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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

村上密・杉本徳久の両名を被告とした民事訴訟(第一審)の総括(26)―神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。

「あなたがたの間で、一人が仲間の者と争いを起こしたとき、聖なる者たちに訴え出ないで、正しくない人々に訴え出るようなことを、なぜするのです。あなたがたは知らないのですか。聖なる者たちが世を裁くのです。世があなたがたによって裁かれるはずなのに、あなたがたはささいな事件すら裁く力がないのですか。わたしたちが天使さえ裁く者だということを、知らないのですか。まして、日常の生活にかかわる事は言うまでもありません。

それなのに、あなたがたは、日常の生活にかかわる争いが起きると、教会では疎んじられている人たちを裁判官の席に着かせるのですか。あなたがたを恥じ入らせるために、わたしは言っています。あなたがたの中には、兄弟を仲裁できるような知恵のある者が、一人もいないのですか。兄弟が兄弟を訴えるのですか。しかも信仰のない人々の前で。そもそも、あなたがたの間に裁判ざたがあること自体、既にあなたがたの負けです。

なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです。それどころか、あなたがたは不義を行い、奪い取っています。しかも、兄弟たちに対してそういうことをしている。正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない。みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通をする者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を植えkÞぐことができません。

あなたがたの中にはそのような者もいました。しかし、主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています。」(一コリント6:1-11)
 
最近、掲示板での誹謗中傷もすっかり影をひそめた。そして、村上のブログからも、筆者をあからさまに断罪し、勝訴を誇る以前のような記述が消えた。

さすがに、杉本に対する取り調べが行われると分かり、掲示板でも、個人を特定して責任追及がなされることが予告され、掲示板の投稿者らも、危ないと理解したのであろう。そして、村上には二審で不利な証拠が積み上がっている。一審の時と同じようにはならない。

週明けから、杉本に対する新たな差押の準備を進めていたところ、またしても日曜日に杉本が筆者にメールを送り付け、そこで筆者の取立が迷惑行為であるとか、脅迫、恐喝であるなどと騒ぎ立て、支払いに応じる姿勢も全く見せず、何と控訴しているとまで書いていた。

相変わらず、自分に都合の良い言い訳だけを一方的に並べ、自分を振り返ってもらうためだけに他人に接触する行動パターンは何一つ変わらない。しかしながら、筆者が犯してもいない罪を犯しているかのように触れ回れば、それは新たな名誉毀損行為に該当する。

判決で削除を命じられたブログ記事の多くを5月になるまで削除せず(現在、非開示にしているだけなのかも不明)、コメントも改ざんしただけで、完全に削除もせず、賠償命令に逆らい、もはや、争うべき事実もほとんどないのに、判決を不服として控訴しても、受理される見込みは低いだろうと筆者は予想する。

杉本が一審で出して来た怪文書のような文書は事件ファイルにおさめられている。そのような内容の文書にこれ以上、目を通すことには、誰にも合理性が見いだせない。一審で反訴を言い立て、ついには裁判官に職権で拒否すると言われた悪印象もある。判決を不服とする控訴はそれ自体が非常に印象が悪く、控訴審では一審以上に反訴が難しいので、そのための保険にするつもりか、あるいは報復のためだけの控訴なら、ますます印象を悪くするだけで、容易には受け入れられないであろう。

筆者も、控訴する時には、この点に留意し、新たな証拠の発見等による判決の変更を求めるとして、一審判決と争う姿勢を見せることを避けている。裁判官の見立てと異なる考えがあっても、判決が言及しているのとは、別な角度から主張を補い、判決と合わせた共同作品を作るような構えで理由書を書いている。

一審で打ち立てられた成果を土台にして、二審をさらに完全なものとする。筆者の目的はそこにあるのであって、積み上げた成果を崩すことにはない。
 
今、こうして杉本が、またもや筆者が犯してもいない罪を言い立て、判決に従わない姿勢を見せていることをも、理由書にてよく示しておき、この先、杉本の控訴を受理することには、いかなる合理性もないことを主張して、控訴審に備えることとなる。
 
正直な話、控訴が正式に受理されてもいないうちに、その旨を杉本が筆者に告げて来たことは、かえって筆者に対策を講じる十分なチャンスを与えるだけの結果となった。
 
さて、勤務先に対する強制執行などは、人生そのものをひっくり返す可能性のあるものである。面識もない個人に対する名誉毀損行為に及び、判決で賠償を命じられても従わず、社会的責任から逃れ続けていることが分かれば、社会福祉士としての信用も、この先、得ることはできまい。

それだけではない。ヤギの会から、メールが来ていた。裁判関係の資料と杉本のブログを送付しておいたところ、ただ一方的な情報提供だけに終わるかと思いきや、受領の連絡があり、紛争には介入できないとしても、随分、丁寧に対応をされているという印象を受けた。

たった1件のコメント削除の依頼を受けただけで、このような紛争を自ら引き起こし、判決にさえ従わない人間が、大勢の人たちと協力して物事を進めなければならない世話人の仕事をきちんと果たすことができるとは、筆者には思えない。火種を抱えることになるだけで、会の信用にも関わるだろう。この先、よく検討されることをお勧めするのみである。

しかし、このような結果に至ることも、すべて杉本が自分で選んだ選択なのである。速やかに負うべき責任を負って、滞りなく支払いの連絡を済ませていれば、このような事態に至ることもなかった。筆者は幾度も、猶予をもうけ、チャンスも与え、諫め、警告したが、杉本が合理的な選択肢をことごとく拒否したために、現在に至っている。

こうして、判決から今日まで、何も変わったことがあるわけではないのに、一審判決の言い渡し直後と、現在とでは、当ブログを取り巻く雰囲気はまるで異なることに驚かされる。

これが裁判のもたらす社会的影響力なのだと筆者は思う。判決に従わないことが、どれほど人の信用を落とすかかがよく分かる。杉本がこうして裁判所の決定にも逆らっている以上、筆者が最後の手段を講じねばならないとしても、もはや筆者を責める人間は誰もいないであろう。

 * * *

「だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、燃え尽きてしまえば、損害を受けます。ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます。」(1コリント3:14-15)

さて、先の記事で、サタンの体が焼き尽くされた可能性があると筆者は述べたが、高慢な者に対する裁きはいつも同じで、彼らが「体を失う」ことではないかと筆者は見ている。

だが、ここで言う体とは、文字通りの体ではなく、人間の外側の部分のことである。つまり、人の居場所や、社会的受容、富、名誉、地位、職・・・、神の喜ばれない生き方をしている人が、よすがとして来たすべての虚栄を剥ぎ取られ、焼き尽くされ、高慢さの源となるものがすべて失われることである。神の妬みの炎が、永遠に至らない何もかもを焼き尽くしてしまう。

「見よ、彼らはわらにすぎず、火が彼らを焼き尽くし
 炎の力から自分の命を救い出しえない。
 この火は体を温める炭火でも
 傍らに座るための火でもない。」

「ハレルヤ。大淫婦が焼かれる煙は、世々限りなく立ち上る。」(黙示19:3)
 
神の妬みの炎が、おのおの人生の価値を試すのだ。
  
筆者が現在、村上、杉本、唐沢の3名に対して(まだ提起していないものも含め)訴訟を展開しているのは、信仰の争いをこの世に持ち出すためではないし、彼らの属している教会を訴えるためでもない。

むしろ、長年の観察の結果、これらの3名は、もはやキリスト教徒ではなく、兄弟と呼ぶべき人々ではないことがはっきりと分かったため、教会をこの世の支配下に置こうとするこの人々の魔の手から、教会を解放するために、筆者は、この人々を世の前に訴え出ることにしたのである。

これらの人々がクリスチャンでない以上、筆者の行為は何ら以上の御言葉に抵触するものとはならず、変節にも当たらない。

昨年一年間はかなり大変な戦いであったが、ようやく人々の理解を得、関わる人たちの信頼を勝ち得ることができ、また、その秘訣を学んだので、すでに書いた通り、今はこの裁判に反対する人は、もう周りにはほとんど誰も見かけなくなった。
 
少しずつだが、一審の影響が各地に波及している。二審の結果はもっと大きなものになることを予想している。これまで作られた淀んだ空気の流れを完全に払拭し、変えられるとすれば、あと2~5年くらいだろうか。

5年も経つ頃には、おそらく、杉本・村上・唐沢の名は、もはや聞かれなくなるものと筆者は思う。カルト被害者という言葉も、ほぼ絶えて聞かれなくなるであろう。筆者の裁判に最後まで反対していた人たちも、口を閉ざして、何も語らなくなるものと思う。
  
* * *

さて、上記3名に共通する点は、自己の内に深刻なコンプレックスを抱え、キリストの聖なる花嫁であるエクレシアに対し、尽きせぬ憎悪を抱いているということである。当初は、この3名は互いに対立し合っており、何の共通点もないように見えたが、最終的には、エクレシアを敵とするという点で、利害が一致したものと筆者は見ている。

杉本は、すでに記事で書いた通り、プロテスタント、福音主義に対して根強い不信感を持っており、アッセンブリー教会でペンテコステ運動につまずき、大きな心のトラウマを抱えた。
 
村上密も、青年期に統一教会に入信、暴力を伴う強制脱会を経験したことにより、キリスト教に対する根強いコンプレックスもしくは恨みを持っていると見られる。村上の救済活動が、彼の幼少期のトラウマに基づくものであって、真の救済活動ではないということを、筆者は幾度も記事で述べて来た。
 
唐沢治は、かつて異端のローカルチャーチに入信していた経歴があり、若い頃に、自分の失敗にで花嫁に去られた経験を持つ。そのことは唐沢自身が幾度もメッセージで語り、また、当時は、記事などにも書いていたことである。

彼はある女性と結婚を約束し、その女性から約束の実行を求められていたのに、(記憶によると)進学などを理由に、結婚を先延ばしし、不信感を持たれて花嫁に去られた。それによって、深い心の傷を負い、苦しみ、自分の身勝手さを悔い改めて神を求め、聖霊のバプテスマを得たと、当時はブログやメッセージでさかんに語っていた。

今でも、ホームページのプロフィールに書かれている唐沢の「聖霊による油塗り」の体験は、傷ついた心に対する癒しとして与えられた当時の体験を綴ったものではないかと見られる。

だが、それは本当にキリストの霊であったのかどうか、そこから筆者は疑問に感じている。村上密の眉唾物の回心の体験と同じくらい、それには根拠が乏しいのだ。
 
今現在、唐沢は幸福で安定した家庭生活を送っているかのように豪語している。その点では、村上も同じである。だが、それはうわべだけのことであって、村上の家族に起きた不幸な事件についてはすでに記した通りであり、また、唐沢も、大学講師時代には常に女学生への人気を誇り、とても妻帯者とは思えない不誠実な言動の数々を見せていた。

さらに、杉本や村上が、筆者や、鳴尾教会の女性牧師に対して、長年、中傷をまき散らして来た行為を思うと、彼ら3人の心の中には、女性に対する深い心の傷があるように見受けられてならない。

杉本や村上には、唐沢のような体験はないにせよ、3者の心の中には、何かしら共通する男性としての深い心の傷、自分自身へのコンプレックスが存在するように見受けられてならないのだ。

その心のトラウマが、悪霊の働く牙城となって、キリスト教に対する彼らの憎悪と結びつき、エクレシアに対する憎悪に転じている。

唐沢が、ニュッサ氏や筆者を含め、去って行った信徒を断罪し、自分を追い出すも同然に否定したニッポンキリスト教界を日々、嘲り、罵っているのも、結局のところは、自分のもとを去った花嫁に重ねて、キリストの花嫁たるエクレシアを侮辱・冒涜しているだけだと見ることができる。

