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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

命の御霊の法則に従って支配する―一羽の雀さえ、父のお許しがなければ、地に落ちることはない。(4)

「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」(ヨハネ16:13-15)

さて、今回も、前回に続いて御霊の導きに従って生きることについて書きたい。

最近のオリーブ園のオースチンスパークスの連載が興味深い内容のため、冒頭で引用しておきたい。聖書箇所は、イエスがまだ幼子だった頃、両親がイエスを主にささげるために宮に連れてやって来たとき、救い主の誕生を待ち望んでいた祭司シメオンが、御霊の導きの中で、ちょうど神殿の境内に入って来たところである。

これはとても美しい調和のとれた絵図である。このように、何の前触れも約束もなかったにもかかわらず、まるで示し合わせたように、シメオンは出会ったその子が救い主であることを証し、祝福すると同時に、イエスに課せられた十字架の使命について語り、それゆえに母マリアが受けねばならない苦難のことも予告するのである。

この記事に該当する聖書箇所をそのまま引用しておこう。

「さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。

 そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。

シメオンが”霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。

「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり
 この僕を安らかに去らせてくださいます。
 わたしはこの目であなたの救いを見たからです。
 これは万民のために整えてくださった救いで、
 異邦人を照らす啓示の光、
 あなたの民イスラエルの誉れです。」

父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」(ルカ2:22-35)


以上の箇所について、T.オースチンスパークスの解説している「御霊による生活」 第六章 聖霊の職務と御業 (5)(6)の記事を引用したい。

霊の人の定義

 少しの間、霊の人についてさらに考えることにします。霊の人とは何でしょう?霊の人は聖霊を受けて、聖霊の器官・機能・能力と一致するものに構成された人です。「主に結合される人は一つ霊です」。これは姿・性質の一致です。それはある種の性質や、性質の質だけでなく、能力でもあります。これは、これから生じる諸々の特徴、実際的性質を帯びた諸々の特性の存在を意味します。ですから、霊的識別力、霊的知覚、霊的知識の類があります。使徒は、御言葉があらゆる霊的理解力によって私たちの中に宿りますように、と祈っています。

 さて、これは物体に及ぼす力の働きとは異なります。物体は、その中にその力と一致するもの、その力に協力するものが何もなくても、衝撃を受けただけで動きます。その動きは純粋に力学的です。違いは、私たちの新しくされた霊の中には、御霊の諸々の器官と一致するこれらの器官が導入されており、そこには知的合一が存在するということです。

 これについて説明しましょう。ルカによる福音書の冒頭に、エルサレムにシメオンという名の人がいた、とあります。彼は正しくて敬虔な人であり、イスラエルの慰めを待ち望んでいました。そして、聖霊が彼の上におられました。さて、「両親が子供のイエスを、律法の慣わしにしたがって彼に行うために連れて来た時、この人が御霊によって宮の中にやって来た」と御言葉は告げます。

「前もって手配されていたに違いない。シメオンは祭司だったのだから」と考える人々もいるようです。記録はそのようにはまったく述べていません。ここの語り口はとても自然です。両親は子供のイエスを主に捧げるために連れてきました。この人がそこにいたのは、子供を受け取る用意の整った司式の奉仕者としてではありませんでした。彼はちょうどその時、宮の中にやって来たのです。

「彼は偶然ちょうどその時やって来たのです」と言うべきでしょうか。否!彼は御霊の中でやって来たのです。両親が子供のイエスを連れて来た時、シメオンがその子が誰かを知っていたことを示唆するものは何もありません。だれも、「この子がイエスです」と言いませんでした。彼は外見的には他の子供と同じように見えました。宮の中にやって来た数百、数千の子供たちと、おそらく何の違いもなかったでしょう。普通の両親に普通の赤ん坊でした。

エルサレムで生活していた人であるシメオンは、ちょうどその時、御霊の中でやって来ました。そして、両親が子供を連れて来た時、彼はその子を両腕で抱いて、極めて驚くべきことを述べ始めました。「主よ、今こそあなたは、あなたの御言葉にしたがって、あなたの僕を安らかに去らせて下さいます。私の目があなたの救いを見たからです」。両親は過去を思い出しました。この人は何について話しているのでしょう?どうしてこの人はこのことをすべて知っているのでしょう?これはどこから来たのでしょう?


 その意味合いがわかるでしょうか?シメオンは御霊によって入ってきました。彼の動きは御霊によりました。彼の動きは御霊によって時が計られていました。そして、彼がその赤ん坊を両腕の中に受け取った時、御霊は彼の霊に「この子がキリストです」と証しされました。その赤ん坊が誰なのかを示唆するものは他に何もありませんでした。御霊はキリストについて証しされました。これはつまり、シメオンには、彼の上に御霊がおられたがゆえに、霊的知覚があったということです。自分がキリストの御前にいた時、彼は自分の霊の中で彼を認識しました。

 今、霊の人とは何かわかります。シメオンは一つの例です。とは言っても、後の、ペンテコステ後の霊の人の完全な代表ではありません。霊の人は御霊の促しによって動く人であり、その動く時は聖霊によって計られています。霊の人はいつ動くべきかを御霊によって知ります。御霊の中で動くことにより、キリストに関する御霊の諸々の秘密を発見します。したがって、霊的知覚の器官を持っており、主が何事かをなさっている時、それを知ります。この器官は、神の大いなる御旨に関する機能へと導きます。

 これはあなたには難しく聞こえるかもしれません。しかし、ローマ八章によると、これが信者の正常な生活です。確かに、私たちはその中に直ちに完全に入るわけではありません。「あらゆることで成長して彼へと至りなさい」というパウロの御言葉が私たちに想起させるように、私たちは成長してそれへと至るのです。



この記事では、上記の記事については詳しく触れないが、信者が御霊の導きの中で行動する時、そこには偶然と呼ぶにはあまりにも不思議な調和の取れた神の最善の巡り合いが起きていることが分かるだろう。むろん、それは御霊の命の支配によって起きることであって偶然ではない。

この記事では、信者の実生活に生きて働く御霊の働きについて述べたい。冒頭に挙げた聖書の御言葉を通して、私たちは、聖霊が、来るべき事柄を信者に教えてくれることを知っている。つまり、聖霊は未来についてのビジョンを私たちに見せられるのである。
 
別な言葉で言えば、そのビジョンは私たち自身が心に抱くものでもある。

信者は、御霊の導きに従うことも、その外に出ることもできるが、いつどういう時に、自分が御霊の導きに従って行動しているのか、必ずしも自分ではっきりと知らない場合がある。

多くの信者は「一体、どうやったら、私は何が御霊の導きであるかを知ることができるのでしょうか。どうやったら御霊を悲しませないように行動できるのでしょうか。私のしていることが、御霊の導きに反するものではないかどうか、私には分からないのです。そうである以上、私は主を悲しませたくないので、私のしていることが、御霊の導きに反しないという確証がない限り、信仰によって何も行いたくないのです」などと言うかも知れない。

そんな風に、御霊の導きから逸れること怖さに、自分が行うすべての決断が、御霊から来るものだと確信できないことには、一歩たりとも動かない、などと言う信者もあるかもしれないが、御霊の導きとはそういう風に、まるで占いでもするように、これから自分は右へ進むべきか、左へ進むべきか、はっきりしたお告げを受けなければ、何もしないという生活のことではない。

確かに、御霊は、時には、何かの具体的な行動を明白に信者に対して禁じられたり、何をなすべきかを明白に教えられたり、待つよう求められることがあるが、しかし、多くの場合、信者にはただ普通に行動しているだけの膨大な時間がある。

そのとき、信者には特に自分が御霊の導きを受けて行動しているという自覚はないかも知れないが、それでも、そういう時にも、信者が御霊の調和の中を、信仰によって歩み、何かを待ち望んでいるならば、信者が特に何かを確信して行動しているわけでなくとも、常に御霊は信者と共に働いて、御霊の命の統治の原則がその人と周囲に及んでいるのである。

一体、御霊の導きとは何なのか。それを形容することは少し難しいが、御霊はすべてを支配する超越的な命であって、信者の信仰を通して初めて働きをなすと同時に、ナビゲーターのような働きをも持っており、常に未来へ向かって信者を進ませる。

御霊が、信者に進むべき具体的な方向を指し示すことは少なくないが、ナビに目的地を設定するのはあくまで信者自身である。

信者は信仰によって、自分が何を望み、何を成し遂げようとしているのか、その目的を自分で設定しなければならない。たとえば、シメオンの望みは、「生きているうちに救い主をこの目で見たい」というものであった。あるいは、ジョージ・ミュラーは、寄る辺ない大勢の孤児を信仰によって養いたいと願った。

こうして、信仰によって抱く目的は、信者個人によって異なるものである。必ずしも福音伝道のために是とされているものだけではない。信者自身の生活の必要、あるいは、信者の極めて個人的な願いもそこには含まれる。明らかに主を悲しませる悪であると分かっている事柄でない限り、どんな目的でも願っていけないということはない。あるいは、筆者のように、大型鳥を飼いたいといった願いでも構わないのである。

その目的を、信者は信仰によって今待ち望んでいる目的の一つに設定する。すると、信者がそこへたどり着こうと歩みを進めたその瞬間から、御霊が共に働き始める。(もちろん、筆者はここで御霊が信者の願い事を叶えるためのサーバントだと言っているわけではない。信者の願い事の目的は、ただ自分が満足することに終わらず、あくまで神に栄光を帰することにあるからだ。)

しかし、多くの場合、ただ目的地を設定しただけで、御霊が自動的に信者をそこへ平穏無事に送り届けてくれるというわけでは決してない。まず、信仰によって望んだ目的が実現するためには、信者は必ずと言って良いほど、何かの困難(試練)の中を通らなければならない。あたかも約束によって待ち望んだものが、失われたかのように思われたり、はるかに遠く、手の届かないところにあるように思われたり、長い時間がかかり、信者が自分にはそれを目にすることができないのではないかという不安を持つような状況の中を通らされなければならないことがよくある。

その試練を、信者が信仰によって乗り越えて、周りの状況がどうあれ、待ち望んだものから目を離さずに、確固として目的を目指し続け、達成が可能であると信じ続けて行動したとき、信者が望んだ事柄が実際にこの地上に目に見える形で実現するのである。

とはいえ、ほとんど困難が伴わずに自然に望んだものが実現する時もある。

話は変わるようだが、筆者は昨年頃から、小型~中型鳥の色変わりの鳥を探して来たのだが、なかなか美しい色合いの鳥は見つからず、遠い店まで出かけて行かねばならないなどのこともあって、しばらく鳥探しを中断して、そのような目的があったことさえ自分で忘れかけていた。

ところが、今年、初めて訪れた店で、昨年からずっと探し続けて来た色々な種類の鳥たちを偶然のように一挙に見つけたのである。筆者は以前にもそのようにして鳥を一挙に増やしたことがあったのだが、その時の比ではない珍しい種類の鳥たちに出会った。筆者の鳥ライフになぜかはよくは分からない自然なグレードアップが起きたような具合だった。

そこで、鳥たちの取り揃えを変えたのに合わせて、鳥かごも変えることにして、金色の大きな鳥かごに、珍しい南国の明るいオレンジやブルーの珍しい鳥を何羽も入れてみた。すると、ほんのわずかな価格で買える文鳥たちまで含めて、我が家の鳥たちがみんな、大邸宅の大理石の床に飾ってある豪華な鳥かごの中にいる鳥たちのように見えるようになったのである。

一言でいえば、何もかもが見違えたのであった。その時、初めて、筆者は、鳥というものは、インテリアの一部のように、目の保養として楽しむべき生きものなのであって、それができなければ、鳥の魅力の半分も味わったことにはならないということが分かった。

そして、そこからさらに進んで、このように素敵な装飾としての鳥たちがいるならば、それに見合った家や部屋があるべきで、むろん、今の環境もそれなりに筆者が自分で工夫したものとはいえ、すべてを今以上にグレードアップすることが可能なのだということを思わされたのである。

筆者は長年、鳥の愛好家のつもりだったが、小鳥の楽しみ方においては、ずいぶんと質素すぎるほどに味気ないつまらない人生を歩んで来たことを感じた。ほんのわずかな魅力すらも、まだまだ味わっておらず、この先、もっともっとはるかに豊かな生活が待ち受けていることに、今更のように気づかされたのである。

