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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

命の御霊の法則に従って支配する―朽ちる卑しいもので蒔きながら、朽ちない高貴な収穫を刈り取る

このところ、筆者は、キリスト者の人生においては、何もかも、信者が信じた通りになるということを、あらゆる機会に確かめさせられている。そして、絶大な権威を持つ主の御名を託された神の子供たちの召しについて考えさせられている。

ほとんどの人たちは、あらゆる瞬間に、自覚せずとも、何かを信じ、何かを事実として受け入れる決定を心の中で下している。たとえば、天気が良ければ、今日は良い日になるだろうと予測するが、TVで沈鬱なニュースが流されたり、どんよりした空を見れば、それに影響されて、今日という日には何も期待できないなどと気落ちしたりする。

信者の場合は、そうした予測が単なる予測で終わらず、心に確信したことが、信仰を通じて働き、事実として成就する。そこで、信者が、どんな状況でも、御言葉に約束されている神の恵みに達するまでは、決してあきらめずに進み続けるのか、それとも、状況に翻弄されて簡単に御言葉に反する現実を抵抗せずに受け入れるのかにより、信者の人生、信者を取り巻く状況は大きく変わる。

神の約束を失わないために、信者が見張り、コントロールせねばならないのは、自分の心である。

「 力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。 」(箴言4:23)

この原則は、信者が自ら主と共に絶え間のない創造行為を行い、常に恵みを天から地に引き下ろす通り良き管となるために、まずは自分自身の心の思いをしっかりと制御しなければならないことを示している。

一言で言えば、神の絶大な祝福を受けるために、信者には口を大きく開けることが求められており、目的をまっすぐに見据え、何が起ころうとも、そこから目を離さず、目的を達するまで進み続ける姿勢が必要となる。恐れに駆られて、自分の口を自分で閉じてしまうことがないよう、自分の心を見張らねばならないのである。

これまで、信者は御霊の命の法則に従って支配する存在である、ということを述べて来た。最近のオリーブ園のオースチンスパークスの連載は、奇しくも、まさに同じテーマを扱っている。

一言で言えば、信者は主の御名により、地上のすべてのものについての決定権・支配権を握っているのであり、さらに来るべき世界においても、これを行使するために、その支配権の使い方をこの地上で学ばなければならないのである。

信者にはアダムに与えられた召しである地上のすべての被造物を管理する権限が、キリストを通して託されている。そこで、信者がキリストの身丈まで成長するとは、信者の内側での信仰の増し加わりを意味し、その増し加わりは、しばしば目に見える結果を伴う。

キリストの身丈にまで成長することは、世で考えられているように、信者がキリスト教組織を拡大するために偉大な福音伝道者となることを意味せず、信者が地上の人生を通して、地上にあるものを、いかに神の御心にかなうように管理し、それによって神の栄光を表すかという度量・力量を指す。

有名なへブル書の文章は、信仰によって、私たちが目に見えない世界から、目に見える結果を引き出すことができるとはっきりと告げている。これはまさに無から有を生み出す創造行為であり、それが信仰の力である。そして、私たちはこのような形で、無から有を果てしなく生み続け、天から相続財産を地上に引き下ろし、増やし、表していかねばならないのである。

「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(ヘブル11:1)

信仰とは、信じる者たちがそれぞれが自らの望みに従って、目に見えない世界で創造行為を行い、自ら望んだ事柄を、事実として実体化させることを保証するものである。

私たちが望んだ事柄が、目に見えない信仰の霊的な世界で働いて、目に見える事実として結実することを、それに先立って保証するものが信仰なのである。

このような信仰のサイクル(無から有の創造)を行うためには、信者は、まず、望む(願う)という行為を行う必要がある。次に、願ったことが、まだ目には見えないうちに、すでにそれが「事実」として自分に約束されており、その成就が約束として保証されていることを、心に固く信じることが必要である。

さらに、その信念に従って、実際に、望んだものを手にするために、これを要求し、獲得するための具体的なアクションに出る必要がある。

筆者から見て、この最後のアクションである「要求する」ということは、非常に重要である。なぜなら、望んだものが実際に成就するまでには、幾多の困難があり、その困難をすべて粉砕・打破して、心に確信した目的にたどり着くために、信者には絶え間なく御言葉の約束に立って、自らに保証されたものを要求し続ける態度が必要だからである。

望んだものにたどり着くまでに、様々な困難につき当たると、たちまち諦めて退却してしまうような姿勢ではダメなのである。

無から有を生み出す行為は、天地を造られた神のなさるわざであるが、それを私たちはキリストの御名を託されていることにより、主と共に自分自身で行う権限を持つ。

御名を託されている信者は、救われた神の子供たちであるだけでなく、神の代理人としての相続人でもある。地上のものの管理を任されているだけでなく、来るべき事柄、来るべき国の管理をも任されている。

だが、信者が未熟なうちは、多くの訓練を経なければならず、その意味で、偉大な相続人であるというよりも、神の僕と呼ばれるべきかも知れない。だが、神の御心は、私たちが僕で居続けることにはない。信者が成熟した暁に、キリストと共に、神の国の跡継ぎと呼ばれるにふさわしい神の息子・娘たちになることにある。

僕、子から成人した息子・娘たちへの成熟は、私たちが神ご自身、キリストご自身とほとんど変わらないまでに絶大な権威を持つ御国の相続人となることを意味している。

しかし、そのはかりしれない意味を理解する者は、この地上には少ないかも知れない。なぜなら、神が人にご自分とほとんど変わらないほどの絶大な権限を与えられたなどということは、人にとってはまことに信じがたい事実だからである。

そして、そのことは、決して人が神と同一になることを意味しない。この世で現人神を名乗り、自らの力で神を乗り越えようとする人々は、決まって悲惨な最期を遂げる。信者にどんなに信仰が増し加わったところで、信者が神ご自身になるわけではない。

とはいえ、それにも関わらず、神は、一人一人の信者に、実際にキリストと同じほど、御子と変わらないまでの高貴な性質を約束しておられ、それに一人一人をあずからせたいと願っておられ、そのためにこそ、惜しみなく御子を私たちにお与えになられたのである。

神は唯一であり、ご自分の栄光を決して他の者にお与えにならない方である。ところが、エステル記において、王がエステルに向かって、もし彼女が願うなら、王国の半分でも与えようと述べたように(王国の半分を与えるとは、王と共に共同統治者になることである)、神はご自分の子供たちに、ご自分と同じような、共同の統治権を与えたいと願っておられる。それほどに、人に大きな期待と権限を託されているのである。

神は、天地創造以来、この目に見える地上の世界を治める役目を、人間に託されたが、それだけでなく、その目に見える世界における支配を、やがて来るべき霊的な世界(新しい天と地―御国)における支配の土台とされようとしているのである。

私たちはこのことをよく理解する必要がある。それによって、どれほど大きな権限を神が人間に付与しようとしておられるか、理解できるからである。

マタイによる福音書の第25章14節から30節までに記されているイエスの語られた有名なタラントのたとえが何を意味するのかは、それによって理解できる。

「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。

早速、五タラントンを預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。同じように、二タラントンを預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた。しかし、一タラントンを預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。

さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』

主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』

次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。:主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』

ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った、『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』

主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまで取り上げられる。この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」

このたとえは、一言で言えば、信仰による創造行為を指している。たとえば、目に見える容姿、身体的特徴、知能などの卑しい体の性質が一人一人異なるように、一人一人の信者に、目に見える形で与えられている資質、才覚、賜物はそれぞれに異なっている。

しかし、それとは別に、それぞれの信者に、からし種一粒のような信仰が、御霊によって与えられている。そこで、この信仰を経由して、信者には今現在、自分が手にしている目に見える賜物を元手に、それを信仰によって何倍にも増やして、天の父なる神に栄光を帰することが求められているのである。

それが「霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。」(ガラテヤ6:8)の意味である。

また、「蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。」(Ⅰコリント15:43)という御言葉の意味である。

後者の御言葉は、死者の復活だけに当てはまるのではなく、無から有への創造行為のすべてに当てはまる原則である(死と復活の原則)。

つまり、このことは、この目に見える世界に生きている信者らが、目に見えるごくわずかな取るに足りないものを元手として、それらを目に見えない信仰の世界を経由させることによって、自ら望んでいるものを、目に見えない世界から、目に見える形で呼び出し(生み出し)、それによって、霊的な収穫を得て、天に栄光を帰することを意味する。

タラントのたとえでは、そのような創造行為を盛んに行い、神の栄光を表すに十分な収穫を得た僕だけが、主人の心にかなう者として、よくやったと褒められるのである。

このたとえを読む限り、たとえば、「私はしょせんどこにでもいる取るに足りない人間に過ぎませんから、信仰などあっても、どうせ大それたことなどできるはずがありませんし、そんなことは初めから望んでもいません」などと言い続けている信者は、まさに、与えられた賜物を全く活用せずに地中に埋めて隠した悪い僕と同じであることが分かる。

あるいは、「私は可哀想な人間です。私はこれまで絶えず運命に翻弄されて追い詰められて来た被害者です。こんな風に絶えず傷つけられ、卑しめられている弱い人間に、一体、何ができるでしょう。私を哀れんで下さい」などと言い続けている信者も、同じである。

確かに、人間一人一人には弱さがあり、この地上の体は、有限であり、様々な制約に縛られている、朽ちる卑しい体である。また、私たちが地上で与えられているものも、ちっぽけでささいなものに過ぎないかも知れない。しかし、少年が差し出した二匹の魚と五つのパンを、イエスが祝福して、何倍にも増やされた時と同様に、私たちは、自分に任されている、朽ちる卑しい、弱くちっぽけなごくわずかなものを使って、これを何倍にも増やし、はかりしれない天の祝福を表すことを求められているのである。

たとえば、あなたが今ごくわずかなお金を手にしているとする。そのお金を、あなたは信仰を経由することなく、地上の必要に費やすこともできるが、そうすれば、そのお金はただ消費されてなくなるだけである。