自分を否定して、自分のもとを去った花嫁が、自分ではない誰かのもとで幸福になるなど絶対に許さない、という執念が、唐沢の記事における、去って行った信徒への共通する憎しみと非難の中に見て取れる。

不思議なことに、村上や杉本にも、唐沢と全く同じ精神が見られるのだ。彼らは、自分たちの率いるカルト被害者救済活動から離反して行こうとする筆者のような信者を、徹底的に呪い、断罪し、二度と立ち上がれないような打撃を加えようと試みた。

結局、これらの3者は、うわべの主張には様々な違いがあるように見えても、根底では、同じ精神を共有している。それはキリストの花嫁たる神の教会を、自分の思いに従わせ、自分の支配の下に置こうとする欲望である。

ウォッチマン・ニーは『キリスト者の標準』の中で、人類には二人の花婿がいると語っていた。最初の花婿は、生まれながらのアダム(律法)で、これは横暴で、利己的で、心が狭く、嘘つきで、約束を守らず、絶えず花嫁を上から目線で断罪し、非難しては蹂躙する、どうしようもない主人である。

人類がこの横暴な主人から逃れるただ一つの方法は、死だけである。そして、神は人をこの破滅的な霊的結婚から救うために、十字架の死と復活を用意された。

こうして、十字架の死によって、人は横暴な主人との結婚から解放され、その後、キリストとの新しい婚姻関係が与えられた。この新しい花婿は、横暴でなく、利己的でもなく、誠実で、花嫁を心から愛し、命を与え、守り抜くことのできる本物の主人である。

唐沢は、自分たちの団体こそが、キリストの聖なる花嫁なるエクレシアであって、既存の教団教派(ニッポンキリスト教界)は堕落したバビロンであると述べて来た。

だが、事実はその逆である、と筆者は主張している。杉本や村上のしていることも同様で、彼らは自分たちがあたかも正しいキリスト教徒であって、他のキリスト教徒の横暴や逸脱を取り締まることのできる存在であるかのように述べるが、それは事実に反しており、実は杉本や村上こそ、誰よりも暴走している偽クリスチャン、偽預言者なのである。

彼らは、本物のエクレシアを弾圧し、これを自分たちの抑圧の下に置いて、自分たち偽物を、本物に取り替えるためにこそ活動しているのだと言えよう。
 
そうして彼らは、エクレシアを簒奪、否定、蹂躙しながら、自分たちこそまことの信者であって、花嫁は俺たちのものだと叫んでいる。

だが、これは花嫁の強奪であり、私物化であり、蹂躙であり、冒涜であるから、そんな方法では、決して花嫁は手に入らない。

自分の思い通りにならないくらいならばまだ良いが、花嫁を冒涜することを繰り返していれば、いつかその所業のすべてが自分に跳ね返って来ることになる。

筆者は昨年の春頃から、この問題について、三島由紀夫に関する映画を引き合いに出しながら、一連の長い分析記事を書いた。
 
記事「神に疎外された者たちによる神への復讐としての「エクレシア殺し」」などの中で、人は神の神殿として造られたのであって、神殿を破壊する者は、自分自身を破壊するのであり、自滅して終わるという霊的法則性を示した。

「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。」(1コリント3:16-17)

筆者は紛れもなく神に贖われたキリスト教徒であって、エクレシアの一員である。だとすれば、杉本・村上・唐沢が筆者に対して行っている仕打ちは、彼ら自身が、自分を滅ぼしているのと同じ効果をもたらすことになる。

彼らはきっとそうは考えていないことであろう。ヴィオロンをどれほど痛めつけ、嘲ろうと、それは自分とは関係のない事柄だと。悪いのはすべてヴィオロンであって、自分たちではないと、今も自己正当化を図っているのだろう。

だが、霊的法則性においては、人がエクレシアを蹂躙することは、人が自分で自分を滅ぼすことと同義なのである。

その結果として起きるのが、『金閣寺』のプロットに見られるのと同じような、神の宮である自分自身の破壊(体の破壊)である。体の破壊とは、すでに書いた通り、肉体の破壊だけを意味するのではなく、人の外側にあるもの―虚栄をもたらすすべてのもの―が焼き尽くされることを意味する。
 
こうした霊的法則性が存在すればこそ、すでに杉本には敗訴と共に破滅が降りかかり、さらに、村上も二審で不利な立場に立たされることになり、唐沢にも同じ追及の手が及ぼうとしているのである。

冒頭の御言葉をなぜ引用したのか、解説を忘れるところであった。これはキリスト者がどれほど絶大な裁きを行う権限を持っているかを示したものである。

私たちのまことの裁き主は神である。しかし、キリスト者も、それなりにこの地上において事件を裁く権限を担っている。その権限は、この世を超えるものであって、私たちは御使いたちをも裁く権威を持っている、とパウロは告げたのである。

私たちは裁判官としての職務には就いていないが、キリスト者として、この世の裁きに対しても、非常に大きな影響を及ぼす者である。

村上や杉本や唐沢は恐るべき思い違いをしている。彼らはエクレシアの一員を断罪する権威が自分に与えられているかのように考えているが、実は、彼らこそ、エクレシアの裁きの権威に服さなければならない存在なのである。

神はおよそ地上のすべてのものを管理する仕事をキリスト者に与えられ、この世を裁く仕事をも教会に任せられた。だからこそ、私たちの裁き、私たちの宣告は、この世に属する者たち、とりわけ神の教会を迫害する者たちに対しては、まことに厳粛な効果をもたらすものとなる。

それだからこそ、筆者は、裁判が終結する前から、その結果がどうなるのかを知っている。以上の3者が、まことの信仰を持ったキリスト者の告発の前に、決して立ちおおせない事実を予め知っている。裁判は、その霊的事実を実際とするための方法論に過ぎない。
  
<続く>

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わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。

前回の記事を多少、補っておきたい。

以下の事典の抜粋にもあるように、今日でも、キリスト教の宗派の中で、とりわけ説教を重要視しているのは、プロテスタントである。

世界大百科事典 第2版の解説 せっきょう【説教 preaching】

 一般に宗教集会において,その教えを信徒および未信徒に説く言葉。仏教では,説法,唱導,説経など諸種の呼び名がある。今日,説教をその布教の最も重要な手段として重視するのは,プロテスタント教会である。古来キリスト教会では,集会(礼拝)において,聖書朗読と,その聖書の言葉の意味を会衆に説き明かして聞かせる説教とが重視されてきた。カトリック教会や東方正教会では,説教の重要性が薄れ,これを再び強調したのが宗教改革である。

プロテスタントの礼拝では、牧師の説教は、礼拝時間全体の6~8割くらいを占め、説教題が、その日の礼拝の主要テーマとなる。聖歌や讃美歌、祈りの内容、証等も、基本的には、すべて説教に合致するものが選択される。

今日、カトリックのミサでも、説教は行われるが、カトリックの礼拝における説教の重要性は、プロテスタントとは比べられないと、かつてカトリックに去った信者が言っていたことを思い出す。

『[シリーズ・世界の説教]近代カトリックの説教』(高柳俊一編、教文館)という著書に関する石井祥裕氏による書評「近代におけるカトリック教会の多面性」にも解説されている通り、現在、カトリックのミサで今日行われている説教は、20世紀のバチカン公会議によって義務づけられたものである。

「カトリック教会における説教のあり方に関しては、ちょうど半世紀前に開幕した第二バチカン公会議(一九六二~六五年)が新たな時代を切り拓いた(編者序文参照)。同公会議は説教を神の民全体の救済史的使命によって基礎づけ、ミサにおける神のことばの食卓での奉仕としての姿がその根本的な姿であることを明らかにした」

このことは裏を返せば、20世紀半ばの第二バチカン公会議の時点まで、カトリックでは主日礼拝における説教が義務づけられていなかったことを指す。そして、今でも平日ミサでは説教は義務とされていない。

こうした事実だけを見ても、プロテスタントが、カトリックよりもずっと先に、カトリックでは失われていた説教の重要性を、宗教改革として取り戻した様子が分かるだろう。
 
このように説教を重視するプロテスタントの伝統と、プロテスタントが教会内の装飾を取り払ったことには密接な関係がある。

カトリックと東方正教会は、今日でも基本的に礼拝の儀式的な側面に重きを置いており、信者は礼拝堂の荘厳な装飾や、美しい讃美歌の音色や、聖画などを通して、宗教的荘厳さ・敬虔さを視聴覚的に感覚受容する傾向が強い。こうした感覚的要素を、カトリックも正教会も、偶像崇拝であるとか、悪魔的な堕落を含む悪しき誘惑であるとみなして排除してはいない。

そこで、今日でも、カトリックの聖堂には、ステンドグラスなどから始まり、美しい多彩な装飾が施され、東方正教会では、さらに壁や柱に一面に聖画が描かれ、大量に金をあしらった装飾が施され、まさに寺院という言葉がふさわしい印象を、訪れる者に与える。

しかし、プロテスタントでは、聖画やステンドグラスやその他の教会の装飾を、偶像崇拝につながるものとして徹底的に取り払い、教会の礼拝堂を、無駄な装飾を一切、排除して、無味乾燥と言っても良いほどまでに、極めてシンプルなものとした。

こうして、「見えるもの」から来る視聴覚的な要素を、信者を偶像崇拝に導く堕落した感覚的要素として排除し、感覚的要素に依存することをやめた結果、プロテスタントの礼拝は、知的な内省(個人の心の内省ではなく、聖書の御言葉の知的理解)を重んじるようになったのである。

つまり、プロテスタントの礼拝が、牧師の説教にとりわけ重きを置くようになったのは、教会の中から目に見える装飾を排除して、神への礼拝というものを、目に見える感覚的刺激によってとらえるのではなく、目に見えない御言葉に対する知性による理解、また、霊的理解によってとらえようとしたことの結果なのである。
 
このことは、プロテスタントが礼拝のあり方を、カトリックに比べ、より初代教会のあり方に近づけ、「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(Ⅱコリント4:18)
「それで、わたしたちは<略>目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。」(Ⅱコリント5:6-7)
という聖書の御言葉を、より忠実に実践しようとしたことを意味する。

従って、プロテスタントの礼拝は、キリスト教の礼拝を、信徒が目に見えるものに心奪われるのではなく、見えないキリストに思いを馳せ、キリストから直接、啓示を受けて聖書を理解し、神を崇めるために行うものにすることで、本来あるべき礼拝に、確かに近づける役目を果たしたと言えるのである。

このような文脈で、プロテスタントの牧師の説教も、先に述べたように、人間が目に見えるものから来る感覚的刺激に頼らず、目に見えない聖書の御言葉を、自分自身の内面を通過させて、知的によりダイレクトに理解することを始めたという点で、画期的な意味を持っていた。

しかしながら、すでに述べた通り、当初は画期的な宗教改革として始まった牧師による説教も、今日は、牧師にあまりにも大きな権限と、信徒との不平等を言える経済格差を生んだ結果として、かえってキリスト教の信仰の前進の大きな妨げとなる要素に転じたと言える。

プロテスタントは、信徒の目を、教会内の装飾という目に見える事物からは引き離したであろうが、見えないキリストご自身に向けさせるには至らず、その代わりに、目に見える牧師へと逸らしたのである。

しかも、カトリックのような統一的なヒエラルキーがない中、ただ牧師だけが、他の信徒らに優って、神の御言葉を正しく理解し、他の信徒を教え、導くことができる指導者であるとみなすプロテスタントの牧師制度は、必然的に、教会内で、独裁的とも言える権威を牧師に与える。

プロテスタントの牧師の権威は、神の御言葉を取り継ぎ、これを信徒に伝える「説教」という召しからこそ来ている。この神聖かつ崇高な召しがあればこそ、牧師は、フルタイムの献身者として、その召しに専念できるよう、他の信徒とは違い、教会の献金から謝儀を受け取ることが許されているのである。

