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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊を切り分けます。

私たちは肉にあって歩んではいても、肉に従って戦ってはいません。私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。
私たちは、さまざまな思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち破り、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ、
また、あなたがたの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を制する用意ができているのです。」(Ⅱコリント10:3-6)
 
神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえ刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」(ヘブル5:12)


さて、魂と霊を混同する危険については、記事でも少し触れたが、魂と霊の切り分けについてもう少し考えてみたい。
いかにして信者は「魂的」なものを拒んで、「霊的」になることができるのであろうか?

おそらくそれは瞬時になしうることではないものと思われる。なぜなら、十字架の死の働きは、信者に一生を通じて影響を及ぼすものであり、徐々により深くなって行くからである。生まれたての信者が「肉的」であったとしても、それは当然のことであり、信者はそれを悔いる必要もないし、反省させられたり、懺悔させられたりする必要もない。

従って、信者は自ら「早く霊的にならなければならない」と思って苦心惨憺する必要はなく、御霊の啓示によって知らされていないことについてまで、あれこれ自分自身を吟味して、進歩のなさを嘆いたり、悔いたりする必要もない。ただ平安のうちに神を信じて御霊の照らしを願うのみである。そして、信者はただ御言葉に従って、自分の肉が(古き自己が)キリストと共に十字架につけられて死んだ、という立場に立ち続けるのである。

仮にある信者が、堕落した肉の力によって宣教しようともがいていたとしても、その信者自身が、何が霊に属するものなのかを知らないうちは、おそらく、主がその人を罪に問われることはないものと思う。ただし、肉から出たその働きは無益であり、実を結ばない。

たとえば、懸命にトラクトを配り、拡声器を持って声を張り上げてメッセージを宣べ伝え、人を説得し…。そのような熱心な活動が、今日、多々、クリスチャンの間で伝道だと思われているが、これは魂の影響力を用いているにすぎず、しかも、すべては人に向かっており、神に向かっておらず、無益である。

なぜなら、外側からの影響力は、人を本質的に変える力を持たないからである。様々な熱心な説得や、働きかけを通して、外から懸命にその人をある方向へ引っ張っているうちは、人はついて来るかも知れないが、引っ張る力がなくなれば、糸の切れた凧のように彼方へ飛んで行くだけである。

たとえこの世の最も厳しい強制力(たとえば刑罰)を用いても、人がそれによって根本的に変化することはない。

人を本質的に変えることができるのは、霊的な力であり、その人の内側に直接、変化をもたらすことのできる力としての御言葉である。御言葉が、真に霊的な信者と結びついて、信者によって行使されるとき、初めて、御言葉が衝撃力となってこの地にもたらされるのである。

しかし、そうした御言葉の使い方を、信者が一瞬にして知ることはできない。

そして、あまりにも多くの偽物の「霊的活動」が今日、キリスト教界を覆っている。霊的な事柄を何も知らない信者は、常に人の頑張りの領域で、熱心に宣教しているが、それは暗闇の勢力にとっては何の脅威にもならない。人の生まれながらの力により頼んだ努力は、どんなに一生懸命に取り組んでも、効果が知れているからである。

だが、御霊によって生き始めた信者が、堕落した肉の力に誘われて、肉の領域にとどまって、魂的な力により頼んで活動を続けると、これよりもさらに深い危険が生じる。そうすると、霊的な力と、魂的な力が混合されて、超自然的な影響力を及ぼすことになるからである。
 
当ブログにおいて異端の教えの構造を調べているうちに、筆者は、ペンテコステ運動というものは、途中から偽りの運動へと変質したのではなく、どうにも最初から誤った霊的運動だった可能性が高いと考えるに至った。

筆者は、当ブログにおいて再三、ペンテコステ運動に一度でも関わったことのある信者の内側には、危険な霊的影響が残ることを指摘して来た。それはただ彼らが魂的な力と霊的な力を混同しているためだけではない。もっと深い何かしらの霊的悪影響が存在するのである。
 
ペンテコステ運動は、もともと聖書の御言葉を教義として理解するだけの知識や教養を持たず、教会に通って献金を払う余裕もないような社会的弱者の救済運動として始まった。

もともとこの活動は、教会から打ち捨てられ、学問的な素養も持たない社会的弱者に手っ取り早く手を差し伸べるべく、超自然的な癒し等の奇跡体験を強調して始まったのであるが、今日も、この運動が、既存の教会からは見捨てられた社会的弱者を盛んに引きつけている点は変わらない。

そして、こうして教会や社会から見捨てられた社会的弱者を対象としていればこそ、この運動に関わる人々には最初から最後まで「被害者意識」がつきものなのである。そしてこの被害者意識は、信者が家庭や社会において「自分はいたわられるべき弱者である」と考える受け身の意識を生むだけでなく、最終的には、自分は「キリスト教の被害者である」という意識へと結びついて行くのである。

今日、ペンテコステ運動に関わったことのある信者にはある共通した「弱者の意識」、「被害者意識」が見られる。これは男女を問わず共通しており、女性の場合は、人生全体を受け身にしてしまうほどの圧倒的な無力感をもたらす。多くの場合、彼女たちは、家庭においても、自分が(夫や家族の)被害者であり、いたわられるべき弱者であるという思いを捨てられないでいる。男性であれば、この被害者意識が義憤と結びついて、生涯を何らかの無益な改革・救済活動に費やさせるというパターンが多い。

さらに、この運動に関わったことのある信者には、筆者のこれまでの経験から見ると、ほとんど例外なく、何かしらの悪霊に由来する超自然的な活動を行う力が備わっていた。むろん、御霊の働きに比べれば、極めて限定されており、相当に愚かで盲目的な力ではあるが、彼らには一定の霊的な透視能力、もしくは人に暗示をかけたり、あるいは呪いを及ぼす力などが備わっているのである。

こうした堕落した霊的な力は、強力な霊的な力を持つリーダーのみならず、それと知らずに彼らに操られている信者たちを通しても働く。彼らには一定の支配領域がある。

たとえば、カルト被害者救済活動を支持する杉本徳久氏の危険な活動については、当ブログで再三に渡り、述べて来た通りであり、同氏がいかに支持者を自らの悪しき活動に巻き込むことができたかも、一連の記事で示してきた。このようにして、一度でもペンテコステ運動に関わった人々は、霊的に悪霊の「要塞化」してしまう現象が度々起きるのである。
 
Br.Taka氏のみならず、杉本徳久氏もアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の出身であることは、Dr.Lukeが記事で指摘している。同記事によると、杉本氏はアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の信仰生活につまづいて他宗派に去ったようである。

アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団が正体不明かつ行き過ぎた様々な霊的なムーブメントの温床となっていることは、当ブログでも警告している通りであり、この教団に関与することは全くお勧めできない。

しかしながら、杉本徳久氏の場合、依然として同氏がアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師の活動を支持している様子を見ても分かることは、すでにそこから離脱しているにも関わらず、本人の心の内側深くに、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団(ペンテコステ運動)との断ち切ることのできない霊的なつながりが残っており、霊的な影響においては、未だにこれと一体であるという事実である。

つまり、自らおかしいと気づいて関わりを断ち切ったはずのものを、依然、自らの活動を通して擁護する形になっているという自己矛盾が見て取れるのである。(だが、こうした点は、キリスト教界の偽りを叫びながら、KFCで自らアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の信徒をメッセンジャーに据えたDr.Lukeも全く同じである。)
  
これらの人々に共通する点は、キリスト教界に対する尽きせぬ告発、敵意、憤り、被害者意識、復讐心、そして信者に対する「呪い」であろう。 すでに述べたように、筆者は、上記の三者がみな一様に「呪いの言葉」を口にするところに立ち会っている(杉本氏からの呪いはブログやメールによる)。

むろん、筆者には悪霊の言い分を信じる筋合いは全くないので、そのような事実無根の言葉は、ただ御言葉と小羊の血潮に照らし合わせて退けるのみである。

「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。」(ガラテヤ3:13)
  
そもそも、キリストは十字架においてすべての呪いを背負って下さったのであり、もはや信者が自分で背負わなくてはならない呪いは存在しない。小羊の血潮に立っている限り、信者が罪に定められることはないのである。他の兄弟姉妹も、そのような話を聞いても、悪霊どもの嘘を退け、笑うのみであった。
 
だが、なぜ彼らがそうした呪いの言葉を盛んに他の信者へ向かって述べ立てずにいられないのかを見るときに、やはり、彼ら自身が、キリスト教界で味わった深い孤立感、疎外感、絶望感、彼ら自身が他の信者から受けた呪いの言葉などが土台となって、その魂の傷に悪霊がつけこみ、自ら受けた呪いを他者に転嫁すべく、餌食となりそうな人々を求めてあちこちさまよっている様子が見えて来るのである。

たとえば、キリスト教界との訣別の必要性を明らかにしていた点で、Dr.Lukeの言説にはかなりの正当性があった。しかしながら、同氏がそのテーマを繰り返し述べては、キリスト教界の「病理」を強調せざるを得なかったところに、やはり同氏自身が、キリスト教界で受けた仕打ちに対する拭い去れない深い心の痛みがあったのではないかと推測される。それがキリスト教界全体に対する罪の宣告となり、裁きの宣告となり、次には呪いとなって現れたのである。

その点は、プロテスタントのキリスト教界の不祥事を告発することを生業としている杉本徳久氏も同じであり、また、同氏の支持する村上密氏も同じだと言えるのではないだろうか。村上氏はあたかもアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団で順調に牧師としてのキャリアを積んで来ており、同教団に対して恨みを持つ立場にもないように見えるが、しかしながら、村上氏が行って来た実際の活動は、鳴尾教会への仕打ちにも見られるように、かなり早い段階から、プロテスタントの諸教会だけでなく、同氏自身が属する教団の教会に対しても、破壊的な影響を及ぼすものであった。今日に至っては、杉本・村上両氏の活動は、キリスト教界全体に対する復讐としか見えないようなものとなっている。この点で、キリスト教界を声高に非難し続けたDr.Lukeとも、かなりの共通性があるように見受けられる。
 
筆者は、村上氏が統一教会を脱会するきっかけとなった二つの出来事についてメッセージを聞いた記憶がある。一つ目の出来事は、「密、密、なぜ私を迫害するのか」という神の声を聞いて、己の罪を自覚して、滂沱の涙と共に誤った信仰を悔い改めたという体験であったが、こうした奇跡物語は誰一人としてその客観性を証明できないため、脇に置いておきたい。もう一つの出来事は、父親の厳しい叱責を受けてほとんど無理やり連れ戻されたという体験だったと記憶している。

もしかすると、そのあたりに、同氏の回心の不自然さや、本人も意識しない挫折感や孤独感の始まりとなるものがあったのかも知れない。どんなに誤った教えを信じたにせよ、本人の自主性を無視して、力づくでこれを放棄させられるという体験は、人にとって大変な屈辱とはなっても、決してプラスに働かない。

そこでこれを機に、表面的にはあたかもキリスト教を受け入れたように見えても、心の奥底では、正しい宗教という仮面をつけて自分のかつての信仰を打ち砕いたキリスト教への敵意や恨みが生まれたとしても不思議ではない。そうしたものも含めて、何かの体験がきっかけとなって、キリスト教そのものに対する無意識の敵意や復讐心が生まれ、生涯かけてキリスト教界全体を敵視するかのような破壊的な活動を生み出した、という推測も可能である。(しかし、原体験となるものはもっと前に形成されていたはずだと筆者は考える。)

いずれにしても、上記の人たちに共通しているのは、既存のキリスト教界につまずいた経験と、それゆえに、キリスト教界に対する捨てられない激しい憤りと復讐心である。こうした魂の傷が侵入口となって、悪霊の活動を受け入れるきっかけとなって行ったのである。

彼らはみなキリスト教界につまずいたり、そこを追い出されたりした人々であり、ある程度、偽りが見えていたという意味においては、半分は正しかったと言えるかも知れない。だが、彼らは、決して自分自身の心の真実と向き合うことをせず、自らの心の傷の存在を認め、その癒しを求めるのではなく、これを他者に転嫁・投影し、他者の救済者になることで、己の傷を癒そうと試みたのである。

そのため、彼らは決して求めている解決に到達することはできなかった。そればかりか、教界の偽りに気づいて抜け出そうとしていたはずの彼らが、今度は、そこから抜け出そうとする信者たちに向かって、「おまえだけを決して自由にはさせないぞ!!」とでも言うかのように、全身全霊で離脱を妨げ、迫害と中傷と呪いの言葉を浴びせることにより、自ら告発しているキリスト教界から決して信者を逃がさず、その悪影響から立ち上がれないように信者を束縛するという奇妙極まりない自己矛盾に陥ったのである。

それによって、彼らは自ら訣別したはずのものを無意識に擁護しているのであり、彼ら自身、気づいて抜け出したはずの偽りを未だ後生大事にしっかりと握りしめて守っているのである。自分が虚偽と気づいたものからは、自由になるべきであり、他の人々も自由にすべきなのだが、その行動が全く逆になってしまっているのである。そして、被害者を助けると見せかけて、永久に自分と同じ心の傷の中に束縛しようとするのである。

ここに何かしら、傷ついた感情の癒着――加害者と被害者との深い堕落した霊的癒着――キリスト教界とそれを告発する人々の癒着――のようなものが見られる。そして、その癒着が深まれば深まるほど、当初は一方的に傷つけられた被害者だと主張していたはずの人が、残酷な加害者へと変貌を遂げて行くのである。そして、最終的には、自ら闘っていたはずの魔物と一体化することになってしまう。

この悪循環を立ち切らない限り、どんなにカルトを糾弾し、キリスト教界の偽りを糾弾しても、結果的には、彼らはそれと同一化する道を避けられない。同一化するくらいであればまだ良いが、敵とみなしたものよりも一層悪くなっていく危険性を否定できないのである。



さて、当ブログを再開してから、信仰生活において様々な苦労を経験したらしき人々が再び訪れて来るようになった。最近は特に、嫌がらせ目的の読者だけでなく、熱心に道を探求しているらしい人々も訪れている。

だが、こうした人々に言えることは、すべての出来事に意味があることを考えて、決して自分のこれまで辿って来た道を恥じないように、被害者意識を持たないように、ということだけである。

筆者は、幼い頃に教会に通い始め、そこで信仰を持ったが、その当時は、自ら教会を比較し、選ぶ自由は筆者になかった。それゆえ、自分が望んだわけでもないのに、望ましくない様々な出来事にも遭遇したし、そこを離脱する際にも、大変な苦労を味わったものである。その後、自分自身で聖書に基づく本当の福音を探し求め、神ご自身を知ることを求め始めてからも、波乱がなくなったわけではなく、こうしたことは、もし筆者が幼い時にキリストの福音に触れていなければ、全く起こらなかったことのように思われる。

だが、だからと言って、幼い頃にキリストの福音に触れたことが、無駄だったと考えることは全くないのである。これは決して、当時の教会の有様を弁護するために言うのでなく、その当時受けた教えが正しかったことの証明でもない。だが、たとえその当時、筆者のいた環境がどれほど不完全で、誤りに満ちていたとしても、そんな目に見える組織の有様のために、神を求める人の心の真実までが否定されることは決してないのである。

信仰がなければ、人は神を見いだすことはできない。逆に言えば、信者を神に導いたのは、指導者の説教やら、礼拝の雰囲気などではなく、その人自身の信仰であり、信者の願いに喜んで応えて下さる神の側からの働きかけがあったためである。そうして起きた神と人との出会いが無となることは未来永劫、決してないものと筆者は確信している。
 
神を求める人の探求は長い道のりであり、初めからすべてがうまく行き、真理の何もかもが最初から見えるということはない。必ず、何度も偽りに遭遇し、騙されそうになったり、危険な場所を脱け出したり、様々な紆余曲折を経ながら、純粋に御言葉だけに立ち続けることの意味が分かって来るのである。もし仮に何事も起きず、最初から最後まですべてが順調であったなら、おそらく、人はすっかり自己満足して、神を求める願いすら、失ってしまうのではないかと思う。

だから、たとえ信者が神を求める過程で、知らずに誤った教えに触れ、そのために時間を無駄に費やしたように思われることがあったとしても、こうした「余計な苦労」の全ても、神に至りつくためには必要かつ有益な道のりなのであり、たとえそれが信者の目に無益な失敗にしか見えなかったとしても、その苦労は、神が信者に約束して下さっている天の栄光に比べれば、取るに足りないはずである。(むろん、偽りの教えからは離れる必要があることは言うまでもない。)
 
「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。
 今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。
私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」(Ⅱコリント4:16-18)
 
神は、ご自分の御名のために、主の民が地上で味わった苦労をすべて覚えて下さっており、信者の一つ一つの痛み苦しみから決して目を背けることなく、その苦労を豊かにねぎらうことのできる方である。「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。」(詩編126:5 )と書いてある通り、主の御名のために私たちが地上で味わった苦労は(たとえそれが自分の愚かな間違いのゆえに起きたことで、いかなる実も結ばないもののように見えたとしても、もし誤りが分かってそこから離れてさえいるならば、それさえ)無駄にはならないのである。

だから、信者が地上で失ったもののために嘆く必要は全くない。天での最終的な勘定は、信者に圧倒的に有利になるはずだからである。信者に必要なのは、失ったものを振り返って嘆くことではなく、与えられた時間の全てを神に注ぎ続けることで、見えない種をまき続けることだけである。
  
長いが、最後にペンルイスの警告を引用しておきたい。ここには、今日のキリスト教界に見られる礼拝と、ペンテコステ運動に見られるような危険な堕落した霊的・魂的な活動への両方の警告を見ることができる。また、心理学の危険についても触れられている。この文章を利用した詳細な分析はまた後日に譲る。



「魂の力」対「霊の力」
 第四章 「子は自分からは何もすることができない」

ジェシー・ペン-ルイス著

"SOUL-FORCE" VERSUS "SPIRIT-FORCE"
 Chapter4: "The Son can do nothing of Himself"
 by Jessie Penn-Lewis


「魂の力」の意味は、「その源が魂にある力」として簡単に定義することができます。そして、「霊の力」は「その源が霊にある力」として定義することができます。魂は両者が働くための媒体です。魂の力は魂の機能を通して現され、同様に霊の力も魂の機能を通して現されますこれを大ざっぱに次のように説明しましょう。上から下に並んでいる三つの区分を描いて下さい。そして、上の区分に「霊」、真ん中の区分に「魂」、一番下の区分に「体」という印をつけて下さい。それから、「霊」から魂に下って外に出て行く矢印を描いて下さい。この矢印は、人の霊の中に住んでおられる聖霊を表します。聖霊は霊から魂に下り、魂の機能を通して働かれます。次に、「体」の区分から魂に上がり、魂の機能を通して外に出ていく矢印を描いて下さい。一番目の矢印は、神から来る霊の力です。それは魂を強めます。二番目の矢印は「魂の力」、肉から生じて魂に流れ込み、外に出て行く力です。「魂」は中央の区画であり、「霊」の力と「魂」の力両方の媒体です。どちらの力が働いているか知るには、その実を見るしかありません。(参照マタイによる福音書七章一六、一七節)

「魂の力」の源は魂にあります。もっと正確に言うと、それは聖書が「肉」と呼んでいる体のいのち、動物的ないのちから生じます。今日、私たちの先祖が夢想だにしなかった、大いなる「魂」の力が発見されつつあります。これらの力の源は「肉」にあり、「霊」にはありません。たとえそう見えない場合でも、これは真実です。なぜなら、内住する聖霊の力によって再生された霊が治めるようにならない限り、「魂」は肉の力の下にあるからです。聖霊は、魂の機能を治めて用いることを願っておられます。たとえば、魂の機能の一つである精神は、魂の力によって強められ、生かされるか、聖霊によって新しくされ、強められるかのいずれかです。

霊の領域の中にあるものを真似て、魂の領域の中に造り出された偽物―――これが今日の危険です。多くの人は無知のゆえに、魂の力を霊的だと思い、それを発達させて、行使しています。しかし、キリストが語られた御言葉が試金石です。彼は「人を生かすのは霊である」と語られました。あなたの霊を通して聖霊から来るものだけが、神に由来するのです魂の中にある潜在的な力を神聖だと思っている人々もいますが、そうではありません。たとえば、「『癒しの賜物』はの内にあり、それを持つ人はその賜物を発達させる必要がある」と言う人々がいます。ある牧者は、「この力は『魂の力』と呼ばれることがある。……この力は、神にささげられる時、『聖霊の賜物』になる。……」と記しました。しかし、実際のところ、聖霊の真の賜物は霊なる神から人の霊を通して来るのであって、「魂」から来るのではありません。

また、「聖霊のバプテスマ」を受けた証拠としての「聖霊の現れ」を求めることに関しても、催眠術と同じような手法が導入され、こうして偽物がキリスト教会の中に入り込みました。他にも、自分の霊の中に聖霊の注入を受けているにもかかわらず、無知のせいで魂の潜在的な力を発達させてしまい、自分の生活や神のための奉仕の中に混ざりものを生じさせてしまった信者の例があります。たとえば、歌を何度も繰り返し歌うことは、集会を一種の催眠状態にもたらすことができます。このような状態にある人は、知的に判断したり、意志を用いて決断することができなくなります。

このように今日、魂の力の潮流が世界に押し寄せています。そして、悪鬼どもは自分たちの計画やたくらみを遂行しつつあります。「人を生かすのは霊であって、肉は何の役にも立ちません」。福音の宣べ伝え、教え、働きなどの奉仕に携わっている神の子供はみな、聖霊によって支配されているか、魂の力によって支配されているかのいずれかです。再生されたのは霊です―――「私はあなたがたに新しい霊を与える」。フォウセットは、「人の霊は聖霊が住まわれる宮であり、聖霊は人の霊を通して働かれる」と言いました。聖霊が人の霊の中に到来し、それを新しくして、そこに住まわれる時、聖霊は精神をも新しくして、魂の諸機能を治めて下さいます。霊によって歩んで、聖霊の働かれる条件を満たすなら、私たちはあらゆる行いにおいて「霊的」になることができます。聖霊が触れたものはすべて霊の証印を押され、すべての機能は変えられ、生かされ、高く上げられます。信者は「新しい人」になるだけでなく、自分の霊の中に神のいのちを持ちます。精神を新しくされることを通して、混乱した思いは過ぎ去り、精神は明瞭になります。

肉は何の役にも立ちません」。これは霊的な働きにおいて、なんと真実でしょう!もし、働きが魂の肉のいのちによってなされるなら、何の実も得られません。どんなに労苦しても、実はまったく得られません!なぜなら、働いているのは、天然のいのちによって強められた「魂」だからです。それゆえ、「何の役にも立ちません」。さんざん苦労しても、まったく成果はありません!「肉」が何の役にも立たない以上、魂の力もまた何の役にも立ちません。こう述べることは、聖書釈義的にまったく正しいことです。

