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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

村上密・杉本徳久の両名を被告とした民事訴訟(第一審)の総括(4)わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。

「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」(ヨハネ15:16)

さて、日曜はゆっくり休んで、週明けになると、風邪もどこかへ去っていた。
  
週明けから暗闇の勢力に対して、予定していた厳しい措置を実行する。被告に法的措置を取るため、書類をしかるべき機関に宛てて送付した。これで「命令」を「実行」するためのすべての書類手続きが整ったことになる。

これは判決を得た以上、避けて通ることのできない過程である。筆者が人生で初めて足を踏み入れる新たな厳しい領域だ。
 
訴訟で負けた人には、様々なデメリットが降りかかる。仮執行は控訴によって実行を遅らせることはできない。従って、判決によって抱えた債務は、早々に整理しなければ、社会的に多くの負の影響をもたらし、ますます増えていく可能性すらもある。

被告はかつて「一度、自分の口から出た言葉は後から消すことができないということがわかっていない。もし、それがネット上のものではなく紙媒体の印刷物であれば不可能である。」と書いていたが、その言葉は誰よりも彼自身に当てはまるものとなることを考えてみたことがあるのだろうか?

聖書には、
 
「人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです。」(ヤコブ2:13)

とある通り、自分が他者に対して憐れみ深く接した人には、憐れみ深い態度が返って来るが、それをしなかった者には、いずれ自分が他人に行ったことが、そっくりそのまま跳ね返ることになる。

バビロンの崩壊が、今始まった。
 
掲示板の読者は特にそうだが、これから被告に起きる事柄を、読者にはぜひしっかりと見ておいて欲しい。なぜなら、掲示板において、匿名で当ブログ執筆者に対する誹謗中傷を日夜重ねている者たちは、自分にだけは決して追及の手が及ばず、自分には苦しみは降りかかることはないと高をくくっているのであろうが、人物が特定されれば、だれでも同じような末路を辿ることになるのだ。

被告の今日は、掲示板の投稿者の明白であるから、警告としてよく見ておいて欲しい。そして、天に唾すれば自分の顔に落ちるように、自分が他人に向かって吐いた言葉は、いずれことごとく自分に返されることの意味をよく考えてみることをお勧めする。

彼らは自分には報いが降りかかることがないと確信しており、筆者が凡人ではないという事実を否定して嘲笑しているようだが、学者という職業の人々は、もともと物事を徹底して追及することに慣れており、またその方法論を知っている。掲示板に対しても、被告に対するのと同じように徹底した態度で臨み、必ず、権利侵害に及んだ人間に対しては、実名を公表の上、責任を追及することを予告しておく。
  
* * *

さて、筆者は今、思い出すことがある。それは筆者がアッセンブリーに所属していた子供時代に、キャンプで初めて村上密を遠目に見かけたときのことである。

あの頃、筆者は中学生で、村上は「先生」と呼ぶよりも、子供好きな「お兄さん」という若さで、筆者よりも少し年上なだけの子供たちを楽しそうに引率していた。

それを見て、筆者は「若い先生のいる教会はいいなあ」と考えたことを思い出す。筆者の所属していた教会は高齢化しており、筆者は子供心にも、教会が高齢化していることに寂しさを覚えていたのである。

その頃、村上密がどんな活動をしているのか筆者は知らず、筆者から見れば、村上はただ単にアッセンブリー教団に属する教職者の一人の「若い先生」であり、まさかその後、現在のような状況が起きるとは、予想だにすることもなかった。
 
そのキャンプでは他教会の人々とは話すこともあまりなかったので、筆者は大勢の人々とにぎわいを楽しむということはなかった。その代わりに、聖霊の存在を知り、おそらくその時、洗礼の決意を固めたのではなかったかと思われる。

キャンプの終わりに、証しをしたい人は名乗り出るようにと求められたので、筆者は手を挙げて講壇に立ってマイクを握り、何か証しの言葉を語った。何を言ったかは覚えていないが、生涯、神様に着いて行くつもりだといった決意を語ったように思う。そのキャンプに連れていってくれた引率者の信者(日曜学校の先生)が嬉しそうに頷いていたことを思い出す。

家に帰って洗礼を受けると親に報告すると、深い感動が込み上げ、涙が出て来た。嬉しいというのとは違う。筆者に対する神の深い愛を感じ、その決意が、筆者の生涯を分ける決断になることを理解していたためである。

しかし、それから、家ではバトルが始まった。我が家の宗教は分裂しており、父はアッセンブリー教団にも疑問を持ち、子供を早くから教会に所属させることに反対で、そこで、当然、洗礼を受けることにも反対であったため、それを押し切って洗礼を受けるには極めて大きな代償が必要であった。

このように、筆者の人生には、子供の頃から、神に従うために、代価を伴う「エクソダス」の過程があった。ただ単純に信じますと言って、それですべてが成就するような安易な状況ではなかった。神に従うために、筆者はまず最初に、自分の家族の情愛や理解を、心の中で後回しにせねばならなかったのである。

その他にも、この世との別離もあり、子供としての筆者は、非常に大きな苦しみを耐えねばならなかったと言える。その上、筆者はアッセンブリーの教会生活には全く満足していなかった。教会生活そのものが苦痛に近いものだったと言っても良い。その当時の教会の様子について、改めて書く必要もないとは思うが、そこには大きな問題があり、真の信仰はほとんど見られない状況であった。筆者には、教会生活は人工的なもので、本物ではないという違和感が心に絶えずあった。

だが、その頃から、筆者は、教会と信仰は別物であって、死んだような礼拝とは別に、聖書の神御自身は生きておられるという確信が心にあった。そこで、教会生活がどれほど形骸化していようと、教職者がどれほど信用できない人々であろうと、そのことは筆者の内心に影響を与えなかった。むしろ、筆者はこれほど大きな代償と引き換えに、従おうとしている存在は、筆者の全自分を捧げるだけの価値のある方であって、筆者の人生は、その方のために聖別されて、とりわけられていることを知っていたのである。

筆者は子供の頃から、幾度か親に向かって、筆者の人生の終わりは必ず普通でないものとなるだろうという予測を語ったことがあった。それは決して非業の死を遂げるという意味ではない。ただ筆者なりに、神に従って生き、神に従って召されるという、殉教の予感であった。

だが、そういう決意も、大学生くらいになると散漫になり、ある時が来て、何もかもが一変するまで、筆者の生活は世人とほぼ同じであった。しかし、そのような生活をしている時でさえ、筆者は自分の人生の終わりは、完全に主のためだけのものとなること、自分のために何か特別な召しが存在するということを、心に感じることがあった。

そして、筆者に与えられた人生の最期の瞬間が来るまで、神の愛は余すところなく筆者に注がれているということをはっきりと感じたのである。

不思議なことに、殉教の決意などなく、信仰すらもあるのか分からない暮らし方をしていても、筆者は神を離れていたわけではなく、神も筆者を離れられなかった。従って、筆者は、自分が神を選んだのではなく、神が筆者を選んだのだということを、今でも確信せざるを得ない。人は、自分の歩みを自分で決めていると考えているが、それを決めておられるのは神である。そう考える他には説明できない、あまりにも数奇な事件が、筆者の人生には多すぎる。

さて、筆者の父親は、人間洞察力に関してはピカイチで、筆者の人間観察眼も親譲りである。(筆者は論理的な思考と冷徹な観察眼を父から、豊かな情感を母から受け継いだ。)

その後、筆者は2008年になって、他教会で起きたトラブルを解決する目的で、村上の教会に向かい、そこに親を呼んで村上と対面させたことがあった。

筆者の父が、その時に村上から受けた印象を後になって述べた。父はアッセンブリー教団の非や、キリスト教についての意見を述べる前に、村上と筆者では人間のスケールが合わないということを真っ先に指摘した。彼は言った、「あれはヴィオロンを相手にできる人間だと思わない。だから、すぐに(ヴィオロンの方から)離れて行くだろうと思った。実際にその通りになった」と。さらに言った、「初対面の人間に向かって、家族カウンセリングのために、実家を訪れても良いとか、やたら熱心に自分の活動や親切心をアピールするところに、かえってうさん臭さを感じた」と。

筆者はこの感想を聞いた時には、すでに村上の教会からもアッセンブリー教団からも完全に離れ去っていたので、この印象は正しいと感じた。そして、たった一度、1時間にも満たないくらいのごくわずかな時間、会話しただけで、相手の人間性を的確に見抜ける父の洞察力に感心した。

もちろん、それは世間知らずの若い牧師に比べて、この世でもまれながら生きて来た年長者としての正しい判断と知恵でもあったろうが、それ以上に、我が親族には、父に限らず、一人一人に、何かしら非常にシビアかつ不思議な観察眼が備わっている。
 
だだ、父というものは、やはり、自分の子供の人間のスケールを直観的に理解・把握していると言えるだろう。筆者のようなタイプの人間は、通常人に理解できる域をはるかに超えた、とらえがたい要素を持ち(これも親譲りだが)、これを理解し、受け止めるためには、並々ならぬ特別な資質が必要となる、ということを、父はよく知っていたのである。

だからこそ、村上密には、筆者のために何もできないで終わるだろうことを、父は最初から分かっていた。筆者のリクエストに応えるという形で、村上の教会を訪れはしたものの、村上が、自分は経験不足の未熟者でありながら、他人の家庭に僭越に口を出し、自力で他人の家庭を是正するために家族カウンセリングに取り組むなど、もってのほかだということを、よく分かっており、口にこそ出さなかったが、最初から全く相手にしていなかったのである。
 
それよりも、村上が他人の心を癒すこともできないのに、一体なぜ、何を目的として、信者に向けて熱心にカウンセリングなどを勧め、そこに家族までも巻き込んでいるのか、父はその真の目的がどこにあるのか、当初から非常に疑問に思っていたと語った。

それから後、村上の人間性は、今やすでに余すところなく明らかになっているので、言及する必要もないと思うが、筆者は時折、「ではどういう人間ならば、父の目に適うのだろうか?」ということを考えてみることがある。筆者の父は、信仰者ではないため、価値観は全く共有できないが、親として、この人間になら、子を預けても構わないという人物が現れれば、多分、一目でそれを見抜く洞察力はあるに違いない。

だが、それだけのスケールを持った人間とは、一体、どういう人物なのだろうかと、筆者は疑問に思う。そして、今のところ、地上のどの人間の中にも、筆者はそれほどの器を見つけたことがない。

筆者から見れば、日本人は特にそうだが、男性はあまりにもナイーブで傷つきやすすぎて、女性からの絶えざるサポートや励ましを常に必要としているため、非常に厄介で面倒な側面を持った存在である。

多くの男性は、自分が強くて、大きくて、頼もしい、懐の深い人間であって、か弱い女性をサポートできることを、心の誇りとし、自信とし、よすがとしているので、女性の方が自分よりも強いことが判明した場合、それだけで打ちのめされ、自分を否定されたように感じ、侮辱を感じ、憤ったりする。女性が自分を少しでも上回っていると感じただけで、もはや愛も消え失せ、憎しみだけが残ったりもするのだ。

それはちょうど多くの男性が、自分よりあまりにも身長の高い女性と連れ立って歩くことを嫌うようなものである。学校時代、筆者の級友の中に、190cmは身長があろうかという女生徒がおり、筆者はその人を容姿端麗だと思っていたが、彼女は色々な苦労があることを話してくれた。もちろん、自分に合ったサイズの服や靴を見つけるのに苦労するだけでなく、特に、男性からの妬みのような蔑み、嘲りがひどいと嘆いていた。

このように、ただ女性の身長が高いというだけでも、男性はコンプレックスを感じるらしいのだ。つまり、多くの男性は、すべての面で、自分が女性に優っていることを確認できなければ、それだけで、心傷つけられたように感じ、侮辱を感じる非常にナイーブな生き物で、少しでも自分が女性から「見下ろされている」と感じることに、耐えられないと言えるのではないかと思う。