もちろん、歴史的には、プロテスタントからは多数の優れた説教者が登場して来ており、その説教が今日の信徒にも非常に有益な内容として伝えられていることは事実であるが、その一方で、毎週日曜の礼拝において、礼拝のほとんどの時間を、ほとんどこの世での苦難に遭遇したこともない牧師が、独演会のようなスピーチによって信徒を教化するというスタイルが取られると、必然的に、牧師が独裁者化して信徒へのマインドコントロールが起きやすい土壌が生まれる。牧師も人間であるから、他者からの監督や指導なくして、自分一人で教会の主となってこれをコントロールして行くことは難しい。

さらに、そこに金銭的な不平等が付け加わわれば、独裁者を生む完全な土壌が整うのであって、今やプロテスタントの牧師制度は、牧師が実質的に信徒に君臨し、信徒を搾取して成り立つ差別的特権階級に他ならないものとなってしまっていると言える。

こうした牧師制度の弊害が、20世紀後半になって、多数のカルト化教会の出現という形で浮き彫りになったのであり、現代という時代は、ただ牧師一人だけが、他の信徒に抜きんでて、聖書の御言葉を正しく理解して、信徒に向かって教えることができるとするプロテスタントの牧師制度そのものが、教会全体にとって重荷となり、信徒の信仰の前進の大いなる妨げとして、役目を終えて廃れつつあると言える。

私たちは、初代教会における礼拝が、たった一人の牧師が、毎週日曜日に講壇から大勢の信徒らに向かって、長広舌のスピーチを宣べて終わるというスタイルではなかったであろうことを容易に想像できる。

そこで、今日、より本来的な教会のあり方を取り戻すためにも、また、礼拝が真にキリストに捧げられるものとなるためにも、信徒は、ますます牧師に頼らず、自分自身で聖書の御言葉を理解し、これを実戦すべく、自分自身が神の神殿としての機能を正常に取り戻し、神との一対一の直接的な交わりを回復すべき時に来ていると筆者は確信している。

さらに言えば、礼拝とは、もともと真理と霊を持って捧げられるものであって、場所を問わないものであるから、牧師だけでなく、固定化された教会の建物からも、今や解放される必要性があると言える。

「イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。

しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」(ヨハネ4:21-24)

このように、プロテスタントは、教会内の無駄な装飾を施し、信徒の心を、目に見えるものではなく、見えない聖書の御言葉へと向かわせ、神との直接的な交わりを回復するための第一歩としては、大きな役割を果たした。

しかし、プロテスタントは礼拝堂から無駄な装飾を排除した代わりに、今度は、牧師という目に見える「装飾」をそこに置いて、神ではない一人の人間を偶像化して、その言葉に信徒の心を向かわせた。
 
その他にも、特に20世紀になってからは、牧師が偶像化したことに加えて、情緒的な讃美歌や、感動的な信仰の証の披露など、まるでアーティストのショーのような感動的な演出効果を伴う大衆伝道のスタイルが編み出され、それらも結局のところ、教会の装飾に取って代わる目に見える新たな感覚刺激として、新たな偶像と化してしまった向きが非常に強いと言えよう。

そこで、今、キリスト教の礼拝は、こうしたすべての「目に見える偶像」すなわち、五感を楽しませてくる魅力的な視聴覚的要素、さらには、特定の礼拝堂という時空間による制約から解放されて、より自由に、より純粋に、神にダイレクトに捧げられるものとなる必要に迫られていると言えよう。

そのことは、2008年に当ブログ始まって以来、再三、語り続けて来たことである。

当時、このようにプロテスタントにおける礼拝のスタイルを偶像崇拝として批判し、初代教会において見られたような、真の礼拝を回復しようとして、既存の教団教派を離れることは、別段、信者にとって珍しいことではなく、あわや一大運動が起きてもおかしくないほどの状況があった。

その後、集まるための特定の場所を持たないことが弱点となり、この人々は散らされて行き、ある人々は、礼拝堂を持たない代わりに、家庭集会こそが、本来的な礼拝のあり方だと主張し、ある人々は、再び、教団教派に戻って行くなどしたが、筆者は、そうした議論や、信者の離散によって、すでに明らかとなった結論が、覆されるとは思っておらず、今必要なのは、あくまで一人一人の信者が、目に見える指導者に頼らずに、キリストに直結する信者として、神の神殿として、生きた礼拝堂としての機能を取り戻すことにあるという結論は、決してこの先も変わらないものとみなしている。

聖書のどこを見ても、教会というものが、特定の時代の、特定の場所や、建物を指すものであることを示した記述はない。ましてそれが特定の指導者によって率いられる特定の群れであると示した箇所はない。

教会とは、キリストを頭として、キリストの権威と支配の及んでいるキリストの体を指すのであって、その体とは、神の神殿である一人一人の贖われた信者を指し、また、信者らの総体を指すものと理解できる。

「神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」(エフェソ1:22-23)

あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」(Ⅰコリント3:16)

あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。」(Ⅰコリント12:27-28)

「そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。」(エフェソ4:11-13)

「従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」(エフェソ2:19-22)

別の言葉で言えば、教会とは、死と復活を経たキリストの命の支配が及んでいる領域のことである。

「わたしたちは神に属する者ですが、この世全体は悪い者の支配下にあるのです。」(Ⅰヨハネ5:19)とある通り、この世はサタンの支配が及んでいる。

しかし、サタンおよび堕落したこの世のすべての目に見えるものはやがて滅ぼされ、すべてがキリストの御名に服従する新しい天と地が打ち立てられる。

そうなる前に、この世から召し出された者たちが、エクレシアなのであって、この世が罪に堕落しており、滅びに定められていることを知った一人の人間が、自らも罪を悔い改めて、キリストの十字架の贖いを信仰によって受け入れ、神に立ち帰り、この世から召し出されて、神の命によって新しく生まれ、御霊によって導かれて生かされるようになる時、その信者を通して、信者の周囲のこの世の事物にも、キリストの支配の霊的影響が及ぶようになるのである。

その信者が、真に御霊に導かれ、その働きを実現して生きているならば、その影響が及んでいる範囲は、キリストの命の支配領域である。すなわち、教会の支配下にあると言えよう。

従って、「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」というエフェソ書の言葉は、教会とは、キリストの御名と権威による霊的支配の及んでいる領域、神の国の霊的秩序の満ちている領域であることを示している。

とはいえ、神の国が真に成就するのは、この世が滅び、新しい天と地が到来した時のことであるから、今日の時代の教会に現れているキリストの命の支配は、やがて到来する新しい秩序の前触れ(先取り)であり、それが信者の内側に霊的に到来し、行使されているものであると言える。

つまり、キリスト者は、この世から召し出され、来るべき時代の秩序を先取りして行使する者なのである。

さらに、教会は特定の時空を超えるものであって、同時代を共に生きている信者だけに当てはまるものではないから、初代教会から今日までの(もしくはそれ以降の歴史時代も含む)贖われた信者らの総体が、教会であると言うこともできよう。

このように、聖書を見るならば、教会というものを、特定の時空間の制約の中にある一つの建物にとどめたり、特定の礼拝堂、特定の指導者の下にとどめようとすることは、正しい解釈ではないことが分かる。

従って、プロテスタントの礼拝スタイルは、初代教会のような教会の本来的な姿が回復されるまでの、ほんの過渡的なものであって、今日、その過渡的なものが役目を終えつつある以上、より本来的な教会の姿が回復されねばならないのは当然である。

役目を終えたものが存続し続けると、やがて有害なものへ変わる。信者が、見えないキリストだけに心を向けねばならない必要が生じている時に、目に見える牧師や指導者が、信者たちの目をあくまで自分に向けさせ、自分の教えに帰依させようとすることは、有害である。

そのことを指して、オースチンスパークスは「私たちのいのちなるキリスト」の中で、目に見える事物、人、組織、教え、伝統などは、時代が終末に近づくに連れて、ますますキリストのまことの命の現れから遠ざかり、むしろ、反キリストの現れ(統治手段)として利用されて行くと予告したのである。

ドストエフスキーも、終末の反キリストは、敬虔なキリスト教徒の指導者を装った異端審問官の姿で登場することを暗示している。

今日、カルトや異端を駆逐するという名目で現れたカルト被害者救済活動の中に、私たちはこうした警告がまさに的中していることを見て取れる。この運動は、まさに反キリスト的運動の先駆けである。

先の記事で書いた通り、当初は、聖書に立脚しないで教会へのバッシングに明け暮れるこの運動に、プロテスタントの諸教会も、抵抗を見せていた。

しかし、プロテスタントの教団教派は、やがてその恫喝に屈し、沈黙に入り、今や完全にこの運動の下に制圧されてしまった。そうなったのは、プロテスタントの諸教会が、すでに役目を終えた牧師制度を何とか温存しようとして、それを真に代価を払ってキリストの福音を宣べ伝える使命と取り替えたためである。

プロテスタントの諸教会は、すでに随分前から、命をかけて福音宣教することよりも、牧師一家を養い、支えることを主たる目的として存在するようになっていたため、牧師たちは、自分たちが命を脅かされ、この世での穏やかな生活を奪われるような事態に遭遇してまで、命がけで福音を守り抜くつもりはなく、そのため、早々に悪魔と取引をして身の安全を保ったのである。

たとえるならば、戦時中でもないのに、戦時中のような時代がやって来て、諸教会には、新しい国体思想のような、あからさまに聖書に基づかない異端思想への忠誠が命じられ、それに従わない教会を弾圧する異端審問官が現れ、目に見えない宗教団体法が敷かれ、それにプロテスタントの諸教会全体が屈したようなものである。
 
こうして、プロテスタントにおいても、目に見えるものの偽りが、牧師制度という形で、極限的にまで明らかになっているのが今の時代であり、それに対して、神に忠実な子供たちが出すべき結論は、かつてプロテスタントが、カトリックの教会で当然のように用いられていた教会内の装飾を拒否して、これを偶像崇拝として取り払ったように、牧師という目に見える偶像を取り払い、見えないキリストに目を注ぐという、「新たな宗教改革」なのである。

とはいえ、筆者は何ら既存の教会の打ちこわしや、牧師の罷免などを要求しているわけではない。そのような組織改革を筆者は一切提唱しておらず、結論はむしろ逆である。以上のような事実に気づいた信者たちが、自主的にプロテスタントをエクソダスして、それぞれが自らの持ち場にあって、神の神殿としての礼拝を回復すべきなのである。
 
当ブログが、このような結論を公然と提示していると、今でも、ネトウヨのような諸氏が、さして有名でもなければ、訪問人数が多いわけでもない、個人のつつましいこの信仰の証しにまで、早速、噛みついて来る。
 
必死になって、彼らは日夜、掲示板等で、当ブログに攻撃をしかけているようであるが(とはいえ、交代制の勤務の様子であるから、多分、雇われているのであろう)、そのような有様を見ても、プロテスタント全体が暗闇の勢力に制圧された今、残る最後のともし火を吹き消すことが、いかに彼らの重要なミッションとなっているかが分かる。
 
暗闇の勢力にとって何の脅威ともならない、毒にも薬にもならぬ内容ならば、このようなつつましいブログに、このような攻撃を行う理由がないはずである。

従って、キリスト教の教会が本来あるべき姿を回復するために、牧師制度から教会を解放することが、いかに重要性絵を帯びた緊急の課題であるかが改めて認識されよう。

* * *

さて、使徒パウロは、わたしたちが正気でないとするなら、それは神のためであったし、正気であるなら、それはあなたがたのためです。なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。」(Ⅱコリント5:13-14)と記しているから、私たちも、キリストへの愛のために、ネトウヨ諸氏から正気ではないというという罵りを受けることにも、喜んで甘んじたいと思う。もしも私たちが、気が狂っているとするならば、それは神のためなのである。