ヨハネによる福音書から、主の模範を見ることにしましょう。主は、ご自分とご自分の力――主の場合、それは罪のない力でした――に対してどのような態度を取られたのでしょうか?私たちの主は、「私の肉を食べ」「私の血を飲むこと」について語られました(ヨハネによる福音書六章五三~五八節)。弟子たちはこれを聞いて、「これはひどい言葉だ」と言いました。この主の御言葉は、「肉は何の役にも立たない」という霊的真理を理解することと関係していました。肉にとって、そして霊の事柄を受け入れることのできない生まれながらの人にとって、主の御言葉は「ひどい言葉」に聞こえます。

主イエス・キリストは「子は自分からは何もすることができません」と言われました。これは何と驚くべき御言葉でしょう!主は決して自分自身の活動をされませんでした。主は御父のなさるわざを見て、その通りに行われたのです――「私の中に住んでおられる御父が、ご自分の御業をしておられるのです」。私たちは、何が主からのものであり、何が自分自身からのものなのかを見極め、言葉や行いをもって神と共に働くことを学ぶまで、一歩一歩絶えず主を待ち望む必要があります。

また、主イエスは言われました、「私は聞くとおりに裁くのです」、「私は人からの栄光を受けません」、「私が来たのは、自分の意志を行うためではありません」、「私は自分の栄光を求めません」。神へのまったき信頼―――これが主の取られた立場であり、私たちが取るべき立場です。主はまた、「誰も御父が引き寄せて下さらない限り、私のもとに来ることはできません」と言われました(ヨハネによる福音書六章四四節)。

神の真の子供たちが今日直面している危険は、魂の力の存在を知らずに、それを発達させてしまうことです。また、広く普及している心理学の教えから来る危険もあります。心理学は、「あなた方は認罪、回心、再生によってではなく、精神療法によって、自分の『弱さ』から救われることができます」と教えます。神の子供といえども注意する必要があります。決して心理学的な自己像を抱いてはなりません。また、霊・魂・体の「諸法則」に気を取られるあまり、聖霊ご自身に信頼することを忘れてはなりません。聖霊はキリストから受けたものを、私たちに啓示して下さいます。今日の大いなる超自然的運動の中には、膨大な量の魂の力があります。私はたった今、ある大きな癒しの運動に関する手紙を受け取ったばかりです。手紙の差出人は次のように記しています、「この運動はまったく間違っています。数千もの人が続々とやって来ますが、それでも間違っています。人々に『手を置く』指導者がタバコを吸い、ウイスキーを飲んでいる有様です。こんな状態でいったい何を期待できるというのでしょう!」。

クリスチャン生活における「魂の力」の危険性について、もう少し述べることにします。意志と関係する「魂の力」も存在します。主は意志を解放して、それを強めて下さいます。しかし、意志は肉によってではなく、御霊によって強められなければなりません。魂の力の危険性の一つは、意志による祈りです。魂の力によって強められた意志を用いて祈るなら、その意志の力を他の人に及ぼしてしまうかもしれません。この危険性を知らない信者の中には、「××さんは、これをするべきです」とか、「これをするべきではありません」と言って、自分の思いを祈りの対象に投影する人がいます。魂の力によって祈る危険性を避けるには、神に向かって祈るよう常に注意する必要があります。すべての祈りを神に向けなさい。また、誰かのために何かをするよう神に指図してはいけません。「××さんを導いて下さい」と神に願う分には結構です。しかし、「××さんはこれこれのことを『するべきです』」とか、「これこれのことを『するべきではありません』」と言ってはなりません。他の人々のために祈る時、神の御旨に関する自分の見解や、悪に関する自分の判断を祈ってはいけません。私たちは一つからだの肢体ですが、各々はただ神に対してのみ責任を負っています。私たちが立つにしても、倒れるにしても、それは主の御前でのことなのです。

それから、礼拝において魂の力を引き出してしまう危険性があります。主は、「神は霊ですから、神を礼拝する者はと真理の中で礼拝しなければなりません」と言われました。それでは、教会の中で感覚的なものが奨励されている事実は何を意味するのでしょう?どうして、月曜から土曜までこの世的な生活をしている人でも、日曜日に教会に行って幸せな気分になれるのでしょう?彼らが幸福で心地よい気分になったのは、音楽などの影響によるのではないでしょうか?彼らは満足を与えられました。しかし問題は、彼らが本当に罪を認めて、再生されたかどうかです。音楽を演奏することはいけないのでしょうか?そんなことはありません。歌には神への賛美が込められています。しかし、ローマ・カトリック教会の礼拝の中に見られる、魂的な要素の数々を考えてみて下さい!アンドリュー・マーレーは、「魂の月並みな働きが礼拝の中に侵入している」と指摘しました。彼はさらに付け加えて、「人々が罪に打ち勝つことができない理由の一つは、彼らが自分の宗教生活の中に魂のいのちを持ち込んでいることである。しかし、彼らはこれをほとんど考えもしない」と述べました。彼らは礼拝の中に自己(肉)を持ち込み、こうして肉的な罪を生かし、活動させています。彼らは「自分は『肉』を始末したはずなのに、どうしてまだ肉が残っているのだろう?」と疑問に思います。「罪」の力は、神への礼拝の中にある魂の働きにあります。それは、宗教生活の覆いの下に隠されている「肉」です。私たちはまず第一に、神に近づく必要があります。次に、私たちは霊と真理の中で神を礼拝しなければなりません。「なぜなら、神はこのような礼拝者を求めておられるからです」。

今日、霊的な信者が直面している危険は、魂の力の危険です。思いを四方に押し流す潮流がいくつもあります。多くの人がそれらの潮流に捕らえられており、無防備です。キリストの死の中に立って、それが自分と空中の軍勢とを隔てるよう求めるなら、あなたはそれらの潮流を完全に自分から断ち切ることができます。

私たちの思いは本当に新しくされたでしょうか?それは神の霊によって力づけられているでしょうか?それとも、私たちは生まれながらの人の思いしか持っていないのでしょうか?今日の合理主義は、知的な議論によってではなく、霊の力と祈りによって対処することができるでしょう。霊にしたがって生活し、霊に従って歩む方法を、主が私たちに教えて下さいますように。新しくされた思いによって、魂と霊の違いを識別することができますように。「神の言葉は生きていて、力があり、魂と霊を分けます」。魂のいのちは十字架上で死に渡されます。そして、私たちは「霊的」になります。



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カルト被害者救済活動の反聖書性―キリストの十字架の切り分けを否定して未分化の東洋思想への回帰を唱える危険な運動③

7.キリストの十字架によらず、肉による善行を通して、人が自力で救済に至ろうとする偽りのヒューマニズムは、「神に見捨てられた罪人を、神の十字架の判決から救う」ための「神に対する被害者運動」である


さて、記事「カルト被害者救済活動の反聖書性について―キリストの十字架の切り分けを否定して未分化の東洋思想への回帰を唱える危険な運動➀」の中では、キリスト教の不祥事につまづいたことをきっかけに、キリスト教の「二分性」や「排他性」につまずき、これを「思い上がって狭量な救い」として非難して、聖書の御言葉の否定に至る人々がいることを書いた。

カルト被害者救済活動に携わる人々が、特にプロテスタントのクリスチャンを「高慢」や「自己愛」などという言葉を用いて盛んに非難する背景には、聖書の御言葉が本質的に持っている排他性に対する抗議の念が含まれている。つまり、彼らは信者に抗議しているのではなく、聖書の御言葉に逆らっていることを見て来た。

ここから、聖書の二分性を否定する東洋思想の恐ろしさについて述べたいのだが、その前に、偽りの救済活動の持つ「高慢さ」について、さらに少し補足しておきたい。

幾度も書いて来たように、上記のような人々には、キリスト教の福音が、多くの人々を排除する残酷で狭量で反人間的な「排除の論理」であると述べて、キリストの達成された御業だけに頼ろうとせず、そこに人間の努力による自己救済という要素をつけ加え、よりヒューマニスティックな福音を作ろうとして、最後には聖書の御言葉に逆らって、これを否定して行というく特徴がある。

彼らは、神の救済を退けて、己の肉を高く掲げ、肉による善行を通して神に至ろうとする高慢に陥っているのだが、それが自分では分からないのである。

キリスト教界においては、一方では、組織に所属し、礼拝儀式への参加や、様々な奉仕活動を通して神に至ろうと、己の外面を磨き、肉の善行により頼む人々がいるかと思えば、その対極には、カルト化した教会で被害を受けた人々を救おうと、善良な救済者を名乗って登場し、やはり肉の行いにより頼んで人間を救おうとする人々がいる。

それらは対極にあるように見えて、どちらも同じように、キリストの十字架を抜きにした人間の自己救済の努力としての偽りのヒューマニズムである。これらは聖書に立脚しておらず、御言葉を曲げているという意味において、本当はキリスト教と呼ばれるべきではない。こうした活動の最たる特徴は、信者を決してキリストだけに導いて自由へ至らせることなく、むしろ、人間が作り出した様々な支配関係・依存関係の中に閉じ込めてしまう点である。

一方には、教会籍を作り、信者を組織としての教会に束縛し、キリストではなく目に見える人間である牧師という指導者に従わせ、指導者を絶対化する制度があり、他方には、自称救済者である指導者が、「教会で被害を受けた」とする信者たちを集めて自分に従わせ、離反者には容赦なく制裁を加え、離脱を許さない閉鎖的なカルト被害者救済活動がある。

筆者はこれらの二つの活動が、ともに聖書の本質から逸れて堕落した地上組織としてのキリスト教界の産物であって、根本的に同一の起源から出てきていることを指摘して来た。

これらはどちらも、聖書の御言葉を曲げて、キリストではなく人間の指導者を崇め、人が己の肉により頼んで自己救済を図るところから出て来た活動であり、本質的に聖書に反している。だが、今日、キリスト教と呼ばれているものの99%以上は、こうした活動で占められており、無知ゆえにそれに欺かれているだけの人々が、ことさらに罪に問われることはないようにと願う(だが、彼らの人生の損失は非常に大きいものと思うが)。

いずれにしても、そのようなものが聖書の御言葉の本質でないことは確かであり、そうである限り、本気で真理を求める人々が、そのような皮相な活動を離れて、神を尋ね求める例はこれからも現れるだろう。キリストのお与え下さった自由を生きて知るために、そうした虚偽の活動を離れ、人知れず、荒野を通るようにして、キリストご自身以外に頼るもののない状況で、この方だけにより頼み、御言葉の真実さ、確かさを生きて知るための訓練を受け、神の熟練した兵士となって、神の約束して下さった御国の前味を生きて知り、御旨を地上に実際に引き下ろす人々が現れるだろう。

必ず、神はご自分の民を用意しておられる。この先、どのような時代が来て、拙稿がどれほど役に立つのかは分からないが、筆者がしているのは、主の民のために道を整えるために、これまでに達し得たすべての教訓を残すことである。拙稿をたたき台として踏み越えて、さらに前進して行く人も現れることであろう。

さて、話を戻せば、以上に挙げたように、神の知恵に逆らって、生まれながらの人間の肉を高く掲げる人々は、当然ながら、神に対してのみならず、人に対しても高慢になる。

筆者は、これまで奉仕精神にあふれたクリスチャンに幾人も出会った。困っている人々を見ると助けずにいられず、自分の知っている真理を人にも分かち合わずにいられない、といった人々で、必ずしも、「善魔」と呼ばれるような、押しつけがましい奉仕者ばかりではなかった。

だが、たとえどんなに彼らが謙虚に人助けに邁進しているようであっても、そこにはどうしても、彼らが自分では気づいていない密かな高慢さとナルシシズムの落とし穴が存在することを筆者は常に感じずにいられなかった。

それは、彼らが神の御前で自分こそが欠乏を抱え、自分こそが問題を抱えている張本人なのだという事実を見ることを否み、自分の問題を他者に転嫁し、他者を救済することで、自己救済をはかろうとしているという自己欺瞞である。そういう人々に対しては、

「なぜ、人を教えて自分を教えないのか。」(ローマ2:21)という一言に尽きるだろう。

「イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」」(ヨハネ9:41)

上記のヨハネの福音書の御言葉は、イエスが盲人を癒された時に言われた言葉である。だが、これは、盲人という障害者に対する健常者の差別を非難して言われた言葉ではない。この言葉は、「社会的弱者を見下してはいけません」という観点から述べられたものではなく、神を見下している人々に向かって述べられた非難の言葉である。すなわち、イエスは、偽善者たちが(人に対してではなく)神に対して「私は見える」と言い張っているところに罪があると非難されたのである。

肉による善行とは、結局、己を神以上に高く掲げ、神以上に自分が正しいと言い張り、神の最善としてのキリストの十字架の救いを退けて、人が自分自身の努力によって神に至ろうとするすべての努力を指すのである。その中には、当然ながら、カルト被害者救済活動のように、まことの救い主である神を退けてまで、己が救済者になって人助けにいそしもうとする人間の高慢さも含まれている。

このように熱心に人助けにいそしんで救済者や指導者になりたがる人々は、一様に言う、「私には分かっている」、「私は知っている」、「私は人に教えてあげられる」、「私はあなたの状態を見て可哀想に思う」云々。一見、人を助けると見せかけて、弱さを抱えた人をどこまでも見下し、自らの栄光の道具として行く人々の口調に見られる高慢な響きは、杉本徳久氏の書簡を読むだけで十分である。

彼らは外見的には、困っている人々を見捨ててはおけない隣人愛に溢れた謙虚な人間を装い、教会にも熱心に通って敬虔なクリスチャンのように振る舞い、自分の人生においてはあたかもすべての問題に対する解決をすでに得ているかのように振る舞うかも知れない。だが、そのように人前で「完全無欠」を装い、熱心に人助けに励む人間ほど、心の内側では、必ずと言って良いほど、マザー・テレサ同様に、神が分からない、自分は神に見捨てられているという絶望感や空虚さに苛まれているのではないかと筆者は思う。カルト被害者救済活動の辿って来た道のりが、そのことを十分に立証しているように思う。

他者に対して救済者になりたがる人々というのは、欠乏を抱えて道に迷い、困窮して「可哀想な」弱者とは、常に自分ではない他の誰かであると考えて、他者を心密に見下しながら、同情の眼差しで見、上から手を差し伸べようとする。

このような人々は、他者を「救済する」という口実に自分自身が欺かれており、人助けを口実として、自分が常に他者よりも優位に立って、人間関係において主導権を握り、相手を支配して行こうという願望をかなえようとしているだけであることに気づかない。「救済する」側の人間は栄光を受け、感謝され、脚光を浴びるが、「救済する者」と「救済される者」との間には、圧倒的な力の差が出来、その溝はいつまで経っても、決して埋まらない。これは霊的搾取に基づく支配関係である。

そのようにして、彼らは巧妙に他者の尊厳を貶めながら、真の救済者である神を押しのけて、自分が救済者を名乗り、神から栄光を奪っているのである。なおかつ、そうして他者の問題ばかりに注目し、他者に同情し、謙虚に手を差し伸べているように見せかけながら、密かに優越感を味わい、自己の抱える本当の問題や必要から目をそらし、神を抜きにして自己をあたかも完全であるかのように思い込もうとしているのである。

こうした人々は、自分の問題を決して訴えようとしないので、傍目には、謙虚に隣人愛に生きているように見えるかも知れないが、それはただ自分の内心の問題に目をつぶり、これを他者に転嫁して、自分の問題を、他者の問題として訴えることで、自分はあたかも己の利益のために行動していないかのように装っているだけである。

どんなに人助けにいそしんでも、依然として、彼らの注意は人間にしか向いておらず、キリストに向いていない。そうである以上、そのような活動に没頭すればするほど、ますます神の臨在を感じることもなくなり、神が分からないという絶望感に陥るのは当然である。

「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。」(Ⅱコリント3:16)

マザー・テレサは50年以上も神の臨在を全く感じられない「神の不在」の中にあった。単に霊的な交わりを一切感じられなかっただけでなく、神そのものが生きて実在しておられると信じることさえできないほどの絶望にあったようである。他人に神の愛を伝えておきながら、自分自身は神の愛が分からないというのでは、本末転倒ではないだろうか。どうして自分が分かっていないことを、人に教えられるのだろうか。理解することもできないほどの衝撃的な自己矛盾であるが、ここに筆者は、カルト被害者救済活動の支持者らとの共通点を見ずにいられない。すなわち、自分を差し置いて、救済されねばならないのは他人だと考えて、人助けにいそしむ人々の高慢さというものを見ずにいられないのである。

さらに、彼らの人助けなるものも、本当は、世間で賞賛と共に理解されているようなものとは、全く違ったものであった。それは結局、キリストへの信仰を持たない、神に見捨てられた人々を、同じように神に見捨てられた人々が、聖書とは別の方法で「救済」しようとするという意味において、神に逆らう高慢な反聖書的な活動だったのであり、パウロの指摘した「神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶり」(Ⅱコリント10:5)にあてはまるものと言わざるを得ない。

マザー・テレサはインドの「貧しい人々の中にキリストが臨在しておられる」と述べて、信仰を持たない人々の内に「キリスト」を見いだせると主張した。だが、このことは、彼女が聖書の御言葉を曲げて、信仰を持たなくても人が救われてキリストに至ることが可能だとみなしたことを意味する。こうした彼女の主張は、ちょうどカルト被害者救済活動が、信者よりも、不信者をより多く引きつけたのと、よく似た構図を持つ。彼らの人助けは、根本的に、信者のためのものではなかったのである。むしろ、それは神が十字架で罪に定め、廃棄するしかないという宣告を下された、信仰を持たないアダムに属する古き人(旧創造)を、神が唯一の救いとして定められたキリストの十字架から救おうとする活動だったのであり、「神に見捨てられた罪人・弱者を神の残酷な死刑判決から救うための、神に対する被害者運動」だったのである。

そのような意味で、これは聖書をさかさまにして、キリストの十字架を通して、神が定められた罪と死の判決から、哀れな人類を救おうとする、神を仮想敵とする、神に対する人類の被害者運動だったと言えるのであり、決して聖書の御言葉を介さずに、キリストの十字架を経由することなくして、人類を神による罪定めから解放し、人間がまことの神を退けて自力で神に至ろうとする(神の座を奪おうとする)点で、神に対する反逆運動だったと言えるのである。

そうである以上、こうした活動が人に自由をもたらすことは決してない。実際に、これは全く人助けなどではなく、あたかも人助けのように見せかけながら、人を不自由な人間関係の序列の中に束縛し、決してそこから逃がさずに、人の栄光を築き上げる道具として閉じ込める偽りの支配関係・依存関係なのであり、その残酷で不自由な支配は、この活動の虚偽を見抜き、それに反対を唱えて離脱しようとする人々が現れた時に、根こそぎ明るみに出た。カルト被害者救済活動の支持者が、この活動の危険を訴えたり、反対する者に対して、何をして来たかはすでに幾度も明らかにした通りである。

こうして、弱者救済活動に関わる人々の心に潜む、高慢さと歪んだ自己愛、さらにもっと言えば、権力欲、名誉欲、支配欲といったものが確かに存在することを筆者は考えないわけにいかない。だからこそ、一見、人の目には美しく見えるこうした弱者救済活動の持つ聖書に反する本質的な危険性について、再三に渡り、訴えないわけにはいかないのである。

さて、神を知るためには、信者がこうした偽りの運動によって身を飾ろうとすることをやめ、何よりも人の方ばかりを向くのをやめて、神の方を向くしかない。

「たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。」(ローマ2:4)

新約に出て来る神のぶどう園を企業にたとえてみたい。神はある日、ぶどう園運営会社で働いていた全社員の働き方を見て、全員の解雇を決定された。これら全社員は、今や横領と背任の罪で告発されている。神は、ご自分に完全に忠実な新しい指導者を会社に送り込んで、己の罪を認めてこの新たな指導者に従う人間だけが、社員であり続けることができるという規則を定めた。社員が解雇されない道は、この新しい規則に服することしかない。すでに新しい規則に基づいて新入社員の受け入れも始まっている。なのに、会社には依然として、この新しい規則を拒んで、新しい社員をいわれなく攻撃しては排斥し、神が立てられた新しい指導者をも拒んで、罪に問われている古い社員を擁護して、彼らを残酷に排除された「被害者」であると主張して、「残酷な排除の論理」である新しい規則に逆らって、古い社員の「救済活動」を繰り広げている人々がいる。だが、そんなことをして何になるのか。それは救済ではなく反逆である。それは神のぶどう園の乗っ取り計画である。そのように、神を罪に定め、神の憐れみによって与えられた唯一の解決をも退けてでも、罪人を復権させようとする悪人どもは、根こそぎ解雇された上、監獄にぶち込まれるであろう。

神が人類全体を罪に定められた以上、人類(旧創造)の利益にこだわっても無意味なのである。キリスト者は、罪に定められた旧創造としての人類を擁護し、旧創造の思惑を忖度するために生きるのではなく、これをすべて退けてでも、神は一体、何を望んでおられ、神の目に真に価値あるものは何なのか、それをこそ考え、追い求め、実現するために生きている。

そのために必要なのは、信者が、神の御前で自分の無知を偽らず、自分が神の御前で貧しい者であることを認め、真理を求めて絶えず神に近づきたいと願うことである。自分自身の心の欠乏を他者に投影・転嫁するのではなく、人の問題にかこつけて願い出るのでもなく、強がりを捨て、素直に自分の必要を認めて、あらゆる問題について神に正直に打ち明けて助けを乞うために、自分をさらけ出して神に真剣に向き合い、心のすべてを持って誠実に語り合い、懇願するしかない。

「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。
わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現さないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る軟膏を買いなさい。
わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。」(黙示3:17-19)

この終わりの時代、本気で神に従い抜きたいと願うなら、どの信者も信仰を守るためにそれなりの戦いを余儀なくされるものと筆者は考えている。パウロでさえも書いている、「私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。」(Ⅰコリント9:27)と。

パウロでさえこのように言わなければならなかったのであるから、今日の信者が、キリストに忠実であり続けるために何の覚悟も要らないというわけにはいかないだろう。

確かに、信者がキリストの十字架を信じ、救われている事実は永遠に変わらない。我々の内におられる方は「世に勝った方」であり、この世の君であるサタンよりも強いのである。そして、キリストから生まれた者たちも、この世よりも強いのである。だから、勝利は常にキリスト者のものである。

「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:33)

「神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。
なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。
世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」(Ⅰヨハネ5:3-5)

だが、その勝利は、信者が生きて御言葉を信仰によって実際にこの地に引き下ろすことなくして、世に現れ出ることはない。そのために、信者はのんきに悠長に構えているわけにはいかないのである。もし御言葉を実際としたいならば、日々、自分の十字架を負って、自己を否んでキリストに従い、御言葉の内にとどまり、これを守らなければならない。

神の御前で真に「豊かな者」となるために、自分が貧しい者であることを認め、神に叱られたり、懲らしめられたりしながら、あらゆる試練を潜り抜けて、より御言葉のリアリティの中に入り込んで前進し、やがて勇敢で強い兵士になって、御言葉を毀損するこの世のあらゆる偽りと高ぶりを打破し、キリストが十字架で取られた勝利をこの地に実際として打ち立てて、復活の領域を押し広げて行く必要がある。