筆者はこのことを考えると、多くの人々がこのようにまで傷つきやすく、心が脆弱で、自信喪失しているために、自分のあるがままを認められず、それゆえ、他者のあるがままをも認められない状態に陥っているということは、非常に不憫で気の毒なことであると思わずにいられない。

さて、心の身長などというものは、誰にもはかれないにせよ、筆者の場合は、たとえるなら、見えない心の身長は190cm以上(場合によっては、200cmくらい)あるかも知れない。だが、そうなると、そういう人には、世界が他の人々とは異なって見えるのは当たり前のことである。むろん、理解者が減って行くことも、同じ価値観を共有できる人が減って行くことも、当たり前のことである。

強い女性は、自分のスケールに見合った、自分を守り、かばうことのできる、より強い男性をなかなか見つけられないどころか、男性も女性も含めて、多くの人々から、いわれのないやっかみや差別を受け、かえって心弱い男性を守る側に立たねばならず、苦労することになる。自分よりも心弱い男性たちのプライドを考慮して、絶えず、自己の強さを発揮せず、弱いふり、かばってもらっているふり、気遣われるふりをせねばならない。

これは非常に大きな負担である。何をどう言ってみたところで、大は小をカバーできるが、その逆は成り立たないからだ。かばう側には立っても、かばわれることができないというのは、恐るべき孤独である。

だが、最近、神はそういうお方なのだということが分かって来た。神は私たちがあまりにも心のスケールの小さい人間であることをよく理解して、私たちのプライドを完全にへし折って、私たちが生きて行く気力をなくすことのないように、非常に気を遣いながら接している。強く、頼もしく、大きいからこそ、絶えず私たちの限界をかばうために、ひたすら忍耐して私たちにつきあうしかなく、時には私たちがあまりにも自分のちっぽけな心にこだわりすぎるのを見て、怒り、苛立ちながら、私たちが新たな一歩をやっと踏み出すのを待っていて下さる。これは途方もない忍耐だということが分かって来る。

さて、筆者の父は、人の人間的な器の大きさを直観的に見抜くことができる人だったので、筆者のような人間は、村上密のような人間に何とかできるような存在ではない、ということを確実に知っていたし、筆者もその通りだと考えている。

だが、これは以下にも書く通り、ただ単に人間のスケール云々という問題ではなく、私たちがそれぞれ何に立脚して立っているのかという問題を伴う。

村上と筆者の立脚点は、完全に対極にあり、それ だからこそ、この争いは、村上の勝利で終わらず、控訴審に持ち込まれたのであって、そこで一審判決は覆されることになる。理解ある裁判官が下した良識的な判断でさえ、神の目には完全でないため、覆されることになる。この争いに、決着をつけられるのは、神御自身である。

筆者は、神の完全なることを証明するために立たされた人間であり、その召しに立っていればこそ、主は筆者の願うことに応えて下さるであろう。

だが、このようなことは、筆者に限ったことではない。杉本徳久がかつて書いていた「干潟」に関する記事を思い出せば分かる通り、杉本も、かつて村上とは対立関係にあり、その当時に書いた、村上をほとんど偽預言者扱いせんばかりの記事を未だ掲載し続けている。
 
この「干潟」に関する記事で、杉本は、村上がカウンセリングを通して、人の心に溜まった「悪水」を抜けば、その人はハッピーになれると書き、自分の活動を、干潟を埋め立てる公共事業にたとえて自画自賛していたことを痛烈に批判し、干潟は断じて人の心に溜まった「悪水」などではない、村上は初歩的な思い違いをしている、と非難していた。

まさしくその通りなのである。

もしかすれば、地上には、一人くらいなら、筆者よりも強く、懐の深い、頼もしい存在はいるかも知れないし、あるいはそういう人々は、十人か百人くらいはいるのかも知れない。そういう人々によりかかれば、筆者の重荷は軽くなり、筆者はより悩みなく生きて行けるように思われるかもしれない。

だが、筆者は、誰か自分よりも頼もしい人間によりかかり、支えられ、理解され、慰められて生きたいとは全く思わず、それが幸福だとも感じないのである。

仮に肉の父の目にかなう人間が十人、百人いたとしても、天の父の目にかなうのは、御子ただお一人だけである。

従って、筆者は他のすべてのものと引き換えにしてでも、ただ真に完全で価値のあるものだけを掴みたいと願っている。

筆者が何を言おうとしているかと言えば、私たちにとって、孤独や悩み苦しみは、取り除くべきものではなく、それ自体が、神に通じる十字架の道だということである。誰か孤独や悩み苦しみを埋めてくれそうな人間に手を伸ばせば、手っ取り早くそういうものは、なくなるように思えるかも知れないし、それこそが人間の幸福のように考える人々がいるかも知れないが、それは根本的な誤りである。
  
そこで、子供の頃、キャンプで遠目に他教会の子供たちの楽しそうなにぎわいの様子を見たときのことを思い出すにつけても、あの時、あの孤独の中にあって、まことに良かったと筆者は考えている。

あの時、村上とその教会の人々は、筆者から見て「対岸」のようなところで、陽気に楽しんでおり、筆者は、こちら側の岸で、自分たちの教会には若い人々が少なく、子供も少ないので孤独だと感じていたが、それは何ら嘆かわしいことではなく、まさしくそれで良かったのだと思わざるを得ない。

これは筆者の所属していた教会が正しかったという意味でもなければ、アッセンブリー教団を肯定するものでもない。ただすべての状況の中に、神の御手が確かに働いていたということに過ぎない。

その頃から、筆者には様々な重荷、様々な孤独、言い知れない苦悩があったが、筆者は、そのようにして、世から取り分けられたことは、非常に良いことであったと考えている。

投獄されたパウロなどは言うに及ばず、ガイオン夫人も、ウォッチマン・ニーも、すべての信仰の先人は、必ず望むと望まざるとに関わらず、不思議な状況の巡り合わせによって、世から分離されるという過程を辿ったのである。

そこで、自分が孤独や苦しみとは一切、無縁の、心の「悪水」などとは一切関係のない、絶えず楽しそうなにぎわいの中で騒いでいられる「あちら側の人間」の一人であれば良かったのにとは、筆者は全く思わないのだ。

人のにぎわいからは離れた静寂の中に、神の選びと、愛に満ちた眼差しがあった。死んだような教会、心の通わない信徒の交わりとは別に、神は確かに筆者に対して、筆者自身の心の願いにこたえて、個人的に語りかけ、働いて下さった。むしろ、そのような環境があったからこそ、主は筆者に応答して下さったのだと言えよう。(これは断じてそのような教会にとどまり続けることを勧めるものではない。)

あの時、神ははっきりと、筆者にしか分からない方法で、あなたを選ぶとおっしゃって下さり、そのことを、筆者はすべての人たちの前で証し、そして、それが人生の極めて重大な一歩となって行ったのだから、それで十分なのである。筆者はとにもかくにも、見せかけでないもの、束の間でないもの、一番大切なもの、永遠に残るものを掴んだ。そして、筆者の心からの決意は、神に重んじられ、聞き届けられたはずである。

このように、神は常に人を荒野に導いて、ねんごろに語りかけられる。神が好まれるのは、見栄えのしない「干潟」であって、整然と整備された街並みとしての「公共事業」ではない。神は人の心にどれほど「悪水」がたまっていようと、そのようなことは決して障害とはみなされず、そのすべてを自分が受け止めることができるから、私のもとに来なさい、とおっしゃる。

むしろ、忌まわしいのは、神の目に、人が己を完全に見せかけようと、自分を飾り、自己浄化しようとして、自分には罪などない、悪水などない、問題などない、自分は聖い人間であって、豊かで、乏しいことはなく、むしろ、自分こそ、他者の問題を解決してやれる能力を持っているのだ・・・、などと己を偽り、思い上がりに陥ることなのである。
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キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。

「どころで、あなたは言うでしょう。「ではなぜ、神はなおも人を責められるのだろうか。だれが神の御心に逆らうことができようか」と。人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。
 造られた者が造った者に、「どうしてわたしをこのように造ったのか」と言えるでしょうか。焼き物師は同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、一つを貴くないことに用いる器に造る権限があるのではないか。

神はその怒りを示し、その力を知らせようとしておられたが、怒りの器として滅びることになっていた者たちを寛大な心で耐え忍ばれたとすれば、それも、憐れみの器として栄光を与えようと準備しておられた者たちに、御自分の豊かな栄光をお示しになるためであったとすれば、どうでしょう。

神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました。ホセアの書にも、次のように述べられています。

「わたしは、自分の民でない者をわたしの民と呼び、
愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。
『あなたたちは、わたしの民ではない』
と言われたその場所で、
彼らは生ける神の子と呼ばれる。」

また、イザヤはイスラエルについて、叫んでいます。
たとえイスラエルの子らの数が海辺の砂のようであっても、残りの者が救われる。主は地上において完全に、しかも速やかに、言われたことを行われる。

それはまた、イザヤがあらかじめこう告げていたとおりです。
万軍の主がわたしたちに子孫を残されなかったら、
わたしたちはソドムのようになり、
ゴモラのようにされたであろう。」」(ローマ9:19-29)

* * *

「神の霊によって導かれる者は皆、神の子供なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは「アッバ、父よ」と呼ぶのです。
この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、私たちの霊と一緒になって証ししてくださいます。もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。」(ローマ8:14-17)

* * *

 
本当は別の記事を書く予定だったのだが、非常に重要な話だと思われるものを先にまとめておきたい。

聖書の神は、愛されなかった者を愛される者と呼び、見捨てられた民を選ばれた民とされ、人の目から見て、最も無価値で、使い物にならないと判断されたものを大胆に用いられる。

モアブ人だったルツは、ユダヤ人からは祝福とは無縁の呪われた民とみなされていたが、キリストの系譜に加えられており、ダビデに夫を殺された上で、ダビデの妻とされたバテシェバもそこに加えられている。

キリストご自身が、「家を建てる者の退けた石が隅の親石となった。」(詩編118:22)と言われる通り、人に捨てられた石であった。御子の誕生は、誰もが知る通り、ベツレヘムの馬小屋、つまり、生まれた時から、主イエスはこの地上に居場所がなく、人間として数えられていなかったのである。そして、地上での生涯においては、神の独り子であったにも関わらず、十字架の死に至るまで、己をむなしくして、父なる神に従順に従われた。

このように、私たちの神は、人の目から見て、蔑まれ、全く価値のないように見える器を用いられる。むしろ、人の目から見て、有用性があると思われ、自分により頼んでいるうちは、神の目には全く使い物にならないのだと言えよう。

「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。
ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。


それは、だれ一人、神の前で誇ることが無いようにするためです。神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。」(Ⅰコリント1:26-31)

さて、筆者がキリストのみに身を捧げて生きたいと書く時、そこには、人間的な一切の力により頼みたくないという意味が込められている。

筆者にも、人間的に誇ろうと思えば、何がしかのものがあったであろうし、今もあるであろうが、キリストがそうであられたように、筆者は、世の前に一切栄誉を受けない生き方を願うのである。

ところが、このように書くと、ことさらに嘲り、怒り出す人々がいる。このような考えは、人類を拒むものだとか、男性の価値を認めないものだと言って、まるで自分が否定されているかのように、怒り出すのである。(一体なぜ彼らは自分とキリストを同列に比べようなどと考えるのであろうか?)