しかし、あなたはそのお金を、信仰を経由して、キリストの栄光のために、地上の必要に費やすことができる。ただ飲み食いし、買い物をして、自分の必要を満たすためだけに使うのであっても、それをキリストのために、天の栄光のために行うならば、そこで費やしたものは、ただ消費されてなくなるのではなく、さらに豊かな収穫を伴って帰って来るのである。

つまり、そこで消費されたお金は決してなくならない。これは本当のことである。(しかし、そうなるためには、真に信仰によって、神の栄光になるように使わなくてはならない。)

だが、あなたがごくわずかなお金しか手に持っていないときに、この原則を試すのには、まさに勇気と信仰が要るだろう。ごくわずかなお金しか持っていない人は、通常、これを使うことをひかえる。貧しい人たちは、そのようにして、外出も、飲食さえも、最小限度にとどめ、自分が持っているごくわずかなものを消費することを何とかして避けようとする。しかし、そのような姿勢は、まさに地中に一タラントを埋めた悪い僕と同じなのである。

もしあなたに信仰があるならば、自分が持っているごくわずかなもの(それはお金だけでなく、あなたの心、体、資質、才覚、あなた自身であるかも知れない)を、恐れの心から、なくならないように自分で握りしめ、使用を制限しようとすることをやめて、大胆にそれを消費するために差し出さねばならない。

(だが、繰り返すが、それは真に信仰によってなされなければならない事柄であって、たとえば宗教指導者など他人からの命令や、他人の期待に応えるためにやってはいけない。)

この原則を試してみることをお勧めする。信仰によって、消費すれば消費するほど、それはすり減ってなくなるどころか、かえって増えるという原則をあなたは見い出すだろう。

前回、私たちが信仰によって求めるものは、主に対するつけ払いのようなものだと書いたが、私たちは、今、地上にうなるほどの財産があって、はてしない土地を所有しているから、自分は豊かだと宣言するのではない。

それらの目に見えるものが、まだ目の前にない時に、来るべき豊かな相続財産が確かに約束されていることを信じて、これを宣言し、そこへ向かって、信仰によって一歩を踏み出すのである。
 
聖書は、主の御名によって求めなさい、と教えている。私たちが何を求めて良く、何を求めてはいけないか、という具体内容は、聖書にはほとんど書かれていない。主を悲しませると明らかに事前に分かっている悪でなければ、私たちは自分に必要なものを、どんなものでも、大胆に御座に進み出て神に希う自由を与えられているのである。文字通り、どんなものでも。

しかし、目に見える保証が目の前にない時に、その望みに向かって一歩を踏み出すことは、まさに信仰のわざである。ほとんどの信者は、目に見えるちっぽけな財布、さらに、自分のちっぽけな狭い心と相談の上、受けられるはずの祝福を自分で拒否する。そして、偉大な主人の僕であって、はかりしれない御国の相続人でありながら、まるで奴隷のように行動し、あらゆる恵みを自分で拒否した挙句、「なぜ神は私には恵みを与えて下さらないのか。なぜ私の人生はこんなに惨めで不幸の連続なのか。神よ、どうして私を憐れんで下さらないのですか」などと神に問うのである。

それが、一タラントを地中に埋めた男のたとえである。しかし、彼は自分で自分の恵みを制限しているのであって、神が彼を制限したわけではない。神は私たちにそれぞれの分に応じて、十分な人間的な個性や、能力をお与え下さり、さらに財産をもお与え下さった。それが今現在、あなたの目にどんなにちっぽけで些細なものに見えたとしても、私たちは、からし種一粒ほどの信仰を経由して、それらの目に見えているものを何倍にも拡大し、神に栄光を帰するためのはかりしれない富を生み出すことが可能なのであり、その成果を現実に期待されているのである。

そこで、あなたがもし真に豊かになりたいと願うならば、自分が持っているものを、なくならないように握りしめて、誰にも触れさせないように金庫に保管するのではなく、豊かに蒔き、散らさなければならない。それは絶え間ない消費活動であって、そのサイクルの中で、初めてあなたは獲得物を増やしていくことができる。

そのようにして信者一人一人が自分に地上で任された目に見えるものを、目に見えない信仰を経由して、どのように管理するか、どのように収穫を得るのか、得られた成果に応じて、来るべき御国における信者一人一人の権限や分が決められて行くのである。
 
このような地上での訓練を通して、最終的に、御国の相続人(神の代理人)にふさわしい権威、尊厳、支配権を持つことが、父なる神が、信者一人一人に期待されている事柄なのである。

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命の御霊の法則に従って支配する―一羽の雀さえ、父のお許しがなければ、地に落ちることはない。(1)

「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を畏れなさい。

二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」(マタイ10:26-31)

さて、標題につけた「一羽の雀でさえ、天の父の許しなくして地に落ちることはない」という御言葉は、従来の文脈では、神がご自分の創造された最も小さな取るに足りない命までも、最新の注意を払って心に留めて、養っておられるという、神の愛や憐れみの深さを示す文脈でよく引き合いに出される。

しかし、今回は、そういった従来の文脈とは、少し違う文脈で、この御言葉を引用したい。

なぜなら、今回の記事のテーマは、一羽の雀が地に落ちるかどうかは、私たちの采配にかかっているのだという点にあるからである。

神は人類を創造された際、地上のすべての生き物に対する支配権を人間に任された。それゆえに、むろん、神はそれらの生き物の生殺与奪の権を握っておられるとはいえ、現在、それらの生命を直接的に管理する権限を与えられているのは、私たち自身なのである。

創世記の人類創造の場面にはこうある、

「神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。 」(創世記1:26)

そして主なる神は野のすべての獣と、空のすべての鳥とを土で造り、人のところへ連れてきて、彼がそれにどんな名をつけるかを見られた。人がすべて生き物に与える名は、その名となるのであった。 」(創世記2:19-20)

以上の御言葉に示されている「名をつける」という行為は、人間が地球上のすべての生き物の名を支配することで、その生き物の命に対する支配権を握ったことを表す。地球を、神が造られた大きな庭にたとえるならば、人間はその庭を管理する園丁のような存在である。

神はこの目に見える世界をご自分で直接、統治することもできたが、あえてその支配権を人間に委ねられ、人が神の代理としてこの目に見える世界のすべてを適切に支配・管理するよう任されたのである。

しかし、その後、アダムの堕落が起こり、アダムが任された地上における支配権は、堕落したアダム自身と共に、悪魔に渡ってしまった。しかし、それにも関わらず、神が人間を創造された目的はその後も全く変わっていないのである。

堕落して不適格者となったアダムの代わりに、神は人類に与えられた正当な使命を取り戻させるべく、独り子なるキリストを地上に遣わされた。クリスチャンは、キリストの十字架の贖いが、ただ単に、人間の罪の赦しのためだけにあるのではなく、また、贖われたキリスト者が個人的に聖霊に満たされて幸福な生活を送る目的のためだけでもなく、また、福音宣教によって地上にキリスト者が増え広がるといったキリスト教の拡大などという目的のためでもなく、そもそもアダムの失敗によって失われた統治権を人類に取り戻させるためにこそ、キリストが贖いを成就されたことを認識する必要がある。

そこで、今日、神はキリストにあって新生されたクリスチャンに、再びこの地の適切な統治権を任せようとしておられるのである。それによって、人自身が神の御思いの体現者として、山上の垂訓に見るような神の憐れみに満ちた霊的統治を、この世に実現することを願っておられるのである。
 
とはいえ、その統治権とは、目に見えない霊的な統治を指しており、この世に目に見える地上の権力を打ち立てることではない。御霊による統治は、新生されたクリスチャンが、この世に自分たちの名を冠した偉大な宗教組織を作り上げ、その威信を全地にとどろかせ、地球の覇者たろうとするといった方法でなされるのではない。

御霊による統治は、常に取るに足りない一人一人のクリスチャンの心の内側で、目に見えないひそやかな形で、個人的に進行する。それは人の目からは隠された歩みであるが、どんなに取るに足りないように見えるクリスチャンであっても、その内側で、もし御霊による統治が実際に行われているならば、そのプロセスは、天地にとって絶大な価値を持つ。

今日、宗教組織に所属しているほとんどのクリスチャンは、自分に与えられた絶大な御名の権威を知らず、キリストの復活の命に働く偉大な法則性をも知らず、その新しい命の力を行使した経験もほとんどないばかりか、自分に任されている支配権のことなど全くと言って良いほど知らない。

彼らは、まるで次々とチャンネルを変えながらTV画面にくぎ付けになる視聴者のように、数多くの宗教指導者のパフォーマンスに心を奪われ、魅力的な指導者らが、自分たちの代わりに物事を決定してくれ、自分たちの代わりに命令を下してくれるのを受け身に待っているだけである。

このような信者たちは、指導者が与えてくれる哺乳瓶を介さなければ、自分では何一つ聖書の御言葉の意味をわきまえることもできず、何事も決められず、いつまでも天を仰いで、神のお告げや宣託が自分にそれと分かる形でひらめき降りてくるまで、そこを動かないと決めてただぼんやりと待っているような具合である。

彼らは、祈りと称して無数の願い事を告白することはしても、誰かがゴーサインを与えてくれるまで、決して求めている解決が与えられたと心に信じることなく、大胆に立ち上がって自分の人生を自分で決めるために歩いて行こうともしない。彼らの祈りは、言いっぱなしの告白のようなもので、彼ら自身にとってさえ、神がそれに応えられたかどうかは、しばしば全く重要ではないのである。

こうした人々は、クリスチャンを名乗っていても、人間の古い言い伝えに従って生きており、宗教的なしきたりを守ることには熱心であっても、その生き方は、完全にこの世の不信者と変わらず、この世の常識から一歩も外に出ようとはしないため、彼らには、キリストが信者にお与え下さった内なる命の法則性に従って主体的・能動的に生きた経験もなければ、御子の贖いを通して自分に与えられた命の中にどれほど測り知れない神の力が隠されているかといった知識も全くと言って良いほどない。