さて、これまで当ブログは、暗闇の勢力からの尋常ならぬ徹底攻撃に晒されてきたが、その中で、敵の卑劣な攻撃手法がいくつも分かっため、この度、掲載しておきたい。これから暗闇の勢力に向き合う覚悟を固めた信者にはきっと役に立つはずである。

はっきり言っておきたい、もしもキリスト者として、私たちが信仰を守り通したいのであれば、こうした敵の飽くことのない卑劣な作戦と手法をよく理解した上で、このようなものに脅かされず、嘘を見抜いてさらりと交わし、どんな攻撃にでも、根気強く立ち向かって打ち勝つだけの、勇気と決意と覚悟が必要となる。

おそらくは、戦時下のクリスチャンにはそれがあっただろうと思われる。彼らは同僚の信者からも、特高警察に売り渡されることを覚悟の上で、決して信念を曲げず、福音を宣べ伝え続ける勇気と覚悟を持っていたのである。

現在は、国家が宗教と対立しておらず、信者に偽装する一部の人々が狂ったように信仰の迫害に及んでいるだけであるとはいえ、当ブログに対しても、長年に渡り、組織的犯罪行為が行われているため、そこから、このような迫害に立ち向かうために、何が必要であるかを学ぶことができる。

筆者がこれまでに学んで来た戦いの手法は、みな暗闇の勢力の側から先にしかけられた攻撃を研究した結果である。そのような攻撃がしかけられることは、誰にとっても愉快とは言えないが、それがなければ、暗闇の勢力との戦いというものが存在することも、その脅しに打ち勝たなければ、信仰の前進はあり得ないことも、また、脅しを打ち破るための有効な御言葉がきちんと存在しており、圧倒的な勝利をおさめることが可能であることも、分からなかったであろう。

聖書には、「神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。」(Ⅰヨハネ5:4-5)と記されている通り、私たちには、すでに世に打ち勝った方がおられ、勝利が約束されている以上、恐れることはないのである。

さらに、「神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。」(Ⅰヨハネ4:16-18)

とある通り、敵の脅しに立ち向かうために、まず必要なのは、自分自身の内なる恐れを払拭することであり、その恐れとは、神の掟を全うしていないかも知れないという、自分自身の心の恐れ、もしくは罪悪感である。これらのものを完全に十字架に死に渡し、キリストの義と聖と贖いに固く立って、全く揺るがされないことが肝要である。

さて、これまでの組織的犯罪行為を通して明らかになった敵の手法は、以下の通りである。
 

 ネトウヨ鬼戒律(暗闇の勢力による犯罪的バッシング手段)

その➀  必ず強い方ではなく弱い方を叩け。
(男性と女性ならば、女性を、指導者と信徒なら信徒を、親と子なら子をバッシングせよ。
 なぜなら、強い者でも、自分の愛する弱い者が攻撃されれば、うろたえるからである。)

その② 本格的な攻撃前に、嘘八百の風評被害をばらまいて、標的を弱体せよ。
(裏取りなど必要ない。責任は訴えられてから考えれば良い。とにかくデマを急速に拡大し、噂の出所を水増しして大合唱に見せかけることが重要。弱い相手ならこの時点で狼狽して降参する。デマの中でも悪魔の最高の好物が性的スキャンダル。不倫など絶好の材料。なければ、でっちあげるだけ。)

その③ 個人に対して常軌を逸した集団的なバッシングをせよ。
(十年間粘着するなどは序の口。人数を水増ししつつ、殺意を感じさせるまでの執念により集団的にッシングを繰り返し、恐怖して退却させろ。)

その④ 標的から受けた非難は、すべて裏返しにして標的に返せ。
(白黒反転論法。ターゲットの言葉を使ってターゲットを攻撃せよ。)

その⑤ ターゲットを徹底的に揶揄して「裸の王様」に仕立てあげろ。
(集団的に笑いものにして、支持者を減らし、信用を引きずり落とすことが肝心。)

 
その⑦ ターゲットのトラウマとなる出来事を調べて繰り返し攻撃せよ。
(ネチネチと執念深く繰り返し急所を攻撃することが重要)

その⑧ 女性がターゲットの場合、執拗に年齢と容姿と異性関係を攻撃材料とせよ。
(若ければ若いことを、年寄りは年寄りであることをバッシングの理由に。女性は年齢を突かれることと美醜を指摘されることに弱い。若い美人には特に念入りに性的スキャンダルを捏造せよ。)

その⑨ 絶対的確信に満ちて支離滅裂な嘘を吐け。
(嘘を吐くときこそ悪魔の真骨頂。あまりにもあからさまな嘘を、あまりにも大胆に宣言されると、人は意気阻喪して、反論の意欲が萎える。蜘蛛の巣のように錯綜した嘘も、反論に手間がかかるので絶好の武器。)

その⑩ 人間関係を引き裂いて孤立させよ。
(悪魔は裏切りと密告が大好物。親しい知人に近づいて裏切らせるのは蜜の味。孤立していなくても孤立しているという噂をまき散らし、それらしい雰囲気を演出。)

その⑪ 特に家族関係を徹底的に傷つけろ。
(家族だけでなく、友人、知人、職場の関係者、可能な限り大人数を調べ上げてスキャンダルに巻き込め。人は社会的地位を惜しむので、騒ぎを拡大されることに弱い。)

その⑫ 孤立させたら即座にマインドコントロールを。
(相手がうろたえている時にこそ精神を集中攻撃して陥落せよ。)

その⑬ 優しい同情者を装って近づき情報を盗み出して裏切れ。
(スパイの古典的手法。うろたえさせることに成功すれば、ターゲットは必ず誰かのところに相談に行く。その人間に近づいて裏切らせよ。)

その⑭ 水に落ちた犬は徹底的に叩け。
(とにかく弱い者を叩きまくれ。二度と浮かび上がって来ないまでやれ)

その⑮ 正当な理由がないのに訴訟や告訴の脅しをやたら振り回せ(そして実行しない)

その⑯ ターゲットになりすませ!
(大量のドッペルゲンガー作成による惑わし。別名、分身の術。ブログ、ホームページの大量コピペや偽造だけでなく、本人になりすましてコメント投稿、ひたすら発言を盗みまくり、質の悪い模造品を大量に偽造し続けることが重要。)

その⑰ 不気味かつ不快な印象を与える接触を繰り返せ。
(人は意味の通らない支離滅裂な行為を繰り返されると、うんざりして立ち向かう気力をなくす。)

その⑱ 太刀打ちできない非難を受けたら、恋愛感情にすり替えろ!
(自分はターゲットから愛されているから非難されるのだという論法を使えば、反論する必要もない。)



これらはすべて古典的手法であって、しかも、ほんの序の口である。従って、信者はこの程度の脅しに屈しているようでは、先はない。(しかし、これらをクリアするために、約十年程度の時間が経過しているのは事実である)。

「なりすまし」については、大量の偽物を作成して本物を凌駕しようとすることは、古来から暗闇の勢力の常套手段であるが、これはグノーシス主義の「存在の流出」と密接な関係があり、掲示板もこれに深く関係しているため、このことについては、改めて記事にまとめることにしたい。
 
* * *
 
 
さて、戦時中、日本基督教団が軍国主義に加担し、兄弟たちを迫害する側に回ったことについては先の記事で触れたが、これに関連して、日本基督教団幹部がホーリネスの牧師を迫害する側に回ったことを示す解説もあるため、紹介しておきたい。

5.ホーリネス教会への弾圧と富田満 (日本基督教団 西方町教会ホームページ)

ちなみに、日本基督教団が戦争に加担したことなどは、すべて過去の出来事であって、現在とは関係ないから、このような歴史的事実を取り上げて、教団の優劣を論じたりすること自体が間違っていると言う人がいるかも知れない。

しかし、筆者はそのようには思わないし、また、筆者は教団の優劣を論じているわけでもない。筆者は、戦争体験を軽んじるわけではないにせよ、これを歴史的な出来事として客観的に知ることと、当事者(しかも深い罪悪を負った者)として受け止めるのでは、雲泥の差が生じると考えている。
 
私たちは後世に生きる者として、歴史を教訓にすることは大いにすべきであるが、主にあって、罪赦された者として、決して不必要な罪悪感に苛まれたり、無用な霊的な傷を負うべきではないと確信する。

筆者から見て、ペンテコステ系の教会は、底抜けに明るく、歴史が浅すぎるがゆえに、未熟で、軽薄と思われても仕方のない部分がある。また、あまりにも無定見に様々な霊的ムーブメントを取り込んだがために、悪霊の働きにも大きく扉を開いてしまったことは確かである。

しかしながら、こうした欠点とは別に、筆者は個人的に、聖霊の働きをなくして、キリスト教信仰は全く成立し得ないものであり、戦後成立したペンテコステ系の教団教派が、戦前・戦中に弾圧されたり、思想的転向を経験させられたりした信者ら特有の、拭い去ることのできない罪悪感や絶望感と無縁で生まれて来たことは、非常に良いことだと思っている。

キリスト者であれ、共産主義者であれ、戦時中に思想弾圧を受け、強制的に転向させられたり、力づくで自分の信念を曲げて屈服させられたりした体験のある人々は、筆者から見て、ある共通する独特かつ非常な「霊的暗さ」を持つ。

たとえば、遠藤周作の作品などを読むとき、戦時中に受けた体験のものすごい負の影響が、彼の信仰観全体に反映していることを、筆者は言外に感じざるを得ない。

たとえば、映画『沈黙』などは、予告編を見るだけでも、あまりにも絶望的で、ほとんど救いのない世界だという印象を受ける。そして、こうした世界観には、おそらくは遠藤自身の戦争体験から来る心の深い罪悪感と関係しているであろうことが容易に想像がつく。

おそらく、当時、戦争に加担させられたクリスチャンには、これと同じように、生涯、拭い去れない深い霊的な傷が生じたに違いないと思われる。

かつて当ブログにおいては、マザー・テレサや奥田智志牧師などの名を挙げつつ、若かりし頃に、あまりにも悲惨な形で他者の死や破滅の光景を目にした者は、その光景が、心に強烈なトラウマとなって焼きつけられ、生涯、その負の体験から離れられなくなり、罪悪感から弱者救済事業に身を捧げねばならなくなった例があることを紹介した。

マザー・テレサは一般には、キリストの愛を宣べ伝えるために、インドの貧しい人々を助けたのだと考えられているが、実際には、彼女自身が何十年間にも渡り「神の愛が分からない」という絶望感に苛まれていたことが、死後になって、明らかにされている。

上記の『沈黙』などは、筆者の目から見ると、それとよく似た世界観に基づいて作られており、そこには、マザー・テレサや奥田牧師と同じように、「神はどこにいるのか。なぜ私たちの苦しみに答えて下さらないのか。どうしてこのような理不尽の中に人類(私たち)を見捨てておかれるのか。」という、神の愛の中にいる信者ではなく、むしろ、神の愛から疎外された人々の悲痛な叫びが込められているように思われてならない。

しかし、筆者が知っている限り、ペンテコステ派の教会で説かれる神は、このように人間を理不尽の中に見捨てて沈黙される神ではないのである。

もちろん、ペンテコステ派の集会には、あまりにも多くの偽物の、眉唾物の奇跡体験が溢れていることは確かであり、そうした偽の奇跡の中には、悪魔的起源を持つものも、多く含まれているのではないかと考えられる。次々に新しく出て来る海外宣教師の著書も、一体どこまで信憑性を信じて良いやら分からないような話ばかりである。