こうした人々は、おそらく、女性の価値は、男性に仕え、男性を満足させることにのみあると思いたいのであろう。特に、宗教指導者はそうである。彼らは信徒から仕えられることによってしか、自己価値を確認できない哀れな人々である。

自分が誰かからかしずかれ、敬われ、仕えられていないと、片時も、自分の価値を感じられない心貧しい人々は、自分の周りにいる信者がただキリストだけに従うなどと言い始めた日には、まるで妻に離縁されようとしている夫のように、半狂乱となり、何とかして、人間の指導者から去って行かないようにと、あの手この手で引き留めようとする。

この世の男性の中には、自分は女性よりも優れていると思い込み、ただそれだけを、自己のステータスと考える者たちが存在する。だが、それはちょうど、江戸時代の人々が、えた・非人を見下すことで、自分がつらく貧しい生活の中で、誰からも十分にかえりみられることもなく、抑圧されている不満を忘れようと、自分の思うがままに痛めつけられる下の階級を求めたのと同じことである。

だが、女性は、男性に属することで初めて価値が生まれるものではない。男であれ、女であれ、誰かよりも強く、優れているから、その人間に価値が生まれるわけではない。

キリストに属していなければ、みな人類は罪深い堕落した人間でしかなく、無価値なのである。

従って、私たちが、堕落した被造物としての限界から贖われる道は、自分よりも強い者に帰属することで、自分の弱く蔑まれたルーツを否定することにはない。

むしろ、主は、この世で無力で見下されている人々を常に積極的に選んで、憐れみの器として、ご自分の栄光を表そうとなさったのであるから、私たちは、そうして神の強さが現れる契機となった自らの弱さを蔑むどころか、むしろ、これを誇るべきなのである。

話が突然、変わるように思われるかも知れないが、かつてある女子フィギュアスケーターがオリンピックで困難なジャンプに挑んで派手に失敗し、それがトラウマになって、オリンピック恐怖症になった。

そのスケーターは、世界的な実力の持ち主であったが、多感な少女時代に自分の失敗を週刊誌で書き立てられて、無責任なオジサンたちに笑いものにされたことで、深い心の傷を負った。結局、それがトラウマとなって、二度とオリンピックに真正面から挑戦できず、その挑戦から逃げるように、未婚の母となった。

こうした事例は、心弱い女性が、自分よりも強そうなオジサンたちの無責任な冷やかしに負けてしまった典型例と言えよう。彼女が未婚の母になることを決断したのは、自分を笑いものにしたオジサンたちの眼差しを逆に征服することで、自分が受けた心のトラウマを否定的に乗り越えようとしたものと見られる。

しかし、このような方法では、トラウマを乗り越えるどころか、かえってオジサンたちの好奇な眼差しに負けて、自分の貴重な可能性をみすみす手放したことにしかならない。

確かに、十代の多感な少女を週刊誌でバッシングした連中は、極めて罪深い所業に手を染めたと言えるとはいえ、それでも、オジサンたちの眼差しには、本当に彼女を打ち負かすほどの力があったのだろうか? 答えは否である。

彼女にはその当時、ジャンプが決まりさえすれば、世界一になれる可能性があった。それはオジサンたちには逆立ちしてもできないわざであり、彼女は、それによってしがない連中の噂話など完全にものともせずに、足の下に踏みつけることができたのであって、オジサンたちの無責任な思惑などに振り回されず、自分の道を行くべきだったのである。

そして、目に見える遺産ではなく、目に見えない遺産を打ち立てることに心を集中すべきであった。それができていれば、一人の女性としての限界を超えるほどに大きな栄光を手にすることが出来ていたであろうし、ふさわしい人々との出会いもその先に待ち受けていたものと思われる。

さて、以上の話はもちろん比喩である。筆者がここで語ろうとしていることは、人類は、霊的に女性であるということである。その意味で、女性のみならず、男性も、女性と同じような弱さ、脆さ、不完全さを背負っているのである。

ここで言う、人類が霊的に女性であるとは、人類が神の宮であることを意味する。人類は神を迎えるための神殿であり、神の助け手として造られたという意味で、霊的に女性である。

こうした文脈で、人類は、男であれ、女であれ、みな自分一人だけでは決して完全にはなれない「女性性」を抱えている。すなわち、自己の不安定さ、不完全さ、弱さ、脆さ、有限性などの哀しみを抱え、絶えず自己の不完全性に脅かされて生きている。

そういう意味で、女性的な弱さは、何も女性だけの専売特許ではない。それは言い換えれば、人類全体の弱さ、有限性、不完全さそのものに通じるのである。

そこで、このような自己の不安定さ、孤独、弱さのゆえに、人類は絶えず何かにすがろうとする。特に、自分に弱さや不完全さや恥を感じさせた相手を憎みながらも、何とかして、自らの弱さを否定し、そこから目を背けるために、何とかしてこれ以上批判を受けまいと、その相手にすがりつく。だが、ほとんどの場合、そうして人類が抱き着く相手は、人類を辱めた悪魔なのである・・・。

この地上においては、弱い者が、強い者にすがりつき、その者の庇護を受けたからと言って、決してそれによって、自己の弱い本質を克服することはできない。

女性が一人でいるのは心細いと考えて、自分よりも強い男性の庇護を受けたとしても、その女性はそのことによって、いささかも強い者に変化するわけではない。

この地上における、男女の支え合いは、ほんの束の間でしかなく、必ず別離が来て、誰かが一人で取り残される。その時が来るまで、もしも弱い者が、強い者に全面的によりかかって生きていたならば、支えがなくなった時点で、倒れるだけである。そのようなものは強さではない。

人類も同じで、自分が霊的に女性であり、一人では立てない不完全な存在であるという弱さを、何とかして打ち消そうと、自分に弱さや惨めさを思い知らせた強い者にすり寄り、その者の強さに威を借りようとしたとしても、そんな手段によって、自己の弱さを克服することも、完全な存在になることもできない。

要するに、人類が、自ら宮であることを捨てて、単独で神のようになろうとしたところで、それは何ら人類が自己の弱い本質を克服する手立てとはならず、人類が霊的な「女性性」を克服して、自ら男性のように強くなる手段とはならない。

むしろ、神が願っておられるのは、人類がそのような方法で、自分で自分を何とか補強して別人のように強くなろうとすることではなく、弱いままで、信仰によって、その弱さの中に神の強さが注ぎ込まれ、本当の意味で、神と人との同労が行われることなのである。

ここに、なぜ今の「恵みの時代」に、人類は、神との完全な合一なしに地上に取り残されており、エクレシアは、花婿キリストを待つつつましい花嫁なのかという秘密がある。

人類は花婿を待つ花嫁のごとく、地上をつつましく生きており、花婿を待っている花嫁だからこそ、そこに孤独があり、弱さと、不安と、不完全さがある。

しかし、それは決して、悲劇的で絶望的な要素でない。なぜなら、「彼女」には、すでに花婿との婚礼という輝かしい栄誉が約束されており、信仰によれば、すでに花婿と結ばれており、彼女の孤独と不安は、いつまでも続くものではないからである。

それはちょうど愛くるしい若いスケーターが、自分の娘らしい楽しみを全て捨てて、ただひたすら試合で勝つために、わざを磨き練習に励むのと同じで、霊的な女性である人類には、まずは達成しなければならない困難なミッションがある。彼女の栄光と安息は、その達成の後にやって来るものなのである。

すなわち、自分の心の恐怖に打ち勝って、幾多の試練を乗り越えて、賞を勝ち取れば、その先に、ふさわしい栄光が待ち受けている。

そういう意味で、今日、エクレシアの美は、未完成の状態にあり、彼女はまだ大きな成果を勝ち取る試練の最中にある。それにも関わらず、彼女が自分が未完成であることを、まるで恥ずべきことのように思い、自分を完全であるかのように見せかけるために、他者から賞賛を受け、愛でられ、慰めを受けて、自己の人生に満足して立ち止まってしまってはいけないのである。

この聖なる花嫁なる娘が、栄誉を受けて満たされるのは、次の時代のことであって、そうなるまでに、通過しなければならない試練が幾多も残っている。

その栄誉を勝ち取る前に、聖なる花嫁が、不安に駆られて、一人ではいられないと、花婿たる資格を持たない、無数の無責任なオジサンたち(暗闇の勢力に率いられる堕落した被造物)に身を委ね、その賞賛を受けて満足してしまえば、「彼女」は、もはや前進して、定められた褒賞を勝ち取ることができなくなる。

しかも、そのようにして己が恐怖心に負ければ、彼女は勝負にも失敗した上、おそらくは、未婚の母になるしか選択肢はないであろう。なぜなら、その無責任なオジサンたちは、彼女の不安につけこんで、ますます彼女を辱めることしかできず、彼女のために、真にふさわしい庇護者となって、しかるべき家庭を与え、母子を庇護するだけの力が初めから全くないからである。

聖書に登場するバビロンは未婚の母である。なぜなら、バビロンには愛人はたくさんいるが、夫は一人もいないからである。

かくて、妻子を養う力もない無責任な愛人たちの甘言に耳を貸さず、彼らの庇護という名の辱めを拒んで、しかるべき花婿からの賞賛だけを待ち望むためには、花嫁なる女性の側にも、それなりの勇気と覚悟が必要となる。

その覚悟とは、自分が待ち望んでいる崇高な目標以下のどんなものでも、決して満足しないという強い決意である。そして、その目標へたどり着くまでの間に、どれほどの弱さや、恐怖や、心細さや、不安を感じなければならないとしても、自分は崇高な目的に値する人間であるから、必ずすべての試練をくぐりぬけて、目標に達することができると信じ、片時も、そこから目を逸らさないで、真っすぐに進むことである。

このように、望みうる最高の目標を心に抱き、それに達して賞を勝ち取るまであきらめない決意と、ただ一人なる聖なる花婿を待ち望むことの間には、密接な関係がある。

聖書を読み解くならば、花婿なるキリストが再び来られるまでに、教会(エクレシア)は非常に激しい試練を潜り抜け、これに打ち勝っていなければならないことが分かるだろう。

つまり、キリストは、信者がただぼんやり受け身に待ってさえいれば、再臨するということはなく、キリストの再臨は、教会の激しい努力と忍耐と苦難の末に、教会による暗闇の勢力に対する目覚ましい勝利の結果として初めて訪れるものなのである。

いわば、教会が信仰によってすべての苦難と試練を耐え抜き、信仰を立派に守り通したことへの褒賞のごとく、聖なる花婿はやって来るのである。

こういうわけで、人類史にはシンデレラ・ストーリーなるものはなく、霊的女性である人類は、自分が一体、誰を待っているのか、自分で決めなければならない。

「彼女」が獲得したいのは、誰の眼差しなのか。自分に真の栄光をもたらすことのできる神なのか、それとも、弱さと恥と貧しさしか与えられない悪魔なのか。

それは人類が自分自身で選び取る決断である。もしも人類が、一刻も早く安楽な生活が送りたいだけならば、これ以上、無責任で堕落した無数の連中に、好奇の目で見られることのないように、目指している高い目標をあきらめ、本気の勝負を捨てて、オジサンたち(世)に愛想を振りまいて、彼らを黙らせればよい。

しかし、それでは満足できず、本物の栄光にたどり着きたいと願うならば、世人の思惑は一切、気にせず、ただ自分が真に待ち望み、心から価値あると確信でき、自分に栄光をもたらすと信じられる目標だけを、ひたすら追い求め、まことの主人と呼ぶに値するただ一人の花婿が現れるまで、それ以外の誰にも心を傾けずに生きるべきなのである。

途中で目標をあきらめてバビロンとして堕落しないためには、エクレシアは、自分に栄誉を与えることのできない悪魔と暗闇の勢力の好奇な眼差しの前に、いささかもたじろがず、揺るがされることなく、ただ真実なる花婿なるキリストが、必ず、ふさわしい時にやって来て、彼女に賞賛と栄光をもたらしてくれることを心から信じて、ただ一人からの賞賛の言葉だけを求めて、信仰によって力の限り、戦い抜いて、勝利をおさめるべきなのである。

