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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

村上密・杉本徳久の両名を被告とした民事訴訟(第一審)の総括(30)ーこの朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。

さて、このシリーズも30本に達した。次回からは、第二審に向けて標題を改めることにしよう。

先の記事で、本紛争は、行き着くところまで行き着き、中途半端な妥協点は退けられて、どちらかの陣営が社会的に抹殺されるなど、完全な勝敗が明らかになるまで、続くだろうと筆者は書いた。

筆者はこの紛争が始まる前から、論敵の口を完全に封じること、ハガルとイシマエルの子孫を神の家から駆逐することが紛争の目的であると何度か断って来た。だが、当初は筆者の目にも、それはあくまで霊的法則性を表すものであって、地上の人間に対しては各種の情けが必要であって、文字通りにその法則性を当てはめてはならないものと見えていたのである。

そこで、筆者は誰かを社会的に抹殺することなどを目的として本紛争を提起したわけではない。それにも関わらず、事態がどうやらそのような方向にしか進まないらしいことを、筆者はここ数日間で理解した。

筆者はこれまで、一審判決で下された命令を、被告に字義通り、忠実に実行させることが、自らの責務であると考えていた。「命令」と「実行」を一つにするとは、そういうことだと解釈していたのである。

ところが、被告は賠償金を支払わない。これを支払いさえすれば、新たなる差押がなされるなどの不利益を被ることはないと、どれほど伝えても、身を守るための措置も講じず、敗北を認めず、判決に従おうともしない。

こうして、賠償命令が未だに実現していない理由が、なぜなのかを考えるとき、それはこの戦いが、決して一審判決で命じられた事柄を字義通り実現しさえすればそれで良いという性質のものではないからだと、筆者は思わざるを得ない。

被告は、自分に不利な判決を取り消してもらいたいがゆえに、控訴したそうである。また、筆者との直接交渉の中で、筆者の意思と情けを踏みにじり続けることで、判決の解釈と実行をどこまでも自分に有利に曲げようとしている。

だが、もしも敵にそのような模索が可能ならば、こちら側にも当然、同じことができる。つまり、判決は変えられないが、その執行の形態はいくらでも変えられる。そのことは、判決の解釈を変更することに等しく、「命令」に対する相手方の反応を見て、その実行形態を様々に変化させて、段階的により容赦のない措置に及んで行くことを意味する。

これが、本紛争が究極的なところまで行き着かねばならないとする筆者の予想の根拠である。被告が命令に逆らえば逆らうほど、彼にはしたたかな破滅が避けられないものとなって行くのである。だが、それは筆者が選んでいるのではない。被告自身の選択なのである。
 
筆者は、供託係と話をした時に、この印象を伝えておいた。「第三債務者はよほど不運な人間だ。ここでお金をおさめておけば、これ以上、ひどい事態は起きようがなかったのに、支払わなくて良い口実をもうけるためだけに、係の者に接触し、自分に都合の良い解釈を引き出し、供託はできないと結論づけた。もう少し丁寧に物事を説明する係であったなら、彼にデメリットを教えてくれて、思いとどまるように示唆してくれたかも知れない。なのに、それもなく、彼は自分に都合の良い説明を聞いて、それに飛びついた。だが、このことは、彼にとってさらなる不利益にしかつながらない。こうして、彼は自分のために与えられた情けを自分で踏みにじり、自ら猶予を無駄にしたのだ。このようなことは、よほど不運な人間にしか起きない・・・。」

こうして、一審判決の解釈は幾通りにも変えられて、より情け容赦のない措置が取られることになるだけではない。一審判決そのものの不完全な部分も、控訴審で克服されて上書きされることになる。

筆者は、このような事態になっているのは、現在の成果で決して満足してはいけないという天の采配であるとみなしている。

幾度も言うが、筆者は本紛争を提起するに当たって、どちらかの陣営が社会的に抹殺されるまで争いたいとか、最高裁まで争いたいなどという願いは微塵も持っていなかった。むしろ、一審を担当してくれた裁判官が、とても善良で、優秀で頭脳明晰な人物と見え、かつ、それだけでなく、何より重要なこととして、本紛争の核心部分を、実に早い段階で深く理解してくれていることを知ったとき、これならば十分に一審で終われるだろうと考え、そうなることを望んでいたのである。

それにも関わらず、現在、その裁判官の判決を「上書き」することを求めて控訴する事態となっていることは、かえってとても良いことだと筆者は考えている。

筆者がこれまで常に学んで来た教訓は、キリスト者は、決して誰をも自分の心の偶像としてはならないし、自分の代理人としてもならない、ということであった。弁護士などという職業が、我々にとって不要なだけではない。どんなに優秀で、どんなに深い理解を持つ、どれほど親切で善良な人間であれ、神以外の何者も、私たちの代理人にはなれないのだ。

だから、決して地上のどんな人間に対しても、私たちは決して自分の願いをことごとく託すようなことはしてはならない。
 
むしろ、私たち自身が、キリストの代理人であり、そして、キリストが私たちの代理人となって下さる。私たち自身が、主の思いを実行する側に立っているのである。このことの絶大な意味を決して忘れてはいけない。

一体、キリスト以外の誰が、私たちの心を隅々まで理解し、私たちの権利をことごとく守るための力強い代理人となって下さるであろうか。誰が敵を粉砕し、足の下に踏みにじり、私たちのために大胆な勝利と解放の宣言を打ち立てて下さるであろうか。

私たちは、鏡に映すように、彼(イエス)の栄光を移す民である。この関係は実に言い尽くせないほどに価値ある、栄光に満ちたものだ。ところが、その神を捨てて、人間に過ぎない代理人を立てると、必ずや、私たちは、その人の意思や都合に束縛される結果となり、やがては二人三脚で破滅に落ち込んで行くことになる。
 
筆者は、牧師という存在は、人間(信者たち)の欲望の化身でしかないと述べて来た。人は自分の願いを手っ取り早くかなえてくれそうな誰かを常に代理人にしたがるものだ。そして、その者に自分の権利を託し、願いを託し、その者を自分の「偶像」に祀り上げる。だが、そのようにして、人が神を捨てて、人間に過ぎない誰かを自分の代理人に据えることの結果は非常に苦く厳しいものである。

神はそのようなことをキリスト者にお求めになっておられない。人間を偶像とすれば、解放されるどころか、束縛と隷従が待っているだけである。たとえそこまで深刻な事態に行き着かずとも、私たちが人情を優先して、そこで霊的前進を終わりにすることは、とても危険なことなのである。

そういう意味で、この紛争は、究極的結論に至るまでは、終わらないであろうことを筆者は予感した。そして、筆者自身が覚悟を決めて、そこまで歩んで行かねばならないことを悟った。誰かが筆者を優しくかばってくれて、筆者をこの労苦から早期に解放してくれることを第一に望むわけには決していかないのだと。最後まで大胆に立って、信仰の戦いを忍び通して、勝利を掴まなければならない。

そういう意味で、筆者はこの戦いが続行していることを、まさに主の御心に適うこととして、喜んで受け入れている。
 
* * *

聖書に書いてある、私たちは御使いをも裁く者、世を裁く者だと。従って、傲慢不遜と誤解されることをあえて承知で言うが、本紛争に関しても、真に裁きを下しているのは、実は目に見える地上の人間ではないのだ。

今、遅ればせながら、筆者は急ピッチで控訴理由書を書き上げているところだ。事件ファイルが高裁に届くのに随分時間がかかっていたようなので、おそらく誰も急いではいまい。新たに証拠となる記事も多数、追加されたことであるし、筆者が理由書の提出をするのは、ちょうど良い頃合いになるだろうと思う。

これまで駆け足で当ブログに発表して来た多くの記事は、理由書の土台とするために、過去記事を整理したものである。

そして、理由書を書き始めると、この作業は、非常に楽しいものであり、深い満足をもたらしてくれるものであることが分かった。

筆者は、第一審の時点から、村上が筆者に対して害意を持っていることを確信していたが、筆者が一審を提起した段階では、まだそれは行為としては成就していなかったし、証拠が明るみに出てもいなかった。そこで、このような状況では、裁判官とて如何ともしがたく、現在のような判決が生まれて来るのも、理由のないことではないと言える。

しかしながら、改めて控訴審への準備を進めているうちに、一審判決と戦うわけではないにせよ、一審判決の不完全な部分を、どのように覆い尽くすべきかが見えて来たのである。

ポイントは、第一に、これまでの記事にも書いた通り、カルト監視機構と宗教トラブル相談センターを結びつけて、同センターがカルト監視機構の延長上にあり、その構想の実現として設置されたものであり、根本的に同一であることを、目的と機能の面から論じ、カルト監視機構が設立されていないという判決の前提そのものを覆すことである。

第二に、村上が過去に統一教会信者の拉致監禁等を伴う説得に関わって来た行為なども指摘しつつ、反カルト運動による権利侵害の一助を村上の活動が担っていると見られることを指摘することだ。

そして第三に、村上が一審判決言い渡し直後から、筆者に対する人格権の侵害行為に及んだり、筆者を刑事告訴したと告げたり、筆者が犯してもいない犯罪行為を犯しているかのように示唆したり、裁判資料として提出した筆者のメールを無断で公開したりした行為は、すべて宗教トラブル相談センターの暴走を示すものであり、それが筆者に対する権利侵害に結びついているだけである。そのことは、筆者が2009年に、カルト監視機構が魔女狩り的な粛清を生むと予告して行った警告に、現実性・信憑性・相当性があることの証拠である。

こうしたロジックの組み立てによって、2009年に村上が著した筆者に関する二つの記事が、権利侵害に当たらないとする判決をも、覆せるだろうと筆者は考えている。

それと並行して、掲示板に対する訴訟を起こすことで、投稿者を特定し、共謀関係の有無を突き詰めることも重要な課題である。それにより、サイバーカルト監視機構の問題についても、新しい見方を与えることができる。しかし、これは時間のかかる作業のため、この問題が明らかにならないうちに二審が終われば、二審でもこの紛争は決着しない可能性がある。

当初は、個々具体的な権利侵害だけを論じる予定だったのだが、考えれば考えるほど、二審は「カルト監視機構」が争点となるという予感は否定できない。

筆者が一審の裁判官の仕事を高く評価していたのも、今でも移送の申立の却下通知をホームページに掲載している通り、この裁判官が「カルト監視機構」こそが、本紛争の最大の争点であることを、訴訟の開始当初から見抜いていたためであった。裁判官の文章は、あくまで筆者の主張を簡潔にまとめただけのように見えるかも知れないが、実はそうではないと、筆者は確信している。

筆者は、この文章を読んだとき、この裁判官が、本紛争は、カルト監視機構という悪魔的構想に対して、それぞれがどのような信仰的態度を取るかという、深い思想的(霊的)対立が引き金となって生まれたものであり、カルト監視機構の構想こそが、すべての問題の出発点であり、根源であるという深い理解と洞察を、そこで示していることを感じたのである。

その指摘の中には、筆者が気づいている以上の深い洞察が込められていたことに、筆者は驚きを覚えた。
 
だが、一審の最中には、カルト監視機構と宗教トラブル相談センターが実質的に同じ機能を持つものであることを、筆者は論証せず、統一教会の信者に対する拉致監禁など、カルト被害者救済活動の違法性を具体的に証拠立てる資料も提出せず、何よりも、村上と杉本やその他の人々との共謀関係を証拠立てる資料が出て来ず、また、村上も筆者に対するあからさまな権利侵害に及んでいなかったため、村上密という人物が、この悪魔的構想の生きた体現者であるということをはっきりと立証するための決定的な証拠が欠けていた。この状況では、裁判官とて何もできなかったであろう。

そこで、村上の本質が客観的に明らかになるためには、まず第一に杉本が口を封じられるという過程が必要だったのであり、そのためにこそ、一審判決は有益な役割を果たした。だが、紛争は決してそこで終わりになってはいけなかったのである。
 
それは、村上密という人間の本質を明らかにすることこそ、もともと本紛争の最も主要な課題だからであり、杉本の権利侵害行為とて、結局は「カルト監視機構」の発想が具現化して起きて来たものに過ぎないからだ。

筆者から見て、村上密という人物は、「カルト監視機構」という反聖書的発想の生きた体現者なのであって、その村上を手つかずで残したまま、杉本の不法行為だけを認定して終わりとすることは、本紛争の提起された意義を根本的に失わせ、かえって極めて不公平な判決を打ちたてるだけである。

しかし、筆者は一審が開かれていた最中は、そこまでの深い理解には到達していなかった。それどころか、判決が言い渡されても、杉本から賠償金が支払われさえすれば、そこで杉本との間では紛争を終わらせて構わないと考えていたくらいである。

ところが、決してそうなってはいけなかったのである。杉本が今に至るまで賠償金を払っていないことには、以上で述べた通り、深い意味がある。つまり、この問題は、額面通りの金銭によって解決されてはならないほど深いレベルに達しており、杉本は、村上が倒れない限り、決して筆者に敗訴した事実を認めるつもりはなく、神ご自身が、筆者がこの判決を元手に、可能な限りの打撃を敵にもたらし、杉本と村上の両名を打ち破って初めて、この紛争の目的が達成されるのであり、神がそのことを望んでおられるからこそ、杉本自身が、一向に敗訴の事実を受け入れず、未だ筆者の情けを踏みにじり続けているのだということにようやく気づいたのである。