このような戦いの中で、神に絶えず知恵と助けを求めて近づく必要を覚えない信者がどこにいるだろうか。だが、自分自身を偽って、神と人との前で、「私は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もない」と言い張っている人間だけは、例外である。

彼らは神と人との前で自分の無知を認めることもなく、自分の弱さを認めてキリストに助けを乞うこともなく、自分の内側にある問題を神に正直に打ち明けることをもしないで、あたかも自分には何の不足もないかのように装い、自分の抱える見たくない問題には一切蓋をしながら、他者の問題だけにスポットライトを当て、容赦なく人の問題を暴き、他人の窮状について言葉を尽くして語りながら、それがさも隣人愛であるかのように偽り、神と人との前で自己を偽り、自分は優れて立派な人間であるかのように取り繕う。

このようなやり方では、どんなに他者をたくさん助けて感謝されてみたところで、彼ら自身の抱える心の必要性は永久に忘れ去られ、放置されたまま、誰にも振り返ってもらえず、置き去りにされるであろう。そのためにこそ、彼らの心の内側には、「自分は神に見捨てられている」という絶望感・空虚感が人知れず日々増し加わって行くのである。

そうして、人に宣べ伝えておきながら、自分自身は救いの対象外であり、自分の問題は永久に見捨てられており、解決されることもないという癒しがたい孤独と絶望感から目を背けるために、彼らは日々より一層、熱心に人助けに励み、自分の問題を他者に転嫁せずにいられなくなる。そうして、同じように「神に見捨てられて理不尽な状況に陥っている可哀想な弱者」(ほとんどが不信者)のために東奔西走することで、まことの救い主である神を否定し、神の栄光を盗みながら、神に見捨てられた旧創造の代表として、「生まれながらの人類を罪に定め、救いから排除した残酷な神の横暴さと理不尽」のゆえに神に抗議活動を続けるのである。

このような堂々巡りの罠にはまってしまうと、助ける側も、助けられる側も、永久にその偽りの救済活動が作り出す依存関係・支配関係の癒着から抜け出せなくなる。これこそが、謙遜とヒューマニズムに見せかけた、神によらない人類の絶望的な自己救済が生み出す高慢さと自己愛とナルシシズムの道である。

だが、主イエスの御言葉は、決してこんな恐ろしい不自由な束縛の中に人間を閉じ込めることはない。キリストご自身が、信者にとってすべての解決であり、まことの命であり、救い主であり、カウンセラーであり、弁護者である。従って、この方を内に得ている以上、信者はすべての必要をこの方のところに持って行き、解決をいただくことができるのであり、地上の誰にも助けを求めて走り回る必要がなく、神の地位を奪って「救済者」を名乗る人々に、栄光をかすめ取られ、道具とされる必要もないのである。

信仰の戦いをどう戦いぬくかという問題についても、あの指導者、この指導者のもとへ行かずとも、内なる油塗りであるキリストの御霊を通して、信者は必要な真理を十分に教わることができる。真理の御霊が内におられるからこそ、信者には自由があるのであり、どのように御言葉の内にとどまるかを理解するために、人の助けを求め、人の知恵に依存する必要がないのである。

「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ8:31-32)

「あなたがたのばあいは、キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、――その教えは真理であって偽りではありません。――また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。」(Ⅰヨハネ2:27)



8.御言葉(十字架)の「二分性」、「切り分け」の機能に基づき、信者が目を覚まして、真理と偽りとを峻別する必要性

さて、以上に記したように、弱者救済という名目で、あからさまに旧創造の「救済」を唱えて、罪に定められた人類の復権のために、聖書の御言葉の否定に至る人々がいるだけではない。

前稿では、「霊と肉の切り分け」という極めて重要な事柄について言及しながらも、ペンテコステ運動の誤りを無批判に取り込んでしまったがゆえに、偽りの霊の運動に惑わされてしまったKFCについても触れたが、このように、聖書の御言葉に忠実にとどまりたいと考えているクリスチャンにも、ペンテコステ運動のように、巧妙に聖書の御言葉の「分離」や「切り分け」を否定する偽りの教えの危険が迫っている。

だが、公平のために断っておけば、ペンテコステ運動は、何よりアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団が推進していることで知られる。上記のKFCも、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の信徒のゆえに道をそらされた部分が大きく、同教団に属する現役信者と、ルーク氏との交流も、Br.Takaによって始まったものではなく、もっと古くから存在するものであった。

キリスト教界の危険性を見抜いていたルーク氏であるから、この危険な教団の信者との交流は断つべきであったろうというのが筆者の見解であるが、いずれにしても、数々の誤った霊的ムーブメントを日本に引き入れる原因を作ったアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の危険性については数多くの記事を書いて来たので、ここで改めて言及するまでもない。聖書に逆らう腐敗したカルト被害者救済活動もこの教団から出て来たのである。

ペンテコステ運動の危険性については、稿を改めて分析を続けるとして、その前に、ルーク氏が幾度も強調していた「善悪の路線」から「命の御霊の路線」へ(=「罪と死の法則」から「命の御霊の法則」へ)というテーマについて、さらに補足しておきたい。なぜなら、そのことによって、KFCがなぜ偽りを見抜けなかったのかを明確に理解し、二の轍を踏むことを避けられると思うからである。

「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。
なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」(ローマ8:1-2)

キリストと共に十字架において自己の死を受け入れ、彼と共に罰せられ、共に復活にあずかり、彼の命によって生かされたことにより、信者は律法による罪定めから解かれ、自分で自分を義とするために果てしない努力を重ねた挙句に罪に定められる必要はなくなった。そして、まことの命なるキリストの御霊の法則によって生かされるようになった。

ここまでは良いとして、だが、それで「善悪の法則」(罪と死の法則)自体はなくなったのであろうか? 信者に対して無効にされたのであろうか?

いや、決してそうではない。「しかし律法の一画が落ちるよりも、天地の滅びるほうがやさしいのです。」(ルカ16:17)と言われる通り、信者が「罪と死の法則」に死んで、「命の御霊の法則」によって生かされるようになった後も、律法そのものがなくなったわけでなく、「善悪の法則」自体が死んだわけではないのである。

信者が律法によって罪に問われなくなったのは、「キリストのからだによって、律法に対しては死んでいる」(ローマ7:4)ためであり、「自分を捕えていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えている」(ローマ7:6)ためである。つまり、信者の側が律法に対して霊的死を帯びているので、この死が信者に対する律法の訴えを無効化しているだけであって、律法そのものは依然として有効なものとして存在しているのである。

依然として有効であるだけでなく、律法は、これを完全に全うして父なる神の前に義と認められた御子が、信者の内に御霊として住んで下さることにより、信者もまた、彼と共に完全に律法の要求を満たしたものとして神の目に義とされ、さらに、御霊を通して、律法は信者の内に書きつけられているのである。

「主が、言われる。
 見よ。日が来る。
 わたしが、イスラエルの家やユダの家と
 新しい契約を結ぶ日が。
 それは、わたしが彼らの先祖たちの手を引いて、
 彼らをエジプトの地から導き出した日に
 彼らと結んだ契約のようなものではない。
 彼らがわたしの契約を守り通さないので、
 わたしも、彼らを顧みなかったと、
 主は言われる。
 それらの日の後、わたしが、
 イスラエルの家と結ぶ契約は、これであると、
 主が言われる。
 わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、
 彼らの心に書きつける。
 わたしは彼らの神となり、
 彼らはわたしの民となる。
 また彼らが、おのおのその町の者に、
 また、おのおのその兄弟に教えて、
 『主を知れ。』と言うことは決してない。
 小さい者から大きい者に至るまで、
 彼らはみな、わたしを知るようになるからである。
 なぜなら、わたしは彼らの不義にあわれみをかけ、
 もはや、彼らの罪を思い出さないからである。」
(ヘブル8:8-12)

キリストの御霊を通して、律法は信者の心に書きつけられ、信者はもはや自分の外側にある律法によって罪に定められることはない。が、だからと言って、善悪の区別そのものがなくなったわけではなく、今度は、信者自身が、御霊によって心に書きつけられた律法を通して、御言葉を理解し、神との交わりを得るだけでなく、自分に起きるすべての出来事を吟味し、見分け、識別して行く責任を負うのである。それによって、信者は御言葉の内にとどまる秘訣を知るのである。

ここで、大きな転換が成し遂げられていることに気づく。キリストを受け入れ、御霊が内に住んで下さるまでは、信者は律法によって調べられ、追及される対象であった。しかし、御霊によって律法が心に書きつけられてからは、今度は、信者自身が、すべてのことを識別し、吟味し、追及する側に立ったのである。

そのことは、信者が意識的に御言葉の中にとどまり続ける義務と密接な関係がある。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。」と、主イエスが言われた通り、御言葉にとどまる(御言葉を守る)とは、信者が自分で意識的に行わなければならない選択であり、救いが与えられているからと言って、信者の意志を抜きに、自動的に成し遂げられる事柄ではない。

「義務」とは書いてはみたものの、これは筆者の見解であって、御言葉に従うかどうかは、あくまで信者の自由意志に委ねられた選択なのである。もし信者がそんな義務は自分にはないとか、果たしたくないと考えるならば、御言葉の内にとどまらず、外に弾き出されてしまうこともありうる。(たとえば、自分で御言葉の真実性を拒み、否定した場合など。)

信者には救われて後も、依然、御言葉を拒む選択の自由もある。さらに、望んでいなくとも、敵の偽りに欺かれて、御言葉の外に引き出されることもある。御言葉にとどまるのかどうか、とどまるとしても、どうやってとどまるのか。それは信者自身が自ら御霊を通して学び、考え、識別し、能動的に選択して行かなければならない。

真理の御霊は、ただキリストとの麗しい交わりのためだけにあるのではない。それが教える真理を通して、信者は自分に起きるすべての出来事を理解し、吟味し、何が御言葉に忠実な、神から来た事柄で、何がそうでない偽りであるかを見極めて、絶えず自らの意志によって、御言葉の内にとどまり、御言葉を実体化して行くのである。(それが信者が霊によって自分自身を治め、環境を治めることにつながる。そのようにして御国の霊的統治が実体化されるのである。)

だが、御言葉にとどまることは、信者が主体的になすべき事柄であり、神を信じているからと言って、自動的に達成されるものではない。信者が御言葉を守ってその中にとどまっている限りは、信者はキリストのうちにとどまり、父なる神との交わりを失わない。内におられる御霊が、御言葉の内にとどまる方法を信者に教えてくれるので、これに忠実に従いさえすればである。

「あなたがたのばあいは、キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、――その教えは真理であって偽りではありません。――また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。」(Ⅰヨハネ2:27)
 

だが、もし信者が、自分は何をしても罪に定められないから良いだろうと考えて、御言葉に照らし合わせて識別することもなく、偽りを退ける必要性も認めずに、どんな影響力でも警戒することなく自分の内に招き入れて、何にでも扉を開き続けていれば、いずれ敵の嘘に欺かれ、御言葉の外へおびき出され、堕落することは避けられないであろう。さらに、そんなことばかりずっと続けていれば、神との交わりも失われ、御霊の警告もやみ、悪魔の虜となってその奴隷とされる人生へ逆戻って行くだけである。御血の清めによって神に立ち返ることが可能なうちは良いが、意図的な反逆を続けていれば、どこかで引き返せなくなる。そんなことにならないように、偽りは初期のうちに見分けて退けられるように、信者は絶えず目を覚まして警戒を怠らないようにしておく必要がある。

そのために、信者は積極的に御言葉を行使して、すべての影響力(自分自身の外からやって来る影響力だけでなく、内側から起こる思いや感情をも含む)を鋭く識別し、神に属さないものを切り分け、退けて行く必要がある。

「御霊を受けている人は、すべてのことをわきまえますが、自分はだれによってもわきまえられません。」(Ⅰコリント2:15)

ここに、以前は律法によって罪に定められるだけであった信者が、今度は、キリスト共に、自ら心に書きつけられた律法によって、すべてを識別する側に立つという立場の転換がある。
 
上記の御言葉は、クリスチャンのこの世に対する超越的な地位を示している。たとえどんなに幼子のように未熟なクリスチャンであっても、まだ霊的な事柄をほとんど知らない生まれたての信者であっても、キリストの御霊が内に宿り、律法が心に書きつけられていることは、この世のいかなる裁判官よりも高い地位に信者がつけられ、どんな法律家よりも深遠な知識を持っているのと同じほどの意味なのである。

だからこそ、その内なる御霊によって、信者はすべての出来事をわきまえ、その識別力を生長させ、発展させなければならないのである。信者は、この世の常識によってではなく、識者の言葉によってでもなければ、学問によってでもなく、人情によってでもなく、感覚によってでもなく、御霊を通して、御言葉によって、すべての事柄をわきまえるのである。その御霊による霊的識別こそ、神の観点から何が本当に重要で、価値ある事柄なのかを信者に教えてくれるのであり、その識別力を失えば、信者は信者としての特質を失い、この世の人と同じように、「人の悪だくみや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりする」(エペソ4:14)だけである。

KFCの問題点は、信者が「命の御霊の法則」に生きる重要性を唱えた点では、極めて重要な役割を果たしたが、同時に、「罪と死の法則」から解かれた自由を強調するあまり、信者が主体的に御言葉を守り、そのうちにとどまることの重要性、すなわち、御霊を通して、心に書きつけられた律法を通して、信者が全ての事柄をわきまえ、識別して、虚偽を退けることの重要性を見落とした点にあるかも知れないと筆者は考えている。あるいは、言葉では語っていても、それを実際には行使しなかったのである。

今日ほど、御言葉の切り分けの機能が重要な時代はないであろう。信者が暗闇の勢力のもたらす偽りを目を覚まして警戒し、御言葉を通してすべての事柄を識別し、偽りを見抜いて退ける作業は、どんなに強調してもしたりないほど重要である。

聖書の御言葉の持つ二分性は、信者が命の御霊の法則によって律法に対して死んだ後も、絶えず残り続ける。信者が律法によって罪に定められることがないからと言って、御言葉の二分性が消えたとか、信者にとって失われたとか、御言葉(十字架)の切り分けや、分離する働きが無効になったわけでは全くない。むしろ、御言葉は、諸刃の剣よりも鋭く、信者にとっては、何が神から来たものであり、真理であり、何が偽りであるかを識別する強力な武器となるのである。この武器を信者はただ持っているだけでなく、実際に行使しなければならない。

「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえ刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」(ヘブル5:12)

さて、ようやく次回から、聖書の御言葉の二分性を否定して、人を「善悪未分化」の状態に引き戻そうとする東洋思想の危険性について述べて行きたい。

<続く>


カルト被害者救済活動の反聖書性―キリストの十字架の切り分けを否定して未分化の東洋思想への回帰を唱える危険な運動②

5.神の知恵である御言葉に逆らって、キリストの十字架を否定し、人が己の努力によって自力で救済に至ろうとする「高慢さ」

さて、前稿では、杉本徳久氏のようなカルト被害者救済活動の支持者らも含め、「プロテスタント信者特有の鼻持ちならない高慢さとナルシシズム」を持ち出して信者を非難する人々が、結局は、聖書の御言葉の「二分性」や「排他性」につまずいて、「狭き門」としてのキリストの救いに抗議していることを見て来た。

だが、ここにはさらにもう一つ大きな重要なポイントがある。

それは、信者に対する彼らの非難が、自力で救済に至ろうとしてもがき苦しむいわゆる「クルシチャン」の生き方と訣別して、御言葉を信じて、キリストの達成された御業に安んじ、「命の御霊の路線」に生きるクリスチャンに対する、暗闇の勢力からの全力を込めた妨害だったという点である。

ちなみに、筆者自身は「自己愛の病理」という言葉を使って記事を書いたことはないが、このテーマで探せばすぐに見つかるのは、KFCのドクター・ルークの次の記事である。

自己愛の病理を脱する十字架の道

記事内容は以下にも引用するが、これを読めば、カルト被害者救済活動の支持者たちや、前述の記事で挙げたブログ主の信者への非難は、ルーク氏の記事をそっくり裏返しにしたものであることが分かる。

筆者は、KFCやルーク氏の主張に対して全面的に賛同できない数多くの点があるので、この記事についても、細かい注意点を以下に詳しく記している。筆者が、ルーク氏の見解に注意が必要であると考えるのは、同氏の見解が、常に心理学とペンテコステ運動と聖書の御言葉に基づくキリストの御霊の働きとの混合になっていると思われるからである。(これについての詳細な分析は別稿でも行う。)

たとえば、「自己愛の病理」などという単語自体が、聖書に由来するものではなく、前の記事で示した元信者と同じように、心理学を模して造られたルーク氏の造語である。

だが、この造語の是非の問題は今はあえて脇に置いて、大筋でこの記事をとらえたい。要するに、同氏がこの記事において「自己愛」という言葉でバッサリと断ち切り、退けているのは、キリストと共に十字架の死を経由していない人間の生まれながらの古き人(自己)であり、また、この古き人を十字架を回避して生き永らえさせようとする、神の御言葉に逆らう人間の高ぶりとしての各種の努力のことである。

同氏は記事で言う、現代人は、自分で自分の問題を解決しようと必死の努力を重ねて生きており、クリスチャンもそれが信仰の道だと考えて、各種の自己改善の努力を必死で重ねているが、それこそ、神の御言葉に逆らって、人が自力で自分を救おうとする「自己愛の病理」であると。そうした努力は、神の一方的な恵みとして与えられたキリストの救いを退けて、人類が自らの力で自己義認し、自己救済に至ろうとするむなしい絶望的な努力なのだと。

キリスト教界においては、今日も、この種の人間が自力で自己を救済して神に至ろうとする絶望的な努力が絶え間なく続けられている――たとえば、礼拝儀式の順守義務、献金や奉仕の義務、良いクリスチャンであると人にみなされるために必要な一切の外面的・道徳的要素を整えるための果てしない努力の義務、そこには、むろん、カトリックで重んじられている社会への熱心な奉仕活動なども含まれる。

こうして「クリスチャンらしい外面」を整えるための果てしない「義務」を守ることこそ、あたかも信仰生活の根幹のように多くの人たちに誤解されているのだが、実際には、それらは聖書の御言葉の周りを包む飾り物のようなものに過ぎず、御言葉に基づく神の霊的な事実とは本質的に何の関係もない。

これらの活動はすべて、神ではなく人間の方を向いており、人間を満足させることを目的として作り上げられた活動に過ぎない。いかに神を口実に用いていても、荘厳で立派な礼拝儀式さえ、宗教指導者及び信者の「宗教的気分」を演出するために整えられるものであり、そのような儀式は、「霊とまこと」による礼拝(ヨハネ4:24)の本質ではない。それらの目に見える立派な全ての外面は、御言葉の本質ではないので、どんなにこれを整えても、信者は決してそれらの行いによって神に近づくことはできない。

しかも、こうした外面を取り繕い、人の目に優秀で立派な信徒を演じるための各種の努力や義務は、信者自身にとっても、しばしば耐えきれないほどの重荷となっている。

堕落した肉は悪しき行いに従事できるだけでなく、人の目に善と見える行いに従事することもできる。だが、人が神によらずに、己の生まれながらの力に頼って成し遂げようとする行いは、たとえ人の目にどんなに良さそうに見えても、すべて腐敗している。「肉にある者は神を喜ばせることができません」(ローマ8:8)

肉による善行は、人の目には立派そうに見え、「宗教的」に見えるかも知れないが、キリストの十字架の死に至らない人の生まれながらの命の生んだものは、すべて神の御前に無価値である。信者がクリスチャンらしい外面を取り繕うための各種の努力は、人間が獲得してもいない「神の聖」をあたかも獲得したかのように、もっともらしく演出して見せかけるための装置のようなものであり、人が神ではなく自己を喜ばせるために作りだした偽りであり、どこまで行っても偽善でしかない。

また、クリスチャンの信仰生活とは、何か人の目に優れて道徳的に立派な生き方をして、人類社会に奉仕し、人々に賞賛されることを目的とするものではない。宗派を問わず、キリスト教からは絶えず、社会的弱者や、困っている人々を「救済しなければならない」という強迫観念にとりつかれた人々が多数、現れて来たが、これもまた往々にして神を抜きにした人間の自己救済の活動を生んできたのであり、弱者救済のための社会奉仕活動が、聖書の御言葉の本質なのでもない。

さて、ルーク氏の記事は、信者が肉によって自己改善しようというむなしい努力を手放して、自己をキリストと共なる十字架における死に同形化し、自分ではなく、キリストがすべてを達成されたという事実に安息して、そこから信仰によってすべての解決を実際に引き出すよう奨励している。

クリスチャンは自力で神の聖に至りつくための必死の自己義認の努力を放棄して、この果てしない努力の結果、ただ罪に定められるだけのむなしい『善悪の路線』を離れて、キリストの成し遂げて下さった救いの御業から、すべての必要を引き出す『命の御霊の路線』に移行しなさいと告げているのである。

この点において、筆者は記事の趣旨に大筋で異議を唱えるつもりはなく、これは極めて重要な事実を信者に告げた警告であると思う。

ちなみに、この論考は「恵みの雨」2001年9月号に掲載されたようであるが、当時、キリスト教界に投げかけられたルーク氏の主張は、多くの信者にとって非常に画期的な意味を持っていた。それは同氏が、人間側の努力によって築き上げられる一切の熱心な宗教活動が、神を喜ばせることのできない堕落した肉に由来するものであり、聖書の御言葉の本質から遠くかけ離れ、御言葉を歪める偽りであることを指摘して、キリスト教界全体を覆っているこの偽りを聖書の真理に立って鋭く糾弾したからである。

同氏による「キリスト教界からエクソダスせよ」との呼びかけも、腐敗堕落した教会や、自己の努力によって神に至ろうとする偽りの体系としてのキリスト教界と訣別すべきであるという趣旨で述べられたのであり、前の記事で挙げた元信者の例に見るように、聖書の御言葉やキリストの福音そのものを拒んで「脱福」することを全く意味しなかった。

キリスト教界からエクソダスするとは、クリスチャンが自分や他人の状態を自分で何とかして改善しようと叫び、もがき、苦しみながら、絶望的な努力を続けるという、むなしい自己主張――ルーク氏の表現によれば、自分で自分の髪の毛を引っ張って空を飛ぼうとするような無意味な努力――をやめて、御言葉の実際に入り込むことにより、神の側から達成された恵みに立って、そこから、信仰によって、すべての必要を引き出す秘訣を学ぶようにということであった。
 
このような同氏の呼びかけは、当時、教会で要求される数々の奉仕の義務や、クリスチャンらしい外面を整えるための果てしない努力に疲れ果てていた数多くのクリスチャンに多大な影響を与え、多くの信者らが、自分に無理な要求を突きつけては挫折感に苛まれるだけの「善悪路線」の誤りに気づき、そこから抜け出して、真にキリストの命の豊かさを知ることのできる「命の御霊の路線」に立ち戻る必要性に気づいたのである。

また、同氏は、キリスト教界における様々な儀式や奉仕という、人が自力で神に至るための各種の努力を否定したのみならず、キリスト教界のカルト化という問題についても、カルト被害者救済活動の支持者のように、信者が自分の受けた「被害」を訴えることにより、人間側の利益だけを回復することを目的に活動することの無意味さを主張した。

つまり、カルト化の問題は、人が「私は腐敗堕落したキリスト教界によって傷つけられた被害者だ」と主張して、教会と信者と神に抗議して、自分の権利回復を目指すことでは絶対に解決しない。むしろ、人間が自分の利益が失われたこと嘆くのではなく、「聖書の真理が損なわれて、神の利益が損なわれた」という観点からこの問題に向き合い、神の御心に照準を合わせ、キリストの十字架に立ち返り、より御言葉を実際として生きねばならないと提唱したのである。この点では筆者もほぼ見解を同じくしている。

特に、終わりの時代に、「セルフではなくキリスト」を選ぶことができるかどうかが、クリスチャンの歩みを決定的に分けるだろうとの同氏の予測には、筆者は今も同意するのであり、そこからキリストの十字架に敵対して人の生まれながらの自己を延命させようとすることが、あらゆる異端思想の基本構造であることに気づき、その思想の危険性を述べねばならないと思い至った。

キリスト共なる十字架の死と復活に共にあずかること、それがなければ、信者の信仰生活は始まらない。十字架の死未満のところでは、どんなに人が一生懸命にもがいても、その努力が霊的な実を生むことはないのである。

以下の記事には、「なぜ聖書66巻だけが神の霊感を受けた書物であるのか。どうして証明の方法がないのに、御言葉は絶対的に正しいと言えるのか。」という、前稿に登場した信者の問いに対する答えも含まれている。それは、霊の機能と魂の機能の違いを理解すれば解ける問題である。
 
それほど長くないので、全文引用しておく。注釈は以下に述べる通りである。

■本稿は"恵みの雨"9月号特集記事の原稿です。


■自己愛の時代



現代はどこもかしこも"癒し"が流行し、それ自体がほとんど強迫神経症的です。クリスチャンも例にもれず、対人関係や仕事などで傷つくと、精神分析、交流分析、自律訓練法、行動療法、来談者中心療法、果ては心療内科に精神神経科・・・とさ迷っています。

このような様子をイエスがご覧になったらどうでしょうか。彼は言われるでしょう:「わたしの十字架に戻りなさい」、即ち「自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。自分の魂(原語)を救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分の魂(原語)を失う者は、それを救う」のです(ルカ九・23,24)。

この世の方法は"まず得よう"とします。対して神の方法は"まず失う"のです。現代社会の病理は"自己愛パーソナリティ"です。この世も、キリスト教会も「私が、私は、私の・・・」と果てしない"私"の訴えに満ち溢れています。しかし真の心の癒しを得るには、その訴えと主張に満ちている"私"を下ろし、十字架におけるキリストと共なる死に与ることに秘訣があります。死は自己の終焉であって、魂の沈静と深い平安と安息をもたらします。「失えば得る(Lose to Get)、死ねば生きる(Die to Live)」のです!