その戦いを乗り越えたとき、真に花婿が姿を現すのであって、教会はその時が来るまでに、すべての恐怖に打ち勝って、死の力を打ち破り、花婿に栄光を帰し、かつ共に栄光を受ける準備が整っていなければならない。花婿はそれまで遠く離れているわけではなく、信仰によって、すでに花嫁と一つとされており、神は人と同労して、十字架で打ち立てられた解放の御業を地上で実際として下さるのである。

従って、キリストの再臨は、人が受け身に待っていればやって来るようなものではなく、教会が自らの信仰によって勝ち取り、引き寄せるものであると言えよう。

神はエデンの園に人類を置かれたその時から、地上で起こる事柄を人類の意志に任せておられ、人の地上での生活は、人自身が自ら選び取って行くものとして与えられている。すなわち、教会史は、人類(教会)が自分を何者と考え、自分がどれほど高い目的に値すると考え、それに向かって必要な犠牲を具体的に払うかによって、結果が変わり得るものなのである。

そして、教会史においては、弱く、蔑まれ、見捨てられて、希望がないと思われた者たちが、かえって信仰によって大胆に強められて立ち上がり、自分よりもはるかに強いと思われる者たちを打ち負かし、悪魔のわざを打ち壊し、すべての恐怖に打ち勝って、主と共に、目覚ましい勝利を打ち立てる。そのように、この世で寄る辺なく貧しく弱い者たちが、信仰によって、主と共に、力ある富む者となり、大胆な勝利をおさめ、父なる神に栄光を帰することは、神の御心にかなうことなのである。
 
とはいえ、神は私たち人間が、非常に脆く弱い土の器に過ぎないことも知っておられ、私たちが耐えられないほどの試練に遭わせることはなく、ご自分を待ち望んでいる者たちを助けるために、速やかにやって来られ、遅れることはない。

そこで、当ブログに対して行われている陰険な嫌がらせに対しても、神は速やかに助けの手を伸べられるであろう。そして、聖なる花嫁エクレシアの使命をせせら笑ったバビロンとその愛人たるオジサンたちは、みな恥辱のどん底に突き落とされて終わる。

神の聖なる花嫁なるエクレシアをあざ笑い、神の教会に払拭しがたい汚点があるかのようにささやく者は、聖なる花婿ではなく、間違いなく悪魔である。従って、そのような者のささやきには、断じて耳を貸してはならず、彼らから好意を受けようなどとは、断じて考えてはいけない。

私たちは、数回転のジャンプで世界一を勝ち取ることはなく、むしろ、主と共に天に携え挙げられることを望んでいる。その日、聖なる花嫁は、「夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来る」(黙示21:2)。そして、花婿花嫁が共に再び地を踏みしめるとき、そこは新しい天と地となっているであろう。

それ以後は、神と人とが引き離されることはない。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に隅、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」(黙示21:3-4)
 
だが、今の時代はまだそのような安息の時ではない。私たちは、信仰によって、心の内では安息を得ているかも知れないが、実際に教会が花婿を得て安息すべき時にはまだ至っていない。エクレシアのためには、未来に言い尽くせない栄光が用意されているが、その日が来るまで、教会にはまだ労苦して果たさねばならない仕事が数多く残っている。そして、その労苦の実も、私たちが現に見ている成果ではなく、見えない天的な成果なのである。

現在、被造物が産みの苦しみを味わっているのは、目に見える成果を生むためではなく、死と滅びから完全に贖われ、朽ちない人であるキリストを上から着るためである。私たちの地上での労苦はすべて、手にすればすぐに消えてしまう目に見える束の間の地上的利益のためではなく、いつまでも永遠に残る天的な利益のためであり、要するに、すべては見えないキリストを生むための苦労なのである。

現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。

被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、”霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです。

見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」(ローマ8:18-25)


十字架の死と復活の原則―キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられている―

暗闇の勢力に立ち向かう事件は相当に進展している。聖書の裁判官とやもめのたとえのごとく、世にはしつこく訴え続けることで、初めて真実が取り上げられる事柄も多数、存在するのだと、筆者は、これまでの様々な戦いを通じて痛感して来た。

できるなら、聖書に登場するやもめのように、神をも畏れぬ裁判官を延々と説得したいとは思わない。それはあまりにも骨の折れる仕事だからだ。だが、高慢な役人、冷血な裁判官、あくどい弁護士、冷酷な上司、事なかれ主義の従業員・・・、ここに列挙できないほど、実にほとほと嫌になるような性格の人々を相手にしながら、筆者はこれまで幾度も自らの主張を訴えて、戦って来た。

その過程で、重要なことが見えて来た。相手がどんな性格の人間であれ、とことん真実を訴えて成果を引き出す秘訣が分かり始めたのである。

ところで、主イエスが語られた不正な裁判官とやもめのたとえを思い出す際、常に筆者の脳裏に思い起こされるのが、あるウクライナのおばあちゃんである。

筆者がウクライナの首都を旅行していた時のこと、我々の一行はまだ明るいうちに街の目抜き通りで警官に呼び止められた。パスポートを出せと言われ、出すと居住登録の書類に不備があるとけちをつけて来る。これは元共産主義国ではよくある言いがかりで、暗黙の賄賂の請求である。我々が抗議しても全く言うことを聞いてくれない。

ところが、その時、我々の一行と共にいた小柄で物静かなおばあちゃんが、突如、体全体から振り絞るような声をあげて、ものすごい剣幕で警官に食ってかかったのだった。

「あんたたち、恥を知らないの? 神をも畏れず、白昼堂々、こんな街中で、市民に何という言いがかりをつけるのよ! この人たちは私の大切な客人なのよ! まだ学生なのよ! 私たちの国の文化を学ぶためにやって来た大切な客人なのよ! 私たちはちゃんと役所に行って手続きもしたのよ! 書類に不備なんてないわ! 私の客人に、あんたたちに指一本、触れさせやしないわよ! 全く恐ろしい、世も末だわ! あんたたちみたいなならず者が、自分の小遣い稼ぎのために、白昼堂々、こんなコソ泥みたいな真似して、貧しい市民や学生に言いがかりをつけて最後のなけなしのお金まで奪い取ろうっていうの? 神はすべてをご存じだわよ! あんたらに良心の呵責はないの! こんな卑怯な真似していないで、さっさと自分のやるべき仕事を果たしなさいよ!」

・・・これは筆者の想像で、実際にはウクライナ語のため、おばあちゃんが叫んでいる内容は、ほとんど分からなかった。だが、それでも心は伝わる。ちょうど大斎期のシーズンで、おばあちゃんは水と黒パンしか口にしておらず、精進の最中だった。色々と宗教的な言い分がちりばめられていたことは分かった。

警官らは、おばあちゃんの圧倒的な剣幕にたじたじとなり、青ざめながら、後ずさりして、「いいか、今度、同じようなことがあったらな・・・」という捨て台詞を残して、我々から手を引いて、立ち去って行った。

おばあちゃんの圧倒的な勝利だった。

だが、何事も執拗に訴えさえすれば、成就するということはない。嘘も百回言えば真実になるということは決してなく、そういう考えは誤りである。真実でなければ、訴えても、嘘の岩盤を貫き通す強度がない。だが、もし訴えの内容が真実であるならば、あきらめず何度もとことん訴えれば、いずれ固い岩盤をも通過する。 

さて、今は事件の関係で詳しく記すことはしないものの、筆者はある記事を思い出している。

それは、筆者に長年敵対しているカルト被害者救済活動の支持者の一人が書いた「干潟は水が腐っているわけではない」という記事である。

「干潟は水が腐っているわけではない」の記事

残念なことに、この記事の著者は、その後、記事の中で自ら言わんとしていたことのはかり知れない重要性に気づくことなく、思索を途中でやめて、むしろその内容を否定して、180度、違う道を歩み始めてしまった。

しかし、筆者は今ここで、この記事の重要性に改めて言及しておきたいのである。

記事の著者は言う、干潟は、泥沼のように見えるため、外観が悪く、世間には全く有用性がないかのように誤解されがちだが、事実は全く逆で、干潟では、神秘的、奇跡的なほどまでに、環境浄化の作用が働いており、自然界の恵みある有用な働きがなされているのだという。

九州地方には世界的にも珍しい大きな干潟がたくさんある。その歴史的な発生の過程については今は省略するが、当時、この自然界の恵み豊かな由緒ある干潟を根こそぎ破壊しようとしていたのが、農水省が強行している大規模公共事業であり、その公共事業には、巨大利権を巡って、官僚、政治家、様々な業者などが群がっているという。

と、記事の著者はここでいきなり話題を変えて、プロテスタントのアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密氏の記事に言及し、村上氏の主張を批判する。

村上氏は、自らの記事の中で、公共事業によって、水が腐った地帯に過ぎない干潟が開拓されて、人工的に河川が造られ、水はけが改良され、穀倉地帯ができたことを素晴らしい成果であると述べて、干潟の悪水を抜くことを、人間の心の中にある悪水を抜くことになぞらえて評価する。

しかし、こうした村上氏の主張を引き合いに出しながら、記事の著者は、これを完全に的外れで不適切なたとえとして、痛烈に批判しているのである。

つまり、この記事の著者に言わせれば、干潟は水の腐った地帯などではなく、むしろ、生態系にとっては極めて有用な作用をもたらすものであり、このように長い時をかけて作られた歴史ある自然界の恵みをただ単に「無用なもの」と決めつけて破壊することで、根こそぎの環境破壊にいそしんでいる政府の公共事業の方が、実際ははるかに有害なのである。

記事の著者は、こうして「干潟=悪(旧体制)」、「政府の公共事業=善(新体制)」と決めつける村上氏のあまりにも短絡的で浅はかな理屈を完全に論破し、覆してしまう。そして、一見、人の目には無益かつ無用に見える見栄えの悪い干潟の中に、整然として人目を引き、有用そうに見える公共事業には全く太刀打ちできないほどに神秘的・驚異的な効用があることを訴えるのである。

その記事の著者が「権力」におもねることなく、また、見かけ倒しの成果に欺かれることなく、一見、力のない、不器用で、見栄えも悪い、見捨てられつつある、もの言わぬ「干潟」の側に立ってこれを擁護しているわけだから、胸のすくような主張である。

ところが、残念なことに、この記事の著者は、村上氏が、干潟の開拓の必要性を述べることで、それを人の心の問題(クリスチャンの心の問題)になぞらえていることを理解しつつも、自らの論理を最後まで推し進めて、干潟の有用性についての議論を、村上氏の主張に具体的に適用して、村上氏の主張の根本的な誤りや危険性に言及することとしなかった。

それどころか、この記事の著者は、この記事に対して早速、村上氏から抗議を受けたことを機に、あっさりとその抗議を受け入れ、自分には村上氏に対する敵意があったと反省の言葉を残して、この記事で始めていたはずの極めて重要な考察を自ら放棄・封印してしまい、むしろ、その後は、まるで村上氏の代弁者か、同氏の活動の宣伝広報係のようになって、それまでとは正反対とも言える道を歩んでしまったのである。

暗闇の勢力は、こうして人の心に芽生えた重要な気づきを常に邪魔するものである。その後は、ご存知の通りであり、この人物は、カルト被害者救済活動の支持者の一人として筆者にも深刻に対立・敵対するに至っている。筆者から見れば、村上氏にいいように利用された上、すべての責任を一身に負わされて、切りすてられようとしているのである。

だが、この人物の見解がどうあれ、筆者はその記事で始められた考察のしっぽを取り上げて、それを当ブログでさらに推し進め、その当時、口にされることのなかった結論を明らかにしたいと考えている。

一つ前の記事でも述べたことであるが、干潟についての以上の議論は、聖書における苦しみの効用というテーマとぴったり重なるのである。

村上氏は公共事業による干潟の開拓を肯定的に評価しながら、それを人の心になぞらえて言う。

「人の心も同じだと思います。悩み苦しみが心の中に流れ込み、行き先を失って、潟になっています。悩み苦しみが心の中に溜まったままだと、悪水ぬきが必要です。話を親身になって聞いてくれる人は溝や堀のような存在です。悪水のはけ口になってくれるからです。良くない聞き手は、悪水を逆流させます。悪水をぬけば、悩み苦しみも心の肥やしになり、その人の心を沃野にします。」

だが、本当にそうだろうか? 村上氏のこの記述はあまりにも浅薄に過ぎないだろうか。

何よりも、村上氏の言うように、人間の「悩み苦しみ」は、本当に人の心の中に溜まった無用な「悪水」でしかないのだろうか? しかも、「話を親身になって聞いてくれる」良き聞き手が現れることによってしか、その「悪水」のはけ口はないというのか?