この紛争は通常の紛争とは性質の異なる霊的戦いである。杉本は筆者が2009年に投稿した1件のコメントを利用して、筆者の人生に、最大限の打撃を与えるべく行動して来た。その目的は、筆者を社会的・精神的に抹殺することにあったと筆者は見ている。

そのように、筆者の死を願っていることを明らかにして行動しているような相手に、通常人と同じような情けをかけるべきではないのである。むしろ、その発想をまさに逆転して、彼ら(あえて彼らと呼ぶ)に返さなければならない。命じられた賠償を額面通りに実現させるだけでは解決にならず、それが神が願っておられる最も望ましい解決でもない――筆者はそう思い当たった。

これは正直に言って、大変、恐ろしい結論である。彼らの(霊的)債務が金銭ではかたをつけられないレベルにあることを意味するからだ。

だが、もしも神が本当にそのように考えておられるのであれば、そして、霊的戦いとしてのこの紛争の目的が、そこまで物事を徹底的に明らかにすることにあるならば、誰もそうなることを止めることはできないだろう。おそらく、この先も、杉本はすべての情けを踏みにじって、逃げられるだけ賠償から逃げることによって、最も厳しい断固たる措置が取られざるを得ない状況を自ら作って行くものと思う。

何度も言うが、通常の紛争では決してこのようなことは起きない。訴訟は、法的・社会的決着をつけることが目的であって、人間を破滅させることが目的ではないからだ。通常の紛争では、損害の大きさは、決まっており、賠償もその範囲にとどまり、債務が無限大に拡大して行くとか、どちらか一方が破滅するまで戦いが続行されるなどということはまずない。どれほど巨額の賠償が命じられても、人はそれを払えば、やり直しできる。もちろん、筆者もそう思って、紛争を提起していた。
 
ところが、霊的戦いは、人間の思惑の通りには進まない。そして人間的な観点から見て、明らかに妥当かつ合理的であると見られる解決を退けて、敗訴が究極的な破滅と同義になるほどまでの深刻な事態へ向かって進まないわけにいかない。それは、人々を導いている霊の本質が極みまで明らかになるために、どうしても避けては通れない過程なのである。

つまり、神を畏れることこそ、知識の初めであって、神を知る知識(聖書の御言葉)に逆らう者は、自分のすべてを失い、人生そのものが破滅するという霊的法則性が、動かしがたいものであることが、公然と世に証明されるためには、それ以外の道がないために、敵自らがそうなる道を選ぶのである。

あるキリスト者が、次のように言ったことを思い出す。「悪魔は本当に愚かですよ。なぜって、キリストを殺せば、復活が現れ、悪魔の最大の武器である死が打ち破られて無効になることを、悪魔自身が知っていた。それなのに、彼は抑え難い殺意によって、キリストを十字架にかけて殺さないわけにいかなかったのですよ・・・」

同じように、杉本は賠償金を踏み倒し続けることが、自分に何をもたらすか、知らないわけではない。なのに自らその道を選んでいるのだ。
 
そこで、この戦いには、究極的な結末が待ち受けているだけであって、やり直しのチャンスはない、ということに、筆者はようやく気づいた。被告らには、悔い改めもないし、再生もなく、忠告を聞き入れるチャンスも、情けを受ける余地もない。彼らの行く先は定まっており、それを来るべき世が訪れてからではなく、今この地上にあっても、客観的に人々に分かるように立証する使命が、筆者に託されているのである。

繰り返すが、これは極めて厳粛で恐ろしい事実である。

あらゆる訴訟には、個人の損なわれた利害の回復を目指すだけにとどまらない、個人を超えたレベルの社会的意義が込められているが、霊的紛争となると、その意味はもっともっと深いものとなる。

この紛争は、永遠にまで達する領域に関する物事を争うものなのであり、だからこそ、普通の人間の目に、ほどほどと思われる地点で終わりになることがないのである。

だから、予告しておきたい。筆者は一審判決を飲み込んで、これを上書きし、変更を勝ち取ることとなる。控訴状では、筆者は一審判決の取消ではなく、上書き(変更・追加)を求めている。これは判決の不完全な部分について、さらに主張を補い、完成に導くための措置である。

なぜ筆者が当ブログにおいて、訴訟に関する連続シリーズを書き続けているかという目的も、そこにある。これは歴史を塗り替えるため、存在の上書きをし、朽ちるものを朽ちないもので飲み込み、覆うための措置なのである。

杉本や村上は、人間の正義感に過ぎないものを振りかざし、神の御言葉によらず、教会を悪から浄化しようとしたが、そのような運動は、聖書の神に対する反逆であるから、決して成功に終わることはない、との指摘を筆者は続けて来た。

村上密は、2009年当初からカルト監視機構の構想を批判した筆者に「悪」のレッテルを貼っていたが、事実は全く逆なのであり、それゆえ、村上はいずれ筆者の批判に飲み込まれて終わるというのが、筆者の変わらない見立てである。

このようにして事実を上書きする(もしくは事の真相を明るみに出すことにより、偽りの情報を駆逐する)ために筆者はものを書いている。虚偽のプロパガンダに過ぎないものを、真実によって飲み尽くすために再評価を下し、名誉回復の作業にいそしんでいるのである。

また、この上書き作業は、「名を知る者がその者を支配する」原則に基づくものと言って良い。

杉本や村上は、自分たちが住所氏名電話番号まで自己の情報のすべてを開示して「逃げも隠れもせず」活動していることを盛んにアピールしていた。それを誠意の証しであるかのように宣伝していた。だが、筆者に言わせれば、そのように自己の情報を第三者に無防備に託すというのは、初めからその第三者(大衆)に自己存在を奪われ、第三者によって自己イメージを規定される道を選んでいるのと同じなのだ。

「わたしたちには、神が”霊”によってそのことを明らかに示してくださいました。”霊”は一切のことを、神の深みさえ究めます。人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。<略>霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません。
「だれが主の思いを知り、
 主を教えるというのか。」
 しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています。」(1コリント2:10-16)

キリスト者は、自らすべての事柄を判断するが、自分自身は誰からも判断されることはない。

これまで杉本は盛んに筆者の個人情報を要求して来たが、それは善意によるものではなく、筆者に害を加えようとする意図に基づくものでしかなく、たとえば、氏名を知れば、誹謗中傷に利用する、住所を知れば、提訴するために利用するといった具合であるから、口座番号を伝えれば、強制執行を実行するために利用するだろう。

このように、反カルト陣営に関わる人々は、信者に関して入手したすべての情報を、信者に害をもたらすため、信者を不利な立場に立たせるため、本人の心を支配する脅しの手段として利用して来た。そのようにして、信者を不利な立場に陥れるきっかけをつかむために、彼らは裁判という場を利用して情報の開示を求めて来たのである。

だが、そのように信者に悪意を抱いている人々がいるならば、同じ原則を、そのまま逆に彼ら自身に当てはめることが可能である。自己の情報をみだりに第三者に開示し、「逃げも隠れもしない」などと豪語して、他者の名誉を貶める行為にいそしんでいる人々には、彼らが開示していた情報を利用して、責任追及を行い、開示されていない情報についても、司法を利用してさらに開示を求めるだけのことである。

もともと彼らがそのように世に対して自己の情報を開示していた行為は、それ自体が、他者(世)からの評価に自己存在を規定され、自己を左右され、評価され、簒奪され、上書きされるきっかけを自ら作っているのと同じであるから、彼らの存在は、さらに「聖域」を取り払われて、まるで裸にされるがごとく、徹底的にこの世に対する開示を求められることとなろう。

つまり、彼らが教会の「聖域」に畏れ知らずにもメスを入れ、神に代わって教会の恥を暴き、裁こうとした思い上がりに満ちた計画が、そのまま彼ら自身の上に適用され、成就するということである。それが、主が願っておられる計画であって、主の御名と教会を辱めようとした者に当然のごとく降りかかる報いであって、それ以前のところで決着をつけてはいけないということを、筆者は理解したのである。

筆者は当ブログにおいて自己存在をアピールするつもりは全くなく、キリストによって覆われた新しい人として、世に対して姿を現している。

村上密は、自分は被害者の代理人として行動して来たと言う。代理人とは、自分の名を名乗り、自分の権利のために行動するのではなく、自分が代理としている人物の名を用いて、その人物に代わって、その人物の利益のために行動する者である。
 
私たちは、地上において、誰の代理人なのか。むろん、私たちは、キリストの代理人であるから(牧師が神の代理権威なのではなく、信じる者一人一人が御名の権威を託されている)、私たちは、自己の利益を擁護するために立っているのではなく、キリストの利益を擁護するために生かされているのであり、従って、世の前に立つとき、私たちが自己の名を語るのではなく、キリストの名を用いるのは当然である。

そして、もしも私たちが代理人となって行動しているその方の御名が、私たちの名を圧倒的に超える絶大な権威を持つものであるなら、その方の代理人となることにより、私たち自身が、はかりしれない権限を持つこととなる。

従って、私たちクリスチャンが、幼い頃から「イエス・キリストの御名によってお祈りします。」と唱えることを教えられて来たのと同様、筆者は当ブログにおいても、自己の名ではなく、主の御名によって、すべての事柄を書き記している。

私たちの発する言葉は、一つ一つが不完全であり、私たちの存在も不完全で、影のようなものでしかない。だから、筆者は当ブログで用いている言葉が、隅から隅まで完全であると言っているわけではない。だが、それにも関わらず、私たちが「イエス・キリストの御名」の権威を帯びる時、私たちの不完全さは、主の完全さで覆われ、私たちの弱さは、主の強さに変わり、私たちの不真実は、神の真実によって取って代わられ、敗北は勝利に置き換えられ、悲しみは慰めに変わり、罪は赦しの恵みによって覆われ、朽ちる命が朽ちない命を上から着せられ、滅びゆく有限な者が、神の永遠の命を着せられて、キリストと共に栄光にあずかるのである。

そのようなわけで、私たち自身が、絶えずイエスの命によって、キリストの思いによって、存在を「上書き」されている。そうした現状があればこそ、筆者は、御名の権威を用いて、信仰のない人々の判断を上書きすることを辞さず、またその作業が可能であることを信じている。

筆者は、彼らの判断を飲み込んでしまい、それに上から新しい事実を「着せる」。筆者は「勝利者」として歴史を作り、書き換えているのだが、その「歴史」とは”His-story”であって、カルバリで取られたキリストの勝利に基づくものであって、筆者個人の勝利ではない。

つまり、筆者がすべての物事を「上書き」することによって、着せようとしているのは、キリストご自身なのである。そして、それに従わないものは、すべてのみ込まれて消えて行くか、罰せられるかに終わるであろう。

「兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできません。わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。

この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。

「死は勝利にのみ込まれた。
 死よ、お前の勝利はどこにあるのか。
 死よ、お前のとげはどこにあるのか。」

死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。わたしたちの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に励みなさい。主に結ばれているならば自分の苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」(1コリント15:50-58)

こうして、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬべきものが命にのみ込まれるためにこそ、私たちは証の言葉を述べ続けている。
  
これは神の完全な贖いを巡る争いなのである。だからこそ、人間的な観点から見た合理的な解決に至り着いて終わりになることなく、完全な決着が着けられるまで、戦いが続行される。
 
神の贖いに反対する者には、この地上はおろか、永遠に至る領域においても、容赦のない裁きが下されることが確定している。その霊的法則性が明らかになる地点まで、本紛争は必ず進むだろう。筆者はこれを明らかにする責務を負わされているのであって、それを果たすまでは、この戦いは終わらない。そのことを、ここ数日間で筆者は心に確信させられたのであった。
 
わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ、また、あなたがたの従順が完全なものになるとき、すべての不従順を罰する用意ができています。」(2コリント10:4-6)

主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。
 わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。

 
すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当てを胸につけ、平和の福音の備えを足にはき、その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。」(エペソ6:10-18)

 
  <続く>

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十字架の死と復活の原則―日々の十字架を代価として払って主に従う―「私に従って来なさい、死人を葬るのは死人に任せなさい」―

以前にも、「死人を葬るのは死人に任せなさい」という趣旨の記事に書いた通り、肉の絆に対する十字架の取り扱いは相当に厳しいものである。それは自分で分かっているつもりの領域を超えて、なお、生まれながらの人間の情に鋭くメスを入れ、これを断ち切る。

幾度も書いて来たことであるが、肉による情をキリストの死の向こう側の復活の領域にそのまま持ち込むことは許されない。たとえば、家人だから、親族だから、親しい友人だから、自分にとって身近な大切な人だから、長くつきあった仲間だから、肉の情愛に結ばれたまま、手をつないで、天国の門をくぐりたい、この地上で別れても、永遠の世界で再び出会いたい…などとどんなに願ったとしても、そのような願いを神が聞き届けられることはない。

むしろ、そのような肉の思いこそ、徹底的に十字架の死に渡されなければならないであろう。
 
なぜならば、人が真に救われるためには、まず、水と御霊によって生まれなければならないからだ。(信仰仲間との連帯であっても、肉による情のすべては十字架において死に渡されなければないのだが、今回は、まず生まれながらの肉による情や絆について書いておきたい。)
 
何よりも、神が唯一であり、神の独り子である主イエス・キリストが人類の罪のために十字架で死なれ、よみがえられたこと、信じる者のために永遠の贖いとなられたことを信じ、この救いを受け入れないのに、天国に入れる者は誰一人としていない。