■御言葉と真理



神が世界を創造された時、世界の運行を法則に委ねました。自然界には物理法則などが、精神の世界には心の法則が、そして霊的領域には霊の法則があります。いかにマッチョでも、自分の髪を引っ張って空を飛ぶことはできません。それは法則に反します。よってそうやって空を飛べなくとも自分を責めたりはしません。物理的領域においては、可能なことと、不可能なことが明確に分かるからです。

ところが、こと心の領域の問題になりますと、法則自体が曖昧です。一応精神分析学とか精神病理学などの理論はあっても、かつて幼女誘拐殺人事件の被告人Mの裁判で三人の専門家の精神鑑定が分かれたように、物理法則ほどの精密さがありません。さらに霊的要因が絡んでくると、通常の学問ではまず太刀打ち出来ません。結果として私たちは可能な事と不可能な事との識別ができず、自分はこれができないとか、あれができるとかなど、劣等感や優越感で揺れ動きます。心の問題を抱えている人々と接して分かることは、それらの法則についての無知のために、ちょうど自分の髪を引っ張って空を飛ぼうとして葛藤し、疲れ果てているケースが多いのです(ホセア四・6)。

しかし聖書はその心の法則と霊の法則を明確に提示しているのです。なぜなら聖書は被造物である私たちに関する創造主による"取り扱い説明書"だからです。私たちは物理的真理を知ることによって、無駄な努力から解かれるのと同様に、精神的また霊的な真理を知ることによって、内的な葛藤や悩みからも解かれるのです。イエスは言います、「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ八・32)。


■御言葉と御霊



このように真理には"霊的な事柄の道理"の意味があります。また聖書では真理はひとりのパースンであると啓示します。イエスは言われます、「わたしは道であり、真理であり、いのちです」(ヨハネ十四・6)。イエスは神のロゴスの受肉だからです。この世の学者先生方はそれぞれの分野で"真理"を探しあぐねています。究極の真理を得たと思うと、逃げ水のようにするっと逃げてしまうのです。

しかし私たちは自分の努力によらず、ただ信じることによってこの究極の真理を得たのです!それは私たちの霊に御臨在くださるイエスです。「真理はあなたがたを自由にする」と言う場合、単なる知的理解によるのみでなく、私たちの霊において、究極の真理なるイエスのパースンに触れるときに、あらゆる束縛から解かれるのです。イエスこそ真のワンダフル・カウンセラーです(イザヤ九・6)。そこでイエスは「もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。」(ヨハネ八・36)と言われます。

現在の私たちは長血を患う女のように、物理的イエスの衣の房に触れることはできません。しかし、今や最後のアダム(=イエス)は命を与える霊となられました(第一コリント十五・45)。物理的には復活の体を持って昇天されましたが、彼は私たちを孤児として残すことはなく、御霊が来られるとき、また戻ってくると約束して下さいました(ヨハネ十四・15-21)。すなわち霊的領域において、イエスは私たちの霊に御臨在されるのです(第二テモテ四・22)。当時の弟子たちとは物理的に接触されましたが、現在の私たちとは霊的に触れて下さるのです。それは物理的触れ合いよりもはるかに深く、親密で、甘い交わりなのです。

これは御霊によりますが、御霊はご自分から語ることはなく、聞いたままを語り、イエスに栄光をもたらします(ヨハネ十六13-15)。すなわち御霊はご自分ではなく、イエスの言葉とわざそしてパースンを私たちの霊の内に実体化し、証して下さるのです。よって御霊の臨在とキリストの臨在は等価です。このとき「人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。」(第二コリント三・16-17)。パウロはこの文脈においてはキリストと御霊をほとんど同一視しています(注:位格を混同しているのではありません)。

さらに御霊は私たちの魂にも触れます。私たちは罪による霊的な死のために、自分の魂と体のみで奮闘努力していました。その生き方のパタンがパウロの言う肉です。肉は私たちの罪によって腐敗していますので、死に渡すのみです(ガラテヤ五・24)。一方私たちの魂は、霊から照らし込む霊的な光によって露にされ(詩篇三十六・9)、古い価値観や生き方などが廃棄されるごとに(エペソ四・22、コロサイ三・9)、御言葉によって再構成されることにより(コロサイ三・16)、思いから造り変えられて行きます(ローマ十二・2;原語)。意志は神に対して柔らかくされ、感情は神の愛で潤されて平安と安息に満ち、思いは神の言葉に沿った考え方が条件付けられていきます。こうして心の中にキリストの形が造られていきます(ローマ八・29、ガラテヤ四・19)。これは主なる御霊の働きによるのです(第二コリント三・18)。


■御言葉と私たちの霊



人には霊があります(ヨブ三十二・8、イザヤ五十七・15、ゼカリヤ十二・1)。鍵は霊の内で御霊と御言葉が相互作用することにあります。霊には、良心、直覚、交わりの三つの機能があります。私たちは良心が探られて自分の罪を認め、イエスを受け入れました。また真理を直覚によって知り、霊なる神との甘い交わりを得ます。神は霊ですから、私たちは霊によって礼拝する必要があります(ヨハネ四・24)。光は目によって、音は耳によって感知されるのと同様です。

すでに十字架の救いは百%完全に成就しています。私たちのすべての罪は赦され、すべての病も癒され、すべての必要も満たされたのです(完了形)。御言葉はこれらの客観的事実(=真理)を語ります。何かを客観的に表現する言葉をロゴスと言います。ちなみにイエスは神を語る神のロゴスでした(ヨハネ一・1)。このロゴスを私たちが信仰によって受けるとき、御言葉は光を放って(詩篇百十九・130)、レーマとなります。レーマとは即時的に語られた主観的なことばです。イエスは「わたしが話したことば(レーマ)は霊であり、いのちである。人を生かすのは霊であって、肉は何の役にも立たない」(ヨハネ六・63)と言われました。すなわち私たちの信仰と御言葉が結び付けられて(へブル四・2)、レーマとなり、霊的な光を放ち、またいのちとして私たちの魂を、さらに体をも生かすのです(ローマ八・11)。これは私たちの霊の内でなされるのです。まさに人の霊は神のともし火です(箴言二十・27)。

私は以上のことを<ロゴス+信仰=レーマ=霊=いのち>、および<客観的真理+信仰=主観的経験>と定式化しています。この霊的な"いのちの方程式"が働くのは、私たちの霊の内であり、それを実現するのが御霊です。この霊的作用の中で、いわゆる心の傷なるものも自然と癒されてしまうのです。


■御言葉と信仰



御霊の御わざには、私たちの信仰が必須です。新約聖書で唯一の信仰の定義は「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるもの」です(へブル十一・1)。Darby訳聖書では"保証"と言う単語に"substantiating"を使っています。日本語では"実体化"です。すでになされている客観的な霊的リアリティを私たちの内で実体化すること、これが信仰です。目を開けば、電磁波である光は私たちの視覚野においてただちに実体化されます。同様に霊的リアリティは私たちの霊に実体化されるのです。これが信仰です。「私は信じます、信じます・・・」と念じることではなく、霊を開けば霊的リアリティはただちに私たちの霊に感光します。「得た!」と分かるのです。大切なことは知恵と啓示の霊を受けることです(エペソ一・17)。単純に父なる神に求めましょう。

そして信じた者は自分のわざを止めて安息に入ります(へブル四・3)。自分のもがきを止め、完成されたキリストの十字架の事実の中に休むのです。御霊のみわざが自分の内で進展するに任せるのです。愛、喜び、平安などの御霊の実(単数形)が結びます(ガラテヤ五・22)。これは自己努力によるのではなく、御霊のみわざです。私たちの責任ではありません。私たちの責任はキリストの死に与って、自分の体を罪と死の法則の支配に委ねず、いのちの御霊の法則に委ねることです(ローマ六・11-12、八・2)。

まず自分の傷の癒しを求めるのではなく、そのような自己主張はひとまず下ろして、キリストの十字架の事実に戻り、そこに留まり続けるだけです。サタンやこの世、さらに肉はそこから私たちを引き出そうとします。しかしその誘惑に乗ってはなりません。もし乗って罪を犯しても、ただちにイエスの血によって洗っていただき、十字架に戻ることです。天には大祭司であるイエスがおられます(ヘブル九・11-14)。


■自己愛からキリストへ



自分で何とかしようとしている限り、癒しは得られません。まず自分を放擲することです。痛んだままの自分を十字架に投げ出すことです。そこではイエスの圧倒的な愛が私たちの凝り固まった魂を融かし、御霊がひび割れた心にモイスチャ・クリームを塗って下さるのです。自己に向いていた注意がキリストに向くとき、そこには自由、平安と安息、そして癒しがあります。私たちは自分を忘れて、ただこのキリストの甘い愛の交わりの中に留まり続けるだけです。God bless you!



さて、以上のようなルーク氏の主張に対しては、当然ながら、暗闇の勢力からのすさまじい反撃があったと見られる。

なぜなら、この主張は、キリストの十字架における「切り分け」――特に、霊と肉の切り分け――という問題を明確にキリスト教界に投げかけたからである。

霊と肉の切り分けの問題は、今日に至るまで、キリスト教界ではほぼ見失われている真理である。それを回復するという点において、ローカルチャーチ出身の同氏の主張は、画期的であったが、同時に、ある種の人々からは、大きな反発をも呼び起こした。

何しろ、人間の努力(肉)によって成し遂げられる熱心な宗教活動こそ、今日、キリスト教と呼ばれているものの99%以上を占めるのである。そうした人間側の極めて熱心な努力によって築き上げられた一切の良さそうに見える宗教体系が、すべて無意味かつ、御言葉に悪質に逆らう虚偽であり、しかも人間の身勝手な自己愛の産物でしかないということになれば、目に見えるキリスト教はほぼ完全な失業状態に陥るだろう。

さらに、そのような肉に基づく熱心な自己救済の努力は、「キリスト教界のカルト化を是正する」という名目で、キリスト教界を浄化するために絶え間ない争いを続けているカルト被害者救済活動のような運動にもあてはまるのである。これもまた「被害者のため」という名目で、人間が御言葉によらず、神の救いにより頼まずに、自己の力で自己を救済するために繰り広げるむなしい活動に過ぎない。

だが、そのようにして自己の熱心な努力により頼んで生きる人ほど、その生き様が、神の御言葉に逆らう偽善であり、神の知恵に逆らう高慢さであることが明らかにされるのを嫌う。そこで、上記のような言説に対しては、当然ながら、猛反撃に出た。彼らは自分たちの熱心な努力が「自己愛」や「ナルシシズム」と呼ばれて退けられることに猛反発し、むしろ、聖書の御言葉に基づいて、人が自力で救済に至る努力をやめるように促している人々の方が、「聖書の御言葉を絶対的なものとみなし、これに従って自分たちだけが正しい信仰を持っていると思い込み、自らの見解に合致しない他者を容赦なく裁いては切り捨てる、思い上がって高慢な、自己愛とナルシシズムに満ちた信者」だと非難することによって意趣返しに及んだのである。

だが、このような主張は、前稿で見た通り、結局は、信者の心の排他性ではなく、聖書の御言葉の持つ「排他性」、キリストの十字架そのものが持つ「二分性」や「切り分け」につまずく思想なのである。

そのような人々は、ルーク氏の唱えた「自己愛の病理」という言葉に反発しているのではなく、その向こうにある聖書の二分性の原則に逆らっているのであり、人類の自己救済の努力が否定されることに我慢がならず、キリストの十字架におけるアダムの死を回避するために、霊と肉の区別そのものを否定してかかりたいのである。とどのつまり、彼らが逆らっているのは、アダムに属する古き自己は神の御前に無価値であり、キリストと共なる十字架の死に渡されて廃棄されるしかなく、肉は何の役にも立たないという神の事実なのであり、「肉にある者は神を喜ばせることができません」(ローマ8:8)という聖書の真理なのである。



6.魂と霊を混同し、信仰によらずに、感覚的な陶酔によって霊の事柄をわきまえようとするペンテコステ運動の危険

このように、以上で挙げたルーク氏の記事の趣旨には、大筋では同意できるものの、同時に、極めて重要な注意点が含まれている。それは、同氏が霊と肉の切り分けの重要性を主張しながらも、同時に、明らかにこの切り分けを意図的に曖昧にしようとするペンテコステ運動の悪影響を無批判に取り込んでいると見受けられるからである。

まず第一に、ルーク氏は神との交わりが「甘い」ものであるとしきりに強調するが、神との交わりが常に「甘美さ」を伴うかどうか、筆者は断言できない。神との甘美な交わりが存在すること自体は否定しないが、聖書においては、霊において主イエスのパースンに触れた人々の反応は様々に異なり、必ずしも交わりの「甘美さ」だけが強調されてはいない。最も極端な例では、「それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。」(黙示1:17)

神との交わりは、霊における確かなリアリティとして強い臨在感を伴うこともあるが、常にそうであるとは限らない。それは必ずしも何らかの感動体験を伴うものではなく、時には、全く何の感覚も伴わず、あるとさえ感じられないこともある。だが、感覚において何も感じられないからと言って、神が不在になったり、信者との交わりを絶たれたわけではないのである。

神との交わりは、信者に何かが「見えて」いるかどうかや、何かが「感じられる」かどうかといった人の感覚によってとらえられるものではなく、霊において、あくまで信仰によって知覚するものである。確かに、霊においても、魂によく似た「直覚」の機能はあり、信者はこの機能を通して神との交わりを知り、御言葉の啓示を明確に受けることがある。その啓示に、喜びや、深い感動や、安らぎや、畏れの念が伴うことはある。

だが、たとえ何も感じられなかったとしても、御言葉の通り、神が常に信者と共におられ、霊において絶えず交わりが可能であるという事実が変わることはない。信者は常にその事実の中を歩んでいるのである。信者が何を「感じる」かが重要なのではなく、あくまで御言葉が何を告げているかが信者にとっての現実なのである。

しかし、記事「ペンテコステ運動はなぜ誤っているのか(1)―カリスマ指導者に栄光を帰し、五感を信仰よりも優先する教え―」でも指摘したように、ペンテコステ運動はほとんどと言って良いほど、霊的なものを感覚的なもの(魂的なもの)と混同し、御霊の働きを何らかの感動体験、恍惚体験と結びつけてとらえ、極端なまでに感動体験を強調する。そこに危険な偽りの誘惑がある。

なぜなら、悪霊もまたキリストの御霊を装って、人間に何らかの幻や感動体験をもたらすことが可能だからである。そうして、悪霊がキリストの御霊に偽装して信者のもとにやって来て、喜びに満ちた感覚によって信者を欺き、これをあたかも信仰であるかのように思わせて、信者を深くとらえて支配するということがあり得る。悪霊が麻薬のように、恍惚体験や感動体験を利用して、信者をこれに病みつきにさせ、何も考えずに信者が喜ばしい感覚に身を委ねて自己放棄することを求め、冷静で現実的な思考を失わせて、信者を思い通りに支配して行くことがありうる。

偽りの霊の狙いは、聖霊の働きを模倣することにより、聖霊に偽装して、信者を神の真の霊的秩序から堕落した感覚世界へとおびき出し、信者の冷静な思考と判断力を眠らせて、恍惚体験の虜にしてしまうことにある。

神の霊は決して人に主権を放棄させることがない。人は自分の意志によって自分を治める必要があり、常に自分の主権を守り、これを誰にも奪われることなく保持しながら、何に対して扉を開き、どこまで自分を委ねて良いのか、絶えず自分で吟味し、自己決定せねばならない。玄関の扉の鍵を開けっぱなしにしていれば、強盗や詐欺師も入って来るのは避けられない。鍵をかけておくのは、人として当然の態度である。神の霊の働きは決して人の主権を侵害したり、これを放棄させることがない。

キリストの御霊の働きは常に霊⇒魂⇒身体という順序を取り、決して人の自己決定権を脅かすことはないが、悪霊の働きは、まず何らかの体験を通して、喜ばしい感覚や、あるいは恐怖などによって人の魂をとらえ、圧迫し、これをきっかけとして人の主権を侵害して奪い取って行く点で、キリストの御霊とは正反対である。



だから、信者が何も考えずにただ甘美で喜ばしい感動体験に自分を開いて無条件に身を委ねることが、「セルフを否んでキリストに従う」ことだと勘違いすることは危険である。信者の正常な理性や判断力に基づいた正常な警戒心までも眠らせて、「無私」、「委ねる」、「明け渡す」、「身を任せる」などの言葉で、恍惚体験の中に自己放棄させる教えは危険であると見抜かねばならない。

東洋的な瞑想の危険性もここにあり、「無私」を強調することによって、人の正常な警戒心を眠らせて、人が主権を放棄して、無防備に環境から来る影響力を受け入れ、結果として正体不明の霊に扉を開くよう促すのである。

ペンテコステ運動は、キリストに属する聖霊の働きを装ってはいるものの、実際には、東洋的な未分化の状態へと信者を回帰させる目論見を含んでいるように筆者には感じられてならない。すなわち、喜びに満ちた恍惚体験をきっかけに、信者が「霊に対して自分を明け渡す」よう求めることにより、信者が自らの知性によってあらゆる物事を識別し、何を受け入れて何を退けるかを自ら選択する作業をやめさせて、すべての識別・区別を排除したところにある未分化の状態、すなわち、人が自らの主権を放棄して、自分を取り巻く環境と一体になって受動的に身を委ねる無防備な状態へ回帰するよう、信者を誘い込んで行く狙いがあるものと見ている。

ペンテコステ運動はなぜ誤っているのか(1)」から抜粋

「信仰は望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(ヘブル11:1)


 信仰は、目に見えない(五感では感じることのできない)神の側の霊的事実を自分の事実として信じ受け取ることによるのであり、すでに見たり、聞いたり、感じたりしている出来事をその感覚ゆえに受け入れることとはわけが違う。

 特別な喜びや感動が全く伴わなくとも、信じる者は御言葉を根拠として神の事実を受けとるのである。

 このように、正しいクリスチャンの信仰の歩みは、すべてのことが霊から始まる。まず霊的事実があって、次に魂や体で知覚することのできる感覚世界がこれに従属する。聖霊が働くのは、人の霊に対してであって、魂や体の感覚世界の中ではない。感覚世界はこの世の物質世界、人の堕落した肉に属するものであって、これは神と接触するための媒体ではない。神と交わることのできるのは、人の感覚ではなく霊である。

 ところが、ペンテコステ運動は、霊→魂→肉体という聖書的な秩序を覆してしまい、人の魂や肉体に巧妙に働きかける感覚的なものを霊的なものと呼び変え、すり替え、混同し、結果として、信仰よりも感覚を重んじるのである。そこで、ペンテコステ運動は、再生も、聖霊のバプテスマも、説教も、単に「喜びの伴う感覚体験」に変えてしまう。そしてついにはその「喜びの伴う感覚体験」が欠落していれば信仰ではないとまで言い切るのである。

 そこで、セス・リースの論説集もそうだが、ペンテコステ系の指導者のメッセージは、共通して極めて情緒的で、非凡な言葉を述べては人の感情を強く揺さぶり、感動を呼び起こそうとする手法に満ちている。だが、少しでも冷静に吟味すれば、常に感動しっぱなしということは、人にとって極めて不自然な状態であることが分かる。音楽の楽曲でもそうだが、初めから最後までずっとクライマックスということは絶対にない。しかし、ペンテコステの指導者の説教は最初から上り調子一辺倒で、テンションが全く下がらず、常なる感動を目指している点で、極めて不自然で人工的な作為を感じるものなのである。