一言で言えば、今日のあまりにも多くの信者は、自立の力が欠けすぎており、神が与えて下さった新しい命の力だけによって生きた経験自体がないため、その命の性質を知らず、その命の中にどんなに偉大な力が隠されているかも知らないのである。

キリストの復活の命に働く法則性は、それを行使しなければ、発揮されることはない。車を運転するためには、車のメカニズムを知らねばならず、楽器を弾くためにも、楽器の性能を理解しなければならないのと同じように、御霊による新しい命の法則性に従って生きるためには、信者はまずはその命がどういう性質のものであるのかをよく探ってこれを知り、その命を活用する方法を自分で学ばなければならない。

それなのに、ただ天を仰いでいつまでも願い事を祈っているばかりで、自分で物事を考えようともせず、自主的に決断も行動もせず、宗教指導者が決めた古い人間的なしきたりや常識に従って歩み、自分に与えられた新しい命の法則性に従って生きる秘訣を全く探ろうとも知ろうともしない人々のうちには、新しい命の法則性が働くことは決してない。

その命は、あくまで信じる者に個人的に一人一人に与えられているものであり、誰も本人に代わってこれを行使することのできる者はいないのである。従って、信者がいつまで経っても、自分以外の誰かがやって来ては、自分を適切に指導・操縦してくれることを願っているだけの受け身の赤ん坊のような状態では、キリストのよみがえりの命の法則も、御霊に導かれて生きることも、その人には最後まで分からずじまいで終わるであろう。

話を戻せば、宗教界には、常に時代を超えて、キリストの復活の命の統治といったものがあることなど考えもしない赤子的クリスチャンが大勢いるとはいえ、そのような現状とは一切関係なく、神が人間を創造された当初の目的は、今日も、全く変わらず、それはあくまで人間が、地上の目に見える世界およびそこに住むすべての生き物たちを適切に管理・支配する者となることなのである。その管理を通して、神の栄光を生きて地上に表すことなのである。

そういう意味で、「一羽の雀でさえ、天の父の許しなくして地に落ちることはない」という御言葉の意味は、本来の意味から転じて、天の父は、一羽の雀も含め、地上にいる生き物たちを管理する責任と役割を人間に委ねられたので、今やその雀が地に落ちないかどうかは、人間自身の選択と確信にかかっているという意味として受け取れる。
  
それは言い換えれば、キリスト者には、自分の許しなく、自分の支配圏内にあるいかなる命も失われることがないように支えることができるという絶大な権限が与えられていることをも意味する。むろん、地上の命はいつか終わりを迎えるとはいえ、信者は少なくとも御霊によって生きている限り、信者自身の同意なくして、信者の支配する領域にある命に突然の災いがふりかかることなどを防ぐことができるのである。

もしもそれにも関わらず、信者が自分の支配圏内で思いもかけない異変や災いが起きていることを察知したなら、信者の生活のどこかに御霊による支配の破れ目がないかどうかをもう一度、点検することを勧めたい。信者が生活の中で何を最優先しているのか、優先順位が狂い、命の御霊の法則から信者自身が逸れていないかどうかを点検することを勧めたい。

信者の生活には試練や苦難ももたらされるが、ほとんどの場合、それは信者自身が準備が出来た時にやって来る。神は信者に何かの犠牲を求められるときには、事前に信者が心の準備をする猶予を設けてくださる。しかし、悪魔が信者を攻撃するために不意にもたらす災いには、信者が心の準備をする余裕はない。そのような出来事が起きる時には、今一度、信者は、御霊の警告を軽視したりしたことがなかったどうか、十分に目を覚まして警戒を怠らないでいたかどうかを振り返ることを勧めたい。
 
王国という言葉は、王の支配権が及んでいる領域を指し、神の国とは、神の命の統治が及んでいる領域を指す。御霊が信者の内に住んで下さることによって、神の国が信者の只中に来ていることは、信者自身が、御霊を通して働く命の法則を一定の領域に及ぼし、その領域を管理・支配していることを意味する。

キリスト者は、神に対しては子供であり、僕であるが、地上のすべてのものに対しては、一人の王のような存在なのであり、信者には自分の支配領域を治める権限があり、それを適切に治めることを神に期待されているのである。

繰り返すが、キリストの復活の命を内に持っている信者は、神の命の統治を持ち運ぶ存在であるから、圧倒的かつ絶大な支配権を実際に持っているのである。

しかし、この地上に生きている限り、信者の内には二つの命が存在している。堕落した有限なアダムの被造物の命と、神の永遠の命である。

堕落した朽ちゆくアダムの命に従って生きるなら、信者を通して周囲に及ぼされるのは、罪と死の法則だけである。しかし、命の御霊の法則に従って生きるならば、そこには命と平安が生まれよう。信者がこの二つのうちどちらの命に従って生きるかによって、信者を取り巻く領域に、どのような性質の影響が及ぶかが決定する。

信者はこの選択について非常に注意深くなければならない。信者は自分の支配圏内にあるすべての生き物、自分が関わるすべての他者にとてつもない決定的な影響を及ぼす存在だからである。

聖書には「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」(使徒16:31)という有名な御言葉があるが、これが意味するところも、以上と同じように、実は信者の命の支配権の行使という問題なのである。

多くの信者らは、「主よ、家族を救って下さい」と受け身に祈り、天を仰いで、神が自分の代わりに働いて自分の家族を救って下さることを願い、家族に自分自身の霊的支配が及んでいるなどということは考えてもみようともしない。

だが、信者はそのように天を仰いで受け身の祈りを捧げる代わりに、まずは自分自身が、一定の霊的な支配を持ち運んでいること、自分こそが、自らの支配圏内にある全てのものに対して絶大な影響力を行使している主人であって、家族にも当然ながらその影響力が目に見えない形で及んでいることを自覚すべきなのである。

信者は、キリスト者の中にある神の新しい命の法則が、自分自身のみならず、家族にも影響力として及ぶことをまずは心から確信せずに、家族の救いといった問題に答えが与えられることを期待できない。

多くの信者の場合、足りないのは、祈りではなく、その信者の心の確信である。なぜなら、キリスト者が大胆に心に信じたことが、その信者の支配圏内にあるすべての物事に決定的な影響を及ぼすからである。家族とは、信者の霊的統治が及んでいる身近な人々のことであるが、信者自身が自らの統治権をろくに行使する方法も知らないうちに、家族の救いという問題について折るのは、間違いとまで言えずとも、ある意味では、順番が逆だと言えるかも知れない。

ヨセフは、幼い頃からすでに自分が家族の中で極めて重要な役割を果たすことを知っていた。彼の兄たちは、幼いヨセフの大胆な言葉を聞いて、ヨセフは兄たちを差し置いて自分を偉大な人間であると思い違いをして己惚れに陥っているだけだと考えて、ヨセフを憎み、妬んだが、ヨセフは、心の内側で、自分の霊的役割の重要さを初めから知っていたために、それを語っただけであり、彼の言葉は、自惚れから来るものではなかったのである。

それが証拠に、ヨセフは兄弟たちに裏切られてエジプトに奴隷として売られたが、結果的に、ヨセフのおかげで、ヨセフの家族全員が救われる結果となった。その事実は、ヨセフが幼い頃に見た夢は、彼自身が、一家の中で果たす霊的役割の重要さを予見したものであり、それは彼の変わらない召しだったからこそ、彼が奴隷として売られ、家族と離れていた間にさえも、見えない領域で、家族に対して及ぼし続けた霊的支配力があったのである。

しかし、与えられた召しが偉大だったからこそ、それが目に見える形で実現するまでの間、彼は多くの訓練を経なければならなかったのだと言える。本当の意味で、彼が家族に対する霊的支配権を行使できるようになるまでには、それほどの歳月が必要となったのである。
 
このように、キリスト者は、すべての物事が自分の意志に逆らって進んでいるように感じられる時にも、霊の内側では、御言葉に基づき絶え間ない創造と支配を行うことができると信じて進んで行かなければならない。

つまり、この世の有様がどうあれ、信者は、それとは関係なく、朽ちゆく不完全で限界あるものの只中から、命の御霊の法則によって、神の満ち足りた命の力を働かせて生きることが可能なのであると信じねばならず、その気高い目的が自分に与えられていることを確信し続けなければならないのである。

その信者が心の中で何を思いを巡らし、何を現実だと信じるかによって、その確信が信者を通して、信者の霊的支配が及ぶすべての領域に決定的な影響を及ぼす。

もしも信者が、目に見える有様に気を取られ、その限界を現実として受け入れ、罪と死の法則に従って生きるなら、信者の支配圏内にあるすべての生き物、人々、物事の運命にも、同様の影響がもたらされ、その信者の誤った選択に、信者の支配圏内に存在するすべてのものが巻き込まれるであろう。

そういう意味で、「一羽の雀」を天にはばたかせるのか、それとも、地に落とすのかは、常にキリスト者自身の選択によるのだと言える。なぜなら、神がその権限を人間に委託されたためである。

むろん、すでに述べた通り、地上に存在する命あるものはすべていつかはその生涯を終えることになるとはいえ、それでも、信者は、自分の管理している領域においては、決して自分の許しなしに、どんなに小さな命でさえ地に落ちることはないように支える力を持っていることを、まずは信じなければならない。

そして、もちろん、ここで言う「一羽の雀」とは、文字通りの雀だけを指しているのではなく、信者の支配圏外にいるすべての生き物、人々、物事、環境を象徴的に表している。これは信者が自分で世話をしたり、心にかけて管理している自分に属するすべての命と環境のことを指しているとも言える。もしくは、主イエスが「一羽の雀」よりはるかにまさる存在であると言われた信者自身をも指していると言えるだろう。

多くの信者は、そのようにして自分自身で環境を創造するというよりも、むしろ、自分が環境に創造されて、不意の出来事に常に翻弄されて生きているような按配であるが、本当はすべてが逆なのである。信者が環境を統治しなければならず、それが正しい順序なのである。

一言で言えば、神は人間に対して非常に高貴で高い目的意識を持っておられ、私たち自身には思いもかけないほどの人格的完成を願っておられ、それゆえ、非常に高度な責任と絶大な影響力の伴う重大な管理を私たちに任せようとされたのである。