だが、ニコデモがそうであったように、水と霊によって再び生まれなければ、誰も神の国に入ることはできないというイエスの御言葉を聞いて、それを即座に素直に信じて受け入れることのできる人は、ごくごく限られており、非常に少ないであろうと思う。

筆者は、90歳を超える親族が病の床に着いた知らせを聞いたとき、自分の書いた記事を思い出し、この親族が救われて神に至ることを願いつつ、帰郷した。

しかしながら、しばらくの間、この親族を観察してよく分かったことは、この親族は、二十年以上の歳月をかけて、生長の家の信者を続けており、病床で残されたわずかな時をさえ、生長の家の説教テープを聞くことに費やしていたことである。その姿は、筆者には、衰えゆく自分自身への不安を紛らし、過去から目をそらし、現実から目をそらし、死の恐怖から目をそらすためとしか見えなかった。
 
それにしても、この老いた親族が病床から起きられなくなってから、生長の家で親しくしていたはずの信者たちはどこへ消えたのか、誰一人姿を見かけることもなく、訪問して来ることもなかった。

それもそのはずであろう。生長の家は、人間は生まれながらにしてみな神の子であって、神の威厳と大能を帯びて、金色のオーラに包まれており、病や邪念などはみな影や幻想に過ぎないものであって、人間に触れて害することはできないと教えているからだ。

この偽りの宗教は、人間は生まれながらにしてみな神の子であると嘘を教えて、キリストの十字架の贖いを介さなければ、誰も神の国に入れないという聖書の事実を否定している。そして、生まれながらに神の子である人間はみな、神の体、神の命を持っていると、偽りを教えている。

ところが、生まれながらにして神であるはずの信者を、影に過ぎないはず、幻想に過ぎないはずの病が脅かし、病の床に臥させ、信者を今や死の恐怖をもって脅かしているのだ。この現実に対し、彼らはどう言い訳できようか。それでも彼らは、実相の世界においては、人間の霊魂は不滅なのだから、病に冒された肉体も幻想なのだと言って、矛盾のすべてをごまかすのであろうか。
 
彼らがどんなに多くの詭弁を用意していたとしても、そのような虚しく空々しい言葉が、厳しい現実を前に通用するはずもない。死を目前に見ている病人に真の安心を与えるはずもない。そこで、この宗教の信者たちが、この親族が元気なうちには、徹底的に偽りの教えによって献金を巻き上げた上、不都合な事態が起きると、寄り付きもしなくなり、姿を消すのは当たり前であると思う。

だが、それにしても、90を超える老人にも、家族の反対を押し切ってまで、献金をまきあげるように捧げさせていたこの宗教には、恐るべしと言うほかない。その献金のために、この親族はわざわざ新札まで用意していたというから、そこまでさせていたこの宗教に、呆れ、憤慨するだけだ。だが、さすがにそのお布施は、家族が反対してようやくやめさせるに至ったようである。

家族の理解も得られないまま、長年、周囲に反対されつつ、多額の献金と奉仕を費やして、この宗教にはまり続けて来たのである。今更、説得して、どんな効果があるのか、とまずは思わざるを得ない。そんな風にして、家庭から長年に渡り、家族の成員の心と体を奪って行ったこの宗教の欺瞞を、まずは糾弾せずにいられない。

生長の家は、アッラー、仏陀、キリスト、その他のどんな神々を信じようとも、最終的にはみな救いに至れると教えており、一言で言えば、あらゆる宗教の「いいとこどり」だけで出来あがった混合物である。
 
しかしながら、こうした生長の家のいいとこどりの教えは、汎神論や、原始宗教の名残のような、八百万の「神々」への信仰心の残る日本の精神風土にはなじみやすいものである。伝統的な日本の土着の宗教は多神教だからである。

さらに、「人間は生まれながらにしてみな神の子である」という、生長の家の偽りの教えは、人の自尊心やエゴを巧みにくすぐって、人間の心をおだてあげる。自分自身を「神である」と思わせるのである。この親族は、特に、家長であったから、自分自身がもともと家全体のシンボルであり、長年、先祖供養などを通して、いずれは自分も子孫として、(神や仏となって)その家系に連なるのだという自覚を養われていたことであろう。

さて、筆者が上記の記事を書いた時には、まだ筆者はこの親族の病のことを全く知らなかったので、何の関連性もなくこの記事を書いたのであった。

だが、人間は知らないことも、神だけでなく、悪霊どもも知っている。そして、筆者は、親族の病という不幸を聞いて、たとえ回想であっても、こんな不吉な記事を書くものではないと当初は考えたが、むしろ、現実はその逆であったと言えよう。

筆者は、肉親の情から、この親族の病を哀れんだが、逆に、この親族の内にいる(キリストを知らない)霊は、肉親の情や絆に訴えかけることで、筆者との取引を願っていたのだと思われてならない。

なぜなら、すでに書いた通り、この親族は、筆者を呼び寄せて、開口一番、こう言ったからである。「苦しまなくて済むように、キリストさんに祈って欲しい」と。

この親族は、自分の病名も知らず、この先、自分がどうなるのかも知らなかったが、直観的に、死が近いことを感じていたのであろう。最期が苦しくないものとなるように願って、筆者に助力を求めたのであった。その時、親族は、体力はそれなりに衰えていたので、寝ていなければならない状態であったが、まだ自分で行動することもでき、会話も可能で、それほど重大な苦しみには直面していなかった。

そこで、親族からの求めに対し、筆者は、筆者だけが代わりに祈っても意味がないこと、何より、そう願っている本人が、自分でまことの神を信じて祈らなければ効果がないことを述べた。それは、果たして、この親族に、キリストを心から信じる気持ちがあるのかどうかかをはっきりさせるためにあえて問うた内容であった。

しかし、このようなやり取りがあったこと自体が、実に不思議なことであった。何しろ、この親族は90歳という高齢で、人生の大先輩であり、かつ肉においては先祖に当たり、筆者などはまだほんの小娘に過ぎない。かつて信仰について論争した時にも、この人は筆者の助言や忠告など何も必要としていなかった。しかし、「キリストさんに祈って欲しい」とわざわざ依頼して来たところに、自分の力ではもはや太刀打ちできない深刻な事態が起きているという切迫感があるのだろうかと思わされた。

この際、きっかけが何であれ、構わない。たとえそれが苦しみたくないという利己的な願いからであれ、あるいは死の恐怖から逃れたい願いであったとしても、どのようなことがきっかけでも良いから、何が何でも、まことの神に至りつき、真理を知って平安を得たいという心さえあれば、神は聞いて下さると筆者は信じてやまないので、その助けになれないかと筆者は考えた。

筆者自身も、窮地にあって、何度、神に助けを求めたり、率直に願いを祈り求めたか知れない。そして、その祈りの中に、利己的な動機が微塵も含まれていなかったとは言えない。自分が楽になりたいという気持ちが微塵も含まれていなかった、とか、すべては自分自身のためだけではなかった、などとは言えず、言うつもりもない。

だが、それでも、筆者の多くの祈りを、願いを、実際に、神は御言葉に応じてかなえて下さった。神は私たち人間の地上における弱さ、脆さ、儚さを十分に知っておられ、その弱さの中で強さとなって下さる方である。聖書の神が、我々の肉体の限界から来る悩み、苦しみに、耳を傾けて下さらない方だとは、筆者は思っていない。
 
だが、神の助けを受けるためには、条件がある。それは、他の神々を捨てねばならないこと、そして、自分がまことの神をおざなりにして来たならば、そのことを罪として悔い改めねばならないことだ。その罪に対する赦しとして、キリストの贖いがあることを信じねばならないことだ。

だが、それは、人は生まれながらにして神の子ではなく、生まれながらにはただの罪人でしかないと認めることを意味する。自力で、つまり、地上の生まれ持った出自によって、血統によって、永遠に至ろうとするのではなく、神の一方的な恵みとしてのキリストの十字架の贖いを受け入れることによって、神の国に至ることを意味する。それがこの親族に出来るだろうか?
 
重要なのは、ただ単に人の苦しみが軽減されることではなく、人の魂が救われることである。そこで、たとえ筆者が代わりに祈ってみたところで、この親族の魂が根本的に救われなければ、すべては何の意味もないのだ。だからこそ、この点(自分でキリストを信じることができるかどうか)は極めて重要な争点であると筆者は考えた。

しかしながら、観察すればするほど、親族が願っているのは、そういうことではない、ということが分かって来た。何よりも、二十年以上(あるいは三十年以上か?)生長の家の教えを受け続けて来た影響は相当に根深いものがある。その教え込みを打破して、誤りに気づいてもらうこと自体が、至難の技である。しかも、90歳という高齢者を前にして、そのようなことを、50歳以上の年の差がある小娘が行おうとしているのだ。不遜だと思われても仕方がないだけではない。この親族に関しては、死後についてもすっかりレールが敷かれており、葬儀の依頼先や、墓までも決まっていることが分かった。もちろん、一切、キリスト教とは関係のない、義理の世界の話である。

このような状況の中で、この親族が、キリスト者になることを、誰が望み、受け入れられるであろうか? そして肝心の本人は、この点をどう思っているのか。もし本人が、それでも何が何でも、病床で本当の神を求め、信じると宣言すれば、誰もその内心の決定には立ち入れないであろう。だが、本人がこの点についてはっきりしないのでは、筆者としてはできることがない。

親族がキリストを信じられると言う中には、明らかに、生長の家が、あらゆる神々を奉じており、その中の一人にキリストをも含めているということがあった。つまり、他の神々を捨ててまでキリストを信じるという告白ではないのである。
 
そこで、こうした対話の中で、筆者が感じたことは、この親族(本人の魂というよりも、その内にいる霊)が筆者に、ある種の取引を持ちかけているのではないか、ということであった。

むろん、これは誰にも証明することのできない話なので、筆者の印象と言われても仕方がないであろうが、その(キリストを知らない)霊は、筆者が記事に書いた内容を知っているのであろうと予感せざるを得なかった。

筆者は以上の記事の中で、特定の病においては、死に様が非常に苦しみに満ちたものとならざるを得ないこと、特に、神を信じていない者の苦しみは逃れ難いもので見るにも忍びないものであり、特定の不信者の最期が筆者の目にどのように見えたかを描いた。

おそらく、親族の内にいる(キリストに属さない)霊は、時空間を超えて、その内容を察知し、そこから、自分の未来に起こり得る事態を予想し、そのような結果が自分の身に降りかからないようにと、筆者を通して神に懇願しようとしているのだとしか思えなかったのである。

もしもその人が自らキリストを信じることさえできれば、神ご自身がその人を確かに守って下さるであろう。だが、筆者が「自分で信じて祈らなくちゃね」と切り返しても、親族の反応はなかった。

幾度かそのような対話があって、その霊が望んでいることは、やはり、キリストを信じて、唯一の神に栄光を帰することではなく、あくまでただ自分の苦しみが軽減されることだけなのであろうと感じられた。唯一の神としての聖書の神、神の独り子としてのキリストの贖いを信じないままでも、どうにかして、その憐れみにあずかることができないかと考え、そのルートとして、筆者を頼ったのである。
 
もちろん、この身内は筆者に決してそうは言わないが、筆者にとっては、一種の脅しめいた心理状況が展開された。

要するに、敵は筆者に向かってこのようにささやくのである、「おまえはこの人間の身内なんだろう。この状況を見て、おまえはこの病人を可哀想だと思わないのか。こんな状況でも、おまえはこの身内のために、この人の苦しみが少しでも少なくなるよう、おまえの神に祈ってやる気はないのか。この身内にキリストへの信仰がないからと言って、おまえはその懇願まで突っぱね、拒否するのか。おまえには何と情がなく、おまえらの宗教は何と残酷なのか」

しかし、どう脅されようとも、そこには、筆者がどうしても譲れない厳格な線引きが存在するのであった。

おぼろげながらに記憶しているが、筆者はまだ10歳にも満たない頃、この親族の家で、先祖が祀られた仏壇を拝むよう求められ、それを拒否して立ち去ったことがあった。筆者は、その際、子供ながらに、「私にとっての神様は一人しかいないので、他の神様にお祈りするわけにはいかないの」と言って立ち去ったようである。

だが、その場に立ち会っていた(当時)無神論者の父は、子供のこの思いがけない行動に驚き、「キリスト教とは何と礼儀しらずで排他的な宗教か。先祖に対する無礼だ」としか感じなかったようで、後で(筆者にではないが)文句を言っていたようである。その後、様々な話し合いによって、筆者の聖書の神への信仰のあり方を知って、父も現在はもはやかつてと同じようには考えておらず、仏壇を拝むよう筆者に求めて来ることはまずないであろうと思うが、そんなはるか昔から、筆者の中で、すでに信仰による戦いは始まっていたのである。

その戦いとは、この世界を造ったのは「神々」なのか、それとも「唯一の神」なのか、人間は「生まれながらにして神」なのか、それとも「恵みによらなければ救われない」のか、という論戦である。
 
この論戦は、この世が終わるまでずっと神と悪魔との間で続く激しい戦いである。そして、我々は一体、どっちの側につくのか、絶えず、回答を求められている。筆者は、「神々」の側には決してつかないことを、子供の頃からはっきりと決意していたのであった。その頃は、単に教会の日曜学校で教えられた通りの教えに従っていただけであったかも知れない。その教会も、日曜学校も、まことに誤りの多い組織でしかなかったので、結局、その誤りはすべて後々、気づいて修正しなければならなくなるのだが、たとえそうであったとしても、筆者の中には、その頃から、ただ聖書の御言葉だけに基づいて、唯一の神だけを神とし、「神々を拝む」ことへの拒否感が、親族への情愛や礼節以上に強く、重んじるべきことであり、仏壇を拝むことはやってはいけないというはっきりした認識があったのだ。
 