 こうしたことが分からないまま、ペンテコステ運動に一度でも深く関わったことのある信者には、霊的な事実よりも感覚を重視するという危険な傾向――しかも、深く物事を吟味することを嫌い、自分の感覚にとって好ましいものだけを「信仰的・霊的なもの」だと勘違いする危険な傾向――が深く根付いている。それは一種の麻薬のような陶酔感に似ていて、人を盲目にさせて、繰り返し、繰り返し、聖書の御言葉に基づく冷静で穏やかな信仰よりも、自分を感動させ、手っ取り早く喜びや興奮をもたらし、感覚を喜ばせてくれるような偉大で非凡な体験へ飛びつかせようとその人を誘導するのである。

ペンテコステ運動につきものである、偉大な英雄の物語や、奇跡や感動体験の描写、あるいは感動的な礼拝音楽などといった偽の信仰物語は、人の耳を喜ばせることで、聞く人の心を釣りげるためのしかけである。このしかけに慣らされた人は、その感動体験を疑うことなく、条件反射のようにあっけなく飛びついては欺かれてしまう。そうなるのは、その信者の考えの根本に、セス・リースの書いたような、「信仰とは五感によって知覚できるものだ」という誤った思い込みが消えずに残っているためであり、霊の事柄と感覚的な事柄を混同しているからである。

 だが、信仰を五感によってとらえようとするこの試みこそ、聖書が最も人に警告している危険なのである。

「そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。」(創世記3:6)


この点で、やって来る霊を信者自身が鋭く吟味し、識別する作業をしないまま、ただ「霊の流れに身を任せる」などの言葉で、その場の空気やムードに無防備に自分を委ねるよう呼びかけるKFCの「セレブレーション」には、甘美な恍惚体験を餌にして、信者の正常な警戒心を眠らせて、偽りの霊に身を委ねさせるペンテコステ運動と全く同種の危険が潜んでいると筆者は考えている。



ある兄弟は、ルーク氏が魂の事柄と霊の事柄を混同し、
偽りの霊による魂的な体験に深く欺かれていると述べた。
しかし、受けた体験が甘美であればあるほど、また、
捕えられた人の感受性が鋭く豊かであればあるほど、
こうした甘美な体験を疑い、抜け出すのは難しくなる。
当初、ルーク氏の主張はかなり理知的であったが、
年々、同氏のミニストリーは深い論理的思考の裏づけを失い、
喜ばしい感覚体験をしきりに強調するものとなって行った。
標題にも見るように、正体不明の感動体験に信徒が
無防備に身を委ね、自己の主権を放棄して明け渡すように求める
ミニストリーは、聖霊派に特徴的であり、極めて危険である。


キリストの御霊の働きは、必ずしも心地よい感覚や、高揚感や、感動体験を伴うものではなく、たとえて言えば、「無色透明な」、信者が自分の意志や知性も含めて、完全な判断力や識別力を決して失うことなく、自ら選び取ることのできる現実である。

信者は心地よい感覚が伴うかどうかに従ってではなく、あくまで御言葉が何を言っているかに基づいて、何を信じて受け入れるべきかを自分自身で判断する。

キリストと共なる十字架における自己の死という事実についても、自己が死んだと感じるからそう信じるのではなく、御言葉が事実であるから信じて受け入れるのである。そのようにして絶えず、自分の感覚ではなく、御言葉への信頼に立ち続ける時に、ある時点で、信者は確かにその霊的事実が、自分の日常生活において実際になっていることを見るのである。

こうして、キリストの十字架の死に古き自己を同形化しながら、絶えず御言葉に従って歩むことは、人の自己にとっては、必ずしも喜ばしく感動的なことではない。日々自分の十字架を負い、キリストの勝利を実際として生きるとは、激しい霊的戦いでもある。

信仰の世界においては、言いっぱなしということは決してなく、信者は自ら信仰によって行なった告白を必ず試される。信者は、自分で宣言した御言葉の事実が確固たる現実になって生活に実際に現れるまで、絶えずそれに逆らうすべての有様を拒否して戦いを続け、これに勝利しなければならない。

信者は、霊においては、キリストがすべてを達成して下さったという事実に立脚して、これがすでに現実であることを知って、安息している。だが、日常生活においては、その霊的事実に反するような事柄が押し寄せて来て、自らの確信が揺るがされそうになったり、御言葉の外に引き出されそうになるのに抵抗しながら、堅く御言葉に踏みとどまって、御言葉のリアリティを地に引き下ろし、自らの生活において実際とせねばならない。この戦いは容易なものではなく、時には信者自身の魂が、霊を裏切って、敵の作業場になることもある。

霊は直覚によって御言葉をレーマとして受け取るので、何の証明もなくても、信者にはそれが真理であることが分かる。だが、信者は、霊においてはすでに御言葉の意味を悟り、複雑な状況の中で、どう行動すべきかを知っていても、魂は、常に常識に従ってものを考え、自分に納得の行く説明や証明を求めるので、霊が受けた啓示を受け入れがたいと感じ、これに逆らうことがある。

人の魂は、霊とは異なり、堕落した古き人(肉)に属するものであるから、御言葉に逆らい、肉の欲を遂げようと願うことがある。

たとえば、主イエスが共に船に乗っておられるのに、外の嵐を見て恐怖に駆られた弟子たちのように、信者は自分を取り巻く環境状況に実際に大きな波乱が巻き起こる時に、御言葉の平安の外に引き出されそうになることがある。

そのような時には、信者は「御霊によって、からだの行ないを殺」し(ローマ8:13)、御言葉に逆らう自分の魂の動きを全力で屈服させて、自分の心を治め、御言葉に従わせなければならない。

「御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。
なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。
しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。<…>
キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。」(ガラテヤ5:16-24)

私たちは肉にあって歩んではいても、肉に従って戦ってはいません。私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。
私たちは、さまざまな思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち破り、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ、
また、あなたがたの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を制する用意ができているのです。」(Ⅱコリント10:3-6)
 
時には、信者は感覚的には平安さえも失われたかのような状況も通過しながら、御言葉が実際になって自分の生活に現れるまで、戦い抜いて勝利せねばならない。環境を治め、自分の心を治め、自分の身体を治め、自己の内外に御言葉に逆らって立つあらゆる「高ぶり」を打ち破り、戦いに勝ち抜いて、御言葉を実体化することが求められるのである。そのような霊的戦いを経て、信者の内側での御言葉に応じた造り変えも進行する。

さらに、ルーク氏の言説には決定的に重要な問題点がある。それは信者にとって最も重要なのは、同氏の言うように「キリストの甘い愛の交わりの中に留り続ける」ことではなく、「御言葉の中にとどまり続ける」ことだという点である。

キリストとの交わりの中に留まることと、御言葉にとどまることは、ある人々にとって、ほとんど同じに聞こえるかもしれない。だが、順序が違うのである。聖書が繰り返し、述べているのは、信者がまず御言葉にとどまり、御言葉を遵守せよ、ということである。そうするならば、おのずと、その人の内側で、キリストを介した父なる神との愛の交わりも保たれる。だが、逆の順序はあり得ない。御言葉にとどまらず、御言葉を守らない人の内側で、神との交わりが保たれることはあり得ない。

従って、信者にとって重要なのは、自分の感覚にとって甘美で好ましく感じられる交わりにとどまろうとすることではなく、たとえ自分にとって好ましい感覚が全く伴わなくとも、それでも「御言葉に従う、これを遵守する」ことなのである。

だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。
 わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わした父のことばなのです。」(ヨハネ14:23-24)

もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ8:31-32)

ルーク氏は、「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」という後半部分の解放は幾度となく強調するが、その前半にある「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら」という、信者の側の責任を、半ば意図的に見過ごしている趣があることに注意が必要である。

つまり、キリストの達成して下さった御業に安息するためには、人間の側にも果たさなければならない一定の義務があり、それが御言葉の中にとどまり、御言葉を守ることなのであるが、この点については、意図的にほぼ言及されていないのである。

こうしたことの中にも、筆者はペンテコステ運動の影響を見ざるを得ない。そこでは、人間にとって好ましく喜ばしい体験は幾度も強調されて、その体験に信者が自分を開いて受動的に身を委ねることは求められても、信者の側にも、主体的・能動的に果たさねばならない義務があり、中でも特に、御言葉に基づいて、信者が片時も警戒心を鈍らせることなく、目を覚まして自分に起きるすべての物事を鋭く吟味し、何が真理であるか、何が偽りであるかを自ら識別し、虚偽を見分けて退け、真理だけを選び取って受け入れるという識別の作業、すなわち、御言葉による「分離」や「切り分け」の機能を用いて、信者自身が何が真理であるかを識別する作業の重要性が、見落とされている点である。

こうした教えの中では、信者が疑ったり、識別したりする作業をやめて、受動的に感動体験に自分を委ねることは求められても、信者が片時も自分の理性を眠らせず、自分の主権を(キリスト以外の)何者にも明け渡すことなく、積極的・能動的に虚偽を退けて、御言葉の中にとどまりつづけねばならないことの重要性については言及されないのである。


<続く>


カルト被害者救済活動の反聖書性―キリストの十字架の切り分けを否定して未分化の東洋思想への回帰を唱える危険な運動➀

(これはホームページに掲載する予定の論考の一部です。)

大いなるバビロンからの脱却 反キリストの原則の明確な発展
――カルト被害者救済活動の反聖書性について――
~キリストの十字架の切り分けを否定して未分化の東洋思想に回帰する危険な運動~



 

1.キリスト教に恨みや被害者意識を持つ不信者を利用して、キリスト教の信用を貶め、聖書への信仰を毀損するために作り上げられた「カルト被害者救済活動」

2.キリスト教そのものに「カルト化」を生む病理が含まれているかのように唱える人間は、聖書の御言葉への信仰を否定し、神に敵対することになり、その結果、自らが「病理の見本」と化す

3.聖書の御言葉への信仰を「高慢さと自己愛の病理」として非難する人々は、キリスト教界のカルト化問題につまずいているのではなく、聖書の御言葉の「排他性」につまずいている。

4.キリスト教の「二分性」、「排他性」につまずいた人々は、キリストの十字架を否定して、聖書に基づかない「異なる福音」を捏造する。

5.神の知恵である御言葉に逆らって、キリストの十字架を否定し、人が己の努力によって自力で救済に至ろうとする「高慢さ」

6.魂と霊を混同し、信仰によらずに、感覚的な陶酔によって霊の事柄をわきまえようとするペンテコステ運動の危険
  
7.キリストの十字架によらず、肉による善行を通して、人が自力で救済に至ろうとする偽りのヒューマニズムは、「神に見捨てられた罪人を、神の十字架の判決から救う」ための「神に対する被害者運動」である

8.御言葉(十字架)の「二分性」、「切り分け」の機能に基づき、信者が目を覚まして、真理と偽りとを峻別する必要性

9.十字架の「切り分け」を否定する者は、己を神として神への反逆に至る

10.キリスト教の「二分性」を否定する者は、「唯一の神」を否定して、主客の区別を否定する。そして、知性による全ての区別を廃した「善悪未分化の母なる混沌」への「嬰児的回帰」を主張する。

   



1.キリスト教に恨みや被害者意識を持つ不信者を利用して、キリスト教の信用を貶め、聖書への信仰を毀損するために作り上げられた「カルト被害者救済活動」

 
さて、カルト被害者救済活動を推進するアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師や、同牧師の活動を支持する杉本徳久氏は、これまでキリスト教界に起きた不祥事を次々に告発することにより、「キリスト教界のカルト化の危険」を盛んに訴えて来た。

当ブログにおいては、記事「罪と罰――カルト被害者救済活動はなぜ聖書に反するのか」などにおいて、聖書に立脚していない彼らの活動は、キリスト教の改革に何ら役立たないどころか、ただクリスチャンの間に行き過ぎた異端審問と魔女狩りを生むだけであることを指摘し、この活動を糾弾し、その危険性について警告して来た。

だが、その後、さらに長年、この活動の参加者らを観察した結果、筆者が気づいたのは、こうした活動の参加者らは、クリスチャンというよりも、むしろキリスト教の信仰を持たない不信者が中心であり、どちらかと言えば、これは初めからキリスト教の信仰に基づかない、キリスト教に敵意や恨みを持つ不信者ばかりを強く引きつけて作り上げられた運動だったという事実である。
 
村上密氏自身がプロテスタントの牧師であり、この活動を支持する杉本徳久氏が「信者」を名乗っていたという事実から、筆者は当初、彼らの活動を、あたかもキリスト教の内部から生まれて来た改革運動であるかのように見ていた時期もあった。確かに、活動に参加していた者の中には信者も含まれており、キリスト教界に起きた不祥事を見て、キリスト教の現状に危機感を持つ信者が、彼らと共に「キリスト教界のカルト化の危機」を訴えるということもあるにはあった。

だが、その実、この運動は、今やとうに信者たちからは見放され、カルト被害者からの支持をも失っており、現在は信者よりも、キリスト教に根強い恨みや敵意を持ち、キリスト教に何らかの被害者意識を持つこの世の不信者、もしくは、キリスト教につまずいて信仰をすでに捨て去った元信者らを盛んに引きつけている。そして、この運動は、こうしたキリスト教に敵意を持つ不信者らを駆り立てては、キリスト教に対する敵対的な世論を作り出し、クリスチャンに対する断罪・攻撃に及んで来たことが分かったのである。
 
なぜそのような結果に至ったかと言えば、カルト被害者救済活動は、一部、信者も取り込んでいたとはいえ、本質的には、初めからキリスト教の信仰に基づかない、キリスト教に偽装しただけの、キリスト教とは異質な、別の思想に基づく運動だったためである。むろん、その思想とは聖書を否定するグノーシス主義に他ならず、言い換えれば、東洋思想であるというのが、筆者の見方である。
  
当ブログでは、カルト被害者救済活動を率いるアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師の活動が、クリスチャンにあるまじき所業であることを幾多の記事で示してきた。
(たとえば、「村上密牧師による鳴尾教会への不当な介入問題 まとめ」や、「この世を無罪放免しながらキリスト教徒を断罪する村上密氏と杉本徳久氏の活動の危険➀」を参照。)

だが、村上牧師のみならず、同氏の活動を最も熱心に支持して来た「信者」の一人である杉本徳久氏の主張を見ても、同氏が「信者」であるという証拠を筆者は全く見いだせない。杉本氏は、カトリックの信者とも言われており、地上の組織としての教会には所属している信徒であるかも知れないが、信仰告白の内容においては、どこからどう見ても、クリスチャンの正常な信仰を持っていると言い難いことが明白である。(記事「この世を無罪放免しながらキリスト教徒を断罪する村上密氏と杉本徳久氏の活動の危険②」等を参照。)

こうして、カルト被害者救済活動は、キリスト教の「牧師」や「信者」を名乗る人々が率いていたため、一見すると、あたかもキリスト教界の内部から信者自身によって始められた改革運動のように見えたかも知れないが、実際には、この活動の主要な指導者・支持者たちは、キリスト教の信仰を持っているとは到底、言い難い人々であった。さらに、この活動は、「キリスト教界のカルト化問題について論じ合う」ことを口実に、もともとキリスト教に不満や敵意を持つ不信者や、すでに信仰を捨ててしまった元信者たちを盛んに引きつけては、彼らにキリスト教に対する敵意や被害者意識のはけ口を提供し、キリスト教に対する敵対的で批判的な世論を意図的に作り上げた。

こうして、キリスト教のイメージを貶めて、キリスト教があたかも危機的状況にあるかのように世間にアピールしながら、こうした世論の後押しを受けて、不信者が、信者を断罪しては懺悔と自己反省を迫り、キリスト教に対して常日頃から持っていた恨みや被害者意識の鬱憤晴らしを行うという構図になっていたのである。この点で、カルト被害者救済活動は、信者による信者のための改革運動では全くなく、むしろ、不信者のキリスト教に対する敵意と憎しを原動力に、キリスト教に対する非難と攻撃を正当化するための運動だったと言えるのである。
  
村上氏や杉本氏らが、「疑わしい」とみなしたクリスチャンにインターネットで不法なバッシングを加えたり、あるいは法廷に引きずり出して信者に強制的な処罰を試みることが出来たのも、ひとえにこうした不信者らの作り出したキリスト教に対する批判的で敵対的な「世論」の高まりがあればこそであった。
 
こうして、彼らの活動は、あたかもキリスト教の改革が目的であるかのように装ってはいたが、その実、初めから、キリスト教に対して被害者意識や、恨みを持つ人々がその鬱憤を晴らすことを目的としていたのであり、その意味で、この運動は、キリスト教とは本来的に異質なイデオロギーを信奉する人々による「キリスト教の内側からの破壊・乗っ取り作戦」だったとみなすのが最もふさわしいと筆者は考えている。

その意味で、村上密氏が約十四年前、教団から鳴尾教会に正式に遣わされた伝道師夫妻を理不尽な方法で追放し、その後も、被害者を組織して「カルト化の疑いがある」とみなした教会や牧師に裁判をしかけたり、自らの活動を批判する人物に次々に抑圧を加えて来たことは決して故なきことではない。
 
これは、キリスト教徒に偽装してはいるが、実際には聖書に基づくキリストへの信仰を持たない不信者が、キリスト教に対する敵意や被害者意識を持つ人々を意図的に組織することによって、キリスト教内外に、この宗教に対する批判的で敵意に満ちた世論を作り上げ、キリスト教そのものが危機的状況にあるかのように訴えることによって、この宗教の信用を貶め、信者の御言葉への信仰を揺るがし、キリスト教を内側から攻撃し、破壊し、変質させて行くことが、この運動の支持者らの初めからの主要な狙いだったのではないかと見られる。

この運動は、その点で、最初から聖書の信仰に基づくキリスト教の改革運動ではなかったのである。むしろ、キリスト教を敵視し、何らかの恨みや被害者意識に基づいて、この宗教に報復し、打撃を与えたいと願っている人々が、この宗教全体に破壊的な影響を及ぼすために、キリスト教界に起きる不祥事を都合よく利用して、キリスト教を敵視する世論を作り上げ、信者への攻撃に従事して来たのである。

その参加者のほとんどが信者を名乗っていても、実際には不信者であり、彼らの目的は、カルト監視機構を設立することで、キリスト教と信者全体を監視し、取り締まりの対象とし、彼らの支配界に置き、反対者は訴訟や嫌がらせ等によって容赦なく追放しながら、キリスト教の教義を骨抜きにし、キリスト教の中身を、信者もろともにまるごと入れ替えて、彼ら好みの異質な宗教へ変質させていくことが目的だったのではないかと思われるのである。
 
 つまり、これは聖書の神を信じておらず、キリストの救いからも除外され、聖書の御言葉への信仰もなく、キリスト教に敵意と恨みを持ち、「キリスト教から被害を受けた」と主張する人々による、キリスト教とその信者全体に対する怨念に基づく復讐の運動だったとみなすのが、最もふさわしいと筆者は考えるのである。
 


    
2.キリスト教そのものに「カルト化」を生む病理が含まれているかのように唱える人間は、聖書の御言葉への信仰を否定し、神に敵対することになり、その結果、自らが「病理の見本」と化す
    
さて、上記のような活動の支持者らの言い分に明確に共通する点は何であるかを考えると、彼らが盛んに「キリスト教の病理」(言い換えるならば、「キリスト教界のカルト化の危機」)を訴えて、あたかもキリスト教そのものに「カルト化の原因」を生む「病理」が含まれているかのように主張している点であるように思う。

(ただし、彼らはこの問題を教義面から追究して立証するよりも、むしろ、以下に示すように、信者の「高慢さ」や「排他性」を非難するという形を取ることが多い。)
 
ちなみに、「キリスト教の病理」という用語は、ルーク氏の影響もあって、筆者もかつては使ったこともあったが、カルト被害者救済活動の支持者らと袂を分かって後は特に、筆者はそのような形で問題を訴えてはいない。
 
なぜなら、キリスト教そのものに「病理」なるものは存在しないからである。むしろ、聖書の御言葉こそ、人間の陥るすべての「病理」に対する唯一完全な処方箋なのであって、それ以外に、解決策はないのである。人間の作った組織としてのキリスト教界には、あまたの病理現象が見られるかも知れないが、その原因が、聖書の御言葉にあるわけでは決してない。カルト化現象は、信者が聖書の御言葉から逸脱し、これを曲げた結果として生まれるのであり、もし信者が本心からこうした問題を正したいと願うならば、その人々は御言葉へ立ち戻るだけで良い。信仰の問題は、信仰によらずに解決することは不可能である。

しかし、こうした立場とは逆に、聖書の御言葉によらずに、この世の裁判等に訴えて、キリスト教界の諸問題にメスを入れ、信仰の問題に介入しようとするならば、それは唯一の解決策を退けることであるから、より一層「病理」を深めるだけであるばかりか、やがてはその方法は、聖書の御言葉を否定して、キリスト教そのものに敵対して、神と聖徒らに敵対するという恐ろしい運動になって行く。それこそが、カルト被害者救済活動の辿って来た歴史であった。
   
聖書の御言葉への信仰を持たずに、キリスト教全体を疑わしいものとみなして、この宗教そのものに「病理」が含まれているかのようにみなして断罪するようなことをすれば、その人々は結果的にキリストの福音を否定して、神の救いから除外されることになり、理性を失う。御言葉に基づかず、キリスト教そのものを「病理的な、疑わしい宗教」であるかのように非難している人々が、真っ先に、まさに「病理」の見本となって行くのである。

このことは、カルト被害者救済活動の支持者らが非難している対象が、無差別的に拡大していることの中にも見て取れる。

たとえば、村上密氏の場合、当初、同氏は統一教会などのキリスト教外の「カルト」を糾弾していたが、次には同氏の標的は、キリスト教内部の「カルト化の疑いのある教会」になり、果ては、村上密氏自身が所属している教団にまで向いた。同氏は「アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の危機」を唱えて、自身の属する教団までも非難の対象としている。

こうなっては、キリスト教界に安全地帯はないということになろう。村上氏は、鳴尾教会に対する訴訟に及んだ事実からも確認できるように、もとは同じ教団の仲間であって、「同じ釜の飯を食った」牧師でさえも容赦なく敵扱いし、打撃を加えることを辞さないのである。

カルト被害者救済活動の指導者による、このようなのべつまくなしの信者への攻撃を見ると、自分の活動を批判し、理解を示さない全ての人を敵扱いするという一種のパラノイド的思考に陥っている様子が見て取れる。筆者が当初より警告した通り、彼らの言う「カルトとの闘い」は暴走して魔女狩りのようになり、キリスト教を信じる全ての信者に対する無差別攻撃になって行ったのである。

このようなことが起きたのは、彼らの率いるカルト被害者救済活動が、もともと本質的に、キリスト教の中から信者自身によって起こされた、聖書に回帰することを唱える平和な改革運動ではなく、むしろ、キリスト教には異質な理念を基礎とする、聖書の御言葉を否んでキリスト教そのものに敵対する運動であって、内側からの破壊運動であったと考えれば不思議ではない。
  
つまり、彼らの真の目的は最初から、聖書に戻ることにはなく、むしろ、キリスト教に異質な思想と方法論を持ち込むことで、キリスト教を破壊し、聖書の御言葉への信仰を毀損することにあるのだと見られるのである。
 



