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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

村上密牧師による自己流の「異端審問」―村上密牧師の非聖書的で危険な活動

 

大いなるバビロンからの脱却 反キリストの原則の明確な発展
――アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の非聖書的で危険な活動――
~村上密牧師と津村牧師による鳴尾教会の私物化問題について~


 



 

2.弱者ではなく、強者の目線に立って行なわれる村上密氏の「弱者救済活動」

2-1.「毒を持って毒を制す」式の考えの危険性 
2-2.弱者の人権を踏みにじり、「世間」という強者の目線に立って行なわれる活動
2-3.強制力を用いて人間の内心の自由を侵害
2-4.信仰を持たない「家族」や「世間」の観点から、カルトに入信した信者だけを責める
2-5.公の認可を一切受けておらず、キリスト教界内の規則を無視した越権行為
2-6.聖書に基づく信仰によらず、世間の倫理道徳や強制力によってキリスト教界を断罪
2-7.平和な福音伝道を第一とする牧師の本来的な使命から逸脱
 
2-8.カルトとの闘いを続行するために、自ら敵を作り出す
2-9.アンチカルトはカルトと同一である
2-10.キリスト教界で回復される必要があるのは、人間ではなく神の利益 


 
  <追記>
 2018年2月に、村上密率いるカルト被害者救済活動の中心メンバーの一人である「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久が、当ブログに対する多年に渡る嫌がらせの罪により刑事告訴された。村上と杉本の活動に深い関連性があることについては以下の記事等を参照。

「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久および共犯者が刑事告訴された事実





2.弱者ではなく、強者の目線に立って行なわれる村上密氏の「弱者救済活動」

2-1.「毒を持って毒を制す」式の考えの危険性 論敵と同じ誤りを犯していることに気づかない村上密氏


さて、カルトを取り締まるために、カルトを超える強力な取締機関を創設するという、「毒を持って毒を制す」式のカルト監視機構の設立の構想は、おそらくは、村上氏がこれを明確な形で公表するよりもずっと前から、同氏の心に温め続けられて来た計画であったものと思われる。

村上密氏は、前述の記事でも示したブログ記事「ザビエルの光と影 」で、フランシスコ・ザビエルの活動の負の側面として異端審問の創設の提案を挙げる。また、自民党が統一教会の勝共連合などの提案を受けて国会に提出した「スパイ防止法」を危険なものとして非難する。


「ザビエルは1542年にゴアに到着し、1546年5月16日付けの書簡で、ポルトガル国王ジョアン3世に、インドにおける異端審問所の開設を進言しています。1560年にはゴアで異端審問所が発足しています。その結果、多くのマラーノ(15世紀末から、スペインおよびポルトガルにおいて強制的にキリスト教に改宗させられた旧ユダヤ教徒)が安住の地を求めて行ったゴアで火炙りになりました。これが影です。このことを知っている人は稀です。」

「むしろ、自民党政権下、自民党と協力していたカルト宗教が「スパイ防止法」制定に奔走しました。この法案が宗教をも監視下に置くことは一部の人にはよく知られていました。カルトを叩いていた私や他の人がカルトから監視されることも考えられたのです。危ういのは権力と結び付いた宗教です。キリスト教の一牧師の案に大袈裟な警告は夢想家の戯言です。」

しかしながら、村上氏はこのようにしてザビエルの異端審問を彼の活動を負の側面であると指摘し、スパイ防止法の危険性を唱えながらも、自分自身が、論敵と全く同じ誤りを犯していることには気づかない。

スパイ防止法は、かつて中曽根政権下で、国際勝共連合の推進のもと、自民党議員により国会に提出された。この法案は社会党や日弁連、自民党のリベラル派の反対により、審議未了のまま廃案となったが、Wikipediaによると、当初、これを推進していた宗教団体には、統一教会だけでなく、生長の家も含まれていたようである。

国際勝共連合とは、「共産主義の脅威に対抗する」ことを目的として統一教会の創始者であった文鮮明が創設した政治団体であり、今日に至るまで統一教会と不可分の関係にある。
 
「共産主義の脅威」を訴え、これに対抗して勝利することを目指す国際勝共連合の主張を見ると、スパイ防止法の制定や、日本版NSCの創設、日本の核武装なども含め、どれもこれも共産国の国家防衛の手段をそっくり模倣したものばかりであることに気づく。特に、スパイ防止法と日本版NSCの創設は、ソ連が国家の機能として持っていた強大な秘密警察の機能と活動を我が国でも取り入れて合法的に認可しようという構想である。

一言で言えば、勝共連合は、共産主義国の脅威に対抗するという名目の下、日本が強い軍隊を持って核武装し、秘密警察を持ち、外国のスパイを含めて国家にとって望ましくないあらゆる人物を合法的に処罰でき、国家が国民に対する大規模な諜報・監視活動を合法的に行なえるような法整備が必要である、と訴えているわけである。

だが、これは結局、敵以上に武装を強化することによって敵(共産主義国)に対抗しようという発想であるから、「毒を持って毒を制す」式の考えであり、果てしない軍拡競争を招き、より一層の国際的緊張を高めるだけであり、さらには、軍拡競争の中で、いつしか敵に対抗するということが口実となり、自国の武装の強化それ自体が目的となって、とめどない軍拡に陥り、異常に肥大化した軍部が生まれかねないことが予想される。

その結果、最初は手段であったはずのものが、目的化し、果てしない武装それ自体が目的と化す恐れがあるのである。その上、こうしたことの危険性に気づいてそれを訴える国民が、国家にとって望ましくない人物とのレッテルを貼られて弾圧され、武力によって強制的に排除される危険性までが生まれる。最初は共産主義に対抗することが目的であったはずなのに、仮想敵の概念がいつの間にかどんどん膨らんで行き、戦いは果てしないものとなって、ついには武装や諜報の機能のほとんど全てが、真の外敵ではなく、国家にとって「疑わしい」思想を持つ自国民の弾圧へと向けられる恐れが十分に想定される。

ここに「毒を持って毒を制す」式の考え方の危険性がある。外敵との闘いを訴える者は、魔物と闘っているうちに、自ら魔物と一体化し、敵以上の恐るべき魔物に変身してしまいかねないという法則である。 外部の敵との抗争は、いずれ内部抗争に転嫁する。国際勝共連合の唱えているような目的を容認すると、日本は、共産主義に立ち向かうという名目の下、果てしない軍拡競争に巻き込まれ、絶え間ない国際的緊張の下に置かれ、その上、スパイ根絶という口実で、大規模な国民への抑圧が正当化されかねない。こういった危険性が知識人らに指摘されたことの影響もあり、スパイ防止法は廃案になったのである。(だが、今日の秘密保護法にも同じ危険が指摘されている。)
 
ところが、村上密氏が述べているのは、勝共連合の提案と本質的に同様の論理である。村上氏はザビエルの異端審問のアイディアを彼の活動の負の側面として挙げ、今日のプロテスタントのキリスト教界における「霊の戦い」が事実無根の魔女狩りのような様相を帯びていることを非難する。そして、こうしたキリスト教における信者同士の争いが、キリスト教界の恥ずべき「影の歴史」であり、繰り返されるべきではないものであることを訴えている。

ところが、そう述べている村上氏自身が、キリスト教界を浄化するために、ザビエルと同じように、キリスト教界に超法的な「異端審問」機関としてカルト監視機構を設立することを提唱し、「スパイ防止法」を非難しながらも、キリスト教界の「カルト化」を未然に取り締まることを口実に、「カルト防止(監視・抑止)法案」とでも呼ぶべき「カルト監視機構設立案」を宗教界全体に提唱して行くのである。

村上氏は、キリスト教界を改革するという名目で、「異端審問機関の設置」及び「宗教的スパイ防止法案」を提案するという、自ら論敵と全く変わらない極めて危険な発想を述べている自己矛盾にはまるで思いが至っていない。



2-2.真に弱者である信者の側に立たず、弱者の人権を踏みにじり、「世間」という強者の目線に立って行なわれるカルト被害者救済活動

さらにもっと危険なのは、同氏がこのように自ら唱えたプランが、キリスト教界で容認されるかどうかには全く注意を払わず、教界において自分の提案が何ら公の承認を受けたわけでもないのに、自分だけの一存に基づき、非公式に、自己流の「異端審問」を繰り広げ、他教会に対する干渉という越権行為に乗り出して来たことである。

そして、この越権行為を正当化するために、村上氏は「世論」を巧みに利用して、自分自身の思惑が世論に合致しているかのような「空気作り」を行なって来た。

村上氏はカルト監視機構の設立というアイディアを提示するより以前から、カルト被害者救済活動という形で、独自の「異端審問」を行なって来たが、同氏率いるカルト被害者救済活動は、初めは、統一教会等に入信した信者を、信者の親族等の要請を受けて、半強制的に脱会させるというものであった。これは当初、カルトに入信した信者を、強制的に拉致してアパートなどの密室に監禁し自由を奪った上で、牧師などキリスト教の教職者が脱会のための説得工作にいそしみ、信者にカルトの教義の誤りを認めさせて、棄教させるという手法のものであった。

こうした活動は、信者の内心の自由を否定して、さらには身体を拘束し、強制的に外側から「正しい教義」を押しつけて改心を迫るという点で、そもそもの初めから、中世の魔女狩りのような残酷さを備えていたのだと言える。
 
まず、この活動においては、キリスト教の権威者が力づくでカルトに入信した信者の身柄を拘束し、「誤った思想に傾いた罪」を強引に認めさせて、信仰を放棄させるまで自由を与えないという不法な形での懺悔の強要と、強制的な再教育による内心の自由の侵害身体の拘束と言う罰に等しい不法な人権侵害が行われていたことについて考える必要がある。これは憲法が保障する「信教の自由」そのものの否定であり、人の信仰生活を外側から力づくで侵すことを正当化する活動であることに注意が必要である。

このような活動内容を見れば、それが暗黙のうちに意味するところは、信者を取り巻く社会(カルト団体のことではなく、この世の社会のこと)からの容認がありさえすれば、つまり、親族からの同意がありさえすれば、カルトに入信した信者は、危険人物として拘束され、人権を侵害され、思想的再教育を強制的に受けさせられて、信仰を剥奪されても当然であるという思想であると分かる。

そのような思想は、カルトに入信した信者は、その誤った思想のゆえに、世間を騒がせたのだから、身体の自由を奪われて、自らの罪を認めて懺悔させられ、強制的な再教育を受けさせられて半強制的に人格を矯正されても当然であり、なおかつ、誤った信仰に傾倒したことを懺悔するのみならず、家庭を捨ててカルト団体に逃亡したことで、どれほど家族を混乱と悲しみのどん底に突き落とし、社会に迷惑をかけたか分からないのだから、社会を騒がせて迷惑をかけた罪を認めて詫びるべきであるという考えに基づいている。

これは、社会から迷惑を受けたという通報がありさえすれば、人間が外側から力づくで他者の内心を取り締まり、その信仰や思想を弾圧することを正当化する思想であり、このような思想を延長して行くと、やがて誤った思想によって公共の秩序を騒乱した個人は、社会全体の世論の同意がありさえすれば、いかようにでも人権を奪われて処罰されても当然であるという発想へと結びついて行く。

強制的な拉致監禁と強制的な説得工作などの手法を見れば、村上密氏らの「救済」活動が、決してカルトに入信した信者という「弱者」の観点に立って行なわれたものではなく、むしろ、信者を取り巻く社会(家庭を含む)という「強者」(多数者)の観点からなされたものであることが分かる。

ただし、当初、使われていた拉致監禁という手法は、その後、信者を奪われたカルト団体から訴追の対象となったり、また世間からも批判を受けたりして、次第に使われなくなっていくが、そのような暴力的な手段を用いないようになって後も、以下に示す通り、村上氏のカルト被害者救済活動が持つ、信者に対する懲罰的な意味は変わらなかった。

同氏の「救済活動」はその後、キリスト教以外の宗教だけでなく、キリスト教界内部でも積極的に行なわれるが、そこでも、同氏は聖書の教えから逸れて道を踏み外した牧師や信者に対し、この世の司法などの強制力を用いて、その信者が「誤った思想」を認めて懺悔するまで徹底的に圧迫を加え続けるという手法を用いたのである。




2-3.強制力を用いて人間の内心の自由に対する侵害を繰り返す村上密氏のカルト被害者救済活動
 
だが、問題は、一体、この世の誰が、強制的に他人の内心の自由を抑圧してまで、他者の思想の是非を判断し、その誤りを認めさせ、これを「矯正」する権利を持つのかという点である。

そのような思想的再教育プログラムが、人の自主性を侵害して本人に強制されること自体、不法であり、大変、恐ろしいことである。そのような手法は、カルトと同じように、「洗脳」や「マインドコントロール」と非難されても当然であるが、さらに恐ろしいのは、そのような活動が、何ら公の認可を受けず、個人的な思惑に基づいて行われることである。
 
村上氏のカルト被害者救済活動が、主にカルトに入信した信者の親族(必ずしもキリスト教の信者ではない)からの要請に基づいて行われていたことを見ても、この活動が目指していたのは、信者に自主的にまことの神を知ってもらい、聖書に基づく真の信仰に自主的に至りついてもらうことではなく、むしろ、キリスト教の教義は、信者の誤った思想を論破し、誤りを認めさせてかつての信仰を放棄させるための道具として使われたにすぎないことが見えて来る。

この活動の最終的な目的は、信者に本当の神を知りたいという願いを自主的に起こさせることではなく、健全で自然な信仰を持ってもらうことでもなく、信者がカルト団体から完全に足を洗って社会復帰を果たすこと、とりわけ、もとの家庭生活に復帰することにあり、キリスト教はそれを実現するための手段であったのだと見られる。
 
つまり、この活動は、表面的には、キリスト教の信仰に基づくものであるかのように標榜していても、実際にはそうではなく、カルトに入信したがゆえに、家庭から逃亡し、社会生活から切り離されて、半ば孤立状態に陥っている信者を、親族らの訴えに基づき、家庭に連れ戻すことにより、社会生活に復帰させることを、最終目的としていたのであると考えられる。

それを実現する上で、信者の内心を作り変える必要があり、救済活動を行なうキリスト教の教職者らは、カルトの教義以上に強力で首尾一貫した教義を提示することによって、カルト的教義の誤りを暴き出して論破し、その思想の誤りを信者の目の前で明白にする必要があった。その手段として、キリスト教の教義が用いられたのである。これは、多くの新興宗教が、キリスト教を換骨奪胎して作られたキリスト教の亜種のようなものであることを考えれば、不思議なことではない。

だが、いかにカルトの教義が真理からほど遠く、矛盾に満ちた危険なものであったとしても、人が自ら内心で神を求める過程を邪魔してまで、何が真理であり、誤りであるかを、人が人に強制的に教え込み、信者がカルト的思考の誤りに自ら気づくのを待たずに、キリスト教の権威者を名乗る人間が、自らの権威によって、外側から強制的にカルトに入信した信者の思考パターンを打ち砕き、変えようとすること、しかもその説得工作を、信者の身体の自由を奪うという威嚇的な方法を用いて、信者自身が最も屈辱的な状態に置かれ、尋常でない精神状態にあり、正常な判断力の弱まっている時に行うことにより、力づくでカルトの教義の誤りを認めさせて棄教させるという方法では、カルト以上の洗脳とマインドコントロールと非難されても仕方なく、仮にその結果、カルトに入信した信者が以前の信仰生活の誤りに気づいてキリスト教に改宗したとしても、これでは強制的な改宗も同然で、到底、キリスト教の平和で自然な伝道活動とは呼べないし、このような方法によっては正常で自然な信仰も生まれ得ないであろう。

実際に、脱会の方法が強制的であればあるほど、それは本人の自主性に基づかないため、本人の自然な思考を破壊し、結果として、人格を破壊する恐れがあることが指摘されている。カルトから脱会させるという、一見、正しく見える目的のためであっても、これを暴力的な方法で成し遂げれば、後々大きな弊害が信者自身に残るのである。

もしも、正しい教義を知ってもらうためならば、人の内心の自由を力づくで侵しても良いという考えを肯定するならば、たとえそこで用いられているものが、キリスト教の教義であっても、それは実際には、カルト以上にもっとひどい形で人の内心の自由を圧迫し、彼らを洗脳し、マインドコントロールすることを正当化する暴力であるという非難を免れられない。
  
こうして信者の内心の自由を侵す形で棄教を迫るという方法は、カルトに入信していない信者の親族や、カルトを疑わしいものとみなす「世間」という「強者」の観点に立って、彼らの利益の回復のためならば、弱者であるカルト信者への抑圧も正当化されうるという考えに基づくものであり、それは決して真の意味で、弱者の観点に立って行われる救済活動とは言えないのである。




2-4.信仰を持たない「家族」や「世間」の観点に立って、カルトに入信した信者だけを問題視するカルト被害者救済活動
 
さらに、もっと複雑なのは、たとえどんなに信者の家族や親族が、カルトに入信した信者が誤った信仰を捨てて、以前のように家庭に戻って生活することを願い、そのために、カルトからの脱会を手伝ってくれるようキリスト教の牧師に懇願したとしても、カルトに入信した信者を家庭生活に復帰させることが、必ずしも、正しい解決かどうかは分からない点である。

なぜなら、カルトに入信する信者の多くは、家庭環境にもともと何か大きな不安材料があって、その問題から逃れるために、誤った信仰に心惹かれて行ったというケースが多く見られるからである。そのようなケースだと、家庭に潜む根本的な問題を見ずして、家庭復帰イコール健全な社会復帰と安易にとらえることはできない。

むしろ、根本問題が何ら解決されていない状態の家庭に信者を引き戻すことは、ただカルトに入信する以前の状態に引き戻すだけでなく、いや、カルトに逃亡するという形でしか、信者が逃げ道を模索することができなかったのだとすれば、その逃げ道さえ存在しない、より悪い袋小路に信者を追い込むことにもつながりかねない。また、それはカルトに入信することにより、信者が探索していた目的自体を否定し、あきらめさせることであるから、それはより一層、信者の心理を複雑にしてしまうきっかけとなりかねない。このような活動は、決して真の意味での弱者の心のニーズに応えるものとはならないのである。