その当時、筆者が拝むよう求められた仏壇は、筆者の先祖が祀られている場所であり、もしも筆者にキリストへの信仰がなければ、筆者は何のためらいもなく、先祖への感謝と畏敬の念からそれに手を合わせ、そして、何のためらいも不思議もなく、いずれ筆者自身も「神々」の一人となって、その仏壇に加えられ、代々、家系を守る者となり、子孫から手を合わせられるのだということを受け入れていたかも知れない。
 
(想像でしかないが)そうして筆者が仏壇に祀られる頃には、筆者にはもはや己の肉体もなくなって、食べることも、飲むことも、見ることもできなくなっているのに、毎日、毎日、子孫によって、位牌の前に、菓子やら、花やら、米やら、色々な供え物を置かれ、それを筆者はあの世から見て、ああ、もう一度、人生をやり直して、あの美味しそうな菓子を食べられたらなあ、とか、何よりも、生きているうちに、神の救いをちゃんと受け入れておくのだった…、キリストを受け入れなければ、行き先は地獄しかないと、地獄の釜の蓋が開いて、年に一度だけ家に戻れるという盆の時にでもいいから、子孫に警告できたら…などと思っていたかも知れない。

いずれにしても、キリストへの信仰がなければ、筆者は何の疑うこともなく、「生まれながらにして神」と信じる「神々の家系」の一人として祀られることになっていたであろう。

だが、そのようにして血統がものを言う「家」と一体となって、「生まれながらにして神聖」な存在として祀り上げられる人生から、筆者は様々な巡り合わせによって、完全に「ドロップアウト」したのであった。

物心ついた頃から、筆者の目から見ると、そのような価値観は、あまりにも変なのであった。こんなにも誤りやすい、未熟で、愚かな人間たちが、「生まれながらにして神」などということは、筆者から見ても、絶対にあり得なかった。むしろ、筆者が早くから求めていたのは、このような限界ある弱く愚かな人間たちの一切の思惑や行動を超えて、もっと高いところから、すべての被造物を正確に把握し、間違いなく治め、裁くことのできる、まことの神の存在であった。

このように、聖書の神への筆者の信仰は、ただたまたまキリスト教会なるところに、子供時代に関わったことによって生まれたものではなく、早くから、目に見えるこの世の一切の矛盾や不条理を超えて、また、人間の弱さや、愚かさや、罪深さを超えて、それらのすべての目に見える世の矛盾を克服することのできる絶対的な正義がどこかにあるはずだ、という確信に基づくものであり、もしそのような文脈で、神がおられるのでなければ、この地上を生きる意味そのものが存在しないという、筆者自身の切なる確信と求めがきっかけだったのである。

そして、その道は単純ではなく、筆者が今も聖書の神をまことと信じているとはいっても、子供時代にキリスト教会で受けた誤った教え込みから脱して、純粋に聖書の御言葉を自分自身で学び、知り、まことの神ご自身、キリストに直接、出会うために、どのような道を通らねばならなかったかも、すでに書いた通りである。

筆者は、自分が努力によって神に到達したとは言わない。これだけ苦しんだから、神に達する資格や権利があると言うつもりもない。苦行を通して神に達することができるという考えは誤りである。

苦しみがありさえすれば信仰が生まれるということは決してない。だが、信仰が生まれ、深められるために、苦しみが存在せねばならない場合は存在するのである。

聖書の信仰の先人たちのほとんどすべては、生涯を通して、苦しみによって信仰を練られた人々ばかりである。もしも彼らが、人生の初めからすべてが順風満帆で、幸せいっぱいで、何一つ思い悩むこともなく、立ち向かうべき問題も持たず、挫折もしなかったなら、彼らには信仰そのものが生まれなかったか、あったとしても、全く成長しないままに終わったであろう。
 
このように、救いも、信仰も、人間の努力によって達成されるものでなく、神の側から与えられる恵みであるとはいえ、神を求める気持ちが全くない人間に、神がご自身を啓示して下さることは絶対にない。人の中に、神を切に呼び求める願いがなければ、神はその人に自分自身を現さず、信じることのできる力もお与えにならない。

だが、神を切に呼び求める気持ちが人の心に生まれるためにこそ、しばしば、人は逆境や、苦しみの中を通らされねばならないのである。

さて、筆者は、「生まれながらにして神」という高みに祀り上げられる人生の歩みから、早々にドロップアウトしたが、それをとても幸運に思っている。なぜなら、自らその歩みからおいとましたからこそ、キリストの救いにあずかることができたのだと思うからだ。その両方を取ることは絶対に無理であったと確信する。

どういうわけかは全く分からないが、筆者には、子供の頃から、地上の「家」に思いを寄せつつも、そこが自分の最終的な「家」には決してならないという確信が存在していた。先祖から子孫に至るまで、家の人間がみな神々のように祀られている風景を見て、自分もそこに連なるのだという意識は持てなかった。むしろ、そのような自画自賛的な、自己肯定的な、自己顕示的な有様に対して、相当な違和感か、もしくは、拒絶感しか覚えるものはなかった。
 
それは単なる思想信条上の違いにはとどまらず、実際に、年月が過ぎるに連れて、ますます大きな考え方の差異を生んで行ったのである。年月が過ぎるに連れて、ますます、筆者は自分がその「家」の一員ではないという感じを強くして行ったのであった。

これはその土地が住みにくいとか、人々と気質が合わなかったとか、そんな皮相なレベルの問題ではない。むしろ、筆者はその土地が気に入っており、親族にもいたく心を寄せて、家に対する思い入れも存在したのである。あるいは、筆者が、その家を継ぐ者になるという可能性もないわけではなかった。

にも関わらず、そのような肉の情や絆は、決して筆者がその土着の宗教と一体化した家の一員となる決定的な要因とはならなかった。むしろ、それを断ち切ってでも、獲得せねばならない、より高度で重要な課題が現れ、筆者は彼らのもとを立ち去らねばならなくなったのである。

そして、今、「家」を代表する人が、筆者の目の前で、衰えて、子孫に道を譲ろうという段階になって、その人が、筆者に頼みごとをして来ている。だが、筆者は、それを簡単に受けるわけにはいかない。

肉における地上的存在としての筆者への頼み事なら、情によって引き受けることは可能であろう。しかしながら、主の御名を使って、キリストを通して神に願うとなれば、それは安易に受けるわけにはいかないのだ。

筆者が神に願うことができるのは、人の魂が救われて神に至ることであり、それ以前のどんなレベルの要求でもない。そして、人が救われて神に至るためには、しばしば、らくだが針の穴を通るように、その人が苦境を通らねばならないことを筆者は知っている。苦しみを軽減してほしいという人間の願いがどんなに大きなものであっても、しばしば、神はあえて人の信仰を試すために苦しみを用いられることを、筆者は実際に幾度も経験して知っている。

だから、主イエスが祈られたように、「できれば苦しみを私に与えないで下さい。けれども、たとえ苦しみがあっても、私は本当の神と出会うこと、本当の神がご自身を私に示して下さることを願います」というのであれば、それは筆者にはとてもよく分かる祈りであって、協力することは可能であり、そのような祈りを神が聞いて下さらないことはないと思うのだ。
 
人が神を知るために、地上で何の思い煩いも悩みも苦しみもなく、孤独にも迫害にも対立にも遭遇せず、本当の神を知りたいという祈りも探求心も持つことなく、ただ自分にとって喜ばしく心地よいことだけを体験しながら、何一つ地上的利益を手放すことなく、同時に、真理を知って神に至ることができるとは、筆者は全く考えていない。そのような救い、そのような信仰があると言う人がいたとしても、それを本当だとも思わない。

まことの神に至りつくために、苦労があるだけではない。まことの神を知れば知ったで、そこから、この神だけに従うための戦いも始まる。

その代価を自ら支払っていない、もしくは、支払うつもりのない人間に対して、救いだけを安易に投げて寄越す(約束する)ことは、神を軽んじることであり、神の救いを曲げることであり、筆者には、それは決してできない相談なのであった。

だが、死を間近にして、苦しみを逃れたいと懇願する人に、そのように返答すること自体、「おまえの宗教は何と残酷なのか」と受け取られるきっかけになりかねない。地上の肉親の情や絆だけをすべてとする人々には、この言い分は容易には理解できないであろう。そのように誤解される危険を十分に理解した上で、それでもなお、そのようにしか返答できないのである。

それは、筆者自身が、この神に従うために、この神だけに従うために、払い続けて来た代償を知っていればこそであった。他の「神々」にすがりながら、同時に、キリストの救いや慰めも欲しいと主張するのは、心の分裂でしかない。それは、夫以外、妻以外の幾人もの愛人と浮気を重ねながら、夫の愛、妻の愛も欲しい、私は伴侶を愛しているとあくまで言い張るのとさほど変わらず、神への貞潔さが欠けているのだ。だから、どうしても、まことの神に至りつくためには、その人の心の中に、激しいまでの純粋な願い求め、「正真正銘、本当のことだけを私は知りたい。嘘はもうたくさんだ」という思いが、なくてはならないのである。

筆者は、親族の抱える内心の問題を、親族が直接、神に願い求めるよう促し、まことの神はただ一人しかおらず、「神々」は存在しないのだという事実を告げた。そして、厳しいようだが、もし生長の家の教えが真実だったならば、今の現実(病)そのものが存在していないはずなのだから、この結果を見れば、この宗教の教えに、人を救う力がないことは明白ではないかと告げた。だから、もし救いを与える力がないのであれば、その教えは間違いであったことを認めて、本当の神を知りたいと望み、悔い改めて神に立ち返りさえすれば、神ご自身がその願いに応えて下さるはずだと。

キリスト者になったから、死なないと言うつもりはない。だが、私たちは、病を幻想として否定して、死を否定するのではなく、死と正面から向き合った上で、キリストがすでにこの最終的な敵である死を滅ぼされてことを信じている。キリストと共に死ぬならば、キリストと共に復活することを信じている。もしキリストの贖いを信じれば、その人は永遠の命を受けることができ、その命によって、死んでも、主と共によみがえって生きることができるのだ。
  
だが、筆者は、それ以上の説得を行わなかった。後は神と本人との対話である。たとえ苦しみを軽減したいという願いがきっかけであったとしても、他の神々のすべてを捨ててでも、本当の神に願い求めたいという強い気持ちが、本人に生まれるのならば、神が応えて下さるであろう。だが、今までの人生を振り返って、自分がすがり続けて来たものに、自分を救う力はなかったという現実に直面する勇気が本人にあるかどうか、自らまことの神を探し求める気持ちがあるかどうか、それは本人の意志と選択なのであって、もし本人にその希求がなければ、これはどんなに理屈が揃っていても、他者が強要したり、説得したりできるものではない。

そして筆者は、あまりにも親族が色々なものにがんじがらめにされているのを傍観しながら、もしそのようなこと(キリストへの信仰)が仮に親族の中に生まれたとしても、それはきっと想像を絶するほどに激しい戦いを巻き起こすだろうと思わずにいられなかった。

だから、筆者は、それ以上の領域に踏み込み、立ち入ってまで、本人の望まないことを、説得によって押しつけることで、人の意志を無理やり変えようとは思わない。だが、そのような状況で、筆者がずっとそこにとどまっていれば、かえって押しつけないという立場を悪用されて、筆者は情にほだされ、人が苦しまなくて済むことだけを最高の価値とする人間本位な教えに仕えさせられて行き、いずれ「死人を葬る」ことに助力させられてしまうであろう。しまいには、地縁・血縁の支配する土地で、他の神々を拝むことをも余儀なくさせられかねない。そうこうしているうちに、すでに後にしてきたはずのものに、すっかりからめとられ、引き戻されてしまうであろう。
  
おそらくは、キリストに属さない「霊」の狙いはこの点にこそこそにあるのだと思わないわけにはいかなかった。つまり、肉の情や義理を口実として、キリスト者をキリスト以外のものにがんじがらめにして行き、キリスト者の探求をやめさせることである。

だが、そんなことが今になってできるくらいなら、筆者はもともとこの土地を離れて移住することもなく、幼い頃から今に至るまで、この土地で何の問題もなく、親族らと共に、平和に幸福に満足して暮らしていたことであろう。自分も死んでいずれ仏壇に祀られ、神々の一人のごとく子孫に拝まれる対象となるという考えに何の違和感も持たなかったであろう。それらをすべて拒否して後にしてでも、向かわなければならない先があったのである。そこで一体何が打ち立てられたのか、どんな成果があるのか、未だ何もないではないか、と問われても、それでも目指さなければならない地が存在するのである。最終的には、それは見えない天の都である。
   
だが、そうはいっても、感覚的に慣れ親しんだ地上の故郷を後にするのは、人間的には常に断腸の思いであり、今回ほど、それが強く激しかったこともない。何しろ、客観的な判断としては、今の状況では、親族が他の神々を捨てて、まことの神の救いを心から求める可能性は極めて低いと言わざるを得ず、親族の救いを見ないまま、その地を後にすることがためらわれるだけでなく、筆者自身が、この血脈に支配される人間関係の中で、自分が決定的に「異質な存在」になってしまったことを強く感じるからだ。本当は、それはとうの昔に始まっていたことなのだが、それでも、筆者はまだ彼らにそれなりに受け入れられ、情による絆が強く残っていたため、この両者の間に横たわる決定的な違いを、筆者自身がそれほど体感していなかったのである。それが今、何かしら大きな節目を迎え、霊的な領域において、何かが断ち切られ、後戻りの道が閉ざされた。つまり、地上の故郷というものの欺瞞性が、もはや無視できないほどにまではっきりと筆者の目に見え、情による絆に、未だかつてない鋭いメスが入れられ、終止符が打たれたのである。