3.聖書の御言葉への信仰を「高慢さと自己愛の病理」として非難する人々は、キリスト教界のカルト化問題につまずいているのではなく、聖書の御言葉の「排他性」につまずいている。
 
このことは、カルト被害者救済活動の支持者らが、聖書に忠実な信仰を維持する信者たちを非難・攻撃する際の主張の中にも見て取れる。
    
筆者は、かつて記事「キリストの十字架以外に救いはない!」において、教会のカルト化という問題は、聖書の御言葉に立ち戻り、キリストの十字架に立ち戻ることによらなければ、決して解決し得ない問題であることを訴えて、聖書に立ち戻ることなく、キリスト教界の不祥事を現象面から糾弾することにのみ熱中しているカルト被害者救済活動に訣別を宣言した。

それ以後、当ブログに対しては、この活動を支持する人々から長年に渡り、猛烈な嫌がらせが行われて来た。中でも、杉本徳久氏からのとりわけ執拗な嫌がらせについては、記事「この世を無罪放免しながらキリスト教徒を断罪する村上密氏と杉本徳久氏の活動の危険②」等で紹介した通りである。
 
さて、杉本氏が、筆者の信仰的な立場を非難するために書いた一連の記事やメールの中で、しきりに「自己愛性妄想」だの「自己愛イメージ」だのといった意味不明な造語をふりかざしては筆者を断罪しようと試みていたことを思い出したい。
 
実のところ、筆者は長い間、こういう意味不明な単語がどこから出て来たものなのか、さっぱり理解できなかった。そもそも「自己愛性妄想」という用語自体が杉本氏の造語に過ぎず、同氏の言う「自己愛イメージ」という概念も、一体、何を指しているのか、具体的文脈が全く不明なのである。
  
しかしながら、以下に引用するような記事を読めば、彼らが何を言わんとしていたのか、それがどんな理由によって生まれた主張なのか、かなり明確に理解できるように思う。

以下の記事は、教会のカルト化問題をきっかけに、プロテスタントにつまずいて「脱福した」と述べている元信者が書いたものである。記事の標題は、「クリスチャンの自己愛の病理と「病識」の問題」。心理学の分野に造詣のある人物が書いているようだが、しかし「クリスチャンの自己愛や病理や病識」と言った専門用語は、学術世界に正式な用語としては存在していないはずである。従って、これは学術的見解と呼べるものではなく、杉本氏と同じように、単にこの人物が、キリスト教の理念を誤ったものとして非難したいという動機から、自らの専門知識にものを言わせてそれらしく作り出した造語であると見て良かろう。
   
ブログには一見、讃美歌が記されていたり、主イエスの御名が登場したり、カトリックへの共感が語られたりもしており、著者はどうやら幼い頃から、キリスト教になじみ深い環境で育ったようである。当ブログの管理人が、プロテスタントのキリスト教界で起きる様々な問題に疑問と絶望感を覚えながら、真剣に神を求めて歩んでいた頃の姿勢に、どこかしら重なる部分も感じられる。

しかしながら、筆者と以下のブログの著者との決定的な違いは、このブログの著者が、単にキリスト教界の問題に絶望を感じてキリスト教界から脱出したにとどまらず、「脱福した」と自ら記している点である。

つまり、この人は組織としてのキリスト教界の抱える問題に疑問を感じたことをきっかけに、組織としてのキリスト教と訣別したのみならず、それを機に、キリストへの信仰とも訣別したのであり、キリストの福音を自ら捨てたと公言しているのである。

プロテスタント信者の「高慢さ」に辟易してカトリックに戻ったというわけでもなく、プロテスタントにつまずいたことをきっかけに、聖書の御言葉そのものに対する疑念が生じて信者をやめたというのである。
 
そこで、以下の記事は、文化としてのキリスト教にはなじみ深い環境で育った人間であるかも知れないが、すでに信者ではない人間によって書かれたものであり、この著者は、キリスト教の外に立って、プロテスタントの信者たちの「聖書の御言葉中心(絶対)主義」を、信者の「高慢さやナルシシズム」の表れとして非難し、否定しているのである。
    
今ここに、この記事をあえて長々と引用するのは、この記事に記されているプロテスタント信者への非難の言葉の中に、筆者がカルト被害者救済活動の支持者らの言動の中に常に感じて来た「クリスチャンに対する敵意と憎悪」をそっくりそのまま見ることができるからである。

さらに言えば、カルト被害者救済活動の参加者たちが一様に述べる、クリスチャンに対する被害者意識と恨みの念が、実際には、あれやこれやの未熟な信者の言動や、カトリックやプロテスタントといった特定の宗派の独自性につまずいて生まれただけにとどまらず、その根源が、聖書の御言葉そのものに対する彼らの敵意と否定にある様子が見て取れるからである。
 
すなわち、彼らの表明するような、「高慢で自己愛に満ちたクリスチャンたち」に対する恨みや被害者意識の念は、根本的には、彼らのキリスト教そのものに対する敵意と、御言葉に対する敵意と不信感から生まれて来るのであり、最終的には――クリスチャンのみならず、キリストの福音の否定と、聖書の神そのものに対する敵意へと至り着くのである。

クリスチャンの自己愛の病理と「病識」の問題――その①

私がカトリックの世界の中にいた時には比較的感じなかったけれども、プロテスタントの世界に入信して以来強烈に感じる様になった違和感の一つに、福音派のクリスチャンたちの持つ鼻持ちならない高慢さとナルシシズムがありました。

私の親戚縁者には福音派のキリスト教徒が多く、また大叔母などはカトリックでシスターに献身しているくらい熱心なキリスト教徒なのです。そういうわけで、私も幼少期より『聖書物語』を愛読して育ちましたので、アブラハム、イサク、ヤコブの神=「主なる神」という存在をとても身近に感じつつ成長したように思います。

私は諸般の事情があって、主イエスの救いを個人的に受け入れた十三歳のクリスマスには洗礼を受けることが出来ませんでした。しかし、その後も継続的に聖書研究会に出席し続けましたので、カトリックの公共要理についての問答は一通り学びました。

カトリックの大先輩たちには、例えば当時まだ元気溌剌と活動しておられたマザー・テレサもいらっしゃいましたし、フロイト派の精神分析医で「甘え理論」を打ち立てられた土居健郎先生もまだまだ元気で活動しておられました。何より、死生学を日本に広めたアルフォンス・デーケン神父も、今上智大学で臨床心理学の教授をなさっているクスマノ神父もみなさん本当にお元気な姿を見せてくださっていましたね(*^_^*)

私は何もカトリックがよくてプロテスタントは駄目だとか、そんなアホなことは考えていません。カトリックにもプロテスタントにも、と申しますか、キリスト教そのものに本質的な精神病理があると愚考しているのです。「ヨシュア」ことイエスが説いた教えとこんにち存在するキリスト教徒の間には、看過できない乖離があるのではないかと思いますが、いかがですか(^-^;

聖書絶対主義と申しますか、よく言えば「福音的」な信仰と申しますか、そういう発想のただ中にそもそも自己愛的な「排除の病理」を看取するのですよ

聖書しか信じない者が正しいクリスチャンで、聖書以外の中にも何がしかの真理を認めるという姿勢は、リベラルな信仰として排除されるという訳です。

今問題になっている感のあるイスラム教とか仏教についても、大体のクリスチャンは極めていい加減なことしか知らないのに、ただ彼らが聖書第一信仰ではないからというだけの理由で、例えば仏教の寺院に油を掛けたりするのですね。何とも情けない信仰ですね(-_-;)

「聖書だけが唯一正しい(誤りなき)神の言葉だ。」ということを福音派の方々はしばしば呪文のように唱えますね。しかし、聖書が各種の資料を恣意的に置換するように変換して人工的に作られたものであるということは考古学的にも神学的にも自明の理ですのに、どうして論理学的に破綻を来している福音的信仰に疑問を持たないのか、私は不思議でなりません。

「聖書が正しいということは聖書がそう宣言しているのだから、その通りなんだよ。」と言われましても、こんなひどい論理的矛盾はないものですね(^_^;) 

「私が正しいのは『私が正しい』と自分で言っているからだ!!!」と一般人が何万回叫んでみても、誰も耳を貸さないでしょうね

まぁそりゃあ三浦光世・綾子夫妻が体現しておられたようなある意味で麗しい(ように見える)夫婦愛とか、分かりやすい例で言えば『塩狩峠』の主人公が身を持って示したような愛の自己犠牲とかの真実に触れた人が、「この人はどうしてこんなに温かいのだろう? 何がこの人をこんなにもやさしい人にさせているのだろう?」と自発的に思うくらいそこに神の愛が存在するならば、赦しと愛に飢えた人々は押し寄せる様にエクレシアにやってくるでしょうね。

もしキリスト教会に本物のイエス・キリストの似姿としての愛があれば、恵みの雰囲気に飢えた人たちは押し寄せてくると思うんですよね。

バザーをやれば、或いはゴスペルコンサートを上演すれば、それを目当てとしてお客さんが来るかのように求道者が押し寄せてくるのではないかなんて、ペンテコステ派や福音派の信徒さんたちや牧師さんたちは本気で考えているのでしょうかねぇ。そんな姑息な手段では人は集まりませんよ((+_+))

<中略>
 

 私は確かに今後二度とキリスト教会に行くことはありません。それは、こんにちのキリスト教会が本質的に――神学的にも――イエスの説いた本筋から脱線しているということもあるのですが、キリスト教会のカルト化がひどいという事情もあるのです。私はカルト教会に歯向かって、かなり戦いましたのでね。疲れますよ、無駄にねぇ

今日は「クリスチャンの自己愛の病理と『病識』の問題――その①」と題しまして、クリスチャンが持っている自己愛的精神病理や排除によるヒエラルキーの問題、トゥルニエが指摘している『暴力的存在としてのキリスト教徒』の問題、そして自分のおかしさを自分で認識しているといういわゆる「病識」の問題に入っていく切り口を作りかかったところでお時間となりました。

この話題は何回かに分けてゆるやかにお書きしたいと(そんな記事は誰も期待していないでしょうけれど)勝手に思っています<(_ _)> 

カルト教会の問題に興味のある方々にたまに読んでいただけたらとても嬉しいです(*^_^*)

いつの時代も同様だったのではないかと思いますが、キリスト教徒を誠実にこなすことは骨の折れる仕事です。私は一抜けましたが、何せ三十数年間キリスト教会の内幕をつぶさに拝見して参りましたので、その辺りのことをいろいろとお書きしていきたいと思います<(_ _)>


ここでも、「神社への油まき事件」が、村上密牧師らの活動と同じような文脈で、キリスト教とクリスチャンに対して敵対的で否定的な意見を裏づける根拠として利用されていることに注意したい。

筆者から見ると、実に恐ろしい現象なのだが、「教会のカルト化」という問題をきっかけとして、これを非難しているうちに、聖書の御言葉の絶対性を否定して、キリストの福音そのものから除外されて行く「信者」たちが現れるのである。

カルト化問題を解決するために、真に御言葉に立ち戻る必要性があることを訴えるのではなく、むしろ、こうした問題をきっかけに、キリスト教そのものに「病理性」があることを訴えて、この宗教と信者を糾弾し、この宗教への絶望感を語り、煽る人々は、聖書の御言葉への信仰そのものを否定して、キリストの救いから自ら除外されて行くのである。こうした人々は、カルト被害者救済活動の参加者らの中にも多数、見受けられた。
 
ここから、「教会のカルト化」問題を語る際に、その人が、聖書の御言葉に対してどう向き合うかという点が、信者のその後の明暗を大きく分けることが分かる。

教会に起きた問題をきっかけに、神をより真剣に求め、より聖書に忠実に戻ろうとする人は、決して、キリスト教そのものにつまずいて、これを否定するに至ることはない。だが、教会の問題を論じるうちに、聖書の御言葉そのものに懐疑的になる人は、いずれキリスト教からも脱落し、キリストの福音そのものを否定することになる。つまり、救いを失うのである。
 
「クリスチャンに見られるあれやこれやのあるまじき問題」を現象面だけから非難していると、そのうちにいつの間にか、こうした問題が、あたかもキリスト教そのものに原因があって生まれたかのような錯覚が生じ、こうした「被害者」を生み出した「狭き門」としてのキリスト教そのものに懐疑的になり、聖書の御言葉の真実性を否定して、十字架の切り分けを否定して、神の福音から除外されて、福音の外に弾き出されてしまうことになるのである。
 
筆者の観点では、こうした人々は、クリスチャンの未熟な言動につまずいているのではなく、聖書の御言葉そのものにつまずいているのである。彼らが真に糾弾したいのは、あれやこれやの信者の未熟な言動ではなく、カトリックやプロテスタントという特定の宗派の欠点でもなく、むしろ、キリスト教に本質的に備わっている「二分性」、「排他性」なのであり、聖書の御言葉そのものが持つ「分離」や「切り分け」の機能、キリストの福音の排他的な「狭き門」なのである。
 
つまり、キリスト教の「狭い救い」(あえてこのような表現を使うならば)自体が、彼らのような人々にとっては、「反人間的で思い上がったもの」と見え、自分を残酷に排除した「狭量な福音」自体に我慢がならないということが、この人々のキリスト教に対する抗議の核心なのである。
 
従って、こうした人々にとって「教会のカルト化」という問題は、キリスト教に特有の「排他性」を非難するための単なるきっかけに過ぎない。彼らの主張の根幹は、特定の信者や特定の教会や特定の宗派に対する不満にあるのではなく、聖書の御言葉そのものへの不満、否定にあるのだと見られる。
 
すなわち、こうした人々は結局、神と人との断絶という聖書の事実そのものに対して異議を唱え、この断絶を解消するための手段が、唯一、キリストの十字架にしかないという聖書の事実を否定しているのであり、つまりは、己の罪を悔い改めて、キリストの十字架の贖いを信じて受け入れた者しか救われないという「キリスト教の狭量で排他的な救い」自体に抗議しているのである。そして、このような「狭き門」しか提唱できない「キリスト教そのものに本質的な精神病理がある」と非難して、そのような「狭い救い」から除外された自分たちを、「残酷で狭量なキリスト教の被害者」であるとみなし、彼らを容赦なく救いの対象外としたこの「残酷な」宗教全体を、「神と信者たちの高慢と自己愛が作り出した病的に歪んだ宗教」として非難しようとしているのである。

「キリスト教そのものに本質的な精神病理があると愚考しているのです。」

「聖書絶対主義と申しますか、よく言えば「福音的」な信仰と申しますか、そういう発想のただ中にそもそも自己愛的な「排除の病理」を看取するのですよ。」

筆者は、このブログの著者と同様の見解に立つ人々に個人的に出会ったことがある。たとえば、2009年頃、筆者は「キリスト教界からエクソダスせよ」という呼びかけに共感し、真実なエクレシアを求めてキリスト教界を旅立った信者たちに数多く出会ったが、記事には一度も記したことがないが、その中には、ある信者の「山小屋」で出会った姉妹もいた。彼女もやはりキリスト教界を出た一人であり、当時、私たちは兄弟たちと共に聖書に基づく真実なエクレシアのあり方について、夜を明かすほど熱心に語り合ったものであった。

ところが、ずっと何年も経ってから、この「姉妹」に再会すると、彼女は驚くべきことに、当時とは全く異なる見解に達していた。

その「姉妹」は聖書外伝に多大な関心を持って没頭しており、なぜそれらの外伝が、プロテスタントの信者の通常の概念によると、正統な聖書から除外されねばならないのか、全く理解できない様子であった。その「姉妹」は、聖書66巻だけが神の霊感を受けた書物であるとする「排他的な」プロテスタント信者の聖書信仰に対する明らかな敵意と怒りを込めて、筆者を詰問した。「なぜ聖書66巻だけが神の霊感を受けた書物なんですか!? どうしてそれ以外のものは聖書に含まれないんですか。どうしてこれだけが正しいと言えるんですか? 証明する方法があるなら、証明して下さいよ!!」

以前にエクレシアを求めて和やかに熱心に交わっていた頃とは、全く変わり果てた調子に、筆者はいささか驚いたが、いずれにしても、66巻だけが神の霊感を受けた書物であることを「証明」することは誰にもできない相談であり、我々はそれをただ信仰により「信じて」おり、また、御霊が我々の霊において御言葉の正しさを直接教えてくれるがゆえに、私たちは神の御言葉を論理的証明によるのでなく啓示によって理解するのであり、聖書外伝については、多くのグノーシス主義思想に基づく外伝も書かれているため、そのようなものを無分別に取り入れるのは極めて危険であると忠告した。

その「姉妹」は、上に引用したブログ記事の著者と同じように、聖書信仰が論理的に「証明不可能」であると確認するや否や、侮蔑と嘲笑を込めて、「そんな荒唐無稽で非科学的な未熟な信仰を未だに後生大事に保持している信者たちは愚かで可哀想だ」との見解を述べた。それ以来、筆者は、以前は同じように見えたこの「姉妹」との見解が、天と地ほどかけ離れていることを理解したので、彼女とは一切議論したことがない。
  
通常、聖書66巻が神の啓示によって書かれた書物であるということについて、クリスチャンは証明の必要がないと考えている。しかし、すでにこの点でも、聖書が提示する「二分性」や「排他性」に大きくつまずく人たちが出て来るのである。

このようなことから始まって、何が神に属するものであり、何がそうでないかという、御言葉に基づく「切り分け」自体が全く認められないという人たちが出現するのである。彼らはそれが「高慢で狭量な残酷な排除の論理」だとして、怒りと憎しみを込めてクリスチャンに抗議し、聖書の御言葉の持つ「二分性」を非難するのである。
 
そのような見解に陥る人々が、もともとキリスト教に理解のないこの世の人々であったならば、まだしも理解できるが、元は信者であり、何年間も、教会に所属しており、かなり熱心に真の教会のあり方を探し求めていたような人々が、キリスト教界の不祥事につまずいたことをきっかけに、最後には聖書の御言葉自体を否定して、キリストの救いから除外されて行くことは、筆者から見れば、極めて恐ろしい現象であった。

彼らは一様に言う、プロテスタントの「聖書絶対主義」そのものが、信者の「高慢」と「ナルシシズム」の産物なのだと。つまり、彼らは、信者が聖書66巻の御言葉の真実性を信じていること自体が、「思い上がって身勝手な自己愛」だと言って信者を非難するのである。
 
全く賛同も理解できないが、そのような転倒した理屈が生まれて来るのは、彼らが自分たちは、キリストの救いから「除外されている」という確信を心の内側で持っているためであると見られる。

もし信者が、聖書の御言葉を真実なものとして信じて受け入れていれば、自分は御言葉の内側にいて、すでに救われているという確信が心にあるので、安堵してキリストの救いを受け入れていられるはずである。御言葉は、その人の心に平安をもたらすことはあっても、憤りや憎しみや敵意をかき立てることはない。だが、もし人が聖書の御言葉の真実性を疑うならば、その人は、自分が神の救いから除外されており、罪に定められると感じればこそ、そんな「反人間的な狭い福音は許せない」と抗議するのであろう。

このように、目には見えずとも、聖書の御言葉は、聞く人に確かに何らかの峻厳な区別をつきつけるようである。目に見えずとも、御言葉により、はっきりとした霊的な線引きが生じるのである――そこで、ある人々は、自分は御言葉の「内側にいる」と感じて平安を受け、ある人々は、「外側にいる」と自覚して憤りを覚えるのである。
 
キリスト教そのものに病理があるなどと言って抗議して来る人々は、ほぼ間違いなく、「外側にいる」と感じている人たちである。彼らは、キリストの十字架の贖いを信じた者だけが罪赦されて救われるという、キリスト教の大前提(プロテスタントのみならず、カトリックであっても、正教であっても、教義上、変わらないはずであるが)自体が、全く許せないほどに「狭量で排他的」であり、そんなものは「信者の思い上がって高慢な自己愛とナルシシズム」から生まれて来た偽りであり幻想に過ぎないと抗議するのである。つまり、彼らはそのように信者を非難することによって、結局、自分を除外した福音そのものに異議を唱えているのである。



 4.キリスト教の「二分性」、「排他性」につまずいた人々は、キリストの十字架を否定して、聖書に基づかない「異なる福音」を捏造する。
   
こうして、キリスト教の持つ「二分性」、「排他性」につまずいたことをきっかけに、キリストの福音そのものから除外される人々が出現するのであるが、さらにその上、こうしてキリスト教につまずき、救いから除外された「可哀想な人々」を、聖書とは別な方法で「救済」すべく、キリストの「狭き門」を押し広げて、独自の「広き門」を打ち立てようとする人々が、昔から今に至るまで、数多く存在して来た。上で引用したブログ記事において、キリスト教を捨てた元信者が賞賛しているマザー・テレサもその一人である。
 
記事「神と教会に敵対するクーデターとしての「弱者救済」の思想の危険性~アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団による「弱者救済活動」はなぜ危険なのか~」からもう一度、引用したい。

「ここで思い出されるのが、ドストエフスキーの大審問官や、サンダー・シングなどの存在である。ドストエフスキーの大審問官は、聖書的な方法では人類のほんの一部しか救われないため、自分はこのような残酷で狭量な救いの代わりに、人類の圧倒的大多数を救うことのできる寛大で広い救いを作ってやるのだと述べて、教会の提示する方法では救われない圧倒的大多数のための新たな福音を提唱する。

サンダー・シングもまた、ヨーロッパのキリスト教界に接触した際、形骸化した教会生活と高慢なクリスチャンに深い絶望を覚え、こうした「自称クリスチャン」の中に神はおられないという結論に至り、それをきっかけとして、「ヨーロッパの地の塵を足から払い落とし」貧苦に喘ぎながらも真剣に神を求めている東洋の人々へと」関心を移した。「聖なる導き インド永遠の書」林陽訳、徳間書店、p.19。)
 
マザー・テレサや奥田牧師の場合と同様、こうしてクリスチャンを名乗りながらも、教会から打ち捨てられた人々を積極的に救いの対象とする「弱者救済活動」を行う指導者は、往々にして、従来のキリスト教界と従来のクリスチャンに対する深い絶望感、嫌悪感を心の底に秘めている。

彼らの「救済活動」は、神と教会とクリスチャンに対する絶望をきっかけとして始まっており、彼ら自身の自己救済のためであると言える。その出発から見て、必然的に、そのゴールは、神と教会とクリスチャンの「横暴」によって虐げられた者たちを、神と教会とクリスチャンの手から救うという性質を持つものとならざるを得ない。その結果、彼らは信仰による解決を退け、信仰によっては救われない圧倒的大多数のために、別の福音を作り上げるのである。
    
こうした人々の弱者救済活動は、ただ単に形骸化したキリスト教界に対するアンチテーゼであるばかりではなく、本質的に、聖書の提示する狭き門として「狭い福音」そのものに対する抵抗であり、抗議なのである。