たとえ説得工作によってカルトに入信した信者にその教義の誤りに気づかせることに成功したとしても、それだけでは、信者がそもそも一体、どんな問題から解放されるために、カルトに接近したのか、カルトに入信することによって、どのような目的をかなえようと目指していたのか、という根本的な心の問題に焦点が当てられない。
 
ただカルトに入信したことが誤りであったという事実を認めさせてその団体から脱会させて、家庭復帰を成し遂げ、あるいはキリスト教へ入信させることだけをゴールとしていたのでは、その信者の個人的な心の必要性は忘れ去られてしまう。

たとえ信者がキリスト教に改宗したからと言って、それでかつて信者の抱えていた心の問題が解決するかと言えば、そのようなことは決してない。だが、カルト被害者救済活動は、基本的に、カルトのマインドコントロールを受けてしまった信者自身の心に、何らかの弱さがあったのだと考えて、その弱さや問題の克服のために、信者に様々なカウンセリング等を受けるよう勧めても、信者自身を取り巻く「世間」の抱える深い問題には言及しないのである。
 
親族らの要請に基づいて行われるカルト被害者救済活動でも、カルトに入信した信者の誤りだけがクローズアップされ、信者をカルトに追いやる原因を作った家庭や社会の側が抱える問題は、半ば蓋がされたまま、その罪が問われることはほとんどない。信者が己の罪を認め、懺悔することは奨励されても、信者をカルトに追いやる原因を作ったかも知れない家庭や社会の「罪」は問われない。こうして、間違っていたのは、カルトに入信した信者だけであり、家庭や社会は「被害者」であって、罪はないという考えに立って、信者は家庭と社会に迷惑をかけた罪を詫びて復帰し、社会に適合するよう努力することだけが、最終的なゴールのようになってしまいかねないのである。

つまり、そこでは、家族や社会という強者の集団の抱える闇という問題は蓋をされたまま、弱者の立場にある信者だけが責められ、「家族や「世間」の利益や都合だけが優先されて、カルトに入信した信者の心のニーズは容赦なく無視され、押しつぶされてしまう危険性がつきものである。実際、そうなっていたであろうことは、説得工作が監禁という強制的な手段を用いて行われたことを見ても分かる。
 
そこで、結論を述べれば、この活動は、この世の腐敗に絶望し、真理や、まことの神や、正しい生き方を求めた結果、誤ってカルトに入信してしまった信者だけを問題視し、信者の思考と生き方だけを矯正の対象とすることによって、彼らがカルトに追いやられざるを得ないような原因を作り出した「世間」の罪を巧みに免罪する性質を持っているのだと言える。


  
2-5.公の認可を一切受けておらず、キリスト教界内の規則を無視した越権行為としての村上密氏のカルト救済活動

さて、村上密氏を含め、多くのプロテスタントの牧師が関わっていたカルト被害者救済活動は、キリスト教外部の宗教から信者を奪還するのみならず、やがてキリスト教内部で起きた不祥事から被害者を「救済する」という内容に重きを置くものへと変わって行った。そうなったのには、信者を無理やり奪われた他宗教から、訴訟などの形で多大な反発があり、なおかつ、世論にも非難の声が上がって、強制的な脱会工作が難しくなり、かつてのような他宗教からの信者の大々的な奪還が困難になって行ったことが反映していると見られる。

その中で、村上氏の活動も、キリスト教外部の「異端」を取り締まることだけでなく、キリスト教内部の「異端」を取り締まることが活動の中心になって行った。

だが、すでに述べた通り、そもそも村上密氏のカルト被害者救済活動は、関係者からの懇願や訴えがあったという他は、一切、公の認可を受けておらず、一体、何の権威に基づいてなされているのか全く分からないという問題を初めから抱えていた。

プロテスタント内部の異端を取り締まるということになれば、本来は、プロテスタント内部の規則に則ってこれを行なうのが当然であるが、プロテスタントの教界には、教団教派や教会の枠組みを超えて、これを外から取り締まることを是認するような規則は存在しない。

村上密氏は自身も牧師であるのだから、自ら属している教団の規則に従うべきであり、その牧師が、教団や教会の規約を踏み超えて、他教会の内政に干渉することは許されざる越権行為に当たる。だが、村上密氏は、同氏の所属するアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団からさえ公の認可を受けておらず、ましてプロテスタント教界全体においては、何の公の承認も与えられてはいない自らの活動を、個人の一存で繰り広げ、何らの公の権限にも基づかないまま、他教会の内政に積極的に積極的に干渉して行くのである。
 
このような越権行為を正当化するために、村上氏は、キリスト教界からの公の認可を受けようと努力するのではなく、むしろ、この世の裁判という強制力を味方につけようとした。
 
同氏は、カルト化の疑いのある牧師や信徒を裁判に訴え、彼らを強制的に司法の場に引き出して来ることにより、キリスト教内部の問題を議論する場を、無理やりキリスト教の外へ持ち出し、それによって、キリスト教内部の規則を飛び越えて、この世の司法による強制力によって自分の活動を正当化しようとした。

村上氏はこうして、自ら教界に属していながら、教界の規則を無視し、むしろ、教界外のこの世の司法という強制力に訴え得ることによって、キリスト教界に強制的にメスを入れることを正当化しようとしたのである。

このことは、同氏の活動が決して聖書に基づく平和な信仰によるものではなく、むしろ、全く聖書に基づかず、信仰を持たないこの世の論理と力に基づいて、キリスト教界全体を監視し、断罪し、これに強制的に懲罰を加える機会を得ようとするものであったことを意味する。その点で、同氏の活動は、ただキリスト教を隠れ蓑にしただけの、最初から聖書に基づかない、信仰によらない活動だったと言えるのである。
 
村上氏が積極的に用いていた裁判という手法を見ても、同氏の活動は、真に弱者の側に立つものではなく、世論や弁護士等この世の有識者や権威者という「強者」の目線に立って、この世の力を武器にして行われるものであったことが分かる。

村上氏による統一教会などからの信者の「救出」活動も、カルトに入信した信者自身の心の要望に基づくのではなく、信者の親族という「社会的強者」(社会からドロップアウトしたカルト信者に比べれば、彼らは強者の立場にあったと言える。また、親族の背後には信仰を持たない世間の思惑があった)の側に立って、強者の利益を確保するためになされたものであったことを思い出す。そこで、カルトに入信せざるを得なかった信者の深刻な事情や、心の必要性は理解されず、信者個人の人格も尊重されない形でその活動は行われ、むろん、家族側からの依頼に基づいて「救出活動」に携わった牧師に、どれほどの謝礼が成功報酬として渡っていたのかは誰にも分からない。
  
こうして同氏は当初、カルトに入信した信者の親族という「強者」の言い分を利用して、信者の人権に対する侵害を正当化し、信者に懺悔と棄教を迫り、異端審問官のように懲罰的に振る舞ったが、次には、キリスト教界の「疑わしい」牧師や信者を司法の場に強制的に引き出して来ることにより、彼らに強制的に懲罰を加え、それによって倫理の低下したキリスト教界そのものを断罪するということをやり始めたのである。

村上氏は、こうして、弱者救済と言いながら、自らの活動が徹底してこの世の弱者ではなく、むしろ強者の側に立って行なわれ、信仰を持つ者ではなく、むしろ、不信者の利益を擁護するために行われ、この世の力を持って、有無を言わせず信者の内心の自由を侵害し、信者の誤りを暴き出し、断罪することで、弱者の声なき声を踏みにじり、黙殺していることには、気づこうともしない。

そして、同氏は教団や教会の規則を踏み越えて、誰からも何の公の権限も与えられていないのに、自らキリスト教界の「異端審問官」であるかのように振る舞い、関係者からの不確かな証言や要請だけに基づいて、自分の一存で始まったに過ぎない自分の非公式な活動が、あたかも世間全体の後押しを受けているかのように見せかけて、さらには自らの「救済活動」が、宗教界全体に必要不可欠な改革であるかのように唱えるのである。



2-6.聖書に基づく信仰による価値基準ではなく、世間の倫理道徳によってキリスト教界を裁き、この世の司法などの強制力を用いて教界を改革しようとする危険

村上氏は、裁判によってキリスト教界に弾圧を加えることを正当化する理由づけとして、キリスト教界が倫理の低下により世間を騒乱した「罪」を挙げる。前述のブログ記事の中で村上氏はこう続ける。

 さて、キリスト教は世間に良いイメージを持たれています。そのイメージが近年カルト化した教会によって低下していることは読者の知るところです。このような問題を正すためには裁判が必要だとする私に対して、沖縄南部牧師会は声明文を過去に発表しました。<中略>キリスト教のイメージが低下したのは牧師と牧師会の倫理観が低下してきたからが私の見解です。次々と牧師の不祥事が明るみになっています。それを擁護する牧師もいます。被害者は二重三重に心に痛みを受けています。このような被害を知っていながら対策室を開設する教団は稀です。いつまでも限られた牧師たちがやっていること事態(ママ)がキリスト教の怠慢です。


ここで同氏が「世間」を引き合いに出していることが注目される。これによって、村上氏が、あたかも「世間(=信仰を持たないこの世の社会)」の観点に立って、「世間」の要望に基づいてそれをかなえるために自らの活動を繰り広げているかのような印象を与えようとしており、キリスト教に批判的な「世論」の高まりをもって、キリスト教界を断罪することの根拠にしようとしている姿勢が伺える。

つまり、同氏は決して信仰に基づいてキリスト教界の改革を唱えているわけではないのである。同氏は、キリスト教界から聖書の真理が失われ、正しい信仰が失われたがゆえに、「神の利益が損なわれている」ことを嘆くのではなく、キリスト教のカルト化が進行し、牧師の「倫理観」(聖書に基づく信仰ではない!)が失われたために、キリスト教のイメージが世間で低下したことが、あるまじき損失であると言うのである。
 
まず同氏が、一体、誰の利益を回復しようとしているのかという点に注意が必要である。同氏が主張するのは、神の利益ではなく、信者の利益でもなく、「世間」の利益である。キリスト教界によって傷つけられた被害者を救済するという名目を取ってはいるものの、実際には、この活動は被害者本人のために行なわれているものではなく、むしろ、被害者を取り巻く「世間」の観点に立ったものであり、「キリスト教が不祥事を起こして犠牲者を出し、世間をお騒がせしたので、キリスト教はその罪を認めて償わなければならない」と言っているに等しい。
 
さらに、どのような観点から、同氏がキリスト教の倫理の低下を罪深いこととして糾弾しているのかにも注意が必要である。村上氏は、キリスト教に不祥事が起きていることを、「聖書の真理から逸れたために、神に対して犯された罪」として、神の利益が損なわれ、神が心を痛めているという文脈で非難し嘆くのではなく、ただキリスト教に倫理の低下が見られたから、また、被害者が苦しめられたから、これを人の目にかなうように改善しなければならないと言うのであり、ここで、同氏がキリスト教の堕落を糾弾する根拠としているのは、聖書ではなく、世間の倫理道徳観、世間の判断基準である。

村上氏がこうしてキリスト教の現状を裁くものさしを、巧みに聖書の価値基準から、この世の価値基準へと移し替えていることに注目する必要がある。同氏は、「世間でのキリスト教界の倫理的イメージの低下」と「心に痛みを受けている被害者」の存在を引き合いに出すことによって、このままでは、キリスト教界が世間に顔向けできない嘆かわしい状態にあって、早急に改革が必要であるかのように唱え、巧みに「世間」をキリスト教界よりも上位に置こうとしているのである。

だが、すでに述べた通り、信仰者が、自らの信仰生活が正しいかどうかの判断を、信仰を持たない「世間」に委ねることなど、もともとナンセンスである。そのようなことは、霊的な事柄と肉的な事柄の順序を覆し、聖書の秩序を転倒させる危険な考え方であることはすでに前項で述べた。
 
キリスト教界に起きることは、ただ聖書の価値基準に従って、信仰によってしか理解することができないにも関わらず、村上氏は、自らの主張が不特定多数の人々からなる「世間」にバックアップされているような印象を醸し出すことにより、「世間」の判断基準を基に、あたかも世間を味方につけているかのように振る舞い、世間という「強者」の立場から、キリスト教界に起きる不祥事を糾弾し、キリスト教のみならず、宗教全体に対しても、これを疑わしいものとして監視し、断罪し、裁く側に立とうとする。聖書に基づく信仰の観点からではなく、「世間」の立場から、宗教全体を監視し、抑圧する必要性を訴えるのである。

こうして、片方では「弱者救済」を唱えながらも、実際には、村上氏は信者という真の「弱者」の立場に立って物事を考えることを決してしない。同氏は一見、自らの活動がキリスト教に基づくものであるかのように偽装してはいるが、実際には、その活動は、この世の強制力を用いたものであり、聖書に基づくものでなく、さらには信教の自由という憲法上に定められた信者の人権をも否定するものであり、信仰によってしか理解し得ない事柄を、信仰を持たない圧倒的多数者という「強者」の論理に委ねることによって信者の内心を踏みにじり、「世間」の価値判断を、聖書に基づく信仰による価値判断の上位に置き、結果的に、この世を信仰よりも上位に置くことを正当化しているのである。
 
このような転倒した理屈を基に、同氏は「世間でのキリスト教のイメージの回復」を目指し、キリスト教界では誰からも公に認可を受けていない、ただ自分の一存だけで始まったカルト被害者救済活動を、司法の強制力によって推し進め、強制的にキリスト教界に介入してメスを入れ、さらには、このような活動がキリスト教界全体に必要不可欠なものであるとみなし、他の牧師もこれを行なうのが当然であるとまで述べるのである。



2-7.強制力を用いて人の心を矯正しようとする村上密氏の活動は、平和な福音伝道によって人々にキリストの救いを宣べ伝え、自主的な回心を促すことを第一とする牧師の本来的な使命から逸脱している

だが、牧師の主たる活動とは、救いを知らない人々の魂をキリストの福音に導くことにあって、しかも、その魂の救いとは、人が自主的に悔い改めてキリストの救いを信じて受けとることによるのであり、裁判等を通してキリスト教界の不祥事を告発することで、信者に無理やり懺悔を促したり、カルトから信者を奪還しようとして強制的に信者を拉致するなどして他宗教に闘いを挑むことにはないことは明らかである。
 
そこで、こうした村上密氏の活動は、福音伝道という牧師の本来的な使命から逸脱しており、牧師の従来の正常な牧会活動のあり方を否定するものであり、しかも、教団や教会に属していながら、キリスト教界内部の規則に則らずに、この世の強制力によって、キリスト教内部の問題解決を目指している点で、他教会の内政への不当な干渉であり、牧師としての越権行為に過ぎないものであると断言できる。

このように、村上氏が、キリスト教の牧師の本来的な牧会活動のあり方から大きく外れて、絶え間ない政治闘争のような争いを己の主たる活動とし、「弱者救済」を旗印に掲げながらも、実際には、弱者ではなく強者、しかも、信仰を持たない「世間」の目線に立って、強者の利益を確保するために、カルト化問題を訴えて来たこと、また、同氏が常にキリスト教界内の規則にのっとらず、この世の司法などの力にものを言わせて、カルト化問題を解決しようとして、越権行為を繰り返して来たその手法は、約十四年前に起きて今日に至るまで続いている鳴尾教会に対する同氏の干渉にも共通して見られる。鳴尾教会の事件は、村上氏による教会内規則を踏み越えた越権行為としての「カルト狩り」や「異端審問」の走りだったとみなすことも可能である。
 



2-8.自己目的化した村上密氏の活動 カルトとの闘いを続行するために、自ら敵を作り出す


 村上氏の越権行為は、同氏の唱えたカルト監視機構という構想についてもあてはまる。

筆者の警告記事の影響もあったのか、村上密氏のカルト監視機構はキリスト教界からの関係者からの反対も大きく、ネガティブなイメージが定着し、今日に至るまで設立されることはなかった。だが、村上氏は自らの構想に宗教界からのお墨付きが得られるまで座して待つようなことはせず、それまでに自身が率いて来た「カルト被害者救済活動」の支持者を集めて、誰からの認可もないままに、早々とインターネット上に自分たちに都合のよい言論空間を作り上げ、そこで「疑わしい」教会の摘発や、「望ましくない」反対者らへの弾劾に乗り出して行った。

村上氏の活動は、ここでも全く非合法、非公認、非公式なものであり、同氏がインターネット上に組織したものは、カルト化問題について、信者を集めて客観的に話し合う場ではなく、むしろ、プロテスタントの信者ではない部外者たちを積極的に動員して、キリスト教界の不祥事を公表し、キリスト教に関するネガティヴな「世論作り」、「空気作り」を行なうための印象操作の場であった。

明らかに村上氏の意向を受けて、村上氏にとって都合の良い記事を発表するために、村上密氏のカルト被害者救済活動を支持するカトリックの信者とも言われる杉本徳久氏を中心に、そのほとんどが烏合の衆のような身元不明・匿名のネットユーザーから成るインターネット版カルト監視機構と呼ぶべき集団が出来た。そして、こうした烏合の衆のような人々が集まって、何の権限にも基づかず、あたかも世間代表、識者代表のような仮面をつけて、インターネット上でキリスト教界の不祥事を次々告発し、関係者へのバッシングを行ない、キリスト教界に関するネガティヴなイメージづくりに日夜、積極的に励んだのである。

こうした事実を振り返るならば、村上密氏の活動は、一種のマッチポンプと呼ぶべきものであったことが分かる。片方では、杉本徳久氏のような支持者を積極的に利用して、キリスト教界のイメージダウンを狙う弾劾記事を次々発表させた上で、「このようなひどい出来事が起きて世間を騒がせているのだから、キリスト教界の倫理低下とカルト化問題を解決するために、我々は行動を起こさねばならない」と提唱して、自分がカルト問題の有識者として登場するのである。だが、誰よりもキリスト教界のイメージダウンをもたらしたのは、キリスト教界の不祥事を暴くことだけを生業として活動して来た村上密氏や杉本徳久氏のような人々なのである。
 