いや、聖書は決してそのようなことは言っていない。

聖書には、神のために苦しんだ無数の霊的先人たちの生き様が記されている。だが、彼らは、周りに一人の理解者も、同情者もなく、ただ神だけが自分の苦悩を理解して、これを受け止めて下さるという境地を一人で切り抜けねばならなかった。

たとえば、正しい礼拝をしたのに、嫉妬のゆえに兄カインに殺された弟アベル、兄弟たちに妬まれ、エジプトに売られ、ポテパルの家でも苦難を受け、長く投獄されたヨセフ、一人で箱舟を建設し続けたノア、イサクを得るまで長い間、サラと共に忍耐せねばならなかったアブラハム、パロの家を捨てて民を率いてエジプトを脱出したモーセ、義人にも関わらず苦しめられたヨブ、ペニンナに苦しめられ、祭司エリにまで酒に酔っていると思われてたしなめられた不妊の女ハンナ、自分の息子にも裏切られ、数多くの苦難を耐えたダビデ・・・

主イエスご自身も、十字架に向かわれる時には、群衆に裏切られ、弟子たちにまで見捨てられ、神の御前にただお一人で苦難を背負われた。

それから、パウロの投獄、ステパノの殉教、その他、その他…、今ここで列挙することが不可能なほど、信仰者たちはみな神のために苦しんだのである。

一体、誰が彼らの苦悩の「良き聞き手」になって「悪水のはけ口」の役割を果たしてくれたというのであろうか?

そのようなことがおできになる方は、神以外には誰もいない。

聖書は、信者の悩み苦しみについて、決して村上氏のような主張をしておらず、むしろ、逆のことを言っている。

「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。

そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。」(ローマ5:1-5)

「つまり、あなたがたには、
キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。」(フィリピ1:29)

「今やわたしは、
あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。」(コロサイ1:24)

以上の御言葉は、まさしく「苦しみの効能」と言って良いものではないだろうか。

そして、聖書がこのようにキリストのために苦しむことを奨励しているにも関わらず、村上氏が、人間(信者)の悩み苦しみ(≒干潟の水)を、何かあるまじきもの、無用なもの、人の心に溜まった「悪水」のようなものとしてしかとらえず、それを「良き聞き手」(≒公共事業)が話を聞いてやり、心の外に吐き出させることで、「悪水を抜く」ことができるかのように考えている誤りこそ、同氏の誤ったカルト被害者救済活動のベースをなす考え方ではないかと筆者は思う。

このことは、カルト被害者の悩み苦しみをどのように扱うかという村上氏の手法の基礎をもなしている考え方である。

しかし、件の人物も、上記の記事の中で言う、干潟に溜まった水は、決して抜かなければならないような腐った「悪水」ではなく、見かけは泥水のように見えても、干潟の水の中では活発な光合成が行われ、浄化作用が起きているのだと。

同様に、筆者に言わせれば、人間の心の悩み苦しみも、心に溜まった悪水などでは決してなく、その凝縮された苦しみの中でこそ、活発な霊的浄化作用が起きているのである。

むろん、苦しみそのものが人間の魂を浄化できるわけではない。キリスト者の霊と魂を清めることができるのは聖霊だけである。しかしながら、それでも、苦しみがなければ、人間は誰しもすべての逆境を自力で切り抜けることができるかのような高慢な錯覚に陥り、真剣に神を尋ね求めることもなく、祈ることも、信じることもないであろう。

従って、自己過信に陥ることなく、神に従い、自分自身の力によって立つのではなく、真実、信仰によって、神の憐れみと助けによって生きることを学ぶためには、信者はどうしても苦難の中を通ることを避けては通れないのである。

目に見えるカウンセラーや、牧師や、教師たちに、安易に悩みを打ち明けたり、話を聞いてもらい、自分を理解し、慰めてもらおうと願わず、ただ神にのみ、自分の心のすべてを打ち明け、どんなに理不尽な出来事を通過しても、すべてを神の正しい裁きに委ねる時に、信者の苦悩が、神の直接のねぎらい、慰めによって報いられるのである。

誰にも打ち明けることのできない苦しみの中で、信者の魂が練られ、練達が生まれ、希望が生まれるのである。

筆者は一つ前の記事の中で、疑わしい教えを唱えるキリスト教系の団体を通過して来たことを決して後悔するつもりはないと書いた。

異端の教えというものは、空中をうごめく病原菌のようなもので、生きている限り、根絶することはできないが、免疫抵抗力を持つ健康な人にとっては、害にはならない。健康な人も、このような病原菌と共に生きることによってしか、免疫抵抗力をつけることができない。

信者は誰しも了解しているはずだが、我々はこの地上で堕落した肉体を持っている限り、完全に聖なる人となることはできない。クリスチャンの完全な聖化は、復活の時を待たねばならない。従って、完全なキリストの花嫁たるエクレシアは霊的には存在するものの、この恵みの時代(教会時代)に、目に見える形としては、決して存在することはできない。

そこで、我々がどんなに100%純粋で正しい教えを唱える教会や兄弟姉妹を熱心に探し求めたとしても、そのような存在を地上で見いだすことは、100%無理であると断言できる。我々はこの地上にいる限り、誤りやすく、未熟で、不確かな考えの兄弟姉妹や、教会にしか出会うことはできないのである。エクレシアはこの迷いやすく愚かで未熟な地上的な人々を通して、彼らの心の中にある純粋で熱心で揺るぎない信仰を通じて霊的に体現される。

我々クリスチャンは生きている限り、誤謬や、逸脱や、失敗から解放されることがない。そこに我々の悩み苦しみもある。むろん、このことは決して失敗や誤謬の言い訳とされるべきではない。だが、義のために苦しむこともあれば、自分自身の限界から来る失敗や弱さのゆえに、神に従いたいという願いとの間で葛藤し苦しむこともある。神の完全、神の聖を追い求め、どこまでも真実で正しい生き方を追い求め続けるべきではあっても、同時に、地上の不完全な存在であるがゆえに、神の願っておられる完全に至り着けない苦悩も存在する。

異端の教えに深刻な被害を受けるまで接触する必要はなく、そのようなことを勧めるつもりも筆者にはない。以下で記す通り、筆者がアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団から離れたように、誤った教えを唱えていると分かった団体からは、離れ去ることを勧める。が、だからと言って、我々が疑わしい教えを100%避けて、完全に正しい教えだけを受けて生きることも、地上にある限り、不可能な相談なのだ。

このことは、カルト被害者にも当てはまる。カルト被害者と呼ばれている人たちは、神を求める過程で、知らずに誤った教えに触れて、深刻な被害を受けた人々である。その人々の苦しみを自業自得と考え、自分ならばそのような愚かな失敗はしないと考えて笑う人々もあろう。

しかしながら、筆者は思うのだが、事の大小の違いはあれど、我々はみなカルト被害者と同じような失敗を通してしか、何が正しい教えであり、何が誤った教えであるのかを学ぶことはできず、正しい教えを識別する機会もなければ、判断力を養うきっかけも得られないのである。

だから、筆者は、そのように多くの痛みを経験しながら歩んで来た人々が、自らその痛み苦しみを恥じるがごとくに「被害者」と名乗る必要はなく、また、そうした苦悩を教会のせいであるかのように考えて、神に従おうと願った自分の信仰までも恥じる必要はない。むしろ、彼らが負った悩み苦しみは、信仰に立ち続けさえするならば、非常に有益な教訓として生かされうるものであり、何ら恥ずべきものでもなければ、あるまじきものでもない。

カルト被害者のみならず、信者の負った悩み苦しみにはどれも深い意義が存在する。問題は、カルト被害者救済活動に携わる人々が、被害者を募り、彼らが教会で受けた悩み苦しみを「あるまじきこと」のようにとらえさせることにより、神を求めて教会を訪れたことを後悔させ、信仰まで捨てさせようとしている点である。

誤解のないように断っておけば、筆者は決して我々が率先して苦しむべきだと言っているのではない。深刻な被害を負う前にきちんと対処すべき事柄は多くあり、打つべき手さえ打たずにただ悪魔のなすがままに翻弄されて苦しめられるべきと言いたいわけではない。

だが、人には自分でコントロール不可能な状況下で苦しみが与えられることもある。

たとえば、筆者は子供時代に、自分では決断することのできない状況で、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団に関わることになり、その後、この教団の理念が誤っていると見抜いてこれを離れる際にも、多大なる苦しみを経験した。

だが、今、筆者は、自分の人生を自力で操縦できなかったような子供時代に、この教団に関わったことまでも、まるで自己責任であるかのように考えたりはしない。

神はその当時から、筆者には分からない方法と、深いご計画を持って、筆者をご自分の民として召し、選んで下さっていたのである。そのことは、筆者だけでなく、筆者が子供時代に所属していた教会までもが、後々、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団から離れた事実を見ても、よく分かるように思う。

筆者が子供時代に洗礼を受けると決断した時、家庭内では大きな波乱があり、筆者は大きな苦難に遭遇した。その時、筆者の苦しみを理解する者は、家庭の中にさえ一人もいなかった。それにも関わらず、筆者の神に従いたいという決意は変わらず、それは決して牧師や家族から教えられた結果でもなければ、誰から強制されたものでもなかった。

このように、どの教団教派、どのような組織に属しているかといった問題を完全に超えて、筆者は自分の意志で、目に見える万物を造られた唯一の創造主である聖書の神に従って生きることを決意したのである。

今でも、その決意のことを考えると、感動とも何とも表現しがたい思いがこみ上げて来る。

その当時から、筆者の内心には、自分の人生がどのような終わり方をするのか、筆者の人生は神のために捧げられるのだというおぼろげながらの予感があった。子供時代から、筆者は幾度かそのことを口にしたものである。

筆者には、神のために負わねばならない多くの苦難があることが分かっており、実際にそれを負って来た。世人と変わらない生活を送っていた時代もあったが、それでも、筆者の人生はかならず、神の御前の単独者へと引き戻された。

神は筆者が子供時代から御名のために負って来た代償をことごとくご存じであると今も確信している。筆者自身にはコントロールできない、手の届かないところで起きたすべての事件についても、神がご存じであると思う。そうした事情のゆえに、筆者の受けた苦悩について、筆者を直接、慰め、ねぎらうことができる存在はただ神のみである。

神ご自身しか、そうした出来事が何のためにあったのか、何のために必要なことだったのか、判断できるお方はいないのである。

にも関わらず、村上氏は言う、

「悩み苦しみが心の中に溜まったままだと、悪水ぬきが必要です。話を親身になって聞いてくれる人は溝や堀のような存在です。悪水のはけ口になってくれるからです。良くない聞き手は、悪水を逆流させます。悪水をぬけば、悩み苦しみも心の肥やしになり、その人の心を沃野にします。」


この言葉は、村上氏が自分は「良い聞き手」だと自負しているがゆえに述べている言葉であろう。ある意味で、大した自信だと言える。

だが、その言葉とは裏腹に、村上氏は職務上、知り得た牧師や信徒の個人情報を、あまりにも軽率に取り扱っており、あまりにも口の軽すぎる、信頼できない牧師・相談相手として、カルト被害者の間でさえ有名である。