たとえどんなに長年の絆や、歴史があったとしても、どんなに強い情や義理で堅く結ばれていても、個人の救いというものは、他者がどうすることもできないほどまでに、極めて内心の厳粛な問題である。さらに、土着の宗教や地縁が深くものを言う社会で、このしがらみを脱することには非常に大きな犠牲が要求される。地上の肉による社会から受けられるすべてのメリットを捨て、そこから来る対立をすべて乗り越えるほどの強い信仰がなければ、このような環境で、キリストへの信仰は生まれようがなく、維持することも不可能なのだ。それは奇跡であり、人間の側からの激しい願い求めと、神の側からの強い介入なくしては決して生まれ得ない奇跡である。
  
さらに、筆者が思うことは、筆者が誰かにキリストの救いを語り、十字架の死と復活を語る時、筆者の心に溢れる感動や、喜びは、あくまで筆者自身のものなのであって、他の誰のものではないということだ。

筆者がかつて関東に移住し、エクレシアに連なりたいと願って、それを神に願い求め、神がこの願いを不思議な方法で聞き届けて下さった時、筆者の心には大きな喜びがあり、すぐさま信仰仲間とその喜びを分かち合えるのではないかという期待感があった。だが、それはあくまで筆者の信仰に、神が直接、応えて下さっただけのことであって、他者とは関係ないのであった。それは関東にいた信者たちがとりわけ素晴らしく、彼らが親交に値するから、筆者を彼らの中に投入することで、何かを学ばせようと、神がそういう出来事を起こされたわけでもなかった。ただ、筆者の心に生まれた願いがそれほどまでに強く、諦められないものであり、純粋な願い求めだったので、御言葉に基づいて、神がそれを叶えて下さった、というだけのことである。一言で言えば、その後、起きて来ることについても、その時と同じほどの強い決意を持って、探求を続けねばならないのであって、何もせず待っていさえすれば、何か素晴らしいことが起きるということは、絶対にないのであった。

筆者はしばしば、自分が感じている喜びや感動を、他者とも分かち合うことができるのではないかと期待する。神が筆者に与えて下さった素晴らしい恵みを、他者と分かち合おうと考える。あるいは、神が出会せて下さったキリスト者なのだから、これはきっと素晴らしい信仰仲間なのに違いない、などと安易に考える。ところが、神は、それは違う、とはっきり示される。

「私はあなたが私に求めたから、あなたが私を信じているから、それに応えているのであって、そこに他の人は一切関係ないのです。他者にはほとんどの場合、あなたが考えていることがほぼ全く理解できませんし、あなたと同じ恵みを分かち合うこともできません。どんなにあなたが喜びに溢れ、天に昇るほどの感動を覚え、御言葉の意味を悟り、この恵みをぜひとも他の人に伝えたい、他の人にも同じように解放されて欲しい、などと切に願っていたとしても、ほとんどの場合、それを受けとることができる人々の数は、あまりにも限られており、他者の心の状況はあなたとは全く違うのです。

たとえその人がキリスト者であっても、信仰があるから、あなたと同じ理解を共有できるということも、ほぼあり得ません。この点で、あなたに求められていることは非常に厳粛です。あなたはどんな時でも、他者の理解や共感や賛同を一切当てにせず、ただ私だけに聞き従い、私だけを見て、私の考えだけを探るべきであって、一瞬たりとも、他者との関係で自分をとらえ、他者の心の中で起きることに足を取られて、他者の顔色を伺うようになって、思うように良好な関係が生まれないと言っては自分を振り返り、後悔や反省に明け暮れたりして、自由を奪われるべきではないのです。

あなたが私の名による福音を語っても、人々が聞かず、あなたが手を差し伸べても、人々が拒絶し、あなたが仲良くなろうとしても、嘲笑や拒絶だけがかえってくることは往々にしてあります。さらには、ようやく純粋な信仰仲間に出会えたと思った瞬間に、その人が地上から取り去られるということもあるでしょう。

その時、あなたはいぶかしむでしょう、『このミッションは、神に祈り、願い、神が許されて起きたはずなのに、どうしてこんな不本意な結果にしかならないのか。私がどこでどう間違ったから、このような結果に至ったのか』

それを不本意だと思う必要はありません。もちろん、そのような結果にならないよう、願い求めることは有益です。しかし、動かせない結果が出たなら、それが人々の応答であり、また彼らの選んだ結末なのです。あなたを誰かが拒絶したとしても、それをあなたがまるで自分の責任のように感じる必要もありません。聖書の預言者のすべては、人々からそのように扱われたことを思い出しなさい。私の名で語れば、いつも人々から友好的な反応が得られ、私の名で語れば、人々に通じるということはまず絶対にないと思って差し支えありません。むしろ、人々は様々な地上的な理由づけを持ち出して反対して来るでしょう。しかし、あなたは人々の反応がどんなであれ、ただ私だけに従って来なければなりません。もし人々との間で望ましい結果が出るとしても、それはあなたが人々に良好で望ましい態度で関与をしたからではなく、ただあなたが私との間で自分の召しとして与えられた探求を決して諦めずに遂行し続けた結果でしかありません。」


真の謙遜とは何か(2)

高ぶりと信仰が、本質的にとうてい両立できないものであることを私たちが見るとき、私たちは、信仰と謙遜が、その根本において一つであること、そして私たちが真の謙遜を持っている以上に真の信仰を持つことは決してできないことを学ぶのです。

私たちは、高ぶった心をいだきながら、真理についての強い知的確信を持つことはできるでしょう。しかし、生きた信仰、神を動かす信仰を持つことは不可能なのです。

私たちは、しばらく、信仰とはいったい何かということを、考えてみる必要があります。それは、無価値の者、無力の者になることの告白ではないでしょうか。そして、神に明け渡し、神がみこころをなされるのを待つことではないでしょうか

それは、存在しうるかぎりの最も謙遜な事がら――私たちが従属者であることの承認、恵みによって授けられるもの以外、何ものも要求できず、獲得できず、なすことのできない者であることの承認――ではないでしょうか。謙遜とは、簡単に言えば、たましいを神に信頼して生きるように備えることです。

そして、すべての高ぶり――利己主義、わがまま、自己過信、自己高揚におけるいちばんひそかな高ぶりの息吹 ですら――は、自我――それは神の国にはいることができず、神の国のものを所有できないものです――を強めるものにほかなりません。なぜなら、それは、神 が本来あるべき状態になられること、すべてのすべてとなられることを拒否するからです。

信仰は、天的な世界とその祝福を識別し理解するための感覚器官です。信仰は神からの栄誉を求めますその栄誉は、神がすべてであるところにおいてのみもたらされるのです私たちがお互いの栄誉を受けているかぎり、私たちがこの世の栄誉――人からの名誉や評判――を探求し、愛し、油断なく守っているかぎり、私たちは、神から来る栄誉を求めておらず、また受けることができないのです。

高ぶりは信仰を不可能にします。救いは、十字架と十字架におかかりになったキリストから来るのです。救いとは、十字架の精神をもって、十字架におかかりになったキリストと交わることです救いは、イエスの謙遜との結合であり、イエスの謙遜を喜び、それにあずかることであるのです。

高ぶりがこの上なく支配しているとき、私たちの信仰が全く弱いことは、驚くべきことなのでしょうか。なぜなら、私たちが、救いの最も必要な祝福に満ちた側面としての謙遜を熱望せず、そのために祈ることをしないからです。
アンドリュー・マーレー著、『謙遜』、pp.64-65.

 
前回、世の中で考えられている謙遜と、神にある真の謙遜とは、多くの場合、概念が真逆になっていることについて書いたが、このことについて多少、補足しておきたい。

世の中では、人々が「思い上がっている」とか「己惚れている」などと誤解されて、望ましくない敵視や、攻撃を受けないために、自分を実際にあるがまま以上に弱く見せかけ、「私は無です。私には知識もありませんし、私には何もできません」などと言っては、自分を低く見せかけることがあたかも謙遜であるかのように考えられている。

だが、それは人が自分をあるがまま以上に弱く見せかけたり、自分よりも強い者の利益のために、本来、自分が持っている正当な自由や権利まで投げ出して、行使しないことによって、自分を無いもののように見せかける自己防衛の手段であって、謙遜とは全く異なる事柄である、ということを書いた。

そのような世的な自己防衛の考えに基づいて発せられる「私は無です!」という叫びは、真の謙遜とは何の関係もない。むしろ、その叫びの意味するものは、「私は無です、だからこれ以上、私を攻撃しないで下さい!」ということであり、それは世の奴隷とされている罪深い人間が、自己保存、自己防衛のために、世に向かってこれ以上、自分を弄ばないでくれと情状酌量を求める懇願の叫びに他ならない。実際には、それこそが、生まれながらの人間が、キリストによらず、自分で自分を守ろうとする高慢だと言って差し支えない。

真の謙遜とは、キリストにあって自分は何者であるか、という自覚に基づいている。それは神にあって人が自分に与えられた自由と権利を余すところなく認識して、いかなる恐れや不安にも根拠を与えず、御言葉に立って、神の絶対的な守りを確信している状態である。

確かに、アダムの命にあって、人は無であるか、あるいは無よりも一層、悪く堕落した存在であるが、キリストによって贖われた瞬間から、その人は、アダムの堕落した命によってではなく、キリストの命によって生かされるようになるため、その人は、もはやかつてのように、自分がどんなに堕落した負の存在であるかということを、それ以上、延々と繰り返しては、世に情状酌量を求める必要がなくなり、キリストの血潮により罪赦されて、世に対してでなく神に対して生きる新しい人というアイデンティティを与えられたのである。

たとえその信者自身が現実には、未熟で、年若く、多くのことを知らなくとも、神の知恵と守りは、彼にとって十分であり、だからこそ、その信者は自分に主にあって何も乏しいことはない、と堂々と胸を張って言える。もはや罪定めの感覚に脅かされることなく、自分の未熟さや不完全さのために思い煩うこともなく、弱さを感じる瞬間には、まっすぐに神の御許に進み出て、必要な助けを乞うことができる。そのおかげで、その信者は今までのように「私は無ですから、どうか私を攻撃しないで下さい!」と方々に頭を下げて助けを乞うて回る必要はもうないのである。

自分の不完全さに頼らず、神に全面的に信頼を置くことによって、神の完全に頼って生きることこそ、キリストにある真の謙遜である。

しかし、この世における偽りの謙遜は、自分の正当な権利を放棄することによって、自己を小さく無力に見せたり、いわゆる「耐え忍ぶ」ことを美徳とする風潮によって、あたかも正しいことであるかのように、キリスト者の間でも、誤って捉えられている。そして、その誤った概念が、神が信じる者に与えて下さった自由や権利を不当に奪い取る口実として用いられている。

たとえば、幾度か述べて来た例であるが、ある信者が、違法な労働条件で働かされていたとする。その信者は法を守り、真実に生き、自分自身を守るために、その不法のはびこる職場を辞めようと決意している。だが、そのを相談を持ちかけられた別の信者は、「あなたは辞めてはいけない。自分の置かれた場所で十字架を負うことこそ、信者の務めだ。それができないなら、私はあなたと絶交する」などという脅し言葉を使って、信者が悪しき環境を離れることを妨げようとすることがある。

あるいは、それと全く同じ論法で、ある信者が、自分の通っている教会が、指導者の誤った牧会によって、聖書に反する異常な方向へ進みつつあることに気づき、その組織を脱会しようと決意したとしよう。すると、別の信者が「騒ぎを起こすな。あなたは神のために自分の十字架を負うためにこの団体にやって来たのに、重荷を負うことを拒否するのか。それは不信仰だ」などの言葉で組織からの離脱を妨げようとすることもある。

このように、信者が他の他者に向かって、その人の持っている権利や自由を行使させず、その人から自主的な決断を奪い、自由になることを妨げるために、「十字架」の概念を用いて、半ば脅迫めいた威圧的な言葉を発することがある。

そのような感化や説得は、集団の中で自己主張を押し殺し、波風立てずに、権威者に黙って従うことを美徳とするこの世的な考えや風潮から出て来るものであって、決して御霊から来たものではなく、聖書の御言葉の正しい解釈でもない。だが、以上のような信者たちは、この世的な善悪や道徳の概念をそのまま信仰の世界にまでも持ち込み、その誤った概念を通して他の信者の生き方に介入し、他者の「誤りを正す」ことが、正しいことであるかのように思い込んでいる。

もし御霊から来た助言であるならば、それは決して人を脅したり、威圧したり、断罪することによって、人の自由意志を侵害し、他者の自主的な決断を妨げることにより、相手を自分の思い通りの結論に従わせようとすることはないであろう。

だが、以上に挙げたような誤解の中にいる信者は、他の信者に正当な権利や自由を行使させず、自己決定権を奪うために、脅しの材料として「十字架」の概念を用いることがある。
 