もちろん、筆者の家には文鳥などのありふれた鳥たちもたくさんいるので、これは決して珍しくない鳥には価値がないなどと言っているのではない。だが、たとえば、市場に出回っている鳥かごは、筆者も色々と試してはみたが、どれもこれも、決して見栄えが良くなく、まるで鉄格子の檻のように殺風景にしか見えない上、サイズも十分でなく、餌入れも小さいので、補充を忘れたときのリスクが高く、フードフィーダーをつけるようなスペースの余裕もなく、構造的にも、目の届かない死角が実に多く危険であった。

何よりも、市場に出回っている鳥かごは、小鳥を鑑賞する目的のために作られたというよりは、一般家庭の部屋の大きさに合わせて、最低限度の設備を用意しただけのものであって、美観の点でよろしくないだけでなく、世話するにも決して最適と言えないことが分かった。

小鳥というものは、その愛らしい性格もさることながら、まずはその姿形の美しさを鑑賞して楽しむことこそ、飼い主に与えられた最大の特権である。だが、その特権を存分に味わうためには、やはり、小鳥を美しく見せられる環境がどうしても必要となるのであって、広々とした場所で、伸び伸び暮らさせて、世話をすることが決して苦痛にならず、億劫にも感じられない環境を作ることができて初めて、飼っている側も楽しい気分になれる。

そう考えると、第一に、必要なのはスペースということになろう。鳥も人間もやっとのことで生きているような環境ではまるでダメなのである。最終的には、広々とした家が必要になるのは言うまでもない。大型鳥の愛好家たちは必ず口を揃えて言う、籠の中に閉じ込めておいてはいけない、鳥のために一部屋は確保するのが最善であると。

そのようにして、小鳥たちの飼育環境について考えながら、筆者は自分の生活にも、決定的に欠けていたかも知れない要素について考えさせられた。たとえば、鳥かごを変えただけで、同じ鳥が、見違えるようにきれいに見える。だが、市販の鳥かごではなかなかその願いを実現できない。この原則を人間に当てはめたらどうだろうか?

人々は、洋服やら髪型やらにはこだわり、自分を美しく見せるために、あれやこれやの工夫をするかも知れないが、そのような小手先のごまかしのような工夫はさて置き、そもそも自分を入れる鳥かご(自分の生きる環境条件そのもの)について、神に大胆な願い事をしたことはあるだろうか? これは家のことだけを指すのではない。すべての環境条件を指している。

人は自分のためにどんな環境を願うだろうか。

かつて筆者の小学生時代の友人の家では、文鳥一羽を入れられるのが関の山という程度の広さの竹籠に、五羽の文鳥が入れられていたのを思い出すが、そういう環境をあなたは望むだろうか。それとも、大きな翼を持って、遠い距離をゆうゆうと渡ることのできる鳥が求めるような環境条件を願うだろうか。

私たちを最も魅力的に見せることができるのは、主人である神の愛情に満ちたとりはからいであるが、私たち自身が主に何も願わないなら、主も私たちに何もお与えにはならない。私たちは鳥ではないが、私たちが自分を何者だと思い、自分のために何を願うのか、どんな条件を求めるのかによって、私たちを入れる「鳥かご」のサイズも変わって来る。

冒頭の記事の趣旨とは異なると感じられるかも知れないが、御霊によって生きるとは、御霊の命の統治の中を生きることであり、その命の支配は、必ず私たちの信仰と連動して働く。そこで、私たちが何を信じ、何を願い、何が自分にふさわしいものであると考え、どんな条件を実現しようとするのか、その願いに連動して、命の統治の力が働く。従って、私たちの願いがあまりにも小さく凡庸なものであるなら、御霊の働きもそれに見合ったものにしかならないのである。

筆者は、美しい鳥たちの姿を見ながら、空の鳥も、野の花も、海の魚たちも、何もかも、すべての生き物は神が人間のために造られたものであることを今更のように思う。それにも関わらず、人間は何とこれを楽しむどころか、重荷や苦痛に変え、この小さな命を通して与えられた祝福を全く味わわずに通り過ぎているのだろう。そのようになっている原因は、人間側の思いの狭さにあるに違いないのではないだろうか?
  
信じる者たちは、一体、何を願うのかによって、その人の人生に信仰を通じて実現する内容、スケールも全く違ってしまう。

 シメオンが願ったように、救い主を生きて見たいという願いを抱くのか、それとも、ジョージ・ミュラーが願ったように、数えきれない孤児を養いたいと願うのか、あるいは、筆者が書いたように、数えきれない鳥を養うことのできる巨木のような、尽きない豊かな資源が備えられている環境を願うのか。あるいは、ただ自分一人かろうじて死なずに生きられる程度の環境が与えられればそれで満足するのか。

神がどんなに素晴らしい方で、御霊にどんな力があろうと、信者が何も願わず、何も信じなければ、何一つ起こることはない。

最後に、こうした文脈でしょっちゅうよく引用される詩編の句を引用しておきたい。ここには、信者が信仰によって大きな願いを心に抱くべきことと、それと同時に、それが実現するために守らなければならない掟が記されている。冗長な解説は省くが、その掟さえ守って生きるなら、信者の生活からは、無用な重荷が取り除かれ、信者に敵対する者には、神が報復をなさり、信者の生活は、最良の小麦、飽くほどの蜜で、存分に潤される。

流れのほとりに植わった木のように、暑さや日照りに関係なく、欠乏とは無縁の、溢れるほどの命の豊かさを味わう生活を送れるのである。
 
「わたしは思いがけない言葉を聞くことになった。
わたしが、彼の肩の重荷を除き
 籠を手から取り去る。
 わたしは苦難の中から呼び求めるあなたを救い
 雷鳴に隠れてあなたに答え
 メリバの水のほとりであなたを試した。
 
 わたしの民よ、聞け、あなたに定めを授ける。
 イスラエルよ、わたしに聞き従え。
 あなたの中に異国の神があってはならない。
 あなたは異教の神にひれ伏してはならない。
 わたしが、あなたの神、主。
 あなたをエジプトの地から導き上った神。
 口を広く開けよ、わたしはそれを満たそう。

 しかし、わたしの民はわたしの声を聞かず
 イスラエルはわたしを求めなかった。
 わたしは頑なな心の彼らを突き放し
 思いのままに歩かせた。
 わたしの民がわたしに聞き従い
 イスラエルがわたしの道に歩む者であったなら
 わたしはたちどころに彼らの敵を屈服させ
 彼らを苦しめる者の上に手を返すであろうに。

 主を憎む者が主に屈服し
 この運命が永劫に続くように。
 主は民を最良の小麦で養ってくださる。
 「わたしは岩から蜜を滴らせて
 あなたを飽かせるであろう。」」(詩編81:6-17)

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命の御霊の法則に従って支配する―一羽の雀さえ、父のお許しがなければ、地に落ちることはない。(3)

御霊によって統治する、というテーマについて語る際、これまでキリストの復活の命は、あらゆる環境条件や物流をも支配する力を持っている、ということを繰り返し書いて来た。

その文脈で、先日、我が家の小鳥たちも、御霊の導きによって与えられたと書いたが、その矢先、筆者自身が、改めて主に問われるような出来事が起きた。もちろん、愛らしい小鳥たちに何の不満があるわけではない。だが、こんなスケールの出来事よりも、はるかにもっと大きなものを、信仰によって望むべきであることを思わされたのである。

ちょうど主にこう問われたような具合だった、「あなたの満足は、こんな小さなスケールで終わるようなものなのでしょうか。あなたはこれらの小鳥たちにすっかり満足しきっているようですが、あなたの望みは、そして信仰の名に、御霊の名にふさわしい恵みは、この程度だとあなたは考えているのでしょうか。これよりも大きな望みはないのでしょうか」と。

その時、筆者は以前に大きな鳥を飼い、今やその鳥にまさる鳥を手に入れたいと願いつつ、それを素通りして来たことをはっと思い起こされたのだった。
 
それというのも、希少な鳥には、庶民が聞いて呆れるような値がつけられている。一言で言ってしまえば、良いクラスの新車を買うのと同じくらいの値がつく。その値段を見た瞬間、「あ、これは私には関係ないことだな」と思って、願うよりも前に諦めて通り過ぎて来たといったことが何度も起きてきたことを思い出したのだ。

だが、愛らしい小鳥を何羽も与えて下さる主が、大きな鳥だけは無理だとおっしゃるはずがない。
 
むろん、これは比喩である。そんな風に、心の底では、何か望むところがあるのに、あれやこれやの現実のリスクを回避したいがために、本能的に自分には過ぎた贅沢であるかのように考えて素通りして来た恵みがどれほどあっただろうか、と考えさせられたのである。
 
後から考えてみれば、そのような稀有な出会いは、まさに信仰によるプレゼントだったとしか思えず、その時、恐れを捨てて一歩踏み出しさえしていれば、そこから開けていたものがあったに違いないと思われることが多い。

そうやって、真に信仰を要する選択を素通りし、信仰がほぼ必要のないささやかなスケールの恵みだけを手に取り、それがあたかも偉大な信仰によって得られた戦利品ででもあるかのように誇っている場合ではない。

むろん、そこにもちゃんと信仰は働いてはいるのだが、それが可能であるならば、もっと大きな事柄も当然ながら可能であったことを常に思うべきなのである。

私たちが信仰によって何かを得るとき、そこには常にある種の困難、リスクが伴う。目に見える世界にはその選択が正しいと保証してくれるものが何もなく、ただ内なる確信だけに基づいて進んで行かねばならないからだ。

信仰による創造は、たとえるなら、常に目に見えないデポジット(預り金)を担保にした引き出し行為のようなものである。言い換えれば、主に対するつけ払いのような形になる。
 
あなたの預金口座に今現在、うなるほどに自由になる資金があるなら、あなたはどんな壮大な娯楽も、自分には贅沢すぎると思うことなく、あるいは、今あなたが広大な土地の所有者であれば、あなたはその土地を担保に、何の不自由もなく、新しい壮大な事業を開始することができよう。

しかし、 信仰による歩みはそういう目に見える保証によらない。それは常に目に見える担保が存在しない時に、ただ信仰だけによって、無から有を生み出し、創造する行為である。だが、クリスチャンの間でもあまりよく知られていないことは、信仰の世界でも、「信用創造」は存在しており、目に見えない新しい「資金」を天から調達するには、元手となるものが要ることだ。それが、からし種一粒の信仰なのである。

聖書には、もしも人の内にからし種一粒の信仰でもあるならば、山をも動かす原動力になるだろうとの句がある。

「使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、主は言われた。
もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。」(ルカ17:5)

「弟子たちはひそかにイエスのところに来て、「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」と言った。イエスは言われた。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」(マタイ17:19-20)

「イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」(マタイ13:31)

こうしたイエスの言葉は、すべて信仰による無からの創造を指している。ほんのわずかでも人の内に信仰があれば、それを担保に、人は目に見える世界に大きなものを呼び出して来ることができるのである。

最初からいきなり巨大なスケールのものが生まれることも稀にあるとはいえ、ちょうど「わらしべ長者」の物語みたいに(むろん、この話は聖書とは本質的に関係ないが)、信仰によって一つ一つの創造行為を積み重ねているうちに、最後にそれが巨大なスケールにまで達する場合も多い。

いずれにしても、筆者が何羽かの美しい小鳥が手に入ったと喜んでいるようなスケールはごく些細な話であって、むしろ、そうした小鳥たちが無数に宿ることのできる木を育てるのが、信仰の力なのであり、 その木は、今、私たちの目には見えないかも知れないが、すでに信仰によって存在しており、筆者は今、その木に宿る小鳥たちのほんのごく一部を目にしているに過ぎないことを思わされたのである。

その木には、まだまだ筆者が一度も見たことのない魅力的な鳥、まだ知らない美しい稀有な鳥が、たくさん宿っている。そして、その木は、それらの鳥たちを全て養うのに必要かつ十分な条件を備えている。その木を、私たちは信仰によって心の内に持っているのである。