村上氏はかつて自身のもとに相談にやって来たカルト被害者らの個人情報を加害者サイドの牧師に転送してしまい、それが発覚して、被害者から絶縁を言い渡されたこともあると、筆者は関係者から聞かされている。

また、村上氏は、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団を離脱した鳴尾教会の山田晃美牧師が、「統一教会に入信していた経歴がある」かのように自身のブログで吹聴しているが、鳴尾教会の公式ブログを読めば、山田牧師に統一教会への入信歴がないことは一目瞭然である。

にも関わらず。なぜ村上氏がそのような虚偽の情報を流布しているのかと言えば、鳴尾教会のブログによると、山田牧師が神学生時代に、(うっかり)身の上話として村上氏に統一教会の話をしたことがきっかけであるという。その際、村上氏の方から、山田氏の話を聞いて、「統一教会に入信していたことにはならないですね」と返答したにも関わらず、村上氏はその時に知り得た同僚の牧師の個人情報を歪曲する形で、デマの流布に及んでいるのである。

それは筆者に関しても同様である。本来、牧師は、自分の教会を訪れた信徒の個人情報を決して口外してはならないはずである。そのようなことは、カトリックの司祭が告解で聞いた信徒の情報を外へ漏らすのと同じくらい重大な職務上の倫理に抵触する行為である。

たとえ信徒が牧師と対立して教会を去ったとしても、牧師は信徒の幸福のために祈るべきであって、自分に歯向かった信徒に報復を果たすために、信徒の中傷を言いふらすような行為は断じて許されるものではない。

にも関わらず、村上氏は、自身の教会に一度でも訪れたことのある筆者に関しても、作り話を公然と流布しており、さらに、上記の記事の著者である件の人物にも、筆者に関する歪曲された情報を提供して、筆者を中傷させることに一役買っていると見られる。

なぜなら、件の人物が公然と流布している作り話の中には、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の中でただ一人、村上氏以外にはそんな思い込みに満ちた誤った情報を作り上げることが誰もできないと分かっている不確かな情報が、数多く含まれているためである(この点については、いつかそれらの誤謬をまとめて記事にする時が来るのを待たれたい。)

もちろん、筆者に対して悪意を抱いていることが明白な人物に対して、故意に筆者の個人情報を提供したりするような人間が、通常のクリスチャンの中にいるはずがないことは明白である。

さらに言えば、聖書において、キリストが長血の女を癒されたり、足の不自由な人を立ち上がらせたり、悪霊につかれた人を解放されたりしたことが明白であるのに、病に陥ってもいない人間に向かって、おまえは人格障害だと宣言し、人格障害は生涯、治らない不治の病だなどと豪語するような人間が、クリスチャンでないことも明白である。そういう人間は、自分にとっては病こそが動かせない永遠のリアリティで、神の癒しなどは信じられず、信仰はかけらも自分にはありませんと白状しているだけなのである。
 
クリスチャンという存在は、たとえ自分がどんな病にり患することがあったとしても、神の癒しを信じることのできる人々であるが、それ以前に、病にかからないように守って下さる力が神にあることも当然ながら信じている。
 
話を戻せば、村上氏が、筆者に関する事柄のみならず、他の人々との関係においても、職務上知り得た同僚の牧師や信徒らの個人情報を、あまりにも軽率に公共の場所で言いふらしては、自分に好意的でない関係者の信用を貶めるために歪曲して用いている様子を見れば、果たして、このような人物が、「話を親身になって聞いてくれる良い聞き手」と言えようかという疑問が生まれるのは当然である。

むしろ、親身になって話を聞いてくれそうだという外見に欺かれないことの方が重要である。こうした怪しげな牧師や教師やカウンセラーに、「親身になって話を聞いてもらった」結果として、受けた苦悩に対する恨みばかりをより一層、深め、自分はダメな人間だからこんな誤りに陥ったのだなどとくよくよと考えて自分を恥じ、世人と同じようにそつなく生きることだけを目標として自己改善にいそしみ、神を求めて歩んで来た自らの人生の行程を恥じて、やがて信仰までも捨て去るようになるのでは、元も子もない。

このようにして、筆者は、人間の悩み苦しみは、村上氏の言うように、外へ吐き出すことによって浄化される「悪水」では決してないと考える。

人間の悩み苦しみは、そもそも「悪水」になどたとえられるべきものではない。悩み苦しみが心の中に凝縮される中でも、我々が、神を仰ぎ、御言葉の光に照らされて、霊的「光合成」を行うならば、その悩み苦しみの最中から、見事な霊と魂の浄化作用が働き、恵み豊かな神の御業を常に見ることができる。

そして、我々の魂の真の理解者、真の慰め主、ワンダフル・カウンセラーは、キリストのみである。にも関わらず、村上氏の言うように、キリスト以外の目に見える人間の中に、「話を親身になって聞いてくれそうな聞き手」を絶えず探しまわり、そうしてキリストを押しのけながら、あちらの教師からこちらの教師へと、まるで浮草のように移動し、一見、外側だけはきらびやかで有用そうな人間に安易に心を打ち明けようとして欺かれ続けることの方が、はるかに有害で危険である。

繰り返すが、信者の悩み苦しみは、腐った水などでは断じてない。悩み苦しみの中でも、キリストにすべてを打ち明け、御言葉の光に照らされて生きることさえできれば、心はいくらでも肥沃になり得る。悩み苦しみを持って生きることを不格好だと考え、見栄えが悪いがゆえに、そのような生き方は有害で無意味だと決めつける短絡的な考え方をこそ、見当外れな思い込みとして警戒しなければならない。

カルト被害者と称する人々の悩み苦しみについても同様である。一刻も早く悩み苦しみの外に出ることだけを目指している人は多いが、解決は、悩み苦しみそのものをあるまじきことと考えて退けるところにはない。

我々は自ら苦しみを望んだり、その中にとどまり続けようと願う必要はないが、自分にどうすることもできない理由で起きた苦しみまでも、自分の責任で起きたことのように考えて、何とかして自力でそれを解決しようと各種の試行錯誤を重ねたり、それを恥じたりする必要はない。

神に従う過程で、一人一人のキリスト者が歩んで来た道については、神がすべてをご存じである。そして、神は我々が地上で受けた損失を、補って余りあるほどの慰めを与えて下さることのできる方である。

「苦しみにあったことは、私にとって幸せでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」(詩編110:71)とある通りである。(共同訳では「卑しめられた」となっている。)

筆者は、干潟の驚くべき効用と同じように、苦しみのもたらす効用を言葉を尽くして説明することはできない。だが、筆者が苦しみを無用なものと決して思わないのは、そこに十字架の死と復活の原則さえ働くならば、苦しんだことをはるかに上回る慰めと喜びが用意されていることを知っているからだ。

神はキリストを信じて喜ぶことだけでなく、キリストのゆえに苦しむことも、私たちに恵みとして許して下さったのであり、一人一人のクリスチャンの苦難の中の従順を重んじて下さる。そうした従順を通して、キリストの苦しみの欠けたところが補われ、全教会のために豊な浄化作用が働くのである。

よって、筆者はキリストのゆえに苦しむことを恥じるどころか、それを喜びたいと思っている。むろん、世の中にははっきりさせなければならないことがたくさんあり、誤りは誤りとして明白にされるべきである。だが、本当の誤りは、疑わしい教えを吟味しながら、神に従おうとして来たクリスチャンの側にあるのではなく、そうしたクリスチャンの歩みを恥ずべきものであるかのように断罪し、信仰のゆえ、御名のゆえの信徒の苦難を無益で無様で不格好なものとして嘲笑しながら退けようとするカルト被害者救済活動の側にある。
 
筆者は、主の御名のために歩んできた道と、御名のために負った苦難に、何一つ恥じるべきところはないと確信している。そのために天には豊かな慰めと褒賞が待ち受けていることをも疑わない。


十字架における死と復活の原則―神の御前での単独者としての厳粛かつ孤独な歩みを決して忘れるな―

前回、キリストにある新しい人(栄光から栄光へ主の似姿に変えられて行くこと、復活の命による統治、命の御霊の法則)というテーマについて語る際、法則性はない、と書いたが、この点について改めて訂正もしくは補足をしておきたい。これまで繰り返し書いて来たことだが、「主と共に十字架の死と復活にとどまる以外には法則性はない」と。
 
なぜなら、ゴルゴタを離れること、キリストと共なる十字架の死の重要性から少しでも目を背け、これを過小評価したり、言及せずに通り過ぎることは、たちまち、クリスチャンを別な道へ逸らせる大きな危険性であることを、改めて思わされるからだ。

筆者にも、クリスチャンが低められること、主と共に苦しみを負うことについて、長々と語りたくないという衝動が生じることがある。そのようなネガティブな話題からは、いい加減、目を背けてもいい頃合いではないかと。しかしながら、そうした衝動や願望にははかりしれない危険がある。

主と共なる死からクリスチャンが卒業できる日など来ることは決してなく、キリストの十字架は、来るべき世においても永遠の偉業として打ち立てられている。だから、クリスチャンが、主と共なる栄光は欲しいが、死は負いたくないという衝動に安易に身を任せて、十字架の死について沈黙し、復活という側面だけを語ろうとすることは、極めて重大な危険としての背教に陥る最初の一歩なのである。

主と共に栄光を受けたいならば、主と共に苦難をも受けるべきである。高められたいならば、低められることにも甘んじねばならない。キリストと共なる復活の側面だけを重視して、死の必要性を少しでも過小評価することは、たちまち、我々キリスト者を違った教えへと逸らせる要因にしかならない。

実際に、幾度も書いて来たように、筆者の知っている多くのキリスト者たちが道を誤ったのは、彼らがキリストと共なる死の中にとどまることをやめて、ゴルゴタの装甲の外に飛び出し、主と共なる輝かしい復活の要素だけにあずかろうと願ったためである。そのために、彼らは自画自賛、自己顕示、自己宣伝、セルフを建て上げる道へと逸れて行ったのである。その結果、ついにはセルフを神とし、自分への恵みを受けるためだけにキリストを利用し、主イエス・キリストを否定するまでに至っている。

そのような誤りに陥らないために、たとえ生活の何もかもが順風満帆で、思わぬ苦しみや不幸のように見える出来事に全く遭遇することなく、自分の名誉が望まずして傷つけられたり、恥を負わされたりすることがなかったとしても、あえてゴルゴタの死の中にとどまろうとする姿勢がどれほど重要であるかを思う。

特に、人に誉めそやされたり、ありがたがられたり、重宝されるようなことがあれば、特別な用心が必要であり、そうしたどこから来たのかも分からない流れに持ち上げられ、流されることなく、主と共なる死の中に自らとどまろうとする姿勢は非常に重要である。

ゴルゴタは我々にとって最も堅固な要塞であり、装甲のようなものである。そこから一歩でも外へ出ることは、神の守りの外へ自ら出ることを意味し、その結果として、自分を守ることができなくなる。人前に、キリスト者ゆえの苦難を受けることを厭い、他人からのお世辞やお追従を好み、自画自賛や、自慢話に明け暮れ、自分を喜ばせる快楽(目の欲、肉の欲、持ち物の誇り)を好んだ人の中に、正常な信仰を維持しえた人間は、これまで一人もいない。そういう人間は、信仰を持たない世でも忌み嫌われるが、まして信仰者としては完全な失格者となる他ない。だから、我々はどんなに神の恵みが雨のように降り注がれたとしても、決してそのような道を行かないことを宣言する。

さて、筆者の家人や親族への義務はあらかた終わったことを思う。筆者は、束の間、地上の故郷に帰って来たが、それは地上の肉の絆を確かめ合うことが目的ではなかった。

キリストは公生涯の間、家を持たず、地上における職業を持たず、御霊の導きのままに歩まれた。だから、主がそうであれらたのだから、筆者は、地上の故郷を故郷と呼ぶことはもうないだろう。ここは伝道のために立ち寄った地の一つに過ぎず、そこが筆者にとっての真の故郷ではないからだ。
  