しかし、その問題をさて置いても、キリストは、実際に、カルバリで悪魔のわざを打ち壊し、死を打ち破って復活されたのであって、御霊は、死と復活を経たキリストのまことの命であるから、常識的に考えて絶体絶命の状況においても、信者を勝利させる力を持っていることは確かなのである。

従って、筆者は、ペンテコステ運動に様々な問題があることは否定するつもりがなく、また、筆者自身が、真にキリストに出会ったのも、この教団を離れて後のことであったとはいえ、それでも、戦争中の暗い歴史から来る罪悪感とは無縁で、ダイナミックで奇跡的な聖霊の働きを重視する、底抜けに明るいペンテコステ系の教団で、筆者が幼少期を過ごしたことは、筆者自身の信仰観の形成にとって、極めて重要な意味を持つ出来事であったと考えている。

聖霊派の教会における底抜けの明るさと、愚直なほどに単純な喜びは、やがてその後、筆者が知ることとなる復活の命の勝利の喜びに通じるものがあったと思うのである。

今日でも、筆者の信仰は極めて単純であり、神が筆者のすべての必要を満たして下さり、筆者のためにすべてを成し遂げて下さるというものである。

しかし、特に戦時中に戦争に加担させられたキリスト教の信者には、神は、ペンテコステ系の信者が認識しているような、力ある方としては、とらえられていない。こうした人々の心の中では、神は信じる者に力強く自由と解放を与える方ではなく、むしろ、最も悲惨な状況で、人類を絶望の中に置き去りにして沈黙するような存在として認識されているのである。

だが、筆者から見れば、それは、人の罪悪感のなせるわざであって、本当は神の側の問題ではない。
 
いずれにしても、戦争を当事者として体験したかどうか、(その罪を連帯責任として共に背負わされたかどうか)という点は、それほどまでに、同じキリスト教信者の信仰観を分けたようなのである。

従って、戦後成立した聖霊派の教団教派に、そのような負のトラウマが、出発の時点から刻みつけられなかったこと、そして、筆者自身も、そうしたトラウマと無縁であることができたがゆえに、自らの信仰観に著しい制約を受けなかったのは、まことに運命的かつ幸運なことであったと思わずにいられない。

さらに、ペンテコステ派が登場して来る前の日本のキリスト教全体には、死はあっても、復活がはっきりと視野に入っていないという印象を受けざるを得ない。

このことは、戦時中に最も激しい弾圧を受けたホーリネスが、いわば、聖霊派の走りであったという点にも見て取れる。ホーリネスは、新生、聖化、神癒、再臨という四重の福音を唱えており、当時のホーリネス信者は、神癒なども、文字通りに信じていたのである。

その点で、当時のホーリネスの信者の信仰は、今日のペンテコステの信者に極めて近いものであり、御霊による神のダイナミックな解放のみわざを信じていたという点で、ホーリネス信者は、当時のクリスチャンの中で、最も先駆的で革新的な信仰を持っていた人々であったと言えよう。

だからこそ、軍国主義下の日本において、ホーリネスの信者は、政府にとって、不倶戴天の敵であるかのように、最も激しい弾圧の対象とされたのである。それは彼らが、聖書の記述が文字通りの真理であることを信じ、特に、聖霊の大胆な解放の働きを、現実のものとして受け入れ、実際にそれを行使することによって、悪魔のわざを打ち壊し、とらわれ人を解放し、キリストの再臨を引き寄せることができると信じて、それを真剣に実践していたためである。

つまり、ホーリネス信者らの働きの中には、信仰によって、聖霊による、人間の力を超えた神の大胆なみわざが実際に現れていたからこそ、国体思想の持ち主の側から見て、彼らはとりわけ看過できない重大な脅威をもたらす存在と映り、最も激しい迫害と弾圧の対象となったのである。

それ以外の、御霊の働きを重視しない形骸化したキリスト教は、おそらく軍国主義政権にとって、さしたる脅威とはみなされなかったことであろう。

そこで、聖霊のダイナミックな働きというものを視野に入れるか入れないかによって、キリスト者の信仰観は180度変わると言えるのである。

悪魔と暗闇の勢力が、現在、最も憎むべきものとして敵視しているのも、御霊の働きであって、これを一切、無視したキリスト教信仰などは、彼らにとって痛くも痒くもないものだと言える。

約2000年前、悪魔と暗闇の勢力は、キリストが地上に来られた際、彼を憎んで十字架にかけて殺害した。しかし、今やキリストは復活されて、聖霊を通して、信者の内に住み、イエスが約2000年前に地上でなされたような大胆で奇跡的な解放のわざを、一人一人の信者を通して成し遂げることができる。

彼は私たちのために義と聖と贖いとなられ、私たちをすべての苦難と脅威から実際に救い出す権威と力を持っておられるのであって、そのために、今日の信者も「この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。」と言うことができるのである。

しかも、聖霊は、来るべき神の国の秩序そのものであって、アナニヤとサッピラをただちに死に至らせたような聖なる支配領域であって、死の向こう側にある復活であるから、悪魔と暗闇の勢力には、どんなことをしても全く手を触れられないものである。

従って、そのような領域が、サタンの支配下である地上に出現することを、悪魔と暗闇の勢力は断じて許しがたい事態として徹底的に憎んでいるのである。

そういう意味で、今日、ある信者が、聖霊派に属し、聖霊の力ある働きが現実に存在しうる事実を知ったならば、そのことには、はかり知れない重要な意義が込められている。

たとえその信者が、ペンテコステ運動に多くの混乱が入り込んでいることに気づき、心傷ついてその教団教派を去り、あるいは、バラバラに離散することがあったとしても、彼らに求められていることは、二度と混乱を味わいたくないという思いから、聖霊のことになど言及もしない、より古く形骸化した教団教派に戻ることではないのである。

冒頭で述べた通り、キリスト教は、今日、新たなる信仰回復運動の出現に直面しているのであって、そこでは、信者らが、信仰によって歩むために、見えるものに依存せず、さらに見えないキリストだけを追い求め、より新鮮で偽りのない聖霊のみわざを通して、御言葉を地に引き下ろし、実現して行くことが求められている。

従って、私たちに与えられているミッションも、歴史的により古い団体に逆戻り、そこで、すでに後にして来たはずの霊的な負の遺産を罪悪感として背負うことではない。

御霊は人の心を刷新し、すべての傷を癒し、復活の領域において、心を全く新しくすることができる。まるで生まれてから一度たりとも罪を犯したことのない、生まれたての魂のように、人の心を刷新することができる。

私たちには、そのような刷新、すなわち、心だけでなく、霊、魂、肉体のすべてにおいて、死の後に働く復活の命の現れを、絶え間なく求めつつ、キリストの命が、私たちを生かすすべての動力源となることを信じて、さらに大胆な解放のみわざを求めて前進して行くことが求められている。

どれほど迫害が激しいにせよ、死を打ち破ったキリストの御霊は、すべてにおいて勝利をもたらすことができる。それを信じて、そのまことの命の現われを、神の聖なる自由と解放のみわざを、飽くことなく信じて追い求めて行うこと、それが私たちが、キリストの復活の証人であることの意味であり、私たちはその復活の命を、自分自身の内側に確かに持ち運んでいるのである。


祝福あれ、主の御名によって来る人に。私たちは主の家からあなたたちを祝福する。(2)

「義のために迫害される人々は、幸いである。
 天の国はその人たちのものである。

 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(マタイ5:10-12)
 
厳粛かつ喜びに満ちた朝である。戦略的なことなので今は詳しくは話せないが、最初の訴えの提起が終わり、これから順番に複合的な訴えを次々に出して行くことになる。ものすごい量の文書だ。受けとる者をさぞかし煩わせることになろう。インターネットに発表する文章にはいかなる法的価値もないが、ネット上によた言を並べるくらいなら、ちゃんとした効力を持つ文書を書いた方が良い。
 
さて、重要な日に限り、道路へ出ると仮免許の車がノロノロと前を走っていたり、渋滞に巻き込まれたりして、なかなかスリリングである。だが、心の中は実に平安だ。主よ、目的地へたどり着くまで守って下さいと祈りつつ、何だかアクション映画の主人公になったような気分だ。
 
ところで、最近、ある若い登山家が、エベレスト登頂に失敗して亡くなったという。なんとそれまで7度挑戦し、7回とも失敗した上での8度目の挑戦だったのだという。その人は登山家と呼ぶには、世界ではあまりにも無名の存在で、プロの登山家の間では、登山家としての評価はあまり受けていなかったらしい。

むしろ、世間からの応援を受けて、「登山のショー化」とでもいうべき、プロの登山家とは全く異なる挑戦を行う異色の存在として見られていた。近年は、実績がなさすぎるのに、あまりにも無謀な挑戦をしているとして、このまま行くと死の危険があるという警告すらもなされていたというのだ。まさにその危惧が的中した形となった。
 
その登山家には大企業のスポンサーやファンの数々がついて、熱烈な応援が続けられていたという。プロの登山家の目から見れば、到底、エベレスト登頂(しかもただの登頂ではなく極めて困難な挑戦)を果たす実力などなかったにも関わらず、おだてられ、祀り上げられ、担ぎ上げられて、引くに引けなくなり、毎年の失敗の後に、ついに最後の挑戦に赴き、そこで命を落としたのだという。
 
嘘の混じった感動体験の終わりは何とも悲惨なものである。束の間の高揚感の後で、手痛いツケがやって来る。担ぎ上げた人々の心にも、忘れられない苦い教訓となって残ることだろう。

この登山家は決して詐欺をやっていたわけではないが、自分の身の丈を知らず、本当の意味での登山家の精神を持っていなかったと見られる。決してこれと同列に並べるわけではないが、最近では、ピアニストとして活躍するのに十分な実力と才能があったわけでもない日本人の若者が、「シチリア公マエストロ殿下」などと詐称して、自分を偉大なピアニストに見せかけて、ヨーロッパなどで詐欺的公演活動を繰り広げていたというニュースもあった。

約10年前の日本では、日本人が国外でこのような大規模な詐欺活動を行うとは、ほとんど考えられていなかった。我が国の人々は、根気強い努力や、忍耐力で知られていた。それがここほんのわずかな間で、地道な努力を嫌い、時間をかけて高い目標を目指すのではなく、短期間で、ドーピングのような不正な方法を使って、人を出し抜き、欺きながら、虚構の実績を築き上げ、人々のアイドルとなり、大金を稼ごうとするような人々が現れるようになった。だんだんこの国が本当に壊れて来ていることを感じる。
 
ペンテコステ運動もこれに似ている。この運動からは、実に様々な「霊の器」たちが、線香花火のように束の間、現れては消えて行った。この運動では何かの超自然的な力を持っていれば、それだけで、誰でも指導者になれる。地道な教育訓練など必要ない。短い間で人々の注目を集め、華やかな舞台を作り上げることさえできれば、それが成功なのだ。彼らの「ミニストリー」は、まさにショーと呼んだ方が良いであろう。

だが、ショーであるがゆえに、それは内実が伴わない、束の間の幻のような夢でしかなく、その夢のあとで、苦い教訓が訪れる。

ペンテコステ運動から生まれて来たカルト被害者救済活動も同じである。これは『水戸黄門』や、『暴れん坊将軍』といったドラマと全く同じ、キリスト教界を舞台とした勧善懲悪のドラマである。正義の味方をきどる人達が、勇敢に次々と悪者をやっつけるというドラマを、現実を舞台にして演じ続けているのである。

観客は斬り合いの場面を見て溜飲を下げ、悪者とされた人々をさらしものにして引きずり回し、その悪事の証拠をつつき回し、非難する。

これがドラマであるうちは良いが、現実を舞台にしているところが、非常にいやらしく、恐ろしい。現実では、一人の人間が、ずっと絶え間なく正義の味方を演じ続けるなどのことは不可能だ。むろん、そうそう都合よく悪者が次々と登場して来るはずもない。

それにも関わらず、たとえばネット上で誰かが正義の味方のように発言を始めると、おかしなことが起きる。取り巻き連中が集まり、ヨイショしてショーが始まり、彼らは現実を舞台に、ずっと正義の味方を演じ続けるしかなくなってしまうのだ。

すると、どういうことが起きるだろうか? 