私たちは、神が人間に望んでおられる御霊による命の統治の完全な行使が、どれほど高い成熟度を必要とするものであり、重い責任が伴うものであるかを、おぼろげながらに想像することはできよう。

だが、生きている間に、その支配権の行使に相応しいまでに、キリストの身丈まで成長して到達することは、すべてのクリスチャンのミッションなのである。

キリストの復活の命は、統治する命であるから、その統治の力を働かせて、自分の関わる圏内すべてに及ぼすことができることを、クリスチャンはまず知らねばならない。そして、アダムの朽ちゆく魂の命と、キリストを通して与えられた神の永遠の命と、どちらに従って生きるのか、自分自身で決めねばならない。

そして、もし命の御霊の法則性に従って生きると決めたなら、これまでのように、恐る恐る自分の願い事を神に申し上げたり、不安の表明でしかないような祈りを言い表すといった生き方から、大胆に、望みを確信して、自ら命の支配権を行使するという生き方に転換する必要がある。

しかしながら、それは単純な道のりではない。その方法を学ぶために、信者はしばしばヨセフが辿ったような苦難の道のりを辿らねばならない。

順境の時に、大胆な願いを告白し、それを信じるのは、誰にとってもたやすいことで、そのためには信仰など要らない。しかし、すべての物事が閉ざされて、絶望的で、困難に見える状況の中で、神の恵みの約束に堅く立って、目に見えない命の御霊の統治を大胆に働かせて生きることには、信仰が必要である。

信者に期待されているのは、そのようにして、ただ信仰によって、任されたものを管理し、この世の卑しい朽ちゆく有限なものを通して、見えない高貴な永遠の収穫を得ることを通して、神のはかりしれない恵みの大きさ、完全さ、命の豊かさを、目に見える形で世に実現・証明して行くことで、神に栄光を帰することなのであり、それが、地上でクリスチャンに任された、神の喜ばれる奉仕なのである。

あなたがたが地上つなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。

「はっきり言っておく。あなたがたが地上つなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18:18-20)

今、一つの絆を永遠に解き、一つの絆をつなごうとしている。これは厳粛な瞬間である。主の御前で永遠に断ち切れる絆と、再び結び合わされる絆がある。

断ち切るべきものを断ち切って、初めて回復される交わりがある。今、筆者は命ではなく、死に通じる扉を永久に塞いでしまうとしている。神の祝福が失われた枯れ枝のような交わりを幹から丁寧に取り除き、木を剪定して、死んだ枝を焼却炉に投げ込もうとしているのだ。

しばらく会うことのなかった信徒と久々に交わりを持ったが、困難の最中に回復された絆は、さまざまな嵐を耐え抜いて残ったものなので、頑丈だ。

筆者は日曜礼拝などに全くこだわるつもりはないが、これから素朴な日常生活を送りながら、二、三人の集まりが、徐々に拡大して行くだろうという気がしている。

筆者が専門と関係のない様々な仕事をしていた頃、地獄の一丁目のような職場でさまざまな人と出会った。学歴も高くはなく、社会層としても、そう高くない出身の人々に数多く出会い、彼らと一緒に働いた。

そういうとき、何気ないことで、助言ともつかぬ助言を、筆者がその人たちに向かって発したことがある。

何年も経ってから、その人たちが、筆者から受けた忠告を、別れた後も大切に守り続けていることを教えてくれた。彼らは、「あの時、ヴィオロンさんがこう言ってくれたから…」と言って、ずっと筆者の教えた法則を大切にし続けて生きたというのである。

ただ法則を知らないがゆえに、迷い続けている人が、法則を掴みさえすれば、生き方が安定することがある。筆者が発した何気ない言葉は、彼らにとっては、まさに必要な光だったのだと思う。

その頃、筆者には助言をしているというつもりはなく、ただ自分自身が生きて掴んで来た法則性をよかれと思って彼らに伝えただけである。だが、その後、伝授された法則を守って生きるのか、それを無用な忠告と退け、侮って生きるのかで、人の道は分かれた。

こちらの言い分を重んじて耳を傾けてくれる人たちには、関わる価値がある。華やかな学歴や教養に乏しくも、どんなに貧しく社会の底辺に位置している不安定な人々のように見えたとしても、忠告に耳を傾け、重要な法則に逆らわないで、これを掴んで取り入れる人たちは、時間と共に着実に生き方が進歩して行く。

それに比べ、自分は賢い、誰からも何も教えてもらう必要はないと考えている高慢な人たちは、何年、関わっても、全く進歩がない。彼らは恵まれた境遇にあるため、いい加減な生き方をしていても、それが何となく成り立ってしまい、試練を通して人間性が練られることも、変化することもなく、ただ同じところを堂々巡りし続ける。地位や肩書や財産などがあるので、かしづいてくれる人たちはたくさんいるが、それによりかかって生きているため、人格がいつまでも成長が止まったまま、幼稚で、未熟である。はっきり言って、そういう人との関わりは退屈でしかない。

彼らは貴重な助言も、侮り、罵倒し、逆らい、踏みつけて来るだけなので、助言する価値も、関わる価値も無い。どんなにクリスチャンを名乗っていても、そのような怠惰な人々との関わりは、交わりと呼べるものではないので、枯れた枝のように、木から剪定して行き、みずみずしい葉のついた生きた枝だけを残すべきである。

もちろん、枯れ枝を切り取って焼却することは神のなさるわざなのだが、それでも、時には、私たちが自分で剪定しなければならないこともある。私たち自身の意志表示も、やはり重要になって来るのだ。枯れ枝なのに、自分は生きていると主張して、他の枝の成長を妨げるような枝は、やはり木から取り除かねばならない。

さて、第一の訴えに付随して、何と段ボールひと箱分以上の資料が出来上がった。これも複合的な訴えなので、必要部数をすべてそろえると、当然、それくらいの分量にはなるのだ。ひと箱では運ぶのに分量が多すぎるため、3箱くらいに分けた。

訴えの中のあるものは約180頁、証拠だけで70以上もの番号がふられている。一セットゆうに400頁くらいになるだろうか? 

しかも、これは第一弾に過ぎず、続編が待っている。家庭用印刷機のレベルを超えた仕事だ。我が家の床も、ちょっとした私立探偵の事務所風になっている。

さて、この書類の山をどうやって裁判所へ持ち込むか思案し、台車があればちょうど良いのだが・・・と思いめぐらしていると、夜間、交わりから車で戻って来た際、ちょうど駐車場に車を止めると、すぐ真横のコンクリートの塀に、どうぞ使って下さいと言わんばかりに、使い古したキャリーが立てかけてあった。

まさかそんな都合の良いことが現実にあるだろうかと目を凝らすと、本当だった。駐車場は個別のスペースで区切られているため、間違ってそこにこんなものを置いて行く人がいるとは思えない。しかも、そのキャリーはほどよい古び具合で、持ち主が大急ぎで取りに戻って来るような代物ではない。そこに捨てられた可能性も十分に考えられた。

これはまさに筆者のために特別に用意されたものであるとしか思えなかったが、一体、誰がそんな親切を? 筆者に今これが必要だと知っている人はいるはずないのだが。

その時、「主がお要りようなのです」

という言葉が脳裏をよぎった。

まさにエルサレム入場の際の子ろばのことが思い出された。

これは主だ、としか思えないありがたいタイミング。ありがたく数時間、お借りして、またもとの場所に戻しておくことにした。必要なら、持ち主が取りに来るだろうし、捨てて行ったのなら、取りに来る人はいまい。

似たような具合で、必要のすべてがそろった。細かな道具の一つ一つに至るまで、目指した日にまでの間にすべてが供えられた。

このようにして、このところ、この地上は、まるで筆者のための共産主義社会になったような具合だ。決して他人の所有物の概念を否定する考えを述べるつもりはないが、キリスト者にとっては、誰かが地上に引いた境界線や、誰かが独占的に蓄えた私有財産などといった区分は、事実上、ないようなもので、すべてのものは天地を造られた神の所有なのである。そこで、神の子供たちに必要なものは、すべて天から適宜、供給される。

復活の命を生きて体験した人は、筆者の言わんとしていることを理解してくれるだろう。キリストの復活の命は、神の非受造の命であって、どんなものにも依存しない、死を打ち破った命である。そこで、この命が、持ち主のために、必要のすべてをおのずから供給する。

天の経済は、キリスト者の必要に応じて伸縮し、拡大・縮小する。

筆者は、これは神の喜ばれる正しい仕事なのだということを、あらゆる機会に痛感している。筆者はこの仕事をただ自分の必要、自分の権利を守るためだけにやっているのではない。聖書の神が生きておられ、今日も神の子供たちを十分に守って下さり、すべてのことについて、必要な解決となって下さり、ご自分の栄光を信じる者に存分に表して下さることを、公然と生きて世に証明することが、私たちの責務であり、証なのだと考えているからこそ、それに取り組むのである。

この方を信じて生きることが、人間にとっての喜びであり、最高の満足であり、どんな場合にも、その信仰は決して失望には終わらないことを、生きて証明し続けることが、私たちの責務なのである。そして、神はその期待に十分に応えて下さることがおできになる方である。

敵の要塞はエリコの城壁のように崩壊する。多くのことは書かないが、結果が目に見える形で現れるとき、何が起きているのかを人々は理解するだろう。

筆者が今手がけているのはすべて弁護士が書くような書類ばかりであるが、そういうことも、一般人でも工夫すれば十分に対応できる。バッハの『シャコンヌ』をヴァイオリンで満足の行くように弾くことに比べれば、書類作成などはるかに易しい。

筆者はある会社に勤めていた時、100頁近くもある就業規則を外国語に訳したことがあった。そこにはネイティブスピーカーもいたが、誰一人その仕事に着手する者も、完遂できる者もいなかった。業者に依頼すれば20万円以上に相当する翻訳だと言われた。それを他の仕事と共にやった。まるで頭髪の長さまで規定した校則のように、社員をがんじがらめにする意味のない規則ばかりではあったが、その時、そのように苦労して書類を作るのならば、会社を去った後も、自分の人生に残るもっと価値のある書類を作るべきだと心から思った。