見るべきは小さな枝葉ではなく、その木それ自体であり、その木は当然ながら、キリストご自身であり、彼の命の力なのである。

・・・

霊的に前進して行くためには、ある意味で、非常に貪欲でなければならない。これは決して物欲のことを指して言うのではなく、人が神の御前で、真に自分のために備えられた恵みを理解するためには、自分自身のちっぽけな思考と経験の枠組みを常に打破しながら、飽くことなく先へ進んで行く態度が必要となることを意味する。

神が人間のために備えられた崇高で偉大な使命、恵みの大きさ、完全さを生きて知りたいと願うならば、信者にはある意味、わき目もふらずにその目標だけに向かって突き進む覚悟がいる。そうした中で、自分自身の思いの限界が障壁となるだけでなく、人々の思惑や、人々の理解といったものも、障壁となり、そうしたものに気を取られるならば、先へ進むことができなくなってしまうことが往々にしてある。
 
最近、筆者は、オリンピックを間近に控えた頃に、TV番組である記者が外国のアスリートたちの稽古場を訪ねた風景を目にした。その時、当時、金メダルの最有力候補の一人と見られていた若いアスリートが、TVの記者に気前よく自分たちの稽古場を案内していた。
 
それを見たとき、筆者は、その有名なアスリートの親切でオープンな態度は、きっとカメラ映えし、誰にでも好感を持たれ、取材班は大喜びだろうが、金メダル候補が試合前にそのようなことに時間を費やしていたのでは、その人は勝てないかも知れないと思った。

そして、案の上、その人は自分よりも年若い選手に敗れて二番手におさまり、その上、自分が気前よく記者たちを案内してやった稽古場を去ることになったのである。むろん、それには様々な要因があり、一概に、稽古場を案内したことが原因だなどと決めつけられる問題ではないが、筆者は、この選手が、受付係よろしくTV番組の取材記者を自分たちの稽古場に導き入れた姿を見たとき、そこに、この選手の油断(もしくは慢心)を見た気がした。

稽古場は、表舞台には見せられない、人の目からは隠れた勝負の場所であって、そこでは常に過酷な競争や死闘が繰り広げられている。そもそもアスリートは俳優ではなく、案内係でも、受付係でもない。稽古場でアスリートが果たすべき役割は、観光案内よろしく、記者を親切に案内して取材に協力してやることではなく、稽古場で目に見えない苦労を人知れず負い、積み重ねながら、自分が真に満足できる高い目標だけをわき目もふらずに目指し続けることである。

その役割を忘れた途端、その選手は、後学に追い落とされて、選手としての価値を失ってしまう。そして、その稽古場は、その選手にとって、自分が記者を案内してやった通りの観光地のようなものにはなっても、もはや自分の稽古場ではなくなってしまう。

その原則はすべてのことに共通するのであり、真に一位を取ろうと思ったとき、つまり、他者の追随の及ばないような高みに到達したいと願ったとき、人はその目的以外のすべての目的をみな捨て去り、誰からどう思われようとも、わき目もふらずに、自分を満足させるたった一つの目的のためだけに、自分のすべてを捧げ、先へ進まなくてはならなくなる。

信仰の世界でも、その原則は同じなのである。もし信者が、キリストのみに仕え、神を満足させるという目的を目指すならば、誰にどう思われようと、たった一人で、人の目には全く評価されない、気の遠くなるような地道な試行錯誤の積み重ねの中で、信仰の模索を絶え間なく続けて、他のすべての目的を犠牲にして、ただ一つの目的(神を知ること)だけに仕えねばならなくなる。

往々にして、多くの人々に対して気前よく親切で、社交的であろうと考える人間には、それができない。彼らは、他者の心の満足を基準に得られる自分の満足を捨てきれないために、人の思惑とは一切関係なく、ただ自分だけの満足だけを目指して、貪欲に一つの目的に向かって進むことができないのである。言い換えれば、一つの目的、一人の人(キリスト)だけに仕えるには、あまりにも気が多すぎるのである。
 
だが、他者と自分はそもそも同じ人間ではない以上、人が他者と同じ満足を共有できることはほぼない。ある人が、他者の満足を自分の満足と考え、他者の利益のために仕え始めれば、その途端に、その人は、自分の目的を他者に奪われ、見失ってしまう。
  
キリスト教界というところには、人が自分個人の目的を目指すことを最初からあきらめさせ、捨てさせてでも、無数の鏡のような(抽象的かつ曖昧な)他者の満足のために、自分の人生を初めから差し出して生きるように促す魔力的な悪しき力が働いていると筆者は感じている。

そして、筆者はそれが正しい生き方であるとは全く考えていない。
 
そのようにして「他者の満足のために生きる」という実現不可能な虚構の生き方を手本として目指す筆頭格が、牧師である(牧師という名で呼ばれていないすべての宗教指導者をも含む)。

牧師などの宗教指導者は、絶えず信徒らを養うためと称して講壇からメッセージを語り続けるが、それは、筆者から見れば、自分自身が選手であるにも関わらず、そのことを忘れて、自分の訓練を後回しにして、自分の稽古場を訪れる無数の記者らを絶えず得意げに気前よく稽古場に案内してやっているアスリートとほとんど同じなのである。

牧師とは、自分個人の満足のために生きることができなくなった人々である。彼らは絶えず信徒の満足を自分の満足に置き換えて、他者のために生きようとして努力している。彼らはそれが福音伝道に仕えることだと考えており、そして、多くの信徒らがその牧師の姿にならって、自分自身も同じように他者の利益と満足のために生きようとする。

だが、本当は、そんな生き方は誰にとってももとより不可能な相談なのであり、人は本質的に自分のためにしか生きられないのである。それは献身者の場合も全く同じで、神に身を捧げ、神の満足のために生きることと、自分以外の人間の満足のために生きることは全く話が別である。

神は人にそれぞれ他者とは異なる使命を与えておられる以上、自分の個人的な人生目的を捨ててまで、他者を助け、他者を満足させることに人生を費やすことは、最初から間違っており、自分自身を犠牲にすることであるから、してはならないことである。

人が自由になるのは、外からの物質的・精神的な助けによるのではなく、ただその人の内なる命の力から来る自立による。従って、たとえ人が直接他人を助けようとして、自分のすべてをかけて物質的・精神的支援を与えたとしても、それによって他者を自立へ導くことはできず、かえって相手の自立の力を著しく奪い取ってしまい、その人の尊厳を根こそぎ奪い、傷つけるだけである。そんな方法で人助けを行うことは無理である。

筆者はこのことを以前にホームレス伝道になぞらえて語り、またハンセン病者への絶対隔離政策になぞらえて語った。要するに、他者を助けてあげているという自己満足の中に潜む悪というものがれっきとして存在するのである。

たとえば、ホームレスであるという人々の弱みを利用して、彼らがまるで公園に群がる鳩のように、パンを求めてキリスト教の伝道者たちの集会に毎回依存して生き、そこから抜け出られないように囲い込んで行くことが、支援なのでは決してない。

カルト被害者救済活動も同じであり、人の弱みや挫折体験につけこんで、それを解決することを助けてやるように見せかけて、その人の自立をより一層、損ない、人の弱さを食い物にして自分が脚光を浴びようとすることが、人助けなのでは断じてない。

だが、牧師は、そもそも神に代わって、自分が信徒のために自己を犠牲にすることで、信徒を助けるという不可能事を目指している人々であるから、彼らがそういう「伝道」を次々と考え出しては、弱みを抱えた人々を食い物にしてさらに自立を損なう事業を考え出すのは不思議なことではない。

しかし、信徒たちがこれにならって「福音伝道」という、実体のよく分からない抽象目的のために、自分個人の人生を捨て去ろうとすれば、自分の人生を完全に失って行くことになる。その行き着く先は、エホバの証人とほとんど変わらない生き方である。
 
筆者は、神はそのようなことを決して人間に期待されてはおられないと確信している。また、そのような方法で、人の信仰が成長することも決してないと確信している。

人にはそれぞれ決して他者には理解できない、他者とは異なる生き方が存在するのであり、まず自分自身のオリジナルな生き方を発見しないことには、自分の人生もない。漠然とした抽象的な基準に従い、誰か別人を手本として生きることも人には無理である。

従って、自分を捨てて他者の満足のためだけに生きられる人間はどこにもおらず、そもそも他者の満足とは一体、何なのか、誰一人として、それを明白に定義できる人間もいない以上、それは実体のない漠然とした抽象的な基準でしかなく、そのようなあるかなきかの基準に身を捧げて、人が自分の利益を捨て去ったような風を装い、他者の満足だけを目的に生きるようになれば、その人の人生は破綻・崩壊することになる。

だから、人は、神が人間(自分)に願っておられる真に高い水準の生き方が何であるかを本当に心の底から理解しようと願うならば、わき目もふらずに、ただ自分だけのために、神が天に備えて下さったはかりしれない恵みを見つめ続け、それを引き出して生きることにすべての心血を注ぐというある種の熱心さとそれゆえの犠牲が必要になるのである。

キリストご自身以外の方には目もくれず、地上を生きる他者の思惑などには決して左右されずに、自分が定めた目的を一心に見据えて進み続けるだけの決意が必要になるのである。

そのようにして、真に満足できる高い水準に達しないことには決してあきらめず、一歩も後に退かない覚悟で、自分のために備えられた恵みを一心に目指すことは、決して悪として非難されるべき貪欲さではない。

むしろ、私たちが生きて味わうために主が備えて下さった恵みを知ることなのであるから、まずはそれを十分に開発すべきであって、自分がその道を知りもしないうちに、今現在、自分が持っている乏しい知識だけで他者を助けられると思うべきではない。
 
人を真に助けたいならば、まずは自分自身が尽きることのない泉を発見し、そこから十分に水を汲み出した上で、その泉へたどり着く方法を他者に教えるべきである。しかし、箴言には、以下に示す通り、自分のための泉を他人に与えるなという警告がある。

アスリートは、自分が苦しい思いをしながら猛特訓をして、自己を犠牲にして獲得した技術を、他の人に簡単に伝授するだろうか。引退して教師にでもなれば、そういうこともあるかも知れないが、現役の選手がそれをすることは決してない。そんなことをしていて、どうやって一位を獲得できるだろうか。
 
代価を払って得た教訓が貴重であればあるほど、人はそれをただ自分だけのものとして大切に扱うことであろう。現に、代価を払わない人間に、どんなに方法論だけを教えても、それを他人が獲得することはできない。

だから、他者を助けようなどと思う前に、人はその同じ時間を使って、もっと自分自身の目的と満足のために生きるべきなのである。その満足とは、神が人間に対して願っておられることは何なのか、神が人間を創造された当初の高い目的、完成、尊厳とは何なのか、自分はどうやってそこへ達するのかというテーマを存分に追求することである。

要するに、人は神の恵みと約束の確かさを、生きて十分に味わい知ることを第一に追い求め、どんな満足を得ても、それで満足したなどと考えるべきでなく、それは目的に向かうほんのごくわずかな一歩でしかないということを思うべきであり、それなのに、ほんのごくわずかな恵みを得たからと言って、それを偉大な達成であるかのように満足げに吹聴して回っているようでは、その人にその先はないということなのである。

(むろん、信仰によって神がなされた御業を他の人に伝え聞かせ、証することが決して悪いというわけではないのだが、人には往々にして、ほんのわずかな恵みを得ただけで、それを十分な恵みを勘違いし、しかも、それを自分が獲得した偉大な方法論の獲得であるかのように吹聴して人に教えようとする傾向があり、もしそのような地点で立ち止まるならば、あなたの信仰はそこで終わりになることを思うべきなのである。)
   
以下の箴言第5章における「遊女」が何を意味しているかについては、諸説あるだろうが、筆者は、これはバビロンを指しており、遊女の道とは、自分がキリストになり代わり、教師となって講壇に立って信徒らを教え、信徒らから注目を浴び、感謝され、栄光を受けようとするすべての目に見える宗教指導者に就き従う道に当てはまると考えている。

このような指導者たちは、他人に向かって教訓を語るが、自分自身はそれを実践しない。他人に向かって泉のありかを指し示すが、自分自身はその泉から汲んで飲もうとはしない。