悪者を「製造」するしかなくなる。次から次へとドラマの材料となりそうなストーリーをかき集めて来ては、絶えず悪者を作り出し、これを糾弾するしかなくなる。

現実にはそんな都合の良いドラマがあるはずもなく、彼らに人を裁く権限もないにも関わらず、ただ自分を正義と見せかけるために、「カルトの疑いあり」と嫌疑をかける相手を終わりなく見つけて来ては、自分が勇敢に「敵」と戦い、「敵」をやっつけているという演出を行うしかなくなる。

観客は、血に飢えているので、もはや現実と虚構の区別がつかなくなり、「生きた生贄」を次々と求める。どこかで聞いたような話だ。ローマの衆愚制の末期状態の「パンと見世物」にも似ている。
 
私たちの進むべき道は、自己栄化の道ではない。自分で自分を義とし、誉めそやし、人々から注目を浴びて、群衆と手に手を取り合って歓呼されて進んで行く道ではない。

自分に都合の良いことを言ってくれる人が、真実を述べているのだという短絡的な考え方を、いい加減に卒業せねばならないのだ。

人々があなたを取り巻き、あなたにおべっかを使うのは、決してあなたを愛し、あなたのためを思っているからではない。コメント投稿者は、ただ自分の欲望を誰かに重ね、その人間に賛辞を送ることで、自分はしかるべき代価を払わずに、誰かの中に手っ取り早く夢を見、自分の代わりに、その人物を前線に立たせて自分の夢を実現するために戦わせようとしているだけだ。

要するに、あなたを破滅させるために、あなたを賞賛しているだけなのだ。

虚栄の生き方を行う人々の末路は非常に厳しいものとなる。そのようにして偽りの高みに祀り上げられた挙句、破滅することに比べれば、低められることは、イエスの過越の血潮の中に隠れることであるから、まことに幸いである。

主イエスは罪がなかったのに、罪とされ、十字架の死に至るまでの苦難を受けられた。ご自分の生きておられた時代にもてはやされることなく、宗教指導者として祀り上げられ、権威を振るうこともなく、地上では、家も、財産も、ご自分の職業も、家族も、友人も、何一つ所有せず、何も持たない人として、ご自分の生涯をすべて人々のために捧げられた。

我々の救い主が地上で栄光をお受けにならなかったのに、その僕である私たちが彼に先んじて栄光を受けるとすれば、それは何かが完全に間違った生き方であると言える。

これが試金石なのである。私たちがイエスのために、自己を否むことができるのかどうか、蔑みや、嘲笑や、悪罵の言葉をも乗り越えて、福音のために身を捧げることができるかどうか。それとも、ただ自己の栄光のために福音を利用しているだけなのか。

それをはっきりさせる何より明白な試金石である。

地上のエルサレムはそれぞれの石が残らないほどに崩壊したが、天のエルサレムにこそ、神の眼差しが注がれている。

誰がご自分の僕であり、誰が神の義に立っているかは、必ず、神ご自身が証明される。だが、私たちは、それを自分で人前に振りかざすことはしない。悪魔の不当な訴えには毅然と立ち向かい、当然ながら虚偽をのべている人々は恥をこうむることになるが、それでも、私たちがよって立つのは、神の義であって、自分自身の義ではないのだ。

地上のエルサレムは、神が遣わされた預言者らを受け入れることを拒んだ。
今の言葉で言えば、彼らは神が遣わされた預言者や僕らを、カルト扱いしたということになろう。

しかし、私たちは、心から言う、

「祝福あれ、主の御名によって来る人に。私たちは主の家からあなたたちを祝福する」と。

私たちは誰が主の御名によって来る人々であるかを見分け、彼らを追い出したり、排斥することなく、喜びを持って迎え入れる。

そう、この言葉は、私たちが「主の家」にいればこそ、言えることだ。

ダビデは言った、

主はわたしの光、わたしの救い
 わたしは誰を恐れよう。
 主はわたしの命の砦
 わたしは誰の前におのおくことがあろう。

 さいなむ者が迫り、
 わたしの肉を食い尽くそうとするが
 わたしを苦しめるその敵こそ、かえって
 よろめき倒れるであろう。

 彼らがわたしに対して陣を敷いても
 わたしの心は恐れない。
 わたしに向かって戦いを挑んで来ても
 わたしには確信がある。

 ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。
 命のある限り、主の家に宿り、
 主のを仰ぎ望んで喜びを得
 その宮で朝を迎えることを。

 災いの日には必ず、主はわたしを仮庵にひそませ
 幕屋の奥深くに隠してくださる。
 岩の上に立たせ
 群がる敵の上に頭を高く上げさせてくださう。
 わたしは主の幕屋でいけにえをささげ、歓声をあげ
 主に向かって賛美の歌をうたう。」(詩編27:1-6)

偽りの証人、不法を言い広める者が、ダビデに逆らって立つ時、ダビデは、はっきりと彼らの前で、神の守りと慈しみを宣言する。神が自分の頭に油を注いで下さり、敵前で食卓をもうけて下さることを確信していた。
 
「わたしは信じます。命あるものの地で主の恵みを見ることを。
 主を待ち望め。雄々しくあれ、心を強くせよ。主を待ち望め。」と。

命あるものの地で、主の恵みを見る。何と良い言葉ではないか。私たちはまだ見ぬ都に思いを馳せながら、主の御顔を尋ね求める。主に似た者とされるために。エクレシアは要塞をも打ち破る力を持った強力な神の軍隊。神の守りが私たちを覆い、私たちの霊・魂・肉体のすべてを人知を超えた平安により守っている。


賢い花嫁と愚かな花嫁の区別―キリストの十字架に敵対する者の最期は滅びである

オリーブ園に連載されている記事は、あまりにもタイムリーかつ霊的に深い示唆に富んだ内容なので、そのまま以下に転載しておきたい。

ここには、エクレシアがバビロン化することの危険性が如実に表されているが、それは筆者がこれまで見聞きして来た教会に関わるすべての腐敗現象に当てはまる。

今日も、エクレシアは、教理面での腐敗、そして、生活面における腐敗という両面から、敵の攻撃にさらされている。どれほど多くの交わりがそうして敵の罠によって堕落させられたことであろうか。

私たちが聖書の御言葉に照らし合わせて、何かの事項について、神と人の前で曖昧な態度を取る時、敵につけこませる隙を与えてしまい、そうして入り込んだ腐敗が、やがてその人自身だけでなく、他の兄弟姉妹にまで及び、集会全体を堕落・変質させてしまう。

異端の教えと分かっているものを拒否することもなく集会に持ち込めば、その集会が神の御心にかなうエクレシアであり続けることができるはずがない。汚れたものと分離もせずに、聖さを保つことはできない相談である。
 
だが、差し迫った堕落の危険がないときでも、信者がただぼんやりと曖昧な思考の中で漫然と日々を過ごすことにより、神の御前での心の透明性、真実性が曇らされ、失われることがある。
 
信者が何一つそのような落ち度を犯していない時でさえ、敵は「あなたは間違っている」という思念を信者に植えつけようとする。

クリスチャンは、自分が誤っているせいで起きた霊的な停滞であれ、何も誤っていないのに、敵の思念を取り込んで自信喪失状態に陥ったせいで起きた霊的な停滞であれ、何らかの霊的停滞が起きる時には、ただちに力を失ってしまう。

その結果、教会の証しが曇らされ、力を失い、最後には取り去られ、その防衛力の低下に乗じて、霊的な敵が教会に攻め込み、教会が占拠されてしまうことさえ起きるのである。
 
エクレシアを腐敗させないための最大の秘訣は、一人一人の信者が、神に対する心の純粋さ、貞潔さを完全に保つことである。

筆者はブログを書いていなかった時期も長いが、記事を書くことにより、常に自分自身の信仰の姿勢を正すよう迫られている。

自分の立場がはっきりしていないのに、人前で何かを表明することはできない。だが、多くの場合、書いているうちに、次第に自分の心の奥底まで照らされて、初めはぼんやりとしか理解していなかった事柄が明瞭になり、神と人との前で、信仰の姿勢を正させられる。

記事に向かうときに、自分の関心を地上のものから意識的に引き離し、「上にあるもの」に向けることが可能となるのである。

その作業をしないと、いつの間にか自分の思考が曖昧になり、気づくと神に関する事柄にすっかり鈍感となり、地的な関心だけで心が占領されたりする。にも関わらず、その状態が危険であることさえ分からなくなってしまうのである。

今、筆者は、キリストの花嫁たるエクレシアが、その高貴さを失わないためには、一人一人のクリスチャンが、神の御前で純粋であること、嘘偽りなく、神との間で争いがないこと、真に神に心を注ぎだし、心の一途さ、透明さ、必死なまでの真剣さを取り戻すことがどれほど不可欠であるかを思う。

時に、どんなことがきっかけであれ、エクレシアが神に対する切迫した真実性を取り戻し、教会の証しが回復されることを願って、神は教会に対する敵の激しい攻撃をあえて許されることがあるのかも知れないと思う。

精金を曇らせること

 すでに見たように、これは第一に教理によってなされてきました。誤った教理に関する何らかの示唆を持ち込むことができるとき、誤謬を僅かでも潜り込ませられるとき、敵はそれを邪悪なパン種のように働かせます。そして遂には、その類のものが発達して、聖霊を退ける契機となり、それが存在する所では主は進み続けられなくなります。そして、妥協、麻痺、弱さの状況が確立されます。純金、精金が曇らされてしまいます。

 教理の路線に沿ってこれがなされてきただけでなく、生活の路線に沿ってもなされてきました。同じ方法、同じ目的が敵の活動を支配しています。教理に関して絶対的に正統的なものの上にとても強く立っていたとしても、あなた自身の生活、あなた自身の霊的生活、あなた自身の道徳的生活においてはとても疑わしい状況にあるおそれがあります。神の御言葉の文字にはとても忠実でも、それでもあなた自身の生活と証しにおいては妥協しているおそれがあります。仕事の取引や、他の諸々の関係や、神の御前におけるあなた自身の生活において、そうであるかもしれません。

透明でないもの、純粋でないもの、清くないもの、まっすぐでないもの、疑わしいもの、おそらくは秘密の習慣があるかもしれません。ああ、もしかすると多くの事柄の中の一つによって、生活の中からあの堅固さ、あの明確さ、あの積極性、あの透明性が取り去られ、時には無意識のうちに当事者の中に、何かに直面しているという恐れ、見つかったものを白状しなければならないという恐れが生じます。

停滞させるものが生活の背後にあります。そのせいで証しから真の活力が、生活の中から真の衝撃力が、交わりの中から真の実り豊かさと価値が奪われています。往々にして形はありませんが、何かがそこにあります。その上に手を乗せることはできませんが、正しくないもの、透明ではないものが、その生活の中にあることがわかります。

そして次に隠し事、ごまかし、分離が生じます。あるいは、他の多くの種類の悪の兆候が生じるかもしれません。それはすべて、神の御前で絶対的に透明ではない何かがあるせいです。敵が一つの要素を植え付けました。その要素が純粋な光を損なって、その生活に影、もやを生じさせたのです。敵の狙いは神にある命の完全な水晶のような透明性を損なって、それにより命全体を麻痺させることです。外形は依然として同じであり、信仰告白はそれまでと全く同じかもしれませんが、停滞してしまうのです。


 これを述べたのは非難するためではありません。御自身の民、エルサレムに対する神の御旨を損なうために敵がそれに沿って好んで働く諸々の路線の一つを指摘するためです。神の御旨とはすなわち、エルサレムが最終的に天から出て、神の栄光を持ち、その明かりが高価な宝石のように、碧玉のようになることです。そして、それに関するすべてのものが、ガラスのように透明で、水晶のように透明な純金となることです。ああ、このような言葉や句には、何という霊的価値と重みがあることか!