今、やっていることが、それに似ている。誰のためでもない、自分のための権利の主張文である。だが、その書類では、筆者一人だけの権利ではなく、そもそもキリスト者の権利とは何か、天と地において、人とは何者なのか、という問題が提起されている。

たとえば、信教の自由、思想信条の自由という言葉が、私たちが様々な紆余曲折を経ながら、まことの神を探求し、神と共に生きる道を模索し続ける求道者としての魂の遍歴を十分に優しく認めてくれている。人は神と出会うために、また神に従って生きるために、必ずしも平坦ではない様々な試練の道を通らねばならない。だが、その道が平坦でないからと、これを罵倒できる人などどこにもいはしないのだ。

神は、私たちに「求めなさい」と言われる。あなたたちは何も求めないから、手に入らないのだと。多くの人々は、それを聞いても、自分は富んでいて、豊かで、何も乏しいことはなく、神の御前で打ち明けるべき弱さや、問題などない、と考えているため、何も神に求めようとはしない。求めるものは現世利益だけで、それさえも、つつましく分相応に見えるように、自分の規定したスケールの範囲内でしか求めない。常に周りを気にし、人並みの生き方をしてそこから逸脱しないことにしか目標がないのである。

彼らはあまりにも神と人との前で虚勢を張りすぎているため、自分の弱さを認めず、自分の人生の尺度を自分で規定してしまい、神の御前に素直に問題を打ち明けることもできず、自分の人生を打ち破るようなスケールの恵みを求めることもない。自分のために何も要求しないし、自分はその恵みに価しないと考えている。だから、何も与えられないのである。信じないから、何も与えられないのである。

それに引き換え、主張文を書くことは、自分の正当な権利の行使であり、要求である。自分はそれに価すると信じなければ、要求することはできない。地上でさえ、人の訴えを裁判官が取り上げ読み、審議するのだから、天に出すべき訴えというものも、当然ながらある。神は正しい方であり、真実が曲げられるようなことをなさらない。寄る辺ない人々の訴えに喜んで耳を傾けて下さる。

だから、地上で書類の山を作るのも必要だが、まして重要なのは、天に向かって訴えを出し続け、父なる神に向かって子としての権利を要求し続けることだ。

時に、信者が本気で神にぶつかり、扉が開けるまで懇願し続けなければならないことがある。答えが遅いように見える時もあるかも知れない。だが、信じてよい、神は我が子の訴えに喜んで耳を傾け、これを取り上げて下さると。神は信じる者たちの願いを喜んで受けられ、彼らの信仰に応えることを、ご自分の栄光とみなして下さる方である。


神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。死人を葬ることは、死人に任せなさい。

どのようなことでも、自分自身でやってみることに価値がある。最初は抵抗感を覚えるような難しいことでも、少しずつ、取り組んでいるとコツが分かって来る。訴状もいわば作品の一つのようなものだ。
  
ものを書くのは、ひたすら考察と推敲の繰り返しである。当ブログの記事も、かなりの回数、書き直している。一度書いたものは二度と書き直さないという人々もいるが、筆者はとにかくひたすら文章を推敲するタイプだ。まして公に出す文書は、それにかける手間暇はすごいものがある。

その作業をこれまでずっと着実に果たして来たからこそ、自信を持って、どんなことでも自分でできると断言できるのだ。これは主イエスがついておられるがゆえの自信でもある。自分自身により頼まず、神により頼んでいるからこそ、言えることなのだ。

筆者は、当ブログを迫害して来た暗闇の勢力の手口を、何年間もかけて研究した結果、その手口には、ほとんど定型化された複合的なパターンがあることを学んだ。恫喝による口封じ、誹謗中傷による圧迫、個人情報の暴露の脅し、猜疑心を植えつけることによる仲間との分断工作、訴訟で反撃しようとすれば、スラップ訴訟だとわめき、権利を主張することを何とかして諦めさせようとすることなど・・・。

こうしたことは、ブラック企業が労働者に権利をあきらめさせようとする時に使う手口と非常によく似ている。だが、筆者はこうしたやり方にも、毅然と立ち向かう術を学んで来た。それ通して、卑劣な訴えにどう立ち向かうかという具体的な方法論を学んで来たのである。学生時代のディベートで鍛えた能力に加え、悪徳社労士、悪徳弁護士のような人たちにも根気強く向き合い、代価を払って、どのようにして自分の権利を守るかという具体的な方法を学んだ。

今やネトウヨが弁護士に大量に懲戒請求を出したりしている時代であり、人権そのものを敵視し、これを葬り去りたいと願っている勢力が蠢いている。しかし、そのような考えにチャンスを与えてはいけないのだ。弁護士を攻撃することの背景には、人権への敵視が潜んでいる。だが、卑劣な訴えには、弁護士の方も黙ってはいない。何百人ものネトウヨに毅然と反撃を開始しているし、DHCのような巨大企業からスラップ訴訟を起こされた弁護士もこれに立ち向かい、今やDHCを被告席に座らせていると聞く。 

パウロは空を撃つような拳闘はしないと言ったが、筆者も負けるような戦いはしない。だが、努力なしに勝利できる戦いなど何一つない。実践の積み重ねでしか、手応えを掴むことはできないのだ。従って、脅されたからと言って、すごすごと引っ込んで取引に応じて妥協などしていれば、そんな臆病な態度では、初めから何一つ学習できない。まして殉教などを語る資格は全くないと言えよう。
  
さて、今回の訴えの中には数々の不法行為に加えて、著作権侵害も重要なポイントとして含まれるので、記事にまとめるために推敲しようと一旦、非開示にしていたコラム欄も公開しておきたい。

当ブログに長年敵対しているブログだけでなく、匿名掲示板でも多数の剽窃が行われている。掲示板のコメント投稿者らの中には、ネタ探しのためだけに、様々なブログを訪問し、出典も示すことなく、文章を無断で剽窃して行く者たちがいる。

剽窃者らは、ブロガーが最も手間を割いて書いた肝心な記事には見向きもせずに、ただゴシップ探しのためだけに様々なブログを訪問している。そして、わずか1~2秒ほどで、前後もわきまえずに、短い文章をコピペして盗み取り、別な場所へ貼りつけるために去って行く。そういう読み方を、ブログの作者は全く望んでおらず、それがブロガーへの敬意でもない。

法律上、出典を示せば、ある程度の引用は認められているが、本文のほとんどがコピペのような文章は、引用の範疇には含まれない。他者の画像や文章の出典を示さずに引用することは、剽窃に当たり、それだけで違法行為として、後日、責任追及がなされる可能性がある。

そこで、当ブログの文章を許可を取らずに引用することは控えていただくようにされたい。匿名掲示板だから、他人の争いだけを高みの見物できると高をくくっていると、思わぬところから足をすくわれることもありうる。

権利侵害を受けている当事者には、被害を語る権利があり、訴えられている人間にも、合法的な範囲で自己弁明する権利がある。もし合法的な範囲を超えて、反論をすれば、当然ながら、その訴えは認められず、かえって罪として追及されるだろう。

だが、当事者でなく、裁判官でもないのに、どっちつかずの立場から、人を裁き続ける「無数の匿名氏」らの罪も非常に重いと言えよう。もし真に「匿名氏」として非難されるべき存在があるとすれば、それは、当ブログではなく、むしろ、自分は何の苦労も責任も負うことなく、最低限度の自己紹介もなしに、ただ他人の文章を無断でコピペして、評論家然と、知ったかぶりで物事を論じ、部外者にも関わらず、当事者をよそにして、他人の人生を見物材料として高みの見物し、裁判官でもないのに、どっちつかずの立場から、人々を裁き、争いに火に油を投じようとしている人々であろう。

誰からも被害を受けていないにも関わらず、自分が審判者となって他人の争いに首を突っ込み、事態をよりこじらせるような投稿を行い続ける人々は相当に悪質であると言える。

また、人が自分で公開していない個人情報を無断で収集し暴露することも、プライバシーの侵害であり、不法行為に当たる。どんな理由があっても、本人が公開していない個人情報を第三者が無断で暴き、公表することは許されない。

ところが、牧師の中にさえ、当ブログを「匿名氏」と呼んで、実名暴露せよといきり立つ暴徒のような人々に暗黙の賛同票を送り、彼らの怨念を煽り立て、犯罪行為に焚きつけようとする者がいる。それはカルト被害者救済活動の筆頭に立ち、実際にこれらの暴徒たちに筆者の個人情報を提供したと見られる村上密のような牧師だけではない。

たとえば、以下の記事を読んでいただければ分かるように、筆者と面識のない牧師でさえ、そのような考え方に暗黙の賛同表を送っているのである。

死人を葬ることは死人に任せなさい―肉による情愛や、弱者救済を口実に、エクレシアにこの世を公然と持ち込むプロテスタントの偽牧師たち ―

異なる意見を持つ人々がネット上で議論することは大いに奨励されて良い。だが、平和な議論と、他人が公開していない個人情報を暴露したり、暴露を助長するような呼びかけを行うことにより、恫喝や権利侵害によって反対意見を力づくで封じ込めようとする行為は、厳に区別されなければならない。

実名でブログを書くかどうかは、あくまで本人の判断であり、ペンネームでブログを記すことは何らの不法行為にも当たらない。個人情報をどこまで公開するかは、あくまで本人の自主的な判断によるのであって、それは他人がとやかく言える問題ではない。実名を出さないから無責任だとか、逃げているなどといった主張も成立しない。

特に、現代社会ではセキュリティ上の観点から、一人一人が慎重な決断を求められており、世間でも、様々な犯罪事件の被害者が二次被害の発生などを抑えるために、個人情報の公開を自ら制限することは当然視されている。