村上氏がキリスト教界の不祥事にインターネット上で警鐘を鳴らすために利用したのが、そのほとんどが信仰を持たない身元も定かでない部外者でしかないネットユーザーであったことを見ても、同氏の目的が、聖書に基づく信仰についての健全な議論ではなく、まずはキリスト教界を糾弾することを歓迎し、是認するような「世論作り」であったことが分かる。同氏は、キリスト教に関するネガティヴな批判を自身のブログや支持者のブログを通して積極的に発表した上で、自分はこうした「世論」の後押しを受けて、悪しき問題の是正のために行動しているのであり、それゆえ、自分の活動は社会の利益にかなったことなのだという印象を自ら作り出そうとしたのである。

確かに、そのようにして発表された中には、キリスト教界に実際に起きていた不祥事もあったものと思うが、彼らの活動が、絶え間なく「カルトの疑いのある教会や牧師」といった仮想敵を必要とする性質上、その活動は、次第に、捏造してでも良いから、キリスト教界に不祥事を作り出そうと、事実から遠くかけ離れた自作自演劇のようなものとなって行った。

信仰の問題についての議論を、教義さえも満足に知らない不信者のネットユーザーらの手に委ねれば、何が起きるかは誰でも容易に想像がつく。身元も不確かなネットユーザーを盛んに利用したネット上の議論では、暗闇の中で、真偽のほども分からない質の悪い情報が飛び交い、自称「被害者」や、なりすましも現れて、行き過ぎたバッシングが横行し、事実から遠くかけ離れた「魔女狩り」としか言えない荒唐無稽な「異端審問」が過激化して行った。

こうして、村上氏の意向に沿って、村上氏に都合の良い言説や批判を並べる無数の身元不明のネットユーザーから成る、インターネット版カルト監視機構とでも呼ぶべき、ネット暴民のような非合法の集団が暴走し、杉本氏や、村上氏らの活動を理解しない人々や、それに対する反対者を吊し上げる目的で、魔女狩りのようなバッシングが行われた。「キリスト教界のカルト化問題の解決を目指す」とする彼らの目的とは裏腹に、その活動によっては、カルト化問題は何ら解決されるどころか、より一層のひどい混乱がキリスト教界にもたらされただけであったが、それでも、その行き過ぎたバッシングと混乱は、キリスト教界のイメージダウンという世論作りを行なう上では、彼らの目的にかなったものであり、織り込み済みの結果であったと見られる。何しろ、キリスト教界の疑わしい事件が次々発表されて、カルト化の疑いのある教会や牧師や信者という仮想敵が増え、キリスト教界の印象が悪くなればなるほど、カルト救済活動の指導者らの出番は増えるからである。

こうして見ると、村上氏が目指していたのは、初めから、きちんと裏づけの取れた真実の情報だけを発表して、誤った教えに警戒を呼びかけ、キリスト教界の信者らを聖書に基づく正しい信仰生活に立ち戻らせることにはなく、むしろ、暴力的とも言える威嚇的なバッシングによって、キリスト教界に起きる不祥事を次々と暴くことにより、キリスト教界そのもののイメージを低下させ、信者らを怯えさせて自由な議論を封じ込め、インターネット世論を占領し、教界全体に関する世論を自らの手中におさめて情報統制した上で、自分自身はあたかも腐敗したキリスト教界を是正する正義の味方や救済者のように登場し、そのような自己イメージを定着させていくことにあったものと見られる。

つまり、ネット上でのこうした活動はみな、村上氏とその活動の支持者らがインターネットの世論を独占して信者らを委縮させて情報統制し、キリスト教界のイメージダウンを成し遂げた上で、自分たちの活動を正当化し、信教の自由を取り締まり、キリスト教界に懲罰を加えるために、キリスト教界内の権力を掌握する目的で行われた威嚇行為としての自己流の「異端審問」であり、「恐怖政治」だったのである。

村上氏がインターネット上の記事や、裁判などの場面で、支持者を利用して行ってきた自己流の「異端審問」は、それ自体が、キリスト教界に対する威嚇であり、信者を黙らせるための恫喝であり、同時に、信者の自由な信仰生活の否定であり、同氏が教界内権力を掌握するための手段であったと見るのがふさわしい。
 
村上密氏のカルト退治は、自らの活動の需要がなくならないために、ついには自ら積極的に敵を作り出すというところまで行き着いた。これでは到底、同氏はザビエルの「負の」活動を批判できる立場にはないと言える。



2-9.アンチカルトはカルトと同一である 政敵と同化した村上密氏の活動
 
結論を述べると、上記したように、国際勝共連合の主張に危惧されたのと全く同じことが、村上氏の活動にも実際に起こったのである。国際勝共連合の提唱していたスパイ防止法の制定や、核武装が肯定されれば、「共産主義の脅威に立ち向かう」ことを口実として、やがて国家の武装それ自体が目的となり、飽くことない権力への渇望が生まれ、その結果、異常に肥大した軍部や秘密警察による諜報活動が生まれ、やがてはそれが自国民への容赦のない弾圧につながって行く危険性があると危惧されたのと全く同じように、「カルトに立ち向かう」ことを旗印に掲げた村上密氏の活動は、いつの間にか、その活動自体が自己目的化し、無実の信者を貶めてでも、カルトという政敵をでっちあげることによって、カルトとの戦いを終わりなきものとし、それによって同氏が無限に手柄を築き上げるための土壌を作ることが目的となった。キリスト教界のイメージを貶めて、この問題を是正するために、キリスト教を監視し、取り締まる必要があると唱えることにより、同氏は、教界を超える権力を掌握するための手段を自ら作り出して行ったのである。

「弱者救済」や「カルト化問題の解決」といった美名は、実際には、同氏による教界内権力掌握の口実として利用されたに過ぎない。

こうして、記事「行き詰まりの打開は方策でなく、心の改革が根本である」にも書いたように、魔物と闘っている者が、魔物の手法を取り入れることにより、自分自身が魔物と一体化するという現象が起きたのである。

魔物(自分)と闘う者は、その過程で自分自身も魔物になることがないよう気をつけねばならない。深淵をのぞき込むとき、その深淵もこちらを見つめているものである。 「人の世の旅路の半ば、ふと気がつくと、俺は真っ直ぐな道を見失い、暗い森に迷い込んでいた」


2-10.キリスト教界で回復されなければならないのは、人間の利益ではなく、神の利益である

確かに、キリスト教界の不祥事それ自体はあってはならないことであるにせよ、果たして、その是正を訴えるにあたり、一体、何を損失としてとらえ、誰の利益を確保する観点から活動するのかという点は、極めて重要である。
 
村上密氏の活動に一貫して見られるのは、同氏が神の利益を回復すること、信者の利益を確保することではなく、むしろ、不信者の利益を確保するために、不信者の目線(世間の目線)に立って、不信者の意見を代弁して、信者の信教の自由そのものを否定しながら活動して来たという特徴である。

同氏の理屈によると、キリスト教界のカルト化問題が解決されなくてはならない第一の理由は、キリスト教界が聖書から逸れたために、真理が損なわれ、神の利益が損なわれ、神が悲しんでおられるためではなく、むしろ、カルト化問題の犠牲になったゆえに、人間に過ぎない被害者たちの利益が損なわれ、被害者が悲しんでいるためであり、さらにはキリスト教界の倫理低下によって、信仰を持たない世間でキリスト教のイメージが低下し、信者が不信者(世間)の恥となり、世間に迷惑をかけているからなのである。

このことを見れば、村上氏が信仰そのものに対してどれほど理解のない態度を取っており、神の願いという観点から物事を見ず、人間の利益の観点、しかも、不信者の利益を中心に物事を見ているかがよく分かる。同氏がいかに聖書の価値観とは相いれない、この世の価値判断を基準として、常に問題解決を行なおうとして来たかその様子がよく理解できるのである。

つまり、村上氏は、一人の信仰者として、人の内心の自由で自主的な信仰生活を尊重しながら、聖書の真理の回復、神の利益の回復を目指しているのではなく、キリスト教を単なる手段として利用しながら、その実、信仰を持たず、神を知らない生まれながらの人間の利益を代弁して、不信者の利益の回復を目指しているのである。これはクリスチャンの自然なものの考え方ではない。

すでに前項でも確認した通り、信仰によらない、生まれながらの人間の道徳観や正義感は、どれほど人間の目に良いものに見えても、むしろ、聖書の唱える神の義には悪質に逆らうものなのであり、そのような方法で、人間社会の抱える問題を解決しようと試みれば、より問題を深化させるだけである。そのことは、キリスト者であれば誰しも理解していることである。
  
そればかりか、生まれながらの人間が、キリストの十字架の贖いによらず、生まれながらの知恵によって他者を救済したり、あるいは自己を正義として、神に代わって他者を裁こうとすることは、自ら神となって全宗教に君臨することと同じであるから、それは反キリストの悪魔的欲望でしかない。このような方法を用いれば、キリスト教界にますます問題を引き起こすだけでなく、やがてはキリストへの信仰そのものに敵対することになり、聖書の神そのものに敵対することにならざるを得ない。
  
村上氏の聖書に基づかない、信仰によらない活動は、結局のところ、宗教界全体を敵に回すものであり、ひいては、信仰そのもの、神そのものを仮想敵としていると言って過言ではない。村上氏が疑惑の眼差しを向け、取り締まり、撲滅しようとしているのは、あれやこれやのカルトではなく、もはや神を信じる信仰そのものなのである。

<続く>

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悪魔の見果てぬ夢としての「カルト監視機構」―村上密牧師の非聖書的で危険な活動⑥

 

大いなるバビロンからの脱却 反キリストの原則の明確な発展
――アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の非聖書的で危険な活動――
~村上密牧師と津村牧師による鳴尾教会の私物化問題について~


 1.悪魔の見果てぬ夢としての「カルト監視機構」
~自らに与えられた権限の範囲を超えて、全キリスト教会と宗教界に君臨してこれに干渉し支配することを願う村上密牧師~

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門からはいらないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。
しかし、門からはいる者は、その羊の牧者です。門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。
彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は彼の声を知っているので、彼について行きます。
しかし、ほかの人には決してついて行きません。かえって、その人から逃げ出します。その人たちの声を知らないからです。」(ヨハネ10:1-5)

 <追記>
 2018年2月に、村上密率いるカルト被害者救済活動の中心メンバーの一人である「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久が、当ブログに対する多年に渡る嫌がらせの罪により刑事告訴された。村上と杉本の活動に深い関連性があることについては以下の記事等を参照。

「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久および共犯者が刑事告訴された事実




アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師が、プロテスタント教会のカルト化問題を訴え、この問題を解決する手段として、カルト監視機構の設立を提唱して以後、私は、 記事
「カルト監視機構という名の秘密警察」などの中で、クリスチャンを名乗っている人々が、聖書によらずに人間の正義を掲げてこのような機関を作るべきではなく、人の心に潜む罪と悪の問題をこのような外側からの強制力によって解決しようとする試みには何の希望もなく、かえって教会に恐ろしい混乱をもたらすだけであると繰り返し警告して来た。

もしこのような機構が設立されれば、必ず、その活動は暴走し、教会のカルト化問題は解決されるどころか、密告と、疑心暗鬼が横行し、人間の思惑に基づいて今まで以上に滅茶苦茶な異端審問が行われ、魔女狩りが横行するようになるだけであると。


これに対して、村上密氏は自身のブログにおいて、こう反論している。

ザビエルの光と影 2010年 07月 22日

「雑感ですが、私は過去に「カルト監視機構」の必要性を訴えました。このことに対してある人が「『カルト監視機構』という名の秘密警察」と批判したことがありました。カルト監視機構が国家権力と結び付かない限り秘密警察とはなりません。むしろ、自民党政権下、自民党と協力していたカルト宗教が「スパイ防止法」制定に奔走しました。この法案が宗教をも監視下に置くことは一部の人にはよく知られていました。カルトを叩いていた私や他の人がカルトから監視されることも考えられたのです。危ういのは権力と結び付いた宗教です。キリスト教の一牧師の案に大袈裟な警告は夢想家の戯言です。

だが、この村上密氏の論理には重大な飛躍がある。まず、村上氏はカルト監視機構が国家権力と結びつかない限り秘密警察とはなりませんと述べているが、この点は完全な論理のすり替えであり、全くの誤りである。

おそらく、同氏がここで強調したかったことは、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団を含め、プロテスタントのキリスト教界全体が、この世の政治活動と一線を画し、統一教会や創価学会などのように政界への進出を目指しておらず、国家権力の掌握を目指していないので、カルト監視機構が設立されたとしても、これが国家権力と結びついてその庇護を受けて、無制限の権力機関となることはなく、仮に暴走することがあったとしても、その被害も小さなものに食い止められるだろうという予測であったものと思われる。

だが、仮にそう考えたとしても、村上密氏の主張は、極めて大きな矛盾を抱えている。 まず、第一に、村上氏はここで国家権力だけを危険視しているが、危険なのは、国家権力だけではなく、文字通りあらゆる権力である。

そもそも権力とは、組織と個人との間に、個人と個人の間に、あらゆる形で存在しうるものであり、これを乱用する人間が現れれば、いつでもいかようにでも悪用されうる危険性を持っている。企業においても、宗教団体においても、家庭においても、権力はいかなる場所においても存在しうるのであり、むろん、宗教団体もそれ自体が強大な権力であり、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団も、一つの権力である。

そして、大小を問わず、あらゆる権力は腐敗しうるのであって、宗教もその点は同じである。このことを、教会のカルト化という問題を扱って来た村上密氏が否定することはできないであろう。

時として、宗教には国家権力以上の恐ろしさがあると言えるのは、たとえば、国家権力は、国家が定めている秩序を破壊し、これに立ち向かって来るような人物に対しては、逮捕、裁判、流刑、懲役などの、法の強制力によって脅かし、排除することができるが、宗教は、神の概念を用いさえすれば、法のどんな厳しい裁きも及ばないほどの深みまで、人の内心に立ち入ることが可能だという点である。そこにカルト化問題の源も存在する。
 
しかし、宗教がこのように悪用される危険性があるからと言って、キリスト教界のカルト化問題を食い止めるために、村上密氏が主張しているように、カルト監視機構を設立することによって教会を取り締まろうという発想は、いわば、
毒を持って毒を制す」式の考え方であり、これは教会にさらなる混乱を生みだけで、カルト化問題に根本的な解決をもたらすことは絶対にない。
 
なぜなら、宗教権力を超えるさらなる権力を作り出すことによって、宗教権力の腐敗を取り締まろうと言う村上氏の発想は、権力によって権力を制するという考えを意味し、これでは、権力は腐敗するという根本問題を含め、人間の心の悪の問題の本質に迫ることができないばかりか、宗教全体を取り締まることのできるこれまで以上に強大な権力を作り出すことによって、さらなる権力の悪用と腐敗の危険性に道を開くことなるからである。


村上氏は、カルト監視機構が
国家権力と結びつかない限り、秘密警察とはなりません」と述べているが、同氏は、カルト監視機構そのものが、腐敗した宗教権力や、悪意ある宗教指導者と結びつく危険性をまるで考慮しようとはしない。
 
腐敗した宗教指導者が自らの悪事を覆い隠すためにカルト監視機構を隠れ蓑に活動する危険性や、カルト監視機構のメンバーが自ら誘惑に駆られて権限を悪用する危険、もしくは、最初から悪用を目的にして、悪意ある人間がカルト監視機構に入り込む危険は、誰にでもすぐに思い浮かべることが可能だ。なのに、どうしてそのような単純な危険性さえ、同氏の構想においては全く考慮されていないのだろうか?

 
村上氏の構想では、悪意ある人間によってカルト監視機構そのものが悪用された時、誰がこれを「監視」し、その暴走を食い止めるのかという問題は、極端なまでに過小評価され、全くと言って良いほど考慮されていない。このことは、カルト監視機構は決して間違うことはないという前提を、同氏が思い浮かべていることを意味し、その前提の下に、この監視機構に事実上、無制限の権限を付与することを同氏が提唱しているにも等しい。

村上氏は、カルト化教会の牧師が誤りに陥る危険については声を大にして訴えながら、自分自身を含め、カルト化を監視する側の人間もまた同様に、与えられた権力の大きさに誘惑されて、誤りに陥る危険性を微塵も考慮していないのである。取り締まられる側には誤りがあっても、取り締まる側である自分たちは決して誤ることはないとの思い込みの下に、同氏の構想は述べられているのである。


なぜ村上氏はそのように自分自身だけは決して誤らないという絶対的なまでの自信を持つことができるのだろうか? それは同氏がよほど自らの信仰に自信を持っているためなのだろうか?
  