彼らは親切心を装って、絶えず困っている他者のために気前よく奔走し、「神はあなたを愛しておられます。その愛を十分に受け取って下さい」などと説教はするが、自分の心の内では「神が分からない。神はどこにおられるのだ」と叫んでいる。そして、キリストを自分の心の内に確信できず、そこから恵みを引き出す方法も分からないまま、自分が持てるほんのわずかな物質的・精神的なアイテムだけを頼りに、人助けにもならない人助けを行おうとし、他者の眼差しの中に「神」を探し、他者から肯定・承認されることで自己存在を獲得しようと、常に困った人々のもとを駆け回っている。
 
私たちは、どんなに彼らが卓越した指導者のように名を馳せていたとしても、そのような空虚な人間には決してなってはいけないし、彼らにつき従って行ってもいけないのである。

以下の御言葉の中で「会衆のうちにあって、わたしは、破滅に陥りかけた」という表現から、私たちは、以下の警告が、不信者に向けられたものでないことが分かる。

「遊女」というのは、要するに、地的なもの、悪魔的なもの、すなわち、地上を生きる生まれながらの人間全般の欲望の総体を指すのであり、人間の宗教指導者の栄光を建て上げ、人類の利益に仕えて生きることも、遊女の道に従うことである。

人間の利益に仕えて生きることと、神の利益に仕えて生きることは、決して両立せず、それにも関わらず、人類全般の利益を優先して、人間社会の思惑に従い、人間の満足を目的に生きれば、その信者は、ただ自分自身のためだけに備えられた命の泉を、他者の欲望の犠牲として失ってしまうことになるという教訓なのである。
  
「わが子よ、わたしの知恵に心をとめ、わたしの悟りに耳をかたむけよ。
これは、あなたが慎みを守り、あなたのくちびるに知識を保つためである。
遊女のくちびるは蜜をしたたらせ、その言葉は油よりもなめらかである。
しかしついには、彼女はにがよもぎのように苦く、もろ刃のつるぎのように鋭くなる。
その足は死に下り、その歩みは陰府の道におもむく。
彼女はいのちの道に心をとめず、その道は人を迷わすが、彼女はそれを知らない。

子供らよ、今わたしの言うことを聞け、わたしの口の言葉から、離れ去ってはならない。

あなたの道を彼女から遠く離し、その家の門に近づいてはならない。
おそらくはあなたの誉を他人にわたし、あなたの年を無慈悲な者にわたすに至る。
おそらくは他人があなたの資産によって満たされ、あなたの労苦は他人の家に行く。
そしてあなたの終りが来て、あなたの身と、からだが滅びるとき、泣き悲しんで、
言うであろう、「わたしは教訓をいとい、心に戒めを軽んじ、
教師の声に聞き従わず、わたしを教える者に耳を傾けず、
集まりの中、会衆のうちにあって、わたしは、破滅に陥りかけた」と。

あなたは自分の水ためから水を飲み、自分の井戸から、わき出す水を飲むがよい。

あなたの泉を、外にまきちらし、水の流れを、ちまたに流してよかろうか。
それを自分だけのものとし、他人を共にあずからせてはならない。

あなたの泉に祝福を受けさせ、あなたの若い時の妻を楽しめ。

彼女は愛らしい雌じか、美しいしかのようだ。いつも、その乳ぶさをもって満足し、その愛をもって常に喜べ。

わが子よ、どうして遊女に迷い、みだらな女の胸をいだくのか。

人の道は主の目の前にあり、主はすべて、その行いを見守られる。
悪しき者は自分のとがに捕えられ、自分の罪のなわにつながれる。
彼は、教訓がないために死に、その愚かさの大きいことによって滅びる。 」(箴言第5章)


命の御霊の法則に従って支配する―一羽の雀さえ、父のお許しがなければ、地に落ちることはない。(2)

このところ、オリーブ園で連載されているオースチン-スパークスの論説は非常に興味深い内容なので、転載しておきたい。

まずは、T. オースチン・スパークス 「御霊による生活」 第四章 御霊に満たされる (9)  から。
 

交わりのために成長する重要性

 そしてさらに、霊的交わりのために霊的成長がなければなりませんさらに優った積極的交わり抜きで、関係を持つおそれがあります。この関係は続きますが、今やあなたは交わりの中を進んでおり、真の霊的交わりのために霊的に成長しなければなりません。

交わりは私たちの関係性の所産であるべきであり、交わりに導かない関係性にはその麗しさと豊かさが欠けており、その真の目的に達していません。ある共通の基礎、共通の立場という点を超えて、私たちは互いにやって行くことはできません。

常に
あなたの自己が優勢なら、ただ主と共に進んで行きたいというあなたの望みのみに基づいてあなたと共に進んで行くことは私にはできません。また、あなたもその立場に基づいて私と共に進んで行くことはできません。私たちが一緒に進んで行けるのは、キリストという共通の立場がある時だけです

「合意なしに二人は一緒に歩めるだろうか?」。これは「合意なしに二人は関係を持てるだろうか?」という問題ではありません。確かに二人は関係を持つことができます。
同じ両親、同じ家族の子供たちは、一つの血によって関係していますが、一緒には歩んでいないかもしれません

一緒に歩む問題は進み続けて前進する問題です。共に歩めるのは、合意している時だけであり、共通の立場がある時だけです。もし一方が手前で立ち止まり、他方が進み続けるなら、この二人の間の交わりは進んだ地点までに限られます。もし一方が肉の中で進み、他方が御霊の中で進み続けるなら、彼ら二人が御霊の中で進み続けるのをやめる地点で彼らの交わりは終わりますが、彼らの関係は終わりません。

私たちは人々によって支配されてはなりません。たとえ彼らがクリスチャンであってもです。私たちはキリスト教の組織によって支配されてはなりません。たとえクリスチャンの組織であったとしてもです。私たちはあらゆる点で霊なる主によって支配されなければなりません。

 ここに豊かな実りがあります。御霊の度量の中で共に進むこの立場を得る時、私たちは絶対的有用性の立場に達します。とても多くのことがこれにかかっています。往々にして人は知的に何かを理解・把握し、それを誰かから得て、その中で進み続けようとするのですが、その事柄は彼らの存在中に決して造り込まれておらず、彼らはそれを人づてに得たにすぎません。それは彼らの存在中に、聖霊の懲らしめ・鍛錬・訓練によって、決して造り込まれていません。そして、それが彼らの内側から現れることは決してありません。聖霊によってその事柄を内側に造り込まれるというような問題では、私たちは確かでありたいと願っています。



この記事は、なぜ私たちはクリスチャンのうちのある人々と、信仰の歩みを途中までしか一緒にできないのかという問題に対する良い解説となっている。

これはある意味では困難で痛ましい問題でもある。なぜなら、神は決してクリスチャンの成長の度合いを最初から限定されたりはしておられないからである。一人一人の人間の生まれつきの才能や性質には様々な違いがあるとはいえ、それは霊的な度量の違いとは異なる。

神が初めからあるクリスチャンだけを偉大な霊の器として定め、ある人々を小さな器として定められたという考えは正しいものではない。たとえば、旧約聖書に登場する霊的先人たちは、ある種の型を示しているのであって、これを今日のクリスチャンにそのまま当てはめたりしないようにしたい。

ある人々にはダビデのように霊的に偉大な召しが与えられているが、ある人々はサウルのように失敗者となって終わることが決まっているなどと考えたりすべきではない。

(むろん、これは信者が人生における選択を誤った場合に当然、負わなければならない報いを意味するのではないし、信者が故意に御霊に逆らい続けた場合にも、信仰の失敗者とならないという意味でもない。)

ただ私たちは、クリスチャン同士の間に、あたかも人間の生まれつきの能力や才能のように、霊的命の等級のようなものが初めから定められていて、成長の度合いが初めから限られているなどという考えを持たないようにしたい。

新生されたクリスチャンの歩みは、同じ種類の植物の種を地面に蒔くようなもので、その種に初めからあまりにも大きな違いがあって最初から違った成長の度合いが定められているということは決してないのである。
 

主の民に関する大いなるすべてを含む言明は、彼らは神のための祭司の王国となるために選ばれたということです。これはつまり、主の民の僅かな人々ではなく全員が神のための祭司の王国となるよう召されているということです。

神は最初からイスラエルを祭司の王国と見なしておられました。民全体が祭司の地位にあると見なしておられました。これは次にレビの部族が引き継ぎました。レビの部族は全イスラエルの初子を代表するものであり、主の御前にもたらされて、聖所での務めのために分離されました。主の御思いでは、これは全イスラエルをその地位にもたらすことを表していました。

しかし同時に、そこには相違があったことを理解しそこなうことはありえません。そこにはレビ人たちがおり、祭司たちがいました。レビ人たちがおり、アロンの息子たちがいました。彼らは同じではなく、異なっていました。しかしこの相違は、相違が生じることを主が意図されたからではありません。

 私たちはこれをすぐに単純化してしまいますが、まず第一に、次のことをはっきりさせなければなりません。すなわち、
神が持っておられる最高の最も完全なものは彼のすべての民のためであり、一部の人のためではないのです。あるものは自分には過ぎたものである、自分がそれに到達することは決して主の意図ではない、と感じる時は常に、これを思い出して下さい。彼の豊かさは一部の人のためだけであるという考えを、あなたの思いの中から完全に追い出さなければなりません。

「御霊による生活」 第五章 祭司団 (1)

 
しかし、現実には、クリスチャンの霊的な成長には大きな違いが発生する。ある人々は霊的に前進し続けるが、ある人々は途中で停滞してしまうか、もっと悪い場合には後退し、脱落する。

私たちは、そのようなことは、神が新生されたクリスチャンに初めから定めた違いを意味するのではなく、おのおののクリスチャンの望みに応じて生じる違いなのだと気づくべきである。

すべてのクリスチャンには、それぞれが同じ種類の種のように、大きな霊的成長を遂げる可能性が備わっているものの、成長が起きるかどうかは、あくまで各自のクリスチャンの望み、また歩みによる。

今日、多くのクリスチャンを名乗っている人々の成長を妨げているのは、人間の作り出した宗教組織や、宗教指導者の教えという、人間が作り出した思惑や制度の枠組みである。あまりにも多くの信者が、これらが人自身が作り出した規則や考えに過ぎず、神の霊的な命の統治とは何の関係もないのものであるということを認めず、その枠組みから出る可能性を考えてみることもない。そのため、彼らがとどまっている枠組みが、そのまま彼らの霊的成長の限界となってしまうのである。

それはちょうど何メートルも生長する可能性を秘めた巨木の種を小さな温室に閉じ込めて育てようとするようなものである。

人間の作った宗教組織や、宗教指導者の教え以外にも、信者の霊的成長を縛り、邪魔し、制限しているものは多くある。たとえば、それはこの世の常識であったり、不信仰から来る信者の誤った思い込みであったり、信者自身が自分の心の中でもうけた制約などである。

一つ前の記事に、一羽の雀を天にはばたかせるのか、それとも地に落とすのかは、信者自身の心の選択にかかっているのだということを書いた。このことは、信者が自分で管理するよう地上で任されたものを、生かすのか殺すのか、増やすのか減らすのか、繁栄させるのかそれとも衰退させるのか、といった選択は、信者自身の信仰にかかっていることを意味する。

同じように、信者自身が霊的にどれだけ成長を遂げるのかも、信者自身の望みにかかっているのである。

言い換えれば、真に霊的に成長を遂げたければ、信者は自分自身のちっぽけな思いの限界をとりはらい、神の御思いにふさわしいだけの高さ、広さ、深さ、長さをもった思いを抱く必要がある。神が人に望んでおられるのと同じほど、気高く、高潔で、壮大な願いを抱き、それが自分に実現可能であることを固く信じ続け、どんな困難に遭遇する時も、あきらめることなく前進し続けなければならない。

信者が抱く望みの高さ、大きさに応じて、信者を取り巻く環境が押し広げられる(もしくは狭められる)。環境が信者の信仰を規定するのではなく、信者の信仰が、信者を取り巻く環境を規定するのであり、もしもその逆が起きているならば、その信者はもはや信仰に従って生きているとは言えない。

ところが、多くの信者が、自分で自分の信仰の成長を縛り、停止させていることに気づいていない。そのようにして信者が自分でもうけている限界や制限の中には、「私とはこのような人間である」とか「私はこのような人間でなければならない」といった信者の思い込みもある。

