になって、彼は「気」を通じて人間を自己を強化する術の完成である「武士道」は、人間の内に憎しみと怨念をかきたて、人が生涯を戦いに投じる戦士となって神に反逆する道であると結論づける。
 

 

「武術では色んな拳法に分かれていて、

ある拳法では内家拳と外家拳というものがある。
外家拳は肉体を鍛えることに集中するが、
内家拳は内なる力「気」を引き出すことに集中する。

そしてすべての武術はその武士道という言葉に基づいている。
武士の道、武士の心、その道を行けば、
武士になる、いわゆる戦士になる。
しかし、エホバ、神の戦士ではなく、肉の戦士である。

「サタンは戦争を喜ぶ。なぜなら戦争は魂の最悪の激情をかきたて
悪と流血に染まった犠牲者たちを永遠に葬り去ってしまうからである。
なぜなら、そうすることによって人々の心を神の日に立つ備えの働きから
そらすことができるからである」
(各時代の大争闘下巻第36章351ページ)」
 
「その時から、武術とは闘いや自己防御だけに限らず、
武道、生き方の一つであると気づき始めた。
武道は武術の道で「道」がつくものは
すべて生き方を示す。合気道、空手道、柔道…。」


  

(映画”MISHIMA"から)



さて、アメリカ軍には、第二次世界大戦とその後の沖縄駐留などを通して、1950年頃から東洋世界の武術が積極的に取り入れられた。その後、60年代から米国にはヨガやヒッピー・ムーブメントを通して、東洋の文化が流行し出す。カンフー映画なども多数、作り出されて茶の間に流され、東洋神秘主義があたかも「文化」の一部のようになって行く。
 

「キリスト教の集まりの中でも、
多くのクリスチャンが質問をする。
自己防御の何が悪い?
国の軍隊はどうなのか?
法律を守らせる役目のある人はどうなのか?
よく質問されるのは「お巡りさんはどうなの?」
もし彼らが格闘の仕方を知らなければ国はどうなる?
軍隊で訓練したり、弱いものを守ることは、
武術で学ぶ事柄と明らかな違いがある。

アメリカの軍隊で武術を取り入れ始めたのは1950年頃である。<略>
1950年頃、第二次世界大戦後、
軍隊は武術を持ち帰ってきた。
多くの軍隊は戦争の頃、沖縄に配置され、
そこで武術というものを知った。
小柄な東洋人が不可能に思える技や
超人的な力と速さを持っているのを彼らは見た。
そこで、その技を持ち帰り、また東洋の師匠たちの
多くがアメリカに上陸してきた。
始めは日本人や沖縄人が柔道や柔術を教えていた。
そのうち60年代に東洋の文化が流行りだし
ヨガやヒッピー運動と繋がっていった。

こういった武術や神秘的思想、哲学が、
私たちの国に持ち込まれている間、
メディアはそれらを取り上げた。
武術に関する映画が出始めたのはその頃だった。<略>
こういうヒーロー達が次々と
私たちの家族や子供たちの脳裏に埋め込まれていった。
伝統的なキリスト教徒でさえ
今までオカルトと思っていたものに対して、
これは肉体的な運動?
我々がまだ発見していない人間の
エネルギーなのか?と思い始めている。
私にとってこれらの映画は魅力的であった。
私たちにも現実にできるものだったからだ。」


  
沖縄の空手道の師匠である船越義珍は、武術は勝ち負けではなく、人間の品性を養い、建て上げるものだと述べたそうだが、その言葉は、米国で武術の宣伝のために大いに利用された。しかし、ウィルソンは、武術が人に学ばせようとしている本当の品性は、表向きに宣伝されているような美しいものとは全く異なると言う。武術がどんな品性にかたどって人を形造ろうとしているのか、それは船越の書物を見れば分かると。
 

「現代の武術の基を据えた者がいた。
その名は船越義珍である。
彼は現代の空手の父と呼ばれている。
彼の引用が読んだ色んな本に書かれてあり、
道場の壁に良く貼ってあったりする。

両親が子供たちを連れて空手を習いに行く時、
船越の言葉が彼らの心を掴むのである。
船越はこのような言葉を語った。
「武術は勝ち負けではない…競争や敵を打ち負かすことではない。
参加者の品性を完全にするものである。」

その引用を見た親たちは思う。
すばらしい!こういうものを子供に与えたい。
品性を極めさせ、やる気を起こしたい。
自制や自信をつけて欲しい。

しかし殆どの親たちが知らず、師匠すらも
見せないのは、船越の本の表紙だ。
表紙の絵を見れば、どういう品性にかたどっていくのかに気づく。

戦う精神。
数年前、私はこの表紙の絵を見て、
これは何処から来たのだろうかと思った。
こんな怒りに満ちた怖い鬼のようなものを
理由なしに表紙にするはずがない。
調べてみるとそれは
十二支の守り神の一人であった。

この絵がパンチや蹴り、闘いなどの
芸術のたしなみを通して見える真の姿であった。
武術とは武の芸術である。
果たしてこういう品性を自分と自分の子供たちに
受け継いでほしいものであろうか?」

 


船越の本の表紙にあるグロテスクな絵は、武術が形造ろうとしている人間の本当の姿をよく物語っている。怒り、憎しみ、怨念に満ちた鬼のような人間の顔。しかも、その姿はもはや人間の姿からもほど遠く、鬼というより、妖怪のようである。

これは調べて行くと、十二神将、十二夜叉大将などと呼ばれ、大乗仏教で悟りを得た仏の一人とされる「薬師如来」を護衛する「神々」であるとされている。しかし、夜叉(悪鬼)という言葉からも分かるように、これはもとはインドの古代宗教で悪鬼とされていた存在が、仏教に取り入れられたものである。

私たちは、多くの寺院で、知らず知らずのうちに次のような恐ろしい形相をした、甲冑をつけた武将の像が飾られているのを至る所で見て来たはずだ。



   
 


左から順に、新薬師十二神将毘羯羅、奈良興福寺十二神将像波夷羅)、新薬師寺十二神将像、(伐折羅)、浄瑠璃寺伝来・十二神将立像『辰神』、大興寺木造十二神将(巳神将)新薬師寺十二神将伐折羅(CG)(写真の掲載元はリンクで示しています。)


 一体、なぜ悪鬼とされていた存在が、仏教に取り込まれて守り神とされたのか。そのいきさつは明らかではないが、そこには、般若の面と同じ原則が働いていると思われてならない。

つまり、般若(悟り)にはもともと二つの面があり、表向きの顔は、すべての戦いが終わり、涅槃の安らぎに到達した平安な顔であり、裏の顔は、怨念と憎しみに満ちた般若の面である。それと同じように、薬師如来という、悟りに達し、現世で人類にあらゆる幸福を願う幸福の象徴のような「仏」と、永遠に戦いを終えることのない悪鬼の武将たちとは、表裏一体なのである。

一般には、薬師如来とは、「約壺を持つ仏」として、医薬を司る「仏」とみなされ、現世において病気や厄災に苦しむ衆生の治癒を祈願し、安楽を与える現世利益の象徴である。薬師如来と、錬丹術との間には、直接的な関連は見いだせないが、薬師如来への「信仰」の根底にも、深い文脈では、人間が不老不死に自力で辿り着こうとした錬丹術と同じ欲望が流れていることは明らかである。
 
薬師如来は十二の祈願を捧げたというが、その内容を見て行くと、まさに人間のすべての欲望を叶えるユートピアである。そこには、男女同権の基礎のようなことまでも含まれているから驚きで、共産主義思想が生まれるよりもはるかに前に、すでに共産主義のような特徴を備えていたのである。
 

  1. 全ての人を仏にする。(=光明普照)
  2. 全ての人を明るく照らし、善行できるようにする。(=随意成弁)
  3. 全ての人が悟りを得るために必要なものを手に入れられるようにする。(=施無尽物)
  4. 全ての人を大乗仏教の教えに導く。(=安立大乗)
  5. 全ての人に戒律を守れるように援ける。(=具戒清浄)
  6. 全ての人の生まれつきの身体上の障害や苦痛、病気を無くす。(=諸根具足)
  7. 全ての人の病を除き窮乏から救う。(=除病安楽)
  8. 女であることによって起こる修行上の不利な点を取り除く。(=転女得仏)
  9. 全ての精神的な苦痛や煩悩から解かれるように援ける。(=安立正見)
  10. 国法による災いなどの災難や苦痛から解放する。(=苦悩解脱)
  11. 全ての人が飢えや渇きに苦しむことがないようにする。(=飽食安楽)
  12. 全ての人に衣服を与え、寒さや困窮から救済する。(=美衣満)

十二の大願の意味(十二の大願とは) から



だが、大乗仏教は、一方ではこのように人間が現世において悟りに達し、すべての苦しみや欠乏から解かれ、自己存在を永遠にまで高められるかのように説きながら、そこへ至るために、人が通らなければならないもう一つの苦しみの道として、十二神将の恐ろしい姿を突きつける。つまり、人類が地上を幸福の楽園に変えて、現世と彼岸とが一体化したユートピアに至るためには、このように憎しみと怨念に満ちた悪鬼たちによる激しい自己防衛の死闘の道を通らねばならず、彼岸の理想は、悪魔の庇護のもとにしか成立しないことを暗示しているのである。
 
さて、ウィルソンは知らず知らずの間に、武術を通して、このような邪悪な東洋的世界観の中に取り込まれて行くことになる。
 

「黒帯(中国ではブラック・サッシュ)
あるいはカンフーの第一夜明けの獲得に近づいていた頃
私は一番最強の競争相手と闘っていた。
彼は私と同じ上級茶帯であった。
上級茶帯から黒帯になるまで二年半掛かった。
私と競争相手は毎週闘った。
彼は私より50キロ重かった。
彼との闘いによって、どんな困難でも
乗り越えるという自信はお互いについた。

ある夕方、師匠が格闘中の私たちの間に入り、
私の目を見つめて、もう良いだろうと言った。
そして私を引き寄せ、五月はどうだ?と日にちを言ってきた。
私はその意味をすぐに悟り、彼は私に微笑んだ。

その日が来た時、妻と子供たちを連れて私は学校まで運転した。
そこには卒業生、上級ランク、茶帯、上級茶帯、緑帯などが
参加するのが長年の伝統だった。

車から降りると師匠、師父は上級ランクの人たちに
私の妻子を学校に案内させた。
そして彼は私を学校の外にある別の部屋へ連れて行き、座らせて
エリック、話したいことがある。今は理解できなくても
いつか理解できるだろう
今から始まることは昇進する儀式
というよりも結婚式に近い
そして彼は部屋から出て、私を一人で考える時間を与えた。



ウィルソンはこの頃はまだ武術とキリスト教の信仰は両立するものだと考えていたため、自分の晴れの昇進の儀式を妻子に祝ってもらおうと、ためらいなく妻や子供たちを学校へ連れて行った。しかし、師匠は、この時からすでに分かっていた、もしも彼が武術の道を究めようとするならば、必ず、途中で妻子を捨てねばならなくなることを。

師匠がウィルソンに黒帯を取る儀式が「結婚式」と同じであると述べたのは、それによって、ウィルソンが新たな存在と「結婚」することを示唆していた。一体、誰との結婚なのか? 師匠を導いているのと同じ霊との結婚である。つまり、キリストに属さない、キリストの霊とは異なる霊的姦淫の霊としての東洋思想の霊との結婚である。その儀式が持つ邪悪な意味を師匠は知っていたが、ウィルソンは理解していなかった。
 

「儀式の準備が出来た一時間後に私は学校に戻ってきた。
歩く道にはろうそくが備えてあった。
先に師匠が歩いて来て、上級ランク、
茶帯、上級茶帯、緑帯と続き、
茶帯がろうそくを持ち歩いて、
それを一人ずつ置いていった。
まるで炎の道を作るように。
私が最後に来て、ろうそくの道を通って行って前に座った。

学校には何百人もの人がいた。
師匠と一緒い前に座ると、
彼は足を組んで私の前に座った。
そして師匠はスピーチを始めた。
私の今までの業績と克服した困難について。

彼が話している間、そばを見ると
きゅうすと二つのろうそくがあった。
彼はお茶を飲む前にそこのろうそくを
指で消しなさいと言った。
そのあとお茶を酌み交わした。
それで同じ器でお茶を飲んだ。
それは象徴的な行動で、
彼の教えは私の教えとなって、彼の命は私の命、
彼の霊は私の霊となって、私と彼は一つになったのである



クリスチャンはこれが「異なる霊との聖餐式」であることを理解できる。キリストへの信仰に立つ者は、霊においてキリストに花嫁として結ばれており、その信仰の中で、地上における自分の配偶者や家族を愛し、仕える。聖餐は、信じる者がキリストの体の一部とされて、彼の血によって清められ、主の死と一体となっていることを証するものである。この体と血潮にあずかっていればこそ、信者は、潮によって罪を清められ、死を超えて、彼のよみがえりの命にあずかり、信者も家族も、あらゆる呪い、災いから遠ざけられて、神の命の中に隠されている。キリストがすでに呪いとなって木にかかって下さったからである。パンとぶどう酒による聖餐式は、信者がキリストの体の一部であることを確認するものである。

「すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りを捧げてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。」(Ⅰコリント11:23-26)
 
 
だが、これとは異なる「別の聖餐式」が存在する。映画"MISHIMA"においても、三島由紀夫と盾の会のメンバーたちが、各自がそれぞれ自分の血を垂らした杯を共に飲み干す場面が登場する。
 

 



血を入れた杯を飲むことは、その血によって、飲んだ者同士が霊的に一つに結ばれる契約を意味する。それゆえ、彼らは肉親や愛する人々を捨てて、団結して最後の決戦としての自決へ赴いたのである。

ウィルソンが出席した儀式は、もう一つの聖餐を意味した。注がれたのはお茶であったが、それは混ぜ合わせた血、混ぜ合わせた霊を象徴していた。炎はおそらく地獄の炎の象徴であろう。キリストの霊ではない、異なる霊との聖餐にあずかれば、人はその霊と一つになる。その時、武術の先人たちにならって、彼も怨念、憎しみ、憤怒によってすべてを焼き尽くす地獄の炎の道に生きることが誓われたのである。ウィルソンは師匠と同じ霊にあずかり、キリストとの結合とは異なる霊との結合の中を歩むことになった。

以下の聖書の御言葉は、ただ単に娼婦との関係を避けるようにという警告ではない。そこには「キリストの霊とは異なる霊と交わることを避けなさい」という警告が含まれている。

「あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか。キリストの体の一部を娼婦の体の一部としてもよいのか。決してそうではない。娼婦と交わる者はその女と一つの体となる、ということを知らないのですか。「二人は一体となる」と言われています。しかし、主に結びつく者は主と一つの霊となるのです。みだらな行いを避けなさい。

人が犯す罪はすべて体の外にあります。しかし、みだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯しているのです。知らないのですか、あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」(Ⅰコリント6:15-20)

ウィルソンが新たに「結婚」した霊は、キリストの霊とは異なる「高慢の霊」であり、ただちにウィルソンに人々に仕えることをやめさせて、彼に地上的な栄光を受けさせ、人前で自分を偉い人間と見せるよう促した。
 



「儀式の後、食事をし、生徒たちやその家族が

大勢集まっていた。
私は人を助けることを教育されていたので、
上級ランクや緑帯と連なって食事の給仕を手伝おうとした。

すると師匠が私の肩を叩いて引き寄せて、
「あなたはもう彼らと同じではない。
給仕を手伝うな。ここに来て座りなさい」

そこで私はテーブルに行き、黒帯の仲間と共に座り、
師匠も私の隣に座った。
「あなたが給仕されるのですよ」と彼は私に言った。
そこで緑帯達が次々に食事を持ってきた。

その時、何かこれはおかしいという
シグナルを神が送っていたような気がする。
これは神の言葉と相反する行動だからである。

マタイの福音書の20章にイエスは言っている。
「そこで、イエスは彼らを
呼び寄せて言われた、
『あなたがたの知っているとおり、
異邦人の支配者たちはその民を治め、
また偉い人たちは、その民の上に
権力をふるっている。
あなたがたの間では
そうであってはならない。
かえって、あなたがたの間で
偉くなりたいと思う者は
仕える人となり、
あなたがたの間でかしらになりたいと
思う者は僕とならねばならない。』」
(マタイ20:25-27)

考えが頭の中を廻った。私が仕える立場なのに
なぜ仕えられているのだろうか?

しかし、その時14年間育ててきたプライドが
仕えられる立場を気に入っていた。
注目を浴びるのも嫌いではなかった。」

  
黒帯を取るための「結婚」の儀式を境に、ウィルソンは武術にのめり込み、特に、魔術のような技を使えるようになるために「気」を引き出す修行に熱中することになる。その過程は、同時に、彼がどんどん家族から引き離されて行く過程でもあった。
 

「儀式の次の週、学校に戻り
いつもの個人授業を受けた。
もっと武術に進みたいと思い、
個人教授をすることにしていた。

その日、師匠は私に鋭い質問を投げかけた。
儀式の後、師匠と私との間の何かが変わった気がした。
今まで上目線だったのに、まるで生徒を師匠から
遠のかせていた壁が外されたみたいだった。
「エリック、黒帯をとった今
これから何をしたいのか?」
「あなたのもっている能力が欲しいです」
14年間師匠を見ていたが彼の成す技は魔法のようだった。
師匠は私にもう少しほかの武術に励むようにと勧めてくれた。<略>

師匠は「気」を引き出す訓練にのみ
集中することだと言った。
そこで私はどんな武術で訓練するにしても
これらの業がどう「気」と関連するか、
どうやってこの武術を使って
超人的な技をこなせるかを考えた。

少林寺の書き物には「師匠と弟子の絆は血よりも強い」
訓練のために週に五、六回通った。
そして安息日に教会に行くのは週に一日、
他の日は武術の特訓に励んでいた。
友人たちと出かける時もいつも武術関係だった
武術がすべての中心になっていた。
武術の中に深く入り込んでいけばいくほど
家族との関係から少しずつ引き離されていった

 

<続く>

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肉のものと霊とのものを区別する必要性~キリスト教界に入り込むグノーシス主義的・東洋的神秘主義の危険➀~

さて、これまでの記事で、グノーシス主義の本質は「肉のものを霊のものに見せかける」という偽装にあり、人類が堕落した天然の「肉の力」によって自力で神に到達しようと試みであると見て来た。

そこで、今回からは、しばらくの間、御霊によって歩む上で、信者が「肉のもの」と「霊のもの」を見分けることがどんなに重要であるかについて考えるため、キリスト教に入り込んだグノーシス主義が、どのような形で「肉のものを霊のものに見せかけようとする」か、その手法について詳しく見て行きたい。

先に説明したように、グノーシス主義思想は、聖書の「二分性」に強い拒否反応を示す。そして、切り離されたものの統合、対極にあるものの融合を訴えるが、そのような考えは、彼らが神と人との区別を認めないことから始まっている。

人類が神によって被造物として創造され、さらに罪の堕落によって神と分離したことを、この思想は認めない。そして、依然として、人類が創造される前の状態、堕落によって神との交わりを失う前の状態に、自力で回帰することを目指し、あたかもそれが可能であるかのように教える。

そのようにして、物質世界の被造物を霊なる神と同一であるとみなしている意味で、グノーシス主義は、神が霊であることを認めず、霊的世界があることをも認めず、仮に「霊」という言葉を使ったとしても、実際には、すべてを目に見える物質世界に置き換え、物質世界の被造物を神とする被造物崇拝の教えであり、それゆえ、あらゆる唯物論の起源であると言える。