彼らはその活動を通して、神自身の「横暴」と「偏狭な救い」から人々を救おうとしているのだと言えるかも知れない。だから、こうした弱者救済活動は、本質的には神を仮想敵としているのだと言えるのである。すなわち、神に疎外され見捨てられた「クリスチャン」が、同じように、教会に見捨てられた人々に自己投影し、この哀れな人々を「救済」することによって、自己救済を成し遂げ、さらには自分たちこそ神に等しい者であると主張することによって、自分を見捨て来た神と教会とクリスチャンに復讐を果たし、彼らを見返そうとする心理がその根底に横たわっているのだと考えられる。
 
従って、こうした弱者救済活動は、いかにうわべはキリスト教的な装いをまとっていたとしても、聖書に基づくものではなく、その支援者らもクリスチャンとは言えない。彼らの救済活動は、本質的には「神と教会とクリスチャンの唱える偏狭な救いに対する抵抗運動」なのであり、彼らが真に糾弾している相手は、彼らを理不尽な苦しみに遭わせ、見捨てて来た神ご自身なのである。」


全く恐ろしいことではあるが、プロテスタントの聖書中心主義につまずいて、そんなものは信者たちの「高慢」や「自己愛」の産物だのと言って非難している人々は、結局、キリスト教そのものを「神の高慢で偏狭な救い」であるとして、この「狭い救い」そのものを退け、御言葉を否定して、神に敵対しているのである。
 
こうした人々は、キリスト教を「病理的な宗教」として非難するのみならず、「教会のカルト化を憂う」、「カルト化現象によって傷ついた被害者を救う必要がある」などという一見、もっともらしく、美しく見えるヒューマニスティックな大義名分を持ち出して、他の信者に接近し、巧みにその信者の教会や信者に対する不満を探り出し、それをきっかけに、目に見える教会のあり方に疑問を感じさせるだけでなく、目に見えないキリストの御言葉の真実性までも疑わせ、巧妙に福音の外へ引き出して行こうとするのである。

カルト化問題をきっかけに、自分が「キリスト教の被害者」であると訴えた人々は、ことごとく、このような偽りに欺かれ、神と教会とクリスチャンの敵となって行った。カルト被害者救済活動を支持するほとんどの人々は、このようにして信者の敵と化したのである。たとえ讃美歌や教会行事や文化としてのキリスト教には関わっていたとしても、御言葉の真実性を信じることができなくなったこのような人々を信者とは呼ぶことはできない。

その意味において、カルト被害者救済活動は、初めから聖書の御言葉に基づく改革運動ではなく、むしろ、「教会に見捨てられ、神に見捨てられた哀れなキリスト教の被害者を、同じように教会につまずき、神につまずき、キリストの救いから除外された者が自己救済するという、神なきヒューマニズムに基づく偽りの救済運動だったと言える。
 
この人々が最もつまずき、「被害」をこうむったと主張している本質的な問題は、教会のカルト化という現象にではなく、彼らを救いから排除した聖書の御言葉にあったのである。

彼らは結局、カルト化問題を告発することにより、こう主張しているのである。「キリスト教が私たち人間を精神病理に陥れる原因を作った。だから、キリスト教は加害者であり、聖書の神は加害者であり、我々はその被害者だ」と。つまり、彼らはただキリスト教の被害者であるのみならず、神の被害者だと自称しているのであり、「我々は自己愛とナルシシズムに満ちたキリスト教の思い上がって身勝手な信者たちだけでなく、神の自己愛とナルシシズムに満ちた狭量な福音によって傷つけられ、そこから理不尽に除外された被害者なのだ!!」と主張しているのである。

従って、カルト被害者救済活動とは何かと問えば、結局、これは「キリスト教という、本質的に精神病理を含んだ狭量で異常で排他的なカルト宗教によって、容赦なく見捨てられ、救いの対象外とされ、精神を病み、被害を受けた主張する哀れな人類を、聖書の神と聖書の御言葉によらずに、別な方法で救済しようとする、キリスト教とは本質的に異質な運動」ということになろう。

だからこそ、当ブログでは繰り返し、この活動はあれやこれやのカルト化教会やあれやこれやの「疑わしい」信者だけを仮想敵とする運動なのではなく、キリスト教そのものと、聖書の神そのものを仮想敵とする神に敵対する運動だと述べているのである。
 
 
<続く>


この世を無罪放免しながらキリスト教徒を断罪する村上密氏と杉本徳久氏の活動の危険②

<追記>
 2018年2月に、村上密率いるカルト被害者救済活動の中心メンバーの一人である「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久が、当ブログに対する多年に渡る嫌がらせの罪により刑事告訴された。村上と杉本の活動に深い関連性があることについては以下の記事等を参照。

「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久および共犯者が刑事告訴された事実


2.この世の常識によってクリスチャンを罪に定め、クリスチャンを裁判にかけることで、キリスト教徒を弾圧し、霊と肉の秩序を転倒させることに喜びを見いだすカルト被害者救済活動の異常な支持者たち 
  
2-1.この世の不信者を動員して信者を恫喝して黙らせるカルト被害者救済活動の手口

さて、カルト被害者救済活動の根底に流れる異端思想については、別稿でも詳述する予定であるが、私は異端思想の総称を「東洋思想」と呼べるのではないかと考えている。

東洋思想は日本人には極めてなじみ深いものであり、それは神と人との断絶を認めないことから始まって、キリストの十字架における分離と切り分けを否定して、全体と切り離された個人というものを認めず、個人を「母なるもの(全宇宙)」や「全体」(社会、家族、国家、世論、空気、すなわち最終的には「この世」)の一部とみなす。

この思想は、人間が罪によって神と断絶したことを認めず、被造物の堕落を認めないので、神と宇宙は一つであり、人はこの宇宙と切り離されることなく、それに生まれながらに包含されるという考え方に貫かれており、そこで、宇宙には神が満ちているというとか、木や石にも神が宿っているとか、人も生まれながらに神であるとか、目に見えるものはすなわちみな神であるという汎神論的な考え方を生む。 
 
このような考え方は、見えるものすべてを高く掲げ、人間の罪や堕落といった考えを否定するので、人の耳には心地よく響くかも知れないが、結局、神と人との断絶を認めず、被造物の堕落を認めない思想は、個人を全体から分離することや区別することも否定して、人を堕落した「この世」に永久に閉じ込めて束縛し、決してそこから外に出そうとしない点で、恐ろしい思想なのである。
 
しかし、日本人は古来からこのような思想に慣らされているので、物心ついた時から、全体の中で自分が何らかの役割を果たすことによって、初めて個人としての評価を得られるという考え方をすりこまれている。

ゆりかごから墓場まで、日本人は、絶えず社会や集団における人間関係のヒエラルキー、縦の序列の中で、自分よりも強い立場にある人間に積極的に奉仕し、権威者から覚えめでたい人となり、優秀だという評価を得なければ、自分が人としての価値を失うかのような恐れに縛られて生きている。そのような恐れを人に抱かせるためのシステムがこの世に出来上がっている。

そこでは、個人の尊厳というものが、社会全体においてその個人が果たす役割(あるいは貢献度)を基準としてはかられるのが当然視されているため、個人の尊厳というものが、そもそも他者によって外から評価されたり付与されるべきでなく、個人の尊厳とは、個人が生まれながらにして持っている絶対的な価値だとみなす考え方がないに等しい。

このようなシステムに従って生きている人は、集団と切り離されたところで、集団の中で何の役割も担わない個人というものを考えることができず、自分の価値を、自分を取り巻く集団における自分の有益性という外側からの評価と切り離して考えることが極めて困難である。
 
そこで、ほとんどの人は、外面的な評価を得るための競争に絶えず踊らされながら、大変な努力をして何かを達成しても、それによって満足することもなく、さらに多くの人々を凌駕して、さらに多くのものを手に入れなければ、自分の価値を確信できないという不安と焦燥感に追い立てられている。

クリスチャンは、曲がりなりにも、このような弱肉強食の世が堕落しており、この世で尊ばれているものに価値がないこと、また、人間が堕落した罪深い存在であり、キリストの救いを信じることなくしては、神と断絶していることを知っている。そして、キリストの十字架を信じることにより、信者が罪から贖われ、キリストの義を着せられ、堕落した「この世から召し出された」ことを知っている。この召し出された人々が、神の教会なのである。

召し出された人々は、この世の価値観とは違った価値基準によって生きている。神を信じる以前のように、この世の人々からどう評価されるかという恐れに縛られ、人の目により評価されるべく努力して生きるのではなく、神の目に喜ばれ、評価されることが、クリスチャンの新しい人生の目的である。
  
クリスチャンは世から召し出されたがゆえに、自分がこの世からは激しい憎しみの対象となっていることをも知っている。この世の君は、「空中の権を持つ君」、すなわち、サタンであり、この世の世論、社会の動向、世界の情勢、目に見える世界を直接、支配しているのは、悪魔なのである。しかし、この世にあるものは、必ずしも人の目にすべて悪く見えるものばかりでなく、良識や善と見えるような、良さそうなものも多く含まれており、こうした見せかけの偽善的な道徳や、見せかけの良識を巧みに利用しながら、悪魔はこの世という巨大な偽りの体系を築き上げているのである。

生まれながらの人々は、この世という体系が偽りであり、堕落していることを理解できない。たとえ何かがおかしいと気づいたとしても、罪のゆえに、彼らはこの世の奴隷とされており、死の恐怖のために逃げ出すことができない。

しかし、クリスチャンは、この世の暗闇の圧政から救い出されて、キリストの霊的統治のもとに置かれているため、悪魔がその支配を及ぼすことのできない領域にいる。それゆえ、信者は暗闇の勢力と彼らの支配する「この世」からは激しい憎しみの対象となっており、暗闇の勢力は何としても、この世から召し出された信者を、再びこの世の奴隷に戻そうとたくらんでいるのである。

聖書は、再三に渡り、信者がキリストにあって自由を失わず、キリストの復活の証人として立ち続けるためには、この世を愛してはならず、この世と妥協してはならないと警告している。しかし、この世を愛するとは、単にこの世の富を愛するだけでなく、世からの評価(自己の栄誉)を愛することをも意味する。
 
もし信者が神がどう自分を評価されるかを気にするのではなく、人の目に自分がどう評価されるかを気にして、この世の人々の批判を恐れたり、人から良い評価を受けたいがばかりに、外面を取り繕い始めると、早速、その人は神に対して生きるのではなく、世に対して生きる者となってしまう。

さて、カルト被害者救済活動に携わる人々は、クリスチャンを信仰の道から逸らすために、「この世」を巧みに利用して、クリスチャンを糾弾する「世論」を作り上げた。そして、この偽りの世論によって信者を圧迫することによって、信者が神ではなく、人(不信者)の目を恐れ、世間の評価を気にしながら生きるように仕向けているのである。

アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師や、杉本徳久氏のような、カルト被害者救済活動を主導する人々は、「キリスト教界のカルト化問題に警鐘を鳴らす」ことを口実に、キリスト教の信仰を持たない不信者を積極的に動員しては、キリスト教に対する世間の批判的な世論を形成し、キリスト教に対する憎悪と偏見を煽り、裁判などのこの世の強制力を用いて、教会に強制的に介入することを肯定し、「疑わしい」とみなしたクリスチャンを次々とバッシングしたり、裁判にかけることによって、不信者らをクリスチャンに対する弾圧に駆り立てている。

カルト被害者救済活動は、当初、キリスト教界の不祥事の犠牲となった人々を救済することを目指していたが、今やこの活動は、キリスト教そのものに対する憎しみに満ち、キリスト教に対して恨みや被害者意識を持つ人々で溢れかえっている。こうした人々が勝手に「被害」を主張しては、クリスチャンを次々弾圧しているのが現状である。
 
当ブログで悪質な嫌がらせ工作員として紹介している「さわやか読者」も、カルト被害者救済活動に強い影響を受けた人々から成っているが、この人々は実際にはキリスト教のことを何も知らず、関係者でもなく、部外者でありながら、キリスト教に対する憎悪と不信感から、信者を攻撃しているのである。

このような部外者を積極的に集めては、キリスト教に対するネガティブな世論を作り上げ、それをきっかけに、キリスト教徒への弾圧に乗り出し、自らの活動の需要を世間に訴えて、活躍の場を作り出そうとしているのが、カルト被害者救済活動に携わる人々である。

彼らはキリスト教界の不祥事を大々的に発表し、自ら世間におけるキリスト教のイメージを貶めておきながら、もう一方では、「キリスト教のイメージが世間で低下したので、これを正さなければならない」と言って、キリスト教界を力づくで自分たちの活動の支配下におさめようとする。

こうした活動は明らかにマッチポンプであり、彼ら自身が、自らの活動の需要を作り出すために、キリスト教界のイメージを限りなく貶めているのであり、さらに、信者をこの世の不信者らの圧力の下にひれ伏させるために、キリスト教を非難し貶める世論を作り上げ、本物の信者らを、彼らの作り出した世論に怯えさせ、彼らに従わせようとしているのである。

そのために、至る所で、ほえたける獅子のように暴れまわっては、クリスチャン・ブロガーなどに圧力を加え、信者を裁判に引きずり出し、信仰告白をやめさせ、神を信じ、御言葉に従う人々の信仰生活を妨害しているのである。
 
こうして、不信者によって信者を取り締まること、この世の霊的盲目にある人々を利用して、信者を恫喝し、怯えさせて黙らせて、神の霊的統治に関する事柄を、この世の悪魔的統治の支配下に置き、目に見えるものと見得ないものの秩序を逆転し、霊と肉との秩序を逆転させ、悪魔的統治を教会の上位に据えることこそ、村上密氏が唱えていた「カルト監視機構」の発想の根底にある恐ろしい思想なのである。
   
堕落した世の影響を聖書の御言葉以上に高く掲げ、信者を御言葉ではなく「この世」の言い分に従わせようとする圧力に、信者は従うべきではない。いかに上記のような活動の支持者らが「この世の常識」をふりかざして、クリスチャンを断罪していたとしても、信者がその言い分に影響され、欺かれるべきではない。

信者が従うべきは聖書の御言葉であって、この世の常識や世論の動向ではない。この世にあるものはすべて神から来たものではなく、サタンこそ「空中の権を持つ君」であり、悪魔こそ、この世を牛耳り、世論を操り、何が正しいことであるか、真理を捻じ曲げて、虚偽をまことしやかに是認する空気を作り出し、多くの人々を惑わしている張本人なのである。

ちなみに、世間に波風立てないことを第一とし、組織の序列に逆らうことを許さず、人にとって耳障りなことは言わず、世の「空気」に逆らわないで、権威者を立てて生きることを奨励する「和の精神」が、人の目に良さそうに見えても、実際には、どんなに危険な思想であるかについては、以下の記事「東洋思想とは何か。その柱は何を再建しようとしているのか」でも少し触れているので、こちらを参考にされたい。 
 
さて、前の記事「カルト被害者救済活動の暴走 この世を無罪放免しながらキリスト教徒を断罪する村上密氏と杉本徳久氏の活動の危険➀」でも述べたように、クリスチャンは、人の言動の背後に、どういう霊的思想があるのかを鋭く見分けねばならない。キリストの御霊に導かれ、聖書の御言葉に基づいて、これを体現するために生きる人々もいれば、この世には、悪霊の思想を体現し、悪魔の欲望の実現を悲願として生きる人々も存在している。

聖書の御言葉の信用を貶め、その真実性を毀損しようとするすべての思想は、どんなに良さそうな口実を掲げ、この世の常識を装っていても、神から来たものではない。 それはすべて悪魔から来たものであり、反キリストの霊の仕業である。

そこで、「キリスト教のカルト化の危機」を唱えることにより、キリスト教そのものが何かしら不完全で危険なものであって、聖書の御言葉そのものに何か問題があり、御言葉に忠実に生きることが、あたかも「カルト的思考」であるかのように信者に疑わせようとする影響力には注意しなければならない。

キリスト教界に起きている不祥事は、信者が聖書から逸れたために起きたのであって、聖書の御言葉に問題があって引き起こされているわけではない。にも関わらず、不祥事をきっかけに、キリスト教そのものや、聖書の御言葉そのものに疑いを抱かせようとする思想がどこから来たのか、不祥事をきっかけに、キリスト教やクリスチャンを断罪し、罪悪感や、憎悪を抱かせようとするまことしやかな「世論」が、どういう目的で作り上げられたのか、キリスト者は見分けねばならない。
   
こうして一見、「キリスト教の改革」を目指しているように主張しながら、クリスチャンの世論に巧みに偽装して、その実、キリスト教と聖書の信用を貶め、御言葉の真実性を信者に疑わせるために、不信者によって作り上げられた偽りの世論に、クリスチャンは耳を貸すべきではない。そのような「世論」を気にして怯えるべきでもなく、そこで自分が批判されることを恐れるあまり、彼らと歩調を合わせるべきでもない。むしろ、こうした議論が、信者の関心を巧みに神ご自身から、人の思いへと(この世へと)逸らして行こうとするものであることを見抜くべきなのである。
   


 
2-2.匿名掲示板における不信者の議論にクリスチャンを引きずり込み恫喝する手法
 
さて、匿名掲示板で行われている議論にクリスチャンが注意を取られることがないように警告しておきたい。多くのクリスチャンが、当初は本気でキリスト教界の堕落を憂い、聖書に忠実な信仰生活に立ち戻ることを提唱していたが、彼らは不信者とのむなしい議論に熱中するうちに、全く違う方向へ逸らされてしまったからである。

彼らは、不信者の議論に気を取られ、時を追うごとにますますこれに深入りして行き、引き返せなくなって行ったのである。彼らを突き動かしていたのは、自分が人々にどう見られるかという恐れであった。この世の不信者たちの間でキリスト教が批判され、信者が批判され、自分が批判されているのを見ているうちに、自分たちの評判を取り返さなければならないという思いに駆られ、いわれなき嘲笑や批判を抑えるために、不信者を説得したり、彼らと交渉しなければならないという誘惑に駆られたのである。

いわば、外見を気にする保身の思いや、誤りを正さねばならないという義務感が、彼らをこのような議論に引き込んでいくきっかけとなったのである。しかし、そのようにしてクリスチャンを自らの信仰告白という最も重要な舞台から引きずり出し、この世の不信者たちのむなしい争いに満ちた議論の中におびき出し、それによって恐れさせ、がんじがらめに縛って行くことこそ、不信者の議論の真の狙いなのである。

このむなしい論争に気を取られ、深入りして行った人々は、唯一の道から逸れ、泥沼の訴訟に足を取られ、以前のような信仰告白を続けられなくなり、帰らぬ人となった。ルーク氏、山谷少佐、坂井氏の例についてよく考えて欲しい。たとえ彼らがあかしを続けているように見えても、そこには以前のような輝きが、以前、最も彼らが真剣に訴えようとしていた主張の核心がない。彼らは、骨抜きにされてしまったのである。

これが、匿名掲示板の狙いなのである。彼らの議論は、暗闇から来たものだが、闇によって光を駆逐するのが、その目的なのである。識者ぶってキリスト教を批判している不信仰な信者たちや、すでにキリスト教に愛想を尽かして部外者となった人々や、世にどっぷりと迎合している不信者らを巧みに利用して、本物の信者を攻撃させては、恫喝によって口を封じ、もしくは、自主規制させることによって、信者に「世の光」を掲げさせまいとすることが目的なのである。

キリスト教を批判することは、一見、キリスト教の改革のために必要な自己反省のようにも見え、そこに識者らのさまざまなもっともらしい理屈が加われば、欺かれる人も出て来るかも知れないが、その実、そこにあるのは、巧みに聖書の御言葉そのものを疑わせようとする誘惑なのである。

真にキリスト教を改革したいなら、聖書の御言葉に立ち戻ることにしか道はなく、聖書の御言葉への忠実な信仰そのものを疑いや批判の対象とするのでは、より深い混乱が生まれるだけである。
 
さて、このようにして匿名掲示板を利用して政敵を叩くやり方は、自民党も利用していることで有名であり、統一教会など新興宗教等のカルト団体も盛んに使って来た手口である。カルト被害者救済活動も、政敵を追い落とすために、まさにこの方法に頼ったのであり、不信者を動員して信者をバッシングすることによって、キリスト教徒を恐怖に怯えさえ、「世」の支配下に置こうとしたのである。

しかし、クリスチャンには、「この世」と交渉する必要性はない。逆に、この世の方がクリスチャンによって裁かれ、罪に定められ、赦しを乞わなければならない立場にある。「この世」は初めから悪魔の配下にあって堕落しており、罪を犯している。「世」を巧みに利用して、世に調子を合わせることにより、自分の身を守り、信仰者を圧迫し、迫害している人々は、神の霊によって生きているのではなく、悪魔を父としているのであり、これらの人々には、いずれ主の御手が置かれ、彼らは自滅することになろう。

クリスチャンの武器は、小羊の血潮と、自分自身のあかしの言葉である。それによって兄弟たちは悪魔に打ち勝つことができると、はっきりと聖書に書いてある。

そこで、世間で批判されたくないという恐れや、人に自分がどう見られるかという恐れから、信者が悪霊に導かれる人々と交渉したり、彼らに懇願したり、あるいは説得されたり、彼らの誤りに満ちた思想を正してあげようと努力する必要はない。

クリスチャンの使命は、日々、しっかりと自分の信仰告白を握って、主の御名を証し続けることにある。悪魔以上の執拗さを持って、神に向かって彼らの悪しき所業を糾弾し続け、正しい裁きを願い求めることである。そうすれば、「私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴える者」は必ず「投げ落とされる」ことになる。

「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現れた。

 私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。

兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。」(黙示12:10-11)      



2-3.聖書に基づかず、この世の論理によって、自らの活動を支持しないクリスチャン・ブロガーを断罪し、信者を裁判にかけることにより、この世の支配下に置こうとする杉本徳久氏の活動の危険
  
さて、「世の常識」を味方につけて、「この世」の罪を無罪放免する一方で、クリスチャンを容赦なく断罪しては、懺悔を迫り、処罰することに悦楽を見いだすという、カルト被害者救済活動の支持者らの転倒して異常な特徴は、村上密氏だけでなく、同氏の活動を積極的に支持する人々に共通して見られるものである。

当ブログにおいては、村上密氏の活動に支持を表明している杉本徳久氏から送られて来たおびただしい数の恫喝の書簡を公開しているが、それも「キリスト教のカルト化の危険を訴える」ということを口実にして、その実、クリスチャンを貶めることを真の目的としている彼らの活動の危険性を明らかにするためである。
 
2009年頃まで、筆者は村上密氏や杉本徳久氏の主導するカルト被害者救済活動に公に反対を表明していなかったが、その後、この活動が根本的に聖書に反しており、行き過ぎた魔女狩りや異端審問へ結びつくだけの、キリストの十字架に敵対する誤った運動であることに気づいたため、杉本徳久氏に対して、筆者は直接、この活動にはもう賛成できないことを告げ、かつて筆者が同氏のブログに書き込んだ活動への賛同のコメントを削除してほしいと正式に依頼した。
 