だから、そうした誤った忠告を受けた時には、彼らの威圧的・断罪的な口調から、それが御霊から来た助言や忠告ではなく、この世的な価値観に基づく偽りの「美徳」に基づくものに過ぎず、その隠れた目的は、目に見える組織や人間関係の序列の中に信者を束縛し、その支配から抜け出せないようにすることにあると、信者は気づく必要がある。

そこで言われる「十字架を負う」という概念は、一見、美徳のように装ってはいるが、よく観察してみれば、その実、人権の不当な抑圧、自由の剥奪、強権的な支配、搾取、不正、嘘、ごまかしなど、様々な悪事を覆い隠すためのカモフラージュにしかなっていないことが分かるであろう。それは堕落した世の側に立って、他者の悪事を容認し、「あなたはその犠牲になれ」と言っているに過ぎないので、そのような考えが神の御心にかなうものであると判断する根拠は聖書にはない。
 
そのような誤った忠告を受け入れれば、信者に待っているのは、悪しき環境にとどまって、無益な損失をひたすらこうむり続けること以外にはない。

だが、神は嘘や不正を嫌われる方であるから、不正な罪人の利益に仕えながら、信者が神のために「十字架を負う」ことは決して両立し得ない事柄である。真に「十字架を負う」とは、この世で波風立てず、自己主張せず、この世の悪事を見ても、見ぬふりを決め込んでこれと妥協して、世に同調して、この世の価値観の一部となって生きることを意味せず、むしろ、たとえこの世の常識や美徳と敵対することになっても、不正な生き方に染まらず、これに加担せず、御言葉に従って生きる道を模索することにある。
 
だが、筆者の観察の結果、この世的な誤った「謙遜」の概念を用いて、信者が他の信者を抑圧しようとする場面は数多く発生して来た。教会という枠組みの中であるか、外であるかを問わず、こうした信者たちは、人間の作り出した序列やヒエラルキーの中に他の信者を組み込んで自由を奪い、神ではなく、人間の教えや思惑に従わせるために、そうした助言を発する。

筆者はこれを「信者が信者を弟子化する」誤ったシステム、目に見えないネズミ講のように、信者間に広がる霊的搾取の体系として警告して来た。

こうしたネズミ講的「弟子化」システムは、牧師制度と同じくらい誤ったものであるが、草の根的に広まっているため、牧師制度のようにはっきりとそれと分かる組織的な形態をとっていない。

しかしながら、弟子化システムを押し広げている信者には共通する特徴があり、この世におけるネズミ講が、日用品や、サプリメントなどのような商品の販売を通じて、ネットワークを広げているならば、霊的搾取のためのネズミ講を作り出す信者たちにも、大概、独自の「売り物」となる目玉商品が存在する。

それが、多くの場合、霊的先人たちの教えなのである。彼らには、熱心に信仰の道を進もうと思っている有望な信者たちに近づいて、彼らをスカウトし、弟子とするきっかけを作るための、様々な「学習教材」のストックがある。それは何らかの霊的先人の感動的な「信仰的犠牲」の物語であったり、あるいは、クリスチャンがより聖潔な信仰生活を送るためのハウツー本のような教材であることが多く、彼らはそうした教材を用いて、それがあたかもクリスチャンの理想や手本であるかのように他の信者に説いて、その教材に他の信者の興味を引きつけることによって、自分たちの助言や忠告に従わせる機会として利用して行くのである。

そうしたツールを使って筆者を「スカウト」しようとした信者は、これまでに複数存在したが、そこには実に数多くのパターンがあった。中には、ウォッチマン・ニーの自己犠牲的な生き様に心酔し、これを他の信者に「理想」として推奨し、霊的に進歩したいという信者の願望(欲)を刺激して、その人の心を支配して行こうとする信者もいたし、あるいは、オズワルド・チェンバースの書いた罪についての威圧的な文章を送りつけるなどして、他者の心に罪悪感を呼び覚まし、その問題解決のために、自分の提示する教えに引きつけて行こうとするアッセンブリーズ信者もいた。あるいは、リンデの病死を美化し、その物語を流布することで、罪悪感や自己憐憫の感情から抜け出せないでいる他者の心をとらえ、自己の団体に引きつけて行こうとするベック集会の信者もいた。

だが、いかに彼らの掲げている「目玉商品」となる教本が、感動を呼び起こす美しい物語の形式を取っており、信者の霊的な進歩に役立つように感じられたとしても、肝心なのは、結局、その物語の提示をきっかけに、こうした人々が達成しようとしている目的は、一体、何なのか、という点である。彼らの目的は、結局、その教本を手がかりにして、自分たちのネットワークに信者を誘い出し、引きつけて行くことに他ならず、結果的には、自分たちの助言や、指導者の思惑にがんじがらめにすることによって、信者の意志と自己決定権を奪い取り、そのネットワークに束縛して行くことを目的としている。それが分かった時点で、こうした人々にはお引き取りいただく他ない。こうしたものは決して御霊の働きではないからだ。

筆者は、神のために信者がすすんで犠牲を負いながら奉仕すべき瞬間が、信仰生活には全くない、と言っているわけではない。キリストご自身が十字架を耐え忍ばれたのだから、キリストに従う者も、神のために自分の十字架を負って従うことが求められるのは当然である。

だが、問題なのは、主のために信者が捧げる奉仕は、あくまでその人が御霊に促されて自主的に行うべき決断であって、そこに他者が介在することはできない、という点である。それが決められる過程も、神とその人との間だけで交わされるひそやかなやり取りであって、人が人に説得して犠牲を要求したり、まして犠牲の内容を細かく具体的に指示して従わせるなど、あってはならないことである。そのようなものは、正しい忠告のあり方でもなければ、まして神から来た助言でもない。
 
しかし、上記のような人々は、信仰者の自己犠牲の物語を手本のように持ち出すことで、それを用いて、本来、御霊が行うべき役割を、人間の助言へとすり替え、自分たちの助言に他の信者を従わせる機会へと変えてしまうのである。

彼らは、そうした例を引き合いに出しながら、巧みに他者を自分の精神的指導の下に組み込んで行く。その教えを彼らは自分自身には適用せずに、他者に犠牲を支払わせるための説得材料として利用する。そのようなことが行われるのは、その先に、そうした犠牲を利用して彼らが建て上げようとしている何かの目的が存在するからである。

ネズミ講では、上部に行けば行くほど、もうけが多くなる仕組みが出来上がっているが、霊的搾取のために作られる目に見えないピラミッド・システムも同じで、できるだけ多くの信者を自らの配下に弟子化し、それらの信者にできるだけ多くの犠牲を支払わせた信者が、教師格のようにみなされて栄光化されて行く仕組みが存在する。

そこで、こうした「教本」を使ってしきりに他人を教えることに腐心している信者の生き様をよく観察してみると、教えている本人は、多くの人たちから尊敬を受けて、まるで権威者のごとく偉そうに振る舞っている一方、その周りにいる身近な人たちは、過度な犠牲を強いられて苦しんでいたり、残酷に排除されていたり、あるいは苦役のような奉仕を強いられ、あるいは死へと追いやられているといった現実が見えて来るのである。こうした効果は、もしその助言や教えが人を解放するものであったとしたら、決して生まれて来なかったものと言える。

つまり、彼らの助言や忠告は神から来たものではないので、それはただ信者が不幸や抑圧や隷従に甘んじて、サタンの奴隷状態を進んで受け入れることを助長するばかりで、決して信者をキリストにある自由にも解放にも導かない。むしろ、抑圧に甘んじることこそ「神の御心」だと考て、不幸な状態から自由になろうとする希求をやめるようにと偽りを吹き込む。こうして、人間の助言にがんじがらめにすることによって、信者が毅然と立ち上がって悪魔に抵抗する勇気や力を奪い取って行くのである。

だから、もし彼らの忠告を聞いて、ピラミッド組織の一員となれば、その信者はとうに抜け出せるはずの不幸な状態から抜け出すどころか、それに抵抗する力を失って、果てしなく無益な苦難の犠牲とされて行くだけである。

しかも、他者に「神のために犠牲を払うように」と教えている人たち自身が、注意深く観察してみれば、ほとんどの場合、自ら「模範」として説いている教えに全く反する生き方をしていることが分かるであろう。

たとえば、20年間、無実の罪のゆえに監獄に投獄されて、ついには他の監獄への輸送の途中でトラックの上でボロ切れのように死んだウォッチマン・ニーの生き様を「殉教」として涙して誉め讃える信者が、自分は神のためにどんな犠牲を耐え忍ぶのか、よく観察してみれば良いのである。そうすれば、毎日のように贅沢な食卓が用意される集会から集会へと飛び回り、信者の家々を訪問して歓待を受け、人前で拍手喝采や感嘆を受けながらメッセージし、美味しい料理や楽しいイベントをどれほど味わったかという自慢話を毎日のように語っていたり・・・といった具合で、自己犠牲などといった言葉からは、はるかにほど遠い、享楽的な生活を送っていることに驚き呆れる場合も珍しくない。

彼らの掲げている「教本」は完全に羊頭狗肉の口先だけの代物で、ただ自分以外の信者や、年少者に向かって特に厳しい禁欲と節制を説き、彼らを服従させるための材料として用いられているだけであり、それを説いている人間自身は、二重性を帯びた享楽的な生き方を謳歌することをやめられないのである。
 
人間は「努力目標」として表向きに掲げている理想が高ければ高いほど、掲げている理想とのギャップは、年々、よりひどいものになって行く、というパラドックスに満ちた霊的法則性が存在するのではないかと、筆者は疑わざるを得ないほどである。

企業の社長室や会議室に飾ってある、お題目と化した社是や社訓のようなものであっても、一応、言葉であるからには、何らかの効力を持っているだろう。だが、人が実態とかけ離れたスローガンを掲げていればいるほど、そのスローガン自体が、まるでその人をあざ笑い、告発するかのように、題目と現実との乖離状態が進み、やがて誰が見ても分かるほどまでに深刻化して行く。

信者の場合も同じで、主イエスが偽善者たちに向かって、モーセ(の律法)があなた方を裁く、と言われたように、以上のような人々にあっては、彼らの掲げている理想自体が、彼らを裁く基準となり、彼らの掲げている「教本」自体が、彼らを告発する材料となるであろう。その教本の内容が、他のどんなものよりも、彼らが達成してもいない目標を達成したかのように偽って、裸の王様のような自己陶酔状態に陥っている罪なる有様を、レントゲン写真以上に克明に万人の前にはっきりと証明するからである。

そのような深刻な乖離状態が起きる原因は、以上のような人々が理想として崇め、奉っているものが、ただ単に人間から生まれて来る美徳であって、キリストご自身の性質ではないからである。

人の目から見れば、道徳的な理想や、自己犠牲的な生き方は、美徳のように映るかも知れない。そのような生き方を全うした人々の話を聞けば、信仰の有無に関係なく、聞いた人は感動的な映画を観たときのように、心の清涼剤を受け取り、一時的に感化を受けるであろう。

信じやすい年代の子供たちや、青年たちは、大人たちから、理想的な人間の生き様について聞かされれば、それなりの感化を受けるであろうし、自分も同じような生き方を目指さなければならないように切迫した思いを持つであろう。また長年、信仰歴を持った大人のクリスチャンであっても、神に従いたいという熱心さがあればあるほど、模範的なクリスチャンについて聞かされるときには、自分の自覚していなかった罪を思い知らされて、襟を正させられるような気分になるであろう。

だが、そのように熱心な人たちの心に呼び覚まされる自己反省の気持ちや、罪責感を、以上のような人々は、その人を真に神に向かわせるためでなく、人間(自分)に依存させ、人間(自分)の支配に従わせるきっかけとして利用しているのである。
    
統一教会がビデオセンターを最初のきっかけに人々を宗教団体に勧誘することはよく知られている。ビデオセンターでは、人々の心に恐怖を呼び起こしたり、罪の自覚を生じさせたり、現状への強い不満や、改革への強い熱意を生み出したり、様々な感情を呼び起こす学習材料が提供され、それによって引き起こされた強い感情が、宗教へ入信させるためのきっかけとして利用される。

たとえば、この世の混乱、悲惨な出来事、理不尽などをたくさん盛り込んだストーリーを見せつけられた人は、居ても立ってもいられない気分になるが、その後で、「世界のこのような不条理を解決するためには、この指導者に帰依することがぜひとも必要です!」などという刷り込みが行われる。

まず最初に、強く世の理不尽を意識させるような問題が提起され、人々にその現状を放置して来たことに対する罪悪感を抱かせるようなメッセージが投げかけられ、それを聞いた人が現状にのっぴきならない深刻な問題があって、それを解決するために自分が何か行動しなければならない責任があるかのように意識した後に、その解決方法は自分たちの団体にしかない、という結論が提示されて、独自の教えに引き込んで行くというのが、ここで使われる心理操作のテクニックである。彼らの使う「教本」は、問題提起と解決方法がワンセットで盛り込まれたパッケージである。(といっても、まやかしの解決なので、これにとらわれた人には、結局、問題だけがいつまでも残り続けることになる。)

カルト被害者救済活動もやはりこれと同じように、キリスト教界の腐敗を訴えつつ、その解決が自分たちにしかないかのように提唱するマッチポンプの運動であることはすでに幾度となく述べて来たが、上記のような誤謬に落ち込んでいるキリスト教の信者たちも、結局、やっていることは、被害者運動や、エホバの証人や、ビデオセンターとさほど変わらないと言える。新興宗教の信者は、勧誘の際には、決まって最初に、この世がますます混沌として、悲しい事件が世に満ち溢れている…などといった、人の心に恐怖と不安を煽る内容を口にすることが多いが、上記のような「弟子化システム」の道具となっている信者たちも、自分たちの提供する視聴覚教材を通して、聞いた人の心に恐れや不安、罪悪感を呼び覚ますメッセージを投げかけ、それをきっかけに、自分たちの提供する助言に人々を依存させていこうとするのである。