 これはみな議論の余地のない明確なことです。私たちは次のことを理解しなければなりません。すなわち、敵は絶えず、私たちを知らないうちに「自分は雲の下にある」と感じる地点にもたらそうとしているのです。時として敵は誤った立場を設けて、「自分は誤っている」と私たちに感じさせます。私たちは誤っていないかもしれませんが、敵は「自分は誤っている」と私たちに感じさせて、私たちが自信、確信、堅固さ、立場、地位を失うあの領域にもたらそうとします。その領域で私たちは潜り込んだ何らかの要素によって弱められてしまいます。敵は公然と神の民を雲の下に、疑いの下にもたらして、彼ら自身の心を疑いや疑問の下にもたらします。それは、透明性、確実性、力を損なうためであり、そして、彼らが万人に対して、彼ら自身に対してさえ、大きな問題となるようにするためです。

さて、これから先の記事では、しばらく、ペンコステ・カリスマ運動の起源がグノーシス主義にあることについて、この運動が根本的に誤っていることについて、今まで以上に詳しく記して行きたいと考えている。
 
その過程で、霊的な敵は、これまで通り、筆者の信仰の証しを地上から取り去ろうとして働くであろう。筆者が以上の論稿をこれから執筆すると予告してから、まだ何一つ記事をアップしていないのに、もうさわやか読者が当ブログに押し寄せてきている有様である。

読者にはっきりと断っておきたい。これまで当ブログが受けて来た攻撃は、すべては霊的な敵に由来するものであり、筆者の信仰の証しを損なうことを目的としてなされたものであると。

だが、彼らは、自らの悪事の厳しい責任を取らされて終わるだけである。

この度、当ブログに多年に渡り、嫌がらせを続けて来た杉本徳久なる人物が執筆しているブログ「神々の風景 -religious scene」は削除されたが、「随想 吉祥寺の森から」も遠からず、削除されることになる。

削除されるまでの間に、杉本ブログのコメント投稿者が、杉本をさらなる破滅に追い込もうと、杉本を争いに焚きつけるだろう。要するに、罪に定められ、滅びることはもう分かっているにも関わらず、最後の期間を使って、杉本ブログを当ブログにぶつけ、どちらが生き残るか競争させ、筆者に可能な限りの害を与えようという見世物を提供しているのである。

だが、はっきりと言っておく。必ず、嘘は真実の前に敗れると。

杉本ブログは、もう何年も前から、完全に信頼性を失った嘘の温床と化しており、自作自演の場となり果てている。

筆者自身は、ブログを書く中で、コメント投稿を重んじることの危険に気づき、無責任なコメントが管理者の意志に反して、どれほどブログの趣旨を歪め、真摯な考察を妨げるか分かったので、ある時点から、コメントを受けつけなくなった。無責任なコメントを掲載し続けていると、そのとばっちりはすべて管理者に降りかかることになるだけである。

杉本ブログは、コメント投稿者の手前、終わるに終われなくなっているのであり、さらに、コメント投稿者のせいで、このブログは杉本自身の意図をさえ離れて、より一層ひどく罪を増し加えながら、破滅へと転げ落ちているのである。
 
杉本ブログに筆者が書きこんだコメントは、2009年に投稿したただ一件だけであり、その他のいかなるコメントにも、筆者は全く関与していない。杉本ブログのみならず、2ちゃんねるなどの掲示板にも、筆者は人生で一度たりとも投稿したことはなく、するつもりもない。(そのようなものを見つければ、それはなりすましと断定してもらって構わない。)

杉本は、筆者が2009年に杉本のブログに書き込んだ、その一件のコメントを、筆者が削除して欲しいと要請したことをきっかけに、当ブログに対する執拗な嫌がらせ行為に及んで来たのであるが、おそらく、そういうことが起きたのは、杉本がその当時から、筆者のために、ゆくゆくは自分のブログ全体を削除させられる羽目になることを、内心で知っていたためではないかと思われる。

筆者はその当時、そんな結末に至るとは予想だにしていなかったが、杉本に常に虚偽ばかりを教え導いて来た悪霊は、最初からそうなると知っていて、その事態を恐れるがゆえに、杉本を利用して筆者を徹底して攻撃させたのであろう。

杉本ブログで行われていることは、今や何から何まで「自作自演劇」の「やらせ」であるが、杉本が初めに当ブログをバッシングする目的で、2009年に投稿した記事も、やはり「やらせ」であったものと筆者は確信する。そのバッシング記事には、1千件のコメントがついて、杉本ブログが炎上に至ったが、それも99%工作員による作戦だったのであろう。

杉本ブログの悲惨な状態は昔も今も全く変わらない。杉本ブログに投稿している人間はほぼ雇われた工作員であり、その他にほんの少しの「悪のり」の投稿があるだけである。

筆者が当ブログに、杉本が刑事告訴されたことを記す記事を投稿してから、さわやか読者が当ブログを絶えず監視しているが、その顔触れを見ると、嫌になるほど以前と変わらず、結局、こうした異常な読者らも、みな雇われ工作員である様子がよく分かる。

杉本は自分の犯している罪を直視する勇気がなく、それを常に他のクリスチャンになすりつけようとしているだけである。

だが、こうして、杉本徳久の内心が次々と明らかにされることは、非常に神の御心にかなった、喜ばしい事態であると、筆者は考えている。筆者は、まずは杉本の心の底の底までが明らかにされねばならず、彼の運命の救いようがないことが、公然と世に明らかにされなければならないと考えている。

そのために、筆者は彼を試しているのであり、悔い改めるならば、今のうちだと呼びかけているのである。そして、彼がその一つ一つの呼びかけを、ことごとく踏みにじり、嘲り、退けるだけに終わることを、分かった上で、一つ一つ、あえて証明させているのである。それによって、彼の頭上には、燃え盛る炭火がまた新たに一つ一つと加わって行くことになる。

かなり面倒な過程ではあるが、このような行程を一つ一つ経ない限り、戦いは決して最後のステージまで進むことはない。

なぜなら、筆者自身は、この事件の結末がどうなるか予め知っているが、多くの人々はそれを前もって予知できず、説明されたとしても、理解できないからだ。従って、人々の心の準備が、筆者と同じくらいに整えられるためには、まずは踏まれるべき行程がすべて踏まれ、結論の動かしようのないことが、万人の前で明らかにされる必要があるのだ。
 
良識ある人々の中には、最初から誰かに対して手荒な措置に出たいと願うような人間は、一人もいない。他に道がないのかと、誰もがまずは情けをかけようとするだろう。筆者自身とてそういう人間である。だが、事件がエスカレートすればするほど、結局、憐れみをかける余地がないことに、最後には誰もが同意せざるを得なくなる。物事はそのようなレベルまで進んでから、初めて厳しい対処がなされるのである。

そのために必要な行程に、筆者は協力を惜しまないつもりであり、自分の名誉や安寧を惜しむがゆえに、霊的な戦いを中途で終わらせるつもりは全くない。

そこで、この事件がこの先、どう進んで行くか、杉本がどのように反応するのか(村上もだが)、読者はよくよく観察されたい。果たして、見栄だけがすべてとなり、大本営発表のような嘘ばかりを垂れ流し、「嘲りの霊」に支配されているこの人々に、クリスチャンとの和解に応じたり、悔い改めて神に立ち返る可能性がわずかでも残されているのかどうか、徹底的に観察されたい。

筆者自身は、神は彼らの罪を決してお赦しにならないだろうと考えている。彼らはあまりにも罪を犯しすぎたので、後戻りの余地がなく、行きつくところまで行き着いて破滅して終わることしかできないだろうと考える。
 
だが、それが筆者の考えに過ぎないのか、それとも、神の御心がそこにあり、それが動かせない現実なのかは、これからはっきり証明されねばならない。

そのために、この事件については、必ず、神の御心がどこにあるのか、人間的な感情を超えたレベルではっきりと証明されるだろうと筆者は確信している。
 
おそらく、神の裁きは確かに存在するのだということが、公然と動かせない形で世に示されて終わることになるだろうと予測する。

ペンテコステ運動の支持者の中には、「神は愛だから、人を裁いたり、罰したりはなさらない。」とか、「罪を犯しても罰はない」といった寝言のような嘘の教説を未だに信じている人々がいるようだが、それは人を破滅へ導く異端であるから、そのように、自分を救ってくれる贖い主を否定する虚偽を信じてしまった信者の人生は、必ず悲惨な破滅で終わる。

そのための見せしめ事例となるであろうと筆者は予想するのである。

前々からずっと筆者はそう警告し続けているのだが、ペンテコステ運動の信者らはそれを信じようとしない。そして、筆者の警告はおろか、神の福音さえもあざけりながら、それでも、自分たちは正しい道に立っており、キリストの花嫁なのだと豪語している。

そこで、筆者は、花嫁と言っても、すべての花嫁が神の御心にかなうわけではないとあえて言うのである。

美しいウェディングドレスを着て、鏡の前でうっとりと自分の姿に見惚れ、自分はあれやこれやの他人に比べ、格段に美しく優れて賢いと自画自賛するのが、花嫁にふさわしい態度ではないだろう。なぜこの人々は、花婿がまだ到着してもいないうちから、そんなにまで慢心して、自分自身を主役に据えることができるのであろうかと首をかしげるのみである。
 
この先、誰がキリストの花嫁にふさわしいかは、神ご自身が証明される。福音に従わず、十字架を退け、血潮を嘲り、御言葉をないがしろにしながら、自分たちをキリストの花嫁に見せかける「嘲る者たち」に対しては、容赦のない厳しい結末が待ち構えているだけである。

キリストの十字架に敵対する者の最期は滅びであり、主と共なる十字架の死を経ない者は、己を罪から救うこともできず、旧創造として、ただ神の御怒りと、裁きと、滅びに定められているだけなのである。どんなに被害者意識を盾にとって、感情論を振りかざし、自分を弁護しようとしても、小羊の贖いの血潮を退けた者は、決して罪の判決から逃れることはできず、裁きに定められて終わる。

そのことが、クリスチャンのみならず、この世の人々でさえ、否定できない形で、はっきりと証明されるであろうと筆者は考えており、それだからこそ、この出来事の進展を、よくよくご覧になりたいと言うのだ。このようにまで、確信犯的に悪魔に魂を売ってしまった人々に、もはや後戻りの道はなく、彼らは最後まで、神と聖徒らの憐れみや情けを嘲り、侮りながら、残酷なまでに厳しい教訓的な結末へと自ら転げ落ちて行くだけであることを、よくよく目を開いて見ていただきたいと思わずにいられない。

そして、私たちはそのような事例に倣うことなく、あくまで賢い花嫁として、キリストが来られる時に神に喜ばれるべく、この地上にいる間に、より徹底して神の御前で自分の心を調べてもらい、不純物をろ過されることに同意するのである。

賢い花嫁と愚かな花嫁の区別―キリストを追求するのか、自分自身を追求するのかが生死を分ける

 今日、キリスト教徒の集まりが、概して、日曜礼拝を一つの頂点として、主義となり、形式となり、規則となり、組織論となり、人間を束縛する枷となって、まことの命の現われを阻んでいる。キリストのまことのいのちを形式によって把握することはできず、それにも関わらず、そのような方法が主流となっているところに、大きな逸脱がある。
 