にも関わらず、キリスト教界の牧師たちには、以上のような認識がまるで欠けているのである。
この教界には、表向きには、弱者を助ける優しい正義の味方のような顔をしつつも、実際には、自分よりも目下と考えている信徒らから、ほんの少しでも自分の論を批判されただけでも、相手を赦すことができない思いになり、生涯をかけてその相手を恨み続け、相手が一般信徒であっても、個人情報を暴露するなどして、何年間かけてでも徹底的に報復せずにいられないという、ヤクザ顔負けのような牧師たちが跋扈している。

自分が信徒に批判されて、少しでも面子を傷つけられたと感じると、一人を寄ってたかって大勢で痛めつけ、個人情報を暴き、徹底的に辱めようとする。むろん、相手が女性であろうと、一般信徒であろうと、一切の容赦もデリカシーもない。さらに、自分の手を汚さないために、一見、自分の教会とは無関係に見える信徒を焚き付け、手先のように利用して、復讐を加える。

しかも、その執念深さたるや、まさに異常のレベルである。些細なことで10年間も誰かを恨み続ける。法律には時効があるのに、彼らはその時効さえ無視し、法も無視して、私刑を加える。たった一件のコメントでさえ、頼まれても削除に応じない。一旦人を憎むと、恥知らずな嘘のプロパガンダを終わりなく流布して、徹底的にその人の人生を滅ぼそうとする…。

世間は、これがキリスト教の宗教組織の醜い現実の有様であることをよく見れば良いだろう。筆者の知り合いには、他宗教の信者も数多くいるが、自らの知人に対して、このような陰惨な復讐劇のような光景が繰り広げられているキリスト教界を見て、これに人々は少しでも近寄りたいと考えるだろうか。このような悪しき、忌むべき牧師たちを抱える宗教組織に自ら関わりたいと、人々は考えるだろうか。

むしろ、筆者に対して彼らが行っている仕打ちを見れば、筆者でなくとも、このような業界からは、誰しも「エクソダス」を唱えるのが当たり前であろう。当ブログで批判されて向きになって言い返している牧師や信徒たち、信徒の個人情報を言いふらす信徒、嘘八百を垂れ流して信徒を傷つける信徒、掲示板で騒ぎを拡大している信徒らを見て、こういう人たちに関わりたいと思う人は、誰もいないだろう。要するに、カルトを批判している人たちが、一番カルト化しているわけで、この光景を見ただけで、この宗教は何かがおかしいと世間は考え、近寄りたくないと思い、逃げ去って行くのは当然であろう。

こんなものが真実なキリスト教徒の姿と言えるはずもない。一般人以上に異常である。このような人々の出現は、キリスト教の名折れでしかないと、筆者ははっきり言っておきたい。そして、このような人々が、他の宗教団体を敵視して、正義漢ぶって争いをしかけるなど、百年早いと断言する。

だが、こういうことが起きたのも、牧師制度が既得権益となり、政治家と同じように世襲制となり、利権そのものと化していればこその事態である。牧師制度などというものが導入されたこと自体がとてつもない誤りであり、牧師制度が徹底的に腐敗すると同時に、キリスト教界全体が腐敗し、完全にセルフで塗り固められた搾取と虚栄の世界と化したのである。

筆者は生涯の終わりまでキリスト教徒であり、聖書への信仰は失わないつもりだが、こんなにも醜い宗教組織は、聖書とは何の関係もない、堕落した世界でしかなく、関わりたいとも思わない。世間はよくよくこうした事件を通して、この宗教の何たるかを学ぶことだろう。筆者は幼い頃からキリスト教界を知っており、通りすがりの人間としてコメントしているわけではないことも重く見られると良い。

牧師たちは自教団・自教会内での地位さえ守れれば良く、そのためならば、どんな手段を使ってでも、信徒の口を封じれば良いと考えているのかも知れないが、そのようにプライドと自己保身がすべてとなった姿が、客観的に見て、あまりにも幼稚で醜く忌まわしいものと映り、キリスト教の評判をさんざんなものにしていることに、自分で気づいていないのである。

安倍政権と同じだ。内実のない者が職務的に高い地位に就き、自分よりも賢明な者たちに横暴な権力を振るっている。だが、偉そうに君臨していられるのは国内だけで、世界からは呆れられている。要するに、自分を客観的に見る能力が欠けているのである。

かつて筆者の前で、プロテスタントの牧師の未熟さ、幼稚さ、傲慢さについて思いの丈をぶちまけ、非難の言葉を残して、カトリックへ去ると述べた信者がいた。筆者は、プロテスタントに絶望してカトリックに去ることが正しい選択だとは思っておらず、キリスト教を改革して母性原理を補うべきと唱えるペンテコステ運動をも支持しないし、禅や、ニューエイジ思想を取り込むことにも賛成できず、統一教会やその他の異端を支持するわけでもない。

筆者はカルト団体を支持しないが、他のカルトの犯した罪がどうあれ、今日、これほどまでに徹底して腐敗堕落したキリスト教界は、そもそも他宗教を非難できる筋合いにはないと思う。まずは牧師制度という階級制度を撤廃すればよろしい。牧師制度こそ、諸悪の根源であり、どの異端よりもさらに悪質で、完全に間違った制度であると、声を大に言わざるを得ない。
 
カルト被害者救済活動の暴徒のような信徒を生んだのも、牧師制度であり、キリスト教界を声高に非難し、憎しみの言葉を発し続けているKFCを生んだのも、牧師制度である。この制度こそ、まさに信徒同士を戦わせるすべての悪の根源になっていることが、なぜ多くの人々には分からないのだろうか。

牧師制度には聖書的な根拠がない。使徒パウロは信徒らから献金を受けとることができる立場にあったにも関わらず、何が何でもその権利を使うまいと考えて、身を粉にして働いた。初代教会には、信徒からの献金で生計を立てたような宗教指導者は、誰一人として存在しなかった。

今日の牧師たちは、羊を食い物にする強盗であり、霊的な中間搾取者階級でしかない。彼らには自分たちの利権だけが大切なのであり、信徒は野望を実現する手段でしかない。だからこそ、彼らは思い通りにならない信徒に徹底的に復讐を果たし、信徒を闇に葬ろうとするのであり、このような醜い精神は、悪魔から来るものであって、どこをどうやっても聖書に基づいて生まれて来るものではない。

だからこそ、当ブログでは、彼らはグノーシス主義者だと、再三、言っているのである。筆者がこの論稿を書いているのは、今日のキリスト教界が、全く聖書に基づかない別な教えによって陥落されていることをはっきりさせるためである。

誰が本当のキリスト教徒であるのかは、神ご自身が証明される。悪党を支援した牧師は恥を見ることになる。

さて、当ブログについて虚偽の非難を繰り広げている人々に公に反駁することは、訴訟が始まってからで良いと思っているので、ここに書いていることは、あくまで予告であって、公の反論は後日、きちんと手順を踏んで行うつもりであるが、それに先立って、いくつかかいつまんでトピックを挙げておこう。
 
労働紛争を闘うためには、会社の登記簿謄本を取り寄せるのは必須条件なので、会社と闘ったことのある人が、会社情報の調べ方を知らないことはあり得ない。だが、料金を払ってまで、会社の登記簿謄本を取り寄せたいと願う人がいるかどうかは別問題だ。仮に登記簿謄本を取り寄せなかったとしても、それだけで「会社情報の調べ方も知らない」と決めつけることはできず、そういう決めつけを発表すれば、誹謗中傷となるだろう。

さらに、「…という説もある」とあえて疑問の余地を残している記述を基に、「ガセネタを流布した」と言い切ることはできず、そのような主張こそ、かえって「ガセネタ」とみなされる恐れがある。むろん、掲示板からの情報だと記されていないものについて、勝手に掲示板の情報だと決めつけ、それを基に非難を繰り広げることも、誹謗中傷である。

さらに、「キリストの香り」「キリストを着る」といった言葉は、クリスチャンとしては最低限度、知っておかねばならない聖書表現である。この表現を知らないのであれば、せめてネット検索だけでもしていれば、すぐに分かったはずである。むろん、どちらも筆者の「お得意の造語」などではない。むしろ、「一人修道院」といった訳の分からない言葉の方が、間違いなく造語に該当するだろう。

「殉教」を「言論テロ」と決めつけたい者たちがいるようだが、もはやこうした稚拙な論には呆れて反論する気にもならない。テロを主張するためには、まずは具体的な犠牲が出てなくてはならないが、殉教の精神を説くことによって出る犠牲とは何を意味するのだろうか?

日本でも、長崎を含め、殉教したクリスチャンは、すべての信者らから尊敬を受ける存在である。殉教者を尊敬する気風は、世界のすべてのキリスト教に共通する。にも関わらず、今日、殉教の精神を説くことだけで、これを「カルト」とみなしたり、「言論テロ」と決めつける者がいるとすれば、その人は果たして本当のクリスチャンなのかという疑問が生じるのは当然である。

むしろ、彼らが自分たちの論を批判する言動をすべて「言論テロ」や「犯罪」と決めつけていることこそ、最も激しい言論テロではないのか。

筆者が、当ブログに対して長年、行われている嫌がらせ行為を刑事告訴の対象としたことを嘘だとわめきちらしている人々がいる。

だが、実際には、刑事告訴が成立しているのは事実であり、ちょうど警察が追加された中傷記事についても、長い報告書を書いているところである。筆者は、ゴールデンウィーク明けに、当ブログに対して加えられたさらなる誹謗中傷の記事を警察に提出し、これからも、改めて追加資料を提出する予定である。

警察が作成している報告書は、量刑に関わって来るものであり、むろん、筆者もさらに調書を提出する。このような話が、全て筆者による作り話だと、読者は本当に思うのだろうか? 