その際、筆者は、教会のカルト化問題を解決する糸口は、クリスチャンの不祥事を次々暴露することにより、クリスチャンを断罪したり、法廷に引きずり出して処罰することにはなく、ただ信者が聖書に立ち戻ることにしかないと、聖書に立脚して説明したのである。

しかし、これが杉本氏から筆者や当ブログに対する多年に渡る嫌がらせのきっかけとなった。杉本徳久氏から帰って来た返答は、罵詈雑言の羅列と、筆者の言い分が、「思い上がって自己中心な」「市井で求められる良識からは外れた文面であ」るという同氏の決めつけだけであり、その思い込みだけを根拠に、杉本氏はそれ以来、今日まで約7年間に渡り、当ブログに対する様々な嫌がらせ工作を続けているのである。

このような異常な執念は狂気の沙汰としか言えず、クリスチャンを何としても苦しめ、弾圧したいという彼らの飽くことのない悪魔的欲望と、クリスチャンに対する呪いや執念のような尽きせぬ憎悪に基づいていることを筆者は感じざるを得ない。

ちなみに、杉本氏は以上に記したような自らの見解をブログ記事に記しており、同記事は当初、筆者に対する一千件のコメントを伴うバッシング記事として、同氏のメインブログ「随想 吉祥寺の森から」に掲載された。

だが、たった一つのコメントを削除してほしいと依頼しただけの筆者を、一千件のコメントを伴う記事によってバッシングしたことに対しては、さすがに杉本氏へ批判が集中したと見られ、その批判を受けて、この記事は同氏が執筆している別のブログ「神々の風景 -religious scene」に移し替えられた。

その上、今年に入ってからは、杉本氏の不安定な心理状態を反映するかのように、この記事は非表示にされたり、ころころと変更が加えられていたが、今のところ、再び公開されているようである。
  



杉本徳久氏が何度もアドレスを変え、さらには非表示にしたりと
同氏の不安定な心理状態を示す幾度もの変更を繰り返しながら、

 「神々の風景」に掲載している筆者に対する嫌がらせ記事。
「神々の風景」という題名からも、同氏がキリスト教徒としての
正常な信仰を持っていないことが明白である。

同氏はプロテスタントそのものを敵視するかのように、
自らのブログにプロテスタント信者を弾劾する記事を次々と掲載、
キリスト教のイメージを世間で貶めることに貢献して来た。
  自らの活動を批判する信者に対する訴訟を積極的に提起しては、
キリスト教徒への弾圧と迫害に臨んでいる。
このような人物がクリスチャンであるとは誰も信じないであろう。
信者を名乗りながら、キリスト教の破壊を試みている人物である。

 
ちなみに、この記事は標題が「東洋からの風の便り ヴィオロン」となっていることからも分かるように、杉本氏が当ブログに対する嫌がらせを目的に、故意に検索結果に表示されるように作成したものであり、その上、当ブログの内容を大量に無断引用しているスパム記事である。さわやか読者の記録にも示しているように、杉本ブログを熱心に支持する読者らは、同氏の書いたこの嫌がらせ記事が検索結果の上位に表示されるように、日夜、工作を繰り返しているのである。

つまり、彼らは聖書に基づく正常な信仰告白である当ブログを駆逐して、彼らの異常で悪意ある情報だけをネットに残すことを目的に、日夜、工作を繰り返しているのである。おそらくはこれまでにもこうした方法により、自分たちにとって好ましくないクリスチャン・ブロガーを次々に沈黙に追い込んで来たのであろう。
 
杉本徳久氏自身や、その読者らが、当ブログの検索結果を操作するために行った不法なアクセス集中の履歴は、次の記事や資料において公開している。

村上密牧師が杉本徳久氏と共に暗闇で主導する「サイバーカルト監視機構」(前編)

村上密牧師が杉本徳久氏と共に暗闇で主導する「サイバーカルト監視機構」(中編)

村上密牧師が杉本徳久氏と共に暗闇で主導する「サイバーカルト監視機構」(後編)
 
    
しかしながら、筆者は上記の嫌がらせ記事の公開を好都合と考えている。なぜなら、これによって杉本氏に対する公の責任追及や反論がより容易になるからである。
 
まずは同氏が上記の記事を掲載しているブログの題名である「神々の風景」という象徴的な言葉に注目したい。この標題は、杉本氏がキリストの十字架を信じておらず、己を生まれながらに神とするグノーシス主義者であることを明確に物語っている。
 
クリスチャンであれば、「神は唯一である」ことを例外なく認めているので、決して「神々」という複数形を肯定的な文脈で使わない。「神々」の存在を認めることは、自分はクリスチャンではなく、唯一の神を信じていないと自ら告白するに等しい。神を複数形とした時点で、これは唯一の神に対する敵対であり、まことの神と、それを信じる者たちに対する一種の冒涜・挑戦だと言っても差し支えない。
 
杉本氏が「神々」という言葉によって何を指しているか具体的なところは不明であるにせよ(おそらくは自分たち唯一の神を信じておらず、キリストの十字架を否定する生まれながらの人間が「神々」であると言いたいのではなかろうかと推測するが)、いずれにしても、複数の神の存在を肯定した時点で、同氏がキリスト教の信仰告白の大前提となる「神は唯一である」という事実を否定していることは明白となる。

いかに同氏がカトリックなどの宗派の教会組織に公に属する信徒であったとしても、この事実は、同氏が内面においては実際にはクリスチャンでないことを意味するに等しい。
 
「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。」(Ⅰテモテ2:5)
  
さて、上記の記事で、杉本氏はカルト被害者救済活動を支持できないとする筆者の見解に対し、事実に立脚しない捏造された文脈で、筆者を罵倒しながら理不尽な非難を繰り返している。同氏は書いている、

 10日ほど前、彼女からのメールを受け取った。それは、

 http://blog.livedoor.jp/mediaterrace/archives/51884112.html

 2009年3月26日 「沖縄 トランスフォーメーション・グロース」 

 に「ヴィオロン」の名で書き込んだコメントを消して欲しいという依頼であった。しかし、そこには非常に思い上がった上に自己中心的な、彼女が経験した「回心」とその後の心変わりについての理屈が並べられてあった。市井の社会で求められる良識からは外れた文面であった。」

だが、この見解も、杉本氏自身の常識から外れた身勝手な思い込みと偏見に満ちた思考パターンをよく示すものである。

まず、杉本氏のブログに書き込んだコメントは筆者自身が書いたものであり、著作権も筆者にあるので、筆者から削除の依頼があったにも関わらず、杉本氏がこれを削除しない正当な理由が存在しない。にも関わらず、杉本氏は、自分の活動が支持されなくなったという事実そのものが認めがたいので、削除を拒否することを正当化するために、何とかして筆者に罪を着せようと、筆者を罵倒する文脈を捏造して考え出しているのである。


 
以上は杉本ブログに記載されている文面。
杉本氏は、筆者が答えてもいない事柄を、
勝手な決めつけによって
解釈しているが、
なぜそのような見解に至ったのかは不明である。

筆者が勧めたように、真理の御霊には聞かず、
悪霊に聞いて、そのような返答を得たと見られる。
 思い込みに基づいて発した言葉であっても
いずれその重い責任を問われる日が来ることを
誰よりも杉本氏自身が自覚しなければならない。


  
当ブログにおいては、筆者が杉本氏から受け取ったおびただしい数の恫喝書簡の文面を公開しているが、それを読むならば、「思い上がって自己中心な」、「市井で求められる良識からは外れた文面」を記しているのは、筆者ではなく、杉本氏自身であることが、誰にでもよく分かるであろう。

2010年10月5日付   杉本氏が唐沢氏に提訴の報告を求めヴィオロンの記事を罵倒したメール
2010年10月17日付 杉本氏が唐沢氏の提訴予告について進行状況を報告せよと恫喝したメール
2010年11月20日付 杉本徳久氏が唐沢氏の提訴予告について謝罪を要求した恫喝メール
2010年12月8日付   杉本徳久氏がヴィオロン、唐沢氏、山谷少佐に提訴を催促した恫喝メール
2010年12月15日付 杉本氏がヴィオロン、唐沢氏、山谷少佐に記事削除を求めた恫喝メール
2011年12月6日付   杉本氏がヴィオロンの個人情報を特定して恫喝して来たメール
2011年11月28日付   杉本徳久氏が、唐沢氏とヴィオロンに送りつけた恫喝メール
2012年1月1日付    杉本徳久氏がヴィオロンの個人情報を晒すブログ記事を示した恫喝メール
2012年1月22日付 杉本徳久氏がヴィオロンに実力行使に出ると恫喝したメール
2012年3月8日付  杉本徳久氏がヴィオロンに期限を切ってブログ削除を要求した恫喝メール
2012年3月9日付  杉本徳久氏からヴィオロンの返答に対する罵倒と恫喝のメール
2012年3月10日付   杉本徳久氏がヴィオロンに自分を提訴せよと恫喝して来たメール

2016年4月25日付 杉本徳久氏がメールフォームから投稿した恫喝メール
2016年4月30日付 杉本徳久氏がヴィオロンへの提訴をほのめかした恫喝メール
2016年5月2日付   杉本徳久氏がヴィオロンを提訴してやると恫喝したメール
  
 
上記の嫌がらせ記事もそうなのであるが、杉本徳久氏の文面には、読んでいて恥ずかしくなるほど、また吹き出したくなるほどに、他者に対する礼儀を一切わきまえない自己中心な決めつけと、安物のドラマから抜き出して来たような陳腐な罵詈雑言、偏見と一方的な被害者意識に基づいた根拠のない思い込み、そして恫喝が溢れている。

さらに、同氏は、そうしたメールの中で、あまつさえ、自分にとって気に入らない記事を筆者が削除しなければ、筆者の個人情報を無断で公開するという脅迫行為にまで及んでいる。こうした文面のどこが「市井で求められる良識」にかなうのであろうか。

杉本氏こそ、自分の言葉に照らし合わせて、自らの行為を振り返らなければならない。同氏の書いた文章は、子供の書いた作文のように幼稚であるだけでなく、完全にマナー違反であり、なおかつ、違法行為をほのめかすものであるという点で、犯罪的でさえある。

このような脅迫行為を自分が暗闇で行っておきながら、同氏は未だに筆者を一方的に「自己中心だ」とか、「良識を備えていない」かのように非難しているのだから、その倒錯した論理に自分でまるで思いが至っていない愚かさに呆れ果て、恐れ入るのみである。

また、杉本氏は書いている。

「また、彼女ががらりと立場を変えて非難し始めた私や独裁カルト牧師の被害者信徒たちのことについて記した最新の投稿を熟読した後、私は彼女にこれらあなたが非難している人物の中には明らかに私が含まれていると読み取れるがその認識で良いのかと問いただす返事を送ったところ、彼女は私に対して真理の御霊に全てを問い尋ねよと言い、非難の対象が私であることを書き送ってきたのであった。一度、自分の口から出た言葉は後から消すことができないということがわかっていない。もし、それがネット上のものではなく紙媒体の印刷物であれば不可能である。」

これもまた甚だしい虚偽である。杉本氏の根拠のない被害者意識に基づく妄想的な思考を顕著に表す文章であると言える。筆者は、杉本氏に対してただ「真理の御霊に問い尋ねよ」としか答えておらず、筆者の書いた記事の中に杉本氏が含まれているなどと回答したことは一度もない。

そして実際、当時筆者がカルト被害者救済活動を支持できないことを表明するために書いた記事「キリストの十字架以外に救いはない」には、一切、杉本氏の実名は登場していないのである。この記事はカルト被害者救済活動に対する筆者の立場を明らかにするために、あくまで一般論の立場から書かれたものであり、特定の人物を名指しで非難するようなことを目的としていない。そして、カルト被害者救済活動に携わっている主要な人物も、村上密氏のように、当時、杉本氏以外にも、複数存在したのである。

にも関わらず、杉本氏は、何の根拠もなく、さらには筆者自身も認めてもいないにも関わらず、これが杉本氏を名指しで個人攻撃するために書かれた記事であると勝手に決めつけ、それを根拠に、筆者に対する多年に渡る様々な嫌がらせに及んだのである。

一体、杉本氏はこの件について、筆者が同氏に勧めたように「真理の御霊に問い尋ねた」のであろうか? 多分、真理の御霊ではなく、悪霊に問い尋ねたのではないだろうか。そして、悪霊から、「それはあなたのことだ」という答えが返って来たので、それを信じたのではあるまいか。もしそうでないというならば、杉本氏の良心の呵責がそのように思わせたのに違いない。

いずれにしても、筆者はそのようなことを全く答えていない。にも関わらず、筆者が言っていないことを、杉本氏が聞いたというのであれば、どこから聞いたのかが問題となる。それは「真理の御霊」の声ではなく、悪霊の声に違いないと推測せざるを得ないのである。なぜなら、悪霊は嘘つきだからである。

こうして、杉本氏は思い込みや決めつけだけに基づいて、自己中心で身勝手な話を「創作」して行き、これを基に他者への誹謗中傷や嫌がらせに及ぶのだが、それにしても、「一度、口から出た言葉は後から消すことができないことがわかっていない」というのは、誰よりも同氏自身に向けられるべき言葉である。

ネット上でも、一旦、発した言葉は取り消すことは難しい。それは、当ブログにおいて公開している杉本徳久氏による恫喝書簡を読んでも誰しも分かることであろう。こうした手紙は書かれてから年数が経過しているが、だからと言って、文面を通して、人の心の内側にあるものが完膚なきまでに明らかになる事実は変わらない。

当ブログでは、約十四年前の鳴尾教会で起きた事件に関する「教団文書 村上密牧師と津村牧師による鳴尾教会人事の私物化問題」なども公開しているが、こうしたものは、歴史的に価値ある資料であり、たとえ民事や刑事事件としての時効を迎えていても、だからと言って、少しも価値が減ずるものではない。

人々のモラルを動かすのに時効はなく、真実が人の心に訴えかける衝撃の重さは時が経っても変わらない。まして人がクリスチャンとして行った行為に時効はない。我々は皆いつか神の御前に立って、自分の行なった言動に対して申し開きをせねばならないのである。
 
杉本氏は、自分が他人を暗闇で恫喝しておいても、こうした書簡が明るみに出されることはないと高をくくっていたのであろう。だが、「一度、口から出た言葉は後から消すことができない」

こうした書簡においても、杉本氏が、筆者が言ってもいないことを再三に渡り、単なる思い込みと決めつけだけに基づいて勝手に解釈し、それを根拠に筆者をなじっては、誹謗し、脅迫まで行い、数々の嫌がらせに及んだ事実が明らかになるが、そうした行為の責任を、杉本氏はきちんと考えて反省せねばならない。これらは罪に問われて当然の行為である。

同氏のして来たことには証拠が残っており、これを取り消すことは誰にもできない。不都合な記事を削除せよと筆者を恫喝しても無駄である。他者に向かって述べた理屈は、自分自身に跳ね返る。自分にできもしないことは、人にも最初から要求しないが良かろう。

 つい最近に至るまでも、杉本氏は再三に渡り、筆者に刑事告訴を予告するメールを送り付けているが、それにしては、告訴の脅しは一向に実行されたことがない。それも当然であろう。筆者をいわれなく脅し、嫌がらせ記事を次々と掲載し、コメント者を煽って嫌がらせに及び、当ブログに嫌がらせのアクセスを集中させて検索結果を操作して来たのは杉本氏自身であるから、その杉本氏が筆者を訴えるなど言語道断であり、そんな告訴が成立するはずもない。そんな訴訟に世間を納得させられるだけの正義の筋書きを見いだすことは誰にもできない相談である。

仮にそんな提訴を無理に成立させてみたところで、同氏には勝算もなく、ただ相手を苦しめるための時間稼ぎであることが明白となるだけである。そんな手段を用いてまでも、クリスチャンを次々と力づくで法廷に引きずり出しては断罪し、打撃を加え、キリスト教徒への弾圧と、クリスチャンの言論統制に日々いそしんでいれば、「日夜、兄弟たちを訴える者」という悪評がさらに定着して行くだけであり、それは同氏にとっても何の利益にもならない。

逆に、筆者自身も、筆者に対する嫌がらせ行為としてなされた個人情報の無断公開やそれによって生じた人権侵害等に関して、事実関係が特定され次第、当ブログに公表したいと考えている。杉本氏以外には、そのような行為に及ぶと筆者を脅迫して来た人物は存在しないのであるが。
 
さて、話を戻せば、以上の嫌がらせの記事や、恫喝メールにおいて、杉本氏が再三に渡り、「市民社会の常識」や「市民社会の一員としての責任」などといった言葉を振りかざしては、筆者を断罪しようとしていた様子が見て取れる。
 
このように、「世間の常識」を盾に取り、自分が世論を味方につけているかのような印象を与えながら、クリスチャンを聖書の御言葉ではなく、「この世の論理」によって追い込んでいく手法は、村上密氏がクリスチャンに対して使って来たものと同じである。

すなわち、カルト被害者救済活動の支持者らは、巧みに世間の常識やら、市井の良識やら、市民社会の責任といった、全く信仰によらないこの世の論理を持ち出して来ては、クリスチャンが信仰の事柄について判断するにあたり、聖書を基準とするのでなく、この世の基準に従って是非を問うよう仕向け、クリスチャンに自らの信仰告白を捨てさせて、この世の土俵へおびき出そうとするのである。

彼らはキリスト教界におきる不祥事を大々的に取り上げては、クリスチャンが「市民社会の常識を備えていない」とか「世間に迷惑をかけた」などと言いがかりをつけ、こうした事件をきっかけに、事件には何の関係もない信者らを非難して、不信者の前に「行き過ぎ」を反省させては懺悔させようとし、それがかなわないと、果てはクリスチャンを無理やり法廷に引きずり出してでも断罪し、何とかして弾圧を加えようとする。

彼らの目指しているものは、最終的に、キリスト教の教義や、聖書の御言葉、聖書の神を信じる信仰そのものを、何か恥ずべき、非常識な、カルト的な、傲慢で、思い上がって自己中心で、狭量な思考であるかのようなイメージを作り出し、聖書の神を信じているクリスチャンの信仰そのものを貶めることで、キリスト教とクリスチャンの信用を毀損し、最終的には、聖書の御言葉の信用を失墜させ、クリスチャンに御言葉への信仰を恥じさせ、信仰告白を捨てさせることなのである。

以上で挙げたような、杉本氏の書いた嫌がらせ記事や、恫喝書簡(それも杉本氏から送られて来たメールの一部に過ぎない)は、クリスチャンをこの世の圧力の前にひれ伏させて信仰告白を捨てさせるための一種の「踏み絵」だと見て良い。刑事告訴の脅しも同様である。

このような行為を平然と行う人間が、聖書に基づくクリスチャンとしての正常な信仰を持っていないことは明白である。

にも関わらず、このような人間が、自ら信者を名乗りながら、非聖書的な手法でクリスチャンを追いつめて断罪し、沈黙に追い込もうとするところに、彼らの活動の最大の卑劣さがある。
 
これはキリスト教徒に偽装してはいるが、その実、キリストへの信仰を全く持たない人々が、信仰者の群れに紛れ込み、キリスト教界を内側から破壊し、信者を攻撃して追い散らし、キリスト教そのもののイメージを貶め、聖書の御言葉の信用そのものを傷つけることによって、キリスト教とその信者をこの世の力の前に跪かせ、弾圧し、処罰することを目的として活動しているだけである。

こうしたすべての事柄は、キリストの御霊によらない、反キリストの霊によるクリスチャンへの弾圧なのであり、彼らが己の前に跪かせようとしているのは、信者のみならず、最終的には、すべてのクリスチャンが信じているまことの神ご自身なのだと言える。従って、彼らの活動は、唯一の神そのものを仮想敵とし、キリスト教そのものに敵対する運動なのであり、聖書の神に対する反逆であるという点で、極めて危険なものであり、その最期が滅びとなることは避けられないであろう。
  
こうした神に対する反逆行為と、クリスチャンに対するいわれなき弾圧を正当化するために、彼らは自己流の定義による「市民社会の良識」を持ち出しては、さも自分たちが世間代表のように振る舞っているのであるが、突き詰めてみれば、その「良識」とやらも、本当に世間の人々に支持されたものではなく、結局は、彼らが狭いネット上で作り出した身勝手な理屈に過ぎず、幻のような偽りの世論である。

彼らは、吠えたける獅子のように人々を恫喝して委縮させながら、クリスチャンを断罪し、見世物として嘲笑することを容認するような「空気」を盛んに作ろうとして来たのであるが、これはどうみても明らかに悪霊から来る働きである。

こうした暗闇の勢力から来る圧迫、「この世の霊」による卑劣な脅しに対して、御言葉を武器に毅然と立ち向かっていくことこそ、クリスチャンにとっての真の「霊の戦い」である。

悪魔は「兄弟たちの告発者」(黙示12:10)である。日夜、クリスチャンを訴え続けることが悪魔の日課なのである。これに対して、信者は沈黙していてはならない。

信者にはまず「アベルの血よりもすぐれたことを語る注ぎかけの血」(ヘブル12:24)がある。

十字架で永遠に流された小羊の血潮が、永遠に信者の潔白を証する。神がその独り子なるキリストを十字架につけてまで罪を赦されたクリスチャンを再び罪に定めることのできる存在はどこにもいない。

 「だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。」(ローマ8:33-34)

次に信者は、自ら御言葉に立脚した証の言葉を述べ続けることによって、悪魔の告発に打ち勝つ。「死に至るまで命を惜しまない」とは、死の恐怖におののいて退却しないという意味でもある。

「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ10:28)と言われている通りである。
  
「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現れた。
 私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。

兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。」(黙示12:10-11)      

ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。
あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。

「もうしばらくすれば、
 来るべき方が来られる。おそくなることはない。
 わたしの義人は信仰によって生きる。
 もし、恐れ退くなら、
 わたしのこころは彼を喜ばない。」
私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。
(ヘブル10:35-39)
 

最後に、もう一度、「霊の戦い」についてのパウロの言葉を引用しておこう。聖書は一貫して、信者に「雄々しくあれ、勇敢であれ」と命じている。クリスチャンはこの世の常識によって生きているのではなく、我々のために命を捨てられ、死んで、よみがえられたキリストへの信仰によって生きているのである。「義人は信仰によって生きる」。この事実を証するために、信者は恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者なのである。

終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。
 悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身につけなさい。
 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
 ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。」(エペソ6:10-13)

強くあれ。雄々しくあれ。彼らを恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主ご自身が、あなたとともに進まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」申命記31:6)

さて、次回以降の論稿においては、カルト被害者救済活動の支持者らが盛んに唱えているような「世の常識」に見せかけた偽りの世論が、東洋思想と密接な関係があること、その根本にあるものが、キリスト教に対抗するグノーシス主義であることについて、より一層、踏み込んで考察を行って行きたい。