たとえば、アッセンブリーズ信者によって筆者に送られて来たオズワルド・チェンバースの言葉も、キリストの血潮による罪の清めよりも、人間の堕落を強調することによって、人に罪悪感を抱かせ、自己反省を促す脅しのような効果を持つことはすでに指摘した。

キリストにあっては、罪の自覚は、ただちに血潮による清めへと結びつくので、真にキリストを信じている人が、長く罪悪感に悩まされることは決してない。また、たとえ信者が現実には年若く未熟な人間であっても、彼は常に神の知恵を求めることができるので、自分の未熟さを苦に思う必要もなければ、それを補うために、経験ある年長者に助言を乞う必要もない。信者はどんなことであれ、自分に不足を覚える時に、いつでも神を仰ぎ、神の助けを乞うことができるので、真に神を信じ、神に従っている信者が「私はこのままでいてはいけない」という強迫観念を長く持ち続けることは決してないと言える。

しかしながら、上記したような「教本」を使う人々は、その教本を通じて、信者に自分の足りないところを数え上げさせ、「自分はこんなに霊的に中途半端な状態ではいけないのだ。もっと神に喜ばれるために、霊的に進歩しなければならないのだ」という不安(もしくは、欲)を呼び起こし、神にある平安から外に引き出してしまう。

神はその贖われたクリスチャンをご覧になって、キリストをご覧になるように満足され、また、神がその人を教えるご計画をお持ちなのに、神が教えて下さる速度、方法、時間に信頼することをせず、信者に「自分はこのままではいけない、早急に変わらなければならない」という恐怖感を抱かせることによって、「もっと進歩しなければ、神に喜ばれない」と錯覚させて、キリスト以外の教えに引きつけて行こうとするのである。

こうして、強烈な問題提起を投げかけることによって、巧みに他の信者の心に穴を開けて入りこみ、罪責感などを足がかりに、キリストご自身ではなく、自分たちの教えに信者を従わせる、ということが実際に行われている。

だから、もしお節介な信者から、一つの学習教材が送られて来たならば、その時点で、信者はこれを断るのが最善であろう。そうしなければ、次から次へと新たな教材が送られて来て、挙句の果てには、気づくと、薬漬けのような状態にされて、その学習教材を送りつけて来た信者が、いつの間にか、あなたに対して「医者」や「教師」のようになって君臨し、自分の命令への絶対服従を求めて来るのを見るであろう。

これらの学習教材には、人の心を惹きつける美しい物語が引用されているかも知れない。だが、そのような引用をどれほど繰り返してみたところで、引用はその人を一ミリたりとも変化させる力を持っていない。

あるいは、その美しい物語を聞かされた人がどれほど涙を流したとしても、ただ外側からの感化だけでは、人を本質的に変える力を持たない。それどころか、むしろ、そうした物語は、聞いた人間に一種の自己陶酔のような魔力的な眩惑を生じさせ、その人の本当の姿を覆い隠し、自分自身の真の状態を忘れさせてしまう効果を持つだけである(=「イチヂクの葉」)。

そのまやかしの効果は薬に大変よく似ており、病気が進行し、絶えず痛みに悩まされている患者であっても、薬を用いて痛みを緩和すれば、束の間、健康になったような錯覚を抱く。だが、痛みが緩和されたことに喜び、それは病が治癒したのではなく、薬による一時的な錯覚に過ぎないという事実を見ずして、根本的な対処を怠るならば、薬の効果の陰で、病は刻一刻と進行し、最後には薬も効かない手遅れな状態が到来するであろう。

霊的にもこれと同じことが起きうる。理想的な生き方を成し遂げた先人たちの人生を、信者がどんなに「美しい教本」のように目の前に並べて、自分もそれに習おうと決意して、熱心な勉強会を開き、信者同士で互いに教え合い、その教本の内容を音読してみたところで、キリストによって人間の霊的本質そのものに根本的な変革がもたらされない限り、人間の内面の「手遅れな状態」は一ミリたりとも改善しない。

人間の霊的な堕落は、どんなに人が外側からの感化によって是正しようと試みても、改善不可能である。神ご自身も、それを改善できるとはお考えにならなかったので、キリストの十字架においてこれに死の宣告を下し、廃棄されたのである。だから、人が内側から変えられるために必要なのは、キリストの十字架の死に同形化されること、その上で、復活の命によって新たに生かされることだけである。

だが、道徳的感化によって人間性を改善することに期待をかけている人々は、自分たちがより良い人間になろうと努力していることは、甚だ良いことに違いないと思い込んでいるため、死未満のところで、改善不可能な人間性を改善するためのむなしい努力を続ける。そして、まるで受験勉強にいそしむように、霊的な教材を用いた各種の学びに没頭し、どれだけ「進歩」したかをはかりあい、自分たちの行っている「応急処置」が、どこまで行っても内面の手遅れな状態を変える力のないもので、むしろ、事の深刻さを覆い隠し、より根本的な治癒を遅らせる目隠しにしかなっていないことを理解しないのである。

だからこそ、彼らが美しい物語を引用し合っては、互いに涙に暮れ、慰め合い、励まし合っている瞬間にも、霊的病はその陰でより一層、進行し、その結果として、現実の彼らの姿は、彼らが題目として唱えている物語とあまりにも遠くかけ離れた、むしろ、それとは正反対のものとなって行くのである。

結局、キリスト以外のものを美徳として誉めたたえれば誉めたたえるほど、人は自己を現実以上に美化するようになり、内側が造り変えられるどころか、より本当の自分自身を見失って、より確信犯的な偽善者に近づき、より高慢で手遅れな堕落に陥って行く、ということが言えるのではないかと思う。

この世の人々が美徳だと思っている様々な性質も、もしそれが信者が直接キリストと結びついて、キリストご自身から生まれて来る性質でなければ、実際には全く美徳と呼べるものではなく、ただ単に人間の堕落した本質から生まれて来る堕落した性質でしかない。

アダムに由来する人間的な「美徳」は数多く存在し、それらはこの世ではあたかも「善」のように受け止められ、賞賛されているであろうが、それがキリストから生まれたものでなければ、それは神の目には、御心に反する悪としてしか映らないのである。だから、どんなに人の目に美しい自己犠牲と映る所業であっても、それがキリストから生まれて来たものでないならば、そのような行為をヒロイズムとして誉め讃えることは、神の目に忌むべき罪であって、信者を誤謬に陥れる大きな危険である。

そうした神によらない人間的な感化にどんなにすがり続けても、その道徳的感化によって人の内面が変化し、改善するということは絶対にない。 

そもそも「教会」という訳語が間違っていると筆者が指摘するのは、このようなことがあるせいで、クリスチャンの信仰生活は、神に従うものであって、人間の教えに従うものでは決してない。それにも関わらず、信仰生活をまるで人間が霊的進歩を追い求めるための学習塾のように考えている人たちは多い。

しかしながら、アダムとエバが蛇にそそのかされた時に利用されたのが、彼らが、神が彼らのために備えて下さった以上に、自分たちの力で霊的に進歩し、「神のようになりたい」と願う欲望であったことを思い出す必要がある。

この世においては、「もっと賢くならなければいけない」とか、「もっと美しくならなければいけない」などと、人の不安(欲)を煽ることが商機として利用されているが、同じように、信者の心に「もっと霊的に進歩しなければならない」という不安(欲)を煽ることによって、これを霊的搾取と支配の関係を打ち立てるきっかけとしようとしている偽りの勢力の働きが存在する。

聖書の動かせない原則は、真の教師はキリストのみであり、信者はキリストにのみ教わり、御霊にのみ聞け、というものである。労働によって人間性が改善できないように、いかなる学習材料を用いた道徳的感化や刺激によっても、人間の内面を変えることはできない。

人を変える力を持っているのは、神ご自身だけである。人が変えられるためには、キリストの十字架の死を土台として、神とその人との間の直接の交わりがなければならないのである。そこにいかなる人間も介入することはできない。にも関わらず、人間が御霊によらずに、十字架の死未満のところで、この世の常識や、人間の考え出した道徳や、教えや、美徳や、刺激や、感化によって、他者を変え、人間性を改善しようとする全ての試みは、聖書に逆らう悪魔的な働きであり、大変、危険である。

キリストにある完全さは、信者の現実の状態がいかなるものであっても、その人に必要な解決を十全に提供するので、信者はキリストにあって造り替えられるために、ただ神の御言葉に全幅の信頼を置いて、安んじる他、何もする必要がない。もし信者が早急に達成しなければならないことがあったしても、それに必要な力と知恵を、神が信者にお与え下さるであろう。

だが、この世と悪魔が人に吹き込む思いは、不安と焦りであって、信者には何かの問題があって、信者自身にはそれを早急に自分の力で何とかする義務がある、というものである。たとえば、信者には霊的な欠陥や未熟さがあって、それを乗り越えるために、信者は神に直接教わるのを待たずして、自らの努力によって学習を積まなければならない、と思わせるのである。

そのような不安や焦りに突き動かされると、信者は、御霊の自然な働きに全幅の信頼を置いて、静かに神を待ち望むことができなくなってしまう。そして、神がその人に御霊を通して実現させて下さる以上に、もっと早く進歩して、自分を正し、神の聖潔に達したいという欲に駆られることになる。それが欲であることさえ、信者には分からなくなり、まるでハウツー本を求めるように、各種の霊的な学習教材に手を伸ばし、それらを薬のように使いながら、ドーピングをするように、飛躍的に自分が高められたかのような錯覚に陥り、自分の霊的状態をあるがまま以上に飾り、本当の自分自身が分からなくなって行く。

そのような状態が長く続けば、いずれ最後にはその信者は自らの学習によって「神に到達した」と宣言することであろう。だが、現実には、その信者の霊的な状態は、チューブだらけにされた寝たきり患者と同じであり、その変化はまやかしであって、その人にもたらされた本質的な変化ではない。

自分の未熟さを強く自覚し、熱心に学習に励んでいる信者の姿は、人の目には良いもののように映るかも知れない。そのようにして自分に「足りない」ものを自覚して、その克服に努めることこそ、謙遜だと人の目には映るかも知れない。だが、実際には、それは神の目の前では、神の完全さに信頼を置かず、人間側からの努力によって欠乏を克服しようとするむなしいもがきに過ぎず、どこまで行っても、その努力は、神の満足される水準に到達することはないのである。

人は自分で自分の霊的状態を「進歩させて」、望ましい道徳的な人間に達しようなどという高慢で不届きな考えを一刻も早く捨てて、自分で神の高みに達するための努力などは一切やめて、生まれながらの自分は処置不可能で手遅れの罪人に過ぎないことを認めた上で、ただ神ご自身に信頼して、キリストの十字架の死に身を委ねるべきである。そうして、「神に明け渡し、神がみこころをなされるのを待つこと」こそ、御心にかなう姿勢だと言える。


真の謙遜とは何か(1)

神の家の建造が可能になるには、まず<..>人を重んじるサタンの働きは完全に断ち切られなければなりません。人の栄光と、自分のために栄光を求める人の欲求は、低くされなければなりません。これは主の御名のための家であり、天と地と地獄の中にある他の名のためではありません私の栄光を他の者に与えはしないと主は言われます(イザヤ書42章8節)

主は常にこれをなさっています。ああ、神聖な領域における、人の肉の恐ろしい現れ! ああ、神に属する領域の中で得る名声! ああ、教会の中で地位を得る喜び! ああ、この肉は自分の喜びと満足を求めて何と頻繁に活動することか! 主は常に肉を激しく打ち、痛撃を加えておられます――それは、彼の家が私たちから出たものの上にではなく、正しい土台の上に建造されるためです。これは私たちに強い感銘を与えます。

「主よ、ダビデのために、彼のすべての謙卑を思い出して下さい」(詩篇132篇1節)。<...>

彼は言います、「私は何と自分を低くしたことでしょう! 私は自分の目に眠りを与えません。寝床にも上がりません。自分の家を楽しみません。私は自分を低くし、乏しくなりました。それは、主のために一つの場所を見いだすためです」。 

主はこの謙卑を要求されます彼は人をこのように砕かれます。それは、家が正しい土台の上に据えられるためです。これが私たちに対する彼の取り扱いの理由です。彼は私たちをひとかどの者にはされません

真に神の住まいとなるには、私たち自身は無でなければなりません。名声を求めてはいけません。印象づけようとしてはいけません。自分の威厳に固執してはいけません。人々よりも抜きんでて、彼らに自分を尊重させようとするようなことを、決して何もしてはいけません。そのようなことは主には通用しません

ですから、それを取り除きましょう。<...>神の目から見て自分がどのような者なのかを認識しましょう。彼はこれを成し遂げられます。ですから、自分の本当の姿とは異なる姿を人々の意識に植え付けて優位に立とうとするなら、私たちは神の家の原則に反することになります。自尊心はすべて捨てなければなりません。認められたいという欲求も、すべて捨てなければなりません。このようなことはみな、一掃されなければなりません。

神の家はそのようなものの上には据えられません。神はそれをお許しになりません。人は低くされます。それ以外のことは、すべて悪魔の働きです。それは、心の中に高慢が見つかった者から来ます。