唯物論も、汎神論や、東洋思想のように、「目に見える全宇宙と神とは一体である」とみなす思想も、基本的に、すべてグノーシス主義に含まれる。

要するに、グノーシス主義とは、神と人とが本質的に同一であって、人間がキリストの十字架の死を経ることなく、この物質世界にあるもの(人の生まれながらの天然の自己を含む)を通して、神に到達することができるという神秘主義の思想全体を指すのである。そこで、神という概念を用いておらずとも、物質世界にあるものがすべてであるとする唯物論は大きく見ればグノーシス主義の変種の一つである。また、グノーシス主義それ自体の神話のプロットにも見られるように、神は霊であると言って、至高神という存在があると主張していても、それを「虚無の深淵」と同一視し、事実上、神の概念を骨抜きにしているのでは、結局、被造物を神としているのと同じである。そのような意味で、仏教のように、すべては「空=無」であるとみなす思想も、事実上、グノーシス主義と同じ虚無の深淵を神としているのである。

グノーシス主義の特徴は、「あらゆる分離(区別、二分性)」を否定することにあるため、まず、この思想は神と人との分離を否定することから始まり、清いものと汚れたものの区別、霊なるものと肉のものの区別、男と女の区別を否定するなど、文字通りあらゆる区別を否定する。そして、本来的に相容れず、統合することができるはずもないものの統合を唱える。

ペンテコステ・カリスマ運動の指導者である手束正昭氏は、聖書の父性原理の二分性が人を精神病理に陥れる脅威になっていると主張して、キリスト教に「母性原理」を補う必要があると主張したが、そのような主張も、よく見れば、鈴木大拙のような東洋思想家の主張とまさに瓜二つである。

グノーシス主義と東洋思想は本来的に同じものであるが、そこでは、あらゆる対称性を超えた永遠の輪という概念を作り出すことによって、全世界のすべての造られたものが、終局的にはこの「輪」と同一であると結論づける。その「輪」(和)とは、虚無の深淵であり、死である。

だが、表向きは、この「輪」は、ウロボロスの輪に見るように、対極にあるものの統合の象徴ということになっているので、それは単なる虚無や、死だけを表す単純な概念ではないとされ、むしろ、破壊や死でありながら、創造の始まりであるということにされている。要するに、この「輪」の中に、生成と消滅、聖と俗、神と人類、精神と肉体、男と女などのすべてが含まれているというわけである。

しかしながら、このように、あらゆる区別を廃して対極にあるすべての概念を「統合」するというのは、人間が勝手に作り出した錬金術のような無理筋の詐術に過ぎず、事実、そのようなことは不可能事である。それゆえ、グノーシス主義の用いる「輪」は、実際意には、存在しないフィクションの概念であり、そこから始まり、グノーシス主義の「言語」は、すべてがこの「輪」と同様に、二重の概念を帯びたダブルスピークで出来上がっており、それゆえ、偽善的で、自己矛盾しており、不誠実で、虚偽だと言える。

たとえば、すでに見たように、般若心経も「不生不滅」「不垢不浄」(生成も消滅もなく、清さも汚れもない)など、対極にある概念をひとつにまとめ、その後、「無色無受想行識     無限耳鼻舌身意    無色声香味触法      無限界乃至無意識界    無無明     亦無無明尽      乃至無老死      亦無老死尽   無苦集滅道     無知亦無得」などと、延々とダブルスピークを続ける。 要するに、何もかも正反対のものが究極的には「無=空=輪」に集約されるわけであるから、対極にある概念を区別すること自体が必要なく、そのような区別はもとより存在しないも同然であり、意味をなさないというのである。      

ダブルスピークと言えば、思い出されるのは、「戦争は平和である、自由は隷属である、無知は力である」という、ジョージ・オーウェルが『1984年』で描いたディストピアの世界で人々の洗脳のために使われるスローガンであろう。オーウェルの作品は、ただ単にフィクションの域を超えて、ソビエト体制その他の実際に存在した全体主義体制の特徴を明白に描き出しており、今日も、全体主義を非難する際に手本のように引き合いに出されることが多い。

いわば、このような現実にも存在した全体主義ディストピアを生み出す原型となる思想が、グノーシス主義なのであり、この思想の中には、人を欺くための詐術が満ちていると言えよう。今、改めて『1984年』のあらすじを開いて読んでみると、そこにグノーシス主義が作り出す世界観が広がっており、それが慄然とするほどまでに、現代の我が国の政治状況、および、キリスト教界におけるペンテコステ・カリスマ運動に酷似していることを思わないでいられない。
 

 Wikipediaからのジョージ・オーウェルの『1984年』のあらすじの抜粋

1950年代に発生した核戦争を経て、1984年現在、世界はオセアニア、ユーラシア、イースタシアの3つの超大国によって分割統治されている。さらに、間にある紛争地域をめぐって絶えず戦争が繰り返されている。作品の舞台となるオセアニアでは、思想・言語・結婚などあらゆる市民生活に統制が加えられ、物資は欠乏し、市民は常に「テレスクリーン」と呼ばれる双方向テレビジョン、さらには町なかに仕掛けられたマイクによって屋内・屋外を問わず、ほぼすべての行動が当局によって監視されている。

オセアニアに内属しているロンドンに住む主人公ウィンストン・スミスは、真理省の役人として日々歴史記録の改竄作業を行っていた。物心ついたころに見た旧体制やオセアニア成立当時の記憶は、記録が絶えず改竄されるため、存在したかどうかすら定かではない。スミスは、古道具屋で買ったノートに自分の考えを書いて整理するという、禁止された行為に手を染める。ある日の仕事中、抹殺されたはずの3人の人物が載った過去の新聞記事を偶然に見つけたことで、体制への疑いは確信へと変わる。「憎悪週間」の時間に遭遇した同僚の若い女性、ジューリアから手紙による告白を受け、出会いを重ねて愛し合うようになる。また、古い物の残るチャリントンという老人の店を見つけ、隠れ家としてジューリアと共に過ごした。さらに、ウインストンが話をしたがっていた党内局の高級官僚の1人、オブライエンと出会い、現体制に疑問を持っていることを告白した。エマニュエル・ゴールドスタインが書いたとされる禁書をオブライエンより渡されて読み、体制の裏側を知るようになる。

ころが、こうした行為が思わぬ人物の密告から明るみに出て、ジューリアと一緒にウィンストンは思想警察に捕らえられ、愛情省で尋問と拷問を受けることになる。彼は、「愛情省」の101号室で自分の信念を徹底的に打ち砕かれ、党の思想を受け入れ、処刑(銃殺)される日を想いながら“心から”党を愛すようになるのであった。

本編の後に『ニュースピークの諸原理』と題された作者不詳の解説文が附されており、これが標準的英語の過去形で記されていることが、スミスの時代より遠い未来においてこの支配体制が破られることを暗示している。<略>
 




党には中枢の党内局(2009年新訳では党中枢) (inner party) と一般党員の党外局(2009年新訳では党外郭) (outer party) がある。党内局員は黒いオーバーオール(かつての労働者階級の作業着だったとされる)を着用し、貴族制的な支配階級(上層階級)で、世襲でなく能力によって選ばれ、テレスクリーンを消すことができる特権すらある。

党外局員は青いオーバーオールを着る中間層(中層階級)で、党や政府の実務の大半をこなす官僚たちである。党の主要な監視対象は、上層階級に対して立ち上がる可能性のある中層階級である党外局員であり、党内局員も党外局員も反抗の意思を少しでも見せたら密告などに遭い、思想警察(思考警察)に連行され「蒸発」してゆく。「蒸発」した人間は存在の痕跡を全て削除され(例外あり)、その者は初めからこの世に存在していなかった(ニュースピークで言う「非存在」)として扱われる。

党に関わりを持たない人々はプロレ(2009年新訳ではプロール、the proles、プロレタリアの略)と呼ばれ、人口の大半を占める被支配階級(下層階級)の労働者たちであるが、娯楽(酒、ギャンブル、スポーツ、セックス、またその他「プロレフィード(Prolefeed、直訳すると「プロレの餌」)」と呼ばれる、党の制作した人畜無害な小説や映画、音楽、ポルノなど)が提供されている。彼らに対する政治教育は行われておらず、識字率も半分以下である。多くはテレスクリーンさえ持っておらずそれゆえ監視もされていないが、党はプロレ階層を社会を転覆させる能力のある脅威であるとは全く見ておらず、動物を放し飼いにするように接している。彼らは10代から働き、早くに子供を作って60歳までには死んでしまう。重労働が彼らを蝕み、彼らの住む貧民地区にはおびただしい犯罪が横行している。

党外局員およびプロレの生活水準はきわめて低いが、テレスクリーンによる宣伝によれば日用品などの生産は毎年驚くほど伸び続けており、1950年代の革命以前の社会は言語を絶するほどの貧しさだったという。もっとも過去の統計や過去に発表された目標数値は改竄され続けており、今より昔のほうが生活が豊かだったことを証明することは不可能である。

人間の性本能や愛情は抑圧されている。党は神経学的に性本能を抹殺し、性行為から快楽を除去しようと試みており、党や「ビッグ・ブラザー」以外への愛情は必要としない。プロレの性に関しては放置されているが、党員の場合、結婚は党への奉仕のために子供を生むための「儀礼」であり、男女間に肉欲がある場合は結婚を許可されない。若者の間には「青年反セックス連盟」というものがあり、完全な独身主義を提唱し性を汚すキャンペーンを行っている。


     
 
戦前回帰を唱える日本会議勢力によって占められた今日の我が国では、まさに「オセアニア化」が進んでいる。与党が国会の議席の大半を占めたことで、一党独裁化が極端に進み、ビッグ・ブラザーはまだ一応は生きた人間の形を取って国民の前に姿を現してはいるとはいえ、自分が事実上の神であるかのように高慢に振る舞い、ビッグ・ブラザーに逆らった人々は、「蒸発」とまではいかないものの、たとえ高級官僚であっても、捏造されたスキャンダルで職を追われ、社会的に抹殺されつつある。

これらの政権に逆らった人々に対しては、ネットやTVや新聞雑誌という「テレスクリーン」を通して、さまざまなネガティブ・キャンペーンが張られ、国民の憎悪が煽られている。

さらに、賃上げがあったとか、景気は上向いているとかいった虚構の成功談が盛んに宣伝されているが、その恩恵を受けているのは社会のごくわずかな最上層部だけであり、一般大衆労働者の中で、誰一人そのようなことを実感できる者はおらず、この噂話の真偽のほどは全く定かではない。折しも、高級官僚は日々、公文書の改ざんに手を染めていたことが発覚し、それが発覚しても何の悪びれることもなく、まだ自殺するほどの良心が残っていた者がわずかにいたことだけでも奇跡のようである。

国民の大半を占める労働者は精神をむしばむ有害な娯楽をあてがわれ、重労働と貧困によって疲弊させられ、人としての尊厳を奪われたまま、家畜のように搾取され、死へと追いやられている。ピラミッドの最下層に位置する一般大衆労働者への締めつけは年々強化されており、社会保障費は削減され続け、社会的弱者はネットで吊し上られ、今、機能停止している国会では、ちょうど与党だけの独断で「働き方改革」法案が強引に審議入りしたところである。この法案によって、我が国の一般大衆労働者にはより一層、総動員体制が押しつけられ、アウシュヴィッツ行きの列車の発車時間が早まろうとしている。

ビッグ・ブラザーに忠誠を誓う高級官僚や報道関係者の性的不祥事は大目に見られ、セクハラや暴行事件を起こしても処罰もされずに見逃される一方で、庶民のうちである芸能人等は、若さの絶頂を過ぎてもまだ結婚できずに独身のまま過ごすことを余儀なくされた上、彼らの自由恋愛は厳しい統制の対象となる。ちょうど最近でも、独身の芸能人が意中の少女に恋心ゆえにわずかに接近を試みたところ、その肉欲が厳格な処罰に値する悪しき暴力事件であるとして公に懺悔を迫られていることろである。

さらに、漢字も読めない大臣や議員が国政を動かし、ツイッターやフェイスブックや匿名掲示板やブログのコメント欄といった極めて短い文章しか書けないツールが登場したことにより、極端に言語を省略した「ニュースピーク」への国民の言語の切り替えが進行中である。

何よりも、「戦争は平和である、自由は隷属である、無知は力である」のスローガンの通り、国家の安全のためと称して戦争法が推し進められ、自衛隊は海外の戦闘地域へ派遣され、武器が輸出され、共謀罪が制定されて、人々の自由や人権を脅かし、教育現場でも、国家の経済政策に役立つ人間の育成ばかりが重視されて、カネ儲けと直接関わりのない人文科学は隅に追いやられ、知性の破壊が進んでいる。
 
他にも、続ければきりがないほどの類似点が挙げられるであろう。何しろ、日本会議もその源流はグノーシス主義であるから、それが政権を握れば、我が国がディストピアと化すのは当然である。

しかし、当ブログにおいて、主眼となるテーマは、キリスト教界に入り込むグノーシス主義的異端であるから、今はペンテコステ・カリスマ運動に話を移したい。

今日、まるでキリスト教の一派であるかのように、大きな顔をしてこの宗教の中に座を占めているペンテコステ・カリスマ運動は、実は純粋なキリスト教ではなく、東洋思想と合体して出来た異端であることをこれまで見て来た。

グノーシス主義は、「肉的なもの」を「霊的なもの」であるかのように見せかけて、人を騙す詐欺の教えであり、ペンテコステ・カリスマ運動にはこの騙しのテクニックがちりばめられている。片方では、彼らは自分たちが「聖霊のバプテスマ」と呼んでいる偽りの霊を受ければ、信者は神のように高められ、超常的なパワーを発揮し、人間には理解できない言語で話ができるようになるとして、霊的な事柄を追求するクリスチャンの心をひきつけながら欺いている。

他方では、そうした肉的な教えに耳を貸さなかったり、それに関わってひどい目に遭わされて疑問を感じるようになった信者には、私営の秘密警察・思想警察と化した「カルト被害者救済活動」をけしかけて言論統制を行う。この運動は、文字通りすべての教会と信者を監視の対象として7自らの監督下に置こうとしており、その指示に服さない信徒には、盛んにネガティブ・キャンペーンを張って中傷して教会から追い出し、暴力的脅迫により沈黙に追いやっている。

インターネットは、カルト被害者救済活動の支持者らが信者を支配するための双方通行の「テレスクリーン」として用いられている。彼らはこの「鏡」を通して、要注意とみなした信者らを監視し、彼らの思惑に従わない信者らをディスカウント・中傷し、脅し、傷つけて、黙らせようとしている。それによって、彼らの 「ビッグ・ブラザーがあなたを見守っている」(BIG BROTHER IS WATCHING YOU) という標語を実現しようとしているのである。

ここにおける「ビッグ・ブラザー」とは、人格というより、虚無の深淵としての「鏡」そのものであろう。そのような「鏡」の一つがインターネットであり、スマホや携帯電話などのツールであり、それらが人々の思想を監視するための双方通行の「テレスクリーン」の役目を果たしているのであり、神のようになりたいと願う者が、どこにでも偏在して「すべてを見通す目」を持つための手段として用いられているのである。

さて、これまでの記事では、ペンテコステ・カリスマ運動が、キリスト教と東洋思想の合体であることを、主として思想面から分析して来た。ペンテコステ・カリスマ運動が、キリスト教の父性原理に母性原理(ここで言う母とは被造物のこと)をつけ加えよと主張していることなどは、まさにこの運動の東洋思想とのほぼ完全な一致をよく表しているが、これから先、記事では、思想面のみならず、現象面を通しても、この運動の起源が東洋的神秘主義にあることを見て行きたい。
 
実は、ペンテコステ・カリスマ運動は、現象面においても、東洋的神秘主義に起源があることが明白なのである。ペンテコステ運動のミニストリーが、いかに超常現象を強調するものであるかは、今更、説明せずとも、多くの人々の知るところである。この運動は必ずと言って良いほど、彼らが「聖霊」と呼んでいる偽りの霊が引き起こす「しるし・不思議・奇跡」などの超常現象を強調する。
 
彼らの見せる奇跡の多くは偽物であるが、中には、本物の超常現象もある。筆者はかつてアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団にいた時代に、この教団の教会がしきりにペンテコステ運動の名だたる「宣教師」たちのセミナーや大会を推奨していたこともあって、そうした偽りの宣教師たちが海外から来日して開いた大会などを見聞きしたことがある。

ある大会で、次のような光景が繰り広げられた。詳細は覚えていないが、南米の国々などからやって来たと思われる白人の宣教師の一人が、講演中に、会衆に向かってステージに上がるよう指示した。ペンテコステ運動の集会では実によくある光景である。人々は何が起きるかと期待しながら、ぞろぞろステージに上がって行った。筆者と同伴者らもステージに上がった。そこで、偽りの宣教師が、ステージで何かを命じた(その言葉は、外国語だったせいか、それとも、異言だったためなのか、当時の筆者には意味が理解できなかった。)会衆の多くは、宣教師が命じれば、自分たちは床に倒れることになると初めから期待していたものと思われ、実際にそうなったのである。

むろん、スーツを決め込んだ白人の宣教師は、マイクの前に立っているだけで、誰にも指一本触れていない。ただ言葉で何かを命じ、わずかに手振りをしただけである。それだけで、ステージのかなり端の方にいた会衆たちにも、何かの衝撃波が到達したらしく、人々はよろめき、中には倒れる者もあった。

だが、筆者はそういう話を色んな場所で聞いて、眉唾ものだと思い、疑っていた。会衆が倒されることばかりに期待を寄せているから、倒れたいという自分の願望によって自ら倒れているだけなのではないかと疑っていたのだ。そこで、筆者は、半信半疑で、目をかっきと開いたまま、冷静に会衆の様子を見ていたが、宣教師はステージの上を歩き回り、まだ床に倒されていないで立ったままでいる人々に、手をかざすなどしてさらに倒し始めた。その時、宣教師のそば近くにたまたまいた筆者の同行者の一人が、宣教師の手の一振りで、吹き飛ばされるようにして完全に床に引き倒されてしまった。

今や大勢の会衆が当たり前のように床に転がるように倒れていたが、人々は催眠状態か恍惚状態にあるようで、そこには何か異常なことが起きたという危機感が全くなかった。倒された人々がパニックになることもなく、けいれんしていた人を世話する係まで用意されており、そうした出来事はすべてまるでありふれた日常的な風景に過ぎないかのような雰囲気があった。
 
だが、筆者は、自分の周りの人々に起きた異常を忘れなかった。引き倒された筆者の知人は、床に頭を打ち付けることもなく、また、倒れた衝撃で何らの不愉快な感覚を味わった様子もなく、瞬間的に気を失って、何か心地よい恍惚状態の中で、眠るように目をつぶっていた。おそらくその大会で自分が倒された事実さえ今となっては全く覚えていないほどであろうと思う。明らかに、その偽りの宣教師が、身振りと手振りだけで知人を地面に引き倒したことは明らかだったが、その倒れ方は、まるで風にあおられて自然に床に落ちた木の葉や、ティッシュペーパーか何かのように、音もなく滑るように瞬間的に仰向けに引き倒されたのであり、よく電車などで見かけるように、気分が悪くなった人が自主的に床に倒れ込む様子とは全く違っていた。数分程度、倒れたまま、目をつぶり、気を失っていたが、呻いたり、苦しんだりしている様子もなく、完全に無意識の状態に置かれていたのである。その後、意識を取り戻して起き上がっても、困った様子もなく、異変を感じている様子もなく、普通に行動し始めた。

その衝撃波は、筆者には何一つ影響を及ぼさなかったが、筆者はその時、目撃した異常を忘れなかった。その出来事を通して、偽りの宣教師たちが強調している「超常現象」が、必ずしも捏造された奇跡や、サクラの演出などによるヤラセばかりではなく(そういうものも多いかも知れないが)、実際に偽りの宣教師たちの中には、明らかに何かの人間離れした超自然的な力を行使できる者がいることを知ったのである。