多くの信者が、「私は大した人間ではありませんから、大それたことはできません」などと告白することを、あたかも謙虚さであるかのように勘違いしている。しかし、そのように告白してしまえば、それが現実となるのは避けられない。

つまり、「私は大した人間ではありませんから…」と自ら述べている信者が、キリストの身丈にまで成長することはまず絶対にあり得ない。

そのようなわけで、信者は、神が願っておられる御心を真に掴み、本当にそれにふさわしいまでに成長し、遠くまで歩いて行こうと願うならば、まずは自分で自分を縛っている思いの狭さや限界自体を取り払い、変えなければならないのである。そして、「自分とはかくかくしかじかの人間である」という、自分でもうけた制約そのものを取り払って、神が自分に願っておられることは一体、何なのかという視点で自分を見るようにしなければならない。

ほとんどの人は、その必要性に気づかず、生まれ育った環境で身に着けた常識に従ってしか自分を見ようとしないため、信者となっても、キリストに似た者とされることの意味が全く分からず、自分が何を目指しているのかも分からないまま、完全にこの世の常識的な考えと枠組みの中だけで生涯を終えることになってしまう。

冒頭に挙げた記事に話を戻すと、クリスチャンは、自分の霊的な成長に応じてしか兄弟姉妹と交われない。そこで、交わりの中にいた信者の誰かの霊的成長が止まってしまうと、それまで一緒に歩いて行くことができた兄弟姉妹が、もはや共に進んで行けなくなるということがしばしば起きる。

宗教界にいる多くの信者たちは、信徒の交わりという問題について完全に誤解しており、彼らは、自分が所属している宗教組織にいる人々が兄弟姉妹だと考えているため、その組織に所属している限り、信徒の交わりから除外されることはないと考えている。

しかし、そのような考えは誤りである。そもそも地上の宗教団体に所属して得られる人間関係は、地上的な人間関係と何ら変わらず、御霊による霊的交わりではない。

当初は無知のゆえに、そうした地上組織がキリストの体を表すものであるかのように誤解している信者がいたとしても、その信者が真に霊的交わりを探求するならば、やがてその組織が誤りであることを見いだし、真理に従うために、そこを出て行かねばならない時がやって来る。

こうして、ある真理に気づいた信者が、それに気づかない人々の集合体を後にせねばならないということが起きるのである。

そのような現象は、信者が地上的な宗教組織を離れ、クリスチャンの兄弟姉妹と自由に交わっていても、やはり起きて来る。

そこでも、その交わりにいる誰かの霊的成長が止まり、あるいは、その人が霊的に後退し始めたり、もしくは、人間的な思惑に惑わされて、真理から逸らされたり、あるいは、自ら指導者となって他の信者たちを管理・統制し始めたりすれば、その交わりはもはや自由な交わりではなくなり、御霊の働きが損なわれる。

すると、そのことに気づいた信者は、その交わりを中止して、自分一人であっても、そこを出て先へ進まなければならなくなる。

このように、御霊による交わりは、キリストを土台としてか成り立たず、御霊の自由が損なわれれば、交わりが成立しなくなってしまう。人間的な思惑や力によって牽引される交わりは、信徒の交わりではなく、もはや別な何かである。

悪魔は心から信徒の交わりを憎んでいるので、これを壊すために、全力を尽くす。そこで、かつては自由であった信徒の交わりに連なる成員の心が、キリストの御霊とは異なる影響力から来る別の教えに誘惑され、逸らされて行く危険は十分にあり得る。

あるいは、キリスト教界をエクソダスしたと言っていた人々が、再び、キリスト教界に戻って、宗教組織や指導者の束縛の下に入ることもあれば、自ら指導者になろうとすることもある。

そのようなわけで、一旦、御霊の自由の上に打ち立てられた交わりの中にいたはずの信者たちが、再び、人間的な思惑の支配下に入り、そのために、御霊による交わりが損なわれると、信者は、最終的に、御霊自身がその交わりを去って、その交わりが完全に堕落・変質して破壊されるよりも前に、そこを去らねばならなくなる。

サタンの誘惑に屈して、聖書とは別な教えに逸れていった人々が、自ら交わりを壊したという自覚を持つことはほとんどない。霊的に後退した人々がその自覚を持つこともまずなく、まして自ら指導者となって、キリストに代わって交わりを支配しようとするような人間が、その行為が悪であることを自覚することはまずない。彼らを説得しようとしても、それはほとんど不可能な相談である。

そこで、信者はそのようにして御霊とは完全に異なる別の影響力が入り込んできて交わりが汚染されたことを悟れば、そして、それが助言や忠告によって修正できる範囲を明らかに超えていることが分かったならば、そこにいる人々を、共に前進できる兄弟姉妹であると考えることをやめて、静かにその交わりを出て行かねばならない。交わりが異なる福音によって汚染された事実を知りながら、人間的な情愛にとらわれて、そこに長い間、残っていれば、いずれ深刻な害を受けることになろう。

このように、一旦、光を受けて前進していた信者が、後退するか、脱落するかした場合、その人との交わりは、まるで異教徒との交わりと同じような具合になってしまい、同じクリスチャンを名乗っていながらも、交わりが全く成立しなくなるという状況が起きうるのである。

そこで、たとえクリスチャン同士であっても、共に手を携えて霊的に前進して行けるかどうかは、その人自身の霊的成長にかかっていると言える。

途中までは共に前進出来ても、途中から脱落してしまう人々は非常に多い。そして、たとえ物理的には互いに顔を合わせることのない兄弟姉妹同士であっても、キリストの身体全体は一つであるため、他の信徒らに先駆けて、霊的に目覚ましい成長を遂げ、キリストの体の中で、先駆的な役割を果たしていた信者が、別な教えに逸らされて脱落すると、それは後方にいる人々にも大きな悪影響を与えることになる。

エクレシアは全体としては軍隊のような力を持つものであり、物理的な制約にとらわれず、互いに連動して機能しているため、一人一人のクリスチャンが霊的に成長を遂げるとき、それはエクレシア全体の増強となり、サタンと暗闇の軍勢に対する大いなる衝撃力となる。一人一人の信者の霊的成長が、エクレシア全体にとっての力となり、暗闇の勢力にとって重大な脅威となる。だからこそ、サタンは何とかしてエクレシアの交わりを破壊し、一人一人の信者の霊的成長を阻止し、できるなら彼らを誤った道へ逸らし、交わりを分断・破壊しようとするのである。

とはいえ、他の信者の状態がどうあれ、あなたは決して前進をあきらめず、キリストだけを土台として、進み続けなければならない。たとえ一人きりで出発せねばならないと感じられる時でも、あなたが前進し続けるかどうかが、エクレシア全体の前進にも大きく関わって来るのであるから、進み続けることをあきらめてはいけない。

 しばらく離れなければならなかった兄弟姉妹とも、また交わりの中で再開できる時が来ないとは限らない。しかし、キリスト者の歩みの目的は、かつてあったような交わりを維持・再現することにはなく、ただキリストに従うことだけが目的でなければならない。

さて、以上は、信者が、自分の思いを、神が信者に願っておられるスケールにふさわしいまでに押し広げ、高い目標を持ち、自分で自分の成長に限界をもうけず、自分に与えられた高貴で責任の重い使命にふさわしい自覚を持つべきことについて書いて来た。

そのように高い目的意識と、それに見合った広い心を持ち、神の約束の御言葉に従って、自分自身がそこに到達できることを固く心に信じないことには、信者の霊的成長など起こり得ないのである。

次に、信者が自分の「さまよう思い」をコントロールすることについて書きたい。

現在、筆者の作業場は小鳥たちの楽園のようになっている。筆者のパソコンの画面にはたくさんの小鳥が止まっており、キーボードも、小鳥たちが走り回る遊び場となっている。南国の美しいブルー、ピンクなどの、小鳥たちの珍しい色が、目を楽しませてくれる。

これらの小鳥を見ながら、筆者は、標題の御言葉の意味を思いめぐらしている。

キリストの復活の命は、環境を創造する命であり、この世のすべてを超えた支配力を持つことを、これまでの記事で幾度か述べて来た。御霊によるキリストの新しい命は、信者の地上におけるすべての必要性を整えることができる。

そこで、信者の生活に、損失のように思える出来事が起きた時でも、信者がもしそれを損失であると認めず、素早くそこから立ち上がって前進を続けるならば、驚くほど素早くダメージが回復されるばかりか、以前よりももっと豊かな恵みが与えられる。

筆者が出会った小鳥たちも、御霊の統治の中で与えられたものであると言える。偶然ではない様々な波乱に満ちた出来事が多々起きる中、筆者は様々な条件を指定して鳥を探して来た。これまで何度も小鳥を探して来たが、珍しい種類の良い雛を見つけるのは簡単なことではない。筆者の周りにいる鳥たちとの出会いも、一つ一つが偶然ではなかった。

だが、小鳥の話は単なる比喩に過ぎず、ここで筆者が言いたいのは、信者には自分を取り巻く環境条件を自ら創造し、自分の支配下に集まって来るものを、どんな風に治めるかを、自分自身で決める権限があることだ。

信者は信仰によって、すべての願うものを無から呼び出して獲得し、得たものを主人として管理・統治する権限を持つ。その影響力は、小さな生き物だけでなく、信者の支配圏内にあるすべての人、物事、条件に及んでいる。

そこで、信者は、信仰によって何かを得ようと願うだけでなく、得たものを適切に管理・統治する方法を学ばなければならない。その過程で、信者の統治には、信者自身の思いがかなりの影響を与えることが分かってくるだろう。

生き物を育てると必ず分かることは、動物たちには、間違いなく、言葉を超えた伝達能力が備わっており、主人の思いを言葉によらずに、瞬時に的確に察知する能力があるということだ。

飼育されている生き物たちは、主人である人間が今、平安を感じているのか、それとも恐怖を感じているのか、何の伝達手段にもよらず、瞬時に察知できる。彼らは、主人が安らいでいることによってのみ、平安を得る。

また、これらの生き物は、主人が同じ部屋を立ち去って、少し離れた見えない場所にいても、主人の心がどういう状態にあるのかを的確に察知することができる。

筆者はこのような能力を、当初は動物に備わる本能的な直感や、人間である主人の生活に合わせる適応力なのだと思っていたが、実は、そこには単なる言外のコミュニケーションを超えたもっと重大な影響力の行使があることに気づいた。

その影響力は、やはり、すべての生き物を治める主人と、その支配下にある生き物の主従関係から発生して来るものなのである。それは王国における王と臣下の関係にも似ていて、飼い主の考えは、これらの生き物たちに瞬時に伝わるだけでなく、生き物の運命を決めてしまうほどに重大な決定権・影響力を持つ。

たとえば、飼い主が怒りっぽく、絶えず不安にさいなまれている人間であるのに、ペットだけが平安で幸福であるということはまずない。そればかりか、飼い主がペットを愛さなければ、ペットの方が、自分は必要とされていないと思い、世をはかなんで去って行くということさえ起きかねない。

どんな飼い主であっても、飼い主の意志と思いは、圧倒的な影響力となって生き物に行使される。それが主人であることの意味である。人自身が思っているよりも、はるかに強く、また、些細な思いに至るまで、人間の思いや感情は、生き物に伝達され、決定事項のように作用する。

そこで、飼い主は、自分自身の思いが、自分の配下にいるすべての生き物にとって、善き決定となり、良好な影響を与えるように、自分自身をコントロールしなければならない。

もちろん、飼い主は、自分たちの生活に脅威を与えるすべての悪しき力に立ち向かって、これを撃退し、いと小さき命を養う主人としての役目と責任を果たすべきことに加え、彼らを幸福に生かすために必要な条件を整えねばらならない。

その過程で、人間は、自分の思いがどれほどすべての環境条件に重大な影響を与えているかに気づかざるを得なくなるだろう。

筆者がなぜ今、生き物を例に話をしているのかと言えば、人間を相手にする場合は、受ける影響力が強すぎるため、どこまでが自分の責任範囲であるのかが、分かりにくいからである。