 だが、そのように抜け殻に過ぎない形式が主流となった背景には、神を信じる人々が、キリストご自身のみを純粋に追及することをやめて、自分自身を高く掲げるようになり、真に代価を払ってキリストに従っていないのに、自分たちの集まりが、あたかもキリストの花嫁であるかのように見せかけるようになったことが挙げられる。

  ある人々は、そのようにキリスト教界がバビロン化したことを糾弾し、「何がエクレシアではないか」を暴くことに熱中している。だが、キリストのまことの命とは、決して、”アンチ・テーゼ”にはとどまり得ない”何か”であるため、どれほど偽物を定義し、暴露しても、それによって本物を生み出すことはできない。

   では、一体、エクレシアとは何なのか、と問うても、それを誰もが分かるように説明することは不可能だ。その本質をまずは自分自身が個人的に体得しなければ、それが何であるか、決して誰にも分からず、形容もできないのが、エクレシアなのである。
 
 多くのクリスチャンが、教会とは、毎日曜日に、同じ地域、同じ時代を生きている者同士が、互いに顔を合わせられる場所に集まって神を礼拝するもの、もしくは、霊的に同じ理解に達している者同士が集まり合うもの、と思っているが、それは途方もない勘違いである。

  また、ある人々は「自分たちこそエクレシアとは何かを知っている」と豪語するかも知れないが、本当にその人がエクレシアの一員であるかどうかを知っておられるのは神ご自身のみである。

  キリストによって新しく生まれ、この新しい命によって生かされる個人個人、またその個人個人の交わりが、集合体としてのエクレシアを形成している。だが、エクレシアは時代を超え、物理空間を超える霊的構成体であるため、必ずしも、この世の同じ時空間を共に生きて、同じ理解を共有している者同士が、互いに顔を合わせ、接触できる形で集まり合うという性質のものではない。
   
 幽閉されていたガイオン夫人や、投獄されていたパウロや、迫害や監禁の中にあった聖徒らは、他の兄弟姉妹と物理的に接触が不可能となっても、依然として、エクレシアの構成員のままであった。しかも、黙示録などを参照するならば、エクレシアは、キリストのまことの命によって新しく生まれ、御言葉に忠実であった聖徒らの時代を超えた総体を指していることが分かる。

 このように、エクレシアはとらえがたく、キリストの命を実際に生きることなくしては決して理解することもできない性質のものであるが、それでも、求めなさい、そうすれば与えられます、と聖書にある通り、私たちが心の底から真剣に求めるならば、必ず、神は誠実にそれに答えて下さり、エクレシアとは何かということをも、啓示して下さるだろう。

  だが、忘れてはならないのは、キリストと共に生きることなくして、キリストの命を味わい知ることは誰にもできない相談だということである。
 
 そこで、キリストを二の次にして、エクレシアを第一に追い求めることには、重大な罠がある。私自身、バビロン化したキリスト教界を脱して、真実なエクレシアを追い求める過程で、常に警戒しなければならなかったことがある。それは、あまりにも多くのクリスチャンが、キリストの御名による兄弟姉妹の集まりを追い求めると言いながら、そのうちに、いつの間にか、追求の対象が、自分たち人間の集まりへとすり替わり、キリストではなく、自分たちの集まりを賛美することが最終目的となって行ったことである。

 主ご自身を切に追い求めると言っていたクリスチャンが、いつの間にか、キリストを退け、「自分たちの集まり」を美化し、肯定し、賞賛し始める。そして最後にはついに、それだけが絶対的に正しいかのように言い始め、そこへ信徒らを拘束し、その団体を離れた信徒を悪魔化したり、断罪するのである。このような堕落は、組織化された礼拝だけでなく、組織化されないクリスチャンの集まりにも同様に起きうる。
 
 私たちが第一に求めるべきものは、あくまで神の国とその義、であって、人間の集まりではない。人間の温もりの中で得られる安心感や、自分たちの集まりを賛美、権威化し、自画自賛の根拠を得るために、エクレシアを利用することは誰もできない相談である。

 そこで、たとえある日、一人のクリスチャンが主に出会って、自分がエクレシアの一員であることを知ったとしても、そのクリスチャンが、ただ主ご自身だけを切に求め、主お一人だけに心を向けることをやめて、自分自身の姿を見つめてそれを賛美し始めた瞬間に、彼がエクレシアだと思っていたものは、ただちに腐敗し、バビロン化し始める。

 私はそのことを深く警戒しており、そのような混合物を求めているのではない、ということを何度でも断っておきたい。

 だが、私が2009年に横浜に来て後、(むろん、それ以前に属していたキリスト教界においては言うまでもないことであるが)、遭遇したすべての出来事は、「エクレシアのバビロン化」と呼んで差し支えない現象ばかりであった。これは今日のキリスト者が遭遇している、想像を超えるほどに大きな危険であり、誘惑であると言える。
  
 一旦、集まりがそのような腐敗や混合を受け入れてしまったならば、その交わりが回復される見込みはほぼゼロであり、やがてそれは偽物のエクレシアとして神の敵と化すだけである。

 そこで、我々は、ある集まりがバビロン化している事実を見わけた瞬間に、抜け殻となった組織や団体を離れ(エクソダスして)、キリストのみを追い求め、主のみに従うために、霊的にまだ見ぬ地へ向かって歩いて行くことが必要となる。

 バビロン化しつつある組織にとどまって、それを是正することはむなしい相談である。そうした試みには全く見込みがない。

 こうして、当初は純粋に神を見上げていたと思えた交わりであっても、時と共に、腐敗堕落して行くなら、そこをエクソダスせねばならず、その過程で、かつては純粋に主に従うことを追求し、人間的な面ではすっかり意気投合していたような兄弟姉妹とも、決定的に道が分かれてしまうことは何度でも起きる。

 多くの人は、そういった離反、エクソダスが行われた過程を見て、「あの人は他の人とうまくやれなかったので、あれやこれやの団体を出たのだろう」と憶測したり、「リーダーにつまづいたのだろう」などとささやいては、その団体は悪くないが出た人に非があるのだと言っては、人間の集まりや群れの中に、あたかも真実があるかのように考え、自分を慰めようとする。
  
 そうした集まりが、交わってはならないものと混合したがゆえに、主のみに従うために、人々が出て行ったのだと理解する者は非常に少ないだろう。

 だが、事実は、多くの場合、そのような単純なものではない。そして、いかなる憶測が生まれようとも、信徒がキリストのみを主人として崇め、従うためには、それが不可能になるほど、被造物に過ぎない人間を高く掲げるようになったバビロンとの混合物としての集会からは、出る以外に手段は残されていないのである。
 
 このように、エクレシアを追求することは、キリストのみを追求し、キリストのみに従うことなくしてはできないため、それは決して人間との交わりを第一として生きることとは相容れず、その点で、人間の交わりを美化することとも異なり、その点で厳しく、険しい道である。

 だが、それも当然であろう。聖書の中で、主イエスは、賢い花嫁と愚かな花嫁のたとえを語られているが、そのたとえにより、花嫁と呼ばれるものが、すべて主の目にかなう存在ではないことがはっきりと示されている。

 花嫁たるものが、花婿だけを一心に見つめることをやめて、花婿が来ないうちに、自分の生活の安寧を打ち立てて満足し、自分の美や賢さを見て酔いしれ、自分の地位は安泰だと思い込み、そこに安住して自分の利益を追求し、自分の栄光を求め始めるならば、その花嫁の心には、もはや花婿は慕うべき存在と映らず、かえって己が権威と栄光を打ち立てるための名目だけの存在となろう。そのような花嫁は、花婿が来たときに、もはや花嫁とは認められない、と言われて退けられるだけである。

 そうなる危険は、形骸化したキリスト教界のみならず、エクレシアを追求するすべての兄弟姉妹に存在する。他者の堕落や腐敗を非難することはいとも容易であり、キリストの名を冠しながらも、キリストの香りを一切失った組織を数限りなく列挙することは容易であるが、神はあくまで一人一人の心に問いかけられ、一人一人の行いに応じて報いられる。

 そこで我々は改めて、キリスト者が追い求めるべきは、花嫁たる自分の栄光ではなく、花婿たるキリストの栄光であるということを、心に焼きつけておかねばならない。人に悪しざまに言われたくないという恐怖感から、あるいは、人とのつながりを失いたくないという恐怖感から、バビロン化した集会にとどまっていても、良いことは何もない。いずれはその崩壊に巻き込まれるだけである。そのような交わりを改善することは、諦めるべきである。

 むしろ、聖書では、愚かな花嫁たちに油を分けてやったがために、彼女たちの怠慢に巻き込まれ、永遠に至る栄誉を失ってはいけないことが警告されている。自分が受けるべき栄冠を失わないように注意を払わなければならないのである。
 
 神の御前での自分の心の透明性、苦難や恥をも厭わず、キリストに従う御言葉への忠実さ、自分の栄光でなく、キリストの栄光だけを求める貞潔さ、といったものが、今日のクリスチャンにはどれほど欠けているであろうか。
   
以下は、オースチンスパークスの「土台のある都」 第八章 都の明かり―命と証しの透明性 (1)から。

聖書朗読:黙二一・一〇~一一、一八、二一、二二・一、ガラ四・二五~二六。

 「透明な」というこの言葉は、これらの節の中に一度ならず現れます。また、例えば「純粋な金」「透明なガラスのような」のように、その同義語も出てきます。これらの言葉は光の観念を示唆します。これらの言葉は、天から出て神から下って来る天のエルサレムに関して述べられている光と関係しています。その明かりは高価な宝石のようであり、碧玉のようです。

 主の天的な民の光について述べるにあたって、私たちは再びとても厳粛で、深刻な、大切な特徴に触れることにします。その特徴には、それに関する途方もない歴史があります。主の民の歴史、そして霊の命の歴史はすべて、光と暗闇、真理と虚偽、純粋さと姦淫・混合、透明性と曖昧さ、開放性と秘匿性の歴史です。この長い歴史を表現するのに他の多くの言葉を用いることができます。この歴史がこれほど長く、これほど多彩なのは、すべて敵の執拗な絶え間ない試みのせいです。敵は、神からのものを疑わしいもの、不確かなものにしようとしてきましたし、絶対的真理、絶対的純粋さ、絶対的透明性というその途方もない力をそれから奪い去ろうとしてきました。

 キリスト来臨の遥か昔に、サタンはこれらのバビロン的要素をこの地上に広めていました。これらのバビロン的要素は、教会が霊的衰退・弱さの状態に陥る時をひたすら待っていました。それはこの霊的団体に襲いかかり、その命を吸い取って損なう寄生虫となる機会をつかむためです。ですから、新約聖書の外に移る前にすでに、霊的に衰退した状況の所では、バビロン的特徴、祭司制度、聖職者階級制度、形式主義、儀式主義、他の多くの事柄――それらはバビロンに由来するものであり、オカルト、秘教、美学の中に見られます――といった状態であることがわかります。これらの観念は今や、ローマの体系全体の総計であり本質です。これらのものはみなバビロンから来たものであり、教会が衰退するのをこの世で待っていました。そして、この衰退が起きるやいなや、教会を掌握して侵害したのです。それらはみな、黙示録の最初の諸章の中に見出されます。また、他の箇所にも、奥義的バビロンのこの宗教性の数々の要素が見い出されます。それらの目的は、直接的・即座にキリスト教を撲滅することや、教会の存在を消し去ることではなく、教会の立場を神の御前で曖昧なものにするよう様々なものを混合させることでした。それは、神が教会をもはや御自分の純粋な花嫁と認められなくなるためでした。


(2009年の記事「エクレシア この不思議なもの」を加筆修正)