それにしても奇妙なのは、村上氏が、
カルト監視機構のメンバーに、初めからキリスト教の信仰を持たないこの世の有識者を据えようとしていた点である。村上密氏は、カルト監視機構の設立を呼びかけるにあたり、最初からそのメンバーとして、宗教家や臨床心理士や弁護士や法律家などといったこの世の有識者を念頭に置いており、さらには日蓮宗や天理教の教職者といった協力者も思い描いていた。こうしたことを見ると同氏がカルト監視機構のメンバーとなるための条件として、敬虔なキリスト教の信仰は必ずしも必要ないと考えていたことむしろ、キリスト教とは全く異なる他宗教の信者も最初から大いに歓迎するつもりであった様子が伺える。

そうなったのは、村上氏がカルト監視機構におそらくは最初から、
プロテスタントのキリスト教界のみならず、全宗教を監視する役割を持たせようとしていたためだと考えられる。すなわち、同氏はカルト監視機構というアイディアによって最初から、あらゆる宗教の枠組みを超えて、全ての宗教を上から監視し、抑圧することのできる強大な抑圧機関の創設という構想を提起していたのである。それゆえ、同氏は最初からこの機構のメンバーを「リベラルな」ものとしておくために、キリスト教の信仰者に限定するつもりがなかったのだと見られる。

「■ 『カルト監視機構』、設立へ
 村上密(アッセンブリー京都教会牧師)とウィリアム・ウッドは、『カルト監視機構』の設立に向けて、具体的に動き始めました
。この機構の目的は、カルトと疑問視されている団体を調査し、適正な判定を下し、発表することです。
構成は、カルト問題に精通している宗教家、臨床心理士、弁護士、法律家など、6人から12人ほどです。先日、プロテスタント教会、聖公会、日蓮宗、及び天理教の教職者で、カルト問題に取り組んでいる方々への協力要請の手紙を出し、六月中に最初の会合を持つことを予定しています。

また、『集団のカルト度に関するアンケート調査』も作成しています。その内容は六つの項目(組織、指導者、信者の実生活、組織活動、家庭生活、被害)に分かれており、百以上の質問からなっています。一つの団体に関する、正確でかつ公正な判断を下すのに不可欠な資料になると思われます。自分の属している団体の『カルト度』を計りたい方に、『集団のカルト度に関するアンケート調査』をお送りします。」 
真理のみことば伝道協会 カルト関連NEWSより)
 
以上から分かるのは、村上氏が、教会のカルト化という問題をきっかけに、キリスト教会を外部から監視する必要を訴え、この役割を、信仰を持つクリスチャンではなく、信仰を持たないこの世の不信者に委ねようとしていたことである。

ここに、キリスト教の信者にとっては決して看過することのできない極めて恐ろしい問題がある。もし村上氏のこのような構想が実現したならば、必ずや、キリスト教界の自治が破壊されるだけでなく、
キリスト教会がキリストへの信仰を持たないこの世の不信者の管理下・支配下に置かれ、聖書に基づく霊的秩序が、この世の秩序よりも下位に置かれるようになるためである。

他の記事でも幾度も訴えて来たことであるが、そもそもキリスト教会における信仰生活の正常性を、キリスト教の信仰を全く持たない外部の人々がおしはかるという発想自体が、ナンセンスである。使徒パウロは、教会の中で起きた争い事を、信者がこの世の人々の前に持ち出して、不信者の裁きに委ねるようなことをを勧めていない。

「あなたがたの中には、仲間の者と争いを起こしたとき、それを聖徒たちに訴えないで、あえて、正しくない人たちに訴え出るような人がいるのでしょうか。
あなたがたは、聖徒が世界をさばくようになることを知らないのですか。世界があなたがたによってさばかれるはずなのに、あなたがたは、ごく小さな事件さえもさばく力がないのですか。
私たちは御使いをもさばくべきものだ、ということを、知らないのですか。それならこの世のことは、言うまでもないはずではありませんか。
それなのに、この世のことで争いが起こると、教会のうちでは無視される人たちを裁判官に選ぶのですか。
私はあなたがたをはずかしめるためにこう言っているのです。いったい、あなたがたの中には、兄弟の間の争いを仲裁することのできるような賢い者が、ひとりもいないのですか。
それで、兄弟は兄弟を告訴し、しかもそれを不信者の前でするのですか。
そもそも、互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北です。」(Ⅰコリント6:1-7)


このように聖書的な観点から見ると、たとえ教会の中で仮に権力の乱用という問題が起き、それによって争いや混乱が引き起こされることがあっても、村上密氏の考えるように、カルト監視機構を作って、教会の問題を世の人々の仲裁に委ねることは、全く勧められていないのである。

それどころか、争いごとの発生をきっかけに、教会がこの世に助けを求め、この世の法則を内に取り入れ、この世の評価や裁きに身を委ねて行くことは、聖書の定める霊的秩序の転覆を意味する。なぜなら、それは
キリストの十字架を通して、この世に対して死んで、神の定めた霊的秩序に生きるようになった信者(この世から召し出された人々―神の教会なるエクレシア―)を再びこの世の堕落した秩序の管理下に置いて、この世を教会の上位に据えることで、最終的には悪魔の秩序を神の秩序よりも上位に掲げることを意味するからである

もし村上氏の唱えるカルト監視機構が実現すれば、教会はカルト監視機構を通して、絶えず、自分たちが外からどう見えるかにおびえ、気を遣わなくてはならなくなり、この世の有識者の判断や評価に気を遣い、振り回され、カルト監視機構から「疑いあり」とみなされて、取り締まりの対象とされたくない恐れから、自主的にカルト監視機構に迎合し、喜んでこの世と一体化する道へも逆戻って行くことであろう。

その結果、この世の権力闘争とは一線を画して、平和で穏やかな信仰生活に専念することを決めたプロテスタントの教界が、再びこの世の権力闘争に引き戻され、この世の権力と結びつくという、歴史を逆行するような結果も生まれかねないと予想される。

こうしたことからも、村上密氏が思い描く発想は、決して聖書から出て来たものではなく、むしろ、聖書の秩序を否定する悪魔的な発想だと言って差し支えない。それは、
信仰者の生活を、不信者の判断の下に置き、この世を教会の上位に置き、それによって肉的な秩序を霊的な秩序よりも優先し、目に見えるものを目に見えないものの上位に置くという、聖書の秩序を完全に転倒させるものであり、神と悪魔との秩序を逆転させようとする唯物論的発想だと言えるのである。

カルト監視機構が危険なのは、宗教全体を監視するという口実の下、カルト化した宗教権力が人になしうる人心支配よりも、はるかに強力な支配を人の心に及ぼしかねない点にある。カルト監視機構それ自体が、人間の心の自由に対する無制限な干渉や抑圧を正当化する手段となりかねず、もっと言えば、この抑圧機関は、初めからそれを念頭に置いているのだと言える。

カルト監視機構は、人の信仰生活という、人間の内心の自由の最も奥深くにあって、神にしか立ち入ることができず、神にしか判断し得ない事柄に関して、これを外部から別な人間が監視し、その是正を判断し、干渉し、抑圧することを肯定することにより、人の内心の自由に対する最大限の侵犯を肯定していると言って良い。そこで、この計画は人間の自由や自主性という、人の侵しがたい領域に対する侵犯に他ならないことが明白であるだけでなく、その設立自体が、神に対する越権行為なのだと言える。一体、誰が、他人の信仰生活という、神でしか判断しえないような事柄を、外から見て正確におしはかることができるだろうか。

聖書は述べている、
生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。」(Ⅰコリント2:14)

聖書はこのように、
信仰に属する霊的な事柄を、御霊を持たない人々、つまり、信仰を持たない生まれながらの人々が理解し、わきまえることは決してできないことを教えている。キリスト者の信仰生活における霊的な事柄は、この世的な観点からは決して価値判断することが不可能なのである。この世の常識や道徳や伝統など、たとえこの世の英知の全てを結集したとしても、それによって、神に属する霊的な事柄(信仰生活)をおしはかることはできず、ましてこれを裁いたり、評価することはできないのである。

にも関わらず、村上氏は、カルト監視機構の設立により、霊的な(信仰の)領域に肉的な(この世的な)原則を堂々と持ち込み、聖書の秩序を転倒させて、不信者が信者の内心を監視して取り締まることを肯定し、それによって、キリスト教が再びこの世の支配下に引き戻され、教会がこの世の権力と一体化し、結果的には、真のキリスト者がこの世の思惑によって干渉や弾圧を受ける道を開いて行こうとするのである。

村上氏は、カルト監視機構が悪用されれば、これまで宗教権力が悪用されて起きて来た最も恥ずべき歴史である「魔女狩り」や「異端審問」よりも、さらにもっと恐ろしい抑圧行為が容易に繰り返されかねない危険について、全く何の考慮もしておらず、一切沈黙を守っているが、これは極めて恐ろしいことである。

万民祭司となった新約のこの時代、キリスト者は一人一人が神に直接、聞き従うことが求められているのであって、たとえ信者であっても、他者の信仰生活の内面に立ち入って、これを管理したり、取り締まったりすることはできない。まして、キリスト教の部外者である信仰を持たない人々がそれをしようとしたならば、どれほど的外れで支離滅裂な評価や裁きが行われ、でたらめな「カルト狩り」が横行し、キリスト教という宗教全体がどれほどそれによってひっかきまわされることになるかは誰にでも予想できる。


にも関わらず、村上密氏はこのような危惧を一顧だにせず言い放つ、「
キリスト教の一牧師の案に大袈裟な警告は夢想家の戯言です」と。

このような同氏の態度からは、カルト監視機構の真の狙いに対する疑いが逆に生じない方がおかしい。カルト監視機構は、本当にカルト化問題の解決を目的としたものと言えるのか。むしろ、これを提唱する者たちの真の狙いは、キリスト教界の不祥事を口実にして、強制力をふりかざしてキリスト教界に介入し、教会をこの世の管理下に置いて、彼らの思惑に従わないキリスト教徒をことごとく弾圧し、迫害し、排除することにあるのではないだろうか? 教会を、御霊を知らず、神の霊的秩序を全く知らず、これに従うこともしない不信者たちの手に委ね、こうした者たちが、この世の法則をふりかざして教会を占領し、聖書の秩序に忠実に従おうとして彼らの支配を拒む善良なキリスト教徒を、教会からことごとく駆逐することを、この計画は最初から、隠れた目的としているのではないのか? たとえ村上氏が何千万回、そのようなことはあり得ないと述べたとしても、カルト監視機構そのものの悪用と暴走という問題が何ら考慮されていない以上、この機関は、設立されれば、やがてそういう結果に至りつくのは必至だと考えられるのである。

実際に、村上密氏がインターネット上に作り上げた「サイバーカルト監視機構」とでも呼ぶべきネットワークによる教会の監視活動がどれほどの暴走を見せたかについては、別に述べるとして、そもそもカルト監視機構の設立を提唱する村上氏自身は、本当に、同氏の言うように無害な「
キリスト教の一牧師」に過ぎないのであろうか?

本稿では、これから鳴尾教会に関する事件の顛末を振り返りながら、村上密と言う人物について考えて行くが、その過程で私たちは、鳴尾教会に起きた事件を通して、自分は無力で無害な「
キリスト教の一牧師」に過ぎないと述べている村上氏が、当時から、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団という強大な宗教権力を味方につけて、自分よりも弱い立場にある教職者や個人の信徒、ひいては教会そのものに対して、どれほどの影響力を及ぼし、これを蹂躙して来たかを伺い知ることができる。

この事件を通して、私たちは、村上密氏が、カルト監視機構の設立を提唱するよりもはるか前から、自らに与えられた権限を踏み越え、教団や教会の規則を無視して、他教会を私物化し、自分たちの利益にかなわない者にはいわれなき嫌疑をかけて追放し、暗闇の密室に置いて恣意的な「魔女狩り」を繰り広げて来た事実を知るのである。

こうした事件を詳細に振り返る時、「キリスト教の一牧師の案に大袈裟な警告は夢想家の戯言です。という村上密牧師の言葉が、どれほど信用ならない発言であり、これは同氏が心に抱いている野望の重大な危険性と、同氏がこれまで暗闇の密室で、他教会の内政へ不当に干渉し、不法な形で権力の拡大をはかって来た過去をカモフラージュしようという意図のもとに発せられた詭弁であることがよく分かるのである。

村上氏は、自分は善良で無力な一人の牧師に過ぎず、大それたことなどできるはずがないと印象づけることで、自分が全宗教界に君臨してこれを抑圧することのできる機関を作り、その強大な権力機関の頂点に立つという、どんなキリスト教の牧師も心に抱いていないような並外れた計画と野望を心に抱いていることの恐ろしさを人に悟られまいとしているだけである。


こうしたことから思い出されるのは、次の聖句である。
彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。」(Ⅱテサロニケ2:4)

聖書によれば、
あらゆる宗教を超えて、それに君臨するほど自分を高く掲げることは、反キリストの特徴であることが分かる。

地上のどんな人間にも、他者の内心を取り締まることのできるような権限は与えられていない。自由意志が保障されることは、人間が人間であり続け、人としての尊厳を保つために決して奪われてはならない条件である。

にも関わらず、人間のこの最も本質的で侵しがたい自由の領域に手を付け、人の内心を取り締まり、抑圧することを正当化するような思想は、表向きどんなもっともらしい口実がつけられていたとしても、事実上、無制限の権力、無制限の人心支配の手段を得たいという欲望から出たものなのである。

いつの時代も、強大な権力を手にした独裁者が最後に目指すのが、言論弾圧と、言論が生まれる源となる人間の内心の自由の弾圧であった。そういうことが起きるのは、権力に憧れる者が、己の手にした権力の完成形として目指すのが、完全な人心支配、すなわち、自分が絶対者となって人々に君臨し、人々の心を完全に掌握し、支配すること、つまり、己が神となって人の心を治めることだからであると筆者は考えている。

ヒトラーもスターリンも、単なる一人の人間に過ぎなかったが、今日、彼らの所業に対して、「
大げさな警告は夢想家の戯言である」などと言える者は誰もいない。こうした独裁者たちは、一個の人間であるよりも前に、強大な権力機関を歯車のように回す司令塔であり、システムであった。

だとすれば、宗教教団全体を味方につけて、教団や教会の規則を無視して他教会の内政に干渉し、教会の自治を破壊し、教団教派の枠組みを超えてプロテスタント教界全体に君臨し、さらには、宗教界全体を取り締まることのできるカルト監視機構というはかりしれない権力を持つシステムの設立を提唱し、その頂点に立ちたいという野望を自ら述べている宗教指導者が、どうして無力で無害な一個の牧師であり続けられようか。強大な権力機構の指導者となった人間は、もはや単なる「キリスト教の一牧師」ではあり得ない。それは大勢のクリスチャンに思うがままに影響力を与え、大勢の信者の運命を狂わせることのできる強大なシステムなのである。
 
こうしたことを考えるならば、人間の信仰生活という、神でなければ決しておしはかることのできない人間の内心の自由の最も深みにまでも干渉し、これに外から価値判断を加え、支配し、取り締まろうという願望を述べる者は、神に代わって人の心を裁き、統治したいという欲望を述べているのであって、それは神に対する越権行為であり、人類が神に反して抱きうる欲望の中でも、最悪の性質のものであると言える。

こうした願望はサタンから来るものであって、神から来るものではない。その欲望の本質は、信者の心を神の御手から引き離して横領しキリストの花嫁である教会をキリストから奪い教会を私物化して、自分が神となってこれに君臨し支配したいという悪魔的願望である。

ちなみに、聖書はこのような願望を述べる指導者が偽り者であって、羊の群れを食い物にするためにやって来た強盗であり、その声に信徒が聞き従ってはならないことを警告している。そこで、聖書に忠実に生きることを真に願っている敬虔な信仰者の目には、彼らの目的が、神に対する反逆としての人間による教会の私物化であることが明確に分かるのである。

<続く>

自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至る



遅ればせながらニュース動画を記念に挙げておきます。
【報道ステーション】2016年3月18日放送 
ワイマール憲法の”教訓” なぜ独裁がうまれたのか? 


 
罪と罰 カルト被害者救済活動はなぜ聖書に反するのか。」を再掲しましたが、この記事は未完のため、まだまだ多くのことを書き足さなければなりません。

この記事を掲載した当時、記事は大きな反響を呼び、杉本氏サイドからも巨大な反発がありましたが、それはクリスチャンを決して「命の御霊の路線」に至らせず、再び「善悪の路線」へと引きずりおろそうとする彼らの目的が暴かれては困るためであったと私は見ています。

KFCとドクター・ルークの活動とは私は現在、無関係ですし、KFCの理念の誤りについても、詳細な分析をせねばなりませんが、それにしても、当時、ルーク氏の述べていた主張の中には、今日も見落とすことのできない極めて重要な内容がありました。それは主に次の二つの原則に集約されます。
 
➀キリスト教界をエクソダスせよ
②善悪の路線ではなく、命の御霊の路線に生きよ
 

➀については、約20年ほど前から、村上密氏のように、キリスト教界の諸教会のカルト化という問題にしきりに訴えては警鐘を鳴らす人々が現れました。こうした人々は、カルト化した教会やその牧師などを告発・非難することにより、キリスト教界のカルト化問題を解決したり、被害を食い止めることができるとしていたのです。

しかしながら、こうした人々の活動が恐ろしい方向へ暴走していくだろうとの予想を私が述べ、実際に、そうなったことについてはすでに何度も述べてきた通りです。当時、キリスト教界のカルト化という問題について、これとは全く別の見解が存在していました。それは、キリスト教界全体に救いがないこと、この教界は存立の時点からすでに聖書に反しており、フェイクであり、改善の見込みがないため、エクソダス(脱出)するしか信者が正しい信仰を保つ道はない、ということが提唱されていたのです。

実は、カルト被害者なる人々の出現は、この点で、非常に画期的な意味を持っていたのではないかと私は見ています。
 
カルト被害者については、これまで良い印象がほとんど語られてきませんでした。村上密氏や杉本徳久氏の率いるカルト被害者救済活動の異常な暴走がそれに追い打ちをかけ、カルト被害者という言葉すら、最近は、あまり聞かれなくなったようです。

おそらく、当のカルト被害者も、自分たちの存在に何か重要な意義があるとは思っていないでしょう。むしろ、自分たちは弱く無知であったために犠牲にされ、人生の敗者になったのだと考えて自分を恥じ、二度と犠牲者にならなくて済むように、弱さと無知の克服に取り組んでいるかも知れません。

しかし、私はこうしたこの世の観点とは全く別に、カルト被害者の存在には、極めて重要な霊的意義があったと考えているのです。それはまず、彼らがキリスト教界から離脱した点にあります。