仮に軽自動車とダンプカーとの接触を考えてみた場合、あなたが運転していたのが軽自動車であって、相手が運転していたのがダンプカーであれば、あなた自身の影響力がどこまでのものであるかは極めて分かりにくいだろう。ダンプカーの力が強すぎるからである。このように、人間を相手に関わる場合は、相手から受ける影響が大きいがゆえに、自分自身の思いや行動がどれほど相手に影響を及ぼしているかは見分けにくい。

しかし、人間よりもはるかに弱く小さな生き物が相手であれば、人は自分がその生き物にどれほど絶大な影響を及ぼしているかを、人間を相手にする場合よりももっとはるかによく知ることができる。

多くの人々は、飼い主として果たすべき責任と言うと、まずは餌や水を与えること、適切な温度管理をすること、清潔な環境を整えること、などの物理的な飼育条件を思い浮かべるであろう。もちろん、これらの世話は必要なことである。だが、それよりももっと根源的なところに、飼い主の思いというものが存在する。

人が自分自身の思いを守ることの重要性は、あまり強調されないが、これは非常に重要な問題マである。飼い主の思いが平安であり、安定していなければ、物理的世話が行き届いていたとしても、その支配下にある生き物は幸福になれない。そもそも、飼い主の思いが安定していなければ、ペットの幸福はあり得ず、それは、しばしば、物理的な世話が行き届かない最たる原因となる。ただ愛情があるだけではダメで、変わらない愛情、常に安定した愛情を注ぐにふさわしい準備ができていなければならない。

だが、このことはペットの飼育に限らず、すべてのことに共通しており、人自身が平安に生きられるかどうかの鍵は、その人自身が自らの思いを守れるかどうかにかかっている。

多くのクリスチャンは、常に安定した愛情を、ペットのみならず、自分自身にも、他者にも、注ぐ用意ができていない。彼らの心はあまりにも不安定で、変わりやすく、その上、彼ら自身が、自分は怒りっぽい性格に生まれたとか、苛立ちやすいとか、不安に影響されやすいとか、体が弱いなどと考えて、自分で自分の性格を規定し、自分の弱さが自分の生まれ持った傾向であり、変えられない習慣であるかのようにみなして、自分の心を圧迫するあらゆるものに毅然と抵抗して、自分の心を守ることをほとんど完全にやめてしまっている。

それゆえに、彼らは自分の心の平安をかき乱すあらゆるものに勇敢に立ち向かうこともなく、受け身に翻弄されるだけとなり、自分の心を防衛の砦のように守ることができず、まるで風にきりきり舞いさせられる木の葉のように、起きる出来事に翻弄されては心の平安を失い、自分ばかりか、自分の支配下にあるすべてのものを危険にさらしているのである。実のところ、それは全く正しい行動とは言えない。

そういうことは、その信者が自分の思いをコントロールする術を学んでいないために起きることであり、また、同時に、信者が自分で自分の性格を規定してしまっているために起きている誤解なのである。

そのことを知らない人々の中には、以上のような天然の弱さからもっと進んで、たとえば、自分は運が悪いとか、決して人から愛されないとか、肝心なところでいつも失敗するとかいった、極めて否定的な根拠のない思い込みを頑なに真実であるかのように信じ込んで生きている者もある。それは彼らが心の思いの深いところで、すでに自分の人生を規定してしまっていることを意味する。

そのような否定的な「信仰告白」を繰り返していながら、一体、どうしてその人がキリストの身丈まで霊的成長を遂げることなどあり得ようか。

たとえば、自分の人生があたかも不幸の連続であるかのように自ら思い込み、決して自分は人から十分な愛情を注がれることなく、十分にかえりみられることもなく、何かの痛ましい事件の犠牲者となって生き続けるしかない被害者であるなどと、心の深いところで根拠もなく思い込んでいる人間が、自分の周りにいるいと小さき命を真に幸福にできることは決してないと言えよう。

そういう意味で、前回も書いた通り、「一羽の雀」をはばたかせるか、地に落とすかという選択は、生き物の飼育という問題をはるかに超えて、その飼い主である人間自身が、果たして自分を治めることができているのか、自分を生かすつもりなのか、殺すつもりなのか、生と死のどちらを選ぶのかという選択と深く関わっているのである。

本来、多くのものを適切に管理し、多くの命を生かさなければならない立場にあるはずの人間が、自分は不幸だと思い込み、環境の主人となるどころか、環境条件に振り回され、それゆえ、常に自分を失って、周りの命に大きな悪影響を及ぼしながら生きているといった現象は、決して一部の弱い人々にのみ起きていることではなく、霊的成長を遂げたいと願っている多くの信者にもしばしば当てはまるものなのである。

今日、クリスチャンを名乗っているほとんどの信者は、自分で自分をどれほど制約し、規定してしまっているかを知らない。彼らは口では、「キリストに似た者とされたい」と告白するが、それが一体、どういうことを意味するのか、内容を分かっていない。聖化だとか、栄化だとかいった専門用語のような概念を論じることはあっても、その内実が何であるのかほとんど理解してはいない。

彼らは自分というものを、あたかも救われる前まで、もしくは昨日まで、積み重ね、作り上げて来た狭い自己イメージであるとみなしており、そこに変化が起きうる可能性を全く想定していない。過去の蓄積として自分自身で作り上げた自分のイメージが、明日も、明後日も、続くのだと思い込んでおり、それに無意識のうちに束縛されてしまっているため、そこに信仰の働く余地が全くと言って良いほど存在しないのである。

その思い込みは、完全に事実無根というわけではなく、その中には、幾分か、信者自身の生来の性格や傾向も含まれており、事実、そのような過去が繰り返されて来たのかもしれない。

しかし、信者の信仰による歩みは、過去によって規定されるものでなく、信者の天然の命によって規定されるものでもない。そこで、まことしやかな「過去の蓄積」を自分自身だと思い込んで生きている限り、その信者の中から、天然の命の限界を打ち破るような信仰の働きは決して起きて来ることはない。

サタンは、信者の天然の傾向を入念に研究済みであって、信者の天然の命から来る限界や欠点を、あたかも信者の変えられない「運命」であるかのように思い込ませる天才である。それは、悪魔は、信者がいつまでも過去に縛られ、自分の天然の命の弱さから抜け出せず、決してその制約から立ち上がって、キリストの復活の命の豊かさにあずかれないことを願っているためである。

楽器の練習をする際に、昨日と同じように弾こうと考える者はいないだろう。必ず、昨日よりは上手く、昨日よりももっと自由に、より美しく、より高い完成度で演奏しようと考えるはずである。どんなに目標が遠く感じられても、根気強く、そこに近づいていきたいと願い続けているからこそ練習するのである。

ところが、信仰による歩みについて、あまりにも多くの信者たちが、いかなる目的も持っていない。彼らは何の目的意識もないまま、漠然と昨日と同じような今日を生き、その延長として明日が来るだろうと考えているだけで、全く目的意識も持っていないのに、まるで偶然のように自分に進歩が起きるのを受け身に期待しているだけである。

彼らはキリストに似た者とされることが、自分自身の内面の作り変えを意味し、自分の中で人として損なわれた尊厳を完全に回復することを意味しているなどとは全く考えてもみない。むろん、自分自身の内側で、天然の堕落した命の衝動に従って生きている限り、人としての尊厳がどれほど深刻に損なわれているかに気づいてもおらず、そのままでは、人生において完全な主権を打ち立てることもできないと分からない。

サタンは、信者に天然の弱さが克服不可能であるかのように思い込ませようとするか、もしくは、それを克服することは、人間の力では到底、不可能であるから、あきらめるしかない、と思い込ませようとする。そのようなサタンの策略が功を奏すれば、信者は自分のあれやこれやの弱さにひしがれ、それを否むことは、神のまことの命によってのみ可能であると考えてみようともせず、自分で自分の弱点を克服しようともがいた挙句、一向に克服できない自分の欠点や弱点に対する罪や恥の意識に常に苛まれて生きるしかなくなる。

そうしてサタンの策略が功を奏すれば、サタンは信者をただ天然の命の弱さによって思うがままに翻弄するだけでなく、その次に、信者の天然の傾向とは何の関係もない余計な重荷までも次々と信者に押しつけて来た上、それらを背負って生きることが、信者の「運命」であるから、あきらめるしかないと思い込ませようとするであろう。

サタンが願っているのは、信者の思いをひっきりなしに重荷によって圧迫し、かき乱し、平安を失わせ、信者があらゆる物事を判断する際に、ただ受け身に出来事に翻弄されるだけとなって、決して正常な決断が下せないように仕向け、主体性を失わせることである。

サタンは信者が神の国の霊的統治を持ち運ぶ王のような威厳と権威を備えた存在だということを何としても気づかせまいとしており、信者の見えない王国を統治する主人としての威厳と権威を損ない、信者が与えられた召しにふさわしい生き方ができなくなるように仕向けようとする。王の威厳にふさわしい者と言うより、奴隷と呼んだ方が良い生き方を強いようとする。

そのためにこそ、サタンは、信者は弱く、欠点ばかりを抱えた、一人では何事もできず、失敗を繰り返すだけの無力な人間であるから、常に誰かの助けと支えがなければ生きられないかのように思い込ませ、信者がまかり間違っても、大それた高貴な目的意識など持つことなく、自分がキリストの持っておられるすべての性質にあずかるにふさわしい人間であるなどという自覚を持たないように仕向けようとするのである。

サタンが願っているのは、信者が一生、自分の天然の命の限界から一歩も出ることなく、罪と死の法則だけに支配されて翻弄される客体として生きることである。

だが、信者はそのような悪しき惑わしの策略を打ち破り、これを振り切って、前に進んで行かなければならない。このことは、信者が重荷を避けて通ることを意味せず、むしろ、どれほどサタンが信者に不当な重荷を押しつけようとして来たとしても、信者がこれに勇敢に立ち向かって、それを撃退する方法を学び、その重荷を自分自身のものとして背負うことを断固、拒否する姿勢を保持することを意味する。

聖書には、「主をたたえよ 日々、わたしたちを担い、救われる神を。」(詩編68:20)という句があり、これは新改訳では、「ほむべきかな。日々、 私たちのために、重荷をになわれる主。」となっている。神は私たち自身を背負われる方であるから、私たちはいわれのない重荷によって心を絶え間なく圧迫されて正常な判断力を奪われることを固く拒否すべきなのである。確かに、主に従う上で、日々、負わねばならない十字架があるとはいえ、主イエスはその荷は軽いと言われた。

サタンが押しつけて来る重荷は、人間には負いきれない重荷であって、信者はそれを引き受けてはならない。しかし、その重荷の中には、信者の天然の命から来る限界だけでなく、信者が常識であるかのように考えて自分でもうけた制約なども含まれている。

信者の霊的成長にとってしばしば最も有害な障害物となるものが、信者自身が過去の記憶の蓄積や、人の言葉や評価を通して得た自分自身のイメージ、または、聖書に反する自分の常識を通して作り上げた自分自身のあるべきイメージである。

ガラテヤ人への手紙の中で述べられている「御霊の実」は、今日、多くのクリスチャンにとってほとんど絵空事に等しい。この聖句は今日、多くの信者の間で、「クリスチャンになった以上、人々に対して親切で善良な人間になりましょう」といった道徳訓くらいの意味合いにしか理解されていないが、ここで述べられていることは、そういう意味をはるかに大きく超えた、信者の内なる人格の作り変えのことである。

「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。

 これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。」(ガラテヤ5:19-26)

信者の内なる天然の人が、主と共なる十字架ではりつけにされて死に、その代わりに、キリストの高貴な人格の性質が、その信者自身の人格として付与され、信者がそれに一体化して行くということが起きねばならないのである。キリストの人格が、信者の人格と一致して働き、キリストの命に備わった性質が、信者自身のものとされ、信者の内側から発揮されなければならないのである。

だが、その作り変えは、決して信者の自覚や同意と関係なく自動的に起こることはない。その作り変えの過程で、信者の思いや、魂にも、十字架が適用されなければならず、信者は自分がそれまで自分だと思っていた天然の人を否み、これを手放し、それとは異なる人格(命の性質)に従って生きることを自分自身で選択せねばならない。