しかも、刑事告訴された事件について、警察は捜査義務を負う。捜査しなければ、職務放棄に当たるわけで、事件が解決してもいないうちに、警察が告訴人を「見離す」という事態は起き得ない。

警察は一般に警告を文書で出さない。もしそういうことをするとしたら、裁判所の仮処分等であろう。また、民事調停委員は中立的立場で話し合いに臨んでいるため、申立書の内容について個人的な意見を言う立場になく、まして職務として臨んでいる調停の申立内容を「分からない」と発言すること自体があり得ない。

むろん、筆者が提出した申立書の趣旨は、具体的な損害賠償請求であるため、「神学的議論」には当たらない。もしも神学的議論で埋め尽くされた申立書が出されるようなことがあれば、裁判所がそれを受け付けない。裁判所は、訴訟であれ、調停であれ、申立書に不備があれば、訂正を求め、訂正が完了するまで、決して審理を進めない。
 
申立人が、自ら費用を払って調停を申し立てたこと自体が、話し合いによる解決を目指す姿勢を意味する。そこで、相手方が、申立人の訴えを「棄却する」という答弁書を出したにも関わらず、「自分は話し合いを強硬に拒否された」と主張しても、それが認められることはまずない。

期日当日、開始時刻間際に出した答弁書の内容は、その日の議題に取り上げてもらえず、従って、その日中に回答が出ないのは当然である。それを「回答できないからしないのだ」と決めつけるのは無理筋の話である。調停では、申立人と相手方は対面しないため、必要な説明はすべて調停委員から行われる。もし説明不足があるならば、それは委員に言わなくてはならない。

第二回目の期日が決められれば、「今後の見通し」が立ったことになるので、「今後の見通しが立たず」という主張は成立しない。民事調停への出廷は任意なので、調停に呼び出されたことで損害を受けたという主張は成り立たない。
 
さらに、筆者はネット上を含め、どこにも「随想」を発表した事実がなく猫を飼っていたこともない。KFCに夜行バスを使って訪ねたのも、人生に一度きりの出来事であり、夜行バスを使って月に何度もKFCに通った事実などない。むろん、会ったことのない人間に「ラブレターのようなメール」を送った事実もなく、当ブログのグノーシス主義研究は、大田俊寛氏以外にも、荒井献氏、ハンス=ヨナス氏など、グノーシス主義研究で著名な研究者の論を度々引用しており、一人だけの研究に依拠して書かれていないことは明白である。当ブログのグノーシス主義批判が研究者の「受け売り」であると主張できるだけの具体的な論拠は何もない。

また、「Sさんへの手紙」の中には、どこにも「実名」は出されていない。この手紙が書かれたのは、2010年10月であり、当ブログに対する1千件のコメントを伴うバッシング記事がネットに掲載されたのは、2009年11月である。従って、この手紙が紛争のきっかけになったという主張は時系列的に成立しない。むろん、この手紙が和解のために書かれたものであることは、一読すればすぐに分かる。当ブログがカルト被害者の裁判を狂言呼ばわりした事実もない…。

この他にも、終わりなく事実は列挙できるのだが、わずかにたったこれだけの事実を挙げただけでも、当ブログに向けられている非難が、いかに嘘八百のデタラメであるかは、誰にでも十分に分かるだろう。そうした主張には、いかなる具体的な証拠も示されていない。真実性を証明するためには根拠がなくてはならないが、そこにあるのは嘘、ごまかし、すり替え、トリックだけなのである。

これでクリスチャンを名乗ろうというのだから、まさに呆れるような詐欺としか言いようがない。さらに、筆者から見て、最も気になる点は、どうにも彼らには「御霊に導かれるクリスチャン」という言葉に、拒否反応を起こさずにいられない傾向が見受けられる点だ。

筆者は当ブログにおいて、自分が聖霊に導かれるクリスチャンだと決して誇示したり、それを自己顕示の材料としたりはしていない。さらに、筆者は「自分たちだけが正しい信仰を持っている」と一度も述べたことがない。そもそも当ブログは、筆者個人の信仰告白を述べたものでしかなく、団体による告白ではないのだ。

さらに、既存の教会組織からのエクソダスを唱えたのも、当ブログが初めてでは全くない。内村鑑三、古くはハドソン・テイラー、ジョージ・ミュラー、それから、オースチンスパークスや、ウォッチマン・ニーなども、みな同じことを主張して、既存の教団教派から離れて行った人々である。それにも関わらず、筆者が「エクソダス」を主張していることが、まるで筆者特異の極めて新奇な概念であるかのように考えている人々があるとすれば、その人々は、キリスト教史を知らなさすぎると言えよう。
 
それはさておき、いずれにしても、「御霊に導かれるクリスチャン」に対する拒否反応こそ、彼らが、一体、なぜ当ブログに対して、これほど執拗に絡み続けて来たのか、その答えを解く最も核心となるだろうと思う。この問題を突いて行けば、隠れていた最後の動機が明らかになるという気がしてならない。

どうして彼らはこれまで聖霊派をあれほどまでに敵視し、徹底的に叩き続けて来たのか? そのような行動を取る動機として何が具体的に隠されているのか? ただ単に過去にペンテコステ派の異様な集会を見てつまずいたといったような表面的な動機ではないだろう。そこには「聖霊」そのものに対する憎しみが隠れているのだと筆者には感じられてならない。まさにステパノに向かって歯ぎしりした群衆や、イエスをベルゼブルと呼んだ人々のように・・・。 


十字架の死と復活の原則―労働によって自由を目指す偽りの生き方を退け、真理によって自由とされて、御言葉に養われて生きる―

「兄弟たち、その時と時期についてあなたがたは書き記す必要はありません。盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。人々が「無事だ。安全だ」と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです。ちょうど妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じで、決してそれから逃れられません。」(Ⅰテサロニケ5:1-3)

わたしの民よ、彼女から離れ去れ。
 その罪に加わったり、
 その災いに巻き込まれたりしないようにせよ。
 彼女の罪は積み重なって天にまで届き、
 神はその不義を覚えておられるからである。」(黙示18:4-5)
 

最近、あらゆる情報を見るにつけても、エクソダスの時が近づいていると思わずにいられない。筆者の人生は、アブラハムの生涯のように、エクソダスの連続である。

できるだけ早い段階で首都圏を離れるべきだという思いが、最近、どうにもこみ上げて来てならないのだ。バビロンの倒壊がいよいよ始まっていることを、あらゆる兆候から見て取れる。

首都圏に住むことに対する疑問を筆者が初めて抱いたのは、「シン・ゴジラ」という映画を観た時であった。この映画は創作と呼ぶにはあまりにも駄作すぎて、ここで取り上げて論じる価値もないが、筆者は、この映画は創作というより、創作に託した政治的プロパガンダ映画であって、何者かが東京に来たらんとしている戦争の惨禍について告げるために作成した予告映画であるように感じた。

むろん、そのような解釈には何の証拠もないため、同意できない人も多かろうが、筆者は、その映画を観た時、被災地の苦しみや、貧しい人々の苦しみを見殺しにして、富を貯め込み、身勝手な繁栄を享受して来たこの国の主都に、裁きの時が迫っていることを思わされたのであった。その裁きは、ソドムとゴモラのような形ではないにせよ、何者かが東京を戦禍に晒し、火の海にしようとする悪しき計画によって成就されるかも知れないことを思わされたのであった。

ところで、日本政府の悲願は、核武装にある。改憲の先に見えているのは、戦争である。しかも、ただの戦争ではない。核戦争である。

そして、そのようなことが現実に起きた日には、我が国首相は、ゴジラ映画のような「英雄」とはならず、ただ己が野望のために核のボタンを押して、大勢の国民を破滅に晒す独裁者にしかならないであろう。

そういう日が、刻一刻と近づいていることを筆者は感じているのである。東京オリンピックもそうだが、こうした計画はすべて「大日本帝国の復興」という呪われたイデオロギーの延長線上に進められている。そして、筆者はそのような恐るべき計画と、それがもたらす破滅に巻き込まれるつもりは毛頭ないので、首都圏からお暇したいと考えている。

戦争の話はさて置くとしても、それ以外の面でも、この国の未来に暗雲が垂れ込め、滅びが近づいていることは、あらゆる兆候からよく感じられる。

たとえば、裁量労働制について、今国会で行われている議論は、この国にいよいよ国民に底なしの労働の義務を課し、国民が働いても働いても、決して個人に利益が還元されず、すべての利益が国や巨大企業に吸い上げられて行くだけの呪われた社会主義システムが完成されつつあることを物語っている。

アベノミクスの本質は、全体主義なのであるが、アベノミクスの本番の地獄は、いよいよこれからなのである。経済再生などという謳い文句は、詐欺の入り口でしかなく、国民は、夢のような偽りの繁栄の約束と引き換えに、騙されてアウシュヴィッツ行きの列車に乗せられ、今や強制労働収容所の入り口に掲げられた悪名高い看板「働けば自由になる(Arbeit macht Frei)」の下をくぐり抜けようとしているところだ。

こうして、全国民に未来のない労働が強制される時代が到来し、そのしばらく先に、共謀罪による大粛清やら戦争による殺戮やらが待ち受けているのである。

だが、キリストの十字架の贖いによって義とされ、罪の奴隷状態から自由とされたキリスト者が、こんな呪われた運命に巻き込まれる筋合いはないのであるから、我々は自由を勝ち取って生きねばならない。

ちなみに、上記の「労働は人を自由にする」とのスローガンは、「真理はあなたを自由にする」という聖書の御言葉の悪質なパロディであり、悪質な虚偽である。労働を通じて人間が自由を勝ち取ることなど決してできない。

だが、そのような偽りのスローガンは、全体主義体制に共通するものである。ソビエトの強制労働収容所の入り口にも、アウシュヴィッツとほぼ同じような意味のスローガンが掲げられていた。あたかも労働こそ、人民の栄誉と繁栄と自由への道であるかのように…。

当ブログではこれまで再三述べて来たことであるが、このような労働賛美の思想は、歪んで異常な考え方であって、そこで言う「労働」とは、呪われた概念であって、ただの労働を指すのではない。要するに、それは人類が自己の罪を自分で贖い、自力で神に至り着こうとする、神に逆らう計画としての、終わりなき不毛な贖罪行為を指しているのだ。

クリスチャンならば誰しも知っているように、人間の罪は、人が自分で贖うことはできない。どんなに真面目に働いてみたところで、人はわずかでも自分の罪の負債を減らせはしない。