人が悪事の被害を受け、犠牲になることは、この世では、何ら良いこととはみなされませんが、カルト被害者の存在について、それを単なるマイナスの出来事と決めつけることができないのは、キリスト教界につまずくという出来事があったために、彼らはキリスト教界の偽りに気づくきっかけを得た点です。そして、何より、その出来事があったおかげで、そこを出て純粋な信仰生活を探求しようとする人々が現れた点です。

もし何らかの出来事をきっかけに従来の組織に絶望するということがなければ、信者がキリスト教界を離れることはありません。

何かの被害が発生して初めて、信者は自分の属していた教会に対する根本的な疑いを持つ可能性が出て来るわけであり、その組織の中では本当の信仰を持てないことを知り、これを離れ、まことの神を探求する可能性が生まれるのです。その際、多くの信者が、たまたま自分の属している教会にだけ重大な問題があったのではなく、キリスト教界そのものに根本的な矛盾があることに気づく可能性があるのです。

神の御前で極めて重要なのは、神を求める人々の心の真剣さ、純粋さではないかと私は思います。そこで、キリスト教界につまずいたことをきっかけに、キリスト教界を告発して報復を果たそうとするのではなく、まことの神ご自身を純粋に知りたいと心から願う人々が出現したことに、はかりしれない価値があったものと私は考えています。   
 
こうして、キリスト教界の虚偽性から離れ去り、聖書のまことの神を真実に知りたいと願う信者の一群が現れたことにより、初めて、組織としてのキリスト教界とは関係のない、これとは全く異なる、聖書だけに立脚した信仰生活が生まれる可能性が生じたのです。

この点で、カルト被害者なる人々の存在は重大な意義を持っていましたが、それゆえ、その後、彼らがどこへ向かって行くのか、彼らが従来の教会生活を離れて、どのような形で信仰生活を維持し、まことの神に仕えるのかという問題もまた、ある意味、全宇宙的と言っても差し支えないほどに、測り知れない重要性を持っていたのではないかと私は考えています。

だからこそ、カルト被害者を含め、キリスト教界を離れた信者らの行方を巡って、実に激しい争奪戦が今日に至るまで繰り広げられて来たのです。それはひとことで言えば、「組織から脱出した人々を、絶対に組織から逃がさず、再び人間の奴隷とすること」を至上命題とする暗闇の勢力が、モーセとイスラエルの民の脱出を妨げようと、彼らを追ったエジプト軍のように、全力を挙げて激しい欺きと妨害によって、キリスト教界を脱出した信者らの前進を妨げて来たためです。

もし信者がキリスト教界にとどまっていたならば、こうした妨害はなかったでしょう。キリスト教界にいる限り、信者は、人間の教えや言い伝えにがんじがらめにされて、自由がなく、まことの神に出会う可能性もほとんどありません。

キリスト教界には、牧師や教職者といった目に見える人間の指導者に信者を従わせるべく、何重ものヒエラルキーや規則が定められており、その伝統的なしきたりや序列を守り、偉い指導者の言うことに聞き従い、彼らの面子を傷つけないことが、あたかも正しい信仰生活であるかのように説かれています。

しかし、これらはすべて人間の言い伝えであり、人を神ではなく人間に従わせる教えであって、このキリスト教界を出ない限り、信者はこの偶像崇拝の体系から、つまり、人間の作り出したこの世の思想に基づいて地上の目に見えるヒエラルキーに人間を従わせようとする偽りの体系から、一歩たりとも外に出ることはできません。

信者が人間の作り出した地上の組織の囲いに閉じ込められて、人間の指導者の顔色を第一に伺って生きている限り、彼は決して真にキリストだけを主と仰いで生きることはなく、キリストの命に基づいて天的な生活を送る可能性もありません。ですから、信者がキリスト教界に所属している限り、悪魔にとって、彼は何ら脅威とはならないのです。

しかし、もしも信者がこの壮大なフェイクであるキリスト教界を離れ、人間の指導者に帰依することを拒み、見えないキリストだけに頼ることを宣言して新たに出発すれば、その信者の行動は、暗闇の軍勢には大変な脅威と映ります。

こうした信者の一人でも、真にキリストと共なる十字架の死を経て、キリストの復活の命に到達すると、そこから、全宇宙を左右するほどの測り知れない天的な歩みが始まります。

そこには、復活、自由、真理が生まれ、悪魔の獄屋が打ち破られて、その虚偽がことごとく明るみだされ、とりこにされていた人々が解放されるきっかけにもつながりかねません。

そこで、信者たちがキリストにあって真に自由で正常な信仰生活を送ろうとしてキリスト教界をエクソダスして、人間の作った組織の囲いから出て行くことは、暗闇の勢力にとっては、極めて重大な脅威なのです。

ですから、こうした人々を組織から逃さず、再び、人間の前に跪かせ、人間を恐れさせ、人間の奴隷とするために、暗闇の勢力は全力を挙げて彼らの妨害に回ったのです。

その目的を遂げるために、彼らは、一方では、カルト被害者を優しくかばい、助けてやる「救済者」を装う偽善的な指導者を立て、彼らの甘言により、被害者を欺いて、彼らが自主的に人間の指導者に従うよう仕向けました。それがかなわないと、今度は、暴民のような自称「信徒ら」を送っては恫喝し、恐怖によって、信者らを再び人間に従わせようとしました。

この点では、KFCも、カルト被害者救済活も、どちらも人間の作った組織の囲いの一つであり、キリスト教界を脱出した信者らが、決してキリストだけに頼る真実で自立した信仰生活に到達しないように、神と信者との中間に立ちはだかる障壁、目くらましとしての機能を果たしたと言えるでしょう。

しかし、それでも、ドクター・ルークの主張の中には、若干、カルト被害者救済活動の指導者らよりも前進していた点がありました。それが、上に述べた二つの原則なのです。

二つの原則のうち、後者の「命の御霊の路線」について考えてみましょう。

「善悪の路線」とは何か、ひとことで言えば、それはクリスチャンが罪の自覚と決して手を切ることのできない生活です。

キリスト教界に所属していると、信者は自分がいかに罪人であるかという自覚だけが深まっていき、決してその罪意識から解放されることができません。キリスト教界でよく見られる風景は、信者が、神を知る前の自分がどれほどひどい生活を送っている罪人であったかという懺悔のような赤裸々な告白の証を、繰り返し、繰り返し、語らせられている風景です。

このような「かつての悪い自分」についての告白を続けることで、信者は余計にその負の記憶から抜け出られなくなり、罪の意識から解放されるどころか、教会を離れるとかつてと同じような罪人に戻ってしまうという恐怖にがんじがらめにされていくことになります。

こうした罪意識は、信者は神を信じているつもりでも、根本的に自分は全く変わっておらず、教会の助けがなければ、更生不可能であるという自覚から生じています。つまり、信者の「救い」が、宗教組織に質に取られていることによるのです。

信者は自分ではあたかも自主的に神を信じて生きているつもりでいても、実際には、彼は地上の宗教組織に属さずには、信仰生活は送れないのだと思い込まされています。

このような思い込みに陥っている限り、信者は、地上の宗教組織を離れることに恐怖を抱き、その組織の人間の指導者から見放されたり、良い評価を得られなくなることが、「不信仰」であると考え、人間の指導者の顔色を第一に伺う生き方から抜け出られません。

ですから、そのような場合、信者は神を信じているつもりでも、実際には、地上の組織、目に見える人間の指導者に従い、人の思惑に基づいて生きていることになります。そして、組織を離れると、救いが失われるかのように思い込まされているのです。

このように、信者にとっての「救い」が組織の所有である限り、組織から承認を得られなくなり、追放されれば、自分は救いを失うのだという恐怖や罪意識から、信者が自由になることはできません。

つまり、信者にとっての「救い」が、本当に自分に属するものではなく、組織から貸与されるものに過ぎない限り、彼には完全な救いの自覚が生まれないのです。キリストの血潮が永遠に自分を救うことができることの意味を知らず、根本的に自分は罪人だが、教会のおかげで何とか普通に生きられているだけだと思い込んでおり、教会からの承認という「応急処置」がなくなれば、自分は恐ろしい罪人に逆戻りするだけなのだという罪悪感から決して抜け出すことができないのです。このような考え方では、真の救いも、罪からの解放も、自由も、決して信者は味わうことができません。

さらに、信仰を持たずとも、複雑怪奇なこの世の仕組みに適合し、そこで人々の評価を十分に得て成功して生きるのは、誰にとっても、かなり難しいことですが、宗教団体に入ると、信者はさらに厳しい道徳的基準を守るよう求められるようになるため、まさにがんじがらめの生活が始まります。

この世においても、社会にうまく適合する術を知らない人々が宗教組織に入ると、そこで救いを得られるどころか、今度は宗教組織の中で、この世よりももっと厳しい基準に適合するよう求められ、それができない信者は、罪の自覚が恐ろしく増し加わり、下手をすると、その重圧のために精神まで破壊されるということが起きます。

このように組織や指導者の意向や都合にがんじがらめにされて、罪意識から一歩も抜け出せない生活こそ、人が自分で自分を義としようとする「善悪路線」に基づく生活であって、これはキリストの血潮に悪質に逆らう偽りなのですが、そこから出て、信者がただ聖書だけに基づいて、見えない神を仰いで生きるようになる時、信者はようやくキリストが十字架において流された血潮が、無条件に信じる者を義としてくれることの意味が分かるようになります。

そして、自分の救いは「組織」にあるのではなく、信仰を通して、他ならぬ自分自身に与えられているのであり、他人の思惑によって奪われたり、取り上げられたりするような不確かなものではないことが分かります。

キリストの流された血潮によって、神の目に自分が永遠に義とされていることが分かった信者は、ようやく従来の罪意識から解放されて、世からの評価を失うことを恐れて汲々とし、絶えず自分を責めながら生きる必要がなくなります。

こうして信者は、罪に定められることへの恐怖からあれやこれやの規則を厳格に守って生きようとする恐れに満ちた生活から抜け出て、その代わりに、自分の心からの願いに従って生きることが可能となります。自らの願いをキリストと分かち合い、信仰によって、それを実現しながら生きるという別の生活が開けるのです。

こうして、キリスト教界を出たことにより、信者の人生の目的は完全に変わるのです。以前は、人の目に罪に定められたくないという恐れから、自分を何とか人の目に正しく落ち度なく見せようと、各種の「べき論」にがんじがらめにされて生きていた信者が、今や、絶え間ない罪の意識から解放され、そういう応急処置のようなやり方で自己改善を目指すことがなくなり、キリストの内なる義に従って、自分が何をしたいのかという願いに基づいて良くなるわけです。

罪意識は常に恐怖と、強迫観念を生み、信者から自由を奪いますが、罪意識から解き放たれたところでは、人は何を「せねばならないか」ではなく、何を「したいか」を中心に人生を生きることができるようになります。これは放縦な生活を意味するのではなく、人が神に自分の願いを知っていただき、神と共同で自らの人生を治める生き方を意味します。

さて、話を戻せば、カルト被害者救済活動の支持者サイドからの攻撃は、このように、キリスト教界の罪定めから自由となって、「いのちの御霊の路線」に生き始めたクリスチャンを、再び「善悪の路線」に引きずりおろすことで、罪意識の奴隷にすることを目的としてなされたものでした。

今はっきり言えることは、一旦、キリストだけを頼りに、神だけに従って生きると決めたのならば、信者は、二度と人間の顔色を伺う生活に戻ってはいけないということです。

人間の歓心を失わないことを第一に生きる(つまり、世間の評価を気にしながら、世間と調子を合わせて、世と折り合いをつけて生きる)ことを目指し始めると、信者はたちまち「善悪の路線」に落ちて、キリストにある自由を失ってしまいます。

なぜ聖書に次のような御言葉があるのか、その意味を考えてみましょう。

たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方とすべきです。それは、
「あなたが、そのみことばによって正しいとされ、
 さばかれるときに勝利を得るため。」
 と書いてあるとおりです。」(ローマ3:4)

つまり、この世(と世に属する人々)の評価を失うことを恐れながら、同時に、神だけの評価を求め、神だけに従って生きるというのは、不可能であり、世の評価を絶え間なく気にする生き方と訣別しなければ、信者はキリストにある良心の潔白と、自由を保つことはできないのです。

これは、ある人々にとっては、極めて理解しがたいことに映るでしょう。なぜなら、多くの信者は、この世の常識やら、伝統やら、世間体やら、しきたりやら、空気やらを、極めて重要なものとみなしており、こうした世の考え方を気にせず生きるなど、あまりにも大胆不敵で傲岸不遜な、人としてあるまじき放縦な生活だと誤解しているからです。

多くの信者は、道徳的で品行方正な生き方を目指すあまり、それこそが、信仰生活だと誤解しています。あるいは、弱者救済などの慈善事業を評価するあまり、それこそが、信仰生活だと誤解しています。

しかし、ぞれらはいずれも、人間の目に道徳的と見える生き方に過ぎず、こういった生き方を「信仰生活」だと誤解している人々は、この世の最も優れた道徳でさえ、神の義には遠く及ばないどころか、神の義に悪質に対抗するものであることが分かりません。人の目に善と見えるものが、必ずしも、神の目にも善ではないということが分からないのです。

むしろ、神の義とは、恵みとして与えられるものであり、人間が自らの努力によって達成しようと目指す義とは全く無関係なところにあるのです。だからこそ、キリストにある命の御霊の法則は、この世の善悪の法則とは全く異なるものなのです。

私は何度もマザー・テレサのことを書いて来ましたが、彼女のように、この世において立派で優れた生き方をしているように賞賛されている人が、必ずしも、神を親しく知っているわけでないどころか、むしろ、神から見放されたという絶望的な思いに苛まれているがゆえに、この世において立派な生き方を続けないわけにいかないという逆説(強迫観念)に陥っている場合が往々にしてあります。

生涯、弱者救済にいそしむ慈善家のような人々にはこのようなタイプが非常に多いのです。つまり、彼らは、自分が神によって完全に救われているという確信がないがゆえに、絶え間なく外面的に立派な行動をすることによって自己を取り繕わないわけにはいかず、その慈善は真実な愛から出て来たものではなく、むしろ、内心の絶望や恐怖に裏付けられた善行だということです。
 
この世の顔色をどんなに伺って、どんなにこの世に対する義務を果たし、人から賞賛されたとしても、それによっては、人は永久に義とされることはありません。ただ苦労と内心の絶望だけが果てしなく増し加わって行くだけです。

この世は人がどんなに努力しても、人を義とすることができないからです。しかし、御言葉に基づいて、キリストの血潮によって義とされる道を選び、人の思惑に従うのではなく、神のみに従って生きるならば、信者は自分の一切の行ないによらず、いつでもただちにイエスの血潮によって義とされることができるのです。

しかし、信者自身にとっても、このキリストの新しい命に基づく道を歩むことは、極めて大きな発想の転換を意味します。

真にキリストの復活の命に生き始めた時、初めて、信者は、自分がこの目に見える世界全体、生まれながらの人類全体と、その道徳体系にとって、大変な脅威、敵とみなされるようになったことを知ります。

信者は、この世の霊的体系を脱して、キリストの霊的体系を生きるようになって初めて、自分がもはやこの世の所属でなくなり、キリストがこの世から受けられたのと同じ理由なき憎しみを自分も向けられていることが分かります。

それは、彼がこの世ではなく、キリストだけの所有となったことによるのですが、信者は、今まで慣れ親しんで生きて来たこの世全体が、もはや自分の仲間ではなくなり、敵となったことに、しばらくは当惑するでしょう。

さらに、この世の法則は、信者がキリストと共なる十字架で世に対して死んだ後も、全力で彼を再び世の奴隷として取り戻すべく、あとを追って来るでしょう。

こうして、信者は、キリストの命にある自由を失わず、復活の領域を歩み続けるためには、この世とそれを支配する暗闇の軍勢から来るあらゆる敵意と妨害を潜り抜けて戦わなくてはならないことが分かります。

その戦いの過程で、信者はどんな妨害があっても、この世と世に属する人々の圧迫を恐れてはいけないという事実と、たとえ世からどんな妨害があろうと、キリストの命にある力がそのすべての圧迫に勝る勝利を与える、という事実を理解するようになります。

この世が信者に向けて来る憎しみは、人の予想をはるかに超えて、悪質であるにも関わらず、信者はそれにたじろいではならず、圧迫されて後退してもならず、これに対していかなる時にも勝利する秘訣が、キリストの命の中にあり、その命なる方が信仰を通して自分自身の中に宿って下さっていることを理解するのです。

もし信者が、暗闇の勢力からの圧迫を恐れるゆえに、人の言い分に耳を傾け、人に憎まれないことを第一目的として生き始めるならば、彼は再びこの世の奴隷となって敗北するしかなくなり、キリストの天的な命に基づく生活は維持できなくなります。

ですから、たとえ突然、何万人の反対者が現れようと、どんなに親しい兄弟姉妹に裏切られようと、どんな予想を超える出来事が起きようとも、信者は、世と世に属する人々を恐れずに、ただ聖書の御言葉に立脚して、神の義に頼り、これを証し続け、キリストの命だけによってすべてを切り抜ける秘訣を学んで行かねばならないのです。

そうこうしているうちに、こうした戦いの過程で、どんなに心細さを覚える瞬間にも、神以外のいかなるものにも頼らないこと、神の中に全ての問題の解決の秘訣が実際にあることを信者は学ばされて行くのです。

自分を見るならば、信者は自分には何もなく、外からの助けなしには、到底、あらゆる困難を切り抜ける力がないように感じられるかも知れませんが、その天然の無力さにも関わらず、内なるキリストの命が全てを供給するのです。

文字通り、キリストがすべてを供給するのです。救いはすでに一生分、いや、永遠に至る分まで、信者に与えられています。ですから、信者は世にあれやこれやの助けを求める必要がないのです。ただ神だけに頼って前進するならば、信者は信仰によって実際にあらゆる困難が打ち破られること知らされるのです。困難が打ち破られるのみならず、神が願いを成し遂げて下さるのです。ですから、これは途方もない道です。

生まれながらの人類は、この終わりの時代、自己の「道徳」を掲げては、自分たちの存在を美化し、生まれながらの人間の威信を築き上げるために、独自のしきたりを作り、これに一人でも多くの人を取り込むために、あらゆる規則を掲げ、強大な組織を作るでしょう。そして、それにそぐわない人間を容赦なく罪に定めるでしょう。

終わりの時代、生まれながらの人類の全精力が、人間の威信を強化するために注ぎ込まれるでしょう。宗教とは、神の名を用いながら、その実、神によらずに、人間が己のプライドや威信を建て上げるために作りだす壮大な嘘の体系に過ぎません。

キリスト教界の教えは、全体として、信者が神ではなく、目に見える人間に従うべきというもので、そこには、牧師を筆頭として、信者が従うべき無数の重層的ヒエラルキーがあり、人間の序列に反することが、「罪」とされているのです。

神に従わないことが罪なのではなく、人間の定めた教えに従わず、人間の威信を傷つけることが、「罪」とみなされているのです。早い話、そこでは人間が神となっているのです。

いかに人間の目に麗しく、人間に優しく、上品で、道徳的に見え、そつなく、あたりさわりないものであっても、こうして、聖書の基本から逸れて、神への愛と従順を失い、むしろ、神を退けて、生まれながらの人間を義とするために作られた体系には、何の価値もありません。

だからこそ、このような偽りの体系からはエクソダスが必要なのです。

人間の作り上げた偽りの体系は、どこまでも信者を奴隷にしようと、後を追って来るでしょう。しかし、信者が第一に心を砕き、従うべきは神の御心であって、人間の思惑ではありません。

「たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方とすべきです。」との言葉は決して誇張ではなく、行き過ぎでもないのです。神を愛することと、この世を愛することは決して両立しません。

神に従うとは、場合によっては、この世の全ての人々の思惑の全てに反してでも、ただ神の御言葉のみに従うという決断と行動を意味します。これには代償が伴います。

以前にも挙げましたが、旧約聖書の列王記Ⅰ第13章には、人間の言葉を優先して、神の戒めを破った預言者が、野の獣に食い殺された場面があります。この結末を残酷すぎると私たちは異議を申し立てることができるでしょうか?