そのためには、何が天然の命に属するものであり、拒まなければならない性質であるかを、信者自身が理解せねばならない。

そんなにも多くの時間をかけて学ばなくとも、多くの人々は、自分の人生の調和を狂わせるようなあらゆる変調が、自分自身の心の中に存在することに、すでに気づいているだろう。

人の心の中には、さまよう思いがあり、それはきちんとコントロールしなければ、信者の心の中を荒れ果てた庭のようにしてしまう。それは、たとえるならば、演奏家が楽器を奏でる際に、様々な外的な要因によって注意を乱されたために呼び起こされた調子の外れた音のようなもので、信者の人生という美しい演奏を不意にかき乱し、場合によっては、壊してしまう。

しかし、信者は、信仰によって、主と共に自ら望むものを創造する者として、ちょうどどんなに劣悪な環境条件の下で演奏を強いられるときにも、最高かつ最善のパフォーマンスができるように自己鍛錬する演奏家のように、自分をコントロールする術を学ばなければならないのである。常に自分にとって完全な舞台が用意されてから、完全な演奏をしますと言っているのではだめなのである。

信者は、自分を取り巻く環境条件に関係なく、自分の内面をコントロールし、そこから信仰によって、自ら環境条件を治める術を学び、それによって、自分の人生の真の主人としての自立と尊厳を回復しなければならない。その回復作業に当たって、信者は、心の変調となりうるすべての要素を、自分の内から追い出さなければならない。

信者が自分自身の心を治める術を学ぶ過程は、非常に根気強いプロセスを必要とするもので、ただ主と共なる十字架における、主の死と信者との一体化、信者が天然の命の衝動を拒んで、神によって与えられた新しい命に従って生きることによってのみ可能である。

神の栄光にあずかるとは、信者自身の内面の作り変えと決して無関係に語れるテーマではないと筆者は考えている。それは決して、地上で信者が大々的な伝道を繰り広げてクリスチャンの数を増やすとか、大規模な事業を行って世間に注目されるといったことを意味しない。

地上で完全にただの人のように肉に従って生き、御霊の働きを知らず、御霊の導きに従って生きる方法も学ばないまま、信者が地上での生涯を終えても、復活の時が来さえすれば、栄光に満ちた姿に自動的に変えられると考えるのは、かなり甘いであろうと筆者は思う。

信者はこの地上において、すでにキリストと共なる死と復活にあずかっているのであり、復活による作り変えは、すでに今の時点からその人の内側で進行中なのである。やがてキリストが来られる時に、私たちがどの程度、主と共に栄光にあずかることができるのかは、私たちが今、この地上で、天然の命をどれほど否み、キリストの復活の命に従って生きたかという度合いによる。

「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りとしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」(ローマ5:1-5)


遅くなっても待っておれ、それは必ずやって来る(2)

ある姉妹が、自分の理想の家を手に入れるために、何年間も祈り続けたことを語ってくれた。この婦人とは、KFCで出会い、KFCに疑問を持って離れた後、交わるようになり、今すでに彼女はもうこの世の人ではないのだが、KFCで出会った人の中では、例外的に、主にある真実な交わりの何たるかを筆者に教えてくれ、そして心から筆者を愛してくれた本当の姉妹であった。

その彼女が、筆者を自宅に招き(それは素晴らしい家であった)、若い頃から、このような家が与えられるようにと、家の図面を書いて、主に願い続けて来たのだと話してくれた。むろん、色んな紆余曲折があり、どこに土地を買うのかなどで、誤った選択をしそうになったことも何度もあると言っていた。

姉妹が亡くなった後、ご主人にも会ったのだが、実際に、彼女はその家が与えられる前から、「まるでその家がすでにあるように話していた」とのことであった。

面白い姉妹であった。その姉妹のご主人は病気がちな人で、何度も、死ぬような大病に見舞われ、彼女はひやひやさせられるのだが、その都度、彼女の熱心な祈りと、不思議な方法で、夫の病気は回復するのだった。夫があまりに大病を繰り返し、いつもそのために姉妹が祈っていたので、まさか妻である姉妹の方が先に召されるとは、誰も考えていなかったに違いない。

基本的に、やむを得ない手術を除いて、薬は使わず、長く入院しての闘病生活も送らずに、自然な生活の中で夫の病気を治すというのが彼女の方針だったので、彼女は一生懸命、夫のための健康食に力を入れていた。一度は、結石が出来たとき、手術せずにこれを治すために、夫婦でジェットコースターに乗ったら、それで治ってしまった、などという話をしていたこともある。

「神様の知恵よ。こんな不思議な楽しい方法で神様は主人に『手術』をなさったのよ」などと、彼女が喜んで証していたのを覚えている。

この姉妹の話していた内容は、信仰を持っている信者にも、にわかには信じがたいと思うような内容が実に多かったが、筆者にはよく分かる。

話は変わるようだが、最近、筆者がペットを何気なく獣医に連れて行った時に、誤診に遭うという出来事が起きた。些細な怪我の治療のために、獣医へ連れて行くと、それをきっかけに、別件で手術が必要だと医者に言われたのである。

「ヴィオロンさん、これは問題ですね。これは先天性の病気ですよ。こんな問題を知らずに押しつけられたとは、あなたは可哀想です。」

と、そこまで医者は言ったのであるが、その言葉が、全くの誤診だったのである。この誤診がもととなって、大変なすったもんだが起き、あわやペットそのものも手放すかというほどの事態へと発展したのであるが、筆者はそのハプニングの途中で、それが悪霊からの攻撃であると気づき、嘘の不安を振り払って、事なきを得た。

ペットを筆者に譲った人の確認、セカンド・オピニオン、サード・オピニオンの結果、それが獣医の完全な誤診であり、筆者は全く悩む必要のないことで悩まされていたことが判明したのである。

結果的に、問題はすべて嘘のように消えてしまい、平穏が取り戻された。だが、混乱させられ、対応を考えていた時間は、損失であったと言えるかも知れない。さらに、もしも万一、筆者が一人の獣医の診断に従って手術を決行していれば、ただ単に余計な費用がかかっていただけでなく、臓器の一部を永久に摘出し、ペットの一生に関わる重大な悪影響を招いていたことになる。まさに筆者自身が何を信じるのか、ということが問われていた瞬間であった。

筆者は自分自身のためにはよほどのことがない限り、薬も飲まず、医者になど極力かからないタイプなのだが、ペットのためということになると、専門家の判断を無条件に信じてしまいそうになる心の弱さがあることに気づかされた。

そのような不安を入り口として、暗闇の勢力が信者に罠をしかける。獣医が悪意を込めて故意に誤診したとまでは思わないが、この出来事の背景には、筆者の平穏とペットの健康を破壊しようとの暗闇の勢力からの悪魔的な意図が働いていたことは間違いない。

そういう出来事は、今まで、この他にも数知れず、起きて来た。だから、筆者のみならず、神を信じる信仰者の生活には、誰しも戦いがあり、信者は自分の生活に対して悪魔のしかける絶えざる妨害と攻撃の意図を見抜き、それらを全て主の御名によって撃退しながら、自分自身と自分の管理下にあるすべての者たちの平和と健康と安全を守り抜かなければならない義務があると筆者は確信している。

霊感商法のように、人の不安を煽り、それをきっかけに深刻な災いへと発展させようとすることは、暗闇の勢力の常套手段である。そして、悪魔の最終的な狙いは、死をもたらすことである。医者までも、そのきっかけとして利用される危険があることが分かった。だが、そのような試みの最中で、神は常に信者の心に問われる。あなたは何を信じるのかと。

神は筆者に問われる。あなたが信じているのは、神の守りの完全さか、それとも、悪魔のもたらす不完全さと、その結果としての滅びなのか。すなわち、筆者がこれまでにも信じて来た通り、神は信じる者とその家族に完全な健康と幸福と安全を与えて下さり、全ての局面において、守って下さることを信じ切るのか、それとも、神は理不尽な病気を送ったり、思いもかけない災いを下したりして、信じる者の生活を苦しめ、絶えず悩ます存在だと考えるのか。常に筆者自身が、何を信じるのかを選択して行かなければならないのである。

筆者はこれまで自分の生活の全ての局面において、神の守りがあることを確認し続けて生きて来たが、以上のようなことがあってから、神の守りの完全性を、以前よりもなお一層、確信するようになった。そして、神以外のものに頼り、助言を求めようとする心の弱さを、徹底的に追い払って行ったのである。

たとえば、筆者は以前には、専門家と称する人たちに一定の敬意を持ち、定期的に医者にかかるのも良いことだと考えていたが、そのような考えをも改め、たとえ自分に専門知識があるわけでない分野のことであっても、目に見える人間の言葉よりも、まず第一に、まことの命と健康を保証して下さるただ一人の神に信頼を置く生活に切り替えたのである。

もし筆者が神を信じていない人たちに助言を求めるならば、その不信者たちを通して、悪霊が筆者の望んでもいない、御言葉にもそぐわない助言や指導をもたらし、それがきっかけで大変な混乱が生活にもたらされる危険がある。筆者はそのようにして不信仰な人たちに心を煩わされ、翻弄される余地を極力、排除して行ったのである。

だから、そういったことの結果、このブログでそれまで受けつけていたコメントや、設置していたアクセス解析の装置も、すべて取り払ってしまった。良い読者も悪い読者もみなそれによって筆者への応答の余地を失ったわけであるが、それをもったいないとも思わない。

以来、このブログは完全な一方通行になった。すなわち、地から天への一方通行である。このブログはもはや人に捧げられるものではなく、天に向かってのみ捧げられるものになったのである。

他にも、例を挙げれば、スカイプをやめ、以前に登録していた転職サイトのようなものもすべて退会してしまった。登録していると色々な企業からオファーが送られて来て、かつてはそれを見るのも楽しく、筆者を必要としている多くの場所がこの地上にはあるように思われて、悪くない気がしていたものだ。だが、そのようなオファーは、大抵、以上に挙げた獣医の誤診と同じように、全く筆者の望みとは関係ない方向へと筆者を誘導し、無駄な時間を費やさせるだけで、結局、人生で何の助けにもならないのである。

キリスト者は、自分自身の人生の主導権を決して他人には預けず、何もかも、自分の意志によって決断し、決定して行かなければならない。それこそが、統治するということの意味なのである。キリストは、人間的には無力で無知に思われる我々の存在を通して、ご自身の完全な統治を現したいと願っておられるのであり、また、我々の人生をも、我々と共に、統べ治めて下さる。だが、その統治が実現するためには、まず他者からの無用な助言や忠告によって、知らぬ間に自己決定権を奪われるようなきっかけを作らないことである。いたずらに人に頼らず、主導権を明け渡さないことである。そのようなことが起きうる心のきっかけを、とことん排除して行かねばならないのである。

それはちょうど冬が来ると、ロシア人が家のあらゆる隙間を目張りして埋めてしまうのに似ているかも知れない。ロシア人は隙間風を嫌う。冬の冷たい隙間風は人の健康を思いもしない形で損ない、万病のもとになると考えられているため、彼らは本格的な冬が到来する前に、家の窓や扉の隙間を完全に塞いで、外からの風が家の中に全く入りこまないようにしてしまうのである。

それと同じように、筆者は霊的隙間風が筆者の信仰生活に入って来ないように、侵入口を徹底的にふさいだ。その結果、筆者の霊の家には出口がなくなってしまった、ただ一つの方向を除いては。信者は言う、「たとえ信者にとって四方は塞がっていても、天に通じる扉はいつでも開いているのですよ」

そうなのだ。上にあるものを求めなさい、地上のものに心を惹かれてはならない、と、聖書にある通り、我々信仰者の扉は、地上の人々に向かってではなく、ただ天に向かって開いている。我々の心の扉は、天におられるまことの神に向かって開いてさえいればそれで良い。専門家だとか、助言者だとか、教師だとか名乗ってやって来る人々に心を預けても、ほとんどの場合、願っている解決は来ないどころか、とんでもない結末が待ち受けているだけである。

我らのただ一人の助言者、救い主に、常に相談できる特権が与えられていることは大いなる幸いである。この方から、我々は必要な解決のすべてをいただくことができる。たとえ時に、神から来る解決が、遅いように思われ、かなり長い間、待たなければならないことがあったとしても、神はすべてに間に合い、すべてに十分に行き届く方である。