『ギルバート・グレイブ』という映画を知っている人は覚えていると思うがが、そこに、地上の家を離れることができないまま生涯を終えた主人公の母親が登場する。彼女の悲劇は、家から一歩も外出ができないほどまでに太ってしまった点にあるのか、それとも家から離れられなかった結果そうなったのか、どちらが先かを論じても仕方がないが、少なくとも家がもたらす精神的束縛(もしくは現実逃避)こそ、そのような結果を招いたことは間違いない。

地上の家というものは、多かれ少なかれ、そういうものだ。肉親の情愛はどんなに美しく飾られていたとしても、最終的には、人間を縛りつけ、また、現実逃避のための砦や繭となってしまう。

地上の故郷や、肉の絆にしがみつく人々は、家族や親子の情愛という麗しいヴェールで、生まれながらの自分自身の弱さを覆い隠そうとしているに過ぎない。それは、堕落した人間の自己欺瞞の手段であり、さかのぼれば、創世記において、罪を犯したがゆえのアダムとエバが、自分が裸であることを知って、己の恥を隠そうとして編んだイチヂクの葉に由来する(それがイチヂクだったのかどうかは定かではないが、筆者はこれを便宜上「イチヂクの葉」と呼んでいる。)また、弟アベルを嫉妬ゆえに殺して神から逃避するに至ったカインが、自分や一族を復讐の脅威から守るために築き上げた都市(要塞、城壁)に由来する。
 
筆者は、地上における家というものは、霊的には、このイチヂクの葉、カインの城壁と密接につながっており、それはすなわち、人間の滅びゆく命の防衛の砦としての地上の肉体の幕屋そのものを象徴しているように思えてならない。
 
人間の肉体は、その人自身の一部であると同時に、その人の脆くはかないアダムの命を持ち運び、これを守るための砦(幕屋、宮)である。

この宮は命を守るために存在する。しかしながら、人間の肉体は、朽ちゆくものであるから、宮を守る使命とは裏腹に、命を守るにはあまりにも不十分であり、脆く、弱い砦でしかなくい。宮だけでなく、肉体という宮によって守られている命そのものも、有限で儚いものである。そのような人間の命の弱さ、脆さ、限界は、罪から来るものであり、最終的には、罪の報酬である死が命全体を滅ぼし、奪い去ってしまう。

だが、そのように人間の命が脆く有限であるにも関わらず、生まれながらの人間は、己の罪を認めず、己の罪のもたらす当然の結果である己の有限性、弱さ、脆さを認めず、最終的には、死をも認めようとしない。
 
たとえば、三島由紀夫は、自らの肉体を鍛え上げることで、己の精神的弱さやコンプレックスを隠し、そこから目を背けようと試みた。三島由紀夫の人生においては、マッチョイズムによる自己からの逃避は、私営の軍隊の創設、盾の会といったより高度な形へと発展して行く。そして、最後には、自己を守るための「殉死」(結局は自己破壊)という、パラドックスに満ちた究極の結末へと至りつく。そこには、天皇を守るためという大義名分がついていたが、その根底にあるのは、生まれながらの人間の有限なる命への絶望感と、己の罪を否定して、己を永遠の存在に高めようとする願望であった。
 
天皇を現人神とみなすことで、三島が何とかして信じようとしていたのは、生まれながらの自己の命の永遠性である。天皇を神とみなし、それに殉ずることで、三島が永遠の存在へと高めようとしていたのは、他ならぬ自分自身であった。

三島は、生まれながらの人間とその美を愛するあまり、生まれながらの人間が朽ちゆくもろく儚い、滅びゆく存在に過ぎないという事実が認められなかった。彼は朽ちゆく人間の命を惜しみ、己の肉体を鍛えることや、目に見える人間を賛美することで、人間の命が滅びゆくものであるという事実そのものを、人類への冒涜とみなして否定し、アダムの命とそれを守るための砦としての人間を永遠とみなそうとした。肉体を鍛え、軍隊を創ることは、人間の有限性という事実を否定する手段であり、最終的には、自分自身を理想化し、これを永遠の存在として保存するために、自死という最期を遂げたのである。

さて、地上における肉による絆だけによって築き上げられる「家」というものも、筆者には、上記と全く同じ文脈で、人が地上の朽ちゆく有限な命と、その幕屋としての肉体を永遠とみなそうとする自己欺瞞の思想の象徴であるように感じられてならない。
 
すでに別な記事で幾度も論じたように、万世一系という神話を作り出し、天皇と臣民を一つの家になぞらえ、「家」を守るために、個人が自己の命を捧げることが、人の最高の使命であるかのように教え、親のために子が命を捨て、指導者のために部下が命を捨て、天皇のために臣民が命を捨てて、こうして、「家」を存続させることによって、人類が己の「神聖な」命を存続できるかのように教える考えは、結局、人が生まれながらのアダムの命の有限性を否定して、自らを永遠とみなそうとする偽りの思想から出て来たものに他ならない。

そうした文脈における「家」とは、通常の文脈におけるただの家を指すのではなく、偽りの神話に基づいて、生まれながらの人間の家系(=アダムに属する人類の血統)を神聖視・絶対視するために作り出された要塞であり、かつ神話である。人間には明らかな寿命があるため、人間の命が永遠でないことは、誰の目にも明白な事実であるにも関わらず、子孫が先祖に仕え、代々、家を守ることが人間の使命であるかのように説くことによって、この思想は、人間の命を血統になぞらえて不滅のもののようにみなし、アダムの命の有限性から目を背けて、人類という堕落した血統を神聖で永遠のものであるかのように讃えようとしているのである。

そのような考えで、もし個人を「家」を守るための手段とするならば、その時、その個人はもはや個人ではなくなり、実際には存在しない「神聖な家」の附属物か、もっと言えば、家の象徴のようなものへと変えられて行く。
 
そのようにして「家」と一体化した個人は、自らの意志を奪われた、偽りの神話の象徴となり、束縛された奴隷も同然になってしまう。万世一系などといった神話でどんなに飾りたて、どんなに不滅のもののように見せかけ、誉め讃えても、この偽りの思想は、その虜となった人間を滅ぼしてしまうだけなのだ。

『ギルバート・グレイプ』に存在する母親のように、人が自らの弱さ、脆さを隠すために築き上げる要塞としての家に束縛されてしまうと、その人間は、その偽りの安全から外に出て、現実に直面する勇気を失って、家と一体化してその象徴と化してしまう。その家は、人間の弱さや脆さと直面することを拒否する、同情や優しさに見せかけた様々な偽りの情に塗り固められて美化されてはいるが、実際には、人を縛りつける場所にしかならず、誰をも自由にはせず、幸せにもしない。

筆者は、今、我が国は曲がり角に来ており、大きな過渡期にあるものと思う。すなわち、敗戦後、我が国は、天皇を現人神とみなすことをやめ、象徴天皇制に移行した。官吏は天皇に仕える僕ではなくなり、公務員は国民の公僕とされた。しかしながら、この改革は非常に中途半端なもので、数多くの矛盾を抱え、数多くの点で、ミイラのような過去の残存物を内に抱えている。

すでに書いたように、憲法上の真の公務員の定義は、官僚を指すものではなく、選挙で選ばれた政治家を指すものであって、現在の官僚は、本当の意味での公務員ではなく、戦前の官吏の影のような残存物であって、勝手に公務員を詐称しているに過ぎない。さらに、天皇が国民の象徴として存続し続けることの矛盾は、天皇自身が退位を望んだという事実に何よりも明白に表れている。

筆者は、神と人とがつながるために、キリスト以外のどんな仲介者もあってはならず、牧師という役職は不要であると再三に渡り、述べて来たが、それと全く同様に、国民の象徴としての天皇という存在も必要ないと考えている。

すでに説明したように、カトリックのような、法王を中心とする聖職者階級を否定して、聖書の真理をすべての人々に解放すべく行われたプロテスタントの宗教改革は、結局、牧師を中心とする教職者制度を残したことによって、非常に中途半端で、かつ、矛盾だらけの改革に終わった。そして、当然のごとく、このように中途半端に教職者制度を肯定したことは、悪魔に口実を与えるきっかけとなり、その結果、牧師夫妻を「霊の父・霊の母」として崇めるような、全く聖書に反する異端の思想が、公然とプロテスタントに侵入して来る契機を作ったのである。

日本国憲法も、結局はプロテスタントに起きた現象と同じような、中途半端な過渡的改革を示している。敗戦後、天皇を神として崇める思想は否定されたものの、天皇制そのものは廃止されず、これが国民の「象徴」として残されたことによって、依然として、主権在民が完全に実現しないまま、改革は中途半端に終わったのだ。国民一人一人が完全に個人としての自覚や責任を持つには大きな妨げが残ったのである。

そして、天皇が「象徴」として残されたことによって、ただ未来への前進が中途半端に妨げられただけでなく、さらに、過去に立ち戻ろうとする動きにも口実を与えることとなり、戦前回帰などという愚かな潮流の出現も手助けされているのである。

そこで、以前も述べた通り、次なる時代が到来するためには、筆者は、プロテスタントもそうであるが、我が国の体制そのものも、この中途半端な「象徴」を取り除き、一人一人が完全な主権を取り戻し、個人が個人として生きられるような形式を整えるしかないと考えている。今はそのための過渡期・移行期であって、歴史を逆行して、天皇を再び現人神とすることによって、後退することが必要とされているのではなく、むしろ、天皇制を廃して、完全なる国民主権を実現することで、未来へ前進することこそ必要なのであり、もしも憲法を改正するならば、そのような前進の文脈でこそ、初めて意義が生まれるのである。

皇族や、国民の象徴という言葉は、いかにも偉大な響きを帯びてはいるが、実際には、天皇の任務は、考えられているほど尊いものでもなければ、美しいものでもない。そのことが、天皇の退位という問題をきっかけに、今になってようやく多くの人々に広く認識されるようになった。

象徴天皇制は、天皇自身に人権すら与えずに、一生、生まれながらに選択の自由もなく、象徴としての義務に縛りつけるような、残酷な束縛の枷にしかなっていない。

天皇自身がその矛盾に気づいており、象徴であり続けることに疑問を感じているにも関わらず、そんな制度をありがたがり、天皇の気遣いを受けることで、自分が満たされ、高められるかのように錯覚している国民がいるとすれば、その国民の方も、(まるで牧師の気遣いに依存する信徒同様に)全くどうかしていると言わざるを得ない。

他人に犠牲を強いることによってしか、自己の価s値を十全に感じられないというならば、その充足感は偽りである。たとえ高齢の天皇が退き、若い世代に道を譲る事で、新たな天皇を立てたとしても、生きた人間を「象徴」的存在に閉じ込め、自由な意志選択や自己決定権を奪うことの忌まわしさは何一つ変わるものではない。

それなのに、なぜ人間は、まるで金の子牛像を拝むようにして、常に自分の偉大さを証明してくれる、目に見える象徴を求め、目に見える自分以外の人間からの賞賛や支援や同情や激励の言葉を求めずにいられないのか。

そういう浅はか弱々しく自己本位な願望と訣別すべき時が来ているのである。にも関わらず、もしこれから先も、我が国の国民が、他者からの賞賛や激励や同情といったものを求め続けるならば、その美しい言葉を口実に、どんどん自らの自由と権利をかすめ取られて行くだけであろう。

そのような文脈での「象徴」としての任務が、光栄な務めであって、偉大な使命であると考えるのは間違っている。それは人間の依存心を助長し、自立を妨げ、無用な束縛を増し加えるだけである。