この世的な見栄えの良さを保とうとする生き方と、真理に従う道は、ほとんどの場合、両立しません。もし信者が、世の評価や人の歓心を失わないことを第一に生きるならば、遅かれ早かれ、彼は真実を売り払って、無難な善人を装いながら、沈黙を守って生きるしかなくなります。それは偽善者の道です。

もし信者がこの世に配慮し、世の人々に同調して生きるならば、同胞が見殺しにされることに沈黙するくらいのことでは飽き足らず、かつてキリストが十字架につけられた時と同じように、今日も、罪なき神の御子を見捨て、裏切り、代わりに人類の代表である罪人のバラバを赦して、キリストを再び十字架につけよと叫ぶ羽目になるでしょう。

世を愛する道は、いつも変わりない結論に至りつきます。それは、罪なき神の御子を再び十字架につけて罪に定めてでも、生まれながらの人類を義とし、名誉回復したいという願望なのです。

そして、逆説的に、神を抜きにした人類の名誉回復という偽りの願望は、決して人類を解放に導くことなく、今まで以上の恐ろしい裁きと罪定めの中に人類を落ち込ませるだけなのです。

主に従う道は、人類が己の義とプライドを強引に押し通す道ではありません。主に従う道は、人が神を退けてでも、己の命を保とうとする道ではなく、むしろ、キリストのために人が自分の命を憎む道であり、キリストのために自分の命を捨てる者がそれを得ると聖書にあります。

戦いは戦いぬけば、必ず、勝敗がつきます。たとえ、この世から憎しみや妨害がやって来たとしても、恐れるには足りません、信者には「世に勝った」方が共におられるからです。

信者が自分の命を惜しまずに、死に至るまで真理を証し、神の義に徹底して立ち続けるならば、悪者は恥をこうむって逃げ去り、代価を払った者が神の御前に良しとされるでしょう。

黙示録によると、臆病者は罪に定められ、火の池に投げ込まれることになっています。ですから、主にあって、臆することなく、勇敢でありましょう。悪魔の罪定めは、その言い分を真に受けて、恐れを感じた人にとってだけ効力を持ちます。イエスの血潮に立脚する信者に対しては、悪魔の言い分は効力を持たないのです。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かに実を結びます。

自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。

わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたし仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。」(ヨハネ12:24-26)

「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現れた。
 私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。
兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。

それゆえ、天とその中に住む者たち。喜びなさい。しかし、地と海とには、わざわいが来る。悪魔が自分の時の短いことを知り、激しく怒って、そこに下ったからである。」(黙示12:10-12)


正義の仮面を被り、無実の教会とキリスト教徒を迫害する村上密氏の活動の危険 まとめ

~異端の教えを無批判に取り入れ、無実の教会を迫害し、
正義の仮面を被りながら、カルト被害者救済活動を暴走させる
アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団と村上密牧師の危険~


 さて、筆者はブログ記事において、2001-2002年にかけて鳴尾教会で起きた混乱に関して、教団が公に配布した資料を公表した。この資料は以下でも示しているが、この発表により、鳴尾教会を巡り教団が長年に渡り、流布して来た数々のデマの暗闇が大きく打破されたものと信じる。

これまで鳴尾教会に関しては、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団及び村上密サイドが、彼らに都合の良い偏った虚偽の情報ばかりをさかんにネット上に流布して来た。 そして、事件の当事者でもなく、当時の教会の様子を知りもしない者たちが、その虚偽の情報に見境なく飛びついては、関係者を中傷し、事件を膨らませながら事実と全く異なる空想物語を言い広めて来た。
 
しかしながら、以下で示す内容は、村上密氏がこれまで鳴尾教会について言い広めて来た情報が、完全に嘘であることを証明している。この主張の信憑性を証拠立てる点としては以下が挙げられる。

1. 以下で示している内容は、当時の教会の実情をよく知る当事者の証言に基づいており、なおかつ、教団側によって公に認められて信徒に配布された資料を根拠としているため、当事者でない者が、確たる証拠もなしに、この事実関係を否定するのは不可能である。
 
2.教団から配布された資料を通して、改めて明らかになるのは、鳴尾教会を混乱に陥れた原因は、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団に属する指導者ら(津村昭二郎氏、村上密氏)による不当な教会内人事の私物化にあったという事実である。

鳴尾教会の事件を振り返るとき、何よりも明白となるのは、同教会に混乱を引き起こした何よりの原因が、当時の鳴尾教会の主監者であった津村昭二郎氏の義理の息子としての立場を利用して、教団や教会に定められた正式な手続きに則らず、本来は同教会において何の権限を有していなかったにも関わらず、信徒の了承も得ずに、密室の暗闇で教会に不当な介入を繰り返した村上密牧師の不誠実で信用ならない行動にあったという点である。

また、同教会に尋常ならぬこだわりを抱いて引退を拒み、そのために自らの後継として派遣された伝道師を、過酷な労働条件で酷使した挙句、不当な汚名を着せていわれなく追放した当時の鳴尾教会の主監者であり村上密氏の義理の父である津村昭二郎牧師の行動の責任が問われるべきである。

3.にも関わらず、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団は、鳴尾教会に混乱が起きた2001-2002年当初から、村上氏と津村氏らによって教団内・教会内手続きに従わずに行われた鳴尾教会内人事の私物化という問題点を何ら追究しないまま、こうした指導者らの無責任な対応をかばい立てし、ごまかすために、ただ津村氏の引退により、事件をうやむやなままに幕引きをはかった。

4.さらに、これに終わらず、教団側はその後も、鳴尾教会に起きた混乱の責任が、あたかも教団自らが派遣した後任の山田牧師夫妻や、信徒の側にあるかのように見せかける虚偽の情報を拡散することで、長年に渡り、自らの責任をごまかそうとして来た。

その嘘を正当化するために、教団側は、かつて津村氏が鳴尾の後継者として派遣された伝道師夫妻に濡れ衣を着せて、鳴尾教会から追放をはかったのと同様に、鳴尾の後任である山田牧師牧師夫妻に「異端者」の濡れ衣を着せることで、鳴尾教会に起きた混乱を後任の牧師に責任転嫁することを正当化しようとはかったのである。

5.しかも、このような虚偽の情報を流布するにあたり、村上密氏は、教団のホームページ等、教団の正式なツールを通じて物事を公にして議論を進めようとはせず、むしろ、自身の私的なブログや、アッセンブリー教団とは何の関係もない私人である杉本徳久氏のブログ「随想 吉祥寺の森から」に代表されるような、教団には何ら関係なく、従って、本来、当然、教会内人事に口をさしはさむ権限も持っていない部外者を積極的に活用して、鳴尾教会を貶めるためのネガティヴ・キャンペーンを行った。

村上氏がこれまで、自らにとって不都合とみなした政敵を貶め、印象を操作して貶めるためのネガティブ・キャンペーン(人物破壊工作)の多くを、教団とは何の関係もない部外者の口から発表させて来たことは周知の事実である。

杉本徳久氏のブログについては、当初から、同氏が「疑わしい」とみなしたクリスチャンを次々と根拠もなくネット上で一方的に吊し上げては私的に制裁を加えるというものであったため、暴走の危険が指摘されていたが、案の上、同氏のブログはキリスト教に恨みを持つ者たちが集まっては、昼夜を問わず、キリスト教徒に対する見境のないリンチを繰り広げるだけの場となって行ったことは、「罪と罰 カルト被害者救済活動はなぜ聖書に反するのか」ですでに指摘したことである。

村上氏はこのように教団と無関係の部外者を積極利用して、インターネットを中心に、自らの意見を代弁させたわけだが、そうした行為に及んだ理由としては、万一、村上氏や教団側の投げかけた疑惑に十分な根拠がないことが明らかにされて、後日、相手方から名誉棄損の訴訟が提起されるなどして責任を問われた際に、同氏や教団関係者らが直接、矢面に立たされることなく、責任を逃れる目的があったものと見られる。

村上氏はカルト化の疑いを投げかけた教会には幾度も自分から裁判をしかけておきながら、自分自身は責任を追及されたくないばかりに、教団とは何の関係もない個人に全責任を身代わりにかぶらせる形で、一般人に自分の意見を代弁させて、教団側にとって都合の良い捏造された情報を言い広めて来たのである。

こうして、自らの見解を公式に発表して自分の述べた言葉の責任を取ろうとはせず、教団と無関係な個人や支持者を身代わりに矢面に立たせることで、相手に公に反論する機会も与えずに、公の審議にはかることもないまま、何の裏付けも取れていない不確かな虚偽の情報を一方的に次々と流布しては、政敵を貶め、クリスチャン同士の疑心暗鬼と対立を煽り、それによって「カルト問題の専門家」として脚光を浴びて来た村上氏が、いかに信用ならない人物であり、同氏の唱える「カルトとの闘い」が、信憑性のない荒唐無稽な嘘っぱちであるかは、今や誰の目にも明白である。

6.こうした一連の事件を振り返るとき、村上氏の唱える「カルトとの闘い」とは、村上氏が不都合な政敵を追い落とすための口実に過ぎなかったことが分かる。鳴尾の事件を見ても分かるように、同氏はすでに十年以上の長きに渡り、自らにとって都合の悪い信徒に対して、「異端者」の濡れ衣をでっちあげては、繰り返し相手を誹謗中傷することで、信用の失墜をはかり、追放を試みて来たのである。つまり、魔女狩りのような「異端疑惑」は、村上氏が自らに不都合な政敵を追放するために用いる常套手段だったのである。

アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団は、こうした村上氏や津村氏の身勝手な行動をいさめることもなく、むしろ、その言いなりとなって、彼らと一緒に危険な活動に従事し、卑劣かつ無責任に自らの不適切な対応をごまかし、弱い立場にある牧師や信徒、ひいては教会にまで身代わりに罪を着せながら、責任転嫁をはかって来た。
 
同教団は、本来ならば、鳴尾教会に起きた混乱を収拾すべき立場であったが、それをするどころか、混乱の責任を一方的に教会に転嫁することにより、自分たちは知らぬふりを決め込み、事態をより悪化させて来たのである。

恐ろしいのは、今やアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団全体が、津村氏や村上氏の私物のように動かされている事実である。
 
記事「「カルト監視機構」という名の秘密警察の設立について」の中でも指摘した通り、こうして他教会の人事に不法に介入しては教会を私物化し、不都合な人間にはでっちあげの嫌疑をかけて追放し、自らに不利な情報は隠蔽し、捏造された情報を支持者を使って大量に流布することによって、自らの責任をごまかし続けて来た村上氏が、まるで正義の味方のような仮面を被って、「弱者救済」の美名の下、「カルト被害者救済活動」を推進し、教団全体を「カルトとの闘い」に巻き込んで来ただけでなく、果ては「カルト監視機構」の設立を訴えて、教団の枠組みを超えて、プロテスタントの全教団教派に属する諸教会の人事にまで介入しようと試みていることは、恐ろしい事態である。
  
このように全く信頼できない行動を繰り返す指導者がリーダーとなって、全プロテスタント教界の教会に干渉することのできる機関が設立されることが、どれほどキリスト教界全体にとって重大かつ恐ろしい危険を意味するか、改めて指摘するまでもないであろう。
 
ちなみに、村上密氏の活動については、カルト被害者の側からも早くから疑念の声が上がっていた。ORCを守る有志の会からは、同氏に対して、すでに2009年の時点で「本当に専門家なのだろうか?」との深刻な疑念が投げかける声明が発表されている。 

 



カルト被害者の側からも村上密氏の活動には疑念の声が上がっている。
ORCを守る有志の会のホームページから)


     
また、筆者が「偽預言者をゲストに招く教会」の記事でも指摘した通り、村上密氏自身が、カルト化の疑いがあると知っていた指導者を堂々と自らの教会へ招き、被害を受けた信徒の目の前でメッセージをさせるという行為に及んでいたことを、被害者自身が証言している。もともと怪しい霊的ムーブメントを率先して無分別に取り入れて来たアッセンブリー教団が、他教会の活動だけを「カルト化の疑いがある」と批判すること自体がおかしいのだが、それをさて置いても、これは悪質な二重性のある行動だと言わざるを得ない。

7.鳴尾教会は、このような恐るべき腐敗・無法状態・無責任状態に陥った教団から、正式に離脱を決定したが、その際、教団側(村上氏+津村氏サイド)は、教会の決定に復讐心を燃やし、あたかもそれが山田牧師夫妻による不法な「教会の乗っ取り」であったかのように主張して、鳴尾教会の教団からの離脱の決定を撤回させようと、教会に恫喝訴訟をしかけるなどして、執拗に制裁を加えた。

8.しかしながら、村上サイドの主張は裁判によっても認められることはなく、教団側はこれらの争いにことごとく敗れ、鳴尾教会は無事に教団から離脱して新たな出発を遂げた

アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団側からの長年に及ぶ執念深く陰湿な言いがかりに対して、無実の小さな教会が勇気をもって戦い抜いた経緯は、「鳴尾キリスト福音教会から皆様へ」のブログに詳しい。

こうして、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団と関係を断ち、単立教会として晴れて新たな出発を遂げた鳴尾キリスト福音教会の安堵と喜び溢れる様子は、同教会の新しいホームページからもよく伝わって来る。



 
アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団からのスラップ訴訟に負けず、
礼拝堂も見違えるように美しくなった鳴尾キリスト福音教会


  
9.アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団は、裁判においても全面敗北しているにも関わらず、今日に至るまで、なお鳴尾教会への対応に過ちを認めることなく、あらぬ疑いをかけて誹謗した鳴尾教会関係者への謝罪も行っていない。それどころか、村上密牧師は未だにブログ等で、同教会とその牧師に対する事実無根の非難を続けている有様である。
 
このように、すでに事実を事実として認めることさえできなくなって、現実から乖離した空想の物語を延々と築き上げては自分を正義のヒーローだと勘違いして「カルトとの闘い」に没頭し、自分に敵対するすべての信徒を「悪者」と決めつけて、虚偽を言い広めて恥じることもなく、他の信徒の平和な信仰生活を執拗に妨害してやまない恐るべき教団とのその指導者が、本当にクリスチャンを名乗る資格があるのか、聖書に基づくキリストの平和な福音に根差しているのか、まして牧師として活動するにふさわしい人物であるか、信仰を持たない人の目にも、明白であろう。

アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団は、フランスではすでに準カルトと認定されているが、同教団が暗闇で行って来た一連の信用できない活動を見れば、我が国でも、正式にカルト団体との認定を受けるのがふさわしいと言うべきであろう。

アッセンブリー教団からは、随分前から、信徒の深刻な離脱が起きていると聞く。過激な霊的ムーブメントを無分別に取り入れて来たために、もともとプロテスタント内では評判が芳しくなかった教団であるが、村上密牧師の登場以後、同氏が率先して全プロテスタントの教会を敵に回しながら今日に至るまで推し進めて来たカルト被害者救済活動の暴走の様子を見て、良心的な信徒の心はさらに離れたのだと思われる。

たとえキリスト教界が幾多の問題を抱え、カルト化という現象が実際に起きているにせよ、これを是正する方法は、当ブログで幾度も述べて来たように、クリスチャンが聖書に立ち戻ることにしかない。人間的な思惑に基づいて、聖書に従わずに、どんなに人間の正義を振りかざしても、それは泥沼の闘争にしか至らないのであり、かえって残酷で不公平な私刑を助長し、神と教会とクリスチャンに敵対する危険な運動に変わって行くだけである。

信仰によらず、御言葉によらず、人間の思惑だけに基づいて行われる弱者救済活動は、人の目にどんなに良さそうに見えても、神に敵対する人類の自己救済の運動として、失敗に終わることを運命づけられている。

聖書をきちんと理解するならば、弱者救済といううわべだけの美名に欺かれて村上密氏やアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の活動を支持することがどれほど大きな危険であるかが分かるはずである。
 