神には遅いということはないし、手遅れということもない。悪魔の囁きに負けて、人間的な不安を煽られて、取り返しのつかない性急な判断をしないことである。ただこの方に信頼し、この方にすべてを打ち明け、力となり、解決となっていただき、健やかに生きるのが、人にとっては最も安全な策である。
 


遅くなっても待っておれ、それは必ずやって来る(1)

クリスチャンの間でよく語られている逸話に、信者が不信仰によって受け取らなかった天からの贈り物の幻というエピソードがある。

正確には記憶していないが、筆者が覚えているかぎり、こんな内容だったように思う。

ある信者が、幻の中で天国に連れられて行き、天使に天国の中を案内された。ある部屋の前で、信者はとても興味を惹かれ、立ち止まった。この部屋の中をぜひとも見てみたいので、扉を開けて欲しいと信者は天使に願う。だが、天使はその部屋は見ない方が良いと信者に言った。理由を尋ねると、天使はこう答える、「その部屋の中には、あなたが生前、神から贈られながらも、不信仰ゆえに受け取ろうとしなかったために、天に送り返されて来たプレゼントの山がしまってあるのです。」

信者は見ない方がいいと言われても納得できず、天使にどうにか懇願してその部屋を開けてもらってみた。実際に、その部屋には素敵なプレゼントの数々が天井に届くほどうずたかく積まれており、すべての贈り物に、その信者宛てのお祝いのカードまでついていた。どれもこれも、信者が確かに、こんなものがあれば、と生前、神に願って祈っていたものばかりであった。信者は愕然として、こんなにも多くの祝福を、神は自分宛てに送って下さっていたのに、自分は受け取りそこなっていたのかと、いたくがっかりしながら幻から目覚めるというような筋書きであった。

筆者はこの意地悪な作り話の内容をほとんど信じていない。

ある意味では、これは身につまされるような話である。実際に、筆者は不器用ゆえに天からの贈り物を受け取りそこなったことが幾度もある。明らかに、筆者自身が主に一生懸命にこいねがい、その願いに応えて、神が用意して下さったと分かっているものさえ、受け取りそこなったことが幾度もあるのだ。

人は本当に心から願っていたものが目の前に現れるとき、妙な緊張感を覚えるものだ。また、あまりにもタイミングよく物事が進むとき、怖れに駆られ、目の前にある祝福を受けとるのに、奇妙なためらいを覚えることがある。

そんなこんなで、せっかく祈り、またその祈りが応えられたにも関わらず、結局、筆者が怖れに駆られて受け取りそこなったものはたくさんあるのだ。だから、上記のようなエピソードは、まさに筆者にはよく当てはまっているように感じられる。

にも関わらず、筆者は以上のような話をまことだとは信じていないのである。

どうしてかというと、天からの贈り物にも、まず保管期限や不在通知なるものはあって、一度や二度、信者が不信仰によって受け取りそこなったからといって、それで終わりにならないからだ。

宅配便や、郵便と同じように、天から送られて来た荷物も、地上での一定の保管期間がある。それが過ぎると、天に送り返されてしまう。そこまでは確かなことだ。たとえば、祈りが応えられて、自分が受け取れるはずだったものも、長い間、怖れ、ためらっていると、自分の前を素通りして行き、他の人が代わりにそれを受け取り、他の人が祝福にあずかるのを見せられることもある。そうして祝福がもはや他人のものになってから、どっと後悔が押し寄せて来て、どうしてあの時、チャンスが与えられていたのに、もっと勇気を出してそれを受取ろうと行動しなかったのか、行動してさえいれば、それは今頃は自分のものになっていたはずなのにと、嘆いたりする。

だが、信者の人生に、本当はそんな後悔は必要ないのだと筆者は確信している。仮に保管期限を過ぎて、贈り物が天に返されたからと言って、一度や二度、祝福を受け取りそこなうと、天からの祝福は、それで終わりになってしまようなものなのかと言うと、そんなことは決してないからだ。

何よりも、私たちの神は、信者の目の前にたくさんのニンジンをぶら下げて、一番、早く大胆にニンジンに飛びついた者が、天の祝福にあずかるのです、などとおっしゃって、多くの信者たちを競争させるような意地悪な方ではない。早くニンジンに積極的に飛びつきさえすれば、天の祝福により多くあずかれると考えるのは、地上的な愚かな考えであり、錯覚である。

天からの贈り物は、一度、天に送り返されても、その後、何度も、何度も、形を変えて送られて来る。そして、後になれば、食べ物が腐ったりするように、中身が悪くなるのかと言えば、そういうことも全くない。むしろ、後になるほど良いものが送られて来るほどである。

人間の心は、体と同じように、絶えず変化するものであって、信者が神に願い出るものもの内容も、絶えず変化する。天からの贈り物は、常に過去ではなく、現在を起点として、信者が今、神に何を願うのか、それを基準に送られて来る。過去に何があったかなど、全く問題ではないのだ。

たとえば、一年前に買った服は、どんなに気に入っていても、今はもう着られないかも知れない。たとえ着ても、自分には似合わなくなっている可能性がある。人はそれを見て、「あなたが太ったのが悪い。前はもっとスリムだったから、その服がよく似合っていた。あなたはもっと痩せるべきだ」と言うかも知れない。あるいは、「あなたが老けたのが悪い。もっと前は若々しく見えたから、その服がよく似合っていた。あなたは十年ほど若返るべきだ」と言うかも知れない。

だが、よく考えてみれば分かることであるが、そんな考えの何と非現実的なことか。人間は今の自分に合う服を探すべきなのであって、過去に遡って、過去に買った服に現在の自分を合わせるなどナンセンスである。そもそも、服が人間に合わせて作られるべきなのであって、人間が服に自分を合わせるなど馬鹿げている。

だから、それと全く同じように、もし仮に信者が過去に受け取りそこなった天からの祝福なるものがあったとしても、それはその時を逸してしまった以上、今はもうたとえ送られて来ても、役に立たないものばかりである。今、信者が必要としているものは、過去とは違っているはずである。それなのに、過去に受け取りそこなったものを数え上げては、自分の不信仰を責めるなどという無意味な悪循環に陥るよりは、今、自分に何が必要なのかを、率直に天の父に申し上げた方がどれほど生産的か。

にも関わらず、大事にしていた服が着られなくなった時に、人が惨めさや失望を味わい、自分がすっかり変わってしまったことに自責の念すら覚えることがあるように、信仰においても、以上のようなナンセンスな考え方を、信者は自分の信仰生活に適用しがちである。すなわち、過去のことを振り返って、自分の不信仰を責め、あの時、ここで間違ったから、このような惨めな結果に至ったのだ、とか、あの時、ああしていれば、こうはならなかった・・・などとくよくよ考え、まるで自分の行動次第で、現在とは違う、バラ色の可能性が開けていたかのように想像をめぐらして、自分を責める思いがこみ上げて来ることがあるのだ。

あたかも、自分が受け取らなかった恵みの山がストックされた部屋がどこかにあって、意地の悪い天使が、死後、あなたにそれを見せて、あなたにはもっと恵まれた生活の可能性があり得たのですよ、でも、もう今となっては遅いですね、と囁いているかのように。

だが、そんな思いには、きっぱりとさよならを告げて、地獄へお帰りいただかなくてはいけない。その思いは、御霊から来たものではない。実際には、そんな部屋はどこにも存在しないのだ。天からの恵みは、あなたを満たすために送られて来るものであって、受取人であるあなたに恥をかかせるために送られて来たものではない。

神はあなたをあらゆる祝福で満たし、慰め、喜ばせたいのであって、それによって、ご自分も栄光を受けたいと願っておられるのである。神があなたにプレゼントを贈るのは、あなたの不信仰を責めるためではなく、あなたがそれを受け取りそこなって絶えず失意に落ち込むためではなく、あなたが神の気前の良さ、神のあなたへの愛の深さ、あなたへの思いやりの深さを、生きて知るためなのである。

だから、もしあなたが神の恵みを受けとることに不器用であったとしても、自分が願った祈りが本当に叶えられるのか、不信仰なときがあったとしても、神は何度も、何度も、あなたが神はどういうお方なのかを知るまで、あきらめることなく、プレゼントの山を送り続けられる。筆者はそのことを保証できる。

そういう意味では、神は、愛した女性にあきらめずにプロポーズを続ける求婚者のような方であって、一度や二度、いや、百度、二百度、すれ違いが続いたとしても、神の側からは、そんなことは何の障害にもならず、あなたが神の方に注意を向けて、神への忠実と愛を失わないでいる限りにおいて、必ず、また恵みの山を何度でもあなたのもとへ送られるのである。しかも、それは一年前のあなたの願いに応えられるのではなく、現在のあなたの心の願いに基づいて、神が実行されることなのである。

求めなさい、そうすれば与えられます。探しなさい、そうすれば見つかります。叩きなさい、そうすれば開かれます。というのは、そういうことである。

ここには、「いついつまで」という期限は存在しない。どんな風に懇願したか、という態度にも条件はない。具体的にどういうものならば、求めても良いのか、リクエストの内容にも、条件はない。ただ求めなさい、と言われているだけである。

地上における人の人生には限りがあるので、人間は、自分の努力が足りなくて、何かが手遅れになり、もう間に合わなくなるのではないかという怖れを常に抱えている。常に、急がなければならない、もっと大胆に、積極的にならなければならない、そうでなければ、せっかくのチャンスを逸してしまう、という恐怖が心に存在する。だが、神の側からは、人間の有限性など、全く問題にならないのである。

神はあなたの時を知っておられ、あなたの心を知っておられ、あなたの限界を知っておられ、あなたがこの地上では一瞬で消えて行くようなはかない存在であることを知っておられる。どんなにあなたが頑張って、完璧に振る舞おうとしても、あなたにできることなどもともと限られている。それにも関わらず、神は大いなる祝福であなたを満たしたい、と言われるのである。それはあなたが努力によって達成する課題ではなく、神の側からの願いなのである。

神がアブラハムに向かって、彼の子孫が空の星のように、海の砂のように多くなると言われた時、アブラハムにはまだ一人の息子もなかった。あなたは、周りを見回して、自分には何もない、と言うかも知れない。もし本当に神が自分を祝福されたならば、豊かな命で満たして下さったならば、この何もない状況は、何が原因なのか、神が間違っているのでなければ、多分、自分の不信仰のせいで生じたのに違いない、と思うかも知れない。そして、何も結果らしい結果が出ていないことで、自分を責めたり、不信仰ゆえに受け取りそこなった宝の山がどこかに隠されているに違いない、などという無駄な想像までもめぐらすかも知れない。

だが、そうではないのだ。神の祝福は、一見、届くのが遅いように見える、このことをよく覚えておくことも有益である。むろん、早い時もあるのだが、それはあなたが願ってから、あなたの手元に届くまでに、時差があるのが普通だ。随分、長いこと待たされることもあり、一年以上の月日が過ぎ、あなたは自分の願いをもう忘れ、あきらめかかっていることもある。だが、それは必ず、届くのだ。

だから、一体、何のせいで恵みが手元に届くのが遅れているのか、それが人間の側の不信仰によるのか、不器用さのためなのか、それとも別の原因によるのか、などといったことは探らないが良い。それよりも、あくまで神に求め続けることが肝心である。

求めることに、遅すぎるということはない。信者が何かを神に求めることに、期限はつけられていない。何かを願い出るならば、いついつまでに神に予約しなければ、手遅れになる、などとも、聖書に書かれていない。つまり、信者は生きている限り、どんなことでも、神に求め続ければ良いのである。もし期限を考慮されるとしたら、それは神の側で考慮される。神があなたの状況をご覧になって、いつまでに何を送れば良いのかをきちんと考慮される。神はすべてにおいて、必要なタイミングを知っておられ、万事を良きにはからうことがおできになるので、そこに全幅の信頼を置くべきである。だから、遅すぎるかどうか、といったことは、あなたが心配すべきことではないのだ。

信仰においては、遅すぎるということはない。神はすべてに間に合う方である。神にあっては、手遅れであるとか、遅すぎるとか、不可能であるということは、存在しないのである。神ご自身が完全な救いであり、解決だからである。

<つづく>