 オースチンスパークス著、『神の家の諸原則』より

 
真の謙遜とは、多くのパラドックスをはらんでいる。神の目から見た真の謙遜は、この世や、人の目に謙虚と映るものとは、むしろ真逆である。

この世において「謙虚さ」と受け取られている内容は、おそらく、自分が何者でもないと認識し、人前に自分を誇らないことであろう。

特に、我が国のような場所では、自信満々に振る舞う人は、「己惚れている」とか、「思い上がっている」、「生意気だ」などとみなされて、叩かれる風潮がある。そこで、このような風潮の下では、人は他者から目をつけられ、攻撃されたくないばかりに、ことさらに自分を「謙虚」に見せかけようと、しばしばあるがまま以上に弱々しくふるまうし、自己卑下をする。そして、その結果として、いつしかあったはずの自信までも失って、本当に自分を無力だと認識するようになり、ここ一番という勝負の時にさえ、力を発揮できないまでになる。
 
しかしながら、そのように、自分が世から攻撃されないことを目的に、わざと弱々しく振る舞い、自分を弱い人間だと思い込み、そのように表明することは、一種の擬態のようなものであり、真の謙虚さとは全く関係がない事柄である。
 
神から見た謙虚さとは、アダムの命にあっては何も誇らなくとも、キリストにあって自分は何者なのか、神にあるアイデンティティを確固として掴み、手放さないことである。

つまり、「しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである。」と言われたのです。」(Ⅱコリント12:9)ということを確信し、信者が依然として自分の生まれながらの弱さを抱えているように思われる時でも、そこに働く神の強さを確信し、「人にはできないことが、神にはできるのです。」(ルカ18:27)と固く信じて進んで行くことにある。
 
「神にはできる」最も重要な事柄は、キリストにある者を新創造として生かすことである。

「だれでもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。これらのことは、すべて神から出ているのです。」(Ⅱコリント5:17-18)

キリストにあって、贖われたということは、すべての罪から清められており、キリストの新しい復活の命によって生かされていることを意味する。それは信者の古き人のアイデンティティからの訣別を意味する。

こうした約束が与えられているにも関わらず、信者がただ「私は無です、無力です、私は死すべき罪人の一人に過ぎません」と言い続けるだけでは、単なる自己卑下に終わってしまい、神の御業がその人に大胆に表されることもなければ、神の力がその人を通して現れ出ることもない。

だが、このあたりが、今日のクリスチャンがあまりにも大きく誤解している点である。
 
たとえば、「真に神の住まいとなるには、私たち自身は無でなければなりません」という以上のオースチン-スパークスの言葉を、信者がまるで強迫観念のように受け取って、いかに自分は肉の満足を求めていないか、自分を誇っていないか、ということを周囲の信者に証明しようと、いたずらに自分の権利を放棄し、苦しい生活を送るだけでは、単なる自虐に終わってしまうであろう。

そもそも人前に謙虚に映るように振る舞うことと、神の目に謙虚であることは全く異なる事柄である。たとえば、聖書は、断食する時には、人前に見せびらかさないようにしなさい、とか、祈る時には、戸を閉じて隠れて祈りなさい、などと告げている。神に対する謙虚さ、熱心さ、奉仕は、隠れたところですべきものであって、人前でアピールすべき種類のものではない。

だから、「私は神のためにこんなに多くのものを捨てました!もはや肉の誇りに生きていません!」などと言って、信者が次から次へと自分の諸権利を捨てて行くことが、「真の神の住まいとなるために、自分を無にする」ことではないのである。

神にある謙遜とは、そのようなものではなく、「神の目から見て自分がどのような者なのかを認識しましょう」という言葉にもよく表れている通り、キリストにあって贖われた自分自身は、一体、何者なのか、という事実を信者が正しく認識し、これを掴むことである。

そこでは、信者が自分に与えられたキリストの御名の権威を過小評価して、「人にはできないことが、神にはできるのです。」という事実を信じず、「私には何もできない」と言い続けて、神の御業を退けることこそ、謙遜ではなく、高慢なのである。

では、一体、それでは、オースチン-スパークスの批判している、肉の高慢の正体は何なのか?と、問う人もあろう。

神聖な領域における、人の肉の恐ろしい現れ! ああ、神に属する領域の中で得る名声! ああ、教会の中で地位を得る喜び! ああ、この肉は自分の喜びと満足を求めて何と頻繁に活動することか!
 
このような肉の誇り、地位、名声は、ほとんど例外なく、信者の不信仰につけこんで出来上がる教会内ヒエラルキーから発生する、と筆者は考えている。

これまで筆者は、キリスト者がキリスト者を「弟子化する」ことの危険性を、幾度も述べて来た。御霊が教師となって直接、信者に御言葉の意味を教えて下さる以上、信者は人間の指導者に依存しなければならない理由はもはや存在しない。信者間の交わりはあって良く、信者が信者から光を受け、重要な気づきを与えられることも、十分に起こり得るが、だからと言って、信者間に序列や等級を作って、教師と師弟のような関係を固定的に結び、ヒエラルキーを作る必要は全くないと筆者は考えている。そのようなものは地上的な組織の形態であって、エクレシアとは関係のないものである。

しかし、信者を名乗っていても、教師やリーダー格になりたがる野心家は多く、年齢や経験や信仰歴をかさにきて威張ろうとする者もないわけではなく、さらに、牧師制度というものを敷いている集まりは多数存在する。牧師制度を置かない、と公言している団体でさえ、結局、牧師と変わらないリーダーを固定的に作り上げている例は多い。

このように、指導的立場に立ちたがる人間が、教会の中で一定の地位を占めると、キリストの御業は脇に追いやられることになるが、そんな人間が台頭して来るに当たって、必ず、利用されるのが、信者たちの心の恐れや、不安や、自信のなさや、弱点である。つまり、こうした野心家は、他の信者の心の弱さと不信仰につけこんで、これを足がかりに、優しい助言者や、教師のように振る舞いながら、人々を自分に依存させ、自らの地位を教会内で築き上げて行くのである。まず信者の不信仰が前提になければ、こういう肉なる野心家の台頭も決してあり得ない、と言えよう。

肉の誇りというものは、いずれの場合も、人間の弱さや恐れと密接に結びついている。この世のたとえで言えば、あたかも受験競争のようなものである。片方には、偏差値で優秀だと言われている人たちがいて、人前に栄光を受けているが、彼らの「優秀さ」なるものは、もう片方に、「劣等生」と呼ばれる一群が存在しなければ成り立たない。肉の誇りというものは、みなこのように、例外なく、他者との比較に基づいて、誰かを貶めることによって成り立っており、信者が教会内で肉を誇るというのは、要するに、信者が自分よりも弱く、劣って、惨めな信者たちを踏み台にし、自己の栄光の道具とすることを意味する。

だが、問題なのは、そうして嘲られ、踏み台にされ、利用されている信者たちが、あまりにも弱々しく、不信仰なので、彼らは自分たちが野心的なリーダーの栄光の道具とされていることの忌まわしさにさえ全く気づかずに、むしろ、自分たちのような弱々しい群れには、誰か象徴的に導いてくれるリーダーがいなければ、正常な信仰生活を送るのは無理であり、リーダーがいるだけありがたいとさえ思い込んで自ら隷従している点である。

そのようにまで自信を失い、不信仰に目をくらまされ、自立から遠ざかった群れは、自らの人間への依存状態が、人の肉の誇りを助長し、キリストの栄光を傷つけていることが分からない。このような群れの信仰の弱々しさにつけ込んで、人間の指導者が教会内で台頭して来るのであって、不信仰な群れの「霊的民度」の低さにふさわしいリーダーが立てられているのだ、と言えないこともないだろう。

だが、目立ちたがり屋の野心的指導者の肉の誇りはさて置き、そうでなくとも、生まれながらの人は、信者が信仰を通して得られる神の強さが理解できない。だから、信者が信仰によってサタンの枷を振るい落として、本当に力強く立ち上がろうとするときには、決まって、不信仰な人々から、激しい反対が起きて来ることは避けられない。「あれはナザレのイエスではないか」と言って、主イエスを侮った人々のように、「あなたは何者でもないのに、自分に力があると己惚れているだけであり、それは高慢ではないか」という非難が、不信仰な人々から必ずやって来ることになる。

そうした非難は、たとえば、信者が人間の指導者を離れて、真に神だけに従って生きようと自立する時に起きて来るであろうし、あるいは信者が、神の癒しを信じて、無益な薬と手を切って、病から本格的に立ち上がって健康を求めようとする時に起きて来るであろうし、信者がそれまでずっと引きずって来た何らかの弱さや依存状態を脱して、信仰によって力強く立ち上がろうとする時に起きて来るであろう。

信者がキリストにあって約束された自由を手にしようと、それまでの束縛を断ち切って立ち上がる時、必ず、悪魔は自分たちの手下となっている誰かを利用して、「そんな生き方は高慢だ!あなたは己惚れているだけだ!不可能事を目指しているのだ!」といった非難をぶつけて、信者が自由になることを妨げようとして来るものである。

それまで信者の弱さを食い物にして利益を享受して来た団体が、信者の足元に蜘蛛の糸のように群がって来て、何としても以前の依存状態に引きずりおろそうと画策して来るかも知れないし、裏切り者のように非難を浴びせるかも知れない。

その時になって初めて、信者は「自分たちのような弱々しい群れには、リーダーがいるだけありがたい」などと思っていたことが、全くの欺瞞であったことに気づく。リーダーは味方ではなく、信者を弱さの中に閉じ込めておくための束縛の枷でしかなかったのである。だが、それは信者が自ら依存状態を脱しようと立ち上がったときに初めて見えて来る事実であり、もし弱さを脱却しようと望まないなら、永久にその事実は見えないことであろう。

この世においては、自分を弱々しく、無力に見せかけることが、自己防衛の手段となるかも知れない。だが、神は贖われた信者にこう言われる、「あなたはもはや自分は弱い、などと言ってはなりません。私の強さがあなたの弱さを覆うからです。あなたはもはや自分は未熟で、助けてくれる人や、リーダーがいなければ生きられない、などと言ってはいけません。私こそあなたの真のリーダーとして、あなたを正しく導くことができるからです。あなたは自分は年若く力もないので、どうせ大したことはできない、などと言ってはいけません。神があなたの味方なのです。ですから、勇気を出しなさい、あなたはたった一人で地獄の軍勢と対峙する時にも、恐れなく、勇敢でありなさい。私があなたに必要な知恵を全て与えます。約束の通り、私は敵前であなたの頭に油を注ぎ、あなたの杯を祝福します。たとえあなたがこの世を見て、どんなにそこに強敵がいるように感じ、自分を弱く感じたとしても、恐れてはなりません。私の助けはいつもあなたにとって十分なのです。思い出しなさい、私は世に勝ったのです。あなたは私によって贖い出されました。あなたにはもはや再び世から来る各種の脅しに屈しなければならない理由はありません・・・。」

多くの信者たちの目には、信仰生活とは、霊的階段を高みに昇って行くための学習塾のようなものと映っており(そもそも教会という訳語からして不適切であろう)、信者が互いにできないところを教え合い、不勉強を助け合い、知的・霊的成熟に達するための訓練場のように受け取られている。だが、学習塾ならば、テストに合格するまでの間だけ通えばそれで良いであろうが、もし信仰生活を学習塾のようにとらえるならば、信者は一体、いつまでその「塾」に通い続ければ、及第点が取れるのであろうか? いつまで教師や助言者に依存し続けることになるのだろうか?

信仰生活とは、互いに教え合うサークルではなく、教える方は、キリストであり、信仰のナビゲーターである御霊を通して、信者はすでに必要のすべてを受け取っている。自分の中にすでに羅針盤があるのに、他の誰かに道を聞く必要はない。

たとえ信者が年若く、救われて間もなく、まだ多くのことを知らないように思われても、教えて下さる方は、キリストであり、キリストは信者を導く完全な知恵を持っておられる。この点を間違えて、信者が自分は未熟だからと考えて、人間の指導者に教えを乞えば、必ずや、誤謬の中に導き入れられ、後になって、近道を行ったつもりが、とんでもない遠回りをさせられたことに気づくであろう。
 
信者は自らの信仰の歩みに、他の信者から同意や許可を得る必要はない。たとえ人からの理解が得られず、未だ誰も歩いたことのない場所に新たな一歩を踏み出すことになる時にも、もしそれが神から出たことであれば、信者は人の思惑を気にせず、勇気を持って進んで行かなくてはならない。

信仰生活は、信者が、すべての面で自由を得ることと密接に結びついている。それは勝手気ままな放縦としての自由ではなく、神にあって、律法の要求を完全に満たすことのできる自由である。信者は限りなく、神がキリストを通して信者にお与え下さった自由を希求して行かねばならない。それがどんなにこの世の常識からかけ離れ、人間の目にあるいは不可能事と見えたとしても、信者は御言葉に従って、絶えず「人にはできなくとも、神にはできる」と告白し、自分の限界を見ず、神の全能を選び取って進んで行かなければならない。

真の謙遜とは、信者がいつまでも自分を無力と考えて、不自由や弱さや隷従の中にとどまり続けることを意味しない。むしろ、キリストにあって自分は何者とされたのか、その事実を信者が御言葉によってはっきりと掴み、それを自分自身に適用して、絶えず天から地に引き下ろすことこそ、真の謙遜である、と筆者は確信してやまない。