聖書の神と、聖書の御言葉への忠実な信仰を捨て、神と教会とクリスチャンに敵対してまで、己のプライドと欲望を満たそうとする教団に所属していることが、クリスチャンの平和な信仰生活に有利に働くことはない。もし聖書に忠実に生きたいと願うならば、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団とその信者らには、何があっても関わらないことが得策である。      
  
10.村上密氏は、「宗教トラブルセンター」や「カルト被害者救済活動」などの看板を掲げて、他教会のカルト化だけを監視し、糾弾し、取り締まる前に、まずは自教団の深刻なカルト化という現実に目を向け、自分というカルトをこそ監視し、取り締まるべきである。
    
  


 ~アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団による鳴尾教会に対する不当な介入と
 村上密牧師率いる「カルト被害者救済活動」の危険性に関するまとめ~

(随時追加予定)
 

 ★アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の指導者が鳴尾教会に引き起こした混乱について
(村上密氏による鳴尾教会人事への不当な介入と津村氏による鳴尾後継者の不当な追放)
   
正義の仮面を被り、無実の教会とクリスチャンを迫害する村上密牧師の危険な活動➀
 
正義の仮面を被り、無実の教会とクリスチャンを迫害する村上密牧師の危険な活動② 

正義の仮面を被り、無実の教会とクリスチャンを迫害する村上密牧師の危険な活動③

正義の仮面を被り、無実の教会とクリスチャンを迫害する村上密牧師の危険な活動④ 
 


★上記の事件に関して教団から鳴尾信徒に公に配布された資料
(津村昭二郎牧師と村上密牧師によって密室でいわれなき嫌疑をかけられて鳴尾を不当に追われた伝道師が教団に宛てた苦情の書簡と津村氏による弁明 ※一部個人情報を伏せ、筆者による注釈を赤字で余白に加えた。)

 村上密牧師と津村昭二郎牧師による鳴尾教会人事の私物化問題について(教団配布文書PDF)


★村上密氏によるカルト監視機構の発案の基盤となっている非聖書的思想の危険性について

カルト監視機構」という名の秘密警察の設立について

悪魔の見果てぬ夢としての「カルト監視機構~村上密牧師の危険な活動

村上密牧師による自己流の「異端審問」
  

★杉本徳久が2018年2月に当ブログに対する多年に渡る嫌がらせの罪により刑事告訴された事実について

「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久および共犯者が刑事告訴された事実


★村上密牧師が教団と無関係の個人である杉本徳久氏と結託して暗闇でネット工作員を動員し、当ブログに対して長年に渡り加えて来た妨害工作について

村上密牧師と杉本徳久氏によるクリスチャンへのいわれなき迫害➀

村上密牧師と杉本徳久氏によるクリスチャンへのいわれなき迫害②

村上密牧師と杉本徳久氏によるクリスチャンへのいわれなき迫害③
   

★村上密氏と杉本徳久氏の活動が、信者ではなく、この世の不信者らの目線に立っており、聖書に基づかないこの世の思想を無罪放免しながら、キリスト教を貶め、クリスチャンだけを断罪する構図となっていることの危険性について

この世を無罪放免しながらキリスト教徒を断罪する村上密氏と杉本徳久氏の活動の危険➀

この世を無罪放免しながらキリスト教徒を断罪する村上密氏と杉本徳久氏の活動の危険②


★杉本徳久氏が同氏にとって不都合な記事を削除しない限り、違法な報復行為に及ぶと当ブログ管理人を脅迫して来たメール

2010年10月5日付   杉本氏が唐沢氏に提訴の報告を求めヴィオロンの記事を罵倒したメール
2010年10月17日付 杉本氏が唐沢氏の提訴予告について進行状況を報告せよと恫喝したメール
2010年11月20日付 杉本徳久氏が唐沢氏の提訴予告について謝罪を要求した恫喝メール
2010年12月8日付   杉本徳久氏がヴィオロン、唐沢氏、山谷少佐に提訴を催促した恫喝メール
2010年12月15日付 杉本氏がヴィオロン、唐沢氏、山谷少佐に記事削除を求めた恫喝メール
2011年12月6日付   杉本氏がヴィオロンの個人情報を特定して恫喝して来たメール
2011年11月28日付   杉本徳久氏が、唐沢氏とヴィオロンに送りつけた恫喝メール
2012年1月1日付    杉本徳久氏がヴィオロンの個人情報を晒すブログ記事を示した恫喝メール
2012年1月22日付 杉本徳久氏がヴィオロンに実力行使に出ると恫喝したメール
2012年3月8日付  杉本徳久氏がヴィオロンに期限を切ってブログ削除を要求した恫喝メール
2012年3月9日付  杉本徳久氏からヴィオロンの返答に対する罵倒と恫喝のメール
2012年3月10日付   杉本徳久氏がヴィオロンに自分を提訴せよと恫喝して来たメール

2016年4月25日付 杉本徳久氏がメールフォームから投稿した恫喝メール
2016年4月30日付 杉本徳久氏がヴィオロンへの提訴をほのめかした恫喝メール
2016年5月2日付   杉本徳久氏がヴィオロンを提訴してやると恫喝したメール
    
      
★鳴尾教会が正当な手続きによってアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団から離脱した際、教団が、これを「牧師による教会の乗っ取り」であるかのように主張して、鳴尾教会に加えた恫喝訴訟を含む制裁について(同教団はこの争いに全面的に敗北した)

文化庁第160回宗教法人審議会議事録 ~日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団による鳴尾キリスト福音教会の教団離脱手続きに対する異議申し立て棄却の記録~
 
文化庁第163回宗教法人審議会議事録 ~「日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団」による「鳴尾キリスト福音教会」の単立化手続きに対する異議申し立て棄却の記録~

宗務時報No.115 ~日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団による鳴尾キリスト福音教会の教団離脱手続きに対する異議申し立て棄却の記録~
  

★アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の信徒が、身元を隠して他教会に潜入し、他教会を乗っ取った事件について

アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団による魔女狩りとしての鳴尾教会への恫喝訴訟とAG信徒による他教会の乗っ取り


 ★アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団及び村上密氏の推進して来たカルト被害者救済活動の非聖書性とこの活動の暴走について

 罪と罰 カルト被害者救済活動はなぜ聖書に反するのか。
――杉本徳久氏によるクリスチャンへの聖書と法に基づかない虚偽の告発と
 カルト被害者救済活動が持つ反聖書的な意義についての考察――


 
カルト被害者救済活動はなぜ誤っているのか① 
カルト被害者救済活動はなぜ誤っているのか② 
カルト被害者救済活動はなぜ誤っているのか③ 
カルト被害者救済活動はなぜ誤っているのか④ 

  
★弱者救済の思想はなぜ危険なのか 
 
神と教会に敵対するクーデターとしての「弱者救済」の思想の危険性 ~アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団による「弱者救済活動」はなぜ危険なのか~


村上密牧師と杉本徳久氏によるクリスチャンへの迫害と杉本徳久が刑事告訴された事実②

<追記>
 2018年2月に、村上密率いるカルト被害者救済活動の中心メンバーの一人である「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久が、当ブログに対する多年に渡る嫌がらせの罪により刑事告訴された。村上と杉本の活動に深い関連性があることについては以下の記事等を参照。

「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久および共犯者が刑事告訴された事実


3.付記

 ~村上密氏と杉本徳久氏の主導する「サイバーカルト監視機構」の動向~

3-1.杉本徳久氏のIPアドレス特定の経緯
 
3/22 付記  さわやか読者のアドレスと、無実にも関わらず迫害された鳴尾教会の事件の顛末をきちんと発表してから、当ブログに対するアッセンブリー教団関係者による工作が力を失いました。
 
特に、ソフトバンク工作員集団の中でも、現在までとりわけ熱心だった主犯のこの方。
softbank219215163080.bbtec.net

  

(2016年2月22日現在も何十回となく当ブログへアクセスし、必死にGoogle検索を繰り返す。 検索順位を操作するために、毎日当ブログで熱心に工作を続けて来たが、この頃はなぜか一向に効果が出ない・・・?)
 
他のさわやか読者がみんな散って行った後も、一人最後まで残り続けて毎日のように当ブログへ激しく工作に訪れていましたが、その執念深さから、 おのずと人物は知れてきますよね。

しかも、ネット上にアドレス露出しちゃってるんで、誰の目にも人物は明らか。連絡先は株式会社メディアテラスですって。私への脅迫メールを送って来た方と携帯番号まで一致します。
(今まで同氏から送られて来たすべての脅迫メールは全文PDFで公開の準備があります。
 
 

 5月3日 13:00-15:00  府中市 朝日グランド

種類 個人参加(助っ人)募集
投稿者 FC弥生
種目 サッカー
Lv1 豆級- ~ Lv9 上級+
日時 2015/05/03(日) 府中市 朝日グランド 
募集期限 2015/05/06(水)
場所(地域) 東京 - 府中市 朝日グランド 
コート確保 確保している
詳細・説明 5/3, 5/4, 5/5  個人参加者募集
2015/4/29(水)08:43 - FC弥生  fcyayoi@gmail.com (男) <fcyayoi@gmail.com> - softbank219215163080.bbtec.net 削除
FC弥生です。人生を楽しむためだけにサッカーをしている庶民チームです。
東京都西部を中心に土日祝、活動しています。

 日程はこちら http://d.hatena.ne.jp/fcyayoi

● 5月3日 13:00-15:00  府中市 朝日グランド  
   天然芝、東京外国語大学前 駐車場有り  
   西武多摩川線・多磨駅、京王線・飛田給駅

● 5月4日 祝日 19:00-21:00 下高井戸運動場

● 5月5日(火) 三鷹 大沢総合グランド  朝7:00-09:00 
 

 個人参加者を募集します。
 場所は良いピッチでやりやすく気分良いと思います。
 シニア可 
 ファールが多い人、荒っぽいプレイと気性の人はいません。
 メール: fcyayoi@gmail.com 
 URL    試合日程・結果など http://d.hatena.ne.jp/fcyayoi
 電話   070-5012-7587
作成日時 2015/04/29 08:50:37


 
Yayoi football team、ねえ…。思いきり名前と連絡先も出ておりますゆえ、間違いようがございませんよね。



3月20日 sun 12時30分-4時30分    調布・三菱養和会グランド   ミニ大会 

杉本、小川、木村

弥生浅野クラブ(白)、マスターズ平川(黒)、ボールド吉岡(赤)


チケット販売しています。 2000 yen 送料込み

1800001 武蔵野市吉祥寺北町1-5-14 メディアテラス mediaterrace@gmail.com



 
 さて、このチーム、以下のような理念があるようです。

Team mission statement

 FC弥生のチーム理念は以下の通りです。:

 人生を楽しむためだけに行うサッカーなので、勝つためのサッカーを目指さない。

 暴言や他人の悪口は言わない。特に審判やGKのご奉仕をしている人に対しては文句を言わない。

 怪我をしないことを最優先とする。そのため、ファール禁止。スタッドが相手に接触するプレー、厳しいタックル、後方からのチャージなどは禁じられる。

 基本的にすね当てとストッキングを着用し、スポーツ保険に入る。年間1500円。怪我をしたりしたときの危険、負担は自己責任。

 ポジション割り振りなど世話人の指示に必ず従う。グランド整備、試合準備などの協力を惜しまない。

 電子メールでの連絡を基本とする。

 主権者たる国民として、市民社会の一員に恥じない良識に沿った行動規範を持つ。


主権者たる国民として、市民社会の一員に恥じない良識に沿った行動規範の結果が、見も知らない他人に向かっての 脅迫メールとなって結実するものなのでしょうか・・・!?

付記:さらに、後日、杉本氏ご本人からメールフォームからさらなる脅迫状が送られて来たことにより、以下のIPアドレスが間違いなく本人のものであることが確定しました!!
 
杉本氏からの脅迫メールは、たくさんあるので、随時、公開していきますよ~!!
        
2010年10月5日付   杉本氏が唐沢氏に提訴の報告を求めヴィオロンの記事を罵倒したメール
2010年10月17日付 杉本氏が唐沢氏の提訴予告について進行状況を報告せよと恫喝したメール
2010年11月20日付 杉本徳久氏が唐沢氏の提訴予告について謝罪を要求した恫喝メール
2010年12月8日付   杉本徳久氏がヴィオロン、唐沢氏、山谷少佐に提訴を催促した恫喝メール
2010年12月15日付 杉本氏がヴィオロン、唐沢氏、山谷少佐に記事削除を求めた恫喝メール
2011年12月6日付   杉本氏がヴィオロンの個人情報を特定して恫喝して来たメール
2011年11月28日付   杉本徳久氏が、唐沢氏とヴィオロンに送りつけた恫喝メール
2012年1月1日付    杉本徳久氏がヴィオロンの個人情報を晒すブログ記事を示した恫喝メール
2012年1月22日付 杉本徳久氏がヴィオロンに実力行使に出ると恫喝したメール
2012年3月8日付  杉本徳久氏がヴィオロンに期限を切ってブログ削除を要求した恫喝メール
2012年3月9日付  杉本徳久氏からヴィオロンの返答に対する罵倒と恫喝のメール
2012年3月10日付   杉本徳久氏がヴィオロンに自分を提訴せよと恫喝して来たメール

2016年4月25日付 杉本徳久氏がメールフォームから投稿した恫喝メール
2016年4月30日付 杉本徳久氏がヴィオロンへの提訴をほのめかした恫喝メール
2016年5月2日付   杉本徳久氏がヴィオロンを提訴してやると恫喝したメール



3-2.杉本徳久氏の活動履歴

4月2日 2012年当時に執筆して大きな反響を呼んだ論考 罪と罰 カルト被害者救済活動はなぜ聖書に反しているのか。をホームページに再掲しました。
この論考はまだ完成していないため、随時、加筆して行きますし、鳴尾教会の事件の顛末も、いずれWEBページになります。
 

するとこうした動きを受けてか、再びご本人、登場。またもGoogle検索結果の操作にいそしんでいる様子ですが(Google信者をやめられない模様)、相変わらず頭隠して尻隠さず。

4月5日の杉本氏のアクセス回数はものすごいですよ〜。いつも当ブログの更新がされていない時間を見計らって猛烈アクセス!

 同氏の異常なアクセスは記事末尾のさわやか読者の活動履歴に発表しておりますので、ご覧くださいな。    
     
    最近、杉本がこれほど焦りを見せるのも当然、検索結果には何かすごいことが起き始めています。これは鳴尾の事件の真相と村上➕杉本の卑劣なネット工作を事細かに分析して明るみに出した成果です。

彼らの獅子のような咆哮はもう力を失っているのです。この変化はまもなく全体に波及しますよ。真実の持つ力はすごい。全体主義国だって最後は倒れますから。彼らの陰謀工作の結果はほんの一瞬しか持たないのです。
 
 
ブログの検索結果など操作する前に、 罪と罰 カルト被害者救済活動はなぜ聖書に反しているのかと、自分の書いた恫喝メールをちゃんと読みなさい。(と言っても、そんな勇気があるはずもなく、馬と鹿の耳に念仏…。)

4月25日、30日とまた新たに杉本徳久氏から恫喝メールが来ました。ゴールデンウィークにまで他人に恫喝メールを送りつけずにいられないとは何たる哀れ。他者の行楽をひたすら邪魔することしか考えられない、平和で落ち着いた家庭人からは程遠い姿ですね…。

4日も、本ブログが更新されるや否や早速、深夜にアクセス。他人に刑事告訴の予告などしている間に、自分自身が様々な罪状により訴えられることをなぜ考えないのでしょうか。全てに不利な証拠が残りすぎています。ついでにお仲間も一緒に罪に問われることになるかも知れません。そうなると擁護する者もまずなく、今まで一生懸命に作り上げようとして来た弱者の味方というイメージはもはや完全に崩壊しますね。



3-3. 最近の検索順位の劇的変化

さわやか読者はとにかく杉本ブログの順位を上げることに血道をあげているようですが、大変なことになってますよ!

以下では、杉本ブログ、跡形もなし。これが工作されなかった場合の本当の検索結果。この影響はおそらく波及して行くでしょう。

 

それから杉本徳久氏の名前で検索してみると…、これまた大変な状態に。
ルーク氏と坂井氏からの杉本氏の告訴に対する非難で満ち溢れている模様。これでは裁判に勝っても喜びも半減ですね。貴重な金を費やしてネット対策するなら、政敵を貶める工作などより、自分の名誉回復に着手した方が得策だと思うのですが?

   

村上密の検索結果も同様に・・・。

 



3-4. 「頭隠して尻隠さず」のさわやか読者のネット対策

なぜこの人たちは、いつも頭隠して尻隠さずで、他人を貶めることばかりに精魂費やし、自分を守ることをしないのでしょうか? たとえばこれ。

村上密氏の悪質ななりすましサイト
 

 
むろん、こんな悪趣味なサイト、ヴィオロンは作りませんよ(文体とスタイルからその程度のことは誰でも分かるでしょう。)

当ブログに対する日夜の嫌がらせにエネルギーを費やす気力があれば、こういう悪質なりすましサイトにこそ、真っ先に立ち向かい、犯人検挙と削除に追い込むのが筋ではないのでしょうか? 
 
なぜずっと何年間も村上氏はこれを放置しているのでしょう?
何か削除できない特別な事情でもあるのでしょうか?(脅されているとか、自作自演など?)
そういう人に、本気で悪に立ち向かう勇気があると言えるのでしょうか?
 