さて、話を戻せば、偽りの思想における「家」というものの欺瞞性に、筆者が言及したのも、以上と同じ文脈である。家系を代々、絶やさないことによって、家を守ることを人の最高の使命とし、それによって、人類の血統を永遠のものに高めようとする思想は、非常に忌まわしいものでしかなく、そのような文脈によって生まれる「家」というものも、何ら美しい存在ではない。
 
また、『ギルバート・グレイプ』の映画に登場する母親のように、分厚いたるんだ脂肪に包まれているだけの人間も、三島由紀夫のように、自らの肉体を鍛え上げることで、肉体美・筋肉美を誇る人間も、外見はまるで正反対のように見えたとしても、本質的には全く同じであり、両者ともに、生まれながらの人間の自己を神格化し、その考えに基づいて、人類という「家」を守るためのカインの城壁にしがみつき、束縛されているだけなのだ、という事実に気づく人は少ないだろう。

結局、この両者は、己の肉体にしがみつくことで、どちらもが地上の故郷である「家」へしがみつき、執着しているのである。象徴としての「家」を絶対視・神聖視し、それに自ら束縛されることで、己の有限性、弱さ、罪を否定して、現実から目を背けて、堕落した人類には存在しないはずの永遠に思いをはせているのである。その偽りの思想は、個人に個人として生きることを許さず、秩序を転倒させ、最終的には、個人を滅ぼしてしまう。
 
その結果、本来、家というものは、家族の成員を守るための屋根のようなものに過ぎないのに、この屋根を守るために、家族が命を捨てるという本末転倒な結果が生まれるのである。あるいは、肉体は、命を守るための砦に過ぎないのに、その砦を不滅のものとするために、人が自己の命そのものを滅ぼすという結果になる。こうした考え方を延長して行くと、牧師のために、あるいは教会組織のために、信徒が命を捧げ、企業を守るために社員が命を捨て、象徴天皇制を守るために、国民が犠牲を払い、あるいは天皇のために、もしくは国のために、再び国民は命を捨てよという思想が生まれる。

このような思想においては、何もかもがさかさまである。人間のために家があるのに、家のために人間が存在することにされ、人間のために肉体があるのに、肉体のために人間が存在することにされ、人間のために組織があるのに、組織ために人間があることにされ、国民のために国があり、天皇が存在するのに、天皇のために、国のために国民が存在することにされてしまう。
 
最終的には、そのようなさかさまの思想は、神と人との秩序を転覆させる。聖書によれば、本来、人間は、神に仕える宮であるのに、その宮に過ぎない者、被造物に過ぎない者が、主人である神を超えて、自らを永遠の存在として誇るという秩序転倒に至る。宮が主を超えてしまうのである。

その結果、パラドックスに満ちた現象が起きる。自らが神聖でないのに、神聖の領域に不法侵入した者が、打ち滅ぼされる。 自らが永遠でないのに、自らを永遠と宣言した者が、己を滅ぼし、それによって、自らが永遠でないことを逆説的に立証するのである。天皇のために「殉死」した三島もそうであったし、滅んだ「皇軍」もそうであり、家と一体化したまま死んだ母親もそうだが、結局は自殺としか言えない結末に至るのである。

こうして、腐敗した朽ちゆくアダムの命を神聖視し、滅びゆく不完全な地上の幕屋としての肉体にしがみつき、人間を滅びに導くだけの肉欲にしがみつき、朽ちるものに執着し、それに同情の涙を注ぐことによって、滅びゆく自分の堕落や弱さから目を背けて、自己を保存しようとする人間の自己防衛の試みは、究極的に、自己破壊という結果に至りつくだけなのである。

だから、家を自分の弱さから逃避するための手段として用いる人々もまた、自己の罪を隠すためのイチヂクの葉により頼んで生きているだけなのだと言える。地上の組織の強化や拡大にこだわる人間もすべてこれと同じである。

家にしがみつく人間も、企業の繁栄や、宗教団体の繁栄や拡大にこだわり、あるいは国家の強化や、軍備の増強を唱える人間は、すべて同一線上に立っている。それは決して十字架の死を経ることのない、アダムに属する人間の、生まれながらの自己(セルフ)を建て上げ、永遠に肯定したいという欲望の言い換えに過ぎないのである。
 
生まれながらのセルフの腐敗・堕落を隠すために、彼らはその覆いとしての宮(肉体、家、組織、国家)を賛美し、そうすることで、神に背いた人類の堕落した本質を隠しながら、被造物に過ぎない自分自身を、造物主以上に掲げて、神と宣言しているのである。

このように、神を口実にしながら、結局、神の地位をのっとることで、己を高め、神格化しようとするこの思想の傲慢さ、忌まわしさは、三島の「殉死」が、彼が最も崇めたはずの他でもない天皇の意志を無視して単独で行われたことにもよく表れている。どんなに天皇を口実に掲げていても、三島の最期は、現実の天皇の意志をまるで無視して行われた独りよがりなパフォーマンスに過ぎず、結局、三島が望んだのは、天皇を口実に持ち出すことで、自らを神格化することだけだったのである。

今、戦前回帰を持ち出して天皇を担ぎ上げ、讃えている人々がしていることも、全く同じである。天皇をありがたがる人々ほど、実際には、天皇自身の意志や人格などまるで尊重してはおらず、単に自己を高める口実として、他者を利用しているに過ぎない。

そして、プロテスタントの信者が牧師や教会組織にこだわる理由もこれと同じである。彼らは、自分たちの属する教会やリーダーを絶対視し、誉めそやすことで、結局、自分を偉大な存在に祀り上げようとしているだけなのである。家や家系を絶対視する人々もそれと同じであり、その根底にあるのは、常に自己を偉大な存在とする口実が欲しいという「セルフの神格化」の願望だけである。
 
真のキリスト者の願いや、目指す目的は、決して、以上のような人々と同じものではない。キリスト者の目的は、地上的な様々な象徴によって自己を強化し、武装し、己を高めて、神聖視し、それによって、自己の抱える本当の弱さ、愚かさ、罪深さから目を背けて、自分を偉大に美しく見せかけることにはない。我々にとって、真により頼むべきものは、そうした地上的なものではない。

だから、冒頭のテーマへ話を戻すと、もしもクリスチャンが、主と共なる十字架の死にとどまることの重大な意味を忘れ、主と共なる復活、栄光だけを願い始めるなら、その人はたちまち、自分では神に従っていると錯覚しながら、実際には、生まれながらの己を神として祀り上げる誤った方向へ逸れて行くであろう。
 
また、少しでも、神との直接的な交わりではなく、地上の人間たちとの横のつながり、人間との絆や連帯を賞賛し、もしくは自分の帰属集団などに価値を見いだし、栄光を帰そうとするなら、たちまち以上のような誤った思想へ逸れて行くであろう。

多くのクリスチャン(と称する人々)が実際にそうなったのであり、筆者はまさにそれゆえに、地上における家にこだわり、地上的な情愛にとらわれることへの重大な危険を思い、また、それを警戒している。
 
もしもこうした要素を信仰生活に少しでも混ぜ込むならば、たちまち、神への純粋な従順も失われてしまうであろう。

確かに、「主イエスを信じなさい、そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」という御言葉には重大な意義があるが、それは、決して、我々が肉の情愛を神聖視し、それにしがみつき、埋没するための口実ではないのだ。
 
人は、地上における自分の家や、勤め先の企業や団体、もしくは宗教団体や、国家といった組織を隠れ蓑のように利用して、その中に埋没することで、己の罪や弱さや限界から目を背けるのではなく、常に個人として、一人分の重荷を負って生きねばならない。その生き様は、集団の中に自分の居場所を求め、地上への帰属を誇ることで、個人としての孤独や自分独自の使命を忘れ、自己の本質から目をそらそうとする衝動や生き様とは正反対である。

集団に埋没することの中には、自己忘却の誘惑としての安楽が常にあるが、それはキリスト者の道ではない。

人はもともと集団を維持するための道具として生まれているのではなく、個人として生きており、それゆえ、個人としての意志や、独立性を生まれ持っている。他の誰のコピーや附属物でもない、オリジナルな、他から独立した、個人として生きており、それゆえ、個人としての尊厳や、諸権利が生じるのであり、個人の尊厳は、決して、帰属集団によって担保されたり、定義されるものではない。誰のコピーでもないオリジナルであるがゆえ、その使命も人と同じではなく、独自の重荷を負わねばならない。ましてキリスト者はそうであり、キリスト者は、「日々の十字架」として、一人分の重荷、一人分の孤独、一人分の十字架を常に負う任務があることを筆者は疑わない。地上では寄留者として、どこにも最終的に定住することなく、つつましく歩み、常に神の御前の単独者としての孤独を負い続けねばならない。
 
だが、多くのクリスチャンを名乗る信者たちが、まさにつまずき、脱落して行ったのは、この点であった。

彼らを堕落させたのは、自分は絶対に一人になりたくない、孤独を負いたくない、人間の絆から切り離されたくない、人間の絆から生じる温もりや、連帯を失いたくないという願望であった。その思いが、彼らが十字架の死を経ない、アダムの命によって生じる生温かい情に身を委ね、集団の中に安易に埋没して、神の御前での単独者として、自分独自の重荷、自分独自の孤独、自分独自の十字架を負うことを拒ませるきっかけとなり、その孤独な歩みを忘れさせたのである。そのような信者たちは、その後、まるで営利企業や、軍事力の強化に走る国家も同然に、自分たちの連帯を神聖視し、賛美しながら、自分たちの属する宗教団体の権威や威光を誇示し、これを強化・拡大することを至高の目的として、完全に誤った道へと逸れて行った。
 
筆者は、彼らと同じ道を決して行くまいと決意している。だが、そのためには、神の御前で、どんな時も、キリスト者が自分一人分の孤独を自ら背負い続ける姿勢が、極めて重要なのだと思わずにいられない。その任務は、人の目には、孤独で悩み多きもののように見えても、地上における人間たちのどんな種類の連帯にもまさる意義を持つと確信している。

つまり、神に満たしていただくためには、神が来られる前に、信者である人間が、すでに満たされてしまっていては駄目なのだ。神の御許にだけ、我々が携えて行かねばならない一人分の孤独、弱さ、限界、飢え渇きがどうしても必要なのである。神の御前で、人間が、すでに満たされてしまっておらず、孤独で、飢え渇いていることが必要なのである。

ところが、人間が、自分自身の弱さを恥として否定すべく、自分で自分を強め、孤独を忘れるために、自分を慰め、励ましてくれる象徴を自ら作り出し、人間の温もりと連帯の中に安易に身を埋めると、本来は、神に向けるべき、一人分の飢え渇きが、あまりにも簡単にあっけなく失われてしまう。そして、もはや以前のように、悩みや苦しみの中でも、心の底から神を求め、信じて見上げるだけの純粋な信仰、純粋な叫び、祈り、求めが曇らされ、なくなってしまう。最終的には、そのような人間にとっては、ただ神にのみ自分のすべてを委ねて生きることよりも、悩みや苦しみから手っ取り早く目を背けて、自己の弱さを忘れることおの方が、はるかに重要課となり、まるで中毒患者のように、現実の自分自の弱さから目を背けるために、自己に慰めをもたらすものに依存し、それを手放せなくなる。それが家であったり、家族であったり、偉大に見える指導者であったり、企業や宗教団体であったり、または国家になったりするのである。
 
そのような状態こそ、筆者は恐れるのだ。人間的な観点からは、まことに幸福そうで、問題がなく、強そうで、理想的で、満たされているように見えたとしても、神を語りながら、実際には、まるで神を必要としないという、人間側の独りよがりな状態以上に、忌むべき状態があろうか。しかも、キリストが来られるよりも前に、信者の側がすでに満たされてしまい、自己陶酔、自己満悦、自画自賛に陥っていることほど、神の目に忌むべきことはないと思われてならない。我々にそのような錯覚としての偽りの満足をもたらすものは何であれ、早々に手放し、ゴルゴタの死へ戻るのが最善である。