今から考えると、その力は、仏教やヒンドゥー教の僧侶やシャーマンたちが、修行を通して得られる、魂の力を開発した超常的な能力だったに違いないものと思われる。当時、来日していたペンテコステ運動の「霊の指導者」たちは、ほとんどが白人であったが、彼らは東洋的神秘主義に由来する力を身に着けていたのである。

東洋思想とは、神と人とが本来的に一つであるという神秘主義思想であるが、ただ単に頭の中だけで考え出され、頭脳を通して理解される思想とは異なり、人間が修行を通して自己を鍛え、実際に神と合一したと言えるような神秘体験をし、何かの超自然的な力を行使できるようになるための「秘儀」を含んでいる。そして、それはインドやその他の地域で絶えず開発・利用されて来た能力であるとはいえ、日本にも伝来し、我が国では武士道という最も完成された形を取って現れたのである。

私たちは、三島由紀夫が武士道を通して自分を鍛えようとしていた事実や、有名な武士道の書『葉隠』の中に、「武士道と云ふは死ぬことと見つけたり」という一節があることなどを知っている。

武士道とは、いわば、「虚無の深淵」を神とし、すべての目に見えるものが本質的にこの「虚無の深淵」と一体であるとみなす東洋的思想の神秘主義の完成として作り出された「死の美学」である。武士道の極意は、いかに人間が常日頃から死と一体化し、死を美学として完成させるために生きるかを示す方法論のようなものである。彼らは、生きているうちから死と一体化することにより、死によって脅かされている儚く脆い生命の「美」を極めようとするのである。

だが、武士道を「美学」とみなすことは、この誤った思想のほんの表面的だけを見る偽りである。武士道とは、ただ単に水面に浮かぶうかたかや、散って行く桜を眺めては、その無常に思いを馳せ、情緒的感慨に浸ってため息をつくという種類のものではなく、残酷な力の行使である。儚く脆い命を愛で、自分も儚い命として自分を守り、自己完成を目指すという美しい響きとは裏腹に、その本質は、憎しみと怨念のパワー、堕落した魂の力に由来する暴力の行使なのである。

そのような東洋的神秘主義に由来する力が、キリスト教界に入り込んでいること、まさにその魂の力こそが、ペンテコステ・カリスマ運動の本質であることを、次回以降の記事で、実際に、様々な動画などを例に取り、詳しく見て行きたい。


神に疎外された者たちによる神への復讐の哲学としてのグノーシス主義ー映画/"MISHIMA"から(終)

・東洋思想の無常観と美の密接な関係 ~命をディスカウントして成立する東洋的な美の概念~
 
さて、かなり駆け足で重要なテーマを見て来た。前回までに記した三島由紀夫に関する一連の分析記事は、これまで書いた記事の中でも、苦労の多い分析であった。

当ブログでは何年も前から、東洋思想が本質的にグノーシス主義と同一であることや、いろは歌や般若心経に流れる無常観がグノーシス主義と同じであることを、記事で指摘しようと試みて来た。それがなかなか形にならなかったのは、グノーシス主義の分析にはかなりの厄介さが伴うせいでもある。

この種の思想は、通常の文章とは異なり、シンボルで出来上がっているため、一つのシンボルの中に幾通りもの解釈が込められ、言葉の後ろにある方程式を読み解かねばならない。その上、詭弁とダブルスピークによって成り立っているこの思想を丹念に解体して聖書と対比しながらその詐術を論理的に証明して行くのはかなり厄介で骨の折れる作業である。
 
そして、そのテーマに関心を払う人も、その作業を遂行できる人も、地上にそう数多くいるとは思えないが、だからこそ、それははかりしれない重要性を帯びた仕事である。この仕事に取り組もうとすると、各方面から激しい妨害が起きて来ること自体、どんなにこのテーマが喫緊の課題であるかをよくよく物語っていると言えよう。

記事は形にまとめることを最優先したため、文章の推敲、修正が必要な箇所は多く、さらなる考察が必要であることは否定しない。だが、そこで触れている一つ一つの事項は、それだけで独立した論文のテーマに値するようなものだ。特に、グノーシス主義における美の概念などについては、それ自体が長大な紙面を割いた考察に値する。だが、今は長大な分析をしている余裕はないため、今回は最後の補足として手短に結論だけを述べたい。

東洋思想は、すべての命がディスカウントされ、死によって脅かされているという危機感の上に成立している。東洋的な美の観念や、「もののあはれ」といった概念も、すべては滅びゆく被造物の無常観によって呼び起こされる情感であり、それは突き詰めて行くと、有限なる被造物の無念(被害者意識)に通じる。

東洋的な「美」の概念は、あらゆる命が死によって脅かされる儚いものであることを前提として生まれる。その意味で、東洋的な美の概念は、死や滅びと密接に結びついており、死と無縁の、死によって脅かされることのない完全な美というものは、この思想の世界観の中には存在しない。仮にそのようなものが出現すると、たちまち、三島の金閣寺のようなことになって、その完全性が憎むべきものとされて排除されるのである。

鈴木大拙は、東洋思想の根底には「母を守る」ことがあると述べたが、そこで言われている「母」とは、脅かされている人類を指す。東洋思想とは、言い換えれば「人類が脅かされている」という被害者意識、また、人類が脅かされねばならないほどか弱い存在であることへの無念を出発点に発生している思想なのである。

だが、この思想では、一体、何によって人類は脅かされているのか? なぜ「母を守る」必要があるのか? 直接的には、「母」を脅かしているのは、死の脅威であるが、さらに突き詰めれば、「聖書の父なる神の脅威によって脅かされている「母=人類」を守らなければならない」というのが、この思想の至上命題ということになろう。

グノーシス主義は、ディスカウントの教えであると言っても良い。ここでのディスカウントとは「本来の価値を値引くこと、尊厳を辱めて貶めること」といった意味である。

グノーシス主義の起源が、聖書の創世記に登場する蛇の教えにあることは幾度も指摘した。創世記で、蛇の形を取った悪魔が、人類に向かって、「神が人類を神よりも劣った存在として創造したことは、神の側から人類に対する不当なディスカウントだった」と嘘を吹き込んだのである。

悪魔のその嘘を信じてしまった瞬間に、人類の価値は値引きされ、その尊厳が傷つけられ、被害者意識が入り込んだ。それまでは神は人類の創造主であり、庇護者であり、まことの主人であったが、悪魔の嘘を信じた瞬間に、神は人類の抑圧者ということになってしまったのである。

ここに、東洋思想の「母を守る」という発想の起源があると言える。その後、人類が悪魔の勧めに従って神の掟を破って堕落したことにより、人類は実際に死という現実的な脅威に脅かされるこようになったのだが、堕落以前から、本当の意味での「ディスカウント」は、人類が悪魔の嘘を真に受けて、神を抑圧者であると考えるようになった瞬間に始まっていた。

悪魔は人類に向かって、人類は創造の初めから、神のもうけた不当な制約のために、いたずらに貶められた存在であり、それに気づいて神のもうけた不当な制約の抑圧の下から抜け出すことなしに自由になれないという偽りの知恵を吹き込んだのである。

いわば、グノーシス主義は、人類が神の形に似せて、神より劣ったものとして創造されたこと自体が、人類にとっての不幸の源であり、人類の誕生そのものが悲劇だと言っているに等しい。実際には、神は人間を創造して、これを見て「甚だ良い」と言われたのであって、その誕生は祝福であったのに、これを抑圧された悲劇に変えてしまったのである。

そのような思想的大転換が起きた後で、人類の思いの中で生じたディスカウントは現実となり、人類は堕落により神から遠く切り離され、創造当初の輝きを完全に失って、神に遠く及ばない存在になり、神のようになるどころか、人間性さえも喪失した。だが、実際に堕落が起きる前に、人類がすでに思いの中で悪魔のディスカウントを受け入れてしまったことに注意しなければならない。

こうして、グノーシス主義においては、まず人類の創造自体が神によるディスカウントであったと事実を塗り替えるところから始まり、その後、すべてのものが「死や滅びによって脅かされている」という危機感や被害者意識を終わりなく生み出していく。

無常観とは、「ディスカウントされている」という被害者意識、無念を基礎として生まれるのであり、そこでは、美意識も含め、すべての価値が、傷つけられ、不完全で、死の響きを帯びている。だが、「すべては有限であり、本質的には無であるが、滅びゆくものだからこそ美しい(=愛(かな)しい)」といった哀惜の情が生まれ、それが美的概念として受け止められるのである。

東洋的世界観では、儚く脆い実体のないものの有限性に対する同情や被害者意識が、美意識や愛情を生んで行く。死に脅かされている被造物同士だからこそ、同情や共感を持ち合い、互いに寄り添いましょうという被害者意識による連帯が、あたかも愛であるかのように錯覚されるのである。

だが、実際には、そこには、真の同情も愛情も存在しない。人間同士が愛情によって結びついたり、同情によって連帯していると見えるのは、ある種の錯覚に近く、この世の滅びゆく存在である限り、人間は自らの欠乏を満たすために他者を利用することをやめられないため、自分の必要を離れて純粋に他者と関わることができないのである。人は最も純粋な愛情が自分にあると思っている時でさえ、その関わりの中には必ず、他者の存在によって自己を満たそう(自分を喜ばそう)とする欲望が含まれている。

人は他者を見ることによって、また、手で触れたり、声を聞いたり、会話したりすることで感覚的な満足を得て、自分が満たされたいと願い、そうした欠乏と関係なく、自分の欲望を一切交えずに、他者と関わりを持つことができない。さらにもっと低い次元では、人は食べたり飲んだりして、外界から物質的な栄養を絶えず摂取しなければ、自分の命を保てない。

このように、人は己が欲望によって外界と関わり、外界から必要を満たされることによらなければ、決して自己存在を保つことができず、満たされても、満たされても、再び飢え渇くだけで、決して飽くことがない存在であるがゆえに、物質的世界の奴隷であり、自己の欲望の奴隷なのである。

本当は、人はキリストと共なる十字架の死と復活を経て、アダムの命に対して死ぬことによって、このようなしがらみに対して死ぬ道が備わっているのだが、神が不在で、被造物だけしか存在しないグノーシス主義には、十字架も、救いもなく、どこまで行っても、その思想の中で、滅びゆく被造物に、物質世界の有限性から脱する道はない。それゆえ、そのような世界観では、人間は自己存在に対して尽きせぬ悲哀を感じないわけに行かないのである。

さらに、グノーシス主義はその悲哀も、間違った方法で克服しようと試みて、さらなる悲劇に陥る。すなわち、人は神より劣った存在として創造されたという「コンプレックス」を自力で解消しようと、アダムの命のままで、自力で自己を高めて「神のように」なろうとし、神に反逆して自分を滅ぼすのである。

本当は、そうなる前に、人が神よりも劣った存在として造られたことが人間の悲劇だという考え方を捨てるべきであり、神の創造を不当なものとみなして、自分の「かたち」を憎み、自分が置かれているすべての状況を神のせいだと考えて創造主と他者だけを責め続ける不毛な堂々巡りから抜け出なければならない。神が人類をディスカウントしているのではなく、人類が自分自身をディスカウントしていることにこそ、真の問題があるのだ。

だが、グノーシス主義者は、どうしても自分を「可哀想」だと考えることをやめられない。彼らは人類を「哀れむべき存在」とみなすことが、人類へのディスカウントであることにさえ気づかず、同情や自己憐憫を美しいものだと考えており、そのことがこの人々が絶えず自己存在をディスカウントされ続ける最大の原因となっているのである。

神の創造そのものに意義を唱えている彼らは、弱い自己を哀れみ、あらゆるものをその被害者意識に染め上げながら観察し、被害者意識と無関係のものを見つければ、早速、それを傷つけることで自分と同じように不完全なものにしようとし、さらに何とかして自分を「神のように」見せかけることで、己の無念を自力で解消しようとする。彼らがしようとしているのは、自分が創造された形そのものに対して意義を唱えること、それを何とかして自分の力で変えることによって神に達することである。

あなたがたは転倒して考えている。陶器師は粘土と同じものに思われるだろうか。造られた物はそれを造った者について、「彼はわたしを造らなかった」と言い、形造られた物は形造った者について、「彼は知恵がない」と言うことができようか。 」(イザヤ29:16)

グノーシス主義化された疑似キリスト教であるペンテコステ・カリスマ運動にも、同様のことが当てはまる。一方では、この運動は、偽物の「聖霊のバプテスマ」を造り出し、その霊を受けることによって、人が霊的に高められ、神のような偉大な存在となれるかのように教える。ところが、もう一方では、この運動の中から、カルト被害者救済活動のような、嫉妬と怨念に基づく破壊的な運動が生まれて来る。

実は、そのどちらもが根底には被害者意識を抱えているのである。カルト被害者救済運動は、表向きはカルト化教会の牧師に立ち向かうとしているが、その本当の敵は、聖書の神であり、正常なクリスチャンであり、神を毀損し、クリスチャンをディスカウントすることに真の目的がある。教会生活の中で心傷つけられて、正常な信仰を見失い、被害者意識を抱える元信者たちが、神に従って生きている正常なクリスチャンを妬み、これを中傷して傷つけることで、自分たちと同じレベルへ引きずり降ろそうとしているのである。

このように、ペンテコステ・カリスマ運動と、そこから生まれて来たカルト被害者救済活動は、見かけは全く異なるように見えても、本質的には同一の運動である。そして、以下に記す通り、そこにはバベルの塔の精神が脈々と流れている。それは自己を神のように高めようとするナルシシズムと、嫉妬と怨念に狂って神とクリスチャンから聖なる性質を奪い取ろうとする二つの側面から成る本質的に同一の運動であり、その運動の根底にあるものはどちらも神に対する嫉妬と怨念と被害者意識に基づく神の簒奪なのである。

こうした運動に関わる人々の心の根底に流れるものは、東洋的無常観と同じく「人間が可哀想だ」という自己憐憫と被害者意識の叫びである。なぜ人間が可哀想なのか? その理由を突き詰めれば、結局、神がそもそも人間を自分よりも劣った有限なる存在として創造されたことが間違っていたという結論になる。いずれにしても、聖書の神が悪いのであって自分たちは悪くないという話になる。彼らは自分たちの罪や弱さをそのままで、何らそれを悔い改めることも反省することもないままに、彼らの存在を哀れみ、被害者意識を慰め、優しく包んでくれそうな東洋的な「慈悲」や「慈愛」や「同情」や「もののあはれ」などの感情に、見境もなく飛びつく。そして、真綿の中でがんじがらめにされて身動き取れなくなるように、同情に見せかけた歪んだ支配の中でますます弱くされて自己を失って行くのである。
 
だが、実際には、そうした偽りの「同情」や「慈悲」といった感情の根底にこそ、人間存在を残酷にディスカウントし、弱さの中に閉じ込める悪魔的な思いが隠されていることに気づかなければいけない。偽りの美辞麗句を弄して人を弱さに閉じ込め、立ち上がれなくさせてしまうこの思想の世界観の異常さに気づき、これを拒否せねばならないのである。
 
同情という感情は、人が自分以外の誰かの弱さや苦しみに直面して初めて生まれる感情であり、逆に言えば、他者が傷つけられるのを見なければ、生まれることもない感情であるため、そこには言外に、苦しんでいるのが自分ではなく他人で良かったという安堵が含まれている。

聖書の神は、人の弱さに同情することのできない神ではないが、神の同情は、単なる言葉や感情にとどまらず、人の抱えるすべての問題に対して、その痛み苦しみを共に担い、分かち合いながら、なおかつ、現実的な解決策を与えてくれる。キリストは、まずはご自分が人の形を取って地上に来られ、人間のすべての痛み苦しみを味わわれ、弱さを体験され、人類のための刑罰を身に背負われた。その過程を経ていればこそ、キリストは人間の苦しみに心から同情する根拠を持っておられるのであり、しかも、死を打ち破られた復活の命によって、悲しむ人には慰めを、病める人には癒しを、罪には贖いとしての十字架を、死には復活を提供することがおできになる。

何よりも、死からよみがえられたキリストの復活の命は、人間を自分自身とこの世の欠乏の奴隷状態から解放する力を持っている。神の同情はただの言葉や感情だけの内実のない同情ではないのである。

だが、それに引き換え、人間が人間に与える同情は、何も生み出さず、何の救済も与えないばかりか、人間を悪質にディスカウントする。人はただ他者の苦しみを前に、自分も同じように脅かされている人間として、他者の苦しみに自分の苦しみを重ねながら、自分の被害者意識のために憐憫の涙を流すことができるだけである。苦しむ他者にどんなに寄り添い、救済を与えたいと願っても、人間が与えられるものは、せいぜい口先だけの言葉や、束の間の寄り添いや、すぐに尽きる物質的支援くらいで、それは一瞬の慰めの後で、さらに相手を卑しめ、ディスカウントし、依存関係を生み出すことはあっても、解放には結びつかない。

同情する者とされる者とは、共に抱き合い、涙を流すことによって、一時的に一つになったかのような共感を抱くかも知れないが、そこにはれっきとして、同情を施す側と、施される側の立場の差があり、優劣がある。その共感からは何も生まれず、さらに悪いことに、そこでは、同情する者が、同情される者を利用して優位性を誇り、栄光を受けることが常態化し、支配関係が生まれることさえある。

そうなると、同情を受ける人は、弱さを抱えた時点ですでに命をディスカウントされている上に、他者から同情を受けることによって、自己の尊厳をより一層ひどく傷つけられ、ディスカウントされて行くことになる。それにも気づかず、うわべだけの感情がもたらす満足により、自分の立場が何一つ変わっていないのに、あたかも救いの手を差し伸べられたかのように錯覚しながら、まるで麻薬を求めるように、すぐに消えてえしまう仮初の感情的な満たしを求めて、泥沼に足を取られるようにして果てしないディスカウントの中に落ち込んで行くのである。
 
そうした偽りの同情が、偽りの救済論として体系化されると、「救う者」と「救われる者」との間の差別的支配関係が固定化される。「救われる者(弱者)」は「救う者」の満足の手段として、永久に弱さの中に閉じ込められたまま、徹底的に利用されることになる。人間同士が互いの弱さに寄り添い、同情しているつもりが、ますます互いをディスカウントしながら、弱く、卑しく、惨めな境遇に閉じ込め合うことになるのである。カルト被害者救済活動のようなものには、まさに偽りの同情がもたらす悪しき支配関係が最も典型的な形で表れていると言えよう。

このように、被害者意識による負の「絆」で結ばれることによって、人類が互いを守り合うことは決してできない。それは助け合いでもなく、解放でもないため、その絆はかえって人をますます罪や弱さの中に閉じ込めるだけで、何の自由を与えないのである。
 
だが、東洋思想の中には、「死によって脅かされない命」が存在しないため、被害者意識によらない連帯という発想が全く生まれる余地がない。そのようなディスカウントとは無縁の、自由に基づく関係が生まれるためには、まずは人間が罪の奴隷、欠乏の奴隷状態から解放されていなければならないが、そのような人間自体がこの世界観の中には存在しないからである。

聖書においては、この物質世界の外におられる霊なる永遠の存在である神が、人類の救済のために、その独り子を地上に送られたことにより、今や御子を信じる者たちが、神の子供たちとされて、「人となられたイエス」の死と復活に同形化され、有限なる被造物でありながら、同時に、永遠の命を持つことができる。

しかし、東洋思想には、神と人との仲保者なるイエス・キリストが存在しないため、この思想の中には、永遠という概念自体がない。霊的世界と物質世界との接点もなく、完全という概念もなく、この思想は、最初から最後まで、物質世界の外に一歩も出ることがないので、永遠という概念が生じようがないのである。(物質界にあるものはすべて一時的だからである。)

東洋思想における生成と消滅の背後にある無限の循環という概念は、永遠の偽物である。なぜなら、真に永遠を考えるためには、まずはこの世の時空間という概念の外に出なければならないが、この「輪」は、無窮とも言える果てしない時間軸の上に成立する歴史的概念であって、決して物質世界の外にある時間と無関係の概念ではないからである。

そこで、結局のところ、東洋思想には、永遠の偽物があるだけで、永遠が存在しない以上、完全もないのである。無限の循環は、この世の諸現象によって作り出される偽りの概念でしかない。

このように、東洋思想は、一方では永遠に憧れ、被造物の有限性という制約を覆すことを目指しながらも、他方では、滅びゆく物質的世界を一歩たりとも外に出ることができず、死によって脅かされることのない、ディスカウントとは無縁の、完全性に到達する道をどこにも見いだせないのである。

そうなるのは、もともとこの思想が、被造物を神とする「神不在」の思想であって、被造物としての物質世界だけで成り立っているからである。創造主に属する霊の秩序ではなく、被造物に属する物質世界が真のリアリティとされる転倒した唯物論的思想なので、このような思想の中では、「わたしはある」という確固たるリアリティである聖書の神や、神の完全という概念が受容されない。そればかりか、このような世界観には何一つ絶対的な価値が存在せず、欠けるところのない完全性、ディスカウントされない命というものが存在し得ないのである。

グノーシス主義には「永遠の女性美」といった概念が存在しているように見えるかも知れないが、それさえも究極的には「脅かされている母」であり、永遠ではなく、死や滅びと無縁の存在でもない。

このように、すべてが死を帯びて、不完全であり、有限なる滅びゆく世界に、いざ永遠に絶対的な価値が出現すると、どうなるだろうか、大変な問題が持ち上がる――なぜなら、両者は完全に異質だからである。

三島作品における金閣寺への放火には、神殿破壊、すなわち、エクレシア殺しという隠れた意味が込められていることを説明した。むろん、三島はそのような隠れたプロットを想定していなかったであろうが、真の意味での「永遠の女性美」とは、神の復活の命によって生かされるエクレシアにしか存在せず、それゆえ、宮を破壊するという行為は、ただ単に人が神の神殿である自分自身を破壊することばかりか、それに加えて、永遠に揺るがされることのない完成した女性美であるキリストの花嫁たる教会を破壊するという隠れた意味合いを持つ。それは人が自分の完全な救いであるキリストを退け、自分自身が神の花嫁となる可能性を根こそぎ否定することを意味する。

ここに、二つの全く異なる存在がある。一方には、東洋思想の死によって脅かされる脆く弱い「母」(エバ、人類)があり、もう一方に、キリストの復活の命によって生かされる神の教会たるエクレシア(キリストの花嫁、新しい人)がある。

三島作品における金閣寺への放火は、東洋的世界観の中には、永遠に揺るがされることのない美、もしくは、キリストにあって完全とされた新しい人という概念が決して存在し得ないこと、つまり、被造物の贖いや、完成というものが決してないことをよく表している。この思想の中では、死を帯びていない何物にも脅かされることのない傷のない完全なものは、決して存在してはならないのである。

『金閣寺』の主人公は、コンプレックスや惨めさや無念を心に抱え、まさに滅びゆく被造物としての不完全性の象徴のようである。そして彼は、東洋思想の原則にのっとって、完成された女性美を、この世界や自分とは全く無縁・異質なものとして憎み、これをディスカウントし、毀損して、自分のレベルまで引きずりおろすことにより、抹殺しようと試みる。

その行為には、すでに述べたように、無意識のうちにも、エクレシアに対する悪魔の憎しみ、死を打ち破ったキリストの復活の命に対する悪魔の憎しみが込められている。このプロットから読み取れるのは、いかに悪魔が、被造物の贖いが完成して、被造物が完全な美を取り戻すことを心から憎んでいるかということである。

悪魔は被造物を永遠にディスカウントしておきたいのである。間違っても、被造物が被害者意識を帯びた「もののあはれ」や無常観とは関係のない、傷つけられたり、脅かされることのない完全な美を取り戻すことを望まないのである。

キリストの復活の命は、死を打ち破る力を持っているが、悪魔は人を攻撃し、ディスカウントしては、信仰を弱め、人が傷ついて、弱く、脆い存在になるよう引きずりおろそうとする。その悪影響は、しばしば、贖われたキリスト者にさえ到達する。

使徒パウロはコリント人への手紙で言う、「あなたがたの間に弱い者や病人がたくさんおり、多くの者が死んだのです。」(Ⅰコリント11:30)これはキリストの復活の命によって生かされる信者であっても、不信仰ゆえに、滅びゆく世界の不完全性に逆戻りさせられ、弱さのゆえに死んだ者が数多くいることを示す。

弱さ、傷、病、死などは、決して聖書によれば、美化されるべき概念ではなく、キリストの命の本質とは無縁である。有限なる被造物の、死によって脅かされる脆く儚い、過ぎ行く有様に「もののあわれ」を見いだすような情緒は、聖書とは一切無縁である。それは悪魔のディスカウントした世界を抵抗もせずに受容し、すべてが不完全で弱く傷ついている転倒した有様に喜びを見いだすことであるから、まさに倒錯した嗜好と言って良い。

悪魔は完全なもの、傷のないもの、死によって脅かされないものを憎み、人間を偽りの「慈愛」や「慈悲」や「同情」などの美的概念で騙しつつ、何とかしてキリストの復活の命に達しないよう、滅びゆくアダムの有限な命の世界から逃がすまいとしている。

東洋思想の世界観は、悪魔が人類を騙し、ディスカウントしておくための格好のツールであり、相手が信者であっても、悪魔は信者が被害者意識に陥れて自らの弱さを甘んじて受け入れ、抵抗をやめるか、アダムの命を改良して、自ら神に至ろうとのむなしい努力をするかのどちらかに誘導しようとする。間違っても、アダムの命に対する霊的な十字架の死が適用されて、復活の命が現れることがないよう、細心の注意を払い、もしそれが現れたなら、早速、あらゆる攻撃を加え、ディスカウントし、引きずりおろそうと準備しているのである。


・「和の精神」とはバベルの塔建設における人類の一致の悲願を指す

さて、前回の記事では言及できなかったが、「和の精神」についても補足しておきたい。「和の精神」とは、バベルの塔における人類の一致という、罪人たちの悲願を表す。そう考えれば、実に多くの事柄に納得がいく。

グノーシス主義の偽りの霊性は、常に目に見える人間集団を建て上げることによって、人類の圧倒的な威信を全世界に見せつけ、自己を誇り、人類の一致という悲願を達成しようとする。
今一度、バベルの塔建設のくだりを聖書から引用しよう。

「 全地は同じ発音、同じ言葉であった。時に人々は東に移り、シナルの地に平野を得て、そこに住んだ。 彼らは互に言った、「さあ、れんがを造って、よく焼こう」。

こうして彼らは石の代りに、れんがを得、しっくいの代りに、アスファルトを得た。 彼らはまた言った、「さあ、町と塔とを建てて、その頂を天に届かせよう。そしてわれわれは名を上げて、全地のおもてに散るのを免れよう」。

時に主は下って、人の子たちの建てる町と塔とを見て、言われた、「民は一つで、みな同じ言葉である。彼らはすでにこの事をしはじめた。彼らがしようとする事は、もはや何事もとどめ得ないであろう。さあ、われわれは下って行って、そこで彼らの言葉を乱し、互に言葉が通じないようにしよう」。

こうして主が彼らをそこから全地のおもてに散らされたので、彼らは町を建てるのをやめた。これによってその町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を乱されたからである。主はそこから彼らを全地のおもてに散らされた。 」(創世記11:1-9)

以上のバベルの塔建設における人類の連帯の中には、「和の精神」が見られたのではないだろうか。何しろ、「民は一つで、みな同じ言葉である。彼らはすでにこの事をしはじめた。彼らがしようとする事は、もはや何事もとどめ得ないであろう。」と言われたくらいなので、そこにはどんなことによっても妨げられないほどに統制された瞠目すべき人類の一致、協力、連帯が見られたのではないかと思う。

さて、「さあ、町と塔とを建てて、その頂を天に届かせよう。そしてわれわれは名を上げて、全地のおもてに散るのを免れよう」という言葉は、まさに以下のような精神を彷彿とさせる。
 

国体の本義
第一 大日本国体、一、肇国から抜粋

大日本帝国は、万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ、我が万古不易の国体である。而してこの大義に基づき、一大家族国家として億兆一心聖旨を奉体して、克く忠孝の美徳を発揮する。これ、我が国体の精華とするところである。この国体は、我が国永遠不変の大本であり、国史を貫いて炳として輝いてゐる。而してそれは、国家の発展と共に弥々鞏く、天壌と共に窮るところがない。我等は先づ我が肇国(てうこく)の事事の中に、この大本が如何に生き輝いてゐるかを知らねばならぬ。」

現御神にまします天皇の大御心・大御業の中には皇祖皇宗の御心が拝せられ、又この中に我が国の無限の将来が生きてゐる。我が皇位が天壌無窮であるといふ意味は、実に過去も未来も今に於て一になり、我が国が永遠の生命を有し、無窮に発展することである。我が歴史は永遠の今の展開であり、我が歴史の根柢にはいつも永遠の今が流れてゐる。



「万世一系の天皇皇后」というフィクションの神話に基づき、全世界を一つの家とみなして「一大家族国家」を形成し、これを歴史を貫いて輝かせ、永遠に到達しようという思想は、事実上、「町と塔(国家)を建てて、その頂を天に届かせよう」という発想と同じである。

そこでは確かに「我が国が永遠の生命を有し、無窮に発展する」という、永遠にまで到達しようという果てしない欲望が述べられている。このような思想に基づき、八紘一宇というスローガンのもと、全世界の国民が、一つ屋根の下に集まるように、同じシンボルのもとに集結すべきとしたのであるから、まさにバベルの塔の精神に他ならないではないか。

ここでは繰り返さないが、『国体の本義』が西欧文明の個人主義に対して激しい批判を展開し、西欧文明の長所と東洋思想との合体の末に新日本文化の創設なるものを唱えていたことを思い出したい。なぜ彼らがこのような塔=国家の建設にこだわったかという動機の根底には、「母が脅かされている」(西洋キリスト教文明の個人主義によって東洋文化が脅かされている)、すなわち、言い換えれば「聖書の父なる神によって人類が脅かされている」という被害者意識が存在したことが読み取れるのである。

そう考えると、「和の精神」とは、人類が聖書の神に対する被害者意識から、己が欲望によって自己を高ぶらせて、自力で神の領域にまで達しようとする悪魔的な一致・協力を指すことになる。一つ前の記事で、個人の意思決定権を認めず、集団だけにそれがあるかのようにみなす「和の精神」とは、まるで「かしら」を失った「首のない体」、つまり、精神に統御されない体と同じだと述べたが、首がない体だからこそ、自力で天に到達し、何とかして自分の力でかしらである神につながろうとしているのだと言えるかも知れない。

国家神道が「日輪(太陽=天照大神=天皇)」を神としていたということの中にも、首のない体(人類)が自力で天に到達しようとしていた願望を見ることができるのではないだろうか。そして、このような悪しき塔建設の試みは、必ず、個人単位ではなく、集団で行われるのである。

このような人類の神に対する反逆の試みに対する裁きがとりわけ厳しいものであることは言うまでもない。バベルの塔建設作業には、神の鉄槌が下されて分裂と混乱で終わり、塔も未完に終わったが、今日、そのような悪しき思想を信じる者には、個人単位でも、滅びが降りかかる。

前回、三島がいかに人類の果てしない欲望に対する神の霊的な刑罰を象徴するような最期を遂げたかを見て来たが、それと共に思い出されるのは、使徒行伝でペテロが語ったイスカリオテのユダの最期である。

「ユダはわたしたちの仲間の一人であり、同じ任務を割り当てられていました。ところで、このユダは不正を働いて得た報酬で土地を買ったのですが、その地面にまっさかさまに落ちて、体が真ん中から裂け、はらわたがみな出てしまいました。このことはエルサレムに住むすべての人に知れ渡り、その土地は彼らの言葉で『アケルダマ』、つまり『血の土地』と呼ばれるようになりました。

詩編にはこう書いてあります。
『その住まいは荒れ果てよ。
 そこに住む者はいなくなれ。』
また、
『その務めは、ほかの人が引き受けるがよい。』」(使徒1:17-20)

ユダも自殺して体が真っ二つに裂けてはらわたがみな飛び出したというから凄まじい最期である。ちなみに、マタイの福音書では、ユダはイエスを銀貨三十枚で売ったことを後悔して、祭司長や長老に金を返そうとして断られ、銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、その後に首をつって死んだとある。

「そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。しかし彼らは「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言った。そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。祭司長たちは銀貨を拾い上げて、「これは血の代金だから、神殿の収入にするわけにはいかない」と言い、相談のうえ、その金で「陶器職人の畑」を買い、外国人の墓地にすることにした。このため、この畑は今日まで「血の畑」と言われている。」(マタイ27:3-8)

この記述が使徒行伝の記述と食い違うと主張する者もあるが、高所で首をつった後、体が地面に転落して裂けたなどのことも考えられるため、表面的な描写だけを取って、死に様が食い違うと考えるのは早いものと思う。

いずれにしても、首を吊った上に腹が裂けたというのだから、あまりにも凄絶な見せしめ的な最期であり、それは三島と同様に、キリストの十字架に敵対する者の最期を思わせるものである。キリストの十字架に敵対してい歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。」(フィリピ3:18-19)

ユダの体が真っ二つに裂けたことは、ユダが神と悪魔の両方に心を売ろうとして、最後までどっちつかずの生き方をしたことに対する厳しい報いと受け止められないこともない。そこには、バベルの塔同様に、分裂という要素も見られるし、自力で自分を高めて神以上の存在になろうとする人類が、最後には自分の正常な形までとことん失う様子を見て取れる。また、ユダがイエスを売った血の代価で買われたのが「陶器職人の畑」だったことにも、意味がなかったわけではないだろう。なぜなら、旧約聖書において、陶器師は何度も創造主なる神にたとえられているからだ。そして、そのたとえの中では、神が人の身も心も思うがままに、救おうと思う者を救われ、滅ぼそうと思われる者を滅ぼすことがおできになることが示されている。「神は御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされるのです。」(ローマ9:18)

エレミヤ書第18章にも、神がご自分を陶器師にたとえる記述が登場する。そして、造られた者でありながら、創造主に逆らう民を、神が滅びに引き渡され、その宣告を告げさせるために預言者を民に向かわせるが、その預言者にも、民は耳を傾けず、かえってその宣告を憎み、彼を殺そうとする。これはまさに今日起きていることではないだろうか?
 
「主からエレミヤに臨んだ言葉。 「立って、陶器師の家に下って行きなさい。その所でわたしはあなたにわたしの言葉を聞かせよう」。
わたしは陶器師の家へ下って行った。見ると彼は、ろくろで仕事をしていたが、 粘土で造っていた器が、その人の手の中で仕損じたので、彼は自分の意のままに、それをもってほかの器を造った。

その時、主の言葉がわたしに臨んだ、 「主は仰せられる、イスラエルの家よ、この陶器師がしたように、わたしもあなたがたにできないのだろうか。イスラエルの家よ、陶器師の手に粘土があるように、あなたがたはわたしの手のうちにある。 ある時には、わたしが民または国を抜く、破る、滅ぼすということがあるが、もしわたしの言った国がその悪を離れるならば、わたしはこれに災を下そうとしたことを思いかえす。
またある時には、わたしが民または国を建てる、植えるということがあるが、もしその国がわたしの目に悪と見えることを行い、わたしの声に聞き従わないなら、わたしはこれに幸を与えようとしたことを思いかえす。

それゆえ、ユダの人々とエルサレムに住む者に言いなさい、『主はこう仰せられる、見よ、わたしはあなたがたに災を下そうと工夫し、あなたがたを攻める計りごとを立てている。あなたがたはおのおのその悪しき道を離れ、その道と行いを改めなさい』と。

しかし彼らは言う、『それはむだです。われわれは自分の図るところに従い、おのおのその悪い強情な心にしたがって行動します』と。
それゆえ主はこう言われる、異邦の民のうちのある者に尋ねてみよ、このような事を聞いた者があろうか。おとめイスラエルは恐ろしい事をした。レバノンの雪が、どうしてシリオンの岩を離れようか。山の水、冷たい川の流れが、どうしてかわいてしまおうか。
それなのにわが民はわたしを忘れて、偽りの神々に香をたいている。彼らはその道、古い道につまずき、また小道に入り、大路からはなれた。 自分の地を荒れすたれさせて、いつまでも人に舌打ちされるものとした。そこを通る人はみな身震いして、首を振る。わたしは東風のように、彼らをその敵の前に散らす。その滅びの日には、わたしは彼らに背を向け、顔を向けない」。

彼らは言った、「さあ、計略をめぐらして、エレミヤを倒そう。祭司には律法があり、知恵ある者には計りごとがあり、預言者には言葉があって、これらのものが滅びてしまうことはない。さあ、われわれは舌をもって彼を撃とう。彼のすべての言葉に、心を留めないことにしよう」。」

バベルの塔の精神は、まさに人類が被害者意識によって連帯して、創造主なる神に逆らい、立ち向かいながら、神が自分の主人であることを否定して、神に代わって自分が自分の人生の主人となり、欲望に従って思うがままに生きられるかのような、人類の集団的な思い上がりを示している。彼らがれんがとアスファルトで塔を建てたというのも、神の霊に属する性質ではなく、肉の性質を使って、神に到達しようとしたことを表している。

「和の精神」もその本質はこれと同じで、それは創造主に逆らって己を神とする人類の集団的な思い上がりと反逆、肉の思いによる高ぶりを示している。彼らは飽くことのない繁栄を望むが、首を失った体に対する裁きは厳しいものであり、分裂と、滅亡と、荒廃とが待ち受けている。

キリスト者の道は、このようなものとは全く異なる。筆者は、三島やユダの最期を思うにつけても、やはり、グノーシス主義者の滅びには、一切、キリスト者は手を貸さない方が良いと考えざるを得ない。

筆者は、周りで起きている激しい妨害を知らないわけではなく、それに当然の権利を持って立ち向かい、言葉を返し力を行使しようと思えば容易なことであるのも知っているが、グノーシス主義者には、まずは彼らの心のうちを隅々まで吐露させ、その悪しき思いが誰も否定できないほどにはっきり形を取って現れるまで、好きにさせておけば良いのではないかと考えている。なぜなら、彼らには、必ず、彼らの悪しき思想が形となって結実し、滅びとして身の上に降りかかる時が来ると分かっているからだ。
 
人は自分で自分の生き方を選択していると思っているかも知れないが、自覚せずとも、必ず、何らかの思想に導かれて生きている。その人の思想こそが、その人の生き様を形作っているのである。その思想とは、大きく分けて、この世には二種類しかない。聖書の神に従うのか、従わないのか、そのどちらかしか人間に選択はないのである。

文学作品は、現実から乖離したフィクションに過ぎないと言う人がいるが、実はそうではない。たとえ小説であっても、そこには、著者の世界観、思想がよく表れており、むしろ、小説であるからこそ、現実の何倍もの凝縮された形で端的に著者の思想が込められている場合が少なくない。

著者が作品の中でほとんど無意識に行った告白が、やがて著者の身の上に極めて教訓的な形で結実することはよくある。そのことは三島作品を読めば分かることだ。もし三島の書いた作品が単なる「フィクション」でしかなかったのならば、三島には作品中の主人公と同じような最期を遂げる必要は全くなかったであろう。しかし、実際には、作品中で行われたのはみな三島の死のリハーサルだったのである。

そこで、筆者は、グノーシス主義者らの行く末については、放っておいても、彼らの誤った思想それ自体が、彼らを当然の滅びに引き渡すであろうと考える。そこで、あえて二、三歩、退いて、その生き様を傍から観察し、彼らにふさわしい最期がやって来ることを見届けようと思う。

このように言うのは、「ディアボロス」すなわち「中傷する者=悪魔」に味方する人々に降りかかる裁きが、格別に厳しいものとなることが、予め分かっているためである。筆者はその結末に微塵も責任を負うつもりはなく、それは彼ら自身が選んだ結末としてはっきり身の上に現れなければならない。それがあまりにも悲惨な末路となることが明白であればこそ、キリスト者はその結末に手を貸さず、屠られる羊のように黙しつつ、この世の手段を用いず、ただ小羊の血潮と証の言葉のみに立って、すべての虚偽に立ち向かうことに意味があると考える。肝要なのは、血肉の戦いに精魂を費やすことではなく、まずは偽りの思想という要塞そのものを暴き出し、粉砕することである。

さて、話を戻せば、キリストの復活の命に至りつくためには、個人的な信仰がなくてはならず、それは集団的な連帯によって獲得することは決してできない。その個人的な信仰の歩みは、バベルの塔の連帯とは真逆の方向性である。だからこそ、グノーシス主義者らは必死になって、「集団を離れての個人は存在しない」とか「孤立は死だ」とか言いながら、人が個人としての真実な信仰の探求を行うことを何とかして妨げようと努力しているのであろう。

しかし、「和の精神」は、人類の悪魔的な一致の願望であるから、このような偽りのスローガンのもとで、有限なる被造物を神として崇め奉る組織や集団に帰属している限り、人は永久に復活の命にはたどり着けない。そうした組織の中には、牧師という目に見える人間を神の代理人とする集会も含まれている。

できるなら、これまで何度も引き合いに出して来たオースチン-スパークスの論説私たちのいのちなるキリストが現される時……を、もう一度参照されたいが、そこでは、はっきりと、終末に向けて、反キリストに属する「人造のキリスト教」が大規模に発展すること、それはキリストや、キリストの命に見せかけた「キリストご自身の代替物」を用意して、「自らの勢いで生成発展する偽りのいのち」によって膨らんで行くことが指摘されている。

今日、ペンテコステ・カリスマ運動のように、また、牧師制度を有するすべての組織に見るように、キリストを礼拝すると言いながら、被造物を拝み、被造物の命を偽りの霊性に見せかけて発展させようとするグノーシス主義と合体した虚偽のキリスト教が、キリスト教界を席巻している。彼らは「事物、人、運動、制度、組織」などを中心に据えて、目に見える指導者のもとに、目に見える集団を建て上げ、「大衆を引きつけ、群衆をとらえる」要素をちりばめた、見せかけの礼拝を行うことに心を砕いている。

そうした人々は、主日礼拝を守るとか、安息日を守るとか、祝祭日を守るとかいった表面的な儀式を守ることを敬虔と勘違いし、うわべを飾ることに腐心している。だが、聖書はこれらの人々についてはっきりと言う、

「だから、あなたがたは食べ物や飲み物のこと、また、祭りや新月や安息日のことでだれにも批評されてはなりません。これらは、やがて来るものの影にすぎず、実体はキリストにあります。

偽りの謙遜と天使礼拝にふける者から、不利な判断を下されてはなりません。こういう人々は、幻で見たことを頼りとし、肉の思いによって根拠もなく思い上がっているだけで、頭であるキリストにしっかりと付いていないのです。この頭の働きにより、体全体は、節と節、筋と筋とによって支えられ、結び合わされ、神に育てられて成長してゆくのです。」(コロサイ2:16-19)

ここに、「頭であるキリストにしっかり付いていない」すなわち、「首のない体」が登場していることに注意したい。こういう体に属する人々は、いたずらに思い上がり、自分たちの努力で天にまで到達しようと様々な儀式を守り、偽りの従順を演じ、自らの努力をうず高く積み上げ、そうしていればいつか「頭」が得られるかのように思い込んでいる。

だが、どんなに努力を重ねても、彼らはずっと「首のない体」のままである。どんなに偉大な宗教指導者を組織の頂点に据えても、被造物はすべて体に過ぎないので、頭にはなれない。首のないその体に、どんなに「和」が働いても、そこにあるのは、神をわきまえる知性を捨てた「肉の思い」すなわち堕落した欲望でしかない。

もしもこの先、信者が少しでも「事物、人、運動、制度、組織」に気を取られ、このような価値観を受け入れるならば、欺かれて終わるだろう。「影」に過ぎず「本体」ではない本質的なものでないものに気を取られれば取られるほど、命の制限が生じるだけである。

被造物を神とするあらゆる制度から離れねばならないが、残念ながら、今やこの時代のキリスト者には、現人神のように人間を崇め奉る牧師制度のような偽りの教職者制度を離れ去るだけでなく、己を神として生きる全ての個々の人間からも離れ去ることが要求されている。

以下の御言葉は当ブログでは幾度も引用して来たが、今や隅から隅まで成就したことに慄然とする思いである。

「しかし、終わりの時には困難な時期が来ることを悟りなさい。そのとき、人々は自分自身を愛し、金銭を愛し、ほらを吹き、高慢になり、神をあざけり、両親に従わず、恩を知らず、神を畏れなくなります。また、情けを知らず、和解せず、中傷し、節度がなく、残忍になり、善を好まず、人を裏切り、軽率になり、思い上がり、神よりも快楽を愛し、信心を装いながら、その実、信心の力を否定するようになります。こういう人々を避けなさい。」(二テモテ3:1-5)

悪人や詐欺師は、惑わし惑わされながら、ますます悪くなっていきます。だがあなたは、自分が学んで確信したことから離れてはなりません。あなたは、それをだれから学んだかを知っており、また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。

この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。」(二テモテ3:13-16)


以前にも書いたが、今やこの世、宗教界を問わず、至る所で終末のバビロン化が大規模に進行し、目に見えない洪水がひたひたと押し寄せて来るように、周囲にいるすべてが水の中に飲み込まれて行く様を、筆者は箱舟の中にいながら、静かに見る思いがする。信者を名乗る人々が創造主なる神と神の民に反逆し、国は虚偽と不正と腐敗と搾取にまみれて機能停止し、すべてのものが支離滅裂な思想に汚染され、その中に飲み込まれつつある。悪いものは極端に悪くなり、およそ秩序という秩序が転倒させられている。

だが、ノアの時代、洪水から救われたのは、たった8人であった。イエスは言われた、「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いて下さる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」(ルカ18:7-8)
 
我々の脱出の道は常にキリストを通して備えられている。それは決して多くの人が見いだすことのない狭き門ではあるが、確かな救いであり、ディスカウントされることのない、まことの命である。オースチン-スパークスの以上の論説も警告している、万物の運命は「キリストがすべてのすべて」となることであると。神の霊の実際の働きは、すべてのものをキリストに帰することであるから、我々はその命だけに頼って生きる方法を学ばねばならないのだと。

キリストだけが我々の内なる人の命となるときに初めて、私たちは、被造物の限界に脅かされることなく、彼の中で強くあることができる。もしも私たちが、この方だけに頼ることをやめ、自分自身や、他の人々や、物事に頼ろうとするなら、たちまち弱くされてしまうであろう。我々は、すべての「影」に過ぎないものを退け、「本体」であるキリストの力だけで、すべての逆境を切り抜ける秘訣を学ぶ必要がある。そして、そのために必要なすべての備えが、この命なる方の中には存在するのである。


神に疎外された者たちによる神への復讐の哲学としてのグノーシス主義ー映画/"MISHIMA"から⑦

・般若心経に現れるグノーシス主義的世界観 ~永遠に循環を続ける「無=空」~

多くの仏教の宗派の中で共通の経典として用いられていることを見ても、般若心経の中に、いかに「無=空」の思想が、最も凝縮された端的な形で込められているかが分かる。

多くの日本人は、自分はどんな宗教も信じていないと考えている人間でさえ、葬儀の際には、儀礼的に般若心経を唱えたりする。そうした読経によって、彼らは自覚なしに「いろは歌」と同じように、グノーシス主義の世界観を呼び起こす呪文(マントラ)を唱えているのである。

般若心経についてはいくつもの現代語訳があるため、それらを参考にしながら以下に私訳してみた。これを読めば、般若心経には「いろは歌」よりももっとはるかに鮮明に世界の本質が「空=無」であるという思想が表れていることが分かる。

むろん、仏教は、宗教と呼ぶより哲学であると言った方が良いため、そこには神もなければ神話もなく、一般的なグノーシス主義の物語に見られるようなプロットは存在しない。従って、「空=無」が擬人化されて登場するようなこともない。しかし、そのような差異を脇においても、当ブログでは、仏教の無常観も、世界の本質を「無」であると定義している点で、グノーシス主義と本質的に同一の思想であるとみなしている。

グノーシス主義における至高神にも、すでに見て来たように、およそ人格らしきものは存在しない。グノーシス主義の至高神は、自らの意志で行動して世界に関与することはなく、それはひたすら物言わぬ「鏡」や「虚無の深淵」である。それは結局、グノーシス主義が、人格を持った神の存在を認めておらず、グノーシス主義における至高神が、仏教の「空」や「無」と同一であることを意味する。

つまり、世界の創造者(と言っても人格を有さない神)が虚無の深淵と同一であって、すべての目に見えるものは根源的に「無」に集約されるというで、仏教もグノーシス主義も根本的に同じ思想だと言えるのである。そのことが以下の訳文の内容からも十分に見えて来よう。
  

かんじざいぼさつ
観自在菩薩               (観音菩薩は)
ぎょうじんはんにゃはらみったじ
行深般若波羅蜜多時     (深遠な智慧により彼岸に到るための修業をしている時)
しょうけんごうんかいくう
照見五蘊皆空    (人間存在のすべてが本質的に実体のないものであることを見極め)
どいっさいくやく
度一切苦厄             (物事が思い通りにならない苦しみと災いをすべて彼岸に渡した)
しゃりし
舎利子                 (そしてシャーリプトラに向かって次のように述べた)
しきふいくう
色不異空               (すべて形あるものは、実体のない一時的なものでしかなく)
くうふいしき
空不異色               (実体がないものが一時的に形を取って現れているだけである)
しきそくぜくう
色即是空               (それゆえ形あるものはすなわち実体のない永遠でないものであり)
くうそくぜしき
空即是色               (実体のがなく永遠でないものが一時的に形あるものとして現れているに過ぎない)
じゅそうぎょうしき
受想行識               (人間の心の働きについても、)
やくぶにょぜ
亦復如是               (同じことが当てはまる。)
しゃりし
舎利子                 (シャーリプトラよ、)
ぜしょほうくうそう
是諸法空想             (この世の中のすべての存在や現象は、もともと実体がなく一時的で永遠でないからこそ、)
ふしょうふめつ
不生不滅               (それには本当は生成も消滅もなく、)
ふくふじょう
不垢不浄               (汚れも清さもなく、)
ふぞうふげん
不増不減               (増えることも減ることもないのだ。)
ぜこくうちゅう
是故空中          (すべてのものは常に変化して同じ形をとどめず実体がないからこそ)
むしきむじゅそうぎょうしき
無色無受想行識             (人の体も存在せず、心もまた存在しない。)
むげんにびぜつしんに
無限耳鼻舌身意         (むろん、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、心などの感覚器官もなければ)
むしきしょうこうみそくほう
無色声香味触法         (目に見える形や、耳に聞こえる音や、嗅いだ臭い、食べた味わい、触った感触、抱く思いなども存在しない。)
むげんかいないしむいしきかい
無限界乃至無意識界     (物事を目で見て把握したり、心で意識したりしている感覚自体が存在しないのであるから)
むむみょう
無無明                 (当然、悟りに対する無知もければ、)
やくむむみょうじん
亦無無明尽             (悟りに対する無知の克服もない、)
ないしむろうし
乃至無老死             (そこから始まって、老いも死もなく)
やくむろうしじん
亦無老死尽             (老いや死の克服もない。)
むくしゅうめつどう
無苦集滅道             (苦しみやその原因となる迷いを克服して楽になる方法もなければ、)
むちやくむとく
無知亦無得             (真実を知り悟りを得るということもない。)
いむしょとくこ
以無所得故             (従って、悟りを獲得することがないのだから、)
ぼだいさった
菩提薩垂               (悟りを求めている者は、)
えはんにゃはらみった
依般若波羅蜜多         (彼岸に到る本質的な智慧のおかげで)
こしんむけいげ
故心無圭礙             (心を覆う疑いの雲は晴れ)
むけいげこむうくふ
無圭礙故無有恐怖       (心を覆う疑いがないから恐れもなく、)
おんりいっさいてんどうむそう
遠離一切転倒夢想       (あらゆる転倒して誤った幻想から遠く離れて、)
くきょうねはん
究境涅槃               (平安(涅槃)の境地に達することができる。)
さんぜしょぶつ
三世諸仏               (過去・現在・未来において、目覚めたものたちは)
えはんにゃはらみつたこ
依般若波羅蜜多故       (彼岸に到る智慧のおかげで、)
とくあのくたらさんみゃくさんぼだい
得阿耨多羅三藐三菩提   (最高の悟りを得ることができる。)
こち
故知                   (知るがよい、)
はんにゃはらみった
般若波羅蜜多           (彼岸に到る智慧は)
ぜだいじんしゅ
是大神呪               (偉大な神(仏)の呪文であり、)
ぜだいみょうしゅ
是大明呪               (悟りを得るための偉大な呪文、)
ぜむじょうしゅ
是無上呪               (この上ない呪文、)
ぜむとうどうしゅ
是無等等呪             (並ぶもののない呪文である。)
のうじょいっさいく
能除一切苦             (これはあらゆる苦しみを取り除くことができ、)
しんじつふこ
真実不虚               (真実であって虚偽ではない。)
こせつはんにゃはらみつたしゅ
故説般若波羅蜜多呪     (ゆえに、彼岸に到る智慧の呪文を唱えよう。)
そくせつしゅわつ
即説呪曰               (次のように呪文を唱えよう。)
ぎゃていぎゃていはらぎゃてい
羯帝羯帝波羅羯帝         (彼岸へ行く者よ、彼岸に行く者よ)
はらそうぎゃてい
波羅僧羯帝             (彼岸に行きて到達する者が、)
ぼうじ
菩提                   (悟りを得て)
そわか
僧莎訶                 (幸いがあるように。)
はんにゃしんぎょう
般若心経               (悟りを得る智慧の最も重要な経典。)


 
般若心経においても、グノーシス主義に特徴的な「対極にある概念の統合」が見られる。すなわち、すべての物質界の現象は本質的に「空=無」である(実体がない)ため、悟りもないとしながらも、同時に、すべての物事が実体のない無であるという本質を理解することによって、人は「深淵なる智慧」を得て彼岸に到達し、苦しみから解かれて平安を得られるとしている。

このような説は、一見すると著しい自己矛盾でしかなく、そのような理屈は「対極性の統合」の果てに出現して来るものである。般若心経の言う「彼岸」(涅槃の境地)とは、ウロボロスの輪と同じように、生成と消滅を超越したところにある「永遠=無」を指しているのであり、涅槃の境地に達することは、要するに、人が個人としての生成と消滅にとらわれず、個人の枠組みを超越して、すべてのものを包含する「空=無」と一体化することによってのみ可能だと言っているに等しい。

そこで、結局、般若心経における智慧(=般若)は、グノーシス主義における叡智(=グノーシス)と同じであり、それはサタンがエデンの園で、人類をそそのかして吹き込んだ偽りの知恵と同義であり、そこにあるのは、人類と神とが本質的に同一だという思想である。

「でも、仏教にはそもそも神という概念が存在しません。なのに、なぜあなたは仏教の思想までが、人類と神とが本質的に同一だという神秘主義の思想と同じだと言うのですか」と再び尋ねないでもらいたい。

これまで見て来たように、グノーシス主義の神は、物言わぬ「虚無の深淵」である。そして、この「虚無の深淵」と人間とを同一視することによって、グノーシス主義は、人と神とが本来的に同一であるとみなしているのであり、これと比較すれば、すべてのものが人間存在も含めて根本的には「無」であると教える仏教の思想は、グノーシス主義とほとんど変わらないことになる。

聖書の創世記で、サタンは人類が自ら神の掟を破ることで、「神のようになれる」(=神になれる)と教え、人の側から神の性質を盗み取って神になりすますようそそのかした。しかし、その嘘を受け入れて堕落した瞬間から、人類は神を知る知識を失って、神のいない、被造物(自分)しか存在しない、独りよがりな世界に投げ出されたのである。神を喪失した人類の中では、神の席が空席となり、そこに実体のある神の代わりに、虚無の深淵が横たわった。そのため、人が自力で神に到達するために残された道は、虚無の深淵と自己を同一視して、無の中に飲み込まれることしかなくなったのである。


・個人の概念が幻想として消え「永遠の無という循環」だけがリアリティとして残る思想

虚無の深淵が「神」になり、「永遠の無」がリアリティとなって、個人がその中に埋没して消えると、一体、どういう恐ろしいことが起きるのかを、『方丈記』の有名な冒頭の文章を通してよりはっきり理解したい。
 

ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。  たましきの都のうちに、棟を並べ、甍を争へる、高き、卑しき、人のすまひは、世々を経て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。あるいは去年焼けて今年作れり。あるいは大家滅びて小家となる。住む人もこれに同じ。所も変はらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二、三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。

朝に死に、夕べに生まるるならひ、ただ水のあわにぞ似たりける。知らず、生まれ死ぬる人、いづかたより来たりて、いづかたへか去る。また知らず、仮の宿り、たがためにか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。その、あるじとすみかと、無常を争ふさま、いはば朝顔の露に異ならず。あるいは露落ちて花残れり。残るといへども朝日に枯れぬ。あるいは花しぼみて露なほ消えず。消えずといへども夕べを待つことなし。」


  
『方丈記』では、人間が誕生しては死にゆく有様が「ゆく河の流れ」と「淀みに浮かぶうたかた」にたとえられる。個人の生や死は、水面に束の間現れては消える「うたかた」のような無意味でむなしいものに過ぎず、そこに何一つ確かなリアリティはない。確かなのは、うたかたではなく、うたかたを水面に登場させる絶えることのない「河」の方である。

こうして『方丈記』の冒頭では、「河」という概念が、グノーシス主義の「鏡」や「虚無の深淵」と同じものとして登場する。その「河」は、もちろん、「永遠の循環である無」(ウロボロスの輪)と同じである。

現実には、現れては消える「うたかた」の一つ一つには何の同一性もなければ、連続性もなく、それはただバラバラの一過性の現象に過ぎないのだが、一つ一つのうたかたの生成と消滅を「河」という視点から見ることで、あたかもそこに「うたかたが現れては消える」という繰り返しが発生しているような幻想が生まれる。そこから、その繰り返しが発展して、「先祖」から「子孫」へと、何らかの価値が受け継がれているかのような虚構の連続性が生まれ、循環する永遠の無という概念が作り出されるのである。

この虚構の連続性は、具体的には、万世一系の天皇家といった国家的神話や、先祖代々から受け継がれる神聖な家制度というフィクションや、創設以来永遠の発展を目指し続けている企業やその他の団体などの神話が生まれ、人類の連続性を謳う何らかの組織や集団のフィクションとなる。

そして、「うたかた」である個々の人間の生が幻に過ぎないような無意味なものとされる代わりに、この「人類の連続性」というフィクションが、確固たる永遠の真実であるかのようにみなされるのである。

『方丈記』の無常観を見ても、そこでは、人間存在は「神の似像」という呼び名にさえ値しないような、水面に束の間、現れては消えるだけの「あぶく」として、あるかなきかの些末な存在でしかないため、個人が、このように儚く脆いあぶくとしての存在を抜け出て、自己存在を神のような永遠に高めたいと思えば、自ら「あぶく」であることを捨てて、「河」と一体化するしかない、という結論が自然に出て来る。

従って、ここにも、グノーシス主義が常に導き出す究極の答えが見られる。人が有限なる被造物としての限界を脱したければ、人が自ら自己存在を捨てて、自己の隔ての壁を取り除き、人類の連続性という永遠のフィクションの中に身を投げて、虚無の深淵と一体化するしかないのである。そうしない限り、人間はどこまで行っても、あるかなきかの「あぶく」に過ぎないのである。

つまり、グノーシス主義を信じると、三島由紀夫がそうしたように、人は自分であるという区分を自ら取り払い、自分を抹消することで、「無=永遠」と一体化する以外には、解放に至り着く手段がないことになる。

すなわち、こうした思想では、人間が、目に見える世界の万象はおろか、自分自身の存在さえ究極的には「無である」とみなすことによって、虚無の深淵である「鏡=輪=永遠=無」の中に自ら飛び込み、無である世界と一体化して、自らの苦楽そのものも滅却するしか手立てがないのである。

それゆえ、グノーシス主義は、「無=永遠」と人が一体化するための手段として、肉体からの離脱(自死)という方法を提供する。

だが、多くの場合、グノーシス主義的な「無」との一体化による自己からの「解放」は、三島由紀夫のような凄絶な自死という形を取らず、人々が無意識的に集団の中へ埋没し、個の意識を放棄するという形で成し遂げられる。

般若心経のように、すべてのものが本質的に「無=空」であるとみなす思想を信じると、個人という概念が消え失せてしまい、全体(無)だけが残ることは、禅の視点から般若心経を読み解いた次のサイトの記述を読んでもよく理解できる。
 

『般若心経』を現代語訳するとこうなる - 存在が存在することの意味を説くお経 -

 あらゆる存在が「空」だとわかると、面白い事実に気がつくことになる。
 私たちは、命は生まれて死ぬものだと考えがちだが、それも違うのだ。
あらゆる存在は、いろいろなものが集まって形を為し、そこに形以上の「はたらき」が生まれて「生きる」という活動をしている。
 私たちが、自分を自分だと認識して生きていることも、形以上の不思議な「はたらき」のなせるわざである。
 「命」もまた実体として存在するものではなく、それは神秘としか言いようのない、不思議は「はたらき」なのである。
「個」が集まってできた「和」には、単なる個の集合以上の不思議な「はたらき」が具わることがある。
それが、命だ。

だから生き物は、生まれて死ぬのではなく、はじめから実体が存在しない「空」という存在のしかたをするなかで、ただ変化を繰り返している。
この、「存在は変化を繰り返す」という真実には、「無常(むじょう)」という言葉を当てるとしよう。
 存在=空=自性がない=無常=変化を繰り返す=常なるものは存在しない
 これらはすべてイコールでつながるものなのだ。
 存在には「変化」があるばかりで、生まれもしなければ死にもせず、垢がつくこともなければ浄らかなのでもなく、増えもしなければ減りもしない。
ただ、変化を続けるだけである。

<略>
ただ、存在の本質が「空」であり、私という概念が取り払われ、世界と自分とを隔てる虚構が崩された認識というのは、すがすがしいものである
わだかまりを抱くことが何もない。
わだかまりを抱く私が存在せず、わだかまりという心もまた、本当には存在しないから当然といえば当然か。
心に何の恐れも生じないのだ。

<略>
人は普通、自分のことは自分でしていると思っていることだろう。
だが、本当にそうだろうか。
たとえば、心臓が絶えず拍動を続けているのは、自分の意思か?
この体を作ったのは、自分か?
熱い物を触ったとき手を引っ込めるのは、はたして考えた上でのことか?
自分の体でありながら、それらは自分の意思とは関係のないところで自ずとはたらき続けてくれているのではないか

それなのに、多くの人は自分の体は自分のものであり、自分の意思で自分は生きていると思っている。
存在しないはずの自分を「有る」と疑うことなく所有し続けているからだ
このような誤った考えから離れるだけで、心はずっと安らかになるというのに。


以上の解釈では、まず、人の体の機能について、あたかも、体が人間の意思とは関係のないところで自動的に働いていることが重要であるかのように述べることで、鈴木大拙と同じように、人間の本質は「知」にはなく「行」にあるという発想が述べられていることに注意したい。

つまり、ここでは、意志(精神)が理性によって体全体を統御することが重要なのではなく、体はそれ自体、意志(精神)とは無関係のところで働いているところに重要性があって、その自然な働きに人は身を委ねるべきだと言われているのである。

こうした考えの中に、前回見て来たような「精神と肉体の支配関係の逆転」、「肉体および肉欲の復権」というグノーシス主義の逆転の発想が見られることは言うまでもない。

そうして「精神」を軽視して、肉体の本能的な働きだけを重んじる考えに立って、以上の記述は続ける、人間一人一人の悩み苦しみなど全く本質的な問題ではなく、そのようなものは本質的に「空=無」でしかなく、人間存在は、個別に悩み苦しむバラバラの個人としては全く意味をなさず、人類全体もしくは全宇宙(あるいは社会や国家や家族)という大きなひとまとまりの「体」としてつながって初めて意味が生じるのだと。

裏を返せば、人類は個人単位では全く意味をなさず、個人には「命」も「働き」もなく、むろん、精神もなければ、悩み苦しみもなく、集合体となって初めて人類には「働き」や「命」が生まれるのであって、バラバラの個人という概念自体が虚妄であると言っているに等しい。

そうして、この種の思想では、「自分」というものが虚妄の概念とする以上、「自分」に生じる苦しみも当然、虚妄ということになり、いっそそのような個人の隔ての壁を完全に取り払って、自分と世界とを融合させて一体化すれば、人は自分自身の限界からも解放され、「自分に固有の苦しみ」もなくなり、精神が生じさせるすべての葛藤から解放されて、楽になれると言うのである。

これも「うたかた」を幻とみなす代わりに、「河」を確かなものとみなすフィクションと全く同一の思想である。この思想は、多くの人々の誕生や死は、実体のない「空=無」でしかなく、個人のレベルでは、生成も消滅もないが、それらが集まって集合体をなすとき、「空=無」でしかないはずのうたかたの生成と消滅に、何らかの連続性や均一性といった虚構の概念が付与され、そこに先祖代々から伝わる家制度だとか国家だとかいった神話が生まれ、集合体としての社会に「和」という幻想に基づくフィクションが生まれ、そうなって初めて、その集団に真の「命」が吹き込まれ、「体」としての機能が始まると言っているわけなのである。

このような考え方は、まさに『国体の本義』における「和の大精神」にも通じる。『国体の本義』が、西欧文明における個人主義を徹底して非難し、排除しようとしていることはすでに見て来たが、この書は、「和の精神」の名のもとに、個人という概念を退け、一人一人の人間が「個人」であることを自ら放棄して「生み生まれる親子の立体関係」という(本来、連続性のないうたかたの生成と消滅に連続性を持たせようとするのと同種の)神話的フィクションによって統御される国や家族といった集団に帰属することで、初めて人としての真価が発揮されると主張する。

『国体の本義』では、国家や家族という「生み生まれる親子の関係」という虚構の歴史から切り離された個人は、「所詮本源を失った抽象論」として無意味・無価値な存在として一蹴される。その根底にあるのは、結局、人類は集合体となって初めて「命」や「働き」が生まれるのであって、バラバラの個人という概念はもとより存在しないとする般若心経と同じ無常観である。
 

『国体の本義』、第一 大日本国体、三、臣節、忠君愛国 より抜粋

個人は、その発生の根本たる国家・歴史に連なる存在であつて、本来それと一体をなしてゐる。然るにこの一体より個人のみを抽象し、この抽象せられた個人を基本として、逆に国家を考へ又道徳を立てても、それは所詮本源を失つた抽象論に終るの外はない。」


ここまで見て来ると、個人をフィクションとして集団の中に埋没させ、集団をリアリティとするこの種の思想は、日本の敗戦後も決してなくなるどころか、むしろ、現在に至るまで、日本社会に連綿と受け継がれ、強力かつ無意識的に社会に根を張り、社会全体を隠れたところから支配する原動力となっていることが分かるのではないだろうか。

今日、三島由紀夫のように、死によって永遠と一体化しようとする者はそうないであろう。しかし、その数歩手前で、日本国民の大半が、個人としての自分の存在を自ら滅却し、自己を集団の中へ埋没させ、集団と一体化することが、自分の使命であるかのように思い込み、自己放棄という「緩慢な自殺」を遂げている。彼らは「バラバラの個人」というものは存在しない虚妄の概念であるとみなし、集団に帰属して初めて自己の価値が生じると思い込み、「孤立は死である」などと言って、集団から切り離されることを病的なまでに恐れながら、SNSでのやり取りにやみつきになったり、官庁や、会社や、学校などの集団の中で、自己を放棄しようとむなしい努力を重ねている。そのようにして自己を滅却して集団の中に溶け合うことこそ、麗しい「協調性」であり「和」の精神の美徳であるかのように信じ込み、集団から追放されないことだけを是として生きている。同時に、集団の側からも、「麗しい美徳」としての集団との一体化を拒むような個人が出て来ると、徹底的に攻撃し、その存在を無化しようとする。

このように見ると、なぜ日本には民主主義が真に根付かないのか、その理由もおのずと見えて来よう。最近では、安倍政権の腐敗に絡めて、外国人記者から次のような警鐘が鳴らされたことも記憶に新しい。
外国人からみて日本の民主主義は絶滅寸前だ  森友スキャンダルが映す日本の本当の闇」(東洋経済オンライン 、レジス・アルノー:『フランス・ジャポン・エコー」編集長、仏フィガロ東京特派員2018/03/23 16:35)
外国人特派員が森友「公文書改ざん」に見た日本の深刻な病──この国みんなが“民主主義のお芝居”を演じているだけ?」週プレNews2018年04月05日、仏紙「ル・モンド」東京特派員、フィリップ・メスメール記者へのインタビュー)
 
民主主義とは、そもそも国家などの組織や集団の重要な意思決定を、その組織の構成員(人民、民衆、大衆、国民)が行い、構成員が最終決定権(主権)を持つという制度である。それゆえ、民主主義が成立し、正しく機能するための前提として、まずは個人の意思決定権というものがれっきとして存在しなければならない。

ところが、以上のような日本社会に古来から蔓延するグノーシス主義的無常観は、個人という存在さえ認めないため、個人には決して意思決定権を与えず、個人が自己存在を集団に明け渡すことにより、自らの意思決定権までも集団に委ねてしまうことを要求する。

日本社会にあるのは、依然、個人を出発点とせず、全体を離れた個人という概念を「単なる抽象論」として退け、個人が細胞のように集まってできる「全体」としての「体」の「和」だけをリアリティであるかのようにみなす思想である。個人の意思決定よりも全体の「和」の方がはるかに重視されるのである。その意味で、日本の民主主義は、まさに見せかけだけの概念でしかない。


・「和の精神」とは、頭(精神)による統御を失って自己目的化した「体」に同じ

しかし、このように個人を否定して出来上がる集団に働く「和」の正体とは、一体何なのだろうか。

以上の般若心経の解説では、体は理性とは無関係に、無意識的に動き、人間の意志決定とは無関係に自己防衛的に条件反射して生きており、そこに重要性があるとされる。精神の働きなど、厄介なだけで、自然に身を任せて本能的に生きた方が楽になれると言いたげである。それが人間にとってあたかも正常な状態であるかのように述べ、その考えを集団にまで高めようとする。

だが、そんな考えが正しい結論とはならないだろう。これまでの記事で再三、見て来たように、人間の体は、精神によってコントロールされて初めて正常に機能する。あまりにも強い精神的ショックを受けた人が、自動的に心臓が止まって即死してしまうこともあり得るように、心臓の鼓動も、精神の統御に服していないわけではない。人間存在は、意識していようといなかろうと、必ず、意志のもとに統御されている。

精神のコントロールに服さなくなった体は、ちょうど脳死状態になった植物人間の体と同じである。司令塔としての「頭」を失ったも同然であり、もはや人としての正常なあるべき姿とは到底、言えない。

そこで、個人の存在を「あぶく」のようなものとみなして個人の意志決定権も認めず、個人には生成も消滅もないとしながら、個人が寄り集まって出来る組織や集団にだけは、「命」や「働き」が生まれ、「和」が生み出されるとする思想は、まるで脳死状態にある人の体と同じである。

なぜなら、そこでは、個人の存在もその精神の働きも幻想であるとみなされているため、体全体を統御する意思決定権を持つブレーンが事実上存在しないからだ。そのような集団は、脳が死んで、精神が抜け殻となって生き続けている体と同じである。

体は、脳が死んだからと言って、バラバラに分解することはなく、未だ何らかの「和」を保って生きているように見えるかも知れない。だが、精神のコントロールがなくなった体は、ただ自己保存のためだけに、本能に従って生き続けるだけである。精神が生きているうちは、人間の体は、決して体のためだけに生きることはない。体は主人である人間の意志に従い、自己や他者の必要を満たすために行動する手段でしかない。人間は体を使って他者と関わり、他者に影響を与え、他者に奉仕し、他者との関わりの中で生きる。しかし、精神が死ねば、人は植物状態も同然となり、体は自己保存だけを目的に生きるようになる。もはや他者との関わりはなく、自己表現もなく、すべての活動が、ただ体を生き永らえさせるという目的のためだけに続けられる。体は体としての本来の役割を失い、自己目的化して、ただ己の欲求を満たすためだけに生き続けることになる。

個人の意思決定権を認めない組織は、このように脳が死に植物人間となった体と同じであり、そこに働く「和」とは、結局、体に働く肉欲と同じ、人類の本能的な欲望の総体なのである。「和」と言えば聞こえは良いが、それは結局、知性によるコントロールを退けて、精神の統御が効かなくなった集団の本能的欲望の総体なのである。

グノーシス主義が、個人の内側で精神と肉体との関係を覆し、肉欲を無制限に解放することを目指す危険な教えであることはすでに見て来たが、それが集団に適用されると、集団のレベルでも同様のことが起き、集団における意思決定の方法や所在がどんどん曖昧となる代わりに、歯止めのない集団的な欲望の暴走が起きる。
 
日本の政体における「誰も責任を取らない」摩訶不思議なシステムは、まさに以上のような思想を土台に生まれて来るのだと言える。個人が責任を取るためには、まずは個人が組織の中で重要な意思決定権を持ち、自らの決定に対して責任を負うという発想がなければならないが、グノーシス主義的無常観に貫かれる日本の社会には、個人という概念が存在せず、個人の意思決定権もほとんど認められておらず、結果的に個人ではなく集団が最終的な意思決定権を持ち、集団が最終責任者となる。

最も下っ端の部下から上長まで果てしない人数の人間が承認印を押さねばなならない役所の決裁文書などは、それを表す格好の事例で、そのように多数の人間が承認印を押すことで、結果的に誰が意志決定したのか、責任の所在が無限に分散されて、最後にはすべてが「組織全体の決定」ということになってうやむやにされて終わってしまう。責任を追及しようにも、責任者が事実上いないも同然の仕組みが出来上がるのである。

そのような意思決定権の所在が不明かつ不在の組織は、脳のない体と同様、いざその「体」としての組織があらぬ方向へ向かって暴走し始めたときに、これを制御できるブレーキとしての司令塔が全く存在しない。だからこそ、我が国においては、このような無常観に基づき、かつて軍部の独走やら軍国主義化やら無謀な戦争への突入などといった事件が起きて来たのである。

それは我が国という「体」が、個人を個人として認めず、個人の意思決定権を奪い去り、それを集団に明け渡させて、脳の機能を破壊・放棄して、体の自己保存だけを目的に、果てしない欲望に従って生きた結果として起きたことである。

しかしながら、その教訓もむなしく、今日もかつてとほとんど同じ出来事が進行中である。我が国では、政・官・民・財界すべてが協力して、金儲けだけを第一として危険な原発推進に突き進んだ結果、取り返しのつかない事故が起きてもまだ引き返すことができない。総理夫人は権限もないのに国政に口出しし、首相は国会で虚偽答弁を繰り返し、政治家の汚職と腐敗が官庁に及び、官僚も汚職に手を染め、公文書を改ざんし、経済界は労働者を奴隷的に使役・搾取してその富を内部留保するか国家に貢ぐだけとなり、戦争放棄の憲法を食い破る形で、武器は海外へ輸出され、国内では安保法制や秘密保護法が敷かれ、共謀罪が制定され、カジノが解禁され、自衛隊は海外の紛争地域へ派遣され、国会議員が自衛隊員に脅しつけられ、シビリアン・コントロールは脅かされ、あらゆる場所で秩序の転倒が起きている。
 
今日も見えない「和の精神」の名のもとに追求されているのは、集団に働く人類の欲望の無制限な解放であり、それに歯止めをかけるブレーキの役割を担う知性はとことん軽視され、排除されている。我が国では、あらゆる組織や集団から、政権に逆らう個人が追放され、社会的に抹殺されており、そうなった結果、再び国全体で、良心のブレーキが全く効かなくなり、歯止めのない欲望の暴走が起き、国が再び丸ごと「虚無の深淵」に今しも飲み込まれようとしている最中である。

確かに、外国人記者の言う通り、我が国の民主主義はもはや完全に死に体なのであり、これが精神によって統御されることがなくなり、脳の機能を失って体の欲望だけが無制限に解放された「美しい国」の辿る当然の末路なのである。むろん、「美しい国」という概念における「美」が、見せかけだけの内実のない悪魔的な美であることは言うまでもない。

今や我が国では、国会も今や半ば機能停止し、国家レベルで、脳死状態が進行しつつある。それにも関わらず、「体」という集団だけは、己が欲望に突き動かされて未だゾンビのように歩き回り、ただ自分が今を生き永らえるだけでなく、永遠にまで到達しようと、果てしない欲望を募らせている。

三島由紀夫は戦後の日本社会を侮蔑しており、我が国は戦後、天皇という「かしら」を失ったために、正常な目的意識を失い、自己目的化して生きるようになったとみなして憂慮していた。「などてすめろぎはひととなりたまひし」という三島作品に登場する怨霊たちの叫びも、脳を失った体の漂流に対する危機感から来る叫びであると言えなくもない。

だが、集合体としての人類という「体」に対する真の頭首権は、三島が考えたように天皇にはなく、真の頭首権を有しておられるのは、「ひととなられたイエス」である。

聖書の神は、「わたしはある」と言われる方で、人類のためには一言も発しないグノーシス主義の虚無の深淵とは何の接点もなく正反対の存在である。聖書の神は、虚無の深淵ではなく、まごうかたなきリアリティであり、しかも、人格を持ったお方であるから、人間の弱さに同情できない方ではなく、人類の救済のために、独り子なるイエスを人として地上に送られ、現実的な解決策を自ら打ち出された。神ご自身が、神であるという姿を捨てて、卑しい人間となって地上に来られ、しかも、「肉において罰せられ」、人類の刑罰を身代わりに受けられたのである。
 
グノーシス主義は人間が自ら永遠と一体化するという「下からの解放」を唱えるが、キリスト教は徹底して神の側からの「上からの救済」を唱える。すなわち、イエスが人間となって地上に来られたがゆえに、これを信じる一人一人の信者は、地上にあるままで、罪のゆえに悪魔によって支配される滅びゆくアダムの奴隷状態から抜け出て、自分の人生に対する自己決定権を取り戻して自由にされるのである。

この神を信じるために、人は肉体を破壊して虚無の深淵と一体化する必要はなく、むしろ、キリストの十字架を信じるだけで、神の方から人の内に自ら住んで下さり、人と共に人自身とその周りの世界を治めて下さる。

こうして、滅びゆくだけであった人間は、キリストと共に死んでよみがえらされ、有限なる「あぶく」に過ぎない人間の中から、真のリアリティが生まれる。人の悩みも苦しみも、もはや存在しないと言われることはなく、全体から切り離された個人が虚妄であると言われるどころか、取るに足りない存在であるその土の器の中で、はかりしれない神の命の力が働き、人の内でも転倒していた秩序が回復され、霊が魂を治め、魂が肉体を治めるようになる。
 
ところが、グノーシス主義は、被造物が神になり代わっているために、「神」の概念が骨抜きとなり、神不在となって、その空席に、虚無の深淵が横たわっている。その虚無の深淵に、人間を救う力はなく、そこに映し出される「神の似像」としての人類の姿は、見れば見るほど、むなしく、惨めで、無きに等しいあぶくのような姿である。

グノーシス主義は、被造物が神になりすましたために、神がもとより不在であればこそ、人の苦しみに対して、何の救済策も提示することができず、そこにいる「神」は、人の苦しみをどこまでも傲然と上から目線で見下ろすだけのもの言わぬ深淵であり、それ自体がフィクションである。

グノーシス主義は、神と人との断絶を認めないがゆえに、どこまで行っても、人間にとって「自分しかいない独りよがりな物語」である。そうであるがゆえに、この思想には永遠の堂々巡りという悪循環からの出口がなく、それを終わらせるには、自己存在を滅却する以外に手立てがないのである。
 
グノーシス主義は、人間が聖書における神の側からの救済を退け、自力で救済に至ろうとすると、どういう結末が待ち受けているかという残酷な事実を如実に表す思想である。結局、神をどのようにとらえるかが、人の生を決定するのであって、神をフィクションや虚無とみなせば、結局、人間自身も虚無となって消えるしかない。

我が国をかつて破滅の淵まで至らせたのは、まさに個を認めないグノーシス主義的世界観であり、「和の精神」などといったものが、徹底して個人への蔑視、人間存在への軽視の上に成り立っていることに気づいて、個人を出発点としてすべての物事を考え直さない限り、我が国では何度でも同じ破滅が繰り返されるものと思われてならない。


・グノーシス主義における「智慧」(グノーシス)の本質は、人類と悪魔による神に対する嫉妬と怨念である

ところで 、平安(涅槃)の境地に至るための悟りの智慧を表す訳語であるはずの「般若」は、今日、嫉妬と怨念に狂って鬼と化した女性の顔を表す能面の呼び名になっているが、それも以上のことを考えると、不思議ではないように思われてならない。


(般若の面「面友会」のページから転載)


  
 「般若の面」という呼称が定着したいきさつは、一説では、般若坊という能面師が作った鬼の面の評判が高かったことによるとされるが、その真偽のほどは定かではない。
 
また、能楽の謡曲『葵上』の中には、『源氏物語』の登場人物である六条の御息所が、嫉妬に狂った怨霊となって、源氏の寵愛を受ける葵上の前に現れるシーンがあり、そこで六条の御息所の怨霊が般若経の読経によって成仏させられることから、それにちなんで能面自体が般若と呼ばれるようになったという説もある。

ちなみに、『源氏物語』も、グノーシス主義的な無常観を表すものであって、文字通りにとらえるべき物語ではないと筆者は考えている。そこでは、光源氏という人物が「ゆく河」にたとえられ、登場する女たちは、現れては消える「うたかた」の役目を果たしている。光源氏は、無常観である虚無の深淵が擬人化された存在であって、源氏が美男子として描かれていることも、被造物を神とするグノーシス主義的世界観に一致する。

源氏を取り巻く女たちにとって、彼はあたかも「神」のような存在であるが、その「神」は、人間がどんなに手を伸ばしても、手に入れることのできない、実体のない虚無の深淵のような「鏡」であり、偶像でしかない。その「神」は人間を救済することができないため、人がどんなに神を見いだそうと、「鏡」を覗き込んでも、そこに映る自分の姿を見つめれば見つめるほど、ますます弱く惨めな存在である自分自身を発見し、満足を得られず、自分には手の届かない存在への嫉妬と怨念を募らせるだけである。

六条の御息所が怨霊と化すという筋書きも、本質的には、被造物を神とする人々が、「神」を独占してこれと一体化したいと願い、それによって、むなしい「あぶく」の立場を抜け出ようと願いながらも、思いを遂げられないで滅びゆく無念を表していると言える。

このように、当ブログでは、仏教における「般若」も、グノーシス主義における「グノーシス(叡智)」と本質的に同じで、その起源は、悪魔が人類に吹き込んだ、人類を神と同一視する悪魔的な知恵であるとみなしている。その知恵は偽りであるから、彼らの言う平安の境地も存在しないフィクションである。

そのように考えると、「般若の面」が「嫉妬と怨念に狂った鬼女」の顔をしていることは、全く不思議でない。そこに描かれている「鬼女」とは、脆く儚い「うたかた」であることに我慢ができなくなり、悪魔にそそのかされて、神に対する嫉妬と怨念を燃やし、自ら神になり代わろうとして「神を簒奪する」ことを悟りの境地であるかのように偽る人類そのものの姿だと言えるのである。

鈴木大拙は、東洋思想には「母を守る」ことがその根本にあると述べたが、東洋思想が目指している究極の目的は、グノーシス主義と同じく、「ソフィアの過失を修正する」ことである。つまり、「被造物が神になる」ことによって、被造物の罪を覆い隠し、正当化をはかることなのである。

そこで、東洋思想における「母」とは、神に逆らったために楽園を追われた人類全体を指すと同時に、あらゆる制限から自分自身を解放しようとする人類の欲望それ自体も表す。それは「子」らを自分の欲望をかなえる道具として支配し、集団からの自立を決して許さない「イゼベルの霊」(怨念)とも同一である。
 
三島作品の真の主人公が「怨念」であることはすでに述べたが、永遠を目指しながら永遠に到達できない滅びゆく人類という「母なる存在」が、自らの限界を前に発する無念の叫びは、主人公らの中でどんどん膨張して行く。三島作品の中で、怨念は主人公らを内側から食い破って、死に至らしめた挙句、ついに体も失った怨霊という形で作品の中をさまよわせる。

その怨念は、登場人物ばかりか、ついに三島自身をも内側から食い破って破滅させる。三島は、一方では自己存在を永遠にしたいと望みながら、他方では、自ら考え出した刑罰のような死によって、自分で自分の肉体を破壊し、それによって、「色即是空 空即是色」「是故空中 無色無受想行識」を自ら体現して、「彼岸」に到達しようと試みたのである。
 
むろん、私たちは、そのような方法で、人の魂が解放されることなどあり得ないことをよく知っている。それは、神風特攻隊として死んだからと言って、人が天皇と同化することもなく、まして「神になる」など不可能であるのと同じであり、人が自らの肉体を滅ぼしたところで、それで霊を解放して永遠の存在となれるはずもない。

そこにあるのは、ただ自分のためだけに、永遠の美と知識と満足を追求した結果、その高慢さによって、滅びの刑罰に定められた悪魔と同じ破滅の運命であって、グノーシス主義者がどんなに自らの死を解放に見せかけたとしても、その死は、実質的に刑罰も同然なのである。

こうして、人類の罪を認めず、神と人との断絶を認めず、人類が罰せられることなく自ら神に回帰することを正当化する教えを信じると、人はまるで脳を失った体のように、欲望に引きずられて地上をむなしくさまようだけとなり、神の概念が消えるばかりか、ついに人間も消えてすべてが無となり消失する。

三島が自らの最期に際して、自衛隊に向かってクーデターを呼びかけてそれに失敗し、割腹という手段を取ったのみならず、弟子に自分の首を切り落とさせたことも象徴的である。このような最期は、どこからどう見ても、罪人に対する最も残酷な刑罰以外の何物でもなく、三島が自分で自分を処刑したことを意味するだけではない。

聖書は、すでに述べたように、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者たちが、自らの「腹」を神としていると非難している。そこで言う「腹」とは、人類の欲望の象徴であり、さらに、三島が切り落とした「首」も、キリストの頭首権の象徴である。従って、首のない体とは、神の頭首権に服さなくなった集合体としての人類を意味し、裂かれた腹も、堕落した人類の体に働く罪深い欲望に対する神の裁きを物語ると言えよう。

三島は単なる小説家ではなく、グノーシス主義という反聖書的な偽りの福音を宣べ伝える宣教師であったからこそ、自ら宣べ伝えた恐るべき「福音」がもたらす当然の結末に従い、このような破滅的な最期を遂げたのだと言える。 


神に疎外された者たちによる神への復讐の哲学としてのグノーシス主義ー映画"MISHIMA"から⑥

・被造物を神とする思想が過剰なまでの美意識とナルシシズムを生む

さて、そろそろ映画"MISHIMA; A Life in Four Chapters"の分析を抜け出たいと考えているが、今回は、これまでの分析の総まとめとして、グノーシス主義における「美」とは何かという疑問について、さらに、グノーシス主義がなぜ個人の概念を認めず、集団からの離脱を許さないのかという問題について考えてみたい。
 
これまで、グノーシス主義は、被造物を神とする被造物崇拝(人類の自己崇拝)の教えであり、この教えは、「父なる神」を事実上のフィクションとしてしまうため、この教えを信じると、人は神を探し求める過程で、自己の像を見つめるしかなくなり、それゆえ、歪んだナルシシズムに陥って滅びるということを再三に渡り、述べて来た。

グノーシス主義は、人間は神の「似像」として創造されたとするが、グノーシス主義における至高神とは、それ自体が「鏡」であり「虚無の深淵」であって、本体を持たないため、結局、グノーシス主義では、「似像」として造り出された被造物の方が真のリアリティだということになってしまう。

それゆえ、この教えを信じる人々は、神を探し求めると言いながら、自分自身を見つめ、己を神とするしか手段がないが、どんなに鏡の中を覗き込んで、そこに映る自分の像を見つめて、神を見いだそうとしても、そこに神はおられないため、彼らはナルキッソスのように自分を映し出す虚無の深淵に吸い込まれて破滅のうちに消えて行くしかないのである。

しかも、ただナルシシズムのうちに絶望して滅びるだけではない。彼らは神を探し求めているうちに、「虚無の深淵」である「鏡」に自分の像を質に取られ、自分をどんどん乗っ取られながら喪失して行くのである。

グノーシス主義とは、弱い者が強い者を乗っ取るというヒエラルキーの転覆を果てしなく正当化する教えである。そこで、このような秩序転覆の教えを信じると、神と人との関係が逆転するだけでなく、男女の秩序も逆転する。そして強い存在であるはずの男性が弱い女性に飲み込まれて自己を喪失するということが起きる。神の助け手となるべく創造された人類と神との関係が壊れることにより、男女の正常な秩序も崩れるのである。

詩編には次のような箇所がある。

「人の子は何ものなのでしょう
 あなたが顧みてくださるとは。
 神に僅かに劣るものとして人を造り
 なお、栄光と威光を冠としていただかせ
 御手によって造られたものすべてを治めるように
 その足元に置かれました。
 羊も、牛も、野の獣も
 空の鳥、生みの魚、海路を渡るものも。」(詩編8:5-9)

ここに、人は「神に僅かに劣るものとして」創造されたとある。確かに、聖書において、人は神の形に似せて創造されたとはいえ、人類は堕落していなかったときから、神と同一の存在では決してあり得ず、人は神よりも弱く劣った存在として造られたのである。そこには明らかに序列があり、優劣があった。

しかし、この優劣はただ単に神と人との主従関係として理解されるだけでなく、人間に任された役割を示すものと理解できる。すなわち、神は霊であるが、人間を霊的な世界と物質的な世界の両方に接点を持つ者として創造され、神の代理人として、神が造られた目に見える万物を正しく治めるために創造されたのである。

いわば、人間は神が造られたこの世という庭の園丁のような存在でもあったと言えるかも知れない。被造物は被造物でしかなく、どこまで行っても、創造主にはなれないとはいえ、人は神と交流を持ちながらも、物質界の主人だったのであり、一つの世界を治めるべき存在として、神は人間に絶大な権限を与えておられたのである。

ここで神と人とは男女になぞらえられる。つまり、神はご自分の創造された物質的な世界を治めるための助け手として人を創造し、この世界を人の監督下に置かれた。何度も言うが、人類は、神に対して霊的に女性として創造されたのである。

ところが、グノーシス主義は、人類が神よりも劣った弱い存在であることを認めず、聖書の創世記において、蛇の姿をした悪魔が人類のもとにやって来て、神は人類を神より劣った存在に貶めるために、人類の知識と力をいたずらに制限しようと「善悪の知識の木の実」を食べることを禁じていると嘘を吹き込んだ。それがグノーシス主義の始まりである。

人類はこの時、悪魔の嘘を信じて神の掟を捨てて悪魔側に寝返ってしまったので、人類の堕落と共に、この世全体の統治権が悪魔の手に渡り、悪魔が人間を奴隷として従えつつ、「この世の君」となったのである。

グノーシス主義は、今日も、その時から少しも変わらず、神と人とがあたかも本来的に対等(同一)な存在であって、そこに優劣はなく、序列もなく、主従関係もなく、知識や力の差もないのが当然であるかのように主張している。

結局、この思想は、人類が神よりも劣った存在として創造されたこと、人類が被造物であって創造主ではないという事実自体に逆らって、人類を神と同一視しているのであり、それと同時に、人類が神の被造物として有限なる存在として創造されたこと自体に被害者意識を持っていると言って良い。

グノーシス主義は、もともと人類が神より劣った存在であることを認めていなかったが、その上、人類が神に逆らって罪を犯したために死に行く存在となって、永遠性から切り離されたので、罪に対する刑罰への恨みも、もともとあった神への被害者意識の上に増し加えた。

おそらく、そのような不当な被害者意識に基づき、神を悪者とする転倒した思想は、サタン自身がもともと神に対して持っていた思想を、そのまま人類に転嫁するために吹き込んだものと考えられる。

グノーシス主義は、別な言葉で言いかえれば、人類(被造物)の側からの、神への怨念に基づく神への反逆としての、神の乗っ取り(なりすまし)の思想ということになる。事実、人類は神ではないにも関わらず、その人類が自己を神と同一視することは、人類の側からの神の存在の乗っ取りやなりすまし以外の何物でもない。

このような転倒した教えを引き延ばして行くと、当然ながら、神と人との関係だけでなく、男女の秩序も破壊される。男性の側からは、女性は自分の「似像」(同一)であると主張して女性を支配しようとするが、他方、女性の側からも同じように自分は男性の「似像」であって、両者は本質的に「同一」であり、「対等」だと主張する。

その結果、神から神であることを奪った人類(男性)は、自分も弱い者(女性)から存在を奪われ、弱い者(女性)に同化させられ、飲み込まれて消え失せる。聖書の創世記において、エバがまず最初に「善悪知識の木の実」を食べ、次に夫であるアダムをそそのかして自分と同じ違反を犯させた様子を見ても、この時点で、すでに男女の秩序が転覆していることが分かる。男が自分よりも弱い女の言いなりになって誘惑されて独自の判断を失い、死に赴かされているのである。

むろん、こうした秩序の転覆は、男女の間だけでなく、人間社会における強者と弱者との間で果てしなく繰り返される。こうして、人類が神から神であることを奪い取って、自分が神になり代わることを正当化すると、人類同士の間でも、果てしなく弱い者からの強い者への乗っ取りが起きるのである。いわば、弁証法的唯物論の原型がグノーシス主義の中にあるのだと言えよう。

さて、話を戻せば、歪んだナルシシズムと並行して、グノーシス主義者の見落とせない特徴として挙げられるのは、過剰なまでの美意識である。

三島由紀夫が自分の美意識にこだわり、その美意識があるために、自分の肉体に対するコンプレックスを常に抱え、それを払拭するために、肉体を鍛えるなどして、何とかして自分の外見を自分の目にかなう「美しいもの」に変えようとしていたことは前回までの記事で確認した。

しかも、三島の場合は、ただ単に外見を美しくしようとするというありふれた努力で終わらず、自らを「永遠の美」の領域にまで高めようとしていたことを私たちは見て来た。自らの存在を永遠にするためにこそ、三島は自分が「美しいもの」になったと考えた次の瞬間、自分の美をそのまま永久に保存するために、死に赴いたのである。

むろん、死は残酷に彼の美を破壊して奪い去っただけで、何一つ保存などしなかったが、当の三島は、死を解放であると思い込み、それが滅びであるとみなしていなかった。我々から見ると、三島の死はまさに自ら造り出した刑罰に他ならず、凶悪な罪人に対する十字架刑のような残酷な死であって、およそ解放などと呼べる類のものでは決してない。

しかしながら、グノーシス主義者は肉体からの解放を、自己存在が永遠と一つに融け合うことだと考えているため、そのような霊的刑罰としての最も残酷な死でさえも、あたかも自己存在を高めるための儀式であるかのように錯覚しつつ、それに陶酔して行くのである。

このように、「宇宙全体と一つになる」という名目で個人を消失させることが、グノーシス主義の最大の破壊的マインドコントロールの効果である。グノーシス主義は、ウロボロスの輪のシンボルにも見られるように、創造と破壊という対極のものを一つに結び合わせるという錬金術的な詐術のもとで、永遠の循環という概念を信じているため、この思想において、死は終わりとはみなされていない。死は新たなる生の始まりのようなものでしかないとみなされているため、そこに個人の死という概念は存在しないのである。

もちろん、当ブログはそういう考えを完全に荒唐無稽とみなしているが、東洋思想の基盤には、すべての生命が滅びることなく永遠に循環するという偽りの概念が脈々と流れている。そのことは、サンダー・シングの教えの偽りについて分析した際にも見て来た。

このような循環あればこそ、美という概念が、彼らにとって極めて重要性を帯びるのだと言えよう。


・被造物が堕落したために、美はその本来的な目的を失って欺きの源となった

ところで、私たちは、女性が自分の美にこだわるならまだ分かるとしても、三島のような男性が、青年期を通り過ぎ、「いい年をしたおじさん」になってから、自分の外見的な美にそれほどまでにこだわり続けたことに、かなり奇異な印象を受けるかも知れない。

だが、そのようにして自分の美にこだわることは、グノーシス主義者には男女を問わず、共通して見られる現象であって、何ら三島に固有の現象ではないのである。当ブログでは、ペンテコステ・カリスマ運動の信者が常に、人前で、弱者の救済者のように振る舞ったり、同情心溢れる純真で貞潔な信徒を演じたりしながら、自分の美的イメージを作り上げることに腐心し、その美しい外観が傷つけられることに強い抵抗感を示すことを見て来た。

彼らは自分で作り上げた美しい自己像にあまりにも耽溺しているせいで、それが現実の自分からは遠くかけ離れた虚構のイメージでしかない事実さえ、もはや自分では分からなくなっており、認められないのである。

さて、クリスチャンが、聖書の中で、自分の美に固執し続けたのは誰かと尋ねられ、真っ先に連想するのは、サタンの存在ではないだろうか。なぜなら、悪魔こそ、自分の美に対して異常なまでの自信と執着を示し、自らの美と知識と繁栄のゆえにおごり高ぶって神に反逆した張本人だからである。

聖書の中では、悪魔の起源は明らかではないが、一般にキリスト教の教理では、悪魔は神に反逆して堕落した天使の一人であるとみなされており、しかも、天使の中でおそらく最高位の神に最も近い位にあったものと考えられている。

聖書では、サタンの神への反逆と堕落がいつ起きたのかは記されていない。それが天地創造以前の段階ですでに起きていたのか、それとも、天地創造以後のことであるのかも、聖書の記述の中からは明らかでない。しかし、エデンの園で悪魔が蛇の姿を取って人類をそそのかしにやって来たところを見ると、この時点ですでに悪魔が堕落していたことは明白である。

一般的に、クリスチャンの間では、エゼキエル書28章は、悪魔の神に対する反逆と堕落の一端を明らかにするものだと考えられている。むろん、この記述が悪魔に関するものだという証拠はなく、異論も存在するが、ここでは「ツロの君」に対する宣告に重ねて、悪魔に対する神の宣告が重ねて込められているという解釈が一般的である。その記述によれば、悪魔の堕落は、悪魔が自らの美しさと知識と、不正な貿易によって増し加えた富のゆえに慢心し、自分を神以上の存在であると考えたために起きたことが分かる。

「人の子よ、ツロの君に言え、主なる神はこう言われる、あなたは心に高ぶって言う、『わたしは神である、神々の座にすわって、海の中にいる』と。しかし、あなたは自分を神のように賢いと思っても、人であって、神ではない。 」(2節)

「それゆえ、主なる神はこう言われる、あなたは自分を神のように賢いと思っているゆえ、 見よ、わたしは、もろもろの国民の最も恐れている異邦人をあなたに攻めこさせる。彼らはつるぎを抜いて、あなたが知恵をもって得た麗しいものに向かい、あなたの輝きを汚し、 あなたを穴に投げ入れる。あなたは海の中で殺された者のような死を遂げる。

それでもなおあなたは、『自分は神である』と、あなたを殺す人々の前で言うことができるか。あなたは自分を傷つける者の手にかかっては、人であって、神ではないではないか。
あなたは異邦人の手によって割礼を受けない者の死を遂げる。これはわたしが言うのであると、主なる神は言われる」。 」(6-10節)

「人の子よ、ツロの王のために悲しみの歌をのべて、これに言え。主なる神はこう言われる、あなたは知恵に満ち、美のきわみである完全な印である。 あなたは神の園エデンにあって、もろもろの宝石が、あなたをおおっていた。すなわち赤めのう、黄玉、青玉、貴かんらん石、緑柱石、縞めのう、サファイヤ、ざくろ石、エメラルド。そしてあなたの象眼も彫刻も金でなされた。これらはあなたの造られた日に、あなたのために備えられた。

わたしはあなたを油そそがれた守護のケルブと一緒に置いた。あなたは神の聖なる山にいて、火の石の間を歩いた。 あなたは造られた日から、あなたの中に悪が見いだされた日まではそのおこないが完全であった。

あなたの商売が盛んになると、あなたの中に暴虐が満ちて、あなたは罪を犯した。それゆえ、わたしはあなたを神の山から汚れたものとして投げ出し、守護のケルブはあなたを火の石の間から追い出した。

あなたは自分の美しさのために心高ぶり、その輝きのために自分の知恵を汚したゆえに、わたしはあなたを地に投げうち、王たちの前に置いて見せ物とした。

あなたは不正な交易をして犯した多くの罪によってあなたの聖所を汚したゆえ、わたしはあなたの中から火を出してあなたを焼き、あなたを見るすべての者の前であなたを地の上の灰とした。
もろもろの民のうちであなたを知る者は皆あなたについて驚く。あなたは恐るべき終りを遂げ、永遠にうせはてる」。(12-19節)
 
エゼキエル書の以上の宣告の中には、「ツロの君」に対する宣告と、堕落した人類に対する宣告と、悪魔に対する宣告の三つの意味が重ねられているのではないかと想像されるため、それらをすべて別々に切り離して、どこからどこまでが悪魔に対する宣告なのかを明白にすることは難しい。

しかも、この記述は、悪魔のみならず、神に背いてエデンの園を追放された人類にも、随分、重なる部分があるように感じられる。

たとえば、創世記において、人がエデンを追放された場面にはこうある。

主なる神は言われた、「見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかも知れない」。そこで主なる神は彼をエデンの園から追い出して、人が造られたその土を耕させられた。 神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて、命の木の道を守らせられた。 」(創世記3:22-24)

この楽園追放の場面の記述は、「守護のケルブはあなたを火の石の間から追い出した。 」というエゼキエル書の記述に重なる。

さらに、「わたしはあなたの中から火を出してあなたを焼き、あなたを見るすべての者の前であなたを地の上の灰とした。」というエゼキエル書の記述も、「 あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、あなたは土から取られたのだから。あなたは、ちりだから、ちりに帰る」(創世記3:19)というアダムへの宣告に部分的に重なる。アダムが死んで火葬されたという話は聖書にないが、塵に帰るという表現は、灰になることとも似通っているからである。
 
以上の記述の中では、悪魔がかつてアダムのように肉体を持っていたのにそれを失って霊だけの存在になったのか、それとも、悪魔は最初から霊だけの存在であり、体を持っていなかったのかも明白ではない。

ただ悪魔が蛇の姿を取って人間のもとにやって来たという記述から、悪魔は霊的な存在であり、地上の被造物の中に住処を得て入り込み、人知を超えた方法で人間に語りかけることができるという事実が分かるだけである。
 
もしサタンが体を持たなかったのであれば、この目で見ることのできない霊的存在であるサタンに、どのような美が備わっていたのか、我々は想像することもできないが、いずれにせよ、以上の記述から分かるのは、サタンは己が美と知識と繁栄のゆえにおごり高ぶって神に対して逆らったために、特別厳しい裁きと滅びに定められたという事実だけである。

こうしたことを考えれば、聖書の神に対する反逆の教えであるグノーシス主義においても、美意識や美という概念が極めて重要性を帯びて来るのは不思議ではない。

ここで私たちは「美とは一体、何なのか」という根本問題について考えてみたい。そもそも、美というものは、それだけで成立するものではなく、これを見る者、愛でる者、鑑賞し、評価する者があって、初めてその真価を認められるものである。

そういう意味で、美とは、それを有する自己のためにあるというよりも、これを鑑賞する他者の満足のために備えられたものであると言うことができるかも知れない。

花は花自身のために美しく装うわけではない。深海の驚くべき生物たちも、空を飛ぶ鳥たちも、その瞠目すべき彼らの美は、明らかに彼ら自身の命のためだけに用意されたものではない。同様に、フェミニストたちは憤りを表明するかも知れないが、女性の美も、女性自身のためにあるわけではなく、これを見てその美しさを評価する他者のために存在している。その真価を最も評価できるのは男性であろう。

そうしたことから考えると、人間の美、そして、被造物の美とは、最終的には、これを創造した神の満足のために備えられたのであり、被造物自身の満足のためにあるのではないということが言える。

そして、神は決して人を外見だけで偏り見て評価せず、人の心を見られることも聖書には記されている。神が求めておられるのは、外見だけの美ではなく、外見と内面とが一致した、神への従順を通して自然に生まれて来る美しさだと言えよう。

そこで、もしサタンに美が備わっていたというならば、その美も、本来はサタン自身を満足させるために備えられたものではなく、神の満足に奉仕する目的で付与された性質だったはずであると言える。

しかし、サタンはその美を自分自身のために悪用し、まるで自分の手柄のように誇ったため、その瞬間に、サタンの外見的な美が、内面的な美と乖離した。サタンは神に背いて内面的な美を失っていたにも関わらず、外見的な美しさを誇り続けた結果、その美は、表面的でうわべだけの見せかけのものとなり、さらに、サタンに滅びの宣告が下されたことにより、その美は完全に実質とは正反対の欺きの性質となってしまった。

こうして見て行くと、美とは、被造物全般に共通する特徴であることが分かる。神に愛でられ、神の満足のために創造された被造物であるがゆえに、あらゆる被造物は、滅びゆく存在でありながらも、みな束の間の美を付与されていると言えるのである。

ところが、被造物全体が堕落したがために、サタンはおろか、被造物の美は、本来の正常な働きを失って、不幸の源となってしまった。被造物は、サタンと同じように、他の被造物と自らの美を競い合い、手柄のように誇りながら、自分の満足のために、自分の美に固執しつつも、一瞬でその輝きを失って滅んで行くしかない存在になった。人間の持つ美醜の概念は、それ自体が欺きとなり、偽りとなり、形容しがたい醜い争いを生む根源となった。


・グノーシス主義の美意識は、無常観と密接な関係がある

ここで、話が唐突に変わるように思われるかも知れないが、ここでグノーシス主義的な世界観と美の関係性について述べるために、「いろは歌」について触れておきたい。

日本人が誰でも知っている「いろは歌」は、中世から存在しており、平安時代にはすでに存在が確認されているが、誰がどういう目的で作ったのかは明らかでない。

この「いろは歌」には、単なる文字の学習という域をはるかに超えた深淵な無常観を表す思想が込められており、それ自体が、般若心経などと同じような「誦文(ずもん)=呪文」である。もちろん、当ブログの読者であれば、あえて説明せずともお分かりかと思うが、「いろは歌」に込められている思想も、やはりグノーシス主義である。そのことを確認するために、まずは「いろは歌」の解釈を確認したい。

 


(この達筆の書は「極楽浄土~浄土宗~仏教用語集」から借用)


色はにほへど 散りぬるを
(どんなに美しく芳しい香りを放って咲いている花も、すぐに散って枯れて行くように、すべての存在は束の間にしか存在せず、永遠性を持たない滅びゆくものである。[=諸行無常])

我が世たれぞ 常ならむ
(それと同様、人間がこの世の春を謳歌して生きていられるのも、ほんの束の間だけのことであり、人間存在も滅びゆくものであって、永遠ではない。[=是世滅法])

有為の奥山  今日越えて
(目に見えるものも、見えない心の有様も、何もかも束の間に現れては消える儚い幻想に過ぎないが、そのことが分かれば、この世の無常を乗り越えることができるため、 [=消滅滅己])

浅き夢見じ  酔ひもせず
(もはや儚い夢に浮かれたり、この世の苦楽に溺れたりもせず、この世の過ぎ行く有様を超えた平安な心の境地に至ることができる。 [=寂滅為楽] )



「いろは歌」が示しているのは、要するに、目に見える被造物の美しさも含めて、この世の有様のすべては幻のように仮初であり、すべての目に見えるものが、生成から滅亡への過程を辿っているように見えても、その本質は「空=無」であるという思想である。

さらに言えば、すべてのものが一時的でしかなくその本質は「空=無」であることを悟るとき、人々は心の中にあるすべての苦しみを超越して、自己と永遠を一体化させて無我の境地に至り着いて平安を得るという思想である。

この「いろは歌」は仏教思想の本質を表しているとよく言われるが、当ブログでは、仏教を含め、世界の本質が「無」であるというこの種の思想はみな根本的にグノーシス主義であるとみなしている。

つまり、「いろは歌」の中に込められているのは、万物の生成と消滅を一つの循環のようにとらえ、この輪の背後に巨大な永遠(=無)が存在するという思想なのであって、それはウロボロスの輪が意味するものと同じであり、さらに、『国体の本義』が説く「和の大精神」とも本質的に同じである。

すでに見て来たように、『国体の本義』が説くのは、我が国において、「天照大神」を始祖とする神話を継承する天皇家に始まり、先祖代々から人々が誕生と死を繰り返しながら全体として受け継いで来た「和の精神」によって、日本人は「天壌無窮」すなわち永遠に到達し、生成と消滅の「和=輪」の中で、「永遠の今を生きる」という思想である。

ウロボロスの輪がグノーシス主義の思想を表すシンボルであるのと同じように、「和の精神」という言葉や、「いろは歌」という呪文も、それ自体がグノーシス主義と本質的に同じ思想を表すシンボルなのだと言えよう。

(ちなみに、余談であるが、この「いろは歌」には暗号が隠されているといった話があり、その暗号を読み解くと「咎なくして死す」というメッセージが読み取れるという解釈がある。そのような説は江戸時代からあったらしいと思われ、それゆえ、いろは歌は、赤穂浪士の切腹を描いた人形浄瑠璃の題名に使われたり、柿本人麻呂の遺言や、菅原道真の無念が込められていると言った諸説が登場している。さらに、今日では、そこからもっと進んで、「咎(罪)無くして死んだ」者とは、イエス・キリストを示しているといった奇抜な解釈まで見られる有様である。
 



しかしながら、当ブログではこうした暗号の問題に立ち入るつもりはない。また、仮にいろは歌の中に、「咎なくして死す」という暗号が込められているとしても、この歌自体が、無常観という反聖書的な概念のもとに成り立っている以上、その暗号が決してイエス・キリストを指しているはずがないことは明らかであるものと確信する。

仮にこの「いろは歌」を暗号として理解したとしても、そこから読み取れる通低音は、やはり、「などてすめろぎはひととなりたまひし」という三島作品の叫びと同様に、「人類に罪はない! なのに神が人間を滅びに定めたのは不当だ!」というグノーシス主義に常なる滅びゆく人間の無念(被害者意識、怨念)の叫びだけである。)

「いろは歌」の中には「美」という概念がはっきり登場しているわけではないにせよ、そこでは「色」すなわち、この世の物質界の現象が一時的な形を取って現れる有様を「美」と同一視することもできよう。そう考えれば、美とはまさに永遠性を持たない一時的なもの、脆く儚いものの別名、代表格も同然となる。

そのように物質世界の諸現象が、脆く儚い有限な一時的存在として形を取って現れること自体が、グノーシス主義的な美の概念であるとも言えるかも知れない。言い換えれば、グノーシス主義における「美」には、確固たる存在の裏づけがないのである。

さらに、グノーシス主義の神話的プロットにおいて、唯一「醜い存在」として非難されているのが、ヤルダバオートおよび堕落したカインとアベルの種族であることを見ても、我々は、グノーシス主義における美醜の判断の基準が、「自分よりも上位の被造物の思惑を無視して自分にこだわること」と密接な関係を持っていることが分かる。

グノーシス主義が、被造物の間に貴賎を設け、カースト制のようなヒエラルキーを造り出すことを正当化する教えだということはこれまで度々述べて来たが、そのようなヒエラルキーは、グノーシス主義の神話においては被造物がどれほど至高者である神に近い存在であるかに応じて序列が定められていることに由来する。大田俊寛氏は、『グノーシス主義の思想<父>というフィクション』の中で次のように述べる。
 

これまでに述べてきたように、プレーローマ界に住まうアイオーンの神々は、すべて「深淵」である至高神から流出する。しかしながら、それゆえにすべてのアイオーンが平等の立場にあるかと言えば、実はそうではない。「(原)父」である至高神を見ることができるか、またそれによって自分自身を知ることができるかということに応じて、アイオーンたちのあいだには、暗黙の裡にヒエラルキーが設定されているのである。(『グノーシス主義の思想<父>というフィクション』、春秋社、p.126)


注目すべきは、このヒエラルキーは神と被造物の関係を指すというより、被造物同士の序列を指すことである。悪とは、このヒエラルキーを覆すことである。しかし、グノーシス主義における至高神は、物言わぬ深淵であるから、自分にたてついた者を罰するために出てくることもない。従って、そのヒエラルキーは、至高者の目から見たヒエラルキーではなく、被造物同士の序列だということができる。

グノーシス主義における美醜の概念や、善悪の概念は、このような被造物同士の序列と密接な関係があり、被造物の社会の序列の中で、「空気を読み、自分の分をわきまえて行動すること」こそ美(善)であり、「被造物同士の間で、自分の分をわきまえないで行動すること」が醜(悪
)なる性質であるかのようにみなされる。

ソフィアはヒエラルキーを犯したがそれを後悔して、自分の分をわきまえようとしたのでとがめられることなく、また、ソフィアの行為は、自分も至高神を知りたいと願っていた他の被造物全体の思いを代弁していたため、同情されることはあっても、罰せられることはなかったが、ソフィアの過失の結果として生まれたヤルダバオートは、周りも憚らず、「私は妬む神である。私の他に創造主はいない」と宣言し、自分だけが神であると述べて、自分よりも上位の他のすべての被造物に恥をかかせ、面目を失わせたために「醜悪な存在」として侮蔑と嫌悪の対象とされているのである(もっと言えば、ヤルダバオートは出生の段階から母であるソフィアに恥をかかせていた)。さらに、カインとアベルの種族も、己が欲望だけに邁進して流血と殺人を繰り返す種族であるから醜悪な種族なのだという。

早い話が、グノーシス主義では、神との間で被造物がヒエラルキーを犯すことは無罪放免される一方で、被造物の間のヒエラルキーを犯して自分の存在を絶対化しようとすることは、非常に醜悪な行為とみなされ、侮蔑の対象となるのである。つまり、被造物自身が創造主を差し置いて、善悪や美醜の判定者になってしまっているのだと言える。

そこから考えると、グノーシス主義における美とは、「被造物同士の序列の中で、個々が自分の分をわきまえて、自分を手放すこと」と深い関係があることが見えて来よう。端的に言えば、グノーシス主義は、被造物が「全体のために自分を捨てる」状態にあることこそ「美」(善)であるとみなし、序列を無視して自分に固執する状態を「醜」(悪)とみなしていると言っても良い。それだからこそ、この思想における美は、自己存在の裏づけを持たない、脆さ儚さと切り離せないものとなのである。

このような考え方は、次回でも触れるように、『国体の本義』に現れる「和の大精神」にも通じる。『国体の本義』は、個人の平等を認めず、社会の中に身分制度としての差別的ヒエラルキーをもうけ、その中で、人が「分をわきまえて行動する」ことで、全体の秩序(和)が保たれるかのように教えた。そして、個人はそのような差別的な序列に従ってこそ、その真価が発揮できるかのように説き、決して個人がそのヒエラルキーから離脱することを許さず、集団を離れた個人という概念自体を認めなかった。

グノーシス主義における「美」の概念は、このように差別的なヒエラルキーを守り抜くためにもうけられる「和」の概念と無関係ではない。それは被造物が創造主なる神に従うことによって保たれる美ではなく、むしろ、被造物自身が、神から盗み取って得た美であり、被造物同士が互いのヒエラルキーを保たせ、威信を保つための美である。

その「美」は、弱い者が自分よりも強い者のために自分を捨てながら、個であることを放棄して被造物全体と一体化することによって、初めて成し遂げられる「和」の一部である。

そうした思想の究極の形が、自分が無であること悟ることで世界と一体化するという仏教的な無常観、および、肉体からの霊の解放を救済とみなすグノーシス主義の思想の中に表れている。このような思想は、人が自己存在にこだわることをやめ、自分が生成し消滅する個としての命であることさえ否定し、自己存在が移ろいゆく不確かなものであるばかりか、本質的に無であることをわきまえ、自己存在をまるごと放棄して、永遠=無の中に身を投げる時に、初めて人と世界が一体化して全体の中の調和が取り戻され、被造物があるべき美を取り戻すのだと述べているに等しく、極言するならば、それは滅びと死の中に「美」を見いだそうとする倒錯した思想なのである。

別な言葉で言えば、その「美」は「哀れ」という感情とつながっており、命がヒエラルキーに従ってディスカウントされて完全性を失って行くことによって初めて得られるものである。こうした世界観では、あらゆる生命が死や滅びによって脅かされる儚く脆い存在であることを前提として初めてそれらの生命の「美」が成立するのであり、「美」とは本質的に「可哀想」という感情と一体化しているとも言える。別な言い方で言えば、滅びゆく被造物の無念とそれに対する同情という被害者意識に基づく感情自体が、美という形で表現されていると言えるのである。

日本人は「いろは歌」を通して、知らないうちに、世界の本質が無であるという思想に触れて、その世界観を無意識的に呪文として唱え、呼び出しているのであり、「いろは歌」に込められている無常観は、次回で説明するように、般若心経の中で、もっとはっきりと鮮明で凝縮された形を取って表れている。

<続く>