しかも、神社の油まき事件に際しての村上密氏の記者会見という栄えある舞台にまで
このなりすましサイトがちゃっかり入り込んで削除もされていないという奇怪・・・。

 
しかも、こうした悪質サイトを放置しているのみならず、村上氏は自分の記事で論敵に対決を宣言するどころか、削除を要求しないと宣言、論敵の宣伝をしちゃったりもしてるんですよね…

 
自らのブログ記事で、大幅な紙面を割いて、わざわざ宿敵(?)の鳴尾キリスト福音教会から皆様へのブログを宣伝する村上氏。

ちなみに、本人だけが気づいていない深刻な自己矛盾と独特の論理の破綻は、これまで偽りの運動に欺かれたアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の信者を含め、悪霊に導かれるクリスチャンにおびただしい回数、観察されてきました。



3-5.行き場を失った日曜祝日工作員たちの悲哀と孤独
   
ゴールデンウイーク中にも妨害活動にいそしむ工作員たち。
(他に行くところもやることもないんでしょうねえ、同情しますよ。)
      
★読者になりすます工作員!!

softbank221080155159.bbtec.net
5月1日に至るまで、連日、異常なほど猛烈アクセスしてます。
他のさわやか読者と連動していることから、最近の工作の主犯格と思われます。
 

明らかに検索結果の操作が目的の模様。

4月13日に「光の天使の罠」にコメントしてますが、読者に偽装した工作員ですね。

(大体、NONAMEで無内容の一言コメントを投稿するような人は、かなり異常です。きちんと内容を踏まえた感想が書けないからこういう切れ切れの文章になるわけです。文脈を無視してキリスト教用語を呪文のように使うところも、思考が非常にカルトっぽいですね。
工作員は行動だけでなく思考も操られているので、自分の言葉できちんと話せないことが分かります。悪霊の言葉には常に独特の節回しと論理破綻がつきものです。偽装の見本として公開しておきます。) 
それにしても、工作員が自らコメント投稿とは、手が込んでますね!!
 
一説によると、香川県高松市とも。
 


・国際化するさわやか読者たち!?
 
最近はさわやか読者も国際色豊かになっておりますよ~。(むろん、なりすましの可能性も大) 
153-149-154-18.compute.jp-e1.cloudn-service.com

言語が中国語ですって。よもやキリスト教徒とも思えませんが、どこまで無関係な人間を工作者として使っているんでしょうね?

123-192-105-233.dynamic.kbronet.com.tw
こちらも台湾ということになっていますよ。

 

14-203-150-60.static.tpgi.com.au
 在オーストラリアの杉本読者ってことですかね(ほんとかしらね~) 
  
 
c-24-20-22-31.hsd1.or.comcast.net
さわやか読者もいよいよ国際化の時代ですかね!
アメリカ合衆国、オレゴンもしくはニュージャージー州らしいですよ。



   ・企業、学校法人からも・・・
 
 gw.newdaysys.co.jp
常に昼休憩中にネットを覗き見している株式会社Newデイシス。
〒420-0857 静岡県静岡市葵区御幸町4-1アーバンネット静岡ビル5F
どんな会社か調べてみました!

 
 
34.78.149.210.bf.2iij.net
奈良県東生駒にある学校法人帝塚山学園のアドレス。
検索結果の操作のための集中アクセスあり。学校からこんなことやっていて良いのでしょうか。




 
ホームページをのぞいてみると、モットーは「絆」だとか…
(やれやれ。見るからにヒューマニズム色満載ですね。)
 



・その他の日曜祝日工作員たちの活動履歴
   
以下の人々も、あんまりしつこいんで、出所をちょっくら地図で調べてみましたよ~。
p1305171-ipngn201005fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp

〒839-086 福岡県久留米市
  Googleマップだと、灰塚鮮魚店が表示されるんですよね!
(場合によっては、家まで見れちゃうかも!!)



119-231-143-81f1.shg1.eonet.ne.jp
 

〒529-115 滋賀県彦根市
 丸源ラーメン彦根店のすぐそば。



softbank126091188212.bbtec.net

〒800-031 福岡県苅田市
 ディスカウントドラッグコスモス苅田店すぐ。

 

pw126210050044.5.kyb.panda-world.ne.jp

神奈川県伊勢原市 
県道63号線 中木津根交差点からほど近く(ど田舎っぽいな~)
この人もどうやら匿名掲示板の常連の模様。(IP:126.210.50.44) 
全然部外者ですね…。



p15058-ipngnfx01oomichi.oita.ocn.ne.jp
古参の杉本読者に見たようなアドレスですね~。でも、調べてみたら、これも匿名掲示板の常連で、全然信者とは無関係のようですねえ。匿名掲示板で餌食にされた人をずっと追跡しては嫌がらせを続けている人々の仲間なんでしょうねえ。

一説によると、高知県高知市、でも匿名掲示板では、自分で大分県民と名乗っておりますよ。
多分そっちがほんとでしょうね。



 

s730098.xgsspn.imtp.tachikawa.spmode.ne.jp 
こちらも古参杉本読者と思われます。検索結果操作型。
  
 
埼玉県川口市、ラディラ川口すぐ。

 
 
softbank126066224032.bbtec.net
検索結果操作型。千葉県松戸市、もしくは千葉市。
匿名掲示板の常連のようですよ。信者じゃございませんね。



 janis220254148016.janis.or.jp

こちらも検索結果操作型。
一説では長野県長野市 日産プリンス長野が表示される。

もしくは以下の説も・・・
 

kd182251240051.au-net.ne.jp
随分、熱心な杉本読者のようですねえ。弱者つながりでしょうか?
 
 
地図の場所だと、グループホームふたつみやとなりますね。



   
以下は、お友達工作員でしょうかね~。ともにアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団関係の
記事に関心があるようです。

fl1-203-136-35-186.tky.mesh.ad.jp
p189194-ipngn200404niho.hiroshima.ocn.ne.jp


上は、カルト被害者救済活動の暴走~アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団による魔女狩りとしての鳴尾教会への恫喝訴訟とAG信徒による他教会の乗っ取り~の記事にリンク

下は、検索用語が「杉本徳久」(相変わらずbiglobeユーザーの模様) 
 
 
softbank126014189181.bbtec.net
Google検索操作に加え、おびただしい回数の集中アクセス!

北海道札幌市、もしくは、秋田県湯沢市

 

p4216-ipbf207koufu.yamanashi.ocn.ne.jp
久々にお説教検索型が来ました。
    

前後の文脈もなく聖書の一節だけ切り取るのは、カルト的思考を思わせますね。

以下の地図では南アルプス市下宮地と…


  



 その他、4月中旬~4月30日当たりのさわやか工作員
 
kd182249241004.au-net.ne.jp
「ジョン・ビビア」で検索を繰り返す。
 

softbank126094108046.bbtec.net
 

oscfx-04p11-15.ppp11.odn.ad.jp


大阪府大阪市

42-148-192-135.rev.home.ne.jp

東京都練馬区

zaqb4dc441d.zaq.ne.jp
59-166-234-47.rev.home.ne.jp
 softbank126066224032.bbtec.net
千葉県松戸市
i121-117-76-254.s41.a013.ap.plala.or.jp
東京都立川市
om126229049194.12.openmobile.ne.jp
g88.115-65-186.ppp.wakwak.ne.jp
fs76eee8a5.tkyc210.ap.nuro.jp
p022.net042126243.tokai.or.jp
〒431-030 静岡県湖西市
 
     



  4月3日
日曜ごとに、杉本氏の嫌がらせ記事を上位にランキングさせるべく当ブログには検索結果の操作のための雇われ工作員がやって来るのが恒例の風景となりました。
しかし、彼らの工作もだんだん効果がなくなって来た模様。

 

桜も満開となり、人々は行楽に出かけ、家族サービスにいそしむ日曜の快適な午後に、行くあてもなく、密室に閉じこもってネットの前に座り、幸福そうなクリスチャンに八つ当たりして、害を与える以外に従事する活動もないというのは、本当に惨めかつ哀れな境遇を思わせますね・・・。

教会を訴えることを生業としたために、礼拝に出ることもかなわず、行き場を失って浮遊する(自称)信者にとって、日曜は、特別に孤独で居たたまれない惨めな日となったものと思われます。そのやり場のない孤独を、毎週、どこかの信者にぶつけ続けているのでしょう。

今日は特に朝から晩まで熱心なのは、この方・・・。
杉本氏に不利な情報が気になって気になって仕方ないようです。

kd118156078055.au-net.ne.jp
   
  どこから来たのか見てみました。かなり精密な地図ですね~。 
 

下馬五丁目交差点(ハイソな住宅街が並ぶ…)


ちなみに、次の杉本読者も同じアクセスポイントが表示されてますね。
p2284113-ipngn17701marunouchi.tokyo.ocn.ne.jp
東京都目黒区


 


 
その他の日曜工作員

softbank126017039141.bbtec.net
↑大阪
pl2247.nas816-3.miyazaki.nttpc.ne.jp
p17066-ipngn1101koufu.yamanashi.ocn.ne.jp
224.77.131.180.ap.yournet.ne.jp
p53050-ipngn200301kanazawa.ishikawa.ocn.ne.jp
↑石川県能見市  


  


gw.newdaysys.co.jp
今日も来てますね、株式会社Newデイシス。やはり杉本らと連動しており、まるで彼らの委託先のネット工作会社のような悪印象を与えておりますね・・・。

以下の人々は杉本信者の最後の生き残りといったところでしょうか・・・?
 
softbank126235131246.bbtec.net
softbank219054243174.bbtec.net
↑〒500-817 岐阜県岐阜市
kd114019080055.ppp-bb.dion.ne.jp
↑〒602-805 京都府京都市
kd111237166222.au-net.ne.jp
↑ 〒446-003 愛知県安城市
p2102061-ipngn200608osakachuo.osaka.ocn.ne.jp
↑広島県呉市
pw126152099231.10.panda-world.ne.jp
↑栃木県小山市
mdapp017.mitsui.co.jp
 
  


  
4月6日
今朝はスギモのパシリ信者がいよいよ一人になりましたよ~。
softbank219215163080.bbtec.net

67.208.13.160.dy.iij4u.or.jp
〒340-081埼玉県八潮市

誰から工作を請け負っているのか明らかな構図ですね~。
下の方は何十回となく猛烈アクセスを繰り返し、犯罪履歴を残す。日中の時間帯にこんな不毛なことに全精力を費やせる人とは、無職なのでしょうか~?人生の悲哀を感じますね~。

   

 


4月6日、さわやか読者にとって極めて不都合な鳴尾文書を全世界に向けて公開しました。
愛の注釈もございますので、目を皿にしてよく読んでね!
教団文書 村上密牧師と津村牧師による鳴尾教会人事の私物化問題ダウンロード
  
   
p3134-ipbfp2402osakakita.osaka.ocn.ne.jp
↑鳴尾教会の記事に関する工作者


Googleの怪

杉本氏がGmailを愛用し、Google検索結果を最も操作することを願っている熱心なGoogle信者であるところを見ても、何だかGoogleには一種の薄気味悪さを覚えずにいられないのですが。

ちなみに、当ブログへの訪問回数が相当に多い一つが、Googleのクローラーです。
他のどんな検索エンジンよりも素早く深夜でも早朝でも更新されるとすぐに巡回します。
 
新情報の取り込みに熱心なのはいいですが、何かしらそれにとどまらぬ不気味な思惑が感じられてならないことが多いのですが…。

たとえば、これ。
検索用語が入っている。「預言カフェ 成就しなかった」と。
どう見てもキリスト教の旬の(?)話題に関心があってやって来る興味本位のウォッチャーのようにしか見えないのですが…?

背後にいる人間の思惑が感じられる機械怪奇現象ですねえ。
crawl-66-249-82-74.googlebot.com
 
 




さて、以下の二人は主犯格です。
今日に至るまで検索結果を操作し集団的な嫌がらせを煽って来た人物です。過去ログは保存してあり、賠償請求が発生することも十分に考えられます。ご注意下さい。
150-70-173-7.trendmicro.com
kd182249247165.au-net.ne.jp

kd182249241070.au-net.ne.jp 

以下は、現在まで活動中の方々です。

116.net220148228.t-com.ne.jp
↑埼玉県八潮市
softbank219215163080.bbtec.net 
 
kd182251240012.au-net.ne.jp
検索用語が「へりくだって生きる」ですって!! いや、実にあなた様は奇特な方ですね!! 昨今、そのような目標を唱える人々はこの世から消え失せかけておりますので、あなた様は貴重な期待の星です。キリスト教の教職者でしょうか?
…まずはご自分の人生でとことん実験なさった上、来るべき世でぜひともその成果を皆さまにご報告下さいませね。人類の模範としての成果を楽しみにしております。
(自分が本当にへりくだって生きている人々は、このような検索用語を基に他人のブログに到達しない。高慢だからそうするのである。キリスト教界の信者と教職者にはこのようなタイプが実に多い。)

どうしても杉本氏関連の記事が気になって仕方がないらしいこの会社。
位置情報検索会社の株式会社Newデイシスからのアクセス。
gw.newdaysys.co.jp
 休憩時間中に私用でネットなんか使って当ブログを読んでいたら
クビになるのではありませんか、会社の評判落ちますよ?
それとも、工作でも委託されて請け負っているんですかね?
一千件のコメントを伴う杉本氏のバッシング記事も、委託された工作であり、
仕組まれた自作自演だった可能性があると私は見ているのですが、
おたくと何か関係ありますかね?

 


softbank126220001175.bbtec.net
↑愛知県
113x40x2x69.ap113.ftth.ucom.ne.jp
42-150-232-64.rev.home.ne.jp
nttkyo740115.tkyo.nt.ftth.ppp.infoweb.ne.jp
上の二人は仲間です。特に下の方はKFCのことになると必ず激しく反応してしゃしゃり出て来ますので、身元が知れますね。
ac246138.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
↑岩手県盛岡市・北上市
202-229-49-219.ap-p27.canvas.ne.jp
↑大阪府東大阪市
wmx2-pvt-155-130-255-123.kualnet.jp
↑山口県宇部市
p29208-ipngnfx01marunouchi.tokyo.ocn.ne.jp


s668237.xgsspn.imtp.tachikawa.spmode.ne.jp
↑北海道北見市との説有。
この人もアドレス露出してますが?他にも相当何か所もあるようです。まずクリスチャンではあり得ない。なるほどカルト弱者救済活動はこういう背景の人たちを積極的に取り込むんですね…
 
i118-20-76-49.s42.a013.ap.plala.or.jp
113x40x2x69.ap113.ftth.ucom.ne.jp
ac246138.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
↑岩手県盛岡市・北上市
 202-229-49-219.ap-p27.canvas.ne.jp
↑大阪府東大阪市
wmx2-pvt-155-130-255-123.kualnet.jp
↑山口県宇部市
p7238-adsao12honb5-acca.tokyo.ocn.ne.jp
↑神奈川県相模原市 相模原の集会でしょうか。
p29208-ipngnfx01marunouchi.tokyo.ocn.ne.jp
↑2ch掲示板の常連です
p10046-adsao01tenjmi-acca.fukuoka.ocn.ne.jp
↑福岡県福岡市
p2128-ipbfp603oomichi.oita.ocn.ne.jp
↑大分県
p8217-ipad01okidate.aomori.ocn.ne.jp
↑青森県
pw126255208213.9.panda-world.ne.jp
↑神奈川県横須賀市 緯度35.25 経度139.667 
pw126236133246.12.panda-world.ne.jp
↑群馬だそう。緯度36.3 経度139.367 
182-165-138-86f1.osk2.eonet.ne.jp
↑大阪府堺市
125-14-226-199.rev.home.ne.jp
↑東京都町田市
068018014222.ppp-oct.au-hikari.ne.jp
↑沖縄県那覇市
202.34.15.62
↑京都八幡 〒614-834
211.9.36.33
↑東京都豊島区
p352208-ipngn200206takamatu.kagawa.ocn.ne.jp
↑京都府京都市

211.44.29.130(←韓国から)
 

202-127-177-016.users.bc9.ne.jp 
 
 
kd059138166172.au-net.ne.jp
kd036012077069.au-net.ne.jpp
101-140-19-149f1.osk3.eonet.ne.jpp
ntchba019109.chba.nt.ngn.ppp.infoweb.ne.jp
 
p345056-ipngn502aobadori.miyagi.ocn.ne.jp
神の代理人として教会に裁判をしかける恐るべき罪を自らこそが悔い改めるべきでは?キリストの花嫁なるエクレシアを訴えて無傷で済んだ者はない。神ご自身が報復されますから…。

i125-203-100-251.s41.a013.ap.plala.or.jp
kd119104069207.au-net.ne.jp
p3134-ipbfp2402osakakita.osaka.ocn.ne.jp
fp76f178f3.tkyc002.ap.nuro.jp 

p448153-ipngn5701funabasi.chiba.ocn.ne.jp
飢えた者がパンに殺到することこそ大審問官の狙いです。あなたが見えない天のパンによって生きる方法を知らない限り、石をパンに変える奇跡の指導者に何度でも欺かれることでしょう。

180-199-139-145.nagoya1.commufa.jp
もし御霊が宿っているならば・・・ですよね。もし宿っているのが悪霊ならば、その法則性はあなたに通用しないです。(ピリピ2:1-30)「罪の報酬は死である」(ローマ6:34)ですからね。

i125-203-100-251.s41.a013.ap.plala.or.jp
kd119104069207.au-net.ne.jp
kd114019080055.ppp-bb.dion.ne.jp
p3134-ipbfp2402osakakita.osaka.ocn.ne.jp
ai126173232015.46.access-internet.ne.jp 
  
 ソフトバンク工作員集団 
softbank220007062180.bbtec.net
softbank126057215049.bbtec.net
softbank126015096033.bbtec.net 
softbank221077139132.bbtec.net
softbank126065009076.bbtec.net 
softbank126057103249.bbtec.net 



 さわやか読者の活動履歴
        
サイバーカルト監視機構(杉本徳久編)②(5月23日版)

サイバーカルト監視機構(杉本徳久編)➀(5月14日版)
        
さわやか読者・サイバーカルト監視機構版(後編)
 
さわやか読者・サイバーカルト監視機構版(中編)
 
さわやか読者・サイバーカルト監視機構版(前編)

優良さわやか読者賞(続)2月22日改定版

優良さわやか読者特別賞 2月10日改定版