罪の奴隷状態を抜け出て、自由になるためには、真理によるしかない。真理とは、人となって地上に来られ、十字架にかかられた神の独り子なるイエス・キリストであり、御言葉なるキリストのうちにとどまることこそ、自由への道である。

わたしの言葉にとどまるならば、あなたがたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」(ヨハネ8:31-32)

そこで、この真理を知っている筆者は、"Arbeit macht Frei"との偽りの標語が記された列車に、大勢の人たちと一緒に乗り込むことを拒否して、我先にと順番待ちをする群衆を置き去りに、一人、駅から立ち去る。

カルト被害者救済活動の支持者らは、筆者が輝かしい労働への道に進まず、強制収容所行きの乗車への乗車を拒否して、一人どこへともなく去ろうとしていることを知って、筆者が変人で、あたかもまともな仕事に就けない浮浪者であるがごとくにあざ笑っている。

だが、彼らは自分の身にこれから降りかかろうとしている悲惨な末路を全く知らないのだ。歴史を振り返るが良い。人々は「まともな仕事に就ける」とか、「十分な賃金と、豊かな生活ができる」などの謳い文句を信じて、アウシュヴィッツ行きの列車に乗り込まされた。幸福で豊かな生活が待っていると、これから乳と蜜の流れる土地へ行くのだと、騙されて死への旅路へ出かけて行ったのだ…。

カルト被害者救済活動の支持者らは知らない。政府の唱える「一億総活躍」の偽りのスローガンを信じれば、強制労働収容所へ連れて行かれるだけだと。そこで待ち受けているのは、未来ある労働どころか、飢えと、死だけである。

だから、彼らが自分は金持ちだと言って、貧しい人々をあざ笑っていられるのは、ほんの束の間でしかない。

聖書にはこうある、富んでいる人たち、よく聞きなさい。自分にふりかかってくる不幸を思って、泣きわめきなさい。あなたがたの富は朽ち果て、衣服には虫が付き、金銀もさびてしまいます。このさびこそが、あなたがたの罪の証拠となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くすでしょう。あなたがたは、この終わりの時のために宝を蓄えたのでした。

ご覧なさい。畑を刈り入れた労働者にあなたがた支払わなかった賃金が、叫び声をあげています。刈り入れをした人々の叫びは、万軍の主の耳に達しました。あなたがたは、地上でぜいたくに暮らして、快楽にふけり、屠られる日に備え、自分の心を太らせ、正しい人を罪に定めて、殺した。その人は、あなたがたに抵抗していません。」(ヤコブ5:1-6)


カルト被害者救済活動の支持者らの中には、人助けを職業として選んでいる者も多い。だが、その職業が見栄のためだけであって、自分は人助けをしているのだと人前に誇りながら、不幸な他人よりも一段上のところに立って、上から目線で他者の苦しみを見下ろし、苦しむ人を踏みつけにし、嘲笑するためだけのものならば、その職業は彼らから取り去られ、他の人々に与えられるだろう。

たとえば、社会福祉士は国家資格であるから、法律で欠格条項が定められている。社会福祉士の信用を傷つけ、刑法に触れるようなことをすれば、当然、国家資格を剥奪される恐れが出て来る。

カルト被害者を「冒涜」することは何の罪にも当たらないが、貧しく寄る辺のない国民を誹謗中傷すれば、この世の刑法に触れることになるのだ。

だから、そういうことを考えれば、大淫婦バビロンが「わたしは、女王の座に着いており、やもめなどではない。決して悲しい目に遭いはしない。」(黙示18:7)とつぶやいたのと同じように、自分だけは立派な職業に就いて、豊かな生活を送っているから、あの浮浪者や、この貧乏人とはわけが違うなどと、ゆめ神と人との前で豪語したりするものではない。

バビロンは心の中でそうつぶやいただけで、そのつぶやきを神に見透かされ、罪として裁かれたのだから、そんな呪われた文句を神の教会の前で公然と吐き捨ててクリスチャンを侮辱した人々には、どういう恐ろしい運命が待ち受けていることだろうか。

バビロンは宣告されたのだ。

彼女がしたとおりに、
 彼女に仕返しせよ、
 彼女の仕業に応じ、倍にして返せ。
 彼女が注いだ杯に、その倍も注いでやれ。
 彼女がおごり高ぶって、
 ぜいたくに暮らしていたのと、
 同じだけの苦しみと悲しみを、
 彼女に与えよ

 「それゆえ、日のうちに、さまざまな災いが、
 死と悲しみと飢えとが彼女を襲う。
 また、彼女は火で焼かれる
 彼女を裁く神は、
 力ある主だからである。」(黙示18:6-8)

また、箴言(13:21-23)にはこうある、

「わざわいは罪人を追いかけ、幸いは正しい者に報いる。 善良な人は子孫にゆずりの地を残す。 罪人の財宝は正しい者のためにたくわえられる。 貧しい者の開拓地に、多くの食糧がある。 公義がないところで、財産は滅ぼし尽くされる。」


このように、義のないところでは、富は長続きしない。罪人がどんなに豊かに財産を蓄えたとしても、それはすべて罪人の手から取り上げられて、義人の手に委ねられる。義人は貧しく見えても、その開拓地には多くの食糧を持っており、子孫のために財産を残す。

繰り返すが、罪人の富は義人のために蓄えられるのだ。カルト被害者救済活動の支持者らは、愚かな行為に及んだクリスチャンを非難して言う、民事で巨額の賠償金を支払って和解しても、刑事ではずっと捜査が続くのだと。だが、その言葉は、クリスチャンを非難し、教会をあざ笑っている彼らにそのままお返ししよう。

目に見える地上の神社に油をまく行為は、世間から見れば迷惑千万であり、かつ文化財を毀損する罪かも知れないが、滅びゆくものは、放っておいてもいつかは消滅するのだ。だが、キリストの花嫁たる目に見えない教会は新創造であり、永遠性を持つ。そこで、神の聖霊が宿っている教会を冒涜する罪は、未来永劫、赦されることはない。旧創造を毀損する罪と、新創造を冒涜する罪と、果たしてどちらが神の目から見て重い罪なのか、それはこれから公然と人前に証明されよう。

さて、筆者の目から見れば、今やこの国全体に、巨大な不幸が降りかかろうとしているのは明白であるにも関わらず、未だに勤労の精神を説いたり、自分だけはまっとうな職業に就いているから、貧しさや孤独とは無縁で、不幸にはならないなどと豪語している連中は、まさに愚の骨頂である。

この先、この国には「まともな仕事」と呼べる職業がほとんど存在しないような恐ろしい時代が来ようとしているのだ。信仰によって生きるキリスト者以外は、生き延びることさえ困難な時代が到来しているのである。

バビロン体系の中で生きるには知恵が要る。秘訣はただ一つ、世間が奨励するような「まっとうな生き方」を目指すのではなく、神の目から見て、真に「まともな職業」に就くことである。人の目にではなく、神の目に評価される生き方をすることである。そうせねば、結局は、誰一人、生きられない時代が到来しているのである。

そこで、筆者は、"Arbeit macht Frei" との偽りのスローガンの掲げられている広き門に背を向け、「真理はあなたを自由にする」という聖書の御言葉の掲げられた狭き門を入って行く。

キリスト者である筆者は、「不信者とのつり合わないくびき」を負うことを拒否し、自力で罪を贖うために、罪人と共に底なしの罪の連帯責任を負わされることを避け、神に逆らうバベルの塔建設の計画に加担せず、労働によって自由を目指すのではなく、真理によって自由を獲得し、二度と人の奴隷とされることなく、また、自分の貴重な労働の成果を、悪者にかすめ取られたり、怠け者の利益に還元されたり、強欲な雇用主を富ませるために利用されることなく、自分の労働の成果が、天に蓄えられ、真に自分自身に還元されるような生き方を目指す。

これは、信者に無限の献金や奉仕を要求する強欲なカルト宗教からのエクソダスにとてもよく似ていて、気づくのが早ければ早いほど、被害が少ないと言える。

さて、呪われたバビロン経済を脱し、真に正しい神の国の霊的秩序に生きるためには、キリスト者は御言葉の奉仕人でなければならない。詩人が詩人であることをやめて、労働者になっても何の役にも立たないのと同じように、キリスト者は、神の国のために働く奉仕人であり、「天職」に生きるべき人々である。

天に収穫をもたらすことこそ、我々の職業であり、我々の仕事は「人間を漁る漁師」であって、その職は地上のすべての職を超える。キリスト者は地の塩としての役目を果たさなければ、外の暗闇に投げ捨てられ、踏みつけられるだけである。

地上の経済は、キリストの復活の命の統治に服さねばならない。神の霊的な秩序はこの世の秩序よりも優先する。その順序は決して入れ替わることはない。従って、神の国の霊的秩序に生きる人々のために、地上の経済は仕える立場に置かれるのである。

牧師でさえ言う、御言葉の働きのために報酬をもらうのは当然であると。そして彼らは地上の職業から遠ざかっているではないか。

だとすれば、まして真にキリストに従う奉仕者たちのためには、神が必ず天に報酬を備えておいて下さる。蒔くことも、刈ることもしない空の鳥や野の花のために、神がすべての必要を備えて彼らを養って下さっているのだから、キリスト者が、自分で自分を養うために、奴隷的強制労働などに従事せねばならない筋合いはないのである。

そういうわけで、未だ勤労の精神を説いたり、人の目に認められようと、お国のために役立つ人間になろうと努力しているカルト被害者救済活動の支持者らは、大変な思い違いをしているのである。

彼らが仕えている地上の国は、彼らを滅ぼすだけで、決して幸福にしない。また、彼らが誇っている地上の「まっとうな職業」も、糞土にも値しないものであって、人を滅びにしか導かないものであることは、やがて多くの人の目に明白になるだろう。

欺かれてはならない。狭き門から入る人は幸いである。

「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。

あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができおうか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。

今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。

何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